若狭高浜城・明鏡洞・砕導山城・十念嶽城・石山城・白石山城・達城
若狭高浜(五万図=小浜)
近畿の山城 高浜城  砕導山城 十念嶽城 石山城  白石山城 達城
高浜町城山公園:明鏡洞

舞鶴市に境する福井県最西端の大飯郡高浜町。若狭湾に突出す東側の大島半島には大飯原子力発電所・西の内海半島は其の先端に高離250mを越える大断崖が続く音海断崖が有る。 此方にも関電の高浜発電所・PR館が有る原発の町ですが、二つの半島に挟まれて美しく澄んだ高浜湾のほぼ中央部・JR小浜線の若狭高浜駅の北 ・海岸線に突出す小さな半島全域を包み込んで城山公園が有る。
高浜城と明鏡洞間の芝生公園:入江は逸見水軍絶好の船溜!!?

R27号線沿いにJR若狭高浜駅から北へ入ると、落着いた宿場町情緒を感じる狭い地区道を抜け、静かな漁港の先に城山公園標示を見て進む。 右手の海岸線は城山・鳥居・白浜・和田へと砂浜が続く海水浴場で左手に国民宿舎城山荘が建つ側から高浜城へ向かう遊歩道が有り、濱見神社(祠)が建つ台地が本丸で
砕導山城二ノ丸(愛宕社)から望む青葉山(若狭富士)

北に一段高く櫓台が築かれています。此の北面・ニノ丸は断崖に面し、樹木のスリットを通して望む若狭湾と青葉山(若狭富士)の姿は秀逸ですが、 舞鶴との県境近くになると富士は姿を変えて双似峰!!。城山荘は既に高浜城の城域に入っているのでしょう。
城山公園から砕導山城(中央左)を遠望

三方を海に面して突出す城山へ入る陸路は此処だけ。城山荘から入江を挟んで100m程(幅60m程?)先の岬へ芝生公園が延びる。 岬の北西端(入江の東側北)に高浜町のランド・マークとなっている明鏡洞が有る。城山公園内には海岸侵食によって蛭子ケ洞や鼓ケ洞など 八穴<やあな>の奇勝と呼ばれる海食洞窟が有り其の中でも代表的・且つ一番大きな洞穴が此れ。
白石山城:主郭東面切岸の石垣遺構

洞窟を通して見える水平線が鏡に映った別の景色に見えることから名付けられたと云われ、明徳4年(1393)将軍足利義満も当地を訪れた際に立寄り景勝を愛でたと伝えられます。再訪 (2011.6.4)した高浜城は南西から 主郭の濱見神社に入る個所から石積遺構は無事残るが、西面切岸手前で大きく斜面の土石崩壊して危険、東側の遊歩道へも崩壊した土石が流れ出て工事中・・・。



高浜城 砕導山城  十念嶽城 石山城 白石山城  達城

高浜城(雲浜城)  穴山 ? Ca35m  明鏡洞側38.5m  福井県大飯郡高浜町事代字城山

高浜城は若狭湾に向かって突出す二つの半島【大島・内浦】に囲まれた高浜町中央部の海岸線にも小さく突き出た二つの小半島?(岬)が有り、城山公園として周遊散策コースが整備されています。城山荘の在る南側を堀で遮断すれば・三方を海に囲まれ、城域を独立させた海城です。
高浜城:遊歩道は空堀跡か?、主郭を割いての造成か?

R27号の若狭和田から県道 236号線を辿り国民宿舎城山荘を目指せば城山荘背山が高浜城本城。東側の低丘陵頂部にはコンクリ製展望台が海岸線東端?の海水浴場 ・若狭和田の砂浜が望まれる385m三角点がある。丘陵北西先端には高浜町のランドマーク明鏡洞が有り、城山荘から東へ続く芝生公園約100m先・間近に望めます。
高浜城三ノ丸の北に 岸壁濯う若狭湾を見て海城を実感出来る

此処から展望台への尾根筋・展望台下部の平坦地・若狭湾とR27沿いの小浜街道監視を兼ねて、 一帯が高浜城本城の出城・出曲輪であったと考えます。高浜城は城山荘の位置する南を除き三方を海に囲まれた室町末期 ・近世城郭にあっては珍しい縄張りの城とされます。 城山側と明鏡洞側二つの比高20m程の小山で、平山城と海城を兼ねたもの?・・城の形態・分類等は城郭の専門サイトで確認してください。
主郭:濱見神社へ入る虎口?、幅狭い腰曲輪に散存の土止石塁?

城山荘の山側脇から周回遊歩道を辿るが、手前やゝ斜面の急な方を詰め途中遊歩道を外れる尾根筋は直ぐ簡易石段道を見る。急峻な崖となる西側斜面上に幅狭い腰曲輪が延びるが・腰曲輪への直進は一寸危険な状態。 (翌2011/6.4の再訪時は此の石段上部から先は大規模な土砂崩壊で立入り禁止になっていた)。石段上からの主郭【20mx35m程に櫓台が付く 】西面の腰曲輪には、土止め用か ?小石が散在するが2m程の切岸に積まれた石積み崩れた石材が残されたものか。
主郭に建つ濱見神社

現状は狭い台地となり、此処に濱見神社(祠)が建ち神社由緒書案内板が有る。濱見神社由緒(現地:主郭内本丸に立つ神社説明板)には戦国の武将武略家であった逸見(へんみ)昌経は、 その善政に於ける名声もまた近隣を圧していたと伝える。永禄8年(1565)この城山に高浜城を築き佐伎治神社の再建・各寺院の興隆に努め、 農漁業の振興を図るなど、特に地子銭(田畑等に課した雑税を銭で納めさせる)を永久免除された特例措置については、
高浜城主郭・西面腰曲輪の石積

明治維新まで継承されたといわれ、昭和初期までお盆には各戸が軒灯籠をして其の遺徳を偲んだとある。 神社は昭和56年逸見昌経歿後四百年にあたり、関係者有志によって領主の慰霊と顕彰の意を表する為・濱見【高濱の濱と逸見の見】神社として 建立されたと記されます。ここが本丸で北並びの最高所には同規模で約 1m程高い方形土壇の櫓台が有る。遊歩道は此の主郭部・櫓台の東側を空堀状の切通しで抜け陸橋が渡されている。
主郭西面腰曲輪の石積

郭部を切り崩して二分されているとは思いたくもないが、遊歩道造成による遺構の消滅 ・地形改変は否めず、容易に近づける風光明媚なスポットにある海城(水城・・等)が、遺構は無くとも城址の雰囲気を残されただけでも ”良し”とするべきか!!。主郭西側に石積みが残り、東側切岸上部!!?にも土留用?に使えそうな石材が見える。
高浜城・主郭の櫓台

切通し東にニノ丸・三ノ丸の広い曲輪の先には城山灯台が有り、北側の急な階段通路を下ると岸壁洗う若狭湾の海岸美が堪能できる。海釣りスポットでもある様です。 城山荘へ周回する東南へ下る遊歩道沿いにも東斜面に数段の曲輪?を見る。明鏡洞側の丘陵上にも見張り所 ・尾根上に曲輪段らしい場所は在るが公園改修で遺構は不明?だが高浜城出曲輪であったとは思えます。永享12年(1440)若さ守護は一色氏に代わった武田信栄に付き、
高浜城三ノ丸の大土塁

熊谷氏・粟屋氏等と若狭に同道した逸見氏が、高浜に入部したのは翌:嘉吉年間(1441-44)と推定されます。応仁の乱(1467〜)武田国信は東軍に属し西軍 :一色氏の丹後に侵攻し占拠した主力が逸見駿河守宗見とされます。延徳2年(1490)若狭守護は武田国信の子:元信が家督を継ぐと、 元信は粟屋氏を重用し逸見氏の間に溝が生じ、永正14年(1517)国清が丹後守護代倉梯城(溝尻城か?)主:延永春信と謀り、 叛乱を起こすが守護武田元信と越前朝倉氏の援軍に敗れ逸見氏勢力は失墜。
三ノ丸の曲輪群 :正面右手から灯台を経て海岸に降りられる

守護武田信豊に仕えていた逸見駿河守昌経(まさつね)は、弘治2年(1556)信豊と子の義統が対立すると信豊に付くが信豊は近江の亡命。昌経は丹波守護代 :八木城主の内藤宗勝(三好氏重臣松永久秀の実弟:長頼)軍の援軍を得て、同じ武田氏被官人の国吉城主粟屋勝久と図って、永禄4年(1561)三度叛乱し武田・朝倉の連合軍と戦い続け、本拠の砕導(さいち)山城 (JR若狭高浜駅南の佐伎治神社裏山)に籠るが、朝倉義景の援軍を得た義経に城は攻略されます。再起を図り新たに築いて本拠城とした高浜城は永禄8年 (1565)居城として若狭に初めて築かれた平山城(海城?か水城か?)の築造と伝えられます。
高浜城:明鏡洞側の半島(展望台)上も見張りの出曲輪か!!?

昌経は京都丹波・丹後に境する西若狭地域を治め、水軍を率いて若狭守護:武田元明(小浜市:後瀬山城主)をも凌ぐ程の一大勢力を誇っていた。 翌:永禄9年に勃発した義統と其の子:元明との争いに、昌経は栗屋氏等と元明に付き、一族の逸見河内守を大将として、 海上より若狭守護武田義統を攻めたが、山県秀政を将とする武田水軍が迎え撃つ久手崎沖の海戦に、またも敗退して河内守は討死した。
三ノ丸から北へ下ると海岸:若狭海軍の基地城を実感!?

翌10年に義統が死去し元明が継ぐが朝倉氏に拉致され一乗谷に軟禁されると 昌経は上洛を果たした織田信長に通じ、元亀元年(1570)越前朝倉攻めに参陣し、その後も織田家臣団の若狭衆筆頭として仕え、越前の一向宗徒攻めには 水軍を率いて参戦等・各地を転戦していたが、天正9年(1581)昌経は病死し、継嗣無く(あったともされるが)翌:本能寺の変による信長の死に、家督を認めらず・)改易となり、遺領は高浜城に入った丹羽氏の重臣 :溝口秀勝と武田元明に分配されている。
砕導山城:妙見山」の主郭から城山公園を望む

天正13年には山内一豊・続いて木下宮内少輔利房と続いたが木下利房が関ヶ原合戦<慶長5年(1600)>で西軍に属した為、兄の小浜城主:勝俊共々に除封された。戦後若狭一国の領主となった京極高次は後瀬山城主となり 小浜城築城に着手し京極氏重臣:佐々義勝を高浜城代としたが、京極氏は寛永11年(1634)松江に移封し、代わって武蔵川越から酒井忠勝が若狭国領主となり 小浜城に入り・高浜城も廃城となった。
(現地:城山公園内案内板 福井県史/第5章中世後期・・若狭の山城 及びWikipedia 等を参照)


砕導山城 砕導山(妙見山) 140m   福井県大飯郡高浜町宮崎

R27号線沿いのJR若狭高浜駅前交差点東側「宮崎交差点」で右折(南)し、踏切りを超えると正面に砕導(サイチ)山城への登山口・佐伎治神社が在る。 交差点北の筋へは 「城山公園」への案内表示が有り、前回も此処から高浜城に向かった。砕導山城は砕導山(妙見山標高140m)最高所に主郭を置く【今回は佐伎治神社から山上の妙見宮まで、
西尾根(無線中継塔が建つ)曲輪二段目から妙見堂の主郭

神社境内の拝殿右端の水槽脇から 参道が通じている事も、城の縄張りも知らないままの訪城で、妙見山から続く南尾根三角点峰の千丈ヶ嶽134mは、 愛宕神社から延びる脇道からか?、また東南への尾根上は広峰神社付近から送電線巡視路を利用出来れば天王山130mへと拡がる其々の峰の尾根上に、
砕導山城主郭:妙見宮参道東の虎口受曲輪 ?と手前左へ東曲輪

数多くの曲輪を連ねて延びる城郭の遺構は未訪ですが、全山を城塞化した福井県内でも最大規模山城であることが判った】
が、佐伎治神社駐車場傍の右手に西に延びる林道を進んだ。愛宕神社・妙見宮の社務所への旧道らしいが、登り始めて直ぐ数台の工事車が停る。
愛宕社(二ノ丸)北の二豎堀切を俯瞰

林道の何箇所に地割れが走り其の補修らしいが、 更に進むと愛宕社付近直下からの土砂崩れで、林道は20m程が塞がれていた。その先・高浜配水池の大貯水槽前で林道は終点。フエンスより丘陵端から急斜面に細々続く踏み跡を追ってみる。途中の樹間からは背後の西に若狭冨士(青葉山)や北に高浜城・明鏡洞の海食洞窟を望み、竪掘状?溝側沿いに無線中継塔の建つ曲輪に登り着く。4-5m程の切岸上の曲輪先にも藪中に土塁が廻る。
二ノ丸(愛宕社)鳥居から段曲輪群が参道合流点まで並ぶ

内側に廃屋が!!?と思ったところが砕導山主郭の妙見宮 (約45X25m程)だった。北に城山公園はじめ若狭湾を一望の展望所だが、妙見社をはじめ二ノ丸の愛宕社・忠魂碑の建つ三ノ丸等・・信仰の山の城遺構は 四方の藪中に入らないと解らない程。つい見残して参道を佐伎治神社まで戻ってしまったが、妙見宮の東から下る石段横の小郭と南側へ拡がる広い曲輪と主郭側の切岸に、堅固な登城最後の虎口曲輪の堅固さが感じられる。
砕導山城:二ノ丸から土橋を渡り忠魂碑の建つ三ノ丸へ

下方に続く急斜面上の 平坦段は曲輪にしては斜傾していて参道なのか?。”段切りしながら重なって造成された複雑な様相を見せる・・”と資料にある箇所の様。直進して下る左手を愛宕社(ニノ丸:約35X20m程)に向かうと、 祠北側の切岸下方の雑木藪中に二重堀切を見る。羊歯 ・雑木藪の急斜面下の遺構は俯瞰するだけで諦め、鳥居から尾根筋の段曲輪を東へ下りて参道に合流する。幅広の土橋を渡り忠魂碑の建つ三ノ丸(約40x25m程)に入るが造成されて何も無い曲輪の東北角から切岸沿いに下る参道側に虎口が開く。
参道の三ノ丸北東部に残る虎口!?

続いて参道沿いに段曲輪が並び、尾根末端付近に神社跡地の石階段を遺す曲輪 ?を最後に見て佐伎治神社に降り着く。 砕導 (サイチ)山城の築城年代等の詳細は不明だが 若狭国守護職武田氏の守護代逸見駿河守昌経の本拠城として知られます。 永享12年(1440)若狭国守護は一色氏から武田信栄に代わり若狭に下向する。熊谷氏・粟屋氏等とともに同道した逸見氏が、 高浜に入部したのは翌:嘉吉年間(1441-44)と推定されます。
参道の三ノ丸北東部に残る虎口!?

応仁の乱:応仁元 1467-)に武田国信は東軍に属し強大な軍事力を誇り・西軍:一色氏の丹後に侵攻するが、その主力が逸見駿河守(入道)宗見とされます。応仁の乱の集結した文明6年 (1474)和議により信賢に与えられていた丹後国は一色氏に返付された事は、多大な犠牲を払いながら丹後を攻略してきた武田氏や細川氏被官にとって 承服出来なかった。しかも一色氏は勢いを盛返し・逸見氏反撃に転じて各所で激しい攻防戦を展開し、逸見宗見は自殺し三郎国清が継ぐ。しかし延徳2年(1490)若狭守護国信が死去し元信が家督を継ぐと、元信は粟屋左衛門尉親栄を重用。
三ノ丸から旧神社跡(曲輪)に続く段曲輪

栗屋氏の台頭により、 次第に逸見氏の間に溝が生じ以降、逸見氏は主家の武田氏と対立するようになり、永正14年(1517)逸見国清が、丹後守護代延永春信倉梯城(溝尻城か ?)と共謀して叛乱を起こすが、元信は朽木稙広(丹後国守護武田氏頃東舞鶴の領主だった朽木氏一族 か?)や越前朝倉孝景の救援に鎮圧される。守護武田信豊に仕えていた逸見昌経の代に再び勢力を拡大し弘治2年(1556)信豊が子義統と家督争いに逸見昌経・粟屋勝久は信豊に付くが信豊は近江に亡命。
妙見宮参道:最初の曲輪(旧神社跡)

その後 :昌経は丹波八木城主内藤宗勝(松永長頼 )の支援を受けるが、義統に付いた朝倉義景1万1千の大軍を前にして永禄4年(1561)8千の軍勢による籠城拠点となった砕導山城も落城する。再起を図り永禄8年(1565)新たに築城して移った 高浜城は上記レポートで。砕導山城はその後も高浜城の出城として使用された様で、小浜城主京極氏が寛永11年(1634)松江に移封し、 酒井忠勝が若狭国領主となり小浜城に入ると高浜城と共に廃城となります。
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佐伎治神社はJR若狭高浜駅の東南・砕導(サイチ)山城の在る妙見山・千丈ヶ嶽・天王山の北山麓に位置する式内社で、平安時代:延長5年(927)編纂の延喜式神名帳大飯郡小七坐の一:若狭国神階帳従三位碎導明神とあり、創祀・創建は不詳ですが景行天皇の皇子:磐鹿六雁命が若狭国を治めた時には既に存在していたと伝えられる古社。当初は現在地より東北 1.5kmの薗部村の中園池林に鎮座していたが、
若狭・佐伎治神社

参拝に不便な為か高濱村八穴山の牛頭天王社 (境内社の廣峯神社)の傍らに遷座されていたが、永禄8年(1565)逸見駿河守昌経が穴山築城(高浜城)の際、砕導山城の裾の現在地に再び遷祀した。 天正13年の山内一豊に続いて入封の木下利房の庇護を受け社殿が造営され、堀尾茂介吉晴も鐘楼を建立したとある。寛永11年(1634)京極氏に代わって若狭国領主となった酒井忠勝以後の歴代小浜藩酒井家からも崇敬・庇護されて、碎導大明神 ・碎導宮とも、
広峰神社参道入口?に町指定カシの巨木がある

また境内にある伴伸友 【平田篤胤・橘守部・小山田与清とともに「天保の国学の四大人」と呼ばれた若狭小浜藩:酒井忠貫・忠進に仕えた藩士】の句碑「高濱の磯辺の浪も立ち返り? さきちの宮の 花のはるかぜ」からは佐吉(?さきちの)宮とも呼ばれていた様ですが、 天保4年xxx(1833)旧社号の佐伎治神社と改められた。御祭神には素盞鳴命と其の妻:稲田姫命・其の子:大己貴命 (大國主命)を祀る。鳥居を潜った左手には高浜町指定<昭和54年1月20日>天然記念物の樫(樹高32.45m・幹回り3.31m)がある。
(現地:佐伎治神社由緒・福井県史 /若狭の山城 日本城郭体系 Wikipedia 等を参照)


十念嶽城(十念岳砦・粟屋氏出城)  xxx山 89m  福井県大飯郡高浜町岩神

東方から砕導山城に向かう際R27線・JR小浜線若狭和田駅の南側で馬居寺方面と分岐する右手の地区道を走った。 目的の十念嶽城の手前には比高こそ20m足らずだが・同じ様な低丘陵が此の地区道から北へ延び出している。 気にはなっていたが田圃の中の丘陵部に古墳くらいはあるのだろうと想定していたが、後で分かったことだが・此の北先端部(標高30m程)のピークにも福井県教育庁文化課の遺跡地図には諏訪城(高浜町和田)が在るとある。
笠原川・丸山橋側から十念嶽城遠望

其の西方に圃場が拡がる約500m先には低丘陵尾根の北端に若狭富士 (青葉山)を乗せる十念嶽城が在った。 其の丘陵の西には笠原川が若狭湾岩神の海岸に流れ出る。更に田園風景の先・約1.5km西方の丘陵上に 砕導山城が在り、東山裾を縫う様に流れる子生川が若狭湾に向かう。
堀・土塁・曲輪らしい場所が雑木 ・竹林内に有るが!!?

十念嶽城は別名:粟屋氏出城と呼ばれるところからも馬居寺背後の白石山城の出城として粟屋右衛門太夫・栗屋小次郎が居城したとされるが、築城時期・目的・居城主の在城時期と逸見氏との関連等、詳細は不詳です。粟屋氏の白石山城と逸見氏の砕導山城の粗(ほぼ)中央に位置して小浜の街道(R27号線)に接する丘陵部に在る。
参拝者がいることが不思議な藪中の平坦地

砕導山城側からはR27に出ないで、佐伎治神社を出て直ぐ右折、 山裾を大きく南へカーブして、大飯・高浜ICへ向かう県道16号線渡り直進すると、笠原川に架かる丸山橋を渡ると、川沿いの左前方 ・低丘陵北先端部がR27号線・JR小浜線に落ち込む尾根北の最高所 (4等三角点89m)に主郭を置く十念嶽城が有る。国道側から南側へ横断出来る場所は無さそう。
十念嶽城主郭の三角点

JR線を越えて渡るわけにもいかず、丘陵部南側を小峠で越える地区道から取付き点を探した。峠の西麓に”伝・正善寺跡”の石碑が立つ。 城との因果関連や由緒は知らないが、この辺から尾根伝に・・と思ったが、取付き部の急斜面・体が埋もれて身動きも出来ないほどの猛烈な藪の様相に、 そのまま丘陵西麓沿いに西北端部に向かうと、猪除けのトタン垣の間から山の神か地神を祀る小さな祠への踏み跡に入った。
主郭南面を囲む低土塁

祠裏の斜面をトラバースする踏み跡を追ってみる。竹林と藪の荒れた斜面上の平坦段や畝状・溝状の凹凸が城遺構に見えてくる!。危ない状態に?なってくるころ二つの石が祀られた二段ほどの平坦段に着く。周囲に深い空堀状・土塁状もあるが?。小さな屋根付きの石は供養碑の様。もう一つは陰陽石か?・注連縄が架かる田ノ神か?。
十念嶽城主郭南面の土塁

付近に人家は無い?が参拝者はいるようだ。 此処から藪漕ぎで頂部を狙う。円状か四方形か南側は密生する笹薮の中の平坦地で4等三角点石標柱が埋まる山頂に直接着くが、北方に切岸を持った2段ほどの小曲輪が有る。主郭の南側半分は密生する篠竹薮に覆われている中に高さ約50-70cm程の低土塁が廻っている。丘陵尾根は南へ延びているが踏み 込んで行っても、遺構はよく解らないかも知れないが、
主郭南面を囲む低土塁

鞍部に降っていく途中には同様に土塁付きの小曲輪や堀切は期待出来そうだが、 砕導山城での時間に余裕もないので急ぎ北へ下った。取り付いた西北側の降りればよかったが、真北のJR線路脇から西に抜けられず、重機が唸り圃場整備中らしい東?南山裾にかけてグルリ半週し、小峠を降り・結果城山の丘陵尾根山麓を一周したことになった。砕導山城の逸見氏は若狭武田氏の重臣ながら、延徳2年(1490)若狭守護国信が死去すると、 元信が家督を継いだが粟屋左衛門尉親栄を重用したことで溝が生じている。
十念嶽城 :丘陵南の小峠に在る正善寺跡(由緒等不詳)

永正14年(1517)逸見国清が丹後守護代延永春信と図って武田元信に対し叛乱を起こして以後、元信の時期には二つの川【砕導山城側の子生川と、 十念嶽城側のカサハラ川】を堀として対峙し、砕導山城を監視する砦として粟屋氏が拠っていたのでしょうか。弘治2年(1556)武田信豊が子義統と家督争いには逸見昌経・粟屋勝久は信豊に付き、永禄4年 (1561)武田義統は越前朝倉氏の援軍を頼った砕導山城籠城戦にも一部とはいえ粟屋氏が逸見氏と共に戦っている。


石山城(亀城) xxx山 187m  福井県大飯郡おおい町石山

舞鶴若狭自動車道の大飯・高浜ICの料金所ゲートからも 東方の丘陵北麓を抜けて行く自動車道高架側・石山地区の南背後に在って、其の先端部は自動車道工事によって削り落とされ 地肌を見せる崖上から南北に延びる尾根上に築かれた石山城の位置は直ぐ確認出来る。直進出来れば約1.5km程だが、
石山城遠望

ゲートを出て県道16号迄出て右折、更に直ぐ右折して県道1号線(小浜綾部線)を佐分利川上流に進む。 石山城の在る丘陵尾根先の北西裾で県道1号は右折して、北に高浜町・西へは綾部市上林地区へと、三国山からの府県境尾根を越える。
石山城:北西尾根の段曲輪群

城の北方から東南へ向かう県道16号線は高浜町から名田庄町を経て南丹市へと丹波を繋ぎ、県道1号線は小浜市へと丹後街道に通じる裏街 道的?な要衝の合流地点だ。佐分利川右岸沿い前方約100m程・自動車道高架を潜った所にコンクリートブロック塀で囲われた墓地と xx工業の建設用材が置かれる敷地がある。
石山城:二段の腰曲輪からニノ曲輪切岸(5m程)を望む

墓地西側を建設会社敷地を捲く道が溝谷沿いにあるが、入り込む余地も無い鬱蒼とした藪の中に獣道の様な抜け道を見つけて溝谷を渡ると竹林。 向かいの斜面に取り付くが丘陵尾根に向かう踏み跡は無いが、城域の北西尾根筋に出ると僅かな樹間に佐分利川沿いを望み、尾根も3‐4m程の段差をもって4-5段程の曲輪を積む。
石山城主郭:仕切土塁上の櫓台(露岩に石積?も・・)

其の上部に聳立する露岩が有り踏み跡は左側の急斜面を捲き上がり、 ニノ曲輪の北下二段の曲輪に着く。同規模(幅約15mX長さ5-7m)程だがニノ曲輪から下方の三ノ曲輪への東端には上り土塁兼竪土塁か、 腰曲輪から三ノ曲輪へ連続して土塁が延びる。更に東端部は北下方へ長い帯曲輪が北先端の曲輪まで延び、帯曲輪沿いに5段(何れも5?10u程度)の段切り連郭を見る。
主郭から南端曲輪

最北曲輪から北下へはフエンスで仕切られる断崖下が自動車道路。2-3段は続いていたと思われる曲輪群と共に消滅している様です。此の北尾根が大手道?、登路に選んだ北西尾根筋が搦手道ではなかったか?と思えます。南北に・ほぼ直線的な尾根筋に段切りの曲輪を敷設しただけの 単純な梯郭式縄張りで、
南曲輪から自然石を組入れた主郭切岸

南の尾根続きを堀切で遮断するが、数珠繋ぎに段切した曲輪切岸は明確だが高さは2-3m程で土塁や途中を空堀等で城域を区分もしていない。 ニノ曲輪から主郭(約12X16m程)へは大きな自然石と露岩の壁を利用した仕切土塁上の最高所は櫓台だったのでしょう。
南曲輪の尾根続きに土塁を積む堀切

主郭南の段差の石列も自然石を利用したもの。一段下に最南端の腰曲輪が有り、急斜面下を堀切で城域を確保していますが、南端曲輪に防備・防戦用の土塁は無い。尾根筋東西の急峻さを切岸としているが 東側面の防備の重点を置いているのか、主郭東面の切岸や仕切土塁頂部の櫓台は露岩の上。主郭部周辺だけに石材が散存しており、 主郭と二ノ曲輪東面にかけては堅固な石積・石垣で堅固に補強されていたと思われます。石山城の築城時期は不明だが、若狭守護職として武田信賢が永亨12年(1440)入国の際にも従わず独立した国人勢力・武藤氏も 「応仁の乱」以後:武田氏の領国化が進み、
三ノ曲輪東面の帯曲輪から直線上の土塁(縦土塁)

永正年間(1504-21)武田元信・元光の頃には、本郷氏等と共に武田氏配下に組み入れられます。守護武田氏(後瀬山城主)家臣として西若狭の 佐分利川上流に勢力を持って、大飯郡佐分利郷十七ヶ村に3000石を領し佐分利殿とも云われ、天文年間(1532-55)武藤上野介友益(景久)の居城と伝わっています。
三ノ丸曲輪から 北へ下る帯曲輪沿いの段切り曲輪群

生没等詳細は不明だが後:大飯郡加斗城2000石を領して一族に守備させたという。武田四家老の一人(高浜の逸見氏 ・若狭和田!!の粟屋氏・福谷<天ヶ城>の内藤氏か?)と武藤氏の本拠城とは思えない大規模城郭でも無く、大きな改修が見られない古い時代の縄張りのまま。 元亀元年(1570)姉川の戦いに勝利した織田信長は、上洛命令(諸大名に上洛して・皇居や幕府の御用を勧める書状)に従わない武藤友益を討つ名目で、若狭に入国したが越前朝倉義景攻めが主目的。
現状:最北端曲輪から大飯高浜IC・フエンス右下へ延びる曲輪群は消滅!!


武藤氏とは侵攻を繰り返していた達城主 :本郷氏等:武田氏家臣の多くが信長に与力するが、武藤友益は越前一乗谷に居る武田元明の命で武田信方(新保山城主)と結び若狭で抵抗するが、丹羽長秀・明智光秀等に敗れて降伏する。しかし其の後も武田信方等と信長に 抵抗を続け、織田方の山県孫三郎(賀羅岳城<ガラガラ城>後:朝倉方に寝返る)と新保山城は野木川上流を挟む西 ・長英寺の背山に在る)を攻めています。佐分利郷は天正4年(1576)信長により高浜城主:逸見昌経に与えられます。
石山城主郭南端から曲輪と櫓台土塁

武藤氏は没落したと推測され消息不明ですが明智光秀方に属し、本能寺の変(1582)では武田元明と佐和山城を攻め奪取しています。山崎合戦に捕らえられた元明は自害 (丹羽長秀の謀殺・斬首か?)させられるが、友益は許され長秀に仕えたと云われ・石山城は長秀により破却されたと思われます。
(福井県史/若狭の山城 日本城郭体系 Wikipedia 等を参照)


白石山城    白石山? 186m   福井県大飯郡高浜町馬居寺

R27号線沿いに大島半島に付根・若狭和田に向かう。白石山城へはJR小浜線若狭和田駅の東・国道脇から「馬居寺」の案内標識が随所に有り、山の谷間に向かう幅狭い地区道も安心して入っていけます。本光山馬居寺(高野山真言宗・北陸観音霊場第2番・若狭観音霊場第30番の札所)は推古天皇27年(619)の創建 (若狭最古とされる)で聖徳太子の開基を伝えます。
馬居寺

御詠歌に
君が馬 居りし昔の名をとめて 御法の声も勇むこの寺とあり縁起によると、聖徳太子が摂政として愛馬にまたがり諸国遍歴の際、和田の浜で休憩中に愛馬の姿が消え、南の山の上から馬のいななきが聞こえ光明が輝いた。太子は・その光明輝く山を霊地と悟り、本光山と称して堂塔を建立。
林道終点からスタートして直ぐの土橋付き堀切

のち:天平13年(741)泰澄大師が木造馬頭観世音菩薩坐像を刻み 【平安時代後期(藤原氏全盛期の889?)の作とされる。本尊の馬頭観音は24年ごとの午年に本開帳 ・中間の午年に中開帳される秘仏で国の重文指定を受けている】安置したとされ、馬頭観音が居られる寺ということから「馬居寺」と呼ばれるようになったと云う。
南郭の堀切側から西面を土塁が囲む(土塁の凹みは山道!!)

城山へは馬居寺の西側山頂・標高186mに築かれているが、 寺から続く林道にも白石山城を示す案内表示は無い。白石山城からは北へ突き出す尾根先端はJR若狭和田駅南側の十念嶽城を訪城で利用した際の地区道に落ち込むが、尾根筋西北には出城とされる十念嶽城と、直ぐ間近には諏訪城(未訪)を望む。十念嶽城から南へ笠原川を遡る県道16号線は、 守護武田氏に最期まで従った武藤氏の石山城が在り、武田氏家臣で有りながら逸見氏・粟屋氏と一戦を交えたかも?。
主郭の南端を囲む土塁

白石山城は現状の城域に留まらず・更に北の尾根上の標高 100m地点緩斜面付近まで出曲輪・物見砦等の郭が存在しているのかも知れません。林道は観音堂・墓地への参道を経て約1.5km。谷を隔てて急峻な 城山山頂部を望むが、尾根筋の南鞍部まで登り着く林道からは想像した程のこともない。舗装路が切れてオフロードを3-40m程で終点の広い空き地。広場から藪っぽい尾根筋を目指すが、僅か10m程も降った所に土橋付き堀切が有る。
主曲輪南面の空堀と土塁

何でもない緩斜面が続き・不安になってきたが、 自然地形ながら曲輪を感じさせる段差に気を取り戻す間も無く、主郭部の南に一曲輪を南北堀切で独立・区分させる南曲輪が西側面と尾根側に土塁を積む切岸(8m程?)高い堀切に出た。尾根続きの南郭北の堀切を越えると、いよいよ土塁囲みの主郭部南曲輪への斜面に取付くが、2箇所ばかりに埋もれた石列・石積みと思える?残存石材を見る。
主郭部:ニノ曲輪東面の石垣(幅約10m・高さ2m程)

主郭部は土塁で囲われた空堀の東端から主曲輪に入る。 此処まで西面の土塁を見る。低い段差ながら幅も広い中曲輪と城内一広いニノ曲輪?は東面下の帯曲輪で繋がる。中程北に祠が祀られているが、 此の付近東面は帯曲輪端から北面にかけて10m程は切岸1.5-2m程を石垣積み・西面にも短い石列程度ながら石垣跡らしい石材が遺る。
主郭ニノ曲輪北南面の枡形虎口の石垣・石列

白石山城の圧巻はニノ曲輪?祠の東西・南面で、北面には低い段差ながら石垣で堅められており東・西から4-5段の二条の石垣が交互に延び、 枡形虎口を形成しています。虎口受曲輪の北へ二段の腰曲輪が続いて、対岸に土塁を積む堀切が現状:城域の北端らしく尾根筋に藪の斜面が延びていく。 中世の大飯郡和田荘は若狭守護武田氏の有力被官人:粟屋氏が支配した海上・陸路交通の要衝に在りました。
ニノ曲輪北面:腰曲輪との石垣切岸

白石山城の築城時期や目的・居城主等の城史詳細は不詳ですが、永禄年中(1558-70)頃には粟屋右衛門太夫と子の小次郎(粟屋氏宗家の越中守勝久とは行動を共に、 若狭国支配が織田信長に移ると丹羽長秀に与力した若狭衆主力として、本能寺の変以後も豊臣秀吉に仕えた粟屋勝久(嫡流)一族の庶流か?、 人物も・之ほどの石垣遺構を遺す白石山城さえ知名度は低い)が居た。先に(上記)十念嶽城を訪城済みですが別名:粟屋氏出城とも呼ばれ、 白石山城と逸見氏の砕導山城との中間に位置して丘陵先端部は小浜の街道(R27号線)に接しています。
主郭北(腰曲輪)からニノ曲輪虎口(左上)と祠(右上部!?)

馬居寺(マゴジ)背後の白石山城の出城として栗屋小次郎が居城したと考えられます。 永正14年(1517)丹後国守護代:延永春信が若狭国守護代クラスの逸見氏と結んで若狭に侵入したとき、小浜と海上を繋ぐ和田に陣が置かれています。 弘治2年(1556)若狭守護武田信豊が子義統の家督争いには重臣の双璧を担う逸見昌経・粟屋勝久が信豊に付いていた。 永禄4年(1561年)丹後守護代延永春信と図った逸見昌経の一族が 砕導山城に籠って若狭国守護武田義統に抵抗した。
南郭(北尾根)末端の堀切

砕導山城の押えとして武田氏が粟屋氏に白石山城築城を命じたと推測されています。しかし弱体化する主家の武田義統への離反の兆しは見えていた様で?、粟屋氏は(粟屋氏一族の大部分か?)は逸見氏等と 共に越前朝倉氏頼みの義統に叛き、義統の子:元明を擁立して朝倉氏支配に抵抗を続けます。流石に武田四老の一・粟屋氏一族の山城で、 武田氏の後瀬山城に及ばないにしても、主郭部南?東面を石垣で覆い、石積の枡形虎口さえ見せつけての堅固さです。
主郭南端の堀切

主家の後嗣による内紛と内乱、 自領の若狭国を護るため朝倉氏と主家に抵抗する辛い選択を強いられる粟屋氏の悲嘆を想いつつ林道を降り馬居寺に戻ってきた。 最後まで若狭武田氏に付いていた石山城の武藤氏も、織田信長の若狭が入国に際し、其の配下に与した逸見・粟屋氏等の若狭衆も、本能寺の変後は丹羽長秀に属しています。
(福井県史/若狭の山城 日本城郭体系 Wikipedia 等を参照)

達城(達峰城)   達山 114m(3等3角点)    大飯郡大飯町尾内

石山城を後に県道1号(小浜綾部線)を佐分利川沿いにJR若狭本郷駅・R27号へと下る。河口近くで県道1号線は佐分利川沿いの尾内集落を右に見て大きく左折し本郷駅方面に向かう分岐点の手前。 佐分利川を渡る右岸に本郷小学校や”あみーシャン大飯”の温泉施設が建つ。
”あみーしゃん大飯”前の県道1号から達城主郭と出曲輪?(左端)

温泉施設背後から佐分利川沿い北西に延び出す低丘陵の二つの峰頂部に目指す達城の主郭と北郭が有る。 温泉・擁護施設内に設置される”達峰城跡”説明板は、主郭が位置する峰より・更に西に続く尾根続きの峰や西手前の施設背後の峰を正面にして設置されている?。
佐分利川を挟んで妙見の北郭と主郭の達峰ピーク(右)

何故此処に!!?と思えるが城址へのルートがあるのかも知れない?。尾根北端の妙見山曲輪の様に、 佐分利川沿いの監視からは離れていくが主郭に南にも、東面の川筋・街道監視の出曲輪が在るのかも知れません?。主郭から南へは進む程に風化し ・荒れるに委せた砂地の平坦地・鞍部へ下って行く尾根も細く、
北郭:土橋付き二重堀切(西側堀切から)

藪っぽい道筋には行動時間の余裕も無く真下にあミーシャン大飯を望むだけで探索は諦める。さて:取付きを佐分利川に落ち込む丘陵北突端の 鳥居マークからと思い、館集会所や浄願寺付近に駐車位置を探すつもりだったが、近場なので”あミーシャン大飯”から向かう。途中・臨済宗潮音院(若狭観音霊場28番札所)への広い車道の左上方に達城主郭のピークが見える。
妙見山:北曲輪から佐分利川と若狭湾(青戸入江)を望む

南曲輪から主尾根を外れて 下草藪の細い踏み跡が西に下っているので、寺からも取付ける道が有るのかもしれない。佐分利川に架かる尾内橋?の東詰め、 尾内集落内を東へ抜ける地区道の角に丘陵末端部が落込み、此処に妙見宮の鳥居や祠を囲む?玉垣が見えるが、上方一帯に露岩を抱く余りに激急斜面な丘陵に通じる道は無く・
北郭:土橋付き二重堀切 (土橋から西側二本の堀切)

山麓から見上げる聳立磐を背にした社が建つだけだろうと、街道の面影を遺す地区道を進む。東へ約150m程・浄眼寺に向かう途中に 、カーブミラーのある民家傍から丘陵に向かう路地道がある。其の奥・竹林側に荷揚げ用のモノレール軌道の端が見える。 モノレールは民家裏手の畑と竹林の急斜面上の溝(此れが達城遺構の中では唯一・最大の見所となる
北郭鞍部付近の段曲輪切岸

二重堀切の一本)
を通り、掘切の尾根手前で10m近い崖状切岸となる妙見山曲輪への急な石段道側の建物内に引込まれている。為に堀切と曲輪南の切岸周辺の地形・遺構は改変されていると思えるが、石段道が無ければ8-10m近い断崖状の切岸は、下ることも下から越えて来るのも容易では無さそう!!。
北郭 :段曲輪群上部の土塁虎口

妙見堂(道場)の建つ曲輪は西から北面の若狭本郷に眺望が優れ・現状でも激急斜面に続く参道は、常夜燈を過ぎ阿吽の狛犬が護る最後の一段・曲輪端まで急な石段道。山麓の眼下というより・足下を佐分利川が流れ、山と川が自然の要害を形成し、要衝の丹後街道(R27号線)を監視出来る。
主郭虎口(中央上)手前の二折れする登城道下の竪堀

妙見山の北曲輪南の切岸下は2-3m幅の土橋状細い尾根を、大きく長大な二重の堀切が敷設され、斜傾する平坦地形(一曲輪!?)を下りた所が山麓から上り着く鞍部。 鞍部から南への尾根続きに居住性のある広い曲輪群があり、二段目には当山城主の慰霊石塔が祀られている。曲輪の切岸下を土塁で仕切った空堀もある!!。尾根筋の片側を削り残して溝状通路とした土塁虎口を見る。
山頂主郭に建つ忠魂碑と三角点標

此の先・眼下にR27号と関電PR館(エルガイアおおい)・小浜湾・青戸大橋の先に青戸の入江へと眺望が拡がる。 此処からは遺構も消え?緩衝帯が主郭近くまで続く。登城通路は主郭を東へ廻り込む。屈曲する通路東斜面に竪堀を見て斜上・一折れして主郭中央部に開く虎口を入ると、達峰の三角点石標側。北端に一段高い石積み檀上に忠魂碑が建つ。削平された広過ぎる芝生公園状態(30mX6-70m程)を見ると城遺構も綺麗さっぱり整地され消えている様子?。忠魂碑の裏側(北)に一段小曲輪が付き、 藪中に一条の竪堀が隠れていた。
主郭南の尾根に見る土橋付きの浅い堀切

主郭南方には一段曲輪を降りると浅い堀切を見る。差ほど急斜面でも無いが下っていくと土橋付き堀切?を見て緩斜面・荒れた砂地の平坦地が有る。此処が城域南端の曲輪か?。急に細くなる山道は降っていくが温泉施設”あみーしゃん大飯”を眼下に見て引き返した。先程見た土橋付き堀切は、尾根筋を僅かに(堀切幅2-3m程)ズレて左右の斜面に落ちる。土橋で無ければ、交互に食違いを見せる片堀切 ?ですが防禦効果は知らない。自然地形を利用した敷設の結果なのかも・・?。
主郭南尾根:南端曲輪北端の土橋付き堀切?(交互に少しズレた片堀切?)

達城は【達峰山頂を本城(本ぶしろ)・妙見山長應寺日蓮宗の祈祷道場が建つ妙見山頂・標高60mを出城<小ぶしろ>】に分ける様ですが、主曲輪のある南郭とは緩衝帯を挟んで、北に段曲輪群と二重堀切を経て妙見山頂まで連続する北郭で構成される一城別郭の縄張りと思えます。鎌倉時代:後鳥羽上皇が倒幕の挙兵”承久の乱 (1221)”に勝利して以降・幕府による武家支配の強化により、幕府命により関東御家人が西国の各所に配置されていきます。
主郭:忠魂碑裏(北面)の竪堀(右上に腰曲輪)

若狭国大飯郡本郷を本願地とした有力国人本郷氏は村上源氏の流れを汲む一族で、新補地頭職に任じられた美作左近太夫朝親が入部し本郷朝親を名乗り初代となり、 以後は在地勢力として室町時代には足利氏に属し、経済や軍事面でも大きな力をもってきます。一方:安芸国守護:武田氏は永享12年(1440)足利6代将軍義教と対立していた若狭守護一色義貫を討伐した功で、本拠を安芸から若狭に移した若狭国守護武田氏は大永2年(1522)後瀬山城を築いて本拠として 若狭の国人領主を被官化しようと動く。
主郭南端の一段下に南曲輪が続く

武田氏重臣で佐分利川上流 石山城に拠った武藤友益は高浜砕導山城の逸見氏等の領内に侵攻して武力抗争を繰り返しています。 本郷氏15代本郷泰茂の時・戦略上の都合から、代々居城としてきた平城の高田城(高田館)では防戦に耐えきれず、天文22年 (1553)達山山頂 (忠魂碑の建つ主郭に114m4等三角点が埋まる・全長約60mx幅30m程)に主郭を置き、北へ延び出す尾根上に曲輪を連ねながら、丘陵の北末端部の妙見山まで続く峰上に達峰城(達城 )を築いて移り対抗します。元亀元年(1570)姉川の合戦に勝利した信長は若狭に進出してきた。16代信富の時・信長の家臣:丹羽長政の攻略をうけ、
北郭部の段曲輪内の城主供養塔

天正10年(1582)頃には落城して達城370年余の城史を閉じます。本郷泰茂・信富父子は信長の側近矢部善七郎家定 菅屋長頼・長谷川秀一・福富秀勝・堀秀政と共に織田家奉行五人衆】を通じて信長の傘下に入り領土を安堵された。このときの縁によるものか、泰茂の二男定政が矢部家定の養子となり、天正10年(1582)本能寺の変後、泰茂・矢部定政父子は豊臣秀吉に従って当地を離れ・達城は廃されたと考えられます。
北郭部の段曲輪と空堀(排水用?)の仕切り土塁の右4m上が大手道

矢部(本郷)定政は小田原の役 ・文禄の役に従軍し、小さいながら一万石(城地等不明)を領する大名となった。しかし、慶長5年(1600)関ヶ原の役で西軍に属して伏見城攻撃に加わったため、所領は没収され没落した。一方、泰茂の嫡男:信富は徳川家康に仕え ・子孫は徳川旗本として存続した。慶長8年(1603)江戸幕府の奏者番 (城中における武家の礼式を管理する)として、最初に任命されているのが、足利典礼に詳しい室町幕府宝幸衆出身の譜代大名本郷信富が其の人・・・!!。
(福井県史/若狭の山城 達峰城:おおい町教育委員会案内板  Wikipedia 等を参照)

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