小浜市宮川地区  丸山城・天ヶ城・竹長城・新保山城・賀羅岳城・加茂堡(上城)
小浜市 (五万図=小浜・鋸崎)
近畿の山城丸山城 天ヶ城  竹長城 新保山城 賀羅岳城  加茂堡

天ヶ城:土塁が囲む広い北郭

南川・多田川・北川が小浜湾に流れ出る河口に近くに小浜城跡が在る。直ぐ東方を走るR162号線の西津橋が是等の川を跨ぐが、橋の上流では江古川が北川に合流する。此の江古川が丘陵裾を鋭角に屈曲して、 北川に並走する地点・丘陵上の丸山城(茶磨山城)に寄った。 天ヶ城へは此処から江古川沿いに羽賀寺を目指せば良いのだが、今回はR162号線を直進し小浜湾沿いに走る県道107号が合流する福谷三差路に向かう。
天ヶ城山登山道:馬の背状尾根は長い土橋か?

福谷から羽賀へ昨年(2010年 )開通した天ヶ城トンネルを抜け出ると、胡の姫宮神社側へ下りてくる。 城址の麓の姫xxxの名称が気になり調べてみたら矢張り関係はあった!!?・・・が神話の世界。姫宮神社から東北方へと山間の集落に奈胡集落内に延喜式内社阿奈志神社が在る。
竹長城から加茂堡:先端の下城と山頂部の上城を望む

大国主命(若い頃の?国作大己貴命)を祀り、桓武天皇の天応元年 (781)義昌により阿奈志山(天ヶ城山)に祀られていたという。大国主命の子:下照姫命を祀ったのが羽賀神社で、 下照姫命の妹:高照光姫命を祀るのが姫宮神社だとされます。縁起・由緒等は不詳。
宮川公民館付近から望む竹長城

姫宮神社前からの車道を道なりに進むと羽賀寺の集落を西に見て 北川の堤防沿い「次吉」の車道に突き当たる。舞鶴若狭自動車道の終点が小浜西から此処小浜ICまで延びれば天ヶ城トンネル?福谷への利用者は増え、案内板を見失って・山裾意外に民家もなく田園風景だけが拡がる中の道に迷走した古刹:羽賀寺へもスムーズに行けると思えます。
新保山城南郭:帯び曲輪から主曲輪と三角点石標

北川の堤防沿い市道は途中県道220号線に入り、直ぐ外れて東市場を経て上野木で県道219号を北上すると宮川地区に入る。宮川地区へは小浜IC接続の県道24号線か、R27号線平野(JR新平野駅)で県道219号線に入って直進すると、野木川沿い宮川地区に入って直ぐ大きな宮川地区内の 観光絵図案内板が目に付く。加茂古墳をはじめとした多くの古墳群が有り、
賀羅岳城主郭北:外側土塁と空堀(空堀内は落し穴?)

古代より開かれ・栄えた土地柄だった様です。 古城跡を示す石垣マークには加茂城(加茂堡)・竹長城・新保山城(霞美ヶ城)・賀羅岳城(ガラガラ城)・東谷城(今回未訪 )が点在しており、丹後・若狭街道から小浜湾(世久見・三方五湖)へ抜ける厳しく長い山越えの間道が要衝であったか、滋賀県高島町側からの若狭街道や越前方面からの丹後街道が通じるところから、若狭武田氏の東方監視・
加茂堡:主郭?(位置?)

警護に対する軍事的戦略的な位置に在ったものと思わせますが古道の詳細は知らない。東舞鶴に続いて・此地の宮川保の地頭が鵺退治の恩賞として源頼政に与えられたところといい、 大谷区に頼政卿宅跡が文化財遺跡地図に載せてあり、矢袋の地名は鵺退治の際の矢袋は・この地の竹を使用したところから付けられた云う。



 丸山城 天ヶ城  竹長城 新保山城 賀羅岳城 加茂塁 (上城)

茶磨山城(丸山城)  xxx 135m(4等3角点)  小浜市丸山

小浜城跡の東約1.3km地点には北方から江古川が丘陵裾を鋭角に屈曲して、北川に並走して西の小浜湾に流れ出ます。 江古川が大きく流れを変える地点・北方から南面の江古川に其の先端を落とす独立山塊が有り、南山麓の丸山集落の背山135m峰(4等3角点標石が主郭内に埋まる)には城史の詳細は不明ですが、
登り着いた南尾根の方形土壇は櫓台?

室町時代末の弘治年中(1555-58)内藤兵庫の拠ったと伝えられる茶磨山城 (丸山城)が在りました。若狭武田氏家臣:内藤氏の天ヶ城が北方約k3km程に在り、其の支城として築かれたもの ?と思えますが城史一切が不明です。城の南面は低丘陵ながら比高130mの急斜面と自然とはいえ大川を四重濠に廻らした
主郭部の南曲輪虎口と土塁

天然の要害地。南西には後瀬山城城下を抜ける丹後街道を、南正面には4つの濠の南川沿いに湯岡城が遠望できる。名田庄町を抜けて福井・京都の府県境に到るR162号線沿いの丹波街道を望む要衝監視の適地でもある様です。城址の有る丸山地区の丘陵部は直ぐ判るが、土地勘無くR162号線を基準にしても方向が外れ、 城址への案内には苦労する。
北郭部の上り土塁と周囲を囲む分厚い土塁

ただ丸山地区の丘陵西傍を抜けるバイパスの大橋を利用した場合は 北詰め直ぐの坂下を右折して(狭い一方通行の地区道なので・・)橋下を戻るように山麓南西端に出るのが良いのかも?。小浜城唯一の建造物遺跡として遺る移築門の小浜藩校順造館の有る若狭高校からなら坂道を上がって南川を渡りバイパス?の大橋手前を右折
北郭部を囲む分厚い土塁

道なりに田川・北川を渡り、丸山地区丘陵を正面に左折すると江古川に架かる”丸山橋”を渡ると、極狭な車道(カーブミラーと道路標識が立つ)と路地の奥に山上神社の杜があるが駐車スペースは無い。丸山ふれあい会館の駐車スペースが集会等予定が無ければ 利用させてもらえるのかも?。
主郭から南郭への切岸と中央に上り土塁、周囲を分厚い土塁が囲う

集落周辺で「理(ことわ)り」を入れて路上駐車するしか場所は無さそうです。本殿左手から直ぐ上部にある 古墓所への踏み跡へ取り付くが、後は尾根筋まで急斜面、更に尾根通しも藪は薄いが、踏み跡も薄く殆んど藪漕ぎ状態で進む。
主郭部と北郭部を分ける土橋付き堀切

社殿奥から城址の丘陵南尾根末端付近の平坦地に出ると、見張りの櫓台曲輪かと思える1m程の土壇が有るが、尾根前後も緩斜面の平坦地形。主要郭群迄は長い登尾根の先で物見の出曲輪かも知れないが、周辺は丸山古墳群が点在しているので古墳の墳丘?か、削平したマウンドを見張り台に転用したものか?。
埋れかけ土橋付きj空堀と北郭部土塁(右手は櫓台か?)

丸山城 (県の遺跡分布図では茶磨山城とあり、歴史的にも此の名が正式らしいので以下:茶磨山城と呼称するが、城史も城名さえも余り知られていない様?)。また南東角の土塁虎口から三方を土塁で囲われた湿気た南曲輪に入る。北側へ尾根続き切岸を超えると雑木藪の中には曲輪東端沿いに低土塁が延びる主郭で・此処に標高135mの4等三角点標石が埋まる。
北郭部の石組み井戸?(古墳の石室露呈部か?)

西へ突き出す枝尾根側には埋もれかけた浅い土橋付き堀切が 荒れた平坦地形に続くが藪の斜面を下っても遺構は無さそう。見張りの出曲輪か?。主郭北へは中央の 上り土塁(土橋)を降りる北曲輪も南曲輪と粗同じ 広さで、分厚い土塁に囲まれた30㎡程の曲輪がある。主郭部から藪っぽい緩斜面を下った低部にも土橋は判るが浅い堀切をを越えて 北郭部の主要曲輪に入る手前にも土橋付きの空堀(尾根端から両斜面にまで堀切られていない)を、 分厚い土塁(櫓台か?)を先へ)部に進む。
北郭部北側に有る二本の土橋付き空堀j

10mX30m程の曲輪だが区画が判らない程に荒れた削平地も元は四方を土塁で囲われた曲輪だったか?。此処には丸い井戸跡らしい石組みが見られる。 場所的には天水受け井戸で、湧き水は考えられない?が石組み なのが疑問だ。赤みを帯びた周囲の土壌からは主体部の木棺直葬の石室・石材が露出している古墳だったのかも?。曲輪北端の外側には両側に土橋が付く空堀がある。
北郭部北側に有る二本の土橋付き空堀j

北郭前後の様子からは周壕を廻した前方後円墳を曲輪とした様にも思えるが、 古墳に対してはまたも三田市の古墳に対するコメントがトラウマとなって、後日訪城する宮川地区の多くの古墳についても触れず避けて通ることとします。 二本の土橋付き空堀からも荒れた平坦地が延びて、段差で曲輪部が区切られた様な場所がある。緩斜面で雑木の広い尾根が下方に延びるだけで 城域も此処までか?。
北郭部北側に有る

尾根筋を塞ぐ形の段差上は番小屋跡か?。尾根東端が虎口状に開き、下方からは溝状通路(山道?)が虎口状を抜けて城域に入る。 虎口外側も切岸上部には櫓台設置可能の平坦スペースは確保されている?。虎口を通らず尾根筋へ移っても段差を避けて上段の曲輪に入るには、尾根反対側の番小屋?東端から曲輪を廻り込む様な帯曲輪状の先から入れるのかも?知れないが、 荒れ・崩れた緩斜面には、区分されている曲輪の境や付随する遺構も不明。
(福井県史:中世 小浜の歴史(Web) wikipedia等を参照)


天ヶ城(天下城)  天ヶ城山(天下城山・古名を阿奈志山) 266m 小浜市羽賀・西津福谷賀

若狭武田氏の本拠:後瀬山城の在るR27号沿いの後瀬山トンネルを抜け、小浜城の東・丸山城の西を掠めて小浜湾沿いに小浜市北方の 羽賀寺に向かうのにR162号線を辿り、福谷から開通(2010年)したばかりの市道:天ヶ城トンネルを抜けて羽賀を目指す。
土橋付き堀切を渡り南郭(主郭)に向かう?

舞鶴若狭自動車道の終点が小浜西から小浜ICまで延びればJR東小浜・県道220号に接続されR162号線 ・三方五湖方面に一挙に利用車輌は増えそうです。羽賀寺へ案内するには普通:R162号線・JR東小浜駅から県道220号が分かり易いのかも・・!!。天ヶ城は羽賀寺背後の南北に延びる丘陵上 :小浜市西津地区の最高峰:天ヶ城山 (3等三角点 266m)の山頂部に在って、若狭国守護武田氏家臣内藤筑前守勝高
主郭を廻り込み斜上して入る虎口

天文年間(1532-55)末に築いたとされる天ヶ城の主郭が置かれ、その北端に突出す小曲輪部が櫓台。三角点石標の埋まる櫓台からだけは僅かに小浜市街地側に視界が開けて、眼下の若狭湾が望まれます。古い大きな山名標識には天下城とも記されている。 羽賀寺本堂の東(右手)から導標付きの天ヶ城山登山口がある。
土塁囲み北郭から北尾根に延びる荒れた平坦地形は曲輪群?

若狭自然歩道として羽賀寺コースを進むが整備された導標からは他に福谷や北塩屋の総合公園からも 完備している様です。自然歩道とは謳ってあるが、露岩帯の長い急斜面は滑りやすく急登の連続だが、木の枝や根は遠く・手掛かりの雑木や下草も少ない。登山ならともかく・一般的な?山城訪問を意識していると、 踏み跡もない藪漕ぎと同様に厳しく難渋されることは必定。
主郭(南郭)土塁北の三曲輪 :最奥が櫓台の天ヶ城山頂

若狭総合公園からの主尾根の合流する。長い土橋を抜け小曲輪群から土橋付き空堀を通り、主郭南面の高い切岸(約8m程か?)をみて 主郭西面に回り込む登城道から虎口を主郭に入る。幅は約20m程だが南北に約120mと高低差の少ない広大な平坦地形の中央を仕切る土塁(1.5-2m程)だ。土塁の北に続く3段曲輪の最北 ・尾根先端部が少し高くなった土檀の台地が櫓台で天ヶ城山三角点のある最高所。
南郭(主郭)櫓台:天ヶ城山最高所

3曲輪と4曲輪(櫓台)から東下(奈胡集落背後)への尾根にも堀切と細い尾根上に物見程度の曲輪がある。櫓台から北尾根へは15m程の高い切岸を下ると、鞍部は南郭(主郭)と北郭を分ける二重堀切で遮断されます。二重堀切を越えて福谷へと長く延び出す北西側尾根上にも大規模な南郭(主郭)の主曲輪と同じくらいの規模(幅約30mX長さ80m)だが、 さらに周囲は土塁で囲まれていた様子。土塁が開く北東角の虎口から北への尾根上に展開する緩斜な広範囲の平坦地形は曲輪段差も土塁跡も判別し難い荒れようです。
主郭・北郭を分ける二重堀切

北曲輪北端の土塁西下にも土塁で囲まれる腰曲輪がある。未確認だが此の先の藪は福谷へ延びる長いが 比較的穏やかな稜線なので、曲輪等の遺構が残る搦手道?、総合公園からの尾根道が合う西津から南郭(主郭)へのコースが大手道なのでしょうか?。 築城時期は不明だが永享12年(1440)一色氏討伐で軍功のあった安芸国守護武田信栄が若狭国守護に任ぜられ
土塁が囲む北郭に入る

弟:信賢が若狭に入部の下向に随行した家臣団の一人で宝徳2年(1450)武田氏守護代・小浜代官等に任ぜられた重臣 内藤筑前守入道昌廉が天ヶ城城主とも伝えられます?。 天文7年(1538)若狭彦神社上葺の棟札銘に修理奉行:内藤筑前守元廉の名が見え、昌廉と同様に守護代・小浜代官に任じられたとされます。 弘治2年(1556)若狭守護職信豊と嫡子:義統の家督相続の内紛に、弘治4年(1558)信豊は近江に逃れます。
北郭櫓台の東下に堀切と土塁状が延びる:先端は櫓台か?

この時の頭首筑前守勝高は信豊の奏者(武家の礼式を管理する)を務めていたとされ、天ヶ城はこの際に勝高により改修されたと推測されます。 内藤氏も武田氏重臣の双璧を担う逸見昌経・粟屋勝久等と信豊に付いていたのでしょう。永禄11年(1568)若狭の侵攻した越前朝倉義景により、武田義統の子:元明は一乗谷に監禁されます。元亀元年(1570)織田信長が若狭に入国すると武田氏被官の逸見・粟屋・武藤氏等とともに天ヶ城最後の城主筑前守勝行は織田信長に降り、 越前侵攻が開始されると水軍を率いて参陣する。
北郭東北端の土塁虎口:北尾根筋に荒れた平坦段(曲輪群)がある

天正元年(1573)越前朝倉氏の滅亡で、若狭は丹羽長秀の所領となり、勝行は若狭衆として丹羽氏に属しの傘下に組込まれます。天正10年(1582)本能寺の変に信長が明智光秀に滅ぼされると、 旧領地の回復を狙って光秀に加担するが山崎の戦に敗北して元明は自害する。明智光秀に与したので所領を没収され、丹羽秀長により城は破却されたという。


本浄山羽賀寺(高野山真言宗・北陸観音霊場第5番札所・北陸三十六不動霊場の第36番札所)は奈良時代: 霊亀2年(716)羽賀寺背後の山頂に鳳凰が飛来し美しい羽毛を残して去った。この吉事に羽を元正天皇(未婚で即位された女帝)に献上したところ、鳳凰の出現は泰平の証・・と喜ばれ、行基に命じてその地に寺を建立し、 鳳聚山羽賀寺と命名された云い、
羽賀寺庫裡

元正天皇の勅願 ・行基の創建を伝える古刹です。本尊は元正天皇の姿を写したとされる十一面観音菩薩立像で、若狭で最も美しい木造仏と云われ秘仏とされていた為・当初の彩色が残る。天暦元年(947)洪水により寺と共に本尊十一面観音立像も埋没したが、 翌年には京都東山・雲居寺の僧:浄蔵により再興されているのは村上天皇の勅願によるものか?。 国家を鎮護し病疫を治め皇室の繁栄を願う勅願寺になりました。しかし其の後も戦火・人災による焼失・再建をくり返し現在に到っています。
羽賀寺本堂と天ヶ城山登山口(祠・石塔が並ぶ右手)

古くから勅願所として朝廷の保護を受けたとみられています。羽賀寺所蔵の古文書には、勅筆や女房奉書などの公卿や門跡の書状が 数多く残されており、 羽賀寺縁起(重文)によると鎌倉時代初頭:建久元年(1190)征夷代将軍:源頼朝が寺の霊勝を聞き亡母の塔婆として三重塔を寄進 ・徳川3代将軍家光が山門等を造営している。本堂は室町時代の武将<注>安倍(安東)康季の寄進により文安4年(1447)落慶している。
天ヶ城主郭の広い郭内を仕切る土塁

当時は天台宗に属し青蓮院門跡の末寺だったが、宝徳2年(1450)には真言宗寺院となった様で、「密師定乗来再真言之門」の記や、弘治2年 (1556)の「羽賀寺年中行事」記からも、本尊開帳に際して真言宗正照院の僧によって一具が整えられたと推定されています。 <注>平安時代の武将:安倍貞任を祖とし津軽地方を本拠とした安倍(安東)氏は日本海の交易を通して関係は深かく、津軽の十三湊を拠点として勢力を振るった豪族で、
北郭櫓台の東下に堀切と土塁状の細い尾根が延びる

津軽六郡の京役【荘園の年貢を京都の摂政家や関白家に運ぶ役】 管理を委任されていた縁により、応永5年(1398)・永亨7年(1435)にも失火で焼失した羽賀寺を翌:永享8年・後花園天皇の勅命をうけて秋田安倍(安東)盛季と康季父子が再建に着手。11年後の文安4年(1447)に落慶をみて 「奥州十三湊日之本将軍」安倍康季の援助によりなされたことが記されている。
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羽賀集落から 羽賀寺への参道(車道)入口に「人の駅上田三平 (1881-1950)」の説明板が立つ。明治14年(1881)羽賀で生まれた福井師範学校の教諭で、大正6年(1917)福井県史跡勝地常任委員を命ぜられ 越前若狭地方の史蹟を刊行。平城京址の発掘調査や法隆寺出土瓦の研究等を行ない、大正10年(1921)福井県内務部委託による「若狭及越前に於ける奈良朝以後の主なる遺跡」に
小浜市:人の駅「上田三平」

「一乗谷城址」と「一乗谷城戸外の遺跡」の詳細報告からは、 既に一乗谷全体を遺跡とみて捉えられている。昭和2年(1926)内務省の史蹟調査の嘱託院をされ「日本薬園史の研究」を刊行し、小浜市の国宝・重要文化財・天然記念物等史跡指定が多いのは氏の功績によると云う。
(福井の文化財 福井県史:中世 小浜の歴史(Web) wikipedia 現地:案内板等を参照)


竹長城  池谷山? 74m   小浜市伏原・竹長

後瀬山トンネルを抜け直進する丹後街道(R27号線)を東小浜に向かう。国分寺跡の看板や其の杜をチラッと見て、東市場交差点からJR新平野駅から小浜ICが接続する県道24号線を越えて直進する県道219号線を直進して、 野木川沿いに宮川地区に向かう。
東尾根末端(東郭)の段曲輪

丸山城からは北川の堤防沿いの市道を走り途中県道220号線か、県道24号線一本で、東市場を経て上野木交差点で、北川の支流・野木川沿いに県道 219号を北上すると宮川地区に入って直ぐの大戸区(宮川郵便局手前)の左手の車道が膨らんで広くなった駐車スペースに小浜市宮川地区の史蹟等を示す絵図観光案内板が設置されている。
東尾根末端(東郭)の段曲輪

間近には竹長城跡が在るが絵地図による所在や 訪城取付き点等の位置の不確かさは参考にしたいが、 方向や距離感が判らず概要に留めて国土地理院の地図で確認。宮川小学校の在る竹長よりは手前の加茂に宮川公民館・児童館のあり 、西南の地区・町境界尾根の344mピークから北東へ延び出す尾根筋先端が県道落込む所に在る。
東郭の尾根続きに小曲輪を挟んで埋れかけた浅い堀切を見る

県道の200m程先で市道が野木川を越えて延びる。道の前方に横たわる丘陵上が新保山城(霞美ヶ城)で西南に尾根を延ばす山麓に龍泉寺の大屋根も見える。竹長城の山麓を東 ?北へと獣除けフエンスが廻るが、侵入できる開閉戸や露磐を避けるフエンスの隙間は見当たらない。東?南への県道沿いは等高線が積み崖状に落ち込む。 公民館向の空き地!?に宮川地区防災倉庫右傍を抜けた奥にフエンスの隙間があり、最初の数歩から直接・崖状急斜面を南方に向かう尾根沿いに踏み跡を追って登る。
東郭の尾根続きに小曲輪を挟んで浅い堀切を見る

急斜面の先で2-3の連続する段曲輪が東曲輪主部の上から西に方向を変える。 15X20m程の粗方形台地からは比較的緩斜面の平坦気味の上り尾根が直線的に西方に続き、切岸は疎(おろ)か・段差の高低差も不明な、 曲輪か緩衝帯か解らない尾根筋だけに、東郭から西へ方向を変える尾根を平坦段に分ける小さな起伏が、殆んど埋もれた堀切跡なのか、雨が流した砂地の溝なのか?。下草さえ見る荒れた踏み跡だが倒木もなく歩きやすい。
竹長城主郭と思える西郭の広い曲輪

高低差こそ無いが2段曲輪を見てからは、ほぼ連続的に 極小規模の曲輪が繋がって西の広い曲輪(主郭? 尾根約幅15mX東西に長さ約25m)に着く。明確な城塞遺構を見ないが、砦というよりは・細長い尾根筋を利用しただけの古いタイプの城?。城址は竹長の神社マークへの北尾根筋にも 展開して新保山城(霞美ヶ城)の初期の出城?か砦機能や、更に西北の延びるおね続きの賀羅岳城(ガラガラ城)へも展開する出曲輪として見張台・狼煙台ともなっていたか?。
(福井県史・通史編 2 中世 小浜の歴史(Web) wikipediaを参照)


新保山城(霞美ヶ城)  新保山(4等 287m南郭)〜最高所(293m北郭)    小浜市新保・大谷

県道219号線沿いに宮川公民館 ・児童館のある宮川地区中央 ?部の竹長城に寄ったが、此れより先200m程・宮川小学校との間「新保」の地名標を見て東へ右折し野木川を渡る。北方の丘陵裾に甍を白く輝かせて見えるのが 龍泉寺
新保山城取付点の民家

背後の丘陵尾根の頂部に霞美ヶ城(新保山城)が在り、城主武田信高によって天文10年(1541)創建されたのが龍泉寺。山裾を縫って東方の新保集落に向かう地区道を進むと左手に墓地、右手の田圃側に墓参用の駐車スペースがある。その先に稲束を干す為の木柱が10数本立つ一枚の田圃が有り、丘陵側の藪中も広い平坦段が広がっているが墓地跡か ・畑地だったか・植林用か?。
南郭の段曲輪群下部・堀切上段・三角点下段三ヶ所に見かける井戸跡

其の先から新保区の最初の宅地・此の田圃との間から山道があり登城口ですが、山道はそのまま谷筋を伝う。新保山城へは直ぐ右手の石段と数基の石仏脇からの登り。此れ等・田圃や背後の切岸(3m程)と林?の中の平坦地形は屋敷跡らしいが、低土塁は単に谷の排水溝かもしれない。しかし登山口を挟む宅地一帯は初代城主:粟屋氏の頃からの居館跡と思われますが、
南郭段曲輪

福井の埋蔵文化財分布地図に表記はされていないが宮川殿と呼ばれ た武田信高の武田氏館跡とされます。数段の石段上からも急斜面を覚悟していたが、山道が続き楽勝・・だが段々と藪っぽくなり 倒木を避けての道は荒れ、堀底道か溝状を進み歩き辛い山腹の捲き道を尾根に出るとそこは既に城域。
南郭の堀切と土塁

正規?の大手道を辿ってきた様だ。西南に下る龍泉寺背後への尾根筋は、先端付近にも新保山城の出城(下城)が在る様ですが未確認。此処から井戸跡?を見て小曲輪群を進む本城 (上城)へは堀底道が続く登り斜面の先に 段曲輪群と堀切を二本渡り、井戸跡と思える窪地(穴)を見て段差約 3m程の切岸をもつ6段程の曲輪・最上段に曲輪南〜東へ回り込む帯曲輪を越え新保山 4等三角点(293m)石標の埋まる南郭(尾根幅約15m程で北方に約 45m程?と細長く延びる)に着く。
南郭:二本目の堀切も尾根側切岸は9-10m程と高い

南郭北端の堀切を渡り4-5段程の連曲輪の先に主郭 (幅約15mX南北に50m程)が在り其の北端には大堀切へ一気に落ちる10m程の切岸が控えている。此の主郭から西北方の大谷区 (野木川源流?)へ幅5m程の狭い尾根が延び、大谷区方面から通じる搦手道でもあったものか?。
南郭北端の堀切から主郭に入る

主郭北の大堀切底からもトラバースして辿る踏み跡があって30-40m程下ると、尾根幅が拡がり土塁 ・切岸を持つ曲輪(袖曲輪を伴うものも有る)を10数段連ねた西郭がある。主尾根の南郭・主郭・北郭よりも幅広い平坦段は居住性も高く山上屋敷群でも有った様子?、下から2-3段目が特に広く、
主郭東面の低土塁

平坦段の西端には猪の”ぬた場”にしては大き過ぎる横堀?を見る。南郭・主郭・北郭は堀切で区画されていますが、とりわけ主郭と北郭を分ける10m程の切岸をもつ大堀切が北郭の城域を遮断して曲輪を独立させています。 大堀切を越えて入ると北郭の幅15㎡程ばかりの広い櫓台土檀うえ、曲輪幅18mX30m程の北郭北端には大土塁を積み、北の尾根続きに土塁を挟む三重の堀切で防備を堅固なものにしています。
北郭から大堀切:主郭側切岸(約10m)を見る

新保山城は市指定(昭和63年1月21日)史跡ですが宮川地区の観光絵地図以外には、 案内表示や現地に案内説明板等が一切無く、当然・他の 4城<賀羅岳城は案内絵図にも表示は無く、新保山城の築城時期は定かでないが、 史実からは守護職武田元信の後元光が大永2年(1522)後瀬山城を築いて本拠として移っています。:
北郭の土塁から:北東尾根側の土塁を挟み三重連堀切!

武田氏有力被官人の中でも政治・軍事力では双璧を担う逸見氏は丸山城を(未訪だが丹後国を一色氏に返還後の逸見氏に対する 守護武田氏の対応の不満から、逸見氏は武田氏に反抗を続けている!!?が)小浜代官を務めた粟屋右京亮元隆が同時期の 大永年間(1521-28)頃に築城して初代城主となった様です。三方郡・高島郡(滋賀県)・綾部市を境する通敷郡(小浜市 )内の領内諸城の本拠城ともなった粟屋一族の城でしたが、
北郭から北比嘉愛尾根側に見る三重連堀切の一

天文7年(1538)若狭武田氏重臣:粟屋元隆は若狭守護武田元光の子信豊の継嗣を認めず 一族の信孝を擁立して叛乱(後瀬山城を攻撃)するが敗退し没落します。叛乱を押さえ込んだ信豊は天文10年 (1541年)粟屋氏の宮川保(貴族・寺社領の荘・庄に対しは幕府領 )に信豊の奉行人 :弟の武田信高を入れ、曾ての粟屋氏領国の支配強化を図り、現状遺構からは信方により永禄年間 (1558-70)まで新保山城の改修・縄張り拡張を続けて居城としたものとおもえます。兄:信豊の後瀬山城に次ぐ大規模城郭を築き、本拠城の後瀬山城の東を守備の支城とし、
主郭から西北尾根に展開する幅広い曲輪群

同年:城の西山麓に龍泉寺を創建します。弘治〜永禄年間 (1555-70)にかけて若狭守護武田氏の内紛(信豊・義統父子の家督争い)には、再び勢力を盛りj返した逸見昌経・粟屋勝久等が信豊を支持し、弘治2年(1556)信高が没し信豊が隠居して家督が義統に移ると信豊の隠居領を巡って、内紛は収まらず対立し信豊は六角氏を頼って 近江へ亡命している。
主郭から西北への尾根に展開する広い曲輪群

新保山城は其の子彦五郎信方の本拠城として衰退化する武田氏の回復に努力するが、 元亀元年 (1570)織田信長による若狭への入国(主目的は越前朝倉攻め)に抗戦し朝倉義景に付き、反織田方勢力として 石山城の武藤友益や一族宗家 ?の粟屋勝久等とは敵対した粟屋右京亮等により、反織田方の山県孫三郎が篭るガラガラ城(賀羅岳城)を攻め落としている。
南郭へ戻り堀底道を下る

天正元年(1573)朝倉氏は滅亡し、新保山城を追われて没落し・足利義昭の備後国(広島)に逃れたと云う。 若狭武田氏最後の当主元明も天正10年(1582)本能寺の変に明智方に付き、丹羽長秀によって自刃せられ若狭武田氏は滅亡する。武田氏一族は京都建仁寺長老 英甫永雄の仲介に細川氏を頼って熊本に移ったとも云われます。新保山城も天正12年(1584)丹羽長秀の若狭入部により破却されたとされます。

青雲山龍泉寺(曹洞宗)は天文10年(1541)若狭国守護で入封した若狭守護武田信豊の弟で新保山城主 (霞ヶ城)武田信高によって創建された古刹で、信高(宮川殿とも呼ばれた)の菩提寺でもあり、境内には信高公の墓碑が立つ。 龍泉寺の参詣駐車場から本堂池庭側に立つ石門(山門)近くに「人の駅英甫永雄(えいほようゆう 天文16年-慶長7年 1547-1602)」の説明板が立つ。
龍泉寺

安土桃山時代(1573-1603)臨済宗・夢窓派の僧:英甫永雄(武牢小渓,芳洲とも号した)は霞美ヶ城(新保山城主 )武田信高を父に細川幽斎(丹後国守護:田辺城主)の姉:宮川尼を母に持ち、若狭守護(後瀬山城を築いた城主)武田元光の孫にあたります。同族で京都建仁寺の文渓永忠に師事し、夢窓派と併せ幻住派の法をも嗣いで建仁寺如是院に住み、天正14年(1586)建仁寺長老となりますが、京都五山の学者・詩僧として 相国寺鹿苑院の西笑承兌や林羅山とも親交があった。
主人の駅:龍泉寺英甫永雄

連句・和歌に優れたが近世狂歌の祖と謳われ、叔父の細川幽斎・歌人の松永貞徳・連歌師の里村紹巴(じょうは)等文人との密接な関係から生み出されたと考えられています。 文禄3年(1594)南禅寺に昇住しますが慶長7年(1602)入定されます。「偽りのある世なりけり神無月 貧乏神は身をも離れぬ」
(福井県史・通史編 2 中世 朝日日本歴史人物事典 wikipediaを参照)


賀羅岳城 (賀羅岳山城・ガラガラ城)  賀羅岳(4等 297m) 小浜市本保・太良庄

県道219号線を野木川沿い・竹長城東山麓の宮川公民館を過ぎると、 宮川小学校の東北方に龍泉寺の屋根と新保山城(霞美ヶ城)の在る丘陵尾根を望みながら北上する。 野木川本流に左手から合流する谷川沿いに進む側溝側に「本保」の地名標を見る。此の二つの谷川に挟まれる北前方約 1km程の丘陵上には宮川地区観光案内絵図にも描かれている東谷城が在るが今回は未訪問。
賀羅岳城主郭と北端の大土塁

左手前方には賀羅岳山頂 (4等3角点峰 298m●<注書参照>市遺跡地図には此処をガラガラ城・尾根南約800m地点の239m峰が賀羅岳山城<未訪>とされています )から緩やかな尾根が東へ伸び出し、末端付近で急斜面を見せるが、 再び緩やかに落ち込む丘陵尾根山麓の本保集落内:長賢山良継寺(曹洞宗)?だったかを取付点としたが、本来なら城主関連の 太良庄集落内に在る長英寺(曹洞宗)から行きたいところです。
主郭内西面低土塁南付近の井戸跡?

その裏山 :通称”御所の森”と呼ばれる林の中には福井市指定文化財(昭和51年<1976>1月22日)の石造り五輪塔があり「若狭国志」に”初め御所寺と称し・墓を御所墓と云う、 寺辺に館址あり古昔高貴の人の居所也、此の寺の由来今知る者無し”と伝えます。造立された五輪塔の各部の様式 ・梵字の字体・彫法等により鎌倉時代後期のものと推定されています。此の太良庄(たらのしょう)は鎌倉時代中期の仁治元年(1240)〜室町時代中期頃迄(約250年)京都東寺の荘園でした。
賀羅岳城主郭と北端の大土塁と竪堀・堀切(横堀)

太良庄へは室町時代初期 :永亨の乱「永亨12年(1440)」に安芸国守護武田信栄が一色氏に替わり若狭守護を兼ね・弟の武田信賢を若狭に入れ、 文安年間(1444-49)には太良庄に半済権を与えられた被官山県下野守信政(若狭山県氏の祖となる)が半済給人となり、其の代官山内入道中欖が現地に入って半済方の支配にあたるようになった。
主郭北端の空堀(堀切)と主郭側切岸

半済(はんぜい)は「年貢の半分を納付する」という意味より百姓の年貢の半分を免除することを意味するが、室町幕府が荘園 ・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めたことを指し、半済令は軍費調達のために荘園、公領?の年貢の半分を 守護が徴収してもいいという法律。東寺は宝徳2年(1450)莫大な一献料を費やして太良荘などの守護使不入・段銭以下臨時課役免除を幕府から確認されたが、武田氏は幕命を遵守するつもりなどなかった・・・。
二ノ曲輪群南の”一文字土居”

この後も太良荘本所方に守護役が容赦なく賦課されたし、 検断(裁判)権についても次第に半済方代官が一円に行使するようになり、次第に東寺領を横領!!?。 太良荘本所分は応仁元年(1467)頃から守護請になったらしく、以後同荘は守護権力のなかにすっかりのみ込まれていく。
主郭南側土塁の残石類は土留用に埋め込まれたもの?

賀羅(キャラ)岳城について
福井埋蔵文化財の遺跡分布地図には298m三角点峰をガラガラ城(従来からの?賀羅岳城:遺跡概要には土塁・堀切・竪堀・虎口)とあり、その尾根続きの南・直線距離で約800mにある239mを賀羅岳山城(今回未訪・遺跡概要は空白)として表記されています。此処では賀羅岳城=ガラガラ城(298m)とします。 築城時期・築城主等の城史について不明ですが後日・調査等により見直し・修正が必要となるかも知れません。
主郭南西端:土塁側の虎口と其の礎石?

長英寺は天文17年(1548)当地にあった御所寺を山県政秀が再興したものと伝えられますので、背後の賀羅岳城も天文年間 (1532-55)頃の城主山県民部丞政秀により築かれたものとされます。竹長城からも尾根続きに賀羅岳城298mとの中間点に在る。弘治2年(1556)頃よりの若狭守護:武田信豊と子:義統の継嗣に関わる対立は家臣団をも二分にする内乱となり、 若狭武田氏被官の中でも重臣中の重臣逸見氏や粟屋氏は反義統の立場で信豊に付き山県氏は義統を支持します。
二郭の段曲輪群

永禄9年(1566)義統は今度は 後瀬山城主で子の元明と争い砕導山城 から拠点を高浜城を築い移った逸見昌経や粟屋氏等は元明に付き逸見氏は 水軍を編成して武田義統を攻撃するが山県秀政が指揮するは義統方の水軍が迎え撃つ久手崎沖の海戦に、逸見水軍はまたも敗退。翌10年に義統が死去し元明が継ぐが越前朝倉氏に拉致され一乗谷に軟禁(若狭守護としての武田氏滅亡)されると、粟屋・逸見等若狭衆の多くは上洛を果たした織田信長に通じます。
二郭から主郭南端土塁と石積み石材(土留め石か?)が残る切岸

「言継卿記」に記され元亀元年(1570)織田信長が越前朝倉攻めに、若狭に侵攻の際には山県氏も多くの若狭武田氏被官の国人衆と共に、丹羽長秀率いる信長方に参陣し、反織田勢力の 石山城武藤友を 攻め此の時は降伏しますが其の後も離反して 反織田方の新保山城武田信方・ 石山城武藤友益や粟屋右京亮等と共に同年10月には織田方の 山県孫三郎の籠るガラガラ城(賀羅岳城に比定されているが!?)を攻め落とします。
土塁囲み主郭北東角の腰曲輪が正面堀切に横矢を掛ける

天正元年 (1573)越前朝倉氏が滅亡し若狭武田氏も没落すると、織田領となった若狭国には丹羽長秀が入り、天正12年(1584)頃に賀羅岳城は廃城されたと思われます。 本保の良継寺墓地内最奥から猪鹿除けフエンスを開閉して出て尾根道を辿る。 急斜面のうえに倒木を避け丈長い羊歯類に埋もれて途切れる踏み跡を追い、城域の余り高くない切岸(1.5-2m程)を二段ばかり越えた尾根上には周囲を土塁で囲われた、沼池状の大きな窪地となった主郭 (幅約35X南北に約60m程)がある。
二ノ曲輪群南の”一文字土居”東端

広いが荒れた平坦地に水が溜り詳細探索不能!!?状態。 南西に井戸跡・三方を囲う土塁も北面は分厚く3m程と高い。大きな石材が露出・点在するが石積の痕跡か?。主郭北には外側の土塁から落ちる竪堀一本 ?と土塁沿いに延びる堀切(空堀)が城域を遮断しています。 空堀内のほぼ中央部に穴が有るが落し穴か?。 主郭南端に賀羅岳4等三角点(297m)石標が埋まり、主郭と副郭を区切る土塁となり・西面の土塁側に平入り虎口が有るが残石は石積等礎石の残欠か?。
主郭南端の土塁と虎口(右端・礎石残欠有り)

副郭(二ノ曲輪・幅20-25X南北30m程)は低い幾段の曲輪4-5段が並び、西端を緩斜面の帯状曲輪に揃えて並ぶ。緩斜面の南には賀羅岳城二ノ曲輪というより ・福井県の城郭遺構でも稀有?な「横一文字の延びる土塁”一文字土居”」がある。此処にも石塁を見るが、 土留め石列を埋め込み固めて補強されたものか?。その土居の西端に虎口が開くが、門跡とも呼ばれる様で、土塁や折れによる横矢掛等での防備は無いが、虎口を囲む”潜り門”の様な施設が有ったものか?。
二郭曲輪群南の一文字土居

一文字土居の南にも二段程の腰曲輪が続き、 其の下に土橋付き掘切が有って此処までが城域の様子。賀羅岳城は長英寺から辿ったのが搦手?、 土橋付き堀切・虎口のある南尾根が大手なので太良庄側から鞍部を狙うべきか!!、239mピークは賀羅岳山城跡、 ガラガラ城の出城・竹長城との繋ぎの城だったのかも。

(日本城郭体系 小浜市史・通史編 福井県史・通史編 2 中世 小浜の歴史(Web) wikipediaを参照)


加茂堡(加茂城・白井氏城)  xxx山 232m (4等三角点) 小浜市加茂区高森

小浜市宮川地区に入り宮川公民館前から竹長城・野木川を隔て新保山城へ、龍泉寺前から賀羅岳城(ガラガラ城)を訪城して、 良継寺に引返し宮川公民館まで戻ってきたが、 行動時間には少し余裕が有るので、最初に登った竹長城の尾根から望む真近の加茂堡 (加茂城)に向かう。 宮川谷の中央部に若狭武田守護 :武田信豊の弟・信高の新保山城を護衛する様に南入口部の西に竹長城・東を加茂堡(加茂城)・新保山城の真西には賀羅岳城・北には東谷城が在る。
加茂堡:長く延びる二ノ郭?の段曲輪

加茂堡へは県道 219号JAの側を右折して東へ、公民館と児童館の間から高齢者擁護施設へ細い車道を抜けても同じ道!!・野木川を渡って加茂区に向かう。地図には加茂神社からの林動が加茂堡の城域近くの北方尾根まで通じているが、一般車両利用可かどうかは知らない。加茂堡は下城と本城の上城が在る様なので、
帯曲輪と主郭切岸

市遺跡地図の範囲内にあって加茂堡(上城)に到る丘陵尾根南先端部 から取付く事は決めていた。取付き点の南西尾根先周辺には遺構の現状は知らないが5基の古墳が点在の高森古墳群。 集落内の丘陵西山麓には白井氏館跡(未訪)も在り、指定史跡の加茂古墳群が有ることも後で知った。
加茂堡:主郭内部段曲輪

城域範囲を下城・上城に区分されていないので、尾根先端部から三角点峰 (232m)山頂の主郭まで続く間にも中城 ・曲輪等の遺構が有るのかも?。幸い「高森地蔵堂前」バス停から山麓の地蔵堂と高森ふれあい会館への車道!!がある。 正解かと思った此のルートは尾根先端部に有る筈の下城へも ”のっけ”から藪漕ぎ、しかも荊棘木が多く雑じる為閉口・諦めて辿る細い尾根筋も同様で、左右の斜面への逃げ場も無く悪戦苦闘 ・もう諦め引返そうと何度も思った。
土塁が囲む加茂堡主郭

縄張図でもあれば頑張ってみる張合いも出るものですが!!?。 直線的ではないが一本の尾根上を目指す限りはコースを大きく外れることも無い筈だが!?。下城は諦めたが主郭(上城)に至るまでに在る土塁囲みの三ノ郭さえ気付かず通過?、二ノ郭の長い(約50m程)段曲輪(3段)を抜けて来て初めて加茂城(加茂堡)到着を実感!!。 藪っぽいが帯曲輪に入り、目前の主曲輪切岸(約2.5m程)上に、 4等三角点の石標をみて一先ず安堵する。
加茂堡:主郭土塁

主郭内三方は土塁に囲まれているが北東方に二段程の曲輪を積み、其の東面は堀切で城域を遮断しています。同じ尾根筋を引返す際 ・二ノ郭と思える3段程の平坦段を過ぎた南下方に、連続する三段曲輪や枯れた杉木で埋もれているが、 土塁を挟んで堀跡らしい?(炭焼窯や林業用とは思えない)深い溝を見て、
加茂堡主郭東面の堀切土塁

羊歯類が覆う尾根筋を下る。加茂堡(上城)に向かう時には気付かなかったが 下城からの尾根上に残る三ノ郭?か ・二ノ郭以外の遺構なのかも知れません?。いずれ地元の熱心な歴史家・城郭研究者によって、新保山城の武田氏・賀羅岳城の山県氏・加茂城(加茂堡)の白井氏について、城史や遺構について・より深く調査が進むことを期待したい。城郭遺構は加茂堡の下城と上城・新保山城にも尾根南先端付近 ・龍泉寺側に在るといい賀羅岳城(ガラガラ城)と竹長城を結ぶ尾根中央付近239mピークには賀羅岳山城が在ると云う。
加茂堡:北面の切岸?

何れも未訪となったが・当地再訪の機会には挑戦したいところです。加茂堡 (加茂城)の築城時期等は不詳ですが、白井氏もまた「永亨の乱<永亨12年(1440)>」に安芸国守護武田信栄が、一色氏に替わり若狭守護を兼ね・弟の武田信賢を若狭に入れた際賀羅岳城山県氏等多くの安芸国から随行して下向した被官人。 文安年間(1444-49)太良庄に半済権を与えられた被官山県下野守信政が文明17年(1485)頃には加茂庄の代官として白井氏が入り土着したと推察されます。
加茂堡主郭と二ノ郭間の尾根筋(位置?)

永正2年(1505)若狭守護:武田元信が丹後国に攻め入り翌年には若狭加茂庄の豪族 白井石見守清胤が武田勢として従軍し細川澄之・政賢らと宮津城や中山城を攻めて丹後国での軍功により 永正14年(1517)加佐郡水真(舞鶴市水間)に所領を与えられている。白井清胤は永正元年頃既に加茂庄に入部し、 加茂堡の築城も此の永正年中(1504-21)の事と推察されます。弘治2年(1556)頃よりの若狭守護:武田信豊と子:義統の対立が家臣団をも二分する内乱となり、
加茂堡:三ノ郭?の三段曲輪!!?

さらに永禄9年(1566)義統は今度は 後瀬山城主で子の元明と争いと、度重なる家臣団の叛乱に守護方の勢力は弱体化し、 新保山城主:武田信方の 年寄衆であった白井石見守清胤の子光胤と子の民部丞勝胤が、 信方が義統と対立すると、 若狭武田家に離叛し信方の元を離れ ・旧武田氏家臣団の若狭衆として織田信長方勢力に加わり、其の後は丹羽長秀配下の与力を務めたとされます。
三ノ郭か?倒木に埋もれているが土塁を挟んだ空堀状

永禄11年(1568)越前朝倉氏の若狭侵攻に守護元明が一乗谷に拉致され、 元亀元年(1570)織田信長の若狭に入り ・越前朝倉攻めが開始されると、新保山城の武田信方は朝倉義景に付くが、勝胤のあとを継いだ民部少輔(孫七郎)政胤は若狭衆:粟屋氏・逸見氏・武藤氏 ・内藤氏等と信長方に付き、丹羽長秀に仕え・更に秀吉に仕え・羽柴秀次の家臣に推挙されたが文禄4年(1595)の秀次の謀反事件に連座して失脚・没落したとされます。

(小浜市史・通史編 福井県史・通史編2中世 3近世  wikipediaを参照)
 本誌 丹波霧の里HOME 別冊 別冊丹波霧の里HOME
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