丹波の産業:特産其の一  1.丹波布 2. 稲畑土人形.

1・丹波布  青垣町西芦田 「道の駅あおがき」内の丹波布伝承館で実演や教室も・・

江戸時代末期に始まる丹波布は明治の末頃まで佐治木綿とか佐治紬 ・しまぬき佐治縞貫<縞緯>)と呼ばれ、 丹波市青垣町佐治を中心として農家によって盛んに織られ愛用されてきたが、佐治木綿も紡績糸が容易く使われるようになり、機械織機による大量生産に押され、その手技は急速に失われていき、 大正末期頃には途絶え「幻の布」と呼ばれるようになっていた。近くの畑からとれる綿を紡いで糸とし、榛(ハン)の木やヤマモモ(山揚)の木の皮・こぶな草 ・栗の実の皮・玉葱の皮や藍等・天然植物染料の草木で染めそれを手織する。原料から製品まで全ての行程を一貫した手作業が 一人で行なわれ、 どれをとってみても生きた暖かい手が作用しているのが丹波布の特徴で、 材料の糸の柔らかさ・控えめで物静かな色調・それでいてほのぼのとした素朴な温かさが伝わってくる。
丹波布展Vol.3 2015.5 柏原:旧西垣邸にて

大正末期:民芸運動の指導者で 六古窯の一丹波焼の紹介者でもある柳宗悦氏により京都の朝市で見出された 一片の布は「静かな渋い布」とも讃え 丹波布と名付けられた。丹波布の研究は柳氏から上村六郎 氏に継承され指導の下 足立康子さん(丹波布復興協会を結成し丹波布技術保存会長として技術の保存と伝承に尽くされた第一人者だったが2014年死去された)等によって昭和29年(1954)その第一号の織り上げられ再興した。 縦糸と横糸の織り成す美しい縞柄・格子柄。ところどころ白くひかる絹のつまみ。
足立康子邸「佐治宿の商家綿屋(屋号)」にて

それは単純である。単純だから想いめぐらす余地がある。その想いは粋からはみ出すことなく誰にでも理解できる共通性があり、そこに身近な親しみがある。 娘は12歳にもなると糸つむぎ・染め織、と親の手解きを身につけたらしい。国の重要無形文化財に選ばれ(昭和33年)地元に丹波布技術保存協会が設立され、会員がその技術向上と伝承に努力を重ねている。
=== 兵庫ふるさと散歩 等参考 ===

2・稲畑土人形    氷上町稲畑
 「伏見人形の流れを汲む土人形」で
《博多人形・伏見人形とならぶ日本三人形の一》

丹波市柏原町内を歩いていると「まちかどギャラリー」や町内の店のショーウインドウに素朴で 懐かしい土の薫りの伝統工芸品が飾られています。「饅頭食い」等:伏見人形に題材が多い赤井練人形は稲畑人形の名で知られるが兵庫県の土人形としては但馬:関宮町の葛畑と播磨 :上月町の早瀬土人形があったが稲畑以外は明治以降徐々に衰微し大正期には廃れた様です。丹波稲畑村の郷士である父の公務の手伝いの慰労にと京見物で伏見稲荷に詣でた少年は、 とある人形屋の店先にたたずみ 美しい伏見人形を見つめていた。
少年の名は赤井若太郎忠常:郷里 (丹波市氷上町稲畑)に産する赤井粘土と呼ばれる翠色粘土と結びあわせて考えていた。 この翠色粘土は元亀2年(1571)備前の陶工宗太郎がこの地で茶壷を製し宗太郎焼きと呼ばれて世に賞玩され一時は隆盛を極めたが惜しくも一代で絶えた。その赤井粘土で人形を作ったらと…神の啓示を受けたような気がして 父の許しを得て人形制作に取り掛かった。 弘化3年頃(1846)京都伏見から人形勝と云われた職人を呼び寄せ自らも寝食を忘れて懸命の努力を続けた、安政2年(1855)かくて数十種の原型は作られ心血を注いだ人形は見事に焼き上げられた。 今も卓越した若太郎の作品(赤井練人形)は稲畑人形と呼ばれ、隆盛期の文久?元治の頃(1861-65)農閑期の副業ともなっていたが、明治維新後は衰微し今では創始者の祖父若太郎さんの技術 ・伝統は赤井みさ代さんが継がれ、さらに君江さんへと受け継がれて制作されています。明治の頃には宮内省御用となり内親王のお買い上げもあり、近在では節句の祝い雛として用いられどの家にも 【天神さん】(練天神と素焼きの土天神がある)の雛が並んだ。「義経」「太閤」「巴御前」や小さなものまで加えると数百種類の型があるという。
=== 兵庫ふるさと散歩 等参考 ===
 本誌 丹波霧の里HOME 別冊 別冊丹波霧の里HOME

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