(男性編)

1.上田秋成 2.西山泊雲 3.小川芋銭 4.丹波佐吉 5. 難波金兵衛 6.小島省斎 7 近藤九一郎  8 大江礒吉 9.磯尾柏里
 
上田秋成        享保19年(1734)〜   年 (    )
 
江戸中期の国学者で歌人・茶人でもあった上田秋成は享保19年(1734)摂津曽根崎の生まれ、四才の時大阪堂島の油紙商・上田茂助満宣の養子となった。 その養父が氷上郡黒井の人で上田秋成も養父の故郷を訪れている。 


西山(亮三)泊雲     年(    )〜昭和20年(1945)

正岡子規の俳句に出会い、 俳誌「ホトトギス」を主宰する高浜虚子の門人で高弟となった丹波の俳人・西山(亮三)泊雲)は、丹波の地酒小鼓で知られた酒造家で、 親交を深め、幾度か泊雲の客人として丹波を訪れており”ここに美酒あり名付けて小鼓という”…銘酒”小鼓”の命名主でもある。 「丹波路も 草紅葉して時雨して」虚子

庭園で知られる 石像寺
本堂前の「四神相応(ししんそうおう)の庭」には青龍・朱雀・白虎・玄武の四神を表現する石が東西南北に配置されている。また 「霧海の庭」は、俳句五・七・五に因んだ十七石が配され”丹波の霧海”を表現したといわれ、泊雲・虚子父子・小川芋銭等の句碑が建てられています。 「酒の燗する火色なきつつじ哉」泊雲
 
小川芋銭  明治元年(1868)〜昭和13年(1938)

関東の画家小川芋銭(うせん)は高浜虚子の門人で 丹波の地酒小鼓で知られる酒造家・西山、大正7年10月に初めて丹波を訪れて以後も幾度か丹波路を歩いているようです。泊雲の客人として丹波に逗留し 泊雲の郷市島町・石像寺には 昭和47年重森三玲氏によって 本堂正面に築造された「四神相応の庭≪東の青竜(徳島県の青石 )・西の白虎 (同 白石)・南の朱雀(京都鞍馬の赤石)・北の玄武 (市島町内の黒石で亀を表す≫」と禅堂東には句碑の庭「霧海」があり 西山泊雲の師・高浜虚子や芋銭が大正15年院展に 丹波霧海を出品し「鹿鳴いて蘭若の秋の晴れに座す」と詠んだ句碑も建っている。
旧国鉄オレンジカード・コレクションから)

丹波霧を描いた丹波霧海は篠山〜母子間の美濃坂峠ということになっていますが、晩秋の朝、 福知山へ向い柏原から春日町へ入ってくれば霧の深さに、此処に逗留して石像寺からの霧海を素材にした作品かとも思われます。禅と画行を深め、その画室となった石像寺(庫裏の二階にあった!!)を拠点に自然界の動植物を題材にして、 擬人化した河童や鯉・イモリを描いた作品も有る。



丹波佐吉 文化13年(1816)〜xxx年(    )   (日本一)丹波の名工)
 
柏原町の名所・木の根橋から 朝霧のたちこめるなか、八幡宮への参道をのぼると社殿前に阿吽一対の狛犬像が目に止まります。文久元年(1861)5月新井村・上山孝之進、田口金治が狛犬を柏原八幡宮に献したとき、之を丹波佐吉(村上源照信)に命じて 造らせた佐吉46歳の時の作品(昭和53年10月18日 柏原町指定文化財)
柏原八幡神社・丹波佐吉の狛犬

その手法等は殆ど他に例を見ることが出来ない逸品です。本姓は日下・後に難波家を出て 村上照信を名乗った丹波佐吉は但馬国竹田(朝来市竹田町)の日下家に生まれ、幼くして弧児となっていたのを大新屋村(現:丹波市柏原町新井)の石工・難波伊助(金兵衛)が養子として家へ連れ帰ったのは 佐吉僅か5才の文政3年(1820)のこと。
柏原八幡神社・丹波佐吉の狛犬

天保8年(1837)金兵衛に男子 (金助:二代目金兵衛)が生まれると、養子:佐吉は"日本一の 名工になってやる…"と青雲の志に燃え、 ワタリの石工となって大和・淀・伏見・大阪と各地を廻り苦しい孤独の修行を続けます。 やがて名工・佐吉 (村上姓を名のっていた)の名は 遠く離れたふるさと丹波の地にも聞こえるようになったが、旧師:金兵衛の恩を忘れず、 おまえの郷里は何処だと問われる度に丹波大新屋と答えたといいます。 佐吉が始めて丹波に連れられたとき 読み書きを教えられたのは大新屋村の上山孝之進で、田口金治と共に柏原八幡へ狛犬を献じることになり、 その彫刻師として佐吉に依頼。
北山稲荷(柏原町)のキツネ像

今は天下の名工となった佐吉の喜びも大きく 一刻み一刻みにかけた心魂は半ば苔むした狛犬の今も変わら美しい曲線をたたえている。台石の彫刻文字 「奉献」は筑前福岡出身の女儒学者 ・亀井小栞が依頼を受け「丹波佐吉の刻なら喜んで筆をとろう」と揮毫したといいます。 晩年は精神異常をきたし大新屋でしばらく静養していたが、ある日飄然と家を出て再び帰ってくることはなかった。
大燈寺(青垣町)の聖観音像

酒と女の誘惑と激務との戦い・独身の佐吉が何処で世を去ったのかは一切不明・哀れをとどむ生涯ではありました。
(エピソード日本一)大阪で修行を続けているとき、石で尺八を作ろうという話が持ち上がったが、誰一人成功するものは無かった。しかしコツコツ築き上げた佐吉の腕で見事に成功・しかも妙なる音に驚かないものはなかった。 これが公家某・・の手で当時(嘉永-慶応)の帝:孝明天皇(在位!!?1848-68)に献じられ「これは日本一である」と賞賛されたといわれ、それより広く世に日本一の言葉が使われるようになったといいます。


難波金兵衛(2代目)  天保8年(1837)〜明治35年(1903)

父親の石工:難波金兵衛が文政5年 (1822)春、石戸山から出る良質の石を求め春日町野村から 柏原町大新屋に移ってから名工・金兵衛の名は広く近在に知れ渡り、嫡子の金助を二代目金兵衛に仕立てたいと力を入れ、 親の天分を受け継いだが金助の非凡の才も人々を驚かせていた。11才で2代目難波金兵衛(旭義継)を名乗り15才の頃には遠く播州からも名声を聞き彫刻を頼みにくる者も多かった。その頃丹波佐吉は大和長谷寺の観音を彫っていたが 途中病にかかり成功が危ぶまれた時、
初代:金兵衛の柏原町新町にある高燈籠

佐吉は金兵衛を推し・招かれた後を受け継いで仕上げた像は丹波佐吉を凌ぐかと思われる見事な出来栄えです。その後引き続き同寺の狛犬が前足で手まりを踏んでいる透かし彫りを手がけ殆んど竣工に近づいたとき金兵衛の腕を嫉んだ同業者に前祝いに事寄せて毒を盛られ四肢の 自由を失って、大作に心を残しながら郷里大新屋へ帰り一途に養生して再びノミが握れるようになり 益々円熟して名人の名を欲しいままにしていました。
柏原織田藩陣屋を向き、R176号線側に石段を設ける


作品には成松常楽の大崎神社・狛犬・粟鹿鎮守の五輪塔・高山寺の観音・南多田明願寺の薬師・朝坂の行者・神池寺の大師・但馬当勝の稲荷 ・京都北野神社の温石の牛・大和長谷寺の観音等があります。初代金兵衛の作品には 出身地野村に近い春日町棚原字前地の梅ヶ淵に天保2年(1831)11月・伊勢神宮の御燈明として、領民により寄進された石灯篭が 三尾山を望み建っています。笠の内側にも細かな彫刻を施されたもので、同じ様式の高灯篭が柏原町新町の 天満宮の西端にあって天保7年(1836)柏原下町の田村重三郎が発意し柏原織田藩領内民衆の寄進により、
初代金兵衛:春日町棚原・梅ヶ淵の高燈籠(遠く三尾山)

此れも伊勢神宮の内外両宮を遥拝・献灯するために建立され、 高さ5.3mと丹波市内でも最大の石造建造物です。四角神前型で点火に際しては藩邸に後向きにしないように南方から石段を上がるよう配慮されています。 石材は大阪泉南地方を産地とする和泉砂岩で、宝珠の先端や請花の反り・笠石の四隅の反り等、極めて鋭角的で火袋の隅柱の竿石のくびれも細く、請花の装飾も端正で全体的に精緻(綿密)に仕上げられています。
青垣町:養徳寺の延命地蔵・初代金兵衛作!!

此処は江戸時代「京口」と呼ばれていた旧柏原城下町 【氷上郡内を領した前期:織田信包(のぶかね)以降三代目信勝に継嗣がなく廃絶し95年間天領や諸藩の所領となっていたが後期:織田信休雄が国替で入ったが城を建てる許可は下りず・財源もない。
其れでもやっと許可を得て政庁として正徳4年(1714)柏原藩織田家陣屋:城で はないが武家屋敷群(屋敷)・商家等(新町)の町並みが整備され城下町風情は漂います。】の東関門の外側にあたり、 東方へは下小倉を抜け 鐘ヶ坂を越えれば篠山市へ、西方へはJR柏原駅も近いR176号線と平行して
青垣町:養徳寺の延命地蔵・初代金兵衛作

新町の住宅地を通って八幡神社下【此処には慶応4年(明治元年1868)西園寺公望が山陰道鎮撫総督 として福住(篠山市)の次に本陣を置いた西楽寺がある】へと旧山陰道(京街道)が通じる柏原町内のミニ歴史散歩コースを歩いてみませんか。安龍山養徳寺(青垣町沢野 曹洞宗:もと円通寺末寺で本尊:千手観音は 恵心<恵心僧都と尊称された平安時代中期の名僧か !!?>)作とされていた…が現在の養徳寺本尊は不詳。由緒等詳細は養徳寺の羅漢道 を参照して下さい。寺院への参道入口に祀られる地蔵尊像は天保7年(1836)に造立された初代難波金兵衛作とされる市指定文化財の延命地蔵。2代目金兵衛(義継)が彫った 鴨野の加茂神社狛犬像は浪速狛犬を代表するかのような猛・豪を表わす。氷上町常楽の大崎神社にも 同じ2代目金兵衛の此方は優・柔を表わす狛犬がある。僅か40cm程の小さな像だが其の優美・繊細で流れるような柔らか毛並みの線等は風が吹けば逆立ちそうなほど…比は大きな違いは何処から来るものなのか…?。
大崎神社(氷上町常楽)の狛犬:2代目金兵衛(義継銘がある)

子が母の足にジャレ甘えている素振を見ていると佐吉の弟子・ 綿貫重吉の何処と無く奇怪でユーモラスな狛犬(青垣町:高座神社)像を思い出した。 金兵衛2代目義継の加茂神社の猛・豪と、大崎神社の柔優な像からも、綿貫重吉の高座神社吽(雌)像の手と尾に刻まれる子像は母親に護られながら・子がはしゃぎジャレている様子だが、足下に絡みつく子供はまるで天邪鬼を踏みつけているように見える。
佐吉の弟子?:綿貫重吉の狛犬(青垣町・高座神社)

狛犬像に対して:佐吉の弟子にしては技巧・繊細よりも 大胆な!!ユニークさやダイナミックさが先行してしまう。さらに台座に刻まれる石工綿貫重吉の銘が大き過ぎるので 更に其の綿貫の弟子森田藤四郎(山南町・森田石材店初代)の作品なのかも知れないが…?。織田氏柏原藩陣屋前に建つ小島省斎の顕彰碑も難波金兵衛作:未確認だが2代目のものか?また鐘ヶ坂には明治・昭和・平成と珍しい 三代のトンネルが存在しますが、 昭和のトンネルも愈々車両通行が出来空くなりそうです。
野村の伊助:銘のある舟城神社(春日町)の狛犬:伊助は初代金兵衛だが、時代と作品は?

明治のトンネルも”櫻祭り”のイベントの際のみは解放され通行できますが、その初代のトンネル柏原側には三條實美筆の「鑿(さく=うがつの意)山化居」と 書かれた石造の扁額が掲げられており、文字を彫った石工は4代目難波金兵衛の作と云われます。なを春日・船城神社に「細工人 野村の伊助」銘の狛犬があるが、出身地野村から大新屋に移った初代金兵衛(伊助)の作品か!!?。 奉納の銘は安政4年(1857)とても50代を過ぎた熟練石匠:初代金兵衛が”伊助”銘で彫った作品とも思えないが?
(現地:新町高燈籠他 丹波市教育委員会案内板等参照)
 

小島省斎 丹波聖人  文化元年(1804)8月〜明治17年(1884)6月

小島省斎:青垣町民センターの西側を佐治川(現:加古川)が流れ其の西には旧但馬街道:丹波側最後の宿場町の面影を残す佐治の町並みが続く。道標が西脇・生野方面へ斜上しながら直進する道と、直角に東へ右折して遠阪峠(R472号)に向う石道標の立つ分岐の少し手前に 立正山妙法寺(法華宗真門流)が在る。
小島省斎菩提寺の妙法寺

承元3年(1209)佐治荘に地頭職を得て来住した全国足立姓の祖足立遠政 (山垣城主)が最初に居城とした 岩本城の下屋敷跡といわれ岩本城主 立権太兵衛基則の帰依を得て天文年間(1532-55)建立されたもので、 ご住職による足立一族に関する調査研究著書がある。妙法寺への緩やかな石段上に建つ重厚な鐘楼門を潜ると本堂(?講堂)の前。入口に「立正山」小島慎【小島省斎】書の扁額が掲げてある。境内の奥には白壁塀に囲まれた墓地が有り 「従四位省斎小島先生墓所」の碑が立ち、
省斎の墓所

御住職夫人に 案内を乞い小島家墓所内に進む。戒名:賢徳院貫道日英居士、家紋は我家と同じ:丸に九枚笹。幕末〜明治維新期の儒学者で柏原藩織田家4代の藩主(信貞・信敬・信民・信親)にわたり相談役として10代藩主:信親の頃の地位は 執政(家老)の上にあって藩政改革を推進し、尊皇佐幕が対立した藩論には勤王に統一し、大きな混乱もなく明治維新への道を示した小島省斎は此処:青垣町佐治中町に生まれ(幼名を友吉)名は駟、字は思之・伯輿と称し通称は四郎兵衛(後忠太)・省斎を号し、幕末から明治維新にかけて活躍し、窮乏に瀕する藩財政を建て直した柏原藩の重鎮。
小島慎(省斎)書の扁額

父は出稼ぎ行ったまま帰らず貧困の中で育つが、 幼い頃から学問好きの勉強家で文政9年(1826)23歳で結婚・母の世話を妻に任せ、京都の猪飼敬所に師事して折衷考証学(儒学)を学ぶ【後に朱子学を信奉する】が、母の病気で3年後には佐治に帰郷してひらいた塾が評判となり 新しく中野(中口?)某氏の別邸を借りて私塾竹西亭(青垣町役場の西方)を開設しています。イエスキリスト教団青垣協会と 石垣・回遊式庭池さえ残る邸宅跡から背後へ廻り、山腹に祀られる秋葉神社への石段参道が有る。
竹西亭

神社上部・比高約20m程には佐治城東郭が在り、児島(小島)伊豆守意種の 居城と云われるが省斎はその末裔とも云われます。柏原藩後期織田家5代信守が愛妾保野の騒動で就任2年で逼塞した後の6代藩主信古(のぶもと)の時には、省斎の評判を聞き家臣として取り立て ?7代藩主織田信貞の 信用も篤く弘化2年 (1845)省斎を柏原に招き・俸禄を与え隔月一回5日間・藩主と家臣と共に講義を受けるようになった。8代藩主信敬(のぶたか)の時には藩政の乱れ・増え続ける負債に藩政改革の急務を江戸の信敬 に上書(進言)し協力して質素倹約を主とする藩政改革に大きく寄与し藩の財政を刷新し、信敬は 失脚した5代信守から累積した借金の整理を行ない、織田中興の名君と称されますが 改革前に急遽(18歳で)逝かれます。
「崇徳門」扁額の 掛カナ具が残る柏原藩長屋門と書院

嘉永2年(1849)柏原藩最初の藩校「又新(ゆうしん)館」を開講し正式に柏原藩の儒者として中士 (藩主側近の武士!!?)として取立て柏原に住むよう頼むが母親が老齢の為に好意を辞退するが、その後も隔月一回5日間の講義を続けます。9代藩主:信民の時代となって母を亡くした省斎 は録百石を与えられ改めて柏原藩に招かれ信敬の後、信民の安政5年(1858)廃校となり藩主屋敷となっていた「又新館」に代わる 新しい藩校崇廣館の設立・藩を勤皇派に導いた人でもありました。明治の廃藩後廃校となった崇廣館は「崇広小学校」の校名として受け継がれ、 崇広門とも呼ばれ校門として使用されていた藩陣屋の長屋門には小島省斎が名付け・其の筆になる「崇徳門」の扁額が 掲げてありましたが掛けカナ具だけが残る(小学校か歴史資料館に保管されているのかな?)。

柏原藩陣屋・長屋門前に立つ小島省斎顕彰碑(石工は難波金兵衛2代目義継か?)

佐治に戻った小島省斎は青年時代からの友人で但馬聖人と呼ばれた池田草庵や、画家の富岡鉄斎とも親交をあたため、晩年は山水画を描き・漢詩・和歌を楽しみながら 余生を送り明治17年(1884)6月6日79歳で没したが死の床でも本を離さなかったと云われます。
小島省斎顕彰碑は当初:旧宅が在った東市庭(柏原八幡神社下の現:柏原観光案内所前)に立てられていもので、 明治19年(1886)6月:柏原藩最後の10代目城主で明治2年の藩籍奉還後新政府の官吏となり東京に移った従五位子爵:織田信親、石工:大新屋の難波金兵衛(4代目?)の銘が記された小島省斎顕彰碑が柏原藩陣屋の長屋門向かいに立つ。
 

柏原町立大手会館と近藤九一郎
近藤九一郎   明治元(1868年1月8日)〜昭和11(1936年3月5日 69歳)

柏原町立大手会館は柏原藩陣屋北隣り、柏原町総合庁舎・丹波県民局との間に建つレトロな洋館だが、散策で訪れた観光者には陣屋の 表御殿と長屋門に目が向き、カイズカイブキ等の植樹の影ともなって余り目立たない存在です。
大手会館正面(2015.1改修中)

竣工は明治18年(1885)で氷上郡各町村組合立高等小学校の校舎として建築されました。 その後氷上第一高等小学校、明治30年:郡立柏原病院・明治36年には柏原町立女学校となり 明治41年(1908)郡立柏原高等女学校には初代校長に近藤九市郎が就任します。昭和23年(1948)に施行された 学制改革により県立柏原中学校を統合し、柏原高等女学校が兵庫県立柏原高等学校に統合されるまで、現:大手会館は丹波地域の女子教育の中心となりました。
木造二階建ての大手会館

柏原高等女学校は細見綾子 (青垣町出身)をはじめとして多くの才媛を育てますが、柏原高等学校に合併されてからは同校の同窓会館(柏陵会館)ともなっていた。近代教育施設としては県内最古級の校舎は、明治中期の貴重な近代洋風建造物としても外観は 疑似風建築手法が保存されており、歴史的建築の価値からも柏原町文化財(昭和41年11月3日)指定 ・平成21年(2009)県重要文化財の指定を受けています。昭和44年からは郡教育委員会事務所に、昭和56年(1981)には女性や高齢者の生涯学習施設として改造され大手会館と改名されるまで、数々の変遷を重ねてきた洋館建築です。 ”柏原藩織田まつり”の武者行列に大阪城鉄砲隊が参加の際には山城オフ仲間の知人がいて休憩所ともなっていた一階や、
大手会館正面

手話サークルの会等で使用されていた2階西側の部屋を覗いた事もある。 改装されているらしい 部屋内部に比べれば、通用口らしい南側から入る下駄箱や幅の狭い階段の手摺りが印象深い。小学生の頃のノスタルジアを感じてのものかも知らないが…。明治のレトロを感じる洋風建築部分は外観の壁に白色系のオイルペンキが塗られた下見板、 正面玄関上部のバルコニーと其れを支える6本の円柱や、玄関扉上にはステンドグラスを配した半円形の飾り窓等に、明治中期の洋風建築の成熟ぶりが感じられるといいます。 上記のように 過去の変遷もそうですが、現在も老人の家・婦人の家・兵庫県弁護士会・丹波市福祉協議会・シルバー人材センター等、やたら肩書きの多い人気?の建物でもあります。
大手会館正面玄関内部

此の大手会館正面南側の 大きな自然石の面に埋め込まれた近藤九市郎の胸像(大正15年11月7日の建立)がある。近藤九市郎は丹州何鹿郡(綾部市)上林村の福井家に生まれ19歳の時:旧綾部藩士近藤家の養子となった。 明治15年京都師範学校に入り 明治22年卒業し綾部小学校教員となる。その後明治24年綾部高等小学校長・明治30年文部省に出向して東京高等師範学校教員となり、 同校研究科に入学・明治34年に卒業後:柏原町の要望により崇廣小学校の 校長に就任するが、 かたわら女子教育に関しては設備不充分と、柏原町に女学校の設立を求め明治35年5月柏原町立崇廣尋常高等小学校内に高等小学女子補習科を設置、
大手会館に建つ近藤九市郎氏の胸像

翌・明治36年 4月町立柏原女学校【明治41年郡立・大正11年には県立柏原高等女学校】の初代校長に就任し大正15年4月まで女学校校長を務め、退職後は「丹波史談会」【<現在は京都丹波の丹波史談会 (機関誌・丹波)と兵庫丹波の丹波史懇話会(機関誌・丹波史)>に別れているが】」を作り氷上郡史の編纂等にも尽力された。
(現地 大手会館・丹波市教育委員会 H16.11の案内板・文化財散歩<柏原町文化協会>…を参照)


大江磯吉  慶応4年(1868)5月〜明治35年(1902)9月

大江礒吉:木の根橋側の柏原観光案内所に遺跡の案内説明板等は無いが小島省斎の旧宅に在った柏原藩儒の塾跡を明治になってから 現在地に移された!!)であり、 島崎藤村「破戒」の主人公:瀬川丑松のモデルで知られる大江礒吉〈幼年期は磯吉>(現:柏原高校第二代目校長)や同:音楽教諭として赴任してきた犬童球渓の下宿先でもありました。三者が居宅した現:観光案内所ですが唱歌「旅愁」が当時の学生の音楽授業ボイコットにより、 惨めな思いで赴任した先で構想を得たとされる歌詞からは、余り知られたくない部分が有っての事でしょうか?。
木の根橋の側に建つ柏原観光案内所

礒吉は長野県下伊那郡(現:飯田市)に生まれ被差別部落出身の近代教育の魁となった人。【師範学校入学頃・両親の離別や 父の死により小平家の養子となり小平礒吉と改名】明治19年(1886)長野県師範学校を卒業し、諏訪郡平野小学校に赴任するが同僚教師等の被差別部落出身を理由の排訴に教壇に立つことなく辞職を余儀なくされたが、 翌1887年県当局により母校:長野県尋常師範学校付属小学校の訓導に赴任。1888年には知事の推薦を得て高等師範学校(東京教育大学の前身)文学科に入学。1891年:卒業後再び任用された県尋常師範学校でも排訴。1893年:転任した大阪府尋常師範学校でも 同僚教師等が長野に赴き出自を調査する等の妬みや出身による 中傷:さらに苛烈な差別や迫害を受け、1985年:鳥取県尋常師範学校では自ら”出自”を明らかにしたとされます。
柏原八幡神社本殿と・丹波佐吉の狛犬

明治34年(1901)兵庫県知事服部一三の招きで氷上郡柏原中学校第2代校長に任命され、中学校を郡立から県立に移管させ ・授業料も半額に引き下げさせた。生徒の自主性・自律心 <個性を尊重する>を大切にする教育を実践し、校風を刷新するため校訓・校章・校旗を制定した。上級生が下級生に対する「鉄拳制裁」の 禁止を徹底させたが、大江校長に反発する上級生らが 卒業式に際し「声明書」を掲示する騒動もあった。その年(1902)の6月母の看護に帰省するが腸チフスに感染し9月6日享年34歳で死去した。
(丹波人物誌・ふる里の寺・由緒を訪ねて(丹波新聞)・柏原伝 「こころの半世紀」?(柏原文華社!!)・Wikipediaを参照)


磯尾柏里(初代:健治)  明治23年(1890)5月5日〜昭和44年(1969)3月27日 石工から木彫へ(丹波の名工は創造の芸術家に・・)
 
丹波柏原には日本を代表する名工がいる。 名工とか匠と呼ぶにも失言なのかも!!?。創造の彫刻芸術家:石工として「日本一」の語源となった 丹波佐吉、その師難波金兵衛や共に腕を磨くライバル(好敵手)となった二代目金兵衛、 木彫り中井権次も代々宮大工として丹波・但馬・播磨諸々の寺社建築彫刻に多くの 作品を遺し重文指定されているものも多い。柏原八幡神社は昔より三丹一(丹波・但馬・丹後)の 厄除大祭で知られ2月17〜18日両日は参詣人で賑わう。鳥居を潜る正面の本殿前に対の狛犬が立ち、台座には「石匠照信」と刻まれる丹波佐吉(村上源照信)の作品です。
田ステ女像:田ステ女記念館所蔵


朱色に染まる三重塔へ向う西(左手)側へ廻ると摂社ながら 大祭の主役・厄除神社が建ち、 此処にも少し小振りながら・鬣荒ぶぬ狛犬が立ち、台座には小さく「柏里」の文字。木彫りでは常勝寺の「鬼こそ」面・柏原町歴史資料館内に 併設の田ステ女記念館には彩色された木彫 りのステ女像等が展示されています。磯尾柏里氏(初代)は14歳のとき大新屋の親方に大工修行として弟子入り、初仕事が上山家【代官屋敷で丹波佐吉が幼少のとき・読み書きを教わった】で、 佐吉の(名工として名を成したが晩年・大新屋に静養の為に戻って?いた頃!!?の作品か )不動尊像や
柏原八幡神:丹波佐吉の狛犬

キツネ像等作品に出会った感動が後:僅かに石造彫刻として柏原八幡神社の狛犬と、柏原藩織田家陣屋前(現:町歴史民俗資料館の 傍に移転)の「田ステ女」像の石造像に残されている様です。大新屋の新井神社:茅葺社殿には中井権次の 「木彫りの猿」があるが、磯尾少年は此の木彫り像にも感銘を受けたと思われます。大工職人から明治の末には大阪の鉄工所に就職…一時は大工を志し夜間関西商工学校建築科に学ぶが、適業ではないと 彫刻界に転向・苦心惨憺独習の末40歳を過ぎてから彫刻家となられた。
柏原八幡神:・丹波佐吉の狛犬

芸術家としての感性は 丹波佐吉・難波金兵衛・中井権次等同郷の師の作品に接て、培われたものか、塑像や象牙彫刻の流行るなか・ノミ一筋に木彫りの 創作活動に情熱を注いでこられ、 大正末以後・展覧会出品作品の入賞が相次いだ。日彫塑会員・日本都市美会員で、兵庫県文化賞も受けられています。二代目磯尾柏里氏(xxx)も日展に幾度も入選・活躍されており、三代目柏里氏(xxx)も日展に特選・ また日展の委嘱作家となられています。
(文化財散歩<昭和45年・柏原町> 田艇吉寿像再建記念<昭和43年・編集:松井孝禎>内 柏里先生寸描の記事の K・Mは松井挙堂氏(郷土史家)だろうか? 挙堂氏もまた県文化賞を受賞されている)…を参考)
本誌 丹波霧の里HOME 別冊別冊丹波霧の里HOME

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