(女性編)
              1. 田ステ女 2. 深尾須磨子 3.細見綾子4. 春日局

田ステ女(貞閑禅尼)   寛永10年(1633)~:元禄11年(1698)8月10日

田ステ(俳人:田ステ女)の出生を寛永11年とされるがリンクしているサンキン(旧:三和金属工業〈株>創業者:田季晴氏・丹波地方の産業発展に貢献された田艇吉氏もまた田忠助を先祖とする田家直系)が創業30周年記念(1977年)発行の「貞閑禅尼(著者:藤本槌重)」には夫君の死に発願し出家後から入寂迄の貞閑禅尼自筆に書簡等・資料により生涯を詳細な年表やレポートで纏められている。出生に一年の差異がありますが寛永10年(1633)生まれとして再整理しておきます。  
文化財散歩<昭和45年>編者林利三郎(神戸新聞丹波総局長)表紙絵のステ女

僅か6歳にして「雪の朝 二の字二の字の下駄のあと」の句を読んだ捨女は明治の俳人・正岡子規があげた元禄四俳女の一人で加賀の千代と並び天下の才媛と謳歌された丹波が生んだ女流俳人で寛永10年(1633)柏原本町の庄屋田助右衛門季繁【前期織田家3代藩主織田上野介信勝に仕え代官を務めた人徳の人】の長女として生まれたが三歳の時に母妙善(38歳)と死別・父に愛され育ち「こんな英才を他家に嫁にやるのは惜しいことだ」と19歳の時、父の後妻の連れ子:又左衛門季成を婿養子として結婚。
織田藩陣屋にある磯尾柏里(初代)のステ女像 (現在は歴史資料館側に移転)
木彫像は「田ステ女記念館」に所蔵 

和歌俳句を好む夫と共にこの道にたゆまぬ蛍雪を重ね 貞門派の北村季吟・湖春父子や宮川正由等に師事して句や歌を学んだ。代官であった夫は風流を好み夫婦の愛情も細やかであったが42歳のとき延宝2年(1674)季成が五男一女を残して死去。「花は世の ためしに咲くやひと盛り」 「草よ木よ汝に示す 今朝の露」女手一つで家業と育児に務め、季成の七回忌を済ませた翌年46歳のとき五男一女も独立したので仏門に帰依する事を決意、京に庵を結んで妙融を号し仏道と歌句の修練に勤めて3年の後:貞享3年(1686)盤珪永琢禅師に帰依して播州網干の天徳山龍門寺に移り住み、寺のかたわらに不徹庵を創建し名を貞閑と改めた。
ステ女公園の歌碑・句碑

俳名はいよいよ高まり貞門派(松永貞徳を祖とする流派で門下に伊丹の上島鬼貫・伊賀の松尾芭蕉等がいる)女6俳仙の随一と称され元禄四俳女の一人といわれ弟子も多かった。田家は元禄8年(1695)大和宇陀より後期織田家初代織田信休が柏原に移封されるとステの兄:田治右衛門季聴は屋敷を仮御殿に提供し下小倉の大部谷に移る(田艇吉氏の出生地も此処にある)。元禄11年(1698)不徹庵で66歳の生涯を終え、本山の妙心寺から嶺雲貞閑禅師の位号を贈られ墓は龍門寺にある。
ステ女生誕地

慶安3年(1650)18歳の時:柏原藩主織田信勝(同年28歳で死去・継子なく藩は改易)はその才能を讃え「かやはらに をしや捨ておく露の玉」と詠んでいます。其れに対する謙遜した返句を柏原本町・西楽寺の境内に俳聖を偲ぶ句碑「栗の穂や 身は数ならぬ女郎花」に見ます。崇広小学校の柏原藩陣屋跡の長屋門(崇広門)玄関を入ると柏原の彫刻家で県文化賞を受賞した初代磯尾柏里(1890-69)作の捨女6歳のときの「雪の朝・・・」句碑と石像が建てられています。
ステ女公園・千日寺跡

千日寺跡のステ女公園と高谷忠魂殿
入船山(柏原八幡神社)の西山麓を北方、郵便局~176号に出る柏原町柏原の高谷地区内の道を辿り田ステ女公園の千日寺跡に寄る。千日寺は延宝2年(1674)ステ女42歳のとき 夫:田季成が51歳で亡くなり千日のあいだ其の菩提を弔うため此処・高谷の地に庵を建て回向しました。その姿が人々の心を打ち其の後・日数に因んで庵は「千日寺」と呼ばれるようになったと云う。千日寺は明治初年の廃寺となり、そこに在った石地蔵・石燈籠・手水鉢やステ女の百回忌に建てられた句碑は西楽寺に預けられていたが、それらは旧千日寺跡に戻され 新しく句碑や歌碑も加えられ「ステ女公園」として甦っています。
忠魂殿への参道から望む八幡山城
 
旧千日寺跡背後・急斜面に続く石段参道の丘陵上に祀られる 高谷忠魂殿が気になる処です。此処から続く東500m程の低丘陵には入船山(柏原八幡)の三重塔が見えています。天正期の明智光秀の「黒井城攻め」の本陣となった八幡山城(加伊原新城)があった。僅か比高10数mの丘ですが西~北方にかけては独立丘陵の小南山が遮っているが柏原川沿いに柏原や氷上盆地の眺望は 此処の方が格段眺望が優れています。
ステ女公園上の高谷公園

圧倒的有利に展開する明智光秀「丹波攻め」の中にあって臨時の本陣ではあっても八幡山城の堀切・空掘のスケールからは直近というより其の城域の一部に含まれていると思われる此処が物見・連絡の出曲輪・砦か、また明智軍の駐屯地であったとも思える。ステ女公園のある千日寺跡の背後から 高谷公園へと急斜面の石段参道が続き、斜面沿いの横に数段の曲輪が続く。参道中程に有る石鳥居付近や最上部社殿前の平坦地や其の周囲の切岸状?や尾根続きの堀切・広い曲輪?の竹薮が城砦遺構〈思い過し?>と思えてくる。
高谷公園:忠魂殿から西 (正面に小南山)

此の高谷忠魂殿は明治38年(1905)八幡神社の宮司:千種宇佐美氏が八幡神社に安置されていた西南戦役と日清日露の戦没者の霊を祀る為に祠を建てたのが始まりで大正6年(1917)在郷軍人会により拡張改築されたもので昭和30年には太平洋戦争による多くの戦没者をも合祀され冥福と恒久平和を祈念し併せて其の遺徳顕彰が続けられています。
高谷公園:忠魂殿から南
 
祭祀の為の祠の削平に石積みの無い斜面に段差があること植林・畑地とも思えない段差・比高僅かで柏原市街地を一望出来る位置にあり八幡山城へは殆ど水平道を伝って数分で行き着ける。
(現地・千日寺跡の由来・高谷忠魂殿の由来 貞閑禅尼:藤本槌重 を参照)
田艇吉・健次郎兄弟はステ女の嫡男:長左衛門季厚の後孫・・・


深尾須磨子 【丹波の自然が育んだ女流詩人】明治21年(1888)11月18日~昭和49年(1974)3月31日

望郷 「山があれば川がある故郷よ 山に狐 川にゴンロク 今も居るか故郷よ・・・」【ゴンロク(権六)はハゼ科の 淡水魚ドンコとかガンツ、ヌスンコ様々な呼び名がある】下三井庄地区の岡田好一さんが 手弁当で作られた公園「須磨子の里」では小さな池にゴンロクやメダカが泳ぐ。蔵書・遺稿等数千点が日本近代文学館に寄贈され須磨子文庫 が開設されています。
春日町公民館の歌碑

明治21年(1888)春日町下三井庄の元武家の荻野家に七人兄弟の末娘(幼名:志げ乃)として生まれた。京都師範学校入学、深紅のはかまで通学 ・情熱的な短歌を詠むなぞ派手な行動で一時放校処分を受けたことも!。昭和16年(1941)全日本女性詩人協会を結成。大正10年(1921)夫の死別と与謝野晶子との出会いを契機に 詩人として出発、ヨーロッパ遊学も再三におよび国内外にその名高く数々の業績を残して1974年85歳で死去。与謝野晶子とは夫と死別した同年大正10年(1921)の出会い以後、晶子を生涯の師と仰ぎ、母とも慕って大きな感銘を受けることとなる。師弟関係にあった二人の歌碑が春日町公民館にあります。「わたしは山また山の小さな村里、丹波の片田舎に生まれ、故郷の色々が自分の血となり肉になり魂となりました。
生家近く 須磨子の里の記念公園

故郷のことをいえば涙がこぼれるほど懐かしいのです…。春日町公民館の歌碑【摘んだのは 明星派(1924年詠 )】…摘んだのは 野いばらの実の二つ三つ 果の見える 細いみち 摘んだのは なんばんぎせる(思い草)の二つ三つ
◆♫ 高木東六作曲の記念アルバムには深尾須磨子作詞の「あまんじゃくの歌(美空ひばり)」や「二人のワルツ(越路吹雪)」が収録されている。 校歌の作詞にも:山を謳ったものだけを蒐集した〈著作権ノ関わりから山名の引用のみ〉校歌・故郷の山からの検索でも何件かはピックアップできる。 県立氷上高等学校(兵庫県丹波市春日町) Ⅱ♪xx…保月城 空ゆく雲よ…xxx♪
  /機山工業高校(甲府市)  Ⅰ♪xxx…続く山なみ 千古の雪を湛える…xxx♪
  /北中学校(甲府市) Ⅰ♪白根連山 駒ヶ岳 山なみ遠く また近くxxx…♪ 
  /北東学校(甲府市) Ⅲ♪山は夢見よ竜華の峰よxxx…♪
  /小川高等学校(埼玉県比企郡) Ⅰ♪xxx…青雲もゆる 秩父嶺や…xxx♪
  /明和高等学校(名古屋市) Ⅰ♪山並みも遥かな尾張の平野…xxx♪  
  /横浜国立大学教育人間科学部附属鎌倉中学校 Ⅰ♪山のすがた 鎌倉の…xxx♪】


 
細見綾子 明治40年(1907)~平成9年(1997)
 
来てみれば ほほけらして猫柳青垣町芦田小学校を卒業・柏原高等女学校を経て昭和2年日本女子大学を卒業。肋膜炎(昭和4年)の闘病生活で佐治町の医師・田村菁斎の勧めにより、その年松瀬青々主宰の「倦鳥」に投句し初入選したのが上記の句。澤木欣一(俳人)らが丹波を訪れた際は箕面の滝を案内したり、上京のときは浅草寺を案内されたりしていた。欣一が出征の折は見送り、復員の帰途には丹波に寄る。
生誕地・東芦田高座神社「でで虫が 桑で吹かるる秋の風」<昭和7年 >
 
昭和22年欣一と結婚して東京に移る。概念にとらわれない、しかも的確な対象把握により独自の俳句世界を拓いた。句集に「桃は八重」「冬薔薇」「雉子」「技藝天」「曼荼羅」「俳句の表情」等随筆集に「花の色」「私の歳時記」等があり私の歳時記ではNHK等ラジオで放送される。 「普段着で ふだんの心 桃の花」母の手織りの佐治木綿(丹波布)を愛用していた。 平成9年9月埼玉県日高市の旭が丘病院にて永眠:年譜等詳細は「俳句」平成9年11月号(角川書店)山田春生編 参照
母校:柏原高等女学校(大手会館)の句碑
「雉子鳴けり 少年の朝 少女の朝」

句碑:母校・柏原高等女学校跡地に 「雉子鳴れり 少年少女の朝」:高座神社「でで虫が 桑で吹かるる秋の風」:三重・伊賀上野 芭蕉公園:「早稲刈に そばへが通り虹が出し」…他丹波市青垣町芦田小学校の校歌作詞 ♪春は霞の青垣山 夢を育てて豊かなる 秋は黄金の稲の波…♪「花の色」から 私達を取り巻いている青垣なす山々、いい山々ですね この山に春が来れば霞がかかります。皆さんはこの山々に霞がかかるごとく夢をもって欲しいですね…細見綾子

 
春日局 天正7年(1579)~寛永20年(1643)
 
春日町黒井の興禅寺は徳川三代将軍・家光公の乳母となり 沈着にして才たけた賢婦(春日局)生誕の地?。天正7年黒井城主・赤井直政を討った明智勢の中に 光秀の縁故につながる斎藤内蔵介利三も名将として参戦しその功を讃えて春日庄・一万石を与えてこの地を統べさせ、滋賀・坂本城に居た妻のお安と子供達を黒井の 興禅寺に陣屋を定めて呼び寄せた。この年(天正7年)年の瀬も押し迫った頃、呱々の声をあげたのがお福(後の春日局)です。 興禅寺には指月殿(経蔵)の裏手に深さ約1.7mの「お福の産湯井戸」が在り、清らかな水を湛えています。また本堂右手に在る平らな大石は「お福の腰掛石」で幼少の頃、腰掛けて遊んだ石と伝えられています。

お福は3才の冬頃までこの地で育ち天正10年(1582)春には丹波亀山の城(亀岡市)に居たが父・利三は光秀に従って本能寺の変(京都市)で山崎の合戦に敗れ、亡骸のままで京都で磔(はりつけ)にかかり、その悲惨な姿を目の前に見ています。
 
何処へ行っても人に好かれ賢い娘だと慕われるお福は秀吉の武将・稲葉正成に嫁ぐ。将軍家に秀忠の第一子・竹千代君が生まれ乳母を求めていたとき、お福に決まり春日局の第一歩を踏み出すことになる。秀吉の夫人が将軍職を次男・国千代にと竹千代から奪おうとした時、 密かに此れを知った春日局が伊勢参営を名目に駿河の家康に訴え、家康に謁見する竹千代の手をとり上座に進める国千代は下座へ・・・
 
辞世の句「西に入る 月をいざなひ法をえて けふぞ火宅をのがれけるかな」65歳の生涯を閉じる
 年表等は春日町のHPに詳しい
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