(女性編) 1. 田ステ女 2.深尾須磨子 3.細見綾子 4.春日局 田ステ女 寛永11年(1634)〜:元禄11年(1698) 「雪の朝 二の字二の字の下駄のあと 」今も人の口にのぼるこの句を僅か6歳で読んだ捨女は、 明治の俳人・正岡子規があげた元禄四俳女の一人で、加賀の千代と並び天下の才媛と謳歌された丹波が生んだ女流俳人で、寛永11年(1634)柏原本町の町頭・田助右衛門季繁 (スエシゲ){藩主・織田上野介に仕え民事をつかさどる人徳の人でした}の長女として生まれたが、 母が(38歳)若くして死に父に愛され育ち「こんな英才を他家に嫁にやるのは惜しいことだ」と18歳の時、他家へ嫁がず父の後妻の連れ子季成(スエナリ)と結婚。織田藩陣屋にあるステ女の像ステ女公園の歌碑・句碑 和歌俳句を好む夫と共にこの道にたゆまぬ蛍雪を重ね、結婚後は北村季吟・湖春や宮川正由等に師事して句や歌を学んだ。夫は風流を好み、 夫婦の愛情も細やかであったが、延宝2年(1674)41歳のとき夫は五男一女を残して死去。 「花は世の ためしに咲くやひと盛り」 「草よ木よ汝に示す 今朝の露」家業と育児に 女手一つで務め子女が成長し手が掛からなくなった亡夫 ・季成の七回忌を済ませた翌年46歳で仏門に入り上京して名を妙融と号し京都で庵を結び仏道と歌句の修練に勤めて3年の後、 盤珪永琢禅師に帰依して播州網干の天徳山龍門寺に移り住み、寺のかたわらに不徹庵を建て名を貞閑と改めた。俳名はいよいよ高まり貞門(松永貞徳を祖とする流派)の女6俳仙の随一と称され 元禄四俳女の一人といわれ弟子も多かった。元禄11年(1698)不徹庵で65歳の生涯を終え、墓は龍門寺にあります。ステ女生誕地 彼女が17歳の時その才能を讃えて領主・織田信勝は「かやはらに をしや捨ておく 露の玉」と詠んでいます。其れに対する謙遜した返句を柏原本町 ・西楽寺の境内に俳聖を偲ぶ句碑「栗の穂や 身は数 ならぬ女郎花」に見ます。崇広小学校の柏原藩陣屋跡の長屋門(崇広門)玄関を入ると、柏原の彫刻家で県文化賞を受賞した初代磯尾柏里 (1890-69)作の捨女6歳のときの「雪の朝・・・」句碑と石像が建てられています。千日寺跡のステ女公園と高谷忠魂殿入船山(柏原八幡神社)の西山麓を北方に進み、 道なりに郵便局〜176号に出る柏原町柏原の高谷地区内の道を辿って 田ステ女公園のある千日寺跡に寄ってみます。 千日寺は延宝2年(1674)ステ女41歳のとき、夫:田季成が51歳で亡くなり、千日のあいだ其の菩提を弔うため此処・高谷の地に庵を建て回向しました。その姿が人々の心を打ち其の後・日数に因んで庵は「千日寺 」と呼ばれるようになったと云われます。ステ女公園・千日寺跡その7回忌を済ませ五男一女も独立したので、 仏門に帰依する事を決意、 京に庵を結んで妙融と号し仏道と歌句にも勤しみます。 其の後:貞閑と号し播州網干で生涯を閉じるまでは上記を参照ください。千日寺は明治初年の廃寺となり、そこに在った石地蔵・石燈籠・手水鉢やステ女の百回忌に建てられた句碑は西楽寺に預けられていましたが、 それらは旧千日寺跡に戻され新しく句碑や歌碑も加えられ 「ステ女公園」として甦っています。 忠魂殿への参道から望む八幡山城 私にはこの旧千日寺跡背後に20m程の旧斜面に続く石段の参道上部の祀られる高谷忠魂殿が気になる処です。直ぐ東300m程には此処から低丘陵が繋がる入船山 (柏原八幡)の三重塔が、下左の写真では右端部の赤い民家の屋根上に見えています。此処に天正期の明智光秀・丹波攻略で 「黒井城攻め」の本陣となった八幡山城(加伊原新城)が有りましたが、僅か比高 10数mの丘ですが西〜北方にか けては独立丘陵の小南山が遮っていますが、柏原川沿いに柏原や氷上盆地の眺望はステ女公園上の高谷公園 此処の方が格段眺望が優れています。圧倒的有利に展開する明智光秀の「丹波攻め」の中に在って、臨時の本陣ではあっても八幡山城の堀切・空掘のスケールからは、直近というより、其の城域の一部に含まれていると思われる、此処には物見・連絡の出曲輪・砦が在っても当然か ? また大軍の駐屯地であったとしても当然かも!?ステ女公園のある千日寺跡の背後から高谷公園へと急斜面の石段参道が続き、斜面沿いの横に数段の曲輪が続く。高谷公園:忠魂殿から西(正面に小南山) 参道中程に有る石鳥居付近や最上部社殿前の平坦地や其の周囲の切岸風!、 尾根側も堀切や広い曲輪を思わせる竹薮が在って、思い過しとも思えず・どうにも城砦遺構と考えたい所です。 此処・高谷忠魂殿は明治38年(19059八幡神社の宮司:千種宇佐美氏が八幡神社に安置されていた西南戦役と日清日露の戦没者の霊を祀る為に祠を建てたのが始まりで大正6年(1917)在郷軍人会により拡張改築されたもので、 高谷公園:忠魂殿から南 昭和30年には太平洋戦争による多くの戦没者をも合祀され、 冥福と恒久平和を祈念し併せて其の遺徳顕彰が続けられています(^^ゞ祭祀の為の祠の削平に石積みの無い斜面に段差があること、植林・畑地とも思えない段差・比高僅かで柏原市街地を一望出来る位置に有り、 八幡山城へは殆ど水平道を伝って数分で行き着ける。皆さんはどの様に思われますか?(現地・千日寺跡の由来・高谷忠魂殿の由来 参照) 深尾須磨子 【丹波の自然が育んだ詩人】明治21年(1888)〜昭和48年(1974) 望郷 「山があれば川がある故郷よ 山に狐 川にゴンロク 今も居るか故郷よ・・・」 《 ゴンロク(権六)はハゼ科の淡水魚ドンコとかガンツ、ヌスンコ様々な呼び名がある 》下三井庄地区の岡田好一さんが手弁当で作られた公園「須磨子の里」では小さな池にゴンロクやメダカが泳ぐ。蔵書・遺稿等数千点が日本近代文学館に寄贈され、須磨子文庫 が開設されています。 明治21年(1888)春日町下三井庄の元武家の荻野家に七人兄弟の末娘として生まれた。京都師範学校入学、 深紅のはかまで通学、情熱的な短歌を詠むなぞ派手な行動で一時放校処分を受けたことも! 1941年全日本女性詩人協会を結成。大正10年(1921)夫の死別と与謝野晶子との出会いを契機に詩人として出発、 ヨーロッパ遊学も再三に及び国内外にその名高く数々の業績を残して1974年85歳で死去。 春日町公民館の歌碑与謝野晶子とは夫と死別した同年、大正10年(1921)の出会い以後、晶子を生涯の師と仰ぎ、母とも慕って大きな感銘を受けることとなる。師弟関係にあった二人の歌碑が春日町公民館にあります。 「わたしは山また山の小さな村里、丹波の片田舎に生まれ、故郷の色々が自分の血となり肉になり魂となりました。故郷のことをいえば涙がこぼれるほどなつかしいのです。春日町公民館の歌碑【摘んだのは 明星派 (1924年詠)】・・摘んだのは 野いばらの実の二つ三つ 果の見える 細いみち 摘んだのは なんばんぎせる(思い草)の二つ三つ 細見綾子 明治40年(1907)〜平成9年(1997) 「来てみれば ほほけらして猫柳」青垣町芦田小学校、柏原高等女学校を経て昭和2年日本女子大学を卒業。肋膜炎(昭和4年)の闘病生活で、佐治町の医師・田村菁斎の勧めにより、 その年松瀬青々主宰の「倦鳥」に投句し初入選したのが上記の句。澤木欣一(俳人)らが丹波を訪れた際は箕面の滝を案内したり、上京のときは浅草寺を案内されたりしていた。生誕の地・東芦田高座神社の句碑 「でで虫が 桑で吹かるる秋の風」 欣一が出征の折は見送り、復員の帰途には丹波に寄る。昭和22年欣一と結婚して東京に移る。概念にとらわれない、 しかも的確な対象把握により独自の俳句世界を開いた。句集に「桃は八重」「冬薔薇」「雉子」「技藝天」「曼荼羅」「俳句の表情」等随筆集に「花の色」「私の歳時記」等があり私の歳時記ではNHK等ラジオで放送される。 「普段着で ふだんの心 桃の花」母の手織りの佐治木綿を愛用していた。(丹波布については別項予定)平成9年9月埼玉県日高市の旭が丘病院にて永眠 年譜等詳細 「俳句」平成9年11月号(角川書店)山田春生編 参照母校 :柏原高等女学校(大手会館)にある句碑 「雉子鳴けり 少年の朝 少女の朝」 句碑:母校・柏原高等女学校跡地に「雉子鳴れり 少年少女の朝」 高座神社「でで虫が 桑で吹かるる秋の風」 三重・伊賀上野 芭蕉公園 「早稲刈に そばへが通り虹が出し」・・・他 丹波市青垣町芦田小学校の校歌作詞 ♪春は霞の青垣山 夢を育てて豊かなる 秋は黄金の稲の波・・・・♪「花の色」から 私達を取り巻いている青垣なす山々、 いい山々ですね この山に春が来れば霞がかかります。皆さんはこの山々に霞がかかるごとく夢を もって欲しいですね・・・・・・細見綾子 春日局 天正7年(1579)〜寛永20年(1643) 春日町黒井の興禅寺は徳川三代将軍・家光公の乳母となり沈着にして才たけた賢婦(春日局)生誕の地。 天正7年黒井城主・赤井直政を討った明智勢の中に光秀の縁故につながる斎藤内蔵介利三も名将として参戦し、その功を讃えて春日庄・一万石を与えてこの地を統べさせ、滋賀・坂本城に居た妻のお安と子供達を 黒井の興禅寺に陣屋を定めて呼び寄せた。この年(天正7年)年の瀬も押し迫った頃、呱々の声をあげたのがお福(後の春日局)です。興禅寺には指月殿(経蔵 )の裏手に深さ約1.7mの「お福の産湯井戸」が在り、清らかな水を湛えています。また本堂右手に在る平らな大石は「お福の腰掛石」で幼少の頃、腰掛けて遊んだ石と伝えられています。 お福は3才の冬頃までこの地で育ち天正10年(1582)春には丹波亀山の城(亀岡市)に居ましたが、父・利三は光秀に従って本能寺の変(京都市)で山崎の合戦に敗れ、 亡骸のままで京都で磔(はりつけ)にかかり、その悲惨な姿を目の前に見ています。 何処へ行っても人に好かれ賢い娘だと慕われるお福は秀吉の武将・稲葉正成に嫁ぐ。将軍家に秀忠の第一子 ・竹千代君が生まれ乳母を求めていたとき、お福に決まり春日局の第一歩を踏み出すことになる。秀吉の夫人が将軍職を次男・国千代にと竹千代から奪おうとした時、密かに此れを知った春日局が、 伊勢参営を名目に駿河の家康に訴え、家康に謁見する竹千代の手をとり上座に進める、国千代は下座へ・・・ 辞世の句「西に入る 月をいざなひ法をえて けふぞ火宅をのがれけるかな」 65歳の生涯を閉じる 年表等は春日町のHPに詳しい 丹波の由緒 本誌 別冊