私の丹波雑記

 丹波霧の里1 (丹波霧)
 丹波霧の里2(赤搗米・丹波栗)
 丹波について
 再び山へ そして丹波へ



丹波霧の里 1
(丹波霧をテーマに)

私の故郷は兵庫丹波(丹波市山南町):わざわざ兵庫丹波と理るには理由があります… (後述)
丹波及び丹波霧について…また興味尽きない自然や歴史の魅力ある丹波紹介になると思います。

「謎の丹波路」著者
春木一夫氏の生誕地・少年期を過ごされたのが山南町和田です。薬草薬樹公園内に文学碑があり丹波路が謎であるのは霧が深いからだとおもう…と、また篠山市の 八上城(八上山・高城山・朝路山・丹波富士 )で波多野秀治の居城ですが、 織田信長命の「丹波攻め」による総大将・明智光秀との攻防に、いくつかの悲話の残る山城(459m!?)は遠目にもシゴク眺めの良い山としても紹介されています。【ほんとは462mなんですが】…井上靖 「戦国無頼」にも其の舞台:八上城を「…八上城の生活は霧と合戦と酒の三つだけであった。霧は丹波霧と言われるものだった。高原の盆地特有の湿気が夜半になると急に気温が低下するために 一面の霧と化し、それが丹波高原に起伏する小丘陸の山も谷をも埋めた。朝起きると、八上城はいつ深い霧に包まれていた。 霧の海の中に埋没していた…」と
小川芋銭「水魅戲」<国鉄時代のオレンジカード :水戸局発行>

谷崎潤一郎氏の紀行文の中では「…陽があがり風が出ると、一面に封じ込められた白い霧海の中から、河や森や丘の頭が、 だんだんあらわれてくる。霧が重いのでしっとりとして動かない…小川芋銭は 大正期の日本画家で関東の人ですが丹波の「小鼓」で知られている酒造家・西山亮三(泊雲)氏と親交があり、客人として丹波を訪れ石像寺(丹波市市島町竹田:石庭で有名な古刹)に逗留しており、 西山泊雲・小川芋銭とその師・高浜虚子等の句碑の庭(霧海)があります。院展に出展され全国的に有名になった「丹波霧海」は太平三山の三国岳近く・美濃坂峠とされていますが、 私が持っている旧国鉄・水戸発行のオレンジカード「水魅戯」(河童絵で有名で、ここにも河童・鯉・蛙・主役はイモリですが)の芋銭の絵を見る限り、 石像寺で逗留していた頃の印象で描かれたもの!! と思うのですが太平三山は三田・篠山の摂丹国境の三国岳(648m)・愛宕山(648m)・中尾の峰(659m)で、多紀三山・龍蔵寺の回峰行の山だったようです。 三国岳から愛宕への縦走はこの美濃坂峠で猛烈な藪の為中断します。母子の茶畑が並ぶ三田側を越して下ると展望休憩所があり、ここから霧が晴れかかった篠山側・小枕側の展望は素晴らしく 「丹波の霧海」の情景がここであっても納得ですが…
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丹波霧の里 2
(私の里のててうち栗・赤搗米)

丹波の語源については太古に大きな湖が有り、其の水が常に赤かった為・丹波(たには )と呼ばれたとかを意味する朝鮮の古地名に波旦があり秦氏が、其の語に繋がる「タバ」に由来する等いろいろな説があるようですが、その一つに・平城京跡から出土した木簡に「氷上郡井原郷 (山南町井原)の赤搗米(赤米)があります。栗作郷(山南町久下・上久下)の隣にある井原郷では 「氷上郡井原郷上里赤搗米五斗xxx」と記された木簡が発掘されており…赤搗米(炊けば赤くなる米)=丹い米が波をうつように豊に 稔る国との意味があります。 (注) いろんな古い資料からの抜粋や集約で雑多な文章になっておりますがご容赦下さい。手々打栗のお話の前に、 少し予備知識を・・丹波は栗の名産地です。しかし今の丹波栗の主産地は大阪・能勢や京都・亀岡/八木や和知辺りでしょうか !!山南町岩屋の石龕寺にいたる岩屋道は栗の栽培が盛んで量も多く、 大粒で「…此処に産する栗、両手に合わせ持つゆえ手々打栗という…丹波栗は名産として諸国に唱え、手々打栗の出所未だ此れを聞かず、井原庄岩屋村に初めて聞く。国中大栗あれども、この唱を聞かず。 岩屋村に限るが手々打合栗なるべし、また大中という栗あり 表皮針付けの所に尊氏公の爪痕ありという」…丹波父打栗、一名手々打栗又はお手植栗、爪痕栗、献上栗の名前がある。

石龕寺に伝えられる版木(産業文化センターの山南歴史資料館に小野道風書の扁額等と展示されている)には「天々宇知久里之実説並びに搗栗(カチグリ)を祝物用事」とある。 足利尊氏が観応2年(1351)弟の直義と対立し、ここに逃れ息子の義詮(ヨシアキラ)を石龕寺にとどめた史実があり、これに因んで生まれた伝説で栗の実の下部に爪痕のような小さなひび割れがある。
井原郷の岩屋や栗作郷の久下・上久下地区(共現:丹波市山南町)は、歴史的に最も古い栽培地域で用明天皇(585〜587)の頃より朝廷に栗を寄進していたといわれる。中世期には”テラウチや大中” (栗の品種名で岩屋には寺内の姓も有)等の大粒の栗が盛んに栽培され周辺に広がったが、病気等で絶滅状態となった事も有った様で衰退していきます。変わって丹波栗の主産地は”銀寄”等品種の伝播と共に、 大阪能勢や川西・三田や京都和知や亀岡方面に広がっていきます。文明9年(1477)の文書「山科家礼記」に栗供御人として和田の小野尻や牧山が出てきますが、今では薬草薬樹の里としてオウレン・サフランや 切花の産地で、正月の飾り松も、山本辺りで栽培出荷されています。岩屋の搗栗(カチグリ)は薫蒸式の高級品で原料にはテラウチグリを用いたが味も良かったがクリタマバチの被害により枯れたり、 戦後の採算割れで中止されました。搗栗はカチが勝ちに通じる為、武士が正月や出陣時に用いられましたが非常に手間のかかる製法ですが高級品なので缶に詰めて出荷されたようです。

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丹波について
(謎の丹波路は霧のせいだけではないようです)

旧氷上郡が2004年秋・丹波市として発足しました。 古代丹波国「氷上郡」の名が消され丹波・旦波・多邇波・田庭・谷端…等々「日本書紀」や「古事記」と呼称されたたにはの本来の意味(意義)さえ失われたたんばが一人歩きしはじめました。 市名に賛同が少なかった丹波の名に固執された意味は分かりませんが、「たには」では「たんば」、 神話にも美しい「比加美」「氷上」の名が消えた事は残念です。いつの日か丹波の呼び名さえなくなるのかも?地名の起源や意義を軽んじて、一方的に奇抜な市名が誕生したところを思えば!!?まだマシかも(^_-)-☆
兵庫・丹波「丹波篠山 山家の猿が・・・」誰でも知っているデカンショ節も、その丹波が兵庫か京都かと訊ねれば他府県のどれほどの人が正確な解答を返してくれるでしょうか?
加古川に架かる井原橋北詰めに立つ「丹波赤米の里」碑

昔は但馬も丹後も丹波だった。古代の丹波は但馬・丹後をも含んだ地域でしたが、 やはり都(京都)に近い為政治・勢力闘争に利用されることが多く、但馬を分離させた後、第43代元明天皇の和銅6年(713)に丹後国が設けられ、丹波の加佐・与謝・丹波・竹野・熊野の5部割きて与謝郡府中に 国府が置かれ丹波と丹後が分割されました。明治4年(1871)の廃藩置県で新しい県が生まれて明治9年に今の丹波に分割され兵庫県に西の2郡(多紀・氷上)が入り兵庫丹波となっています。【多紀郡は 1999年4月篠山・今田・丹南・西紀各町が合併して篠山市に・氷上郡も2004年11月山南・柏原・氷上・青垣・春日・市島各町の合併で丹波市が発足しました】今は京都に丹波町・兵庫に丹波市が!!!! 京都・丹波「昔丹波の大江山…」は誰でも丹後との国境にある鬼伝説の大江山連峰を想い起こされると思いますが、亀岡市の老ノ坂近くに大枝山があり、こちらが正当化も分かりません。酒呑童子の一の子分 ・茨木童子の生まれた茨木市もすぐそこです。
丹波考については専門の郷土史等にまかせ、ここでは簡単に登山の地域分類や新たな興味をもってユニークな里山めぐりの一助になればと…。 丹波は先刻ご承知のとおり、行政区域が京都府と兵庫県に分かれている為、地名がどちらの区域に属するかは地元のそれも自分の属する府県だけで他府県の人には分かり難いところのようです。

==== 丹波を地域的に北丹波(口丹波・亀岡市を中心に南・北桑田郡) 
              中丹波(薗部・綾部・福知山各市と船井郡、天田郡)
              西丹波(兵庫の多紀<現 篠山市>・氷上郡)…に分けられる。
          氷上郡辺りを中丹波、福知山辺りは奥丹波とも呼ばれたとおもいます。

氷上と多紀の名前の由来を
氷上=加古川の古名を"氷の川"と呼び、その上流の地なので氷上と呼ばれるようになったとの説あり
多紀=滝が多いからとの説は、遡行の対象になる谷は非常に少なく、名のある滝も少ないので弱い?。多紀は「岳」に関連付けられ、兵庫・京都の両丹波(北・中・西各丹波)に岳のつく山名も多い。

丹波の街道
此処ではデカンショ街道とか、水分れ街道の愛称ではなく昔の街道です。
源義経が須磨の合戦で市の谷・鵯越に急いだ道とも違います。
山陰街道…老ノ坂〜亀岡〜薗部〜綾部〜福知山〜河守〜
旧 街道…亀岡〜篠山〜柏原〜石生〜佐治〜遠坂峠〜
裏 街道…立杭東(旧日出坂峠)〜古市〜柏原〜佐治〜遠坂峠〜
播磨街道…小野尻〜和田〜谷川〜柏原〜
京 道…篠山口〜篠山〜福住〜薗部〜
塩の道…石生〜黒井〜武田〜福知山〜
巡礼道…古市〜鐘ヶ坂〜国領〜市島〜竹田〜塩津峠〜福知山〜丹後へ出る
西国27番書写山 ⇒ 26番法華山一乗寺 ⇒ 25番清水寺⇒と回って丹後の成相寺に向かうコース



再び山へ、そして丹波へ 近畿の山は地図とリストで
 
 (私のことを少し)

山登りは10数年ぶりに再開です。仕事で職場・担当を変わっても関東圏への長期出張が何年にも渡り続きましたから。 就職で大阪に出てきて10年独身時代は六甲山系をホームグランドに近畿の山を、夏は何度か北アルプスへ冬は但馬の鉢伏へスキーがお決まりでした。

結婚して西宮市分銅町に住み20数年を過ごしたが 兵庫県南部地震により全壊し、家族4人全員生埋め、自衛隊は直ぐ側に居ても・待機しているだけで命令待ちで動けず? 
5時間後に近所の人たちに助け出されました。しかし収容先の避難所は先着順 ? 避難・移動も出来なかった私たちに行き場はありません。
息子たちが通園していた私立幼稚園の、園児達の部屋を一時的に貸していただき避難しましたが、長男は戻ってきませんでした。享年21歳でした。 妻は、その後も腰を痛めて3ヶ月ほど歩けず田舎(山南町)で静養していました。
私は会社の泉佐野市にある社宅の空部屋を手配していただき、そちらへ移ります。次男は高校卒業の年でしたが 神戸の学校に決まっていましたので遠い泉佐野へ来る事はありません。現状では余りにも高いワンルームマンションを神戸・垂水区に借りることになりました。



私の山への再開は、息子への鎮魂と巡礼の旅の延長線上にありました。 
九枚笹が家紋です
泉佐野市は大阪の端。山を越せば和歌山ですが、此処に犬鳴山があり修験の山です。地図を見ればこの周辺は範囲を広げれば1時間少しで高野山へも行けます。 金剛・葛城山脈の距離も六甲全山縦走に近いです。山歩きなどしたことのない筈の息子が祖父に「六甲山縦走」するんだと言っていたそうです?。神戸市主催:市民参加の人気行事となったイベントに申し込みしていたのでしょうか!
気になるので先ずは金剛〜葛城ですが縦走するなら徹底的に端からと、北のダイヤモンドとレール入り口の未だ北にある小さな山?屯鶴峰を165号線田尻峠から出発し二上山〜金剛山〜南葛城〜蔵王峠〜三国山迄何回かに分け 継続して縦走しました。
此れを期に犬鳴 〜和泉葛城、和泉山脈の雲山峰・札立、高野三山〜高野道そして大峰から台高山脈へと一気に広範囲に歩き出しました。ザックに蝋燭・線香は必需品です。 どこの山に入っても山麓や山腹・山上に寺院や堂宇は在りますから…
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近畿の山リストにこの頃よりの記録(山行日だけですが )を見ていただければ分かりますが、以前から続けていた霊場巡りの西国 ・新西国・四十九薬師霊場をこの期に一気に廻り、2年余りの間に大阪・和歌山・奈良・三重方面へも山には随分入りました。 …が社宅の明渡し時期になりましたので息子が好きで離れなかった西宮へ帰ることにしました。家賃は高くても、後10数年も住むわけではありません。住み慣れた処が良いのですが…しかしより易く、環境面や生活面で、 もう2度も家を変わってしまいました。やっと今のところで一見落着です。息子のこと、年老いた両親のこともあり田舎に帰る機会が多くなりましたので、近くてよき山、歴史を秘めた多くの山々が霧の中から 次々とあらわれてくる兵庫・丹波の山に出来るだけ焦点をしぼって報告してゆきたいと思っていす。

ただ丹波は味覚の王者?????松茸の良質な名産地です。登山に良い季節に入山できないこと・ほとんどは個人所有の里山 ・それだけに未整地/山登りのための道は少ない。既設の道・作業道・境界道・そして該当の山にあれば一番頼りに成る関電の巡視路が利用出切れば最高ですね。
山低けれど丹波の山は???藪山万歳…のつもりでお訪ねください。
 丹波霧の里 天々宇知栗 敬具 H12.12.12 


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