丹波茶ところ「味間の里」とJR篠山口近く・禄庄城麓の居館を廻る
兵庫 篠山市(五万図=篠山)
八上城西の玄関口(丹南)を守備する波多野氏家臣の城館探索
近畿の山城 :石野屋敷と山城屋敷  三崎伊豆守屋敷  福井谷館

丹波富士と呼ばれる秀麗な山容を見せる朝路山(高城山)に 八上城を築き、 丹波一円から攝津の一部をも支配した波多野氏配下の城砦群が本拠城:八上城を囲んで築かれ守備されていた。
三崎伊豆守屋敷跡?(味間奥)

丹波市山南町から篠山市に向うルートには、川代渓谷(峡谷)沿いに平城の 大山城が在ったR176号線大山下交差点に出るのが普通ですが、 西脇市・今田町へ峠越えの県道36号を小峠に出て丹南町味間を経由するルートが有り、足利尊氏も通った伝承の残る旧 (延喜式)山陰街道を此の 味間(丹波茶の里)からR176号に出る付近にも 味間北城等・幾つかの山城がある。 其の城主の居館がどこの在るのか判かる筈もなかったが「多紀郡埋蔵文化財調査委員会 遺跡分布調査報告書 (昭和47年発行)」に記されている●印の所在位置を頼りに其れ等の一部を訪れてみた。
福井谷館跡!!?

小さな地図で・しかも道路・圃場・ 宅地等の開発で当時とは周囲の状況が大きく変わってしまい詳細な位置が確認出来なかったり、遺構そのものが個人所有地内にある「福井谷館」のように、 田畑の拡張や改修の為に整地されて いる等、立地する地形から位置を推定するしかない!!?城館もあるようです。上記資料だけの探索なので、 紹介している場所や写真が的確に、其の居館であるのかどうかは確信が持てません…ので、より多くの資料や郷土誌史等による史実・由緒等の調査研究をお願いいたします。
禄庄城主郭にネット ・城址案内板が追加?設置されていた

三田市から市境界にある 日出坂を越えるR176号線(丹波の森街道)で篠山市に入ると、其の西南端から R372号線(デカンショ街道・京都街道)に沿っての要衝を波多野氏の被官・酒井佐渡守重貞が居城した 油井城 をはじめとして(古森・油井・波賀野・栗栖野・当野・矢代 ・初田…等)酒井党 【鎌倉時代:承久の乱(1221)の功績で、相模国(神奈川県)大住郡酒井郷?の豪族酒井兵衛次郎政(正)親が地頭職 ・公文職を与えられて多紀の地に来住したのが始まりといわれ酒井氏の始祖 :政親の子で孝信の弟政重が油井酒井氏の祖といわれます】 一族の武士団が、摂津(阪神・三田方面から西国街道を繋ぐ)・東播磨(小野・社への山陽道を繋ぐ京街道)への玄関口を守備しています。 初田酒井党はR176号の牛ヶ瀬付近に 初田館(勘四郎館)と詰め城の大沢城等を持っていました。
石野屋敷跡?(八幡神社前)

天正6年(1578)八上城攻めの明智光秀軍が 八上城を包囲する一方で、周辺の支城を一つ一つ落としながら大沢城にも迫ります。大沢城から北方に高度を大きく落としながら突き出す尾根先のピークに禄庄城があり、 谷を挟んで西隣にも火とぼし山から北に延び出した尾根末端部に佐幾山城(砦)が有りました。佐幾山城(砦)は味間へ抜ける道路拡張工事と土砂防災の為、尾根先から大きく崩されて、 単郭の小さな城域は完全に削り取られた崖の外・天空に消えた幻の城と化してしまいました。 これ等三城 ( 大沢城を本城に禄庄城・佐幾山城(砦)の支城)も 多勢に無勢、酒井勘四郎は部下に戦いを解いて城を降り合戦・落城は無かったと云います。
禄庄城尾根北端麓の平坦地形

勘四郎自身は八上城に入り・落城後は光秀の軍門に降って、天正10年(1582)山崎の合戦に従軍し大津瀬田にて討死したといわれるが享年僅か18歳だったといいます。 此の三城への登山口はJR篠山口駅から禄庄城の北麓を廻り込む様に西方に進んで行くと「大沢ロマンの森」の入口・八幡神社に着き、此処からは イラスト絵付きの案内板が立ち道標も設置されており、 登山なら松尾山〜白髪岳への縦走も計画できます。




石野屋敷と山城屋敷  三崎伊豆守屋敷(三崎伊豆殿屋敷)  福井谷館

禄庄城山麓の居館
石野屋敷と山城屋敷
山城屋敷(山城館)? 篠山市丹南町大沢片山
石野館  ?     篠山市丹南町大沢片山の坪

「大沢ロマンの森」の名は 大沢城・佐幾山城・禄庄城の三つの山城に囲まれ、本城の大沢城には初田酒井氏の若き青年頭首:酒井勘四郎を城主として、波多野氏方として 「丹波八上城攻め 」の明智光秀と戦った「戦国ロマン」を表わしたものか?。
石野屋敷?(正面:禄庄城麓・田の向うを笹尾谷川が流れる

三つの山城へのスタート地点となる八幡神社前の登山口駐車スペースに入る車道の側、 雑草で気付かない程だが・小さな池があり、段差をもつ田が二枚ほどあり、其の先の一段高くなる八幡神社前に小祠が建つ。 池前の南方には住宅地があり、深い溝状の笹尾谷川が禄庄城山裾に沿って流れています。 これ等一連の施設の谷の上部・八幡神社前までの 数段の段差をもつ田圃が並ぶが、主に神社前の田圃は東に先ほどの池と、 農耕用の作業車道でしょうが、 二枚の田の間に斜上する道や、深い笹尾谷川を堀とし流れに沿うように切岸ともなって囲まれ広がる田圃の様相に居館跡を感じます。
最上に見える田が石野屋敷?:上記写真の祠下方に左の池がある

背後に続く田圃と八幡神社の間の山道が禄庄城や 大沢城へ向うハイキング道です。詰め城セットの居館をイメージすると、前面を防備出来れば側方は山の傾斜と深い谷川、尾根続きの背後には 大沢城・禄庄城があり防備不要? 有事の際には禄庄城へ撤退し、さらに其の先には詰めの城・大沢城がある。
大沢城からは火とぼし山 〜音羽山を経て白髪岳へと、西へ伸びる主稜線を辿ると中程に松尾山がある。松尾山頂に数段の曲輪を置く高仙寺城が酒井党一族最後の砦「逃げの城」として利用される位置付けに有ったのでしょう?松尾山から北へは味間地区の古刹 :文保寺へ下る尾根筋と谷筋の道がある。 味間北城・味間南城も酒井氏一族か酒井党と同盟関係にあった土豪なら、此の道を利用して詰め・逃げの城を共有したものか?
禄庄城大手口:笹尾谷川そばにある山城屋敷?

味間北城・味間南城も酒井氏一族か 酒井党と同盟関係にあった土豪なら、此の道を利用して詰め・逃げの城を共有したものか?また火とぼし山から北へ延びる尾根の最北端部には、 今は完全に消滅した佐幾山城(砦)がありました。火とぼし山へは八幡神社から谷沿いにも通じていますが、 むしろ石野屋敷や山城屋敷から 大沢城への大手道だったのでしょう。さらに此の谷沿いの道からは先ほどの尾根筋に出て佐幾山城(砦)へも通じていたのでしょう。
山城屋敷跡?にある広い2〜3段の平坦地

初田酒井党の本拠城:大沢城の城主は未だ元服間もない若き少年城主 :酒井勘四郎の被官で家老杉本山城守与右衛門と石野久兵衛は禄庄城の城主とされ、 小規模とはいえ砦というより大沢城の付城的存在で、杉本・石野両氏が勘四郎の後見人としての任にあたっていたのでしょう。 「大沢ロマンの森」の案内板が立つ八幡神社境内を含めて?前方の小祠と田圃付近が 石野久兵衛の
石野屋敷跡の様です?。 大沢城へのハイキング道(大手道?)と別れ案内標「禄庄城へ」の ハイキング道分岐をとって、笹尾谷川を渡ると禄庄城への大手道となり、此処にも谷川を堀として杉本山城守与右衛門の 山城屋敷とされる削平された 二段程のテラスが杉林の中にある。
禄庄城の円形主郭を同心円状に4〜5段の曲輪が囲む

円錐状の禄庄城ですが僅かに北に短く突き出す枝尾根末端の麓、笹尾谷川と接する付近にも三角状の広い平坦地があり、他にも諸々に在った家臣屋敷跡の一つだったとも思えます。 城主不明と云う佐幾山城へは杉本山城守の屋敷分岐付近から、西の火とぼし山から延び出した尾根に取り付けます。また佐幾山城麓には杉山株の稲荷社が祀られている等・杉本氏が佐幾山城(砦)の城主として指揮 ・連絡の城砦機能を果たしていたのでしょうか・・。

【多紀郡埋蔵文化財調査委員会(郷土史研究家)による分布調査報告書 昭和47年を参照】

味間谷の居館1
三崎伊豆守屋敷(三崎伊豆殿屋敷)   味間奥字伊豆殿ヶ藪

R176号線を北上し住吉台の丘陵西を廻り込むと住吉川沿いに味間谷を抜けて 西脇市へ向う県道36号線(西脇篠山線)へ左折すると、丹波茶で知られる「味間の里」で古代から拓けた土地は田圃の中に ・山裾にと古墳群が点在し、古刹大国寺は丹波での茶の栽培を始めた最初。 毎年6月の一番茶摘みの頃大国寺を 中心に丹波茶まつりが開催されています。
堀跡を思わせる田も館跡か!!、藪中の住吉川を渡る墓地参道にも館跡が!!?

京都〜篠山を経て柏原への鐘ヶ坂越えや篠山川沿いの川代渓谷(峡谷)も国司が馬で通行するには難所 ・難関だった平安期:延喜式山陰道は、福住〜篠山から味間を抜け小峠から山南町阿草〜井原に出て、氷上町を経由して佐治に向っていた事でしょう。播磨西脇方面からの玄関口である要衝で、 多紀郡(篠山市)一円を制覇した波多野氏八上城の 西の玄関口の守りにとして、味間谷の入口を押さえる 平井山城味間北城・味間南城がある。R!76号線側には 大沢城・禄庄城・左幾山城等の諸城があり、城館については上記の 石野屋敷と山城屋敷等があり、味間谷側にも三崎伊豆守屋敷と福井谷館等が在ったが、明確な遺構を確認出来ず比定・推定の域を出ないのが残念ですが…。
川を渡り藪中の平坦地と墓地への左右にも段差をもった平坦地がある?

味間谷は土豪味間(三崎)伊豆守秀友安村丞太夫が力を持っていたと云われ、「波多野家文書 」によると氷上郡(丹波市)の赤井時家と荻野(赤井)直正が連著で味間伊豆守に宛て、味間中村分の領有を認める永禄7年(1564)の書状が残る。 大国寺の西方山麓に字名に「伊豆殿ヶ藪」と呼ばれるところがあり、三崎(味間)伊豆守の 居館があったところとされますので、 味間北城までが少し遠くて且つ比高30m足らず、同心円状に 2段の帯曲輪を持つだけの城。居館から遠く離れた此の城が詰め城とも思えず 大国寺〜岩ヶ谷(3等356m峰)への稜線・枝尾根上に詰め城が在ったのかもしれません?。
土塁状の溝:藪中の住吉川を渡る内側にも館跡・・!!?

其の南へ延び出す枝尾根末端が落ち込む所、 田畑や茶畑が広がる北山裾には小さいが深い溝を刻む住吉川が流れ雑木や竹薮の杜が続きます。 そんな中・川を渡る小さな橋の先が墓地に至るところ、竹薮に広い平坦地、傾斜も急な階段上の墓地に向うと墓の地所以外の前・後・左右にも 平坦地形はあるだけで遺構らしいものは無さそうだが、 此処を三崎伊豆守屋敷に比定して…次の福井谷館に向かいます。
【多紀郡埋蔵文化財調査委員会(郷土史研究家 )による分布調査報告書 昭和47年 「丹南町史」を参照】

味間谷の居館2
福井谷館       味間南字福井谷

味間地区の住吉川沿い味間北の住宅地裏山の低丘陵には 味間北城が、味間奥の文保寺の東丘陵 :松尾山から北に延び出す尾根末端部の小ピークには味間南城が在り、 平井山城と共に味間谷入口を押さえています。中世戦国時代の末期には城主平野酒造之亟または主馬之亟が拠っていたと云われ、此の城も明智光秀の「丹波攻め」で波 多野氏の八上城攻略の前哨戦で周辺の大沢城や大山城と同様に早々と 攻め落とされていった城の一つでしょうか?。
猪垣内茶畑の高台が福井谷館跡なら?手前は池跡か?

文保寺とは味間南城の尾根を挟んだ東側に位置して福井谷館があり、此処を訪れた帰り際に居館跡と推定した 茶畑の奥の祀られる地神さんは平野株(平野家)で管理されている事を地主さんに聞いた。此処・福井谷館は平野酒造之丞の居館だったのでしょう…!。此の居館推定地の茶畑から斜上する山道は直ぐ稜上に出て、 尾根伝いに約80〜100m程で主郭部の大土塁(櫓跡か?)に向う急斜面南下鞍部付近に
通じる様です。味間南城の縄張りからは北山裾の地区道の宅地裏手から墓地を経て北端の見張り櫓 【主郭部の背後:南尾根筋を除き、僅かに北・東・西に延びる枝尾根先に見張り櫓台跡らしい一小曲輪が他の篠山市 ・丹波市の城にも 例の無い?特異なもの】に通じる大手道より、此処から搦め手?の尾根筋に出る方が安全で早く城内に行き着ける様です。しかし堀切も無く防御施設は乏しく、 一時的に使用された城と推察されています。
福井谷館?最奥部は圃場拡張で崩され館跡かは不明?

話は前後してしまいますが、文保寺に向う鳥居前(文保寺域内に二村神社が在る)の地区道を味間南の地蔵堂前広場に出て、此処から少し戻り気味に黒谷川を渡り、 川に沿って山側に入っていく。松尾山から文保寺への下降点から更に尾根通し394m峰北側の急斜面から急に高低差の少ない緩斜面となって延び出す尾根の東裾に福井谷館がある。館跡からは未走破ながら ・尾根への比高は10m程?、尾根からは100m足らず?で、少し高度は上がるが(比高7〜8m位か)末端部の味間南城に着けると思える。
最後の登り口(鞍部?は無く急登になるので肩の部分か?)に○○株 ・△△株(姓は忘れた)の二家だったか三家連盟の先祖供養碑と思える標柱が立てられていた。 此の城に拠った平野家一族か・天正期に共に拠った土豪なのか?城史については不詳で、地元研究者による成果報告を待ちたい。 富士牧場の大規模養鶏場に着く。
緩斜な稜上部は味間南城

鶏ウイルスにより廃棄処分等の大被害を受けられたと言い、敷地に入る前から 感染防御・予防の為の薬臭が鼻をつく。家業を継ぐ為都市部から帰って来られた牧場主さんより弟さんの方が、一帯の地形や歴史に詳しい様子でしたが、平坦地や堀らしいものが在った事、 先代が山際の斜面を削り・田畑として整地した話を聞いたが、遺構の位置等詳細は確認できなかったが、鶏舎の奥に続く田畑・居館跡と思える位置までの立入りを許され山裾まで訪れてみた。

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