丹波篠山・歴史散歩  篠山藩校「振徳堂」・村上周防守の墓所・玉水・武家屋敷群
丹波市・篠山町  地図(篠山・園部)
「学問のすすめ」の祖は篠山藩校にありました・・・!
藩校「振徳堂」と「私立篠山中年学舎」開学の地

篠山中年学舎(県立篠山鳳鳴高校の前身)開学の地

特別記(遺跡) 波多野甚蔵屋敷:玉水:村上周防守忠勝の墓
武家屋敷 (安間家・澤井家(青山歴史村)・小林家)
誓願寺(波多野秀治創建の菩提寺・篠山小学校の前身:知新館跡)
 
兵庫県下の藩校は元禄年間(1688〜1704)に創設された好古堂 (姫路藩)・造士館(三田藩 )・崇広館(柏原藩)が始まりとされ現存する県下の藩校は 崇広館を含め二校だけといわれます。丹波の藩校としては先に修改築を重ねながらも建物が残存する柏原藩校崇広館を紹介しています。
篠山城:南馬出

篠山市にも城遺構では全国的にも此処だけに残ると云われる篠山城南馬出遺構を囲む 薬研堀の西南角部の一角に藩校の跡が在り、二階町の春日神社境内北の社務所前に重厚な玄門が建つ此処には、 鳳鳴義塾・県立篠山鳳鳴高等学校の前身で私立篠山中年学舎開学の地の 碑が建てられています。篠山藩第9代藩主青山伯耆守忠朝(ただとも)は寛延4年(1751)大阪の儒学者:関交平を教師として聘招 (へいしょう:君主が礼物を供えて 人を招く・・の意)し藩の有志を学ばせた。
篠山城南馬出より藩校「振徳堂」跡 (正面中央・濠の角から右手付近)

その後・藩士の中で 学問を志す者が多くなり、明和3年(1766)篠山藩10代藩主青山下野守忠高が藩校振徳堂を創建します。 翌明和4年 学びに地位身分は平等、農民や他藩の者で学を志すものは入学を許可する、藩士子弟は全員入学のこと、 藩士子弟を含め授業料は徴収しない・・等の教育方針 (学規)が定め南馬出の薬研堀西南に 学舎が建てられました。此の篠山藩校の学規こそ福沢諭吉「学問のすすめ 」の祖…ですね。藩校では1200枚余の版木が製作され 書籍の出版を行って教育の振興が図られた。
南馬出(此の薬研堀の左端付近が「振徳堂」跡


これ等版木や書籍・扁額・学規等は青山歴史村(藩主青山家別邸の旧:柱園舎)・篠山鳳鳴高等学校の保管され、市文化財に指定されています。なかでも石敢當(せきかんとう)と呼ばれる鬼門に立てられた石柱・石碑は魔除 ・邪気払いの為、街路の角等に建てられるのが通例とされますが、向かうところ敵なし・・の意が有り、 邪気払いと強い人間を形成する教育守護を願うものか!!、教育施設に建立された例は全国でも此処だけだとされます。
春日神社(能楽堂向い)

明治4年(1871)廃藩置県とともに「振徳堂」は廃校となり建物は現存しないが其の青山忠朝:忠高の教育精神は継がれて明治9年(1876)篠山藩13代忠良の子!(青山家の21代当主) 青山忠誠(ただしげ )が篠山に人材を育てる学校がなければならないと、中学を興し「郷里の師弟を養育して国家有用の人物」を輩出ことを掲げ漢文・数学の授業に加え慶応義塾創始者の福沢諭吉にはかり、英語・物理化学の2教師を派遣してもらい、其の意を受けた安藤直紀(後の初代篠山町長)等在郷有志により、 此の春日神社社務所の小桃源に先に創設されていた「共茂舎」を「私立篠山中年学舎」と改称された。
篠山城本丸:忠誠公追慕碑から大書院

明治17年(1884)中学校設備規則発布により廃校となるが、忠誠は「旧藩領に残す置土産は、子弟を教育することである」と基金を募り資材を投じて 「私立鳳鳴義塾」と改称して 中学教育を維持された。その後:県立篠山高等女学校と統合などの変遷を経てきた県立篠山鳳鳴高等学校は、「振徳堂」創設以来連綿として引き継がれてきた教育指針・精神を平成18年:創立130周年記念事業として関連遺跡の案内説明板の設置や 歴史美術館では版木・扁額等の各種資料の特別展示が催されました。
(現地 篠山城本丸青山神社の追慕碑・春日神社の私立篠山中年学舎跡碑・南馬出北西部等に設置の案内板を参照)


【特別記】 玉水 ・波多野甚蔵屋敷・村上忠勝の墓
波多野甚蔵屋敷 丹波茶どころ(篠山市味間奥)は今・新茶摘みが始まったばかりですが県下随一の茶の里は、細長く延びる味間谷に田園と濃い緑の茶畑が 峠に向って続く、旧山陰街道でもあり播州との境界でもある篠山盆地の西端に位置して主城・八上を守る 大沢城・佐幾山城・禄庄城 味間北城・味間南城・平井山城等の支城や砦が街道を挟んで対峙していました。
玉水の遺構

大国寺と阿弥陀堂の中央付近・住吉川に架かる神堂橋を渡った御霊神社(八上城主 :波多野秀治を祭神として、味間の里に隠棲した秀治の二男甚蔵(波多野源左ヱ門(尉)定吉(尚)が創建)に降りてきます。 篠山市上水道「味間奥加圧ポンプ場」の東隣りには、残念ながら!!屋根は トタンに覆われているが…
伝・波多野秀治遺児 (甚蔵)の旧邸 長屋門

波多野家の”丸に十字”家紋を光らせる長屋門が在る。天正7年(1579)八上城落城により城主波多野秀治の遺児 ・二男の甚蔵(3歳の時)は此の地に乳母と逃れ 11歳の時・文保寺に徒弟として入門したが31歳の時・還俗して波多野源左ヱ門(尉)定吉を名乗って 篠山藩主・松平山城守忠国に仕え 【味間・大沢・網掛・小野原・市原・木津・黒石の7カ村】の代官に任命されており、墓所は裏山に祀られているそうです。
甚蔵の旧邸の長屋門(手前)

此の長屋門は約225年前・八上落城後約200年を経て天明年間(1781-89)頃に建立された長屋門が高城山から移植されたという松ノ木と共に数代続いて ジッと耐えた隠棲生活やその後200年と…味間の地に八上波多野氏の長屋門が220年余りの歴史と共に八上落城を語る樹齢425年!!の松が時を刻んでヒッソリと引き継いでいます。
(現地・味間地区 八上城顕彰会の案内板を参照して)

【玉水】篠山文化センタ近くに ”篠山市指定史跡”の案内説明板が 車道に面して立てられているのが目に止まります。5月中旬くらいから百合園・アジサイ園になりますが、其の一角に在って駐車場の奥へと築地垣の間を少し入っ所に小さな庭園が有って、池から清水の流れ出る石組みの溝が造られています。「日置玉水の碑」は篠山城7代城主・松平(形原)紀伊守信庸(のぶつね)が在城の元禄5年(1692)に建てたもの。
玉水の遺構


此の小さな池は元黒岡川分流の川筋にあたり、篠山築城の際・二の丸の「積み上げ井戸」に向かって 流れていた川床に、竹の束を並べて埋めたので水脈が通じ其々・今も涸れないと云われ、城中の水量の観測地との説もある。城主が茶の湯に用いる為・金具を使わず、鮑(あわび)貝で掘って形も其れに似せ貝の五つの穴にあたる所に 松を植えたと伝えられます。
(現地 篠山市”玉水”の案内板を参照して)


村上周防守忠勝の墓所     篠山市黒岡

篠山城址の北方約1.5km・県道140号線の黒岡と城北(鳳鳴高校前)交差点の中程、上記「玉水」からも近い北側の田圃の畦道の中程に、一本の木が立つ小さな森があり お堂と白い石標が見えたので寄ってみると、ご存知:丹波篠山五十三次のもので此処には「村上周防守供養塔」とある。 丹波では余り見かけない一石五輪塔の様ですが(宝筐印塔か?)真新しい塔婆が側に立てかけてあった(H18.10現在)。位牌は墓所南方・黒岡川沿いの法昌寺に安置され、
特産:黒豆畑と村上忠勝墓所・王地山と八上城址の高城山遠望

忌日には回向が続けられているといい、どうりで卒塔婆は1ヶ月前のものでした戦国信濃・越後の猛将:村上義清は武田信玄と勇戦し、退いて上杉謙信を頼り信濃北東部の失地回復を図ったが果たせず越後:根地城で死んだ。その子 村上周防守頼勝 (義明)は、丹羽長秀の家臣として加賀小松城主だったが、長秀没後は豊臣秀吉に仕え加賀国(石川県)能美郡に65000石を与えられた。
彼岸花と村上周防守忠勝供養塔


その後与力大名となって春日山城主:堀秀治とともに越後国本庄に9万石で 加増移封されり村上城と改称されます。関ヶ原の合戦には東軍として越後に留まり上杉軍の一期鎮圧に努めて、 所領は安堵され慶長15年(1610)亡くなったが、善政を行って金の増産にも努めています。村上頼勝には子が無く、頼勝の妹と戸田氏繁との間に生まれた忠勝を養子として、元和2年(1616)9万石で越後村上城主の家督 を継ぎ、殖産を奨励し・金の増産にも努めていたが、元和4年(1618)4月、家中に於ける騒動を理由に突然改易のうえ、丹波篠山へ配流になり篠山藩主 :松平康重に預けられることになります。
彼岸花と村上周防守忠勝供養塔


林八郎右衛門ら家臣20数人が従い、 篠山城中の一郭で起居し元和9年(1623)9月 26日25歳:若くして無念と流転の一生を終えます。徳川幕府による豊臣恩顧の外様大名を取り潰し、徳川譜代大名に領地を与える優遇施策だったのでしょうが、起因となった内容や 処分を断絶とするほどの理由は不明の様です?。幕府の密命による裏工作・陰謀が見えてくるようです。其れにより村上城に入った長岡城主の堀直竒(なおより)が10万石で封ぜられています。墓所より東北約400m程の寺内集落 ・大賣神社の南手前に在る法蔵寺参道の車道傍の 小堂の中に「岩舟地蔵」が祀られています。新潟・村上市の岩船地蔵町と関係があるのかどうかは未調査ですが気にはなりますネ。
(現地 丹波篠山五十三次の案内板を参照)

武家屋敷
慶長14年(1609〜)篠山城の完成と同時に城下の町割りが行われ、 城の外堀に沿って内側の三の丸には家老屋敷が建ち並んでいたが 、今は屏風折れ塀が築かれていた大土塁以外、今は建物の痕跡もない更地 ・発掘調査と公園としての整備が 進められているようです。外堀に面した外側の通りに面して藩主警護の徒士衆を住まわせた御徒士町が形成され、下級武士・足軽等の武家屋敷跡が残ります。
二ノ丸から南門 (大土塁の切れ目)と外堀を挟んで「南馬出」を望む

当時割当てられた住宅は身分階級のよって異なるでしょうが、間口が八間 (14.5m)程。 天保元年(1830)の火災のよって大部分が焼失し、復興に際し通路の西側は屋敷を約6尺(1.8m)後退させており、現存する徒士住宅の大部分のものは 天保の火災後程なくして建てられたもので、今も10数戸の徒士の住宅が存在し武家屋敷が昔の面影を良く留め、静かな城下町のすぐれた歴史的景観を呈しています。
安間家資料館

「南馬出し」近くの外堀西南角には小林家の長屋門がある。茅葺入母屋造りで文化2年 (1805)頃・篠山藩主青山忠祐(ただやす)が 老女小林千衛のために改築した長屋門といわれ、物見の間に見晴らし窓を設け南に曲り家を取り付けた間口17.3m ・奥行3.6m住宅兼用の独特な形式です。
(現地案内板参照)
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篠山市立青山歴史村と篠山市立安間家資料館
篠山藩主・青山家は明治4年(1871)廃藩後、 此処を別邸として「桂園舎」と名付け 同家の財産・藩政資(史)料を管理し、昭和19年4月からは財団法人・青山会となり昭和59年 10月には青山歴史村を開館し一般に公開されていましたが、 平成11年4月には青山会から全資料の寄付を受け市立資料館として貴重な藩政史料の保存・活用を図ると共に広く公開レています。
安間家資料館

篠山市立安間家資料館
篠山城の 築城された慶長14年 (1609)御徒士町通りの一角にあって天保年間 (1830-44)に建てられた入母屋造り・曲り屋で茅葺きの武家屋敷の安間家を、 安間氏から寄贈されたのを機会に、
青山歴史村・旧澤井家の長屋門

此の貴重な建物が歴史的景観を良く残している武家屋敷通りに復元し、佇まいを更に高めると共に地域に於ける文化振興の拠点となる事を願って、 資料館として保存・活用を図られています。 市指定(1994年3月)重要文化財(篠山市教育委員会 現地案内板参照)
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清浄山誓願寺
篠山城の北側に歴史美術館があり、繁華な商店街となって老舗旅館や 名店が並ぶ、東西の通りの西端部に建つ重厚な清浄山 誓願寺(浄土宗)の楼門が 目を惹きます。天正年間 (1573-92)の初め八上城主波多野秀治が覚山天誉を開山に迎えて、 高城山の麓に創建された波多野氏の菩提寺でもある。 覚山は室町幕府13代将軍足利義輝の子で永禄8年(1565)5月:父が松永久秀らに 殺されると京都の誓願寺に逃れ、父の菩提を弔うために仏門に入り、それを秀治が保護しています。
誓願寺の楼門

誓願寺は八上城落城後の慶長14年(1609)徳川幕府による篠山城築城により、 民心の安定と城下町つくりの拠点として此の要所に移されました。徳川家の宗旨でもある浄土宗で本尊の阿弥陀如来像は、三岳修験道の小金ヶ岳・福泉寺(廃寺)にあったもので法道仙人の作と伝えられます。 桜門(篠山町指定文化財)は一間一戸重層屋根入母屋造り、本瓦葺きの四脚門で本堂とともに室町時代後期の様式を残し釘は一本も使わぬ組み合せ工法です。此処には波多野秀治の肖像画・八上城合戦図絵が残り、 篠山小学校の前身で明治6年(1873)に設けられた「知新館」跡の石碑が本堂脇にあります。
(現地誓願寺の案内板「丹波篠山五十三次ガイド」を参照)

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