与保呂川の山城 桂城・日向城・殿村城・常城・木ノ下城・芥子谷城 ・亀岩城 ・行永青山城・森城
舞鶴市 (五万図=舞鶴)
近畿の山城 与保呂桂城 日向城 殿村城と殿村支城  常城と木ノ下城
        亀岩城と芥子谷城  行永青山城と森城

舞鶴のお話蛇切岩の伝説:日尾池姫神社
与保呂集会所付近から遠望する殿村城

舞鶴若狭自動車道で行永トンネル、続いて木ノ下トンネルを出ると、与保呂川を渡って直ぐ東舞鶴ICを降りる。東舞鶴ICを出て府道28号線を右折して直ぐ(200m程)で三叉路交差点を右折して、舞鶴若狭自動車道沿いに南下して与保呂川沿いの府道487号線に出る。正面右手上方に自動車道の木ノ下トンネル東出口が見えるが、
殿村城:愛宕社を祀る東曲輪から三角点峰山頂主郭の切岸

此のトンネル上の丘陵部に常城と木ノ下城が在り、取付き点探し等が順調にいけば、此の二城を攻略して与保呂内の諸城を 完全制覇出来るのですが!!。東舞鶴市街(倉梯・森・常新町…)から亀岩城(行永城)麓を与保呂川沿い R487号線は下与保呂(常・木ノ下)と上与保呂との境で現在:舞鶴若狭自動車道が走り抜ける
R487号:木ノ下集落から望む二つの城

東舞鶴IC出口の堂奥に抜けてR27号(丹後街道)の小倉に至る街道筋の要衝は、 徳道上人の後・絶えていた西国観音霊場を再興された花山法皇【永観2年(984)即位された第65代花山天皇は2年後:藤原兼家と子の道兼の詐術により出家退位させられ、一条天皇を擁立した藤原氏の貴族・宮廷文化の絶頂期を迎える】
が第29番札所松尾寺へ巡幸された道 ?は観音霊場の巡礼道ともなっていた様です。
木ノ下城主郭の愛宕神社

また下与保呂と上与保呂分岐点?・自動車道高架下から菅橋を渡って木ノ下城への取付きを探したが、南へ深く入り込む菅坂川から菅坂峠を越えて綾部市の上林地区へ、与保呂川を詰めれば丹後 (祖母谷を下って倉梯郷内の堂奥へ)・若狭(黒部谷を高浜町へ)・丹波(胡麻峠を綾部市上林地区へ)との国境に至る古道が 通じていたのでしょう。先ずは左折して自動車道高架下を抜け与保呂小学校前を通過。

東舞鶴公園内の展望台から

与保呂川沿いに遡って蛇切岩の伝説:日尾池姫神社に着く。市バスの待合所らしい小屋 ?が与保呂の終点らしく神社前の広場が転回場の様子。府道487号線の終着点でもある様で此の先は農道、 林道然とした入口部に浄水センタ・岸谷ダムがある。此れより上流・養老山665m(丹波・丹後・若狭国境に位置する)を水源とする森は ”日本の水源の森百選”に選ばれている…との案内板の立つ林道 ?入口から車道を進むと、
行永青山城:東郭と西郭を分ける堀切

少し先で桂橋を渡り、急傾斜を登って”桂貯水池”(明治34年<1901>舞鶴鎮守府が創設され明治31年から建設が始まった!!?軍事水道施設ながら、現役で使用されている国重要文化財)前の広い親水公園風の所に着く。 浄水センタの真北・与保呂川の源流で桂川を挟んだ丘陵山上部に与保呂桂城が在りました。登り口を知らず ・此処へは桂橋を渡ったところで対岸に移り、急斜面に取り付き先程の貯水池や広い親水公園?を樹間越しに見ただけなので未確認ですが、道中途中で見かける案内標示の「蛇切岩」の表示は此の公園を示していたものか?。
常城:主曲輪尾根側の土橋付き堀切

与保呂地区の中程(与保呂小学校の東 600m程で殿村城の在る丘陵部東山麓沿いの集落に入っていく際・道路分岐点だったかに?、短い句と「日尾池姫の里」と彫られた石碑が立てられていた。詳細は知らず日尾池姫神社に着き、走ってきた車道の西北に、此処からは台形の丘陵部に日向城 を確認した。与保呂川を挟んで日向城の斜向かいの丘陵上には殿村城と殿村支城が在る。
日尾池神社側からの日向城遠望

周辺では唯一?の報恩寺があり、二城は寺の東南側谷筋を詰めた 稜上にあるが、取り付き点の目論見は外れ、やっと探し当てた城址からの下山方向を過って、登り直したり尾根筋中腹をトラバースしたり、結局は位置を認出来ないままルートを誤って、一番長い尾根を降つて 与保呂小学校南の山麓墓地へ降り着いて、予定していた行永(東舞鶴公園周辺)の城探訪はタイム・オーバで次回となってしまった。



与保呂桂城  日向城 殿村城と殿村支城 常城と木ノ下城
 亀岩城と芥子谷城  行永青山城と森城


与保呂桂城
 xx山 Ca230m  舞鶴市字与保呂小字桂

上与保呂村と下与保呂村(常村・木下村)の三ケ村から成っていた与保呂村の氏神で、与保呂川沿いに伝わ 蛇切岩伝説の主で大蛇に化身した”おまつ”を祀る日尾池姫神社をベースにしての城廻りです。倉梯(倉橋)郷の領家は丹後守護:一色氏の 守護代延永氏で延永左京亮の頃、与保呂に小倉筑前守や地頭に小野寺氏が見える。
与保呂桂城:主郭東尾根側の堀切

与保呂上村の城主に波賀隠岐守・時岡源之丞の名があり、殿村城(上与保呂城)と殿村支城や、与保呂川を挟んで呼応する日向城や流域最奥に位置する 与保呂桂城までの、与保呂地区内の諸城を持っていた様で、 与保呂桂城から西へ延びる尾根先端部が与保呂川に落ちる付近 ・日尾池姫神社前に渡る橋名は「羽賀谷橋」とあった。波賀氏の領内・勢力を示すものかは知らないが?。
与保呂桂城主郭・中央に円形土壇がある

更に下与保呂村との境から与保呂川上流を胡麻峠に向かう山越えの間道は三国山境を 蛇切岩伝説の美人姉妹の里:黒部谷や、祖母谷源流を降れば東舞鶴ICの堂奥へ戻れる!!。胡麻峠は若狭高浜や京都丹波の綾部市上林地区に通じる間道でもある。小さな山里の谷筋にしては、異様に城砦が多いのは!!若狭守護武田氏や丹波上林郷の 生貫城(上林城)の室町幕府被官上林氏等の侵攻に対する警戒・監視の為なのでしょうか!?。
与保呂桂城:主郭から西や南の尾根筋に小さな段曲輪を並べる

与保呂川上流の桂川は舞鶴三名水の一とされ、林道?入口の浄水センタ・岸谷ダムから少し進み、 桂橋を渡ったところで急勾配の車道を過ぎると”桂貯水池”前の広い?親水公園風に着く(桂橋から与保呂桂城へ取り付いた為、 対岸から貯水池と公園 ?えお樹間越しに覗いただけで現地は未訪!!です)。与保呂川(桂川)に源水を求め・
与保呂桂城主郭西尾根の二重堀切(上方から

明治33年(1900 )に建造された旧海軍鎮守府の軍用水道施設ながら、現役で使用されており、近代化遺産としても国重要文化財に指定されています)前の広い親水公園風の所に着く。 岸谷ダムも日露戦争による軍事拡張に併せ、明治38年(1905)に桂貯水池増強工事と共に完成しています。日尾池姫神社から岸谷ダム ・浄水センタ入口へ、更に桂浄水池へ進むが、与保呂桂城へは桂川対岸(右岸)の丘陵山頂部に在り、対岸へは桂橋の先と桂浄水場のダムサイトしか無さそうです。
与保呂桂城:主郭西尾根の二重堀切(下方から)

桂橋を渡って林道は「蛇切岩」案内標示の指す急斜面の上りにかかる。此処に丸木橋が架かり対岸 (右岸)に渡るが、尾根筋へは直登も出来ない激急斜面。桂浄水場側へトラバースしながら徐々に高度を上げながら尾根筋に出た。 東尾根筋は急斜面でもなかったが、主郭直下に堀切が一本ある。
殿村城主郭から愛宕社を祀る東曲輪(左斜面には竪堀を観る)

余り広くない主郭は20㎡程だが、その中央部に僅かの段差ながら円形の土壇がある。主郭から南の尾根筋は段差も 1?2mで明確ながら、極小規模の段曲輪が4?5段続いて堀切となる。 主郭から西尾根へも山道と混同しそうな小曲輪群の下方に、 二重の堀切を敷設して城域を確保しています。ほんの数名分の小曲輪群・主郭も10数名が動けるスペースが有るだけだが、切岸高くもなく土塁防備も無い。
日向城主郭尾根側の大堀切

おまけに中央部を櫓台とも思えぬ?低い段差の土壇が占める。物見の砦規模?は、 小規模城郭というよい・時代的に古いタイプの城郭と考えられますが、築城時期・城主については不明です。二重堀切を越えて西尾根を下り、与保呂川側の日尾池姫神社西「羽賀谷橋」を渡る。 保呂上村の領主波賀隠岐守に関係するものか知らないが。

(舞鶴の山城<舞鶴山城研究会>・舞鶴市水道部資料を参照)


日向城  xxxx山 Ca170m 舞鶴市字与保呂小字立原

与保呂桂城を降りてきて「羽賀谷橋」を渡り、日尾池姫神社から続く桜並木の沿道を西に進むと、 北方の点名:羽賀谷(319m)から南西へ延び出す尾根先が台形の稜線を見せる。丘陵尾根は急斜面となり、先端部を与保呂川に落とすが、 台形に見える緩斜面上の東西約 100m程の尾根の前後を堀切で遮断して城域を確保している日向城が在りました。
日向城 :小曲輪群も主郭と上三段程は比べて広く切岸も有る

与保呂桂城も此の点名:羽賀谷の峰から東南へ延びる稜線上に有り、城址から西へ延び出す稜線末端が落ちる所 ・日尾池姫神社近くに 羽賀谷橋が有るが寧ろ日向城の西面を北の奥深く・点名:羽賀谷近くまで入り込む谷川に羽賀谷川・日向城の南山麓の与保呂川に架かる橋名が羽賀谷橋・神社近くの橋を姫橋とでも呼んだ方が馴染みの様に思えます。日向城とは与保呂川を挟んで左岸(約800m程南方)の山頂には殿村城(上与保呂城)が在る。上与保呂村の城主に波賀隠岐守 ・時岡源之丞の名があり殿村と呼ばれるのも報恩寺側。
日向城域東端(尾根側)の大堀切(窪地は落し穴?)

日向城は西面の与保呂地区入口付近から望むと低丘陵(比高100m)ながら、与保呂川右岸に山塊の先端を急傾斜で落とす山容に、精悍な山城風情を感じるが、日尾池神社側からは、 穏やかなで平坦な丘陵上に建つ・優美な城館が想像出来そうな雰囲気です。地形図には羽賀谷橋の下手に掛かる「仲ノ坪橋」から北に向かう付き当たりに鳥居マークがある。祀られる神の名は解らないが、金色の丸に「金」の文字・・・は金毘羅社を祀ったものか?。 祠の背後に続く踏み跡は竹薮混じりの明るい尾根。
日向城域西端の堀切

急傾斜もない尾根を辿り、点名:羽賀谷から伸び出してきた主尾根に乗って右手(西)へ下降気味の主尾根筋を追い進むと、緩衝帯の様な長い平坦地形の先に土塁を観て日向城の尾根側を遮断する大堀切に着く。 堀切中程には綾部市や福知山市の山城でも見かける落とし穴状を見る。城遺構とも思えないが、通行部分が限られる堀底通路は・捕獲用の罠なら効率良く 有効なのかも知れませんが!!?。主郭から尾根先には・幾段もの小曲輪を積み並べるが、城内では上から3段程は比較的大きな曲輪で、尾根幅一杯(18m程X20m程)に削平され・切岸をもつ。 最下段にも堀切を敷設して城域が確保される。
殿村城:東曲輪に祀られる愛宕神社

城主等城史は不明ですが、周辺の城砦に比較して、殿村城(上与保呂城)の波賀隠岐守が、与保呂川を挟んで呼応する日向城には、縄張りの確かさ?からも波賀氏一族か時岡源之丞が拠り、 殿村城の前衛に置かれた殿村支城や、知らせの城(若狭・丹後・丹波の国境近く)として与保呂桂城にも、一族家臣や監視の城塞を築き、一族・家臣団等が拠ったものか?。
(舞鶴の山城<舞鶴山城研究会>を参照)


殿村城と殿村支城
殿村城(上与保呂城) 愛宕山(点名:生水 229m)  舞鶴市字与保呂小字生水

東舞鶴駅から片山城山麓西を与保呂川沿いに 南下して府道487号線に出る。倉梯郷最東南端の与保呂桂城・日向城を廻った後で、同一尾根上に近存する殿村城と殿村支城に向かった。 車での移動では何時も登城の為の取付点探しと駐車場所に苦慮するので、今回も日尾池姫神社の境内スペースに車を置いて四城を廻った。
殿村城西尾根:主郭側の堀切

距離は其れ程離れてもいないし、大手や搦手を考えてみれば山城を訪ねて登城口と下山ルートが同じという事は殆んど無いがオフコースも多くて、 与保呂集会所や小学校正門前の与保呂川側のスペースが利用出来れば行動時間の余裕が出来て助かるのかも・・?。与保呂小学校の南方 ・報恩寺背後の丘陵頂部愛宕山(点名:生水229m)から北西に延びる尾根の先端を墓地や田圃側に落としている。 此の三角点標石が埋まる山頂に主郭を置き、東側に5m程の切岸をもって愛宕神社を祀る広い東郭を持つ殿村城が在り、
堀切間の長い空間に城遺構らしいものがないまま現れる堀切

山頂から東北への尾根続き ・下方には殿村支城に在りました。地誌に中世波賀隠岐守が拠ったという上与保呂城があり、小字国居(殿村支城のことか?)には時岡源之丞の別城があったと伝えます。殿村城の最高所から北西へ延びる尾根の先端部が、 田圃を挟んで与保呂小学校の真南に当たる。殿村支城の尾根に挟まれる 谷間の裾に報恩寺が在る。養老山報恩寺(臨済宗天竜寺派 )は南北朝期の康歴元年(1379)普明国師の開山を伝える龍勝寺末寺とある。”殿村”と呼ばれるのは報恩寺周辺で当然・取付き点の第一候補だが、寺からは尾根へも・寺の東方の神社からの谷詰めも、背丈を越える深く猛烈な藪に ・荒れた竹林帯も有る様なので、
殿村城北尾根の二重堀切

北方からの侵入は諦めた。 下山ルートを過って降ってきたのが与保呂小学校真南の尾根先だったが、此処は山裾を個人墓?が占有。しかも墓地上は踏み跡等は獣道も見ない広い湿地帯。山裾は斜面沿いに東に向かって随所に墓地が有るが、数段上方に続く墓地から主尾根筋を愛宕山(点名:生水 229m)の三角点峰山頂に位置する殿村城に行けるのかも?。
殿村城主郭の北斜面に(三条が平行に落ちる)畝状竪堀

殿村城支城と殿村城の在る愛宕山山塊の東には、南から北へ流れ出る谷が 日向城の南西尾根先で与保呂川に流れ出る。与保呂集会所から山麓の集落内に向かい、此の小谷を対岸に渡り・狭い民家に間の坂道を登っていくと民家の陰に鳥居が見える。北の殿村ではなく・東から急斜だが短絡お手軽コースが有った。 鳥居から墓地を抜け山頂の愛宕社まで参道が通じている。「気をつけろ・・」と言われるが、今の時期なのでコバエ・ダニ・蛇には悩まされるが、 此処でも入山時に”熊が出る”と聞かされ驚かされる。殿村城と殿村支城は丘陵尾根筋の西を菅坂川が流れる。
殿村城西尾根末端の堀切

谷を遡り菅坂峠を超えると丹波(綾部市の上林地区)に到る峠越えの道で、菅坂川を挟んで西の丘陵上に在る木ノ下城と呼応して、丹波綾部の上林郷の領主 :上林氏等の侵攻に備え、北方の与保呂川沿いには丹後街道の要衝を、小倉?堂奥を経て与保呂へ入ってくる通行や、丹後・若狭(高浜)・丹波(綾部)国境の胡麻峠を越えて侵攻してくる若狭武田勢や丹波上林氏に対して警戒・監視を強める城砦群が集中して築かれています。参道を登り詰めて木の鳥居が立つ東郭前に着く。3m程の切岸で囲まれた30mX25m程の方形曲輪内に愛宕神社が建つ。
殿村支城:事前防禦施設のないまま城域に入る!!

背後に6?7m程の切岸をもち、神社の左手から上り土塁を 愛宕山山頂の殿村城主郭に上がる。北斜面に竪掘が三状・畝状に並んで落ちる。竪堀を観ながら北尾根を進むと直ぐ急斜面の下に二重堀切が有るが、後は遺構無く!!?尾根先に向かって下っていくだけ。西へは比較的緩斜面の尾根が降り、 直ぐ下方に堀切が見える・・が其処から鞍部までダラダラ下った先、細い尾根上に曲輪段等の城遺構を観ない?まま、随分と離れた下方鞍部に堀切を観る。


殿村支城  xxxx山 Ca150m  舞鶴市字与保呂小字生水・国居?

先に殿村城へは愛宕神社の参道が利用出来・楽々訪城が適ったが、主郭から二方向の尾根に堀切を見て 北側の尾根を降った。方向が怪しいので登り返し・更に北への別尾根を降ったが此の尾根も怪しい?。殿村城からの北尾根伝い・約300m程下手に在る 殿村支城を目指したが方向を見誤ったまま、湿地帯・墓地に降りついて与保呂小学校の真裏手の田圃の畦道を辿って
殿村支城の堀切と小曲輪

地区道に出た。再度同じコースを殿村城丘陵東裾の集落に戻って、地区道から谷川を渡り・狭い民家間の坂道を登り、右手最初の民家裏手から踏み跡を辿る。先の愛宕神社参道(山道)への手前80m程、 目星を付けていた侵入口の竹林から、滑りやすい笹の落葉が積もる急斜な尾根筋を進むと、途中に防備の堀切・切岸のある曲輪を見ないまま、 幅8m程の狭い尾根上に、削平状態はあまく自然地形に近い小曲輪が並ぶ。
殿村支城:腰曲輪から削平もあまく幅狭い尾根上の曲輪に入る

最初の北東端部・低位置にある城内最大?(8mX20m程)の細長く傾斜を残したまま自然地形に近い曲輪が主郭か?。尾根続きの堀切を越せば殿村城に到る。日向城と与保呂川を挟んで呼応し、殿村城の出城として、 監視についた物見の砦なのか?。
(舞鶴の山城<舞鶴山城研究会>を参照)

常城と木ノ下城
常城 xxx山   Ca220m  舞鶴市字常小字椿

東舞鶴ICを出て舞鶴若狭自動車道沿いに南下して与保呂川沿いの府道487号線に出る。与保呂村は此処で左折する与保呂川上流(桂川?)の上与保呂村と、右折する西方の下与保呂村(常村・木下村 )の三ケ村から成っていた。最も下手が常で、 地図で見ると与保呂川が大きく流れを北に変える角に亀岩城(行永城)が在り、 川南の左岸は常新町、 其の南に京月町・京月東町がある。府道487号線に合流するところ:与保呂小学校前バス停の正面 ・若狭自動車道高架の先に木ノ下トンネルが見える。
常城の土塁と土橋付き空堀

トンネル上に木ノ下城があるが、府道からも地区無いからもトンネル出入口の高架下に行き着けそうな道も見当たらない?。 とりあえず今回は与保呂小学校正門前の駐車スペース?を利用して元の場所に戻って、西の下与保呂村の諸城に向かう。・・とはいえ土地勘も無いところで、取り付き点も分からず狭い地区道に入って行っても駐車場所にも困って引き返すのがオチ!!。常(木ノ下も元・常から分かれた )には常城と木ノ下城京月城(下与保呂城)の三つの城が在ったと云う。 京月城は宅地造成等により消滅してしまったものか所在・残存状況ともに不詳。
常城主郭:土塁囲みの東面

自動車道高架下を進むと木ノ下集落南東端で菅坂橋を渡ると地区道の東入口だが、此の南へ深く入り込む菅坂川が菅坂峠を越え、丹波(綾部市)の上林郷を繋ぐ生活道路としても 利用された古道の様です。 与保呂川上流の胡麻峠越えは若狭武田氏の侵攻に備え、此の菅坂峠に通じる道は綾部上林氏等の侵攻に備え、東側の上与保呂村側には殿村城・日向城等が在り、城主には波賀隠岐守・時岡源之丞の城が築かれた様ですが、菅坂川の西:下与保呂村の城主については不詳。領家に守護代:延永左京亮の時、与保呂に小倉筑後守の名は見えるのですが・・!?。
常城副郭(北郭)側の土橋尾根から左右に落ちる竪堀

常の西隣:与保呂川沿い西入口部の 常新町近くには延永氏が若狭武田氏との戦いに籠城した倉梯城が此処ではなかったか?と溝尻城の他にも推察される亀岩城(行永城)と芥子谷城が隣接しています。常城と木ノ下城は南の323m峰から北西の峰中程に常城が、 北に延びる尾根先に木ノ下城が在って尾根続き。常の福聚寺から稜線伝い二城同時に制覇したかったが登路不明。大慈山福聚寺(臨済宗東福寺派)は殿村城北麓の報恩寺と同じく龍勝寺(霊園の 最上部・愛宕山に芥子谷城が在る)の末寺です。取付き点を探しても常 ・木ノ下集落内の民家が建て込む地区道からは侵入口が見えず、 此処でも木ノ下から南方の谷に深く入り込む杣道を辿ってみた。
木ノ下城:尾根続きを遮断する堀切

民家奥からは古墓が谷奥に暫く続く。杣道も荒れた雑木に隠れ消え、丘陵に向かうが長い激急斜面に悪戦苦戦。尾根筋不明の木ノ下城を後廻しに、 先ず北西の尾根を下る。下降する尾根筋が長い緩衝帯の様な平坦地形が続く中腹部に、土塁曲輪か?、土塁は土橋付き堀切!!というより、残存状態も抜群に綺麗な土塁・土橋と主郭南面を囲む空堀の様。
木ノ下城主郭?堀切間は幅の狭い尾根

上り土塁から主郭(東西約20mX南北30m程で南?東面に土塁を積む)南端の幅のある土塁上に立つ。 緩斜面の先に北郭(大小二段の曲輪)があり15?20m程の土橋状の幅狭い尾根筋には北東斜面に二本・西斜面に一本の竪堀が敷設されています。 雑木の尾根筋で唯一・常や木ノ下集落がこの付近からは眺望できた。


木ノ下城 愛宕山 Ca145m  舞鶴市字木ノ下小字中

323m峰から北の木ノ下集落へ延び出す尾根先ピーク上の木ノ下城と北西へ延びる尾根先が常集落・京月東町へ落ちる丘陵中程の在る常城・二つの尾根分岐付近へ木下集落からの谷を詰め上がってきた。 始めに常城を訪ね戻って来たが木ノ下城への尾根筋に薄い踏み跡も見い出せず、323mピークへの尾根を辿り過ぎた。 深い藪と急斜面に目的位置を同定出来ず谷筋を降り墓地のある木ノ下トンネル東出口傍まで降りてきた。地形図にも激急斜面は覚悟だが、比高80m程の対岸の尾根上には木ノ下城が在る。
木ノ下城主郭:北西の小曲輪群の切岸

集落内からの侵入口が判らなかっただけに、疲れたが諦めきれず鹿・猪除けフエンスを 開閉して直登して、ピタリ主郭南東端切岸を越えて愛宕社の前に出た。祠造成により往時の縄張りは不明だが曲輪を囲む切岸・南下方へ土橋の様な幅狭い尾根先鞍部を遮断する堀切が一条。北端の鳥居から集落内へ参道が通じている。 殿村城と呼応して綾部市上林地区へ抜ける古道の菅坂峠監視の城と思われた・・・が、木ノ下集落を俯瞰する曲輪群・北方に眺望は有るが、 東の菅坂川側との間にある323m峰からの枝尾根に遮ぎられる。丹後街道の要衝を繋ぐ府道487号と下与保呂の領内を監視の領主の城か。
木ノ下城主郭:北西の小曲輪群の切岸

下与保呂・常村の領主については不明です。北端の鳥居から降り始める通路西面に段差をもった小曲輪が4?5段程並び、一番下?の段曲輪端から参道を下ると麓の墓地に出る。 畑の畦道から民家裏手の農道?を伝い、民家間の路地を地区道に出ると、2?3ウロウロした木ノ下集会所前。墓地や愛宕社への参道が此れでは、所在が分かっていても初めてでは登城も覚束ない。地元の熱心な城フアン以外に訪ねる 人も稀…?。
(舞鶴の山城<舞鶴山城研究会>を参照)


亀岩城(行永城)と芥子谷城
亀岩城(行永城・倉橋城・倉梯城) 八幡山 81m  舞鶴市行永小字芥子谷

芥子谷団地を挟んで約500m程の距離で、南の丘陵に亀岩城・北東の丘陵上に芥子谷城が在る。二つの城から東へ連なる 尾根伝いは倉梯山に繋がる。若狭武田氏と朝倉氏等援軍との戦いに・守護代延永氏が籠城の末に破れ自刃した倉梯城は諸説有りますが、此の二城もランクイン。ただ倉梯山は旧日本軍により砲台として造成された為に城遺構は確認されていません。
主郭の東尾根側に有る亀岩城唯一?の堀切

亀岩城の北方・芥子谷城の在る愛宕山に到る林道は、 山中に造成されている舞鶴霊園の参道で第一?第五駐車場が有り、最後の墓所からホンの5〜60m程緩斜面を進むと、愛宕山を祀る主郭?跡の着く。 此の霊園墓地入口に瑞雲山龍勝寺(臨済宗中本山東福寺派)が建つ。龍勝寺は奈良時代:天平2年(730)創建され真言宗に属していたが、
北尾根の段曲輪が聳立する高い切岸(6-12m程)を見せて阻む

南北朝期:応安2年(1369)改宗され、その後:若狭国・三河国の守護一色左京大輔詮範(あきのり)は東福寺に帰依しており、 息子・満範が丹後守護になったことで、応永2年(1395)龍勝寺に寺領150石を寄進している。 【注:丹後国守護h山名満幸だったが、 明徳の乱<明徳3年(1392)>に足利将軍に叛した山名氏を鎮圧した一色詮範の子:満範が山名氏に代わって丹後守護職となった】 詮範は応永13年(1406)に卒し、 ”龍勝寺院殿天宕行公大居士”の戒名で供養され、詮範とされる衣冠束帯の坐像や、
北尾根から続く西尾根の曲輪と竪掘り

鎌倉期の阿弥陀如来坐像および両脇侍立像(恵心僧都作!と云い舞鶴市文化財)・阿弥陀如来像(小野篁作!!)がある。丸山公園側から府道487号線の亀岩交差点 【手前の道端に蛇切岩の伝説:堂田神社が在る】に出ると、椿川が与保呂川に流れ出る合流点に架かる亀岩橋の正面に、 川面に緑を写す独立丘陵の山上部に亀岩城(行永城・倉橋城)が在りました。
北尾根(古墓地)曲輪に入る虎口!!?

城名からは倉橋(倉梯)郷の領主:延永(いくなが=行永)氏の居城か?。西舞鶴から白鳥(しろとり)峠を東舞鶴へ越えて、森・倉梯・亀岩から常を与保呂川沿いに、旧上与保呂村との分岐から溝尻城のある堂奥 (府道28号線)を小倉でR27号(丹後街道)に到る要衝(丹後・若狭)の街道筋で、 花山法皇が再興された西国観音霊場順路ともなり利用された道。 延徳2年(1490)若狭国守護は武田国信の子:元信が家督を継ぐと、元信は粟屋氏を重用し逸見氏の間に溝が生じ、
西尾根最下段の八幡神社と稲荷社?の祠を祀る曲輪から主郭側の高い切岸

永正14年(1517)逸見国清が丹後守護代 倉梯城(<庫橋城>溝尻城か?)主:延永修理進春信と謀り、叛乱を起こすが守護武田元信と越前朝倉氏の援軍に敗れ逸見氏勢力は失墜。春信は倉梯城に篭城して敗死。 合戦は両軍の死者は2000名を超えたと云われる幻の倉梯城が芥子谷に在る二つの城(亀岩城とも芥子谷城)とも溝尻城であったとする説がある。 亀岩城(行永城)は丹後守護一色氏の守護代で倉橋郷を領した延永氏の居城だったのでしょう。守護一色氏勢力が弱体化する中での延永氏の敗死。 亀岩城は丹後へ侵攻を繰り返す若狭武田氏が、建部山を本拠地とする一色氏攻略の格好の前線基地になったことでしょう?。若狭武田氏と関係の深かった細川晴国の家臣 上羽丹波守が代わって城主となった。
西尾根最下段の八幡神社と稲荷社?の祠を祀る曲輪:主郭側切岸上から・・

天正7年(1579)天下布武 :織田信長の命で丹後平定に向かった細川藤孝が西舞鶴の田辺城に白鳥(しろとり)峠を越えて臼ノ目城(十倉山城)<行けなかったが森城の西から取り付けそう?>の在る山が点名:城鳥で北尾根先端が 要衝の白鳥峠にかかる】侵攻し一色氏を倒して丹後平定を果たした際には、 嫡男の(同じ)丹波守が細川氏に付き以後:細川氏が関ヶ原合戦で功を立て(関ヶ合戦の前哨戦となった田辺城籠城線の事か?)、慶長5年(1600)豊前小倉 (九州)へ転封には従属して亀岩城は廃城となった。亀岩城(行永城)へは亀岩交差点北の上地橋で与保呂川を渡った東南の丘陵裾に無線中継塔が立つ。
北尾根段曲輪の高く急斜な切岸

此処から八幡社?を祀る西尾根側曲輪に入れるが、此れも登城口不明で訪城後に分かった道。橋を東へ直進・丘陵北麓の神社?脇を北へ捲いて、 芥子谷団地内への道 ・右手の宅地が切れる所で地肌を見せる崩壊斜面との境から、直ぐ上の藪地に入っていく砂盤にステップが刻まれた斜面を登ると、広い二段程の平坦地形 ・更に6?7m斜面上部に向かうと古墓地跡に出た。北は下方から曲がり込み、左右の土塁虎口状の開口部へと斜面を登ってくる。墓地北側は見上げるばかりの高い切岸(10m以上)となっている。
芥子谷城:愛宕社北面切岸を抜け広大な平坦地形に出る・・が?

北斜面に竪堀状を見て、上の曲輪に入ると、 更に高さはないが(前に比べてという意味で5mは有る)崖状の切岸。主郭へ続く曲輪は何れも幅も有り切岸の高低差は高くて崖状の激急斜面・左右に帯曲輪となっても広がる。同心円状に曲輪を積上げているようだが、 上段曲輪を南面まで巻き込む程ではないが、一つ一つの曲輪が大きく広く・丁寧に削平されています。 北尾根曲輪から西尾根へ回り込む帯曲輪からも竪堀が一条落ちる。西曲輪先端からは立木が無ければ難しい急斜面下の広い曲輪に八幡社?と稲荷社?らしい二神の祠が並ぶ。
芥子谷城主郭 ?の愛宕社と北〜東面の切岸

此処からの急斜な下山道が無線中継塔側へ降り着く。北尾根・西尾根から主郭に入る一段下の曲輪からも切岸は高く急で、一ヶ所だけ有る登城道以外からの侵入は、切岸を荒らし壊す?だけなので残存遺構保護からも避けて欲しいところです【自ら直接・遺構に触れ感触を楽しめる山城訪城の醍醐味ですが…】 主郭から東へも高低差10m程下方に土塁付き堀切が一本。
山頂に愛宕社を祀る土塁囲み!!?の芥子谷城が在る

更に緩斜面が延び下草藪混じりの中に物見台状(5㎡)のマウンドが有り、堀切との中間点付近には仕切り状の土塁か?段差も有る。物見台状から少し先は送電線:小浜線No28鉄塔だが、城址からの眺望が得られたのは 此の間だけで、与保路川左岸南の山麓一部だけ。常新町側からの巡視路は無さそう。


芥子谷城  愛宕山 Ca80m  舞鶴市行永小字芥子谷

龍勝寺背山の芥子谷城へのルートは上記導入部亀岩城と芥子谷城 に説明済みです。龍勝寺山門左脇から一車幅の狭い車道が丘陵頂部の愛宕山側近くの、舞鶴霊園第五駐車場まで続く。墓地造成工事で古墳等の遺跡 ・遺物の発見が有った様ですが、現地探訪や詳細はパスして、城址に向かうことにします。最上段の墓地から緩斜面の尾根筋を50m程で最高所に祀られる愛宕神社への石段参道を見ますが、左手を回り込む長い帯曲輪?へ直進してみます。
芥子谷城:造成中途で中止されたままの広い空地の様な帯曲輪

林道の延長線がまだ続いているのかと思えるほど、 幅広く平坦な道。芥子谷城の遺構は墓地と愛宕神社の造成工事で殆んど破壊されているのかもしれません。右手の高い切岸然とした主郭部の高みに祠が建つのが見える。右手の主郭切岸下の帯曲輪状を抜けると、 東北へ尾根幅約30mX長さ約70m程の平坦地が広がる。墓地として?・公園として?造成されたまま放置されている様な、 土取場跡地の様な空地だが、下草と雑木藪地となる曲輪北端からは、 溝状の傾斜面は一折れして・そのまま同様の溝状鞍部に合流して谷筋へ延びている?。大手登城道だったか?。現在使用されていう作業林道・杣道とは思えない!!?・・・・。
芥子谷城 :東北端から空堀状の道が鞍部へ下る(ただの杣道か?)

引返して東南隅から主郭に入る帯曲輪からの切岸や、 祠を囲い込む高く分厚い土塁囲みは、流石に丹後守護代:延永氏が篭城したが破れ敗死した幻の倉梯城候補地の一つ・・?と思えるスケールだが、神社造成によるもので、城(城館)の遺構とは関係ないという。霊園部・主郭・帯曲輪にかけて、 広大な城域を想定していた規模の、実態スケール・築城時期や城主については、丹後を平定後の細川藤孝が此の城に家臣を居城させたかさえも不明。もっとも亀岩城も龍勝寺の寺山と思われる?ので、藤孝の家臣:上羽丹波守や一色太郎 ?等が芥子谷城に分かれ居城したものか?。
(舞鶴の山城<舞鶴山城研究会>を参照)


行永青山城と森城
行永青山城  青山? Ca160m 舞鶴市行永小字青山

前回は常城 ・木ノ下城の探索には取付等に手間取り、少々バテ気味だったので、丸山公園(東舞鶴公園)周辺の城砦をロケハンして廻った。 テニス・コート、子供遊戯施設の側から展望台までは登ってみて、眼下の赤迫池の上方に行永青山城を見たが、公園南側の住宅地からは入り込む余地無さそうで、今回は府道487号線の起点となる亀岩交差点から東舞鶴公園側に渡って直ぐ、
行永青山城:東端の土橋付き堀切

川沿い西(左岸)を南側車道(府道51号線)に入って 600m程で、深くなった椿川の谷を挟んで府道は坂道を大きく右カーブする。 谷の東側は京月町と京月東町の住宅地だが、 その間には南方の舞鶴若狭道の行永トンネル上からの丘陵尾根末端が落ち込む。地形図では”常”とあり常三城の常城と木ノ下城京月城(下与保呂城)のうちの、京月城が此の比高20m程の丘 (3角点 点名:京月)に有ったのではと思えます。
行永青山城 :東郭・西郭を分ける堀切

行永青山城は椿川を挟んだ府道51号(行永から寺田へと菅坂峠を越えて綾部市上林地区に抜けるが、此処から和知や美山町へも通じる街道筋 )の西側の尾根上の標高 160m峰山頂部に在る。青山城へ北方からの取付は無さそう?なので南方の府道51号沿いに、駐車場所も有りそうな丘陵部最高ピーク191m南裾からを考えていたが、広い谷筋は山麓を迂回するだけの様。
行永青山城:主郭(西郭)の西北斜面に見る畝状竪堀群

先程の京月町へのカーブ分岐(直進する坂道が、 案内板にある藤森神社や京月町の新興住宅地への連絡道)へ戻る。舞鶴市南デイサービスセンター・ケアセンターが有り、府道を挟んだ北側 ・廃棄資材等一時保管?用地の山肌が切り崩された崖側に関電巡視路が延びている。青山城の東尾根末端を越えて、亀岩城の東尾根上の小浜線No28鉄塔に延びている。
行永青山城:北尾根のハの字状竪堀 (右手に竪堀一本と左手に畝状竪堀群)

急斜面の登城ルートに巡視路が利用出来るのは有り難い。送電線(小浜線No26)鉄塔の建つ尾根までは楽々到達出来るが、眺望は尾根先低位置の鉄塔からだけ。此処から関電鉄塔縄張り?内のテープを潜って・藪っぽい尾根筋を西の高みに向かって辿る。
行永青山城:帯曲輪から落ちる竪堀群

城域へは突然現れる土橋付き堀切から正面切岸上の虎口を抜けて曲輪に入る。単調な三段程の切岸もあまい平坦地形?の東曲輪群から堀切で区分され、 5〜6段の曲輪を越えて西曲輪群(主郭)に入る。主郭の西面を土橋付き堀切で遮断し城域を確保しているが、此の堀切から主郭北尾根に掛かる斜面にかけて、
行永青山城主郭(西郭)西尾根端の 土橋付き堀切

帯び状に延びる曲輪(犬走り?)から5〜7状の竪堀が西北方向に並び落ちる畝状竪堀群として敷設され、北端は北尾根を跨ぐハの字形竪堀(堀切)で、 東舞鶴公園の赤迫池側からの谷や尾根筋からの攻撃に対する厳重な備えを見せています。「牧野河内守樣高付覚」に:行永村(森城の在る森村の東南部 !!)に四つの古城【茶摩山<亀山城!?>・なへん地<行永青山城!?>・芥子谷<芥子谷城!?>・馬場<森城!?>】を挙げるが、茶摩山の上羽丹波守以外は城主不明。茶摩山は亀山城(行永城)と思われますが、 地誌に黒川丹波や一色太郎の名が、
森城西面の帯曲輪から落ちる畝状竪堀群

また伝承に・応仁の乱頃、室町幕府の幕臣池田(大和守)重房が京から移り住み、青山の山頂に城を築いたと云う。小野寺氏被官の矢野氏が溝尻城に拠った様に池田氏も幕府領として、 単に荘園領主ではなく、鉱山・精錬・製鋼等の在地支配者だったのでしょうか?。産鉄文化の中心的存在大森神社(弥加宜神社)を北方・正面に望む位置だけに、そう思えてきますが、築城時期・城主等の城史は不明です。


森城(藁谷城) xxx山 Ca80m  舞鶴市森小字池ノ谷

前回:東舞鶴公園の南側住宅地内から、行永青山城への取付き点探し、周回して広い子供の遊戯施設とテニスコートの間から、遊歩道を展望台に行ってみた。東方正面の低丘陵部に亀岩城と芥子谷城を見る。東へ延び上がる丘陵尾根続きの最高峰が倉梯山。南面は足下の赤迫池上方に行永青山城。森城は北西間近の丘陵だが位置が良く確認出来ないだけに、 相当の藪山覚悟が必要の様子。
帯び曲輪に沿って圧倒的な畝状竪堀群を整然と敷設する

展望台を降り ・弓道場傍から球場西側を周り、丸山町の住宅街を周回して森城へは、無理矢理・大きく進行方向を変えさせられる丸山西町新興住宅地内での取付き点を探しに、方位を見失いがち!!。唯一見つけた宅地内の南西端からの場所は、 南側の公園内の球場から緑ヶ丘団地へ抜ける散策道?から森城を目指し、北尾根筋を山してきた位置だった。 鞍部といっても団地内の地区道から見えている30m程先の作業小屋の側。なぜ覚えているかって!!?其処には「五十嵐ペペ」ちゃん ?の小屋があったんです・・・!!。伝書鳩の小屋かと思ったが、名前の主は眼光鋭い鷹だった。
圧倒的な畝状竪堀群を整然と敷設する割には雑然とした主郭部(北端から)

新興住宅地や団地内から 直接山林に入って行ける踏み跡程度の道は少な判りにくいものですね。・・・で今回・球場西側から、広い山の谷間をぬけて森の緑ヶ丘団地側へ抜ける遊歩道?を辿った。 公園と団地を結ぶ広い山道は健康ウオーキングの地元利用者は 少なくないようです。臼の目城への取付き探しを兼ねて、 緑ヶ丘団地最奥の民家も近い峠付近手前・森城南尾根先から、 足元も見えない下草藪と倒木と湿気た谷(絶好のマムシの巣窟の様な場所)を渡って対岸の丘陵尾根に取り付いた。
南尾根側の二重堀切から西斜面に竪堀群が畝状に並ぶ

急斜面だが比高40m程で城域南端の二重堀切に着いた。 鞍部というより南側が土塁状に僅かに高く(1.5m程)、北の尾根側は岸切った急斜面の・山の肩の様な長さ10m程の平坦部の 両端に埋もれかけ浅くなった二重堀切?。森城は此れより直ぐ上方の尾根に二重の大堀切を設け、尾根上100m程の城域 ・南北に段差も低い2つの曲輪を並べ、周囲を2〜3段の帯曲輪で廻すが、下草藪で判りにくいだけでなく、削平も荒い中規模・単郭の山城ながら、 主曲輪群10m程下方の斜面には南東部分を除く周囲約3/4程の範囲に堀切・竪堀が敷設されている。
空堀群端は北尾根を跨ぐ二重の竪堀と堀切で遮断・防禦する

東斜面北側には10数本の竪堀が畝状に落ちるが、森城の最大特徴は二重大堀切からの西斜面から、北尾根にかけて整然と並ぶ25条程の畝状竪堀郡で、 内20本程が此の先の帯曲輪端から落ち込み、注連縄というより・田楽等民族芸能にみる簓(ササラ)を想像する。 「倉梯村史」等によると 室町時代末期:元亀年中(1570-73)矢野藤平等・矢野一族が居城したが、矢野氏没落後に・一色氏と細川藤孝に属した高橋氏が入城した。
森城:主郭東北側斜面の畝状竪堀群

高橋氏は細川藤孝父子の小倉への移封に従っているが、此処に帰農した一族もいたでしょう。森城は藁谷(やらたに)城の別名を持つようですが、 此処に拠ったのが崎山氏・・・?(「倉梯村史」の伝承では臼の目城主として崎山氏を挙げている)。ただ森村の古城主に高橋佐吉(左京?)・橋本左京進?がおり、 臼の目城(十倉山城:点名城鳥240m山頂部)と混在しているのかも?。いずれにしても城主等の詳細は不明。
舞鶴・文化財めぐり(舞鶴市民新聞・舞鶴の山城<舞鶴山城研究会>を参照)


蛇切岩の猟奇伝説   舞鶴市字与保呂

与保呂地区に日尾池姫神社が在る。此処から与保呂川上流の桂川に向かう林道?沿いの数ヶ所の「蛇切り岩→」への案内標識を見る。 その昔:多門院(綾部市・福井県高浜町に境する三国山東麓)の黒部におまつおしもの美しい姉妹がおり、二人が与保呂の奥山へ芝草を刈に出掛けた或日・美しい若衆に出会った。 以来おまつはこの若衆に惹かれ心に深く刻み込まれた。
日尾池姫神社(与保呂)

そんな時おまつには親の勧める縁談がもちあがり、おまつの若衆に対する恋心は妹おしもにも見透かされ、 姉を家に連れ帰ろうとするのを拒み・行く末を悲観して池に身を投じて大蛇に化身したという。それからは大蛇が暴れ災いが起こるのでは ・・・と噂が広まり、村人たちが此れを退治しようと牛を模したモグサに火を点け、 池に投げ込んで食べさせた。
堂田神社(八反田南町・亀岩交差点近く)

火の点いたモグサを呑み込んだ大蛇は火に苦しんで・のたうち回り、池の水は大洪水となって溢れ出し、流された大蛇は下流で岩に当たって三つに断ち切れたという。其の岩を蛇切岩と呼び、村人たちはおまつの直向きで 純粋な恋心を哀れにおもい、また其の祟を怖れて頭部を「日尾池姫神社」に蛇頭松姫大神として丁重に祀った。 それ以後・不思議なことに日尾池姫神社には「おまつ 」の因縁でか松の木は一本も無い。
堂田神社側から亀岩交差点 ・亀岩城

亀岩城(行永城)の西約200m程の堂田の宮(八反田南町)に胴を、尻尾は行永・森地区(畝状竪堀群が城域を取り囲む森城が在る?)の大森神社(弥加宜神社)に祀った・・・・という。 美人姉妹のうちおしもの事も、何かの権化だったか?謎の若者の話が一切出てこないが続編があるのかな・・?。
(当地:日尾池神社の案内板・舞鶴市史を参照)


与保呂川は水・火(森林)・風(鍛治)に・・産鉄文化の地!!!?

前回訪城して先に 溝尻城をUPしていますが、大蛇伝説や地名考・神社祭神に金属・産鉄の蹟を追って見た。 倉梯(倉橋)郷の多くを所領とする領家は丹後守護:一色氏の守護代延永氏だが地頭に小野寺氏の名がある。小野寺氏は室町幕府直属の家臣で、被官として倉梯郷の一部を領しており、 其の家臣:矢野氏が在地支配を任されていたらしい。
霊園山頂に愛宕社を祀る土塁囲み!!?の芥子谷城が在る

応仁の乱 (1467-77)以後:若狭武田氏の家臣:逸見氏は、武田氏が栗屋氏を重用する事から溝が生じ、永正14年(1517)逸見氏は丹後守護延永春信と謀って武田氏を攻撃するが、守護:武田氏は幕府の救援を求め、連合軍の朝倉氏・朽木氏に追われて逸見氏勢力は失墜。丹後国に敗走して倉梯城(庫橋城)に籠城して抗戦するが延永春信も敗死。
亀岩城北曲輪(古墓地)から主郭への 段曲輪は高く崖状の切岸を聳立る

延永氏に代わって勢力を持ってきた 矢野氏が拠ったのが、倉梯城ではなかったかと推定される溝尻城ですが一色氏も立入れない小野寺氏の領地が在ったこと、 城址には「金属の神」ともされる妙見宮が祀られ、火の鎮めの愛宕社がある。 今回:倉梯山南側・与保路呂川沿いに訪城した諸城の東端・与保呂桂城登山口近くに日尾池姫神社・蛇切岩が有り、
東舞鶴公園:展望所から:赤迫池上の丘陵に行永青山城が在る

行永地区の東舞鶴公園近くの亀岩城(行永城)交差点の西100m程には、其の胴を祀った 「堂田神社」・尻尾を祀ったのが森の大森神社(弥加宜神社)。弥加宜神社は古代製鉄・金属の神を祀る。開創は四道征夷代将軍の一人 :丹波道主命で、 其の母:息長水依比賈の先祖で”古代製鉄・金属の神”として祀られる・天之御影命は、一つ目の 天目一箇神【山の神・火の神・製鉄(金工)と鍛治の神】と同神とも云われます。
行永青山城 :主郭北尾根のハの字竪堀(堀切)と竪堀(手前)

丹波道主命の母系の息長氏 (=行永姓に由来するものか!!?)は、金属加工の技術を持って、倉梯郷を本拠とした製鉄集団だったという。蛇切岩伝説の大蛇は、 氾濫を防ぐ治水の神としてだけではなく、鉄にも関連し、産鉄の三大要素?の豊富なを ・与保呂川に求め、は与保呂川上流の森に求めたものか?。は息長氏等の鍛治:金属加工技術集団に求められます。下与保呂の常・京月の西に隣接する亀岩町(行永城が在る)西に東舞鶴公園(丸山公園)がある。
森城:南尾根の二重堀切

此の北約1.2kmに大森神社が有る。 公園・球場の北西に森城を訪ねて、 降りてきた山麓・丸山西町の側溝の水は、酸化鉄分で赤茶けて、近くの意鉱泉でも有るのかと思える程。公園球場から住宅地内を北へ流れる側溝に繋がるが”カナ川”と呼ばれます。与保呂川上流の?日尾鉱山以外鉱山をきかないが、砥峰高原等で見る 鉄穴(かんな)流しの地形も無さそうで、川砂鉄や低丘陵部の露天掘り?での採取が主だったのか?。 与保呂川沿い・亀岩城(行永城)の東北は金屋町・芥子谷城(此処も愛宕山・愛宕社を祀る)が在り、
亀岩城:北の曲輪から西尾根曲輪に繋ぐ帯曲輪

二つの城は倉梯山から西に延び出す 二つの尾根筋の先端部・芥子谷の内に位置し、守護代:延永氏が籠城・敗死した倉梯城の推定城の一つでもあります。鉱山跡や精錬場等遺跡分布は未調査ながら、小野寺氏と家臣:矢野氏が倉梯郷の一領主というより、 幕府直轄の事業?としての鉱山の 採掘等監理に当たっていたのでしょうか?。鉄鉱・精錬に関連の伝説や地名が多く、矢野氏についての謎や繋がり、は改めて地元研究者の調査に期待したいところです。

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