舞鶴市:小倉城・小倉中安城 ・小倉薬師城・岡安支城・
舞鶴市 (五万図=舞鶴)
近畿の山城 小倉中庵城・小倉薬師城・小倉城 岡安支城
青葉山山麓公園ゲート(左手上)と青葉山の遠望

逸見駿河守昌経(まさつね)が築城した高浜城から望む青葉山は若狭湾に美しい姿を映す若狭富士だがR27号線(丹後街道)を舞鶴市堺の吉坂峠辺りまで来ると山容は東西に二座を並べる双似峰で険しい岩稜の西峰から東峰へ鎖場(今はアルミ梯)が設置されいずれにも青葉神社が祀られる。若狭・丹後国境の山は神もまた東峰は若狭彦神と若狭姫神の二座を、丹後側の西峰には笠津(うけつ)彦神と笠津姫神との二座・其々の国造りの神の男女2神が祀られてる。
南面の断崖上に岡安支城の曲輪がある

登山口は西峰南山麓の西国観音霊場第29番青葉山松尾寺からと 今寺の熊野神社から登った事があるが青葉山を源流に山腹の松尾寺側を流れJR小浜線・R27号線沿い志楽川が舞鶴湾へ流れ出る。慶雲元年(704)唐の渡来僧:威光上人が和銅元年(708)故郷の馬耳山に似た二つの峰(青葉山)を発見された。
小倉城:北西主尾根から 土橋付堀切と小段曲輪群を抜けて主郭に入る

此の山こそ霊峰と登っていくと中腹にあった松の大樹の下で法華経を唱えていると馬頭観音が出現、此処に草庵を造り安置したのが松尾寺との縁起を伝え、厳しい磐稜は修験道修行の場ともなっていたが崇神天皇の代:大江山鬼退治伝説と重複する土蜘蛛族が住んでいた。勿論其の頭領が陸耳御笠(くがみみみかさ)と匹女(ひきめ)で 朝廷の討伐軍の将は日子座王(ヒコイマスノキミ・崇神天皇の弟)。
小倉城:主郭から西へ落ちる長い竪堀

陸耳御笠と匹女は其の約650年後、由良川流域に現れ今度は聖徳太子の異母弟麻呂子親王を代将軍とする官軍に追われ山上ヶ嶽(大江山)に逃げ込みます。巨大中央権力による地方豪族を匪賊として退治する構図は平安時代・多田源氏の祖:多田満仲の子で摂関家・藤原家に仕えた源頼光の大江山鬼退治<酒呑天童子>伝説に引き継がれます。
小倉城主郭東南尾根:二重の土橋付き堀切

陸耳御笠等を討つ官軍により一帯が”血の原”と化したと云い字名に”血原(千原)”が加佐郡(現:福知山市)大江町の千原城周辺に残る事も、東舞鶴市街から向かう府道28号線とR27号(丹後街道)が交差する「小倉」にある。青葉の賊:陸耳御笠を追詰め射殺した際・其の血が流れたと云う小字に血原(千原)があり伝承を残す。
小倉城主郭部

千原の小倉に小倉中庵城・小倉薬師城・小倉城の三城を小倉地区の蓬雲山桂昌院から廻ったがいずれも築城主・築城時期等の城史は不明。入り込んだ谷は小倉谷?と思われるが、「加佐郡誌」に但馬谷市村出羽の城、また大久保城大倉播磨守?の城があり、共に天正9年(1581)3月細川幽斎に滅ぼされたと云う。但馬谷の市村氏の城が何処にある何城なのか大倉播磨守の城が大倉城を指すものかは知らない。
岡安支城:尾根上の土塁壕は旧日本軍の対空機関砲台跡か?

時代が大きく変わっても ・交通の要衝であったり豊穣な領地で有ったのかも。いずれにしても此処にも数ヶ所に城址がある。土地勘も無く行き着けなかったが、小倉の東方には花の寺としても有名な名刹:金剛院の背後の丘陵上には天正元年:細川幽斎に落された竹内主膳の鹿原城が在る。R27号金剛院口交差点側の鹿原神社からと思っていたが小さな神社へは車両侵入禁止、金剛院への狭い地区道は工事中、深い谷川を挟んで金剛院三重塔付近から奥の院?へ向かうものか?途中まで踏み跡は有りそうだが入山は禁止かも?。車道最奥の公園も造園工事中。小倉を西へは小倉姥ヶ谷城がある。此処もゴルフ場への入口?終点に双発の軽飛行機が展示してある喫茶店風の建物近くまで入ってみたが 取付けそうな雰囲気ではなく・丘陵東?北面は採石場の崩された断崖状。其の西が”市場”で現在:祖母谷川を挟んで西に市民病院や 大門七条・三条・東舞鶴駅前に中心街が移っているが元は市場が其の中心地。R27号沿い南側丘陵上には市場城があった。設楽五郎右衛門の城だったが永享12年(1440)一色氏に代わって若狭国守護となった武田氏の被官人逸見駿河守昌経 (まさつね)の持城となったと云うが対:一色氏家臣団との戦いの出城だったか?。応仁の乱(1467-)以後:西軍一色氏の丹後加佐郡に東軍の若狭勢力が侵攻するが其の主力が逸見氏だったが若狭守護:武田氏は栗屋氏を重用し逸見氏との間に溝が生じ永正14年(1517)逸見氏は丹後守護代延永春信と謀って武田氏を攻撃するが武田氏は幕府の救援を求め連合軍の武田氏・朝倉氏・朽木氏に追われて逸見氏勢力は失墜して丹後国に敗走。延永氏は倉梯城(庫橋城)に籠城して抗戦するが延永春信も敗死する。合戦に死者は両軍で2000名を超えたと云う。其の倉梯城が横溝城とも亀岩城(行永城)ともされるが此処:小倉交差点から南へ向えば横溝城・R27号を進めば横溝の亀岩城。往時:東舞鶴の中心地だった市場・交通の要衝だった小倉周辺の諸城が、丹後支配時頃からの逸見氏のものか?、此の合戦時に武田方の付城となったか一部の城が対武田勢監視・防戦の砦となったかは不詳です。 舞鶴市の山城な中でも大規模な小倉城さえも大倉播磨守が此の城主であったか城史は不明。下見だけで終った山城は松尾寺から北への山越えで登尾に出て朝来川沿いに府道772号を辿るコースは府道合流地点に登尾城を望みながら残念する。西へ少し降ると青葉山山麓公園に出る車道があり、車道西(右手)先端付近の丘陵上には岡安城があるが此れも同様。此の尾根南先端の断崖絶壁上に位置する岡安支城には青葉山山麓公園南入口のゲート側から枝尾根を詰め主尾根の先端部の遺構を確認したが東面から舞鶴湾に来襲する敵機警戒の高射機銃砲設置の土壕なのか。盗掘後の古墳の様な円形窪地が数ヶ所あった。



小倉中庵城・小倉薬師城・小倉城 岡安支城

小倉中庵城と小倉薬師城・小倉城
小倉中庵城  xx 95m 舞鶴市小倉小字中庵

舞鶴若狭自動車道の全線無料化実験は終了(H23.6.19)したが間際になって東舞鶴と若狭小浜近辺の山城を幾度か訪ねる事ができた。計画予定日が雨で順延・見残した山城の幾つかを訪ねてみようと通い慣れた!?東舞鶴ICを降りて府道28号線に出る。溝尻城を左手に「堂奥」交差点からの長い直線道路をR27号との
主郭と腰曲輪の切岸

交差点「小倉」に向かって走る。小倉交差点約km手前右手・山間に入っていくような車道を採って 小倉地区内に入ったが此の近く:車道側に長い黒板塀に囲まれたお屋敷があった。小倉には行永家住宅昭和50年 (1975)指定の国重要文化財が此れだったか?、幅狭い地区道内の駐車スペースもなさそうで確認できなかった。R27号「小倉交差点」に出てしまえば右に折れ10数mで直ぐ右手幅狭い車道を入っても 此の道に繋がる。
土橋付き堀切

更に狭く感じる車道を更に集落内の谷奥に向かって進むと 遺構が完存するらしい小倉古墳等もある。最奥の民家先・左手(東)南方から延び出してきた丘陵先端に卍マークの有る臨済宗南禅寺派:蓬雲山桂昌院前に着く。地理不案内の為・此処の駐車場と思われる広い草地の端に車を置き、此処をベースに小倉中庵城・小倉薬師城・小倉城を目指してスタートしたが、
中庵城主郭内部

更に奥地に延びるダートの林道を進めば広い駐車スペースもあるので 今回の三城廻りには思い切って寺より先のオフロード道に進んだ方がよかった。小倉中庵城から尾根伝に行き着けると思えた 小倉薬師城の所在位置は、踏み跡もなく猛烈な羊歯の海・倒木を避けての進軍に見失い、尾根を詰めた小倉城からの帰路にも狙ったが深い羊歯の沼地をさ迷う様な斜面を避けて降り、
中庵城の枝尾根から北主尾根に出て土橋?を渡る

林道を戻る桂昌院迄200m程手前の広く奥行きの浅い沼地状の湿気た谷を挟む南東丘陵上を狙って行き着けた。谷入口に小さな石仏が祀られる山道から北東の丘陵を目指せば小倉中庵城がある。其の林道入口部から先ずは小倉中庵城へと丘陵に向かう山道に入るが古墓地に続く道は直ぐ墓地で途切れた道の先からは急斜面だが比高は40m程・疎林の斜面は藪という程でもなく丘陵上に向かう。
小倉城北主尾根の土塁線?

傾斜が弱まると下草藪となるが築城目的が殆んど意味不明?の低段差・極小曲輪群を5-6段越え、西面に主曲輪の2m程の切岸を見て、やっと中庵城城域(50X50m程)に入った実感が湧く。最高所の主郭は不整地な15x8m程の規模だが尾根続きの東面の鞍部に一本の土橋付き掘切が城域を遮断しています。
=========================================================================
小倉薬師城 xx 115m 舞鶴市小倉小字薬師

小倉中庵城東面の土橋付き堀切を越えて尾根伝に小倉薬師城を目指すが羊歯に埋もれ倒木で遮断される尾根筋の踏み跡は消え、北方から伸び上がってくる主尾根に出て・やっと細々として踏み跡が広く緩斜な尾根筋に現れる。薬師城へ続く尾根幅は広く・一帯が羊歯藪に包まれて方向定まらず、おまけに荊棘の弦に進行を妨げられ諦めて林道に降り・
幅広い尾根・藪に埋もれる低い段差の曲輪群

上記の石仏が祀られる谷間の南側から丘陵上の城址を再度下方から攻めなおした。この奥域の短い小さな谷を挟んで北側の中庵城とは直線距離で約200m南東側丘陵上部が薬師城。尾根先の緩斜面に築かれた同規模の砦ながら中庵城より更に不可解だが、 共に小倉城に関連した臨戦時に築造された陣城の様です。
尾根続きの土橋付き堀切

下草藪中に殆んど区画の見分けも解らない程 ・僅かな段差?・小さく奥行も狭過ぎる曲輪は削平も甘く、城址の認識が無ければ展望も余り効かない広い緩斜面の尾根筋。背後に続く平坦な尾根筋には藪に隠れた堀切が一本あるだけ。枝尾根上に堀切が無ければ城址遺構の判断も難しい小倉中庵城・小倉薬師城に比べ、此れ等の枝尾根を分ける主尾根上に点在する二ヶ所の土橋状・土塁状・広い2-3段の平坦段のほうが城遺構かと思える。
幅広く緩斜な下草藪の尾根上に低段差の小曲輪がある

土橋は幅70cm程と狭く蛇行さえしているが 両端の段差は 1−1.5mと高くしかも垂直に近い。土橋左右には杣道と思える踏み跡もない。広い曲輪状の先に現れる土塁線状も小倉谷側にあり、内側は溝状で山道として利用されていて自然に土塁状になったのかは分からないが歩き易い尾根筋からは離れている。是等の緩斜面上の遺構?を過ぎると傾斜を増す尾根上を遮断して城域を確保する城内でも最大規模の土橋付き大堀切を見て小倉城に辿り着く。
========================================================================

小倉城(マサコ山城) 真迫山? 328m  舞鶴市小倉小字村奥

舞鶴若狭自動車道の東舞鶴ICを降り溝尻城を望み祖母谷川を渡り府道28号線からR27号線(丹後街道)の小倉交差点に出る。若狭・丹後に境する青葉山を源とし、松尾寺近くから流れ出た志楽川がR27号線に沿い東舞鶴湾に流れ出る。小倉城はR27号線・志楽川に合流する小倉谷川の源頭に位置する標高328m(真迫山?3等三角点)に主郭を置く。
小倉尻城:北西主尾根から土橋付堀切と主郭側の小段曲輪群切岸

舞鶴市内最大規模と云われる溝尻城には及ばないが小倉城も規模の大きな有数の山城です。登城ルートを知らないが、南の多門院集落から鹿原の金剛院へ抜ける山道の尾根を辿るのが良さそうですが明確な踏み跡は無さそうです?。
小倉城北西主尾根側の小曲輪群

小倉城からの北西尾根筋が卍マークの蓬雲山桂昌院へ落ちる枝尾根先にある小倉中庵城・小倉薬師城の訪城を兼ね小倉城を目指す。約150uの大規模な城域で主郭の四隅から延びる尾根上に小規模曲輪が配置され 段曲輪群を積む北東尾根を除き大きな掘切が敷設されているが何れもが土橋付き?。尾根南?西面にかけては竪堀も3−4条敷設される。北西尾根に城域最大の土橋付堀切を越え段曲輪を通り主郭北西角から主郭に入る右下へ竪堀が落ちる。
主郭西面の切岸

主郭から東北への枝尾根上にも小曲輪群が並び志楽川の丹後街道(小倉・鹿原)からの侵入を意識している様。 南西へ伸び出し祖母谷川を眼下に望堂奥交差点北東側へ突出す尾根側は二重堀切で遮断。多門院集落から鹿原の金剛院へ越える峠道へと南東へ延びる尾根は、 峠から約1km程で福井国境尾根に接する。
小倉城主郭東南尾根上の土橋付き堀切

主郭から此の南東への 尾根上も二重の堀切で防備されているが何れも土橋付き。臨戦に際しては土塁を切り崩して遮断するのでしょうが、堂奥への南西尾根にも若狭から黒部谷を越え祖母谷川へ降ってくる間道監視には適所の様です。 堀切土橋が有ることでも尾根上に出曲輪の存在を感じるが、これは舞鶴山城研究会の調査を期待したいところです。
(舞鶴の山城:舞鶴山城研究会を参照)

岡安支城 大師山?60m 舞鶴市吉野小字大師山・朝来中

R27号線小倉交差点に出る。国道沿い西約800m程の小倉姥ヶ谷城は双発の軽飛行機が展示されている山裾のゴルフ場?関連の建物で行き止まり。東の花の寺:金剛院背後の鹿原城へも行きあぐね鹿原交差点で 志楽川を渡り北方:岡安の「青葉山ろく公園」に向かう。以前に河辺川沿いの山城探索後の帰路に舞鶴湾沿いに自衛隊病院・東舞鶴駅方面ではなく 手前(北方)で朝来川沿いに鹿島・小倉で舞鶴ICに入った。
ゆい一遺る堀切

路線を変更し府道772号線に合流すると 左手には朝来川沿いに北から延び出す丘陵の南先端が土砂採取で崩され断崖となり車道側に落ち込む断崖上に岡安支城がある。細長い南北約1.3kmの半独立丘陵を北方から西山裾を流れる朝来川が自然の濠となっており丘陵北端に岡安城・南先端が岡安支城で 朝来川上流・岡安城の東に登尾城が在る。
主郭は崖上に単郭の小城

登尾城の東からは松尾寺へ通じる林道(一般道として利用されているので拡張・改修済の様!)がある。府道772号線は登尾から潮汲峠を越え若狭高浜町に入る。岡安城の北には南朝方の遺臣登尾兵衛屋敷があったと伝えられるが登尾城・岡安城が若狭・丹後通行の監視にあたっていたものか。岡安支城は更に舞鶴湾からR27号(丹後街道)を介する若狭・丹後交通・輸送の警備に充った監視砦か。
主郭腰曲輪の先はスパっと切れ落ちた断崖

大浦半島の西南・喉元に舞鶴湾を望む朝来(あせく)がある。海軍工廠(海軍直営の軍需工場)の中でも艦政本部(海軍大臣に隷属した大日本帝国海軍の重要な官衙)所管の火薬廠として村地は取り上げられ村民は強制立退きさせられた。朝来川は岡安支城の西南山麓を舞鶴湾に流れ出る。舞鶴湾・火薬廠を攻撃に飛来する敵機を警備する為に其の直近・岡安支城の在る丘陵上に配置された第二次世界大戦中のものか?、日本海軍で使用された固定式対空機関砲(高射機関砲)等の機関砲台の
主郭から崖上迄に二段程の腰曲輪が延びる

円形土塁壕跡か3-4ヶ所ある。城址へは朝来川沿い南西の果樹園内を抜ければ丘陵南先端の崖淵に沿い樹木間を登れそうだが此れを諦める。南東裾の住宅街からは城域まで比高20m程だが・激急斜面の中程に 洞穴が見える。侵入口は塞がれているようで 洞穴近くに錆びた立入禁止の標柱を見る。旧軍用の防空壕等施設らしいが此処も諦め、尾根筋を目で追いながら東へ5-600m程に見える”青葉山ろく公園”入口のゲートの側から
現状で最南端曲輪切岸・1-2歩後ろは断崖

主尾根(北端に岡安城?南端に岡安支城がある独立丘陵)へ踏み跡を辿り藪を潜って南端の岡安支城へ向かった。緩斜面となった尾根上に経15m程の円形土塁壕を見る。土塁壕の底には1u程の方形石列をみるものもある。尾根上の対空機関砲台?跡や主郭部先端には曲輪の端が破壊され崖先で消える遺構を見る。主郭の円型櫓台状も旧日本軍による施設なのかも知れないが20u程の 主郭内3段程の曲輪と尾根側の堀切一本だけが城址遺構を留めたものか。
本誌丹波霧の里HOME  別冊別冊丹波霧の里HOME