舞鶴最大の城と城塞群溝尻城・堂奥城・溝尻支城 ・堂奥ニノ谷城・大迫城・片山城
舞鶴市 (五万図=舞鶴)
近畿の山城 溝尻城(矢野山城)・堂奥城 ・溝尻支城  堂奥ニノ谷城
     行永大迫城・片山城
溝尻城主郭(愛宕社)とT郭参道の虎口状?通路

舞鶴若狭自動車道で 木ノ下トンネルを抜けると北方に向い、与保呂川を渡って直ぐ東舞鶴IC降りる。木ノ下トンネル上にも木ノ下城・常城が在るが訪城は後日。先ずは東舞鶴ICのゲートを出ると・正面に見える宮谷山の丘陵上に三つの城砦がある。城域を区分して独立性をもたせる顕著な遺構を見ない出曲輪と思える存在ですが、主郭とは異なる縄張り特性をもって、祖母谷川沿いの街道 ・府道28号線を見下ろしています。
「堂奥交差点」から堂奥城

宮谷山山頂の溝尻城(矢野山城 )南郭南の堀切から南東へ延びる尾根先端の頂部に 堂奥城が在り、其の急斜面麓に樹徳寺が建つ。溝尻城主郭部に 4?5段続く最南端曲輪の南尾根下部・登ってきた登山道側には城域南端最初の遺構の堀切が有るが、西側への尾根筋にも高い切岸下には凄い堀切を観る。更に西南へと下る尾根筋にも段差をもたせて幾つもの、
片山城:北郭と主郭を繋ぐニノ曲輪・東端に低土塁!?

幅広く平坦な段曲輪が続き、 先端部にも遺構とは思えないほど特別広大な平坦地形が有る。此処までが溝尻城の城域の様です。此の曲輪から西へ下る山道の先にも、低い段差の曲輪を幾段も重ねるだけの溝尻支城が在る。南東の堂奥からは樹徳寺?堂奥城・溝尻城【主郭に愛宕社・北郭に妙見堂が建ち、長い曲輪北端に室谷山の 4等三角点標石が有る】妙見堂への参道・登山道が通じるが、
府道28号線(大迫団地)から望む行く永大迫城

南西部の溝尻からは貴布祢神社付近か?<未確認>、溝尻支城の西端部に東舞鶴線「No36送電線鉄塔」が立ち、其の巡視路兼登山道らしく歩きやすい道が通じており、各城郭の曲輪下部からは荒れて倒木や雑木藪に悩まされ、 遺構の詳細確認も出来ないが、尾根上だけなら無理のない 周回ハイキングが楽しめそうです。




 溝尻城(矢野山城)・堂奥城・溝尻支城  堂奥ニノ谷城 行永大迫城・片山城

溝尻城(矢野山城)  宮谷山(4等 200m)  舞鶴市字溝尻小字宮ノ谷

舞鶴若狭自動車道を東舞鶴ICで降りると府道28号線に出る。右折して北上する府道28号線は直ぐ祖母谷川を渡ると堂奥交差点。溝尻の三城への取付点は樹徳寺と決めてはいても周辺に駐車スペースは無い!!?。堂奥城・溝尻城・溝尻支城の三城を廻るには、堂奥交差点を右折して30m程に樹徳寺専用駐車場が有り、 此処を利用させてもらう。
溝尻城:最初に出会う南郭下の土塁と堀切

堂奥交差点の西南方向には東舞鶴ICを出て、 府道28号を左折して叔母谷トンネルを潜るが、其のトンネル上に延び出す丘陵上に位置する堂奥ニノ谷城が望めます【主要曲輪部分は送電線が尾根を越える切開き部から、上部に小曲輪群が並ぶ】。西北側間近の民家傍に落ち込む低丘陵の上部に堂奥城が在る。登山口は地区道を進めば瑠璃山樹徳禅寺山門石標柱が建つ。
溝尻城北郭端から大堀切と外側土塁

広い庭園を長塀が囲む旧家沿いの細い道を進み、 樹徳寺を右に丘陵に向かう山道を直進すると、大木傍に朽ちかけた稲荷社があり、山道は此処から右手にカーブして傾斜を増す。周辺は石の手水鉢等が散存し、三箇所程に寺社跡の広い平坦地形が遺る。続く平坦地形は竹薮だが、樹徳寺背山・比高50m程の丘陵尾根には堂奥城が在り、更に溝尻城へと続く登城の大手口。家臣屋敷跡でもあったものか?。
溝尻城:主郭背後の櫓台と上り土塁

本拠の溝尻城へと尾根続きには「丁石」が立ち・踏み固められた参詣道が通じており、迷うことまい登山道として利用出来ます。 竪堀を右手横に見て尾根に出た所で山道は左手の緩斜面を登って行くが、右手の細い水平道には手前右に竪堀・続いて土橋付き堀切が観え、 続く堀切は外側は急斜面・内側は高い切岸となる主曲輪に入る細い土橋虎口になっている堂奥城なので見逃さないように・・!!。
溝尻城主郭北西:土橋付堀切と竪堀間の畝が竪土塁に見える!!

府道28号は堂奥の北方約2kmでR27号線に出る。丹後・若狭の国境近くで東舞鶴港へも約3km。丹後街道が通じる海運・交通の経済や軍事の要衝ですが、溝尻城は舞鶴市最大 (東西230m・南北380m)の規模をもつ山城。南面も祖母谷川の中流域の府道28号線が白鳥峠を越えて西舞鶴へと、丹後国守護:一色氏の本拠 :建部山城に向かう軍道としても重要路。
溝尻城主郭北西:(藪と倒木で荒れた土橋付堀切)

若狭国境が近く・丹後守護の一色氏と、 若狭守護で丹後守護ともなっていた武田氏の間には、争いが絶える間もなく攻防戦が行われた為、舞鶴東部・R27号線丹後街道の志楽川沿いや、祖母谷川沿いに倉梯の東舞鶴中央部に至り ・白鳥峠を越えて西舞鶴中央の田辺に至る一帯に数多くの城砦遺構が残ります。永享12年(1440)一色氏に代わって若狭国守護となった武田氏と丹後守護:一色氏家臣団との戦いは絶えず、
溝尻城主郭北西曲輪東北端の堀切

応仁の乱 (1467?)以後:西軍一色氏の丹後加佐郡に東軍の若狭勢力が侵攻する主力が守護代 :逸見氏とされますが若狭国守護:武田氏は栗屋氏を重用し・逸見氏との間に溝が生じ、永正14年(1517)逸見氏は丹後守護代延永春信と謀り、武田氏を攻撃するが、守護:武田氏は幕府の救援を求め、連合軍の武田氏・朝倉氏 ・朽木氏に追われて逸見氏勢力は失墜。丹後国に敗走して倉梯城(庫橋城)に籠城して抗戦するが延永春信も敗死。 合戦に死者は両軍で2000名を超えたといいます。
溝尻城主郭北西曲輪群先の長い(100m)削平地(主郭側の三段曲輪


矢野氏は出羽国を拠点とした小野寺隠岐守(家道か?) (京都御扶持衆の一人:室町幕府直属の家臣)の被官として、加佐郡倉梯郷の地頭として知行の在地支配を任されたようだ。倉梯郷内の多くを所領とする・丹後守護一色氏の守護代:延永氏の土地と、一色氏が立入れない小野寺氏の守護不入権を持った領地が在ったが、いつの頃からか矢野氏が倉梯郷支配を任されていたようです。
上画像の三段曲輪側を折れて下る土塁道

溝尻城の南方・祖母谷川を挟んで堂奥ニノ谷城が在り、 其の尾根続きの最高所に倉梯山が有るが、此処は旧日本軍の砲台の造成によって、城遺構は確認出来ない状況という。山頂からの西尾根先に芥子山城在り、 此の倉梯城が亀岩城(行永城)か・溝尻城か・はたまた芥子山城か・・と諸説有るようです。其の規模・国境に近い立地等からも可能性は高く”溝尻城”が倉梯城であったと比定されるようです。
主郭の櫓台切岸下の北郭には妙見堂が建つ

溝尻城は延永氏の没落により勢力を拡大してきた矢野氏累代の居城で天文15年(1546)頃・一色氏本城 :建部山城の東(加佐郡東部の倉梯郷 )に勢力を張った守護代クラスの国人領主 矢野備後守と其の一族が拠った伝えられ、 天文18年(1549)矢野備後守が山口神社を修復し、永禄10年(1567祖母谷の矢野尭栄らが在地領主として金剛院に田地寄進する等の活動が観られます。
堂奥城:主郭に祀っれる秋葉社

天正6年(1578)織田信長の天下布武「山陰道平定命」を受けて、細川藤孝軍が丹後建部山城主;一色義通を攻撃するが、既に矢野右京・藤平らは、織田方に降り丹後の大名となった細川家に仕え、 天正3年(1575)越前一向一揆の鎮圧に出陣し、天正9年(1581)丹後国内に 4500石の領地を得たとも。上羽丹波守も矢野氏の一族で亀岩城主となって改称したものか?。天正10年・嶽家文書「加佐郡城主記録」に溝尻城主:矢野櫻井 (矢野氏と桜井氏か!?)1000石・泉源寺大谷城主:矢野右京1300石とあるが、帰農した一族もいたのでしょう。謎多い矢野氏のその後に関しては不明点が多いという。 室谷山(溝尻城)から南へ延びる尾根末端部が樹徳寺背後に落ちる。
堂奥城:主郭東末端の堀切

樹徳寺から通じる登山道は途中 ・寺の背山頂部に在る堂奥城傍を抜ける尾根筋が、愛宕神社の建つ溝尻城最高所の主郭と妙見堂の祀られる北郭の室谷山(200m 4等3角点)まで通じる参道・登山道。此れが大手道でしょう。堂奥城との分岐点を過ぎると堂奥ニノ谷城や 東舞鶴市街地を望みながら傾斜を増し、突然:大土塁に阻まれる空堀(堀切)を見て城域に入る。堀切西傍を捲き上がる登山道が・南郭切岸下部を抜けて、 数段続く主郭曲輪群正面奥に愛宕社の祠屋根をみる。
堂奥城主郭北東部に5ー6状の畝状竪堀を観る

手前2段程は正面中央が”平入り虎口”状となっているが、参道整備の改修だろうか?。丹後一色氏の周辺の城にも虎口が明確な遺構は少ないように思え、主郭ぶ西面や帯曲輪からの通路が入城ルートなのでしょう。また南西尾根末端・溝尻集落の貴布祢神社付近から通じていると思える、関電巡視路も登山道として利用されている様ですが、其の送電線鉄塔が建つ所に 溝尻支城が在る。此方は搦手道なのでしょう!!。
堂奥城北西末端のU字状竪堀

南口と南西口の登城口を防禦する二つの支城 (出曲輪)をもつ大規模な溝尻城は、愛宕社・妙見宮を祀る山上郭群(主郭・北郭・櫓台等の約7曲輪を梯郭に並べ西面を帯曲輪で結んで形成されている)の其々四隅を堀切で遮断して独立性を持たせています。南郭は南尾根・堂奥城からの大手道と、西南尾根・溝尻支城からの両端を堀切で遮断。いずれの尾根から侵入してきても南曲輪の下方を斜上して通過するため ”横矢掛け”が可能になっています。
堂奥城主郭北西末端の曲輪段

北郭(妙見堂の建つ長い曲輪 (幅約25mX50m は居住区か?)の尾根先・室谷山三角点端の高い切岸(約10mの高低差は当城最大)からも北西へ曲輪が延びる。主郭北東端(藪で尾根筋・傾斜面も判り辛いが・・)にも土橋付き堀切が走る。竪堀が並走する堀切の間の畝部分が竪土塁にも見える。 此処に一曲輪群が有りその先端部にも堀切があるが、更に北に向かう尾根には3m程の段差で段3段曲輪が続き、井戸状の窪地沿いに上り土塁状の道がある。 広く長い尾根筋の平坦地形は100m以上に及び、意識して?造成された方形段差を持つ曲輪・片側(西端部)に幅のある土塁道!。
溝尻城南郭から南西尾根 ?溝尻支城へ分岐点の大堀切

居住性を感じる曲輪群からは、更に北尾根(殊に北東尾根)先にも、府道28号線の要衝監視として未発見縄張り遺構の潜在可能性を感じます。主曲輪の中央部には愛宕社?か祀られており、背後の北西部には高さ 2m・幅15?18m程の大規模な方形櫓台が囲っていた土塁残欠を留めている。北西へは櫓台下に【主神に名草彦神と天御中主神<北辰妙見菩薩>他】 七柱の神が祀られています。帯曲輪から主郭西面を妙見堂に通じる登山参道は、下段にも帯曲輪が有り相互連絡の”犬走り”だったのか?。
溝尻支城:北斜面最下段の帯曲輪(連絡通路)の先に鉄塔の建つ西端曲輪

但州妙見山より勧請されたとあり「妙見の大杉」で知られる但馬:養父市の 名草神社・妙見山の分霊が遷移せられている様です。京都府側の妙見山は知らないが、能勢妙見・丹波市山南の妙見・多可郡加美の妙見が直線上に繋がっているという。”妙見直列”が偶然か!!?、古墳の七っ塚 !!?が北斗七星や北極星を神仏として祀った妙見信仰と繋がりが有るのか其の真意が不詳ですが、此処の祠は南をは知向いています。 但馬の名草神社は南西方向ですが!!、昔の郡司が和歌山県名草郡(名草の地名が残る紀三井寺の近くか?)から勧請したものとされ、其の方向を向けて祀られているとされます。
溝尻支城主曲輪から西下へ階段状に並ぶ曲輪群

倉梯郷内の多くを所領とする・丹後守護一色氏の守護代:延永氏の土地に在って、 溝尻城主:矢野氏は小野寺氏 (室町幕府直属の家臣)の被官として、加佐郡倉梯(倉橋)郷の在地支配を任され、一色氏も立入れない小野寺氏の領地が在ったことと「金属の神」ともされる妙見宮が祀られる事は、後日倉梯山南側・与保路呂川沿いに訪城した諸城の東端・与保呂桂城登山口近くに日尾池姫神社・蛇切岩が有り、東舞鶴公園近く・亀岩城(交差点西100m程)近くには、其の胴を祀った 「堂田神社」等・大蛇伝説が残る。
堂奥城から溝尻城に向かう登山道から望む堂奥ニノ谷城

大蛇も鉄に関連するし 、公園北方の森城から下りてきた麓・丸山西町の側溝の水も酸化鉄分で赤茶けている。公園球場から住宅地内を北へ流れる側溝に繋がるようですが”カナ川”と呼ばれます。鉱山跡や精錬場等遺跡分布は未調査ながら、小野寺氏と家臣 :矢野氏は一倉梯郷の一領主というより、幕府直轄の事業?としての鉱山の採掘等監理に当たっていたのでしょうか?。矢野氏については改めて地元研究者の調査に期待したいところです。
(舞鶴の山城<舞鶴山城研究会>を参照)


溝尻支城  xxxx山 Ca115m 舞鶴市字溝尻小字宮ノ池

溝尻城の南郭の西下部から堀切を越えてなを、 緩斜面の尾根(幅約30mX長さ130m程か?)に造成された数段の曲輪群をみる。曲輪群南端の山道沿いに最下段の曲輪(約20mX30m)に下ると、踏み跡は曲輪中央を分けて北西へ明確な山道を下降しながら溝尻城の城域を外れていく!!?。
登山道が溝尻支城への尾根通しを避ける分岐鞍部に観る土橋・片堀切!!?

山道が前方の藪の緩斜面尾根を水平に左に捲くように、 カーブしていく鞍部には片堀切?(土橋状・右側藪に隠れて竪堀)!!?を観る。此処から溝尻支城の城域の様。水平山道は溝尻支城西末端の曲輪に立つ送電線鉄塔「 東舞鶴線No.36」傍を抜け、直ぐ下方の堀切を渡って、巡視路兼溝尻城・妙見宮・愛宕社への参道が溝尻集落の貴布祢神社付近から通じている様です<未確認>。
溝尻支城主曲輪東下の上り土塁+土橋付き堀切

片堀切状からは山道を外れて藪の尾根筋を直登していくと土橋付堀切に着く。土橋から約2.5m程の切岸上が溝尻支城の主曲輪 (約20X25m程 )で、主曲輪から西下端の送電線鉄塔の立つ曲輪へ階段状に削平段(8?10段程)を連ね、主曲輪から鉄塔の立つ最下段曲輪を繋ぐ様に、 北側斜面最下段には幅3?5m程の帯曲輪?(通路)を廻しています。
溝尻支城主曲輪から西下へ階段状に並ぶ曲輪群

送電線鉄塔を載せる城域西端曲輪から西北にかけては急斜面・尾根筋下に堀切を設け、尾根側の主曲輪東下に土橋付き堀切で城域を遮断して独立性を持たせて、溝尻城西南からの搦手道?を防禦する支城として南口の大手を守備する堂奥城と共に機能したものか。
(支城の画像は溝尻城の中にも添付・・ 舞鶴の山城<舞鶴山城研究会>を参照)


堂奥城 xxxx山 Ca110m 舞鶴市字溝尻字堂奥小字上ノ山
登山口は瑠璃山樹徳禅寺西側から稲荷社跡・石の手水鉢がころがる広い数箇所の神社跡らしい 平坦地や竹林の薮となっている谷間の平坦段等も家臣団屋敷跡か?。其の谷間の直ぐ上部で尾根分岐に出る。山道は左折して溝尻城へ向かうが、 斜面に二条ばかりの竪堀を観る南側(右折)には、よく踏み固められた細い尾根道が延びる。分岐点からも直ぐ先に竪掘、続いて土橋付堀切が見える。其の先にも土橋付堀切を越え・主郭北端の切岸を斜上する登城口が有る。
溝尻城分岐から堂奥城への細い土橋尾根と堀切

左手は崖状の急斜面。主郭切岸上部や後方から ”横矢も掛かる”単郭”の城内に入る唯一の虎口形状です。 溝尻城の出丸というより・三連の堀切で城域を確保した支城の堂奥城が在る。溝尻城の大手・南口の押さえが”堂奥城”で矢野氏一族が守備した城。 尾根続きに三重の堀切・南端も大堀切で城域を遮断しており、登城ルートとなる主郭北面の防備は厳重です。
堂奥城北西末端のU字状竪堀

尾根続きの主郭北端から西南下斜面(登山ルート側)へ膨らむ稜上に三段程の小曲輪(2?3mの切岸をもつ)を重ね、其の曲輪先端部の切岸下からはU字型の竪堀が落ちる。左右にも2?3条の竪堀が畝状に近い?状態で落ちる。主郭南東奥には秋葉山大権現 (火除)と水見大権現(水除 )二社が、火災・水害消除守護として合祀されています。主郭祠の東面切岸に4条程の畝状竪堀が続きその先が、 高い切岸沿いに主郭に入る虎口となる・土橋付き堀切に繋がり連動しているようです。
堂奥城:土橋付き堀切を渡って主郭切岸下を上る虎口!!?

主曲輪の祠から東へ低段差の曲輪が二段、その先を大堀切で城域を遮断する。細くなった尾根先にも極小規模の削並段が続く様ですが、単郭(曲輪部は幅約15mX60m程)の小城ながら縄張り技巧に富んだ見所を持つ城郭です。 城主については矢野備後守が溝尻城に拠った天文15年(1546)頃、その臣:達政氏?の嫡男弥三郎政秀が拠ったといい、元亀年間(1570-73)矢野籐市が居たとも・・!!!。
(堂奥城の画像は溝尻城の中にも添付 ・・舞鶴の山城<舞鶴山城研究会>を参照)


堂奥ニノ谷城  xxxx山 Ca150m 舞鶴市字堂奥小字ニノ谷

行永トンネルを潜り・続いて木ノ下トンネルを抜ける舞鶴若狭自動車道が与保呂川を渡って、倉梯山の東裾へ回り込む様に走る。山の陰となっている其の先で東舞鶴ICを降りると府道28号線に出る。 正面の丘陵最高地点の宮谷山(四等三角点 200m)に溝尻城が在り、南尾根先端部の頂に其の支城の堂奥城が在り、堂奥交差点から集落内を西に向かうと 樹徳寺から登山道が通じており堂奥城・溝尻城・溝尻支城の三城を廻るが、東舞鶴ICを出て左折・直ぐ先の祖母谷トンネル
堂奥ニノ谷城;鉄塔下から北の堀切と土塁

東口傍の ”いねむりパーキング”?の広い駐車スペースに車を寄せる。トンネル出入口側の墓地が有り、駐車スペースとの間に短い谷に入っていく。倉梯山から北へ延び出す尾根先が叔母谷トンネルを越えて伯母谷川に先端部を落す。此の尾根先:トンネル上に堂奥ニノ谷城が在りました。墓地上からはR28号線の北方に堂奥集落を見下ろす高位置で、樹徳寺の屋根・背後の 堂奥城から溝尻城への稜線が望まれます。
曲輪群再奥の大堀切側の主郭?は土塁道状左右に小曲輪が付く

此の溝尻城が:永正14年(1517)若狭守護代:逸見氏が・丹後守護代延永春信と謀り、若狭守護武田氏を攻撃するが、 武田氏は幕府に救援を求め、連合軍の朝倉氏・朽木氏に追われて逸見氏勢力は失墜。丹後国に敗走した延永春信は倉梯城(庫橋城)に籠城して抗戦するが敗死する。延永氏が領していた倉梯郷の一部を丹後守護一色氏も立入れない幕府領として室町幕府直属の 小野寺氏が支配し、いつの頃からか矢野氏が倉梯郷支配を任されていた様ですが、守護代:延永氏の衰退で、勢力を持ってきた守護代クラスの 矢野氏が溝尻城を本拠城として改修してきたものか。
堂奥ニノ谷城の城域南端:尾根を遮断する大堀切

諸説がある 延永氏終焉の倉梯城が溝尻城とする説が有力で、堂奥ニノ谷城の尾根続きの山頂が倉梯山。倉梯山は旧日本軍の砲台によって、城遺構は確認出来ない状況というが、山頂からの西尾根先に芥子山城・与保呂川沿いの南西尾根先の半独立丘陵に 亀岩城行永城)が在り、共に諸説:倉梯城の根源になっていました。堂奥ニノ谷城が若狭守護代:延永氏が篭城する溝尻城(倉梯城?)を真北正面に望む、 若狭守護武田氏方の向城だったら・・倉梯城が溝尻城だ・・・と、また祖母谷川と対峙する堂奥ニノ谷城の位置と縄張り特性からも、溝尻城(倉梯城?)攻城の最前線向城であった可能性を感じます。
堂奥ニノ谷城:送電線鉄塔付近の曲輪群は段差も1m程はある

尾根側には・城域の前後を堀切で遮断しているが、傾斜が強まる中腹から先端部にかけての細い尾根筋には、 通路も無く?・送電線鉄塔(小浜線 No.35)から上部に向かっては、尾根幅一杯に削平された小曲輪を階段式に(約15段程)並べただけだが、尾根側の堀切は深く大きく左右の急峻な谷筋へ落ち込む。下方の堀切は外側に土塁が備わるが、 尾根筋に有る数段の平坦地形は其の左右にも小曲輪状の平坦段を見て、尾根筋も分からない崖状の激急斜面がトンネル上部へ落ちていく。
(舞鶴の山城<舞鶴山城研究会>を参照)


行永大迫城と片山城
行永大迫城(行永大宮城)   xxx  Ca110m 舞鶴市字行永小字大迫

行永大迫城と片山城は、西側を与保呂川が南北に流れ、東方から北へ流れる伯母谷川に挟まれた、南北に約1.5kmの独立低丘陵に在って、南の110mピークに行永大迫城が在る。北末端ピーク81m(点名:浜 4等三角点)に主郭を置く片山城が在りました。
府道27号線 (北浜町)から片山城を遠望

与保呂川流域の与保呂桂川・日向城 ・殿村城や常城・芥子谷城・亀岩城(行永城)等・・を紹介していますが、伯母谷川にも舞鶴市最大規模の城郭 溝尻城と其の支城が有ります。永正14年 (1517)若狭守護代:逸見氏(後瀬山城・高浜城城主)が ・丹後守護代延永春信と謀り、若狭守護武田氏を攻撃するが、武田氏は幕府に救援を求め、連合軍の朝倉氏・朽木氏に追われて逸見氏勢力は失墜。
大迫城東尾根側:帯曲輪の切岸()東尾根側

丹後国に敗走した延永春信は倉梯城(庫橋城)に籠城して抗戦するが敗死すが、 その籠城戦の舞台・倉梯城が与保呂川沿いの亀岩城とも芥子谷城とも、また溝尻城とも推察されていますが、此の溝尻城下を伯母谷川沿いに西へ向かうと行永大迫城が在る。
片山城の北西麓に位置する大杉神社

訪城に際しては舞鶴若狭自動車道東舞鶴ICを出て、府道28号を左折 堂奥ニノ谷城の下 ・伯母谷トンネルを抜けて、約500m程で溝尻城下から伯母谷川を渡ってくる車道と合流する。府道28号線を約800m程西へ走ると与保呂川を渡るが、 左岸(東側)を北上すると府立舞鶴擁護学校と舞鶴医療センター。 其のまま進めば丸山橋の先の墓地の上部丘陵に片山城が在る。倉梯城が溝尻城であっても亀岩城であっても、
片山城主郭:帯曲輪から主曲輪の切岸

一色氏を意識すれば西の白鳥(しろとり)峠や北(R27号)方からの。其々の前衛を護る支城群か。武田氏に対する備えは、与保呂川中・上流域の先に挙げた諸城や、 R27号線の小倉周辺には小倉姥ヶ谷城(未訪・東の崩壊地?奥の谷筋からと思えたが、本物?プロペラ機が置かれた喫茶店!? で行き止まり。 先は」ゴルフ場らしくて引き返した)や小倉城(主郭三方の尾根筋に大きく深い堀切(全て土橋付き)を設け、特大の竪堀も備えている)。
片山城:主郭東尾根側直下の堀切

花の寺で知られる金剛院の脊山の在る鹿原城(金剛院内から登路が有るのかな?、明確な山道が無いと・入山料払っても花の季節だと人目があってオフコースし辛いし・・谷を挟んで奥に延びる車道の公園は 整備工事中で取付き点不明のまま未訪)等が在って、城主等の城史は不明ですが溝尻城の東・北方の守りを堅めている様です。
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行永大迫城 の在る丘陵東南端が伯母谷川右岸の溝尻地区から車道が合流する府道28号線側の貯水池?と”業務スーパーにしがき”背後に落ちる。 城址の有る低丘陵の西側裾に住宅地が迫り、小峠を越え北側へ降り、丘陵を二分する極小の鞍部(比高15-20m程)で、片山城の有る北側とを半独立丘陵としている。業務スーパー西の住宅地内を流れる側溝沿いに丘陵裾を辿って、
大迫城:南尾根の土橋付き堀切

小峠前集合住宅前の配水施設の調整小屋か?資材置き場の様な?!!コンクリート・ブロックの建物側から丘陵上に通じていそうな山道に入る。古い貯水槽付近の台地も曲輪跡の様に思える。その背後の激急斜面にロープが残る。暫く続く急登から緩斜面に移ると藪っぽくなる。
大迫城:西尾根の藪に覆われた大堀切

前方に土橋付き堀切が現れ、渡り切ると小さな段曲輪らしい跡地?を過ぎると長い平坦地。 続いて堀切が有り、急斜面上に主郭の切岸を見る。最高所は櫓台らしい方形土壇が有り、西下へ延び出す長い尾根上の二ノ曲輪(35m程だが雑木と下草藪に覆われて、 足元も見えない。曲輪の西末端の下方に・此れまた羊歯類等の下草に埋もれる 大堀切が有り、北西尾根を遮断している。
大迫城南尾根:主郭切岸と直下に堀切有り

堀切の西下方に墓地が在るが・此処からはフエンスが無くても道なく、身長の倍ほどの藪漕ぎで上る事も・下山する気も毛頭起きない。主郭は櫓三方を囲む主曲輪・その下を帯曲輪が囲む。 東尾根に2-3段の曲輪が見える。大迫城の築城時期や目的及び城主については不明ですが、倉梯城(とりわけ伯母谷川沿いの溝尻城)の支城としての位置付けが考えられます。

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片山城   片山 81m(点名:浜 4等三角点)   舞鶴市字行永小字片山

以前:行永周辺山城の取付を探しで白糸中学校・新舞鶴小学校前を通ったが、 駐車場所探しに苦労しそうなので、JR東舞鶴駅南側の大型店舗の駐車場から東へ・・取付点を府道 51号線を越えて与保呂川の架かる丸山橋を渡った 西の霊園からと考えていたが、一寸侵入し辛くて川沿いの幅狭い車道を進んだ。途中に丘陵に取り付ける道は有るが、
片山城北郭西面の幅広く長い土塁 (土居)

周辺は竹林・山林管理組合?により関係者以外立ち入り禁止になっている。そのまま進むと直ぐ大杉神社に出た。その先の弘道寺から丘陵北先端部を回り込んだら見覚えのある風景!!は先日通ったばかりのJR高架沿いに新舞鶴小学校の正門前。大杉神社に引き返し見上げる崖状急斜面に侵入口も見当たらず躊躇したが、
片山城:東尾根側直下の堀切と主郭切岸

社殿横に苔生す急な石段が上に延びて、4-5m程の聳立する岩磐前に着く。火炎を背にする不動明王像と燭台・線香受けの香炉が置かれている。 道は此処迄だが、立木・木の根を手懸り・足掛りを見つけて尾根筋まで続く急登を僅かなトレースを見つけて辿り、竹の目立つ尾根筋を少し進むと北端のニノ曲輪に着く。東南へ延びる尾根は主曲輪を繋ぐ一ノ曲輪で、前方に見える切岸は主郭側の帯曲輪が取り囲む切岸上に方形の主曲輪(約20u)が有る。与保呂川と伯母谷川に挟まれ南北に連なる低丘陵部の南端には大迫城。丘陵北端の4等三角点 (点名:浜 81m)頂部に片山城が在る。
片山城:短い西枝尾根に見る段曲輪(いずれも切岸高い)

雑木混じりの藪は倒木や枯れた竹材で埋もれ、 三角点標石 (主曲輪に有る筈だが)は未確認・眼下に眺望も挑めない。主曲輪の東南尾根側の切岸下(約7-8m程)には幅も細く・長さも短い堀切が有り、直ぐ下方にも浅くなった堀切が一本有る。主郭から西へ落ちる竹林に中の短い急斜面に は6-7段の切岸高く(3-7m程の)丁寧に削平された段曲輪が並ぶ。此の段曲輪の最下部から与保呂川側の墓地へ降りてきた。「倉梯村史」に一色氏の武将で加佐郡陣代 小西石見守の拠った城とされます。
片山城:主郭から短く急斜な西尾根に高い切岸の段曲輪が並ぶ

詳細は不明ですが後・丹後峰山(京丹後市峰山町小西)の奥吉原城城主となった人物と同一かは未調査ですが・・奥吉原城の小西氏は一色氏滅亡後は帰農し・・この地を離れ伊丹市で酒造業を営む小西酒造が、 小西家後裔という。なを吉原城(峰山城)は延元3年(1388)一色詮範により築城・天正8年(1580)信長命による細川藤孝の丹後攻めに落城している。同じ伊丹市の酒造業者鴻池屋から両替商にと鴻池財閥を形成した善右衛門も、尼子氏の重臣 :山中鹿之助を遠祖としている。
(舞鶴の山城<舞鶴山城研究会>を参照)

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