大浦半島へ観音寺城・河辺原城・西屋城 ・中田城・柿安城・・・
舞鶴市 (五万図=丹後由良)
近畿の山城 観音寺城  河辺原城 西屋城 中田城と柿安城
溝観音寺城:北面に亭土塁を廻す主郭北東角の土塁虎口

京都府舞鶴市と福井県高浜町に跨がり、 若狭湾に突き出す大浦半島だが、半島西 (舞鶴市)と東側 (福井県)の地勢や特徴・観光地としても意識して訪れた事もなく、若狭富士で知られる青葉山も松尾寺から、引揚記念館も舞鶴湾に面した半島の西側と意識することもなく、 多祢寺や舞鶴火力発電所傍を抜けて農業公園のバイキングや親海公園に寄ったり、福井側は高浜原子力発電所から 音海断崖までも出掛けたが、極端に少なくなる山城を探して出掛ける事などなかった。田辺城のある西舞鶴からR27号線で東舞鶴へ入って、
河辺原城遠望(山裾中央は河辺川に架かる高岸橋)

潮の香を感じて間無しに灰色の艦船を見る舞鶴港の東港(建部山城を正面に望む道の駅・とれとれセンターは西舞鶴の西港 )海上自衛隊の桟橋から赤レンガ倉庫群を抜け、新潟や小樽を繋ぐ新日本海フエリー発着の前島埠頭を目前に潮路通りの公園は、 抑留されていた人々等が帰還する引き揚げ船を待つ”岸壁の母”で知られる浮き桟橋(始めは東舞鶴駅から遠くない五条桟橋<商工観光センタ近く>)があった。
西屋城の二重堀切

その後引揚げ船入港場所が変更され最後の一港となったのが舞鶴平の現:引揚記念館と平の桟橋等が報道・記録・映画 ・歌にと採り上がられているのですが、当時の状況で平の桟橋へ通い続けられたとは思えず、平桟橋から五条桟橋へ連絡船で送迎されていたのでしょうか?。府道21号線は東舞鶴病院南で朝来川沿い・青葉(若狭富士)山麓公園ゲート前を抜けてR27号への合流地点までは通勤時間帯は混む。 正面に湾を跨ぎ西大浦に渡る舞鶴クレインブリッジ(鶴の橋)を見送り、 府道21号へ右折してトンネルを抜け出ると引揚記念館が在る。
中田城の広い主郭部段曲輪

福井県境の大浦半島に舞鶴市側の城を探して河辺川沿いに走ってみた。平工業団地先で多禰寺に向かう府道21号を分ける府道 561号分岐との間に突出す崖状尾根上には中田城と柿安城が在る。 急に対向車も無くなる河辺川沿いの府道南側一帯は農耕地・丘陵末端部や短い谷の裾野が車道北側に拓けて民家が点在する。


河辺由里には源頼政鵺(ぬえ)退治の”シノビ竹”伝説が残る:
府道561号線沿いに走って・河辺谷の中程、府道傍に補陀洛山華蔵院観音寺(真言宗御室派)へ3kmの案内標石が立ち、坂道沿いに河辺由里集落内を抜け、棚田(水が豊富なようで人家が途絶えてからの急傾斜が強まる林道から、長い林道終点の観音寺付近にも水田・水田跡)が残る。 大きく蛇行しながらなを延びる林道の終点に観音寺の山門(仁王門)が建つ。
河辺原城から河辺原集落と観音寺山城を望む

観音寺は多祢(禰)寺と共に桓武天皇の崇敬厚い勅願所で、延歴5年(786)伝教大師最澄により開山され本尊に行基作と伝わる 千手観世音を祀り、不動明王・毘沙門天の三尊を本尊としている。南北朝期の貞治2年 (1363)御光厳院の勅を賜り三重塔が建立され、往時は7堂伽藍の威容を誇り密教寺院として栄えたが、度重なる戦乱に悉く焼失したという。文明の初期(1470頃)中興の法爾上人によって五間香殿などの堂宇が再建され復興した。天正9年(1581)細川藤孝 ・忠興父子により寺領を安堵されて以後・京極氏や牧野氏等歴代藩主の庇護を受け近代に至る。
観音寺境内の五輪卒塔婆板碑と石仏


現在:大日如来座像(伝:慈覚大師作)・梵鐘【鎌倉時代の制作で何鹿郡(綾部市)興福寺から国清禅寺・如願寺 (与謝郡)を経て元禄3年(1690)当寺に移る】・石燈篭が舞鶴市指定文化財となっています。仁王門は大工棟梁・栃尾の光野善左ェ門により天保4年(1833)建立の木造寄木造:金剛力士像は寛政5年(1793)大仏師法橋・式内右門源康海の作とある。 「丹後旧記」等の口碑に加佐郡志楽庄(野上と称されていた河辺由里・河辺原付近!?)は源頼政の所領だったとされます。府道 561号に入って此処まで校舎を見ない。伝承の地:河辺由里は府道から観音寺に向かう登り口にあり、河辺谷の中央部に在って廃校となった小学校跡地が虚しい。
観音寺の山門(仁王門)

此処には「頼朝矢竹の藪」と呼ばれる所があり、矢竹に適するような節の間隔の長いシノビ竹があるそうです。 頼朝が鵺退治に使用したのが此の村の野上という百姓の屋敷に生える節黒(ふしぐろ)の竹だ。 「平家物語」に二度あったという 源頼政の鵺退治がある。最初は平安時代後期の仁平年間(1151-54)近衛天皇(在位1141-56)の時:丑の刻になると 「ヒョーヒョー」と気味の悪い鳴き声がして、東三条の森から暗雲が湧き出て御所(宮中)の上を覆い、決まってうなされる日が毎夜続いており、帝(近衛天皇)から原因を掴んで退散させよとの勅命を受けた、
観音寺の鐘楼:梵鐘は鎌倉時代の作造

弓の達人源三位頼政は東三条ヶ森へ赴き、日頃より崇敬の弓矢八幡 (京都下京区・神明神社か?)に大願成就の祈願を行い、宮中を覆う黒雲の中に”うごめく影”に向かって「南無八幡大菩薩」・・・と念じて矢を放し見事これを退治する。矢が命中し・落ちてきた怪物がであったと。 もともとはツグミ科・トラツグミのことで、怪物の鳴き声がトラツグミのそれに似ていたため、 その怪物自体を鵺と呼ぶようになったもので、鵺は主に「ぬえどり」「ぬえこどり」として万葉集等の和歌に詠まれています。奇怪な声をあげ、頭は猿、胴体は狸、尻尾は蛇、手足は虎という妖怪が庭先に落ちてきたといわれる。 この時に使用した矢の矢竹が河辺由里のものだと伝わり、此の立派な矢竹が・京の都より離れた野辺にあるので「シノビ竹」と呼ばれます。
観音寺城:北尾根側の土橋付き堀切と主郭切岸

二度目は二条天皇(在位1158-65)の応保年間(1161-63)頃・夕闇の中で 鵺は一声しか鳴かないと云う。そこで頼政は先ず鏑矢(中を空道にした鏑を矢に取付け射ると音がする)を射上げ、その音に鵺が驚いて声を上げたところを射落とした。天皇からは 恩賞に御衣と伊豆国を賜り、嫡男:仲綱は国司として丹波国五箇庄( 南丹市日吉町の田原城を参照)と若狭の東宮河(とうみやがわ)を知行したとされます。鵺退治伝説を亀岡市等?では高倉天皇(在位1168-80)の時として恩賞に名剣:獅子王と矢代荘(亀岡市矢田町)を賜ったと云う。
観音寺城主郭北東角の虎口下堀切

保元の乱(1156)には後白河天皇方に付き勝利するが、平治の乱 (1159)には義朝ら源氏に背を向け、平氏の政権下にあって中央政界に留まり、平清盛の信頼を得て従三位に昇進した。知行国伊豆に(剃髪して真蓮を号した)時か、治承4年(1180)以仁王
(高倉宮で、高倉天皇となったのは異母弟の仁親王・憲仁)を奉じて頼朝等と平氏打倒の旗上げ(挙兵)に再び源氏として77歳の老体で参軍するが、宇治川の戦いに敗れ自害します。



観音寺城 河辺原城  西屋城 中田城と柿安城

観音寺城(城) xxx?( xx330m)  舞鶴市観音寺小字東谷奥

大浦半島を南北に分けるように河辺川沿いの府道561号線が 西南の舞鶴湾から東北の若狭湾に抜け出る。観音寺へは上記のプロローグや源頼政の鵺退治伝説の項に紹介済なので省略しますが、河辺谷の中程・河辺原地区の手前(西方)に「観音寺へ3km」の石標と4-5台駐車可能の空き地が河辺由里にある。更に林道を進んだ先で1−2軒の農家(雰囲気からはIダーンされている人か?)、その先では牧場と思える厩舎か、 寺までに観音寺集落と思える民家は他に無い。
観音寺城主郭北東角の虎口部の土塁と切岸

豪雪地帯で山麓の由里も小学校が廃校となっていたので、観音寺の民家は由里へ降りる等・離村されたのでしょう?。観音寺城から南西に延びる尾根先(由里集落東の丘陵上)にも下記と同名の河辺原城(?河辺由里城)が有った云われるが詳細不明。観音寺城へは観音寺迄延びる林道を利用して城址を往復するのが良いでしょうが、 下山は地図に遺る破線のコースの河辺谷を降り(過去の例でも殆んどは廃道、荒れて踏み跡はおろか猛烈な藪漕ぎで道は無いに等しい状態が多い)府道561号対岸の河辺川に架かる高岸橋を渡り河辺原城に向かうつもり。
観音寺城主郭南西の二重堀切

観音寺境内から観音寺城に延びる尾根筋に向い、 田圃や田圃跡へ丘陵裾沿いにミニ観音霊場廻りコースを進み、巡礼道を左に送って進むと、曲輪跡を思わせる平坦段・切岸は全て古墓跡・・・荒れた尾根筋に出ても墓地跡は続くが、尾根が細くなってヤッと墓地から開放されると直ぐ 観音寺城域に着いた。目の前に土橋付き堀切。渡ると10m程の切岸上部が主郭。左手切岸下に短いが深い竪堀が一条落ちる。 主郭部は幅約20mx長さ70m程の長方形の平坦地形で、北西から取り付いた土橋付き堀切から北東にかけて低土塁が廻り北東端が土塁虎口。
観音寺城主郭:南東角の堀切(横堀状から竪堀に・・・・

虎口受け極小曲輪?と切岸下に堀切。 主郭東?南端へ低い土塁状盛り上がりを見るが、 虎口からは此の低土塁沿い(切岸は1.5m程度だが)に南東端迄回り込んで主郭に入る構造か?。南東下に山道かと思えたが堀切(横堀状)が、 南西尾根筋側には緩斜面ながら二重堀切で遮断し城域を確保しています。単純に単郭の小規模城館ながら曲輪四隅の尾根続き?に掘切・竪堀を設けている。
河辺原城曲輪群南端?

主郭から土橋付き堀切を北の尾根筋へ戻るが、河辺原へ下る尾根境も墓地だが、観音寺側からも、まして河辺原集落側からの墓参の随分以前から途絶えている様?。 広い山道だが直ぐ道を塞ぐ倒木と藪は下る程に荒れてくる。山田の農道に出て府道561号を隔てた正面の丘陵上、 鉄塔の建つ頂部付近が河辺原城の在る位置か?。河辺川に落ちる丘陵北末端に白いガードレールの高岸橋が見える。
(舞鶴の山城<舞鶴山城研究会>を参照)


河辺原城 西山?(4等三角点) 188m  舞鶴市河辺原小字西山

観音寺城からは丘陵部東側を河辺原集落に谷沿いに降りる山道の破線記号を追って府道561号線に降りてきた。 里山を生活の場にして芝や草刈りに入る人など・もういないでしょう。山林や松茸・所有者の山境整備で下刈でもされていれば上々。 山道は勿論・人跡途絶え放置され荒れるに任せた旧道は 、嘗て:桓武天皇の崇敬厚い勅願所として、伝教大師最澄の開山・歴代藩主により庇護されてきた古刹だったが、参道・墓参の道は、杣道としてさえ利用されず消えている。
主郭群北東端の曲輪

旧加佐郡志楽庄内の河辺由里の観音寺への林道入口(案内標石が立つ)から東へ約 600m原集落の中程に”火の見櫓”と河辺原地区公民館?が建つが、よく見ると玄関上看板?本源寺とも書かれている!!?。 「加佐郡誌」に田井村(府道561号を東北に抜け出た若狭湾 <内浦湾>に面した田井には今回寄れなかったが西山城も在る)
主郭群中央付近から北東の曲輪

海臨寺(臨済宗東福寺派の古刹で、大浦半島・河辺谷・朝来谷の禅宗寺院の殆んどは当寺の末寺だったと云われ、「丹後国寺社帳<天和2年(1682)>」に末寺21ヵ寺を数えた )の末寺・観徳山本源寺が在り、天正5年(1577)霊顕和尚により開山された。小字小谷(コタン)に古城跡ありとあるのが河辺原城の事か?。 築城目的や時期・城主等の城史は不明です。河辺原城東の谷を栃尾・笹部に出て国境の塩汲峠付近を越えてを福井県側の高浜町鎌倉に通じる。
主郭群:東郭群中の堀切

南へ越えれば登尾から朝来(あせく )川沿いに岡安城や岡安支城が在って、府道772号で舞鶴湾に出る。登尾から松尾寺・R27号線に通じる分岐に登尾城も在り、 河辺谷の諸城や朝来川沿いの城砦群が、若狭国人衆の勢力から其々流域の自領を護るための丹後国人衆や、丹後一色氏の国境警備 ・監視の砦として機能していたのかも知れません。・・・が時代を遡れば丹後守護ともなった若狭武田氏や山名氏関連の城では無いとも言い切れないのでは・・!!??。尾根続きの南尾根を二重堀切で遮断して城域を確保し、
主郭群中央近くから北東部の曲輪

南端の最高所曲輪から北東への尾根に6段程の曲輪を並べ、 最下段曲輪の東側に土塁を設け、東下に堀切を更に東端に曲輪段を持ち若狭国境側の監視にあたった物見の曲輪か?。訪城の取付きは上記の高岸橋から山麓を西に伝い、河辺原公民館・本源寺から南へ向い河辺川を渡り、 谷奥へ入る農道から東山裾の墓地への車道を進む(高岸橋からの道)と、墓地の先で関電(火力線No23)への巡視路表示に従えば城址の丘陵頂部の三角点(4等三角点188m)に着く。
(舞鶴の山城<舞鶴山城研究会>を参照)


西屋城    xxx山  Ca165m  舞鶴市西屋小字大谷

大浦半島西南の舞鶴湾(東港)平から東北の若狭湾に抜け出る府道561号線沿いの河辺谷中程・西屋に井上石見守!!?が拠った西屋城が在る。 河辺由里から向かった観音寺への林道登山口。駐車場所から約750m程で西屋城への取付き点とした伊関山(229m三角点峰)から南へ延び出す丘陵裾が府道561号線に、南西の延び出す尾根先が西屋集落に落ちる。二つに短かい尾根に挟まれた小さな谷筋の墓地傍から西屋集落上部の丘陵先端部に位置して 、伊関山間にあった古城とされる西屋城を目指す。
空堀土塁から西屋城主郭の状況

舞鶴湾の平・中田には中田城・柿安城が在り、 西屋城との間にも河辺中城が在ったという。西屋城は海賊の城だった様で、河辺谷北面の丘陵尾根続きの城址は丹後海軍の一党が拠る城砦群だったのでしょうか?。南には河辺川流域の田園風景が拡がり、堂牛(むろじ )集落の名は観音寺への食糧運搬の為の牛が飼われていたところという。農耕牛が使役に使用されていたものか? 。民家を殆んど見かけない観音寺付近の棚田が水田の様に、北方の空山付近の高原を水源とした豊富な水と、河辺川流域の深田は良質の米どころであっただけに、古くから拓けて数多くの古墳もある。
主郭尾根続きの二重堀切

・・・・・が旧加佐郡志楽庄内の荘園や其の後の領主による年貢の取立ても厳しく、 種籾や饑饉等の備蓄管理はされていなかったものか?。取り付いた谷の左側尾根先西に西屋集落が固まり坂道の河辺集会所へ向かう車道がある。 西屋城へは集会所付近から尾根筋に取り付くのが正解かも知れない?。標高130m付近から145m付近迄・曲輪跡とも思える平坦地形が続き、150m付近に土塁で挟まれた浅い空堀を越えると東西に巾約30m
主郭尾根続きの二重堀切

・南北約50m程の広い主郭に入る。単郭の小城だが主郭北端から斜傾する小曲輪を下りると、 細長い尾根続きを二重の深い堀切で遮断して城域が確保されています。・・が曲輪内の削平や切岸加工は不十分の様です。築城年代や城主等の城史は不詳ですが古城主に井上石見守、山名となっている伊関を城主名に挙げる資料もあり、 鵺退治”シノビ竹”伝説からも志楽庄を賜った源頼政の古城ともされる様です?。
(舞鶴の山城<舞鶴山城研究会>を参照)


中田城と柿安城
中田城   xxx  Ca110m 舞鶴市中田小字杉谷

舞鶴市の東舞鶴湾の北方:大浦半島西南の舞鶴湾(東港)に架かる鋼鉄の白い斜張橋の舞鶴クレインブリッジ(鶴の橋:全長735m)を右手に見送り、 新大波トンネルを抜けると終戦後の”引揚げ船”の拠点地として、”岸壁の母”の舞台として知られ、最期まで残った舞鶴引揚げ港で、平の桟橋(復元)や ”引き揚げ記念館”側を通り、河辺川は舞鶴湾(平湾)に流れ出る。
南端の曲輪切岸の左手沿いに主郭への通路(虎口)がある

河辺谷入口の平・中田一帯も旧加佐郡志楽庄の内に含まれていたのでしょうが、多禰寺に向かう府道21号線・河辺川沿いに東北の若狭湾に抜け出る府道561号線の分岐点・平集落の北の丘陵上に中田城・柿安城と二つの山城が在る。分岐を府道21号線に入ってGSが見える約300m程の車道北側は、
中田城主曲輪

高離3-40m程の断崖状の丘陵南末端部が落ち込む。断崖状が少し弱まり丘陵上に続きそうな急斜面沿いに 踏み跡を見つけて入り込むが、手入れされず放置されたまゝか、倒れ朽ちた竹材が折重なり進退窮する竹林帯。尾根筋の東側へ直登し、 尾根筋も立木を頼りの急登が続くが他に登路は無さそう。
主曲輪から大手の南端曲輪を見下ろす

南眼下に平の湾を望み、山麓の平・中田の湊町に居館を持ち、南尾根筋を大手道として築かれた海城の詰めが中田城か?。それにしても府道21号から見上げる崖上、一挙に比高100mを攀じ登る激急登は、マスト登りで帆やロープワーク作業に慣れた、やはり海賊の城か!!?。断崖は府道21号線の拡張工事関連で削り落とされたのかも知れない。また湾近くの平 ・中田は川の氾濫・海辺は時化(しけ)による冠水も考えられる。
中田城の広い主曲輪

取付き地点の20m程上部の竹薮は高い段差、比較的広い平坦地形でもあり、居館と詰め城の関係からはベスト!!?なのかも。近世初期?に築かれたという中田城跡がある。「嶽家文書」等に城主は赤野彦左衛と伝えられるが、尾根続きを約100m程進むと柿安城が在る。城遺構からは中田城より古い時代のものと思われます。先に中田城・柿安城・河辺中城 ・西屋城・河辺原城(河辺由里城<仮>)と河辺谷に沿う北の丘陵上に存在する城砦群を海賊の城!!?・若狭海軍一党の城かとも思えたが、
中田城尾根続きに三連の堀切がある

中田城の巾狭くなった尾根続きを三重の堀切で遮断・堀切側の北端曲輪の西には堀切と並び2−3状の竪堀が畝状に落ちる。 東舞鶴のr27号線の小倉周辺から北方に、畝状竪堀を見るのは後日訪れる小倉城くらいか?。旧志楽庄内の城遺構には見られないので、武田氏・内藤氏・細川氏が丹後一色氏と干渉し合っていた頃の丹後海軍の山城が、 織田氏の「丹後攻略」に一色氏は滅亡、守護:藩主としての細川氏時代に、舞鶴湾(東港)海運の監視等に改修し使用されたものか?。
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柿安城   xxx  Ca150m 舞鶴市赤野小字タコ

中田城からは尾根通しに約100m程進む高みに柿安城が在って、 麓からの取付きは考えていなかったが、府道21号線は平から黒田川沿いに赤野・多祢寺集落を抜けて舞鶴自然分化園・三浜峠に向かう。 赤野には平安時代前期の宮廷絵師巨勢金岡の屋敷跡を伝える古蹟がある。大阪府堺市北区の金岡町が巨勢金岡が住み、彼を祀った金岡神社や絵筆を洗った金岡淵(消滅)や、
柿安城南端曲輪に入る

名前を冠した町名・学校名が残り、伊丹市清水は金岡が絵を描く際に取水した事に由来し、此の付近に端を発する水路は通称:金岡川 ・金岡排水路と呼ばれている。丹後にも巨勢金岡が居し且つ加佐郡志楽庄の赤野は旧領だったと云う(丹後旧記)。宇多天皇 ・藤原基経等の恩顧を得て活躍し、貞観10-14年(868-872)にかけて宮廷の神泉苑を監修し菅原道真等の知識人とも親交があった。
柿安城北端の堀切

元慶4年(880)宇多天皇の勅により紫宸殿の障子に聖賢の画:所謂”賢聖の障子”がある。日本画独自の様式を追求・深化させ、唐絵の影響を脱した大和絵の様式を確立させた功労者として知られる様ですが、其の作品は一切現存していないとも・・・。上記の中田城に城主赤野彦左衛門を揚げたが、 柿安城の西山麓一帯の赤野地区に中世の集団墓があり、
柿安城北主郭の櫓台状?の土塁

「舞鶴市民新聞(H2.12.13)」に・舞鶴地方史研究会により調査された記事が有って参考に見る。赤野神子谷の竹林にある中世集団墓について、神戸市の摂陽文化財調査研究所:古川氏を招き調査し14世紀末-16世紀末にかけてのもので、此の谷を支配していた土豪の存在を示す遺跡と分かり、古文書の記録からも赤野氏一族の墓と推測されています。
同:柿安城北主郭の櫓台状?の土塁

鎌倉時代:永仁2年(1294)?室町時代中庸期:永正13年 (1516)にかけて大浦半島全域を支配していた様です。
赤野氏については不詳ですが、永正14年は若狭武田氏に反抗した逸見氏と図かり、丹後守護代延永春信等と共に倉梯城に篭城したか、丹後守護一色氏も衰退するなか赤野氏は、海を舞台に永正以降は宮津市や与謝郡に拠点を移し、早い時期から細川氏に付いていたのかも?。
柿安城南郭・北郭中間部の削平段(?自然地形?の連絡通路)

西大浦村誌に:室町時代中庸期の延徳2年 (1490)の”河辺村の年貢米銭納帳写”に
赤野村:銭23貫xxx・米21石xxxとあり赤野彦左衛門と弾右衛門名が記されてあり、 土豪:赤野氏=一族の”村の城”としての柿安城・中田城や河辺中城(位置等不詳)が関連・呼応して築かれていたと思えてきます。同族の築城として城域の規模はどちらも約100m程だが、
柿安城南郭部

城域前後の曲輪近くを三重堀切や竪堀で防護する中田城に比して、柿安城の方は前後の曲輪からは少し離れた位置に堀切・竪堀が有り、 尾根上に並ぶ曲輪は削平状態の悪く(自然地形のまま)中間部を挟んで南北に二分されるが、郭を区分させた独立性も解らない古い城の様で、二つに城には隔世の感がある。それだけに丹後守護として田辺城に入った細川氏に付き 旧領地に戻った赤野氏が中田城を改修して使用したと思えます!!?。
(舞鶴の山城<舞鶴山城研究会>・ Web事典ウィキペディアを参照)

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大浦半島 観音寺城・河辺原城・西屋城 ・中田城・柿安城