綾部工業団地付近の山城 中山城・北谷城・松梨城 他
京都:綾部市 (五万図=綾部)
近畿の山城西八田城  中山城 北谷城 松梨城館  姫城と嶋間城
      足利尊氏建立・全国安国寺の筆頭
安国寺
足利氏の”二両引紋”が目立つ山門から方丈と庫裏

府道8号線で綾部市街地を抜けR27号線沿いに舞鶴方面に向う。 車道沿いに並走するJR舞鶴線淵垣駅の 北に迫る丘陵上に中山城が在る。勝手の分からないまま引き返すのも大儀な、余りに狭い地区内の道に入り込むのは考えものと立寄らずに通り過ぎてきたが今日こそは…の気概です。此処まで来たのなら、 次の駅「梅迫」の少し手前R27号線沿いに目印の
綾部安国寺ICの足利尊氏顕彰碑

足利尊氏像が立つ安国寺入口に向う。 京都縦貫自動車道の綾部安国寺からR27に出れば交差点正面を進んで、案内標識に従えば終点は安国寺の開山堂前の駐車場。足利尊氏が全国に建てた安国寺の筆頭。関東武者 :足利尊氏の生誕地には鎌倉(神奈川)や栃木県の足利が伝承地になっている様です!!。丹波綾部の安国寺には:尊氏の母 (上杉)清子の上杉家屋敷(現:光福寺塔頭の常光寺 !!?)と産屋の跡・産湯の井戸跡<参道脇の民家端>その他物証が揃い過ぎです!!。
北谷城の小社を祀る曲輪背後の大土塁から土橋付き空堀を副郭に入る

戦時中(〜太平洋戦争終結)には後醍醐天皇に忠誠を尽くし、 南朝に殉じ 「湊川の戦い」に討死した忠臣楠木正成一族は神として祀られますが、 後醍醐天皇に抗した北朝方の足利氏は、南朝に弓引く"逆臣"であり、安国寺は将校らにより墓を荒らされたこともあるという。 吉川英治「私本太平記」が大河ドラマにもなって時、尊氏が京の都を二度も追われたが、
高低差の大きな(6〜7m)松梨城館の大土塁

其の都度「一番」旗で名を馳せた玉巻城主:久下氏を頼り石龕寺(丹波市の紅葉三山 )に逃れた際の伝承には:篠山市の裸かや・丹波市には足利橋(二重川)の伝説や嫡男:義詮を伴った際は尊氏が九州から 西上するあいだ逗留していた際のてゝうち栗の伝説が残ります。深まる秋には安国寺境内も素晴らしい紅葉を迎えます。
姫城側から嶋間城(左手民家背後)・坊主山城(中央)と高城城(左奥)

国道筋の大きな看板に 観光寺だとばかり勝手に思い、観光寺と観光客の有り様には辟易していて今まで敬遠してきましたが、尊氏・母・妻を祀る三基の宝筐印塔・静かな境内には萱葺きの本殿・方丈が建つ 、禅寺の落ち着いた環境の中に在る事にも救われた。寺をあとに南下してJR淵垣駅近くの中山城から綾部工業団地に点在の山城探訪に向う。




 西八田 中山城 北谷城 松梨城館  姫城と嶋間城

西八田城から中山城
西八田城(消滅)    xxx  Ca120m  綾部市岡安町所迫

足利尊氏が南北朝期始:暦応元年(1338)夢窓疎石の勧めにより、元弘の乱以後に亡くなった戦没者慰霊供養のため、 国ごとに安国寺を建設(全国に六十六ヶ寺…現存64寺!!?)、綾部:上杉荘の光福寺を丹波安国寺として諸国安国寺の筆頭においた。嫡男2代目足利将軍義詮(よしあきら)が父尊氏・母登子の遺骨の一部を奉納し、尊氏の母上杉清子の 宝筐印塔3基を祀る安国寺の開山堂前の駐車場を後R27号に出て並走するJR舞鶴線の淵垣駅に戻る。駅西側から岡安町へ真直ぐ北上する府道484号に入ると直ぐ上八田川を挟んで西方の丘陵端に本田味噌工場群が見えている。丘陵上には北谷城が在る。最初に訪城予定の中山城とは上八田川を挟んで東西に直線距離で約750m程。やはり中山城へ向う狭い道を 通り過ぎてしまったが、
上八田川を渡り綾部工業団地へ向かう入口に西八田城が在った(消滅)

直上する府道は 上八田川と交差する所で五差路となり、安国寺からの道・岡安町(城砦群が集中して点在しているが、未だ未訪)の内と外を抜けて綾部JCT方面にむかう二本の道。もう一本が上八田川に架かる岡安橋?を渡って 綾部工業団地内を抜ける府道74号線に入る入口に西八田幼稚園と岡安神社が建つ。此の背後の丘に西八田城が在った。 工場建設工事前の発掘調査(1988〜89年)により城館跡で、曲輪・堀切が検出されているらしい。調査書等を閲覧していないので正確な位置・縄張りや城史等については不明ですが、市の遺跡地図には”消滅”とある。
TXX綾部工場:主郭部と思われる部分は西北末端まで駐車場

しかし城域外にも遺構!!?や、 新たな城砦遺構を見つける事も有る。遠目にも平坦な台形の尾根、末端部が上八田川に落ち込む岡安町の一帯には、上八田川をはさんで 真近に岡安城や姫城・嶋間城から高城山等が点在する。府道74号の綾部工業団地入口側に岡安神社の鳥居が見える。
西八田幼稚園背後の西八田城跡東北端先端!!?

神社背後から低丘陵だが山城らしい?急斜面を登って見るが、 比高20m足らずでフエンスに囲まれた上部は広大な削平地が拡がるT社綾部工場の敷地を見る。 堀切か空堀が有ったのは工場部と、此処も広すぎる程の駐車場の境にあったものか?。大規模な土砂採取後に整地されたようで遺跡地図に記載通り・壊滅ではなく消滅した西八田(やた)城の現状を確認しただけ!!。
(綾部市遺跡地図 1998.3市教育委員会 を参照)

中山城    城山(4等 118m)    綾部市岡安町大日蔭・中山町城山

上記に記した様にR27号沿いJR淵垣駅東で分岐し北上する府道484号に入って直ぐ、右手の低丘陵部先端を目指せば良いし、目的地中山城の在る位置が上宮神社なので簡単に行き着ける筈なのに・・!!?、普通車では狭く折れ曲がる道。神社へは農道兼 ・直ぐ行き止まりになりそうな林道を進むことになり、勝手の判らない初めての訪城だと、集落内に入っていくことさえ不安。
上宮神社

しかし神社前や其の先にも駐車スペースは有りそうです。林道沿いの最奥の畑地から少し高くなって畑地跡らしい竹薮となる。…が此処は曲輪跡だったか?、 平坦地形の竹薮が少し開けて地肌を見せる北続きに 2.5m程の切岸をもって、幅広く長い削平地が上宮神社まで延びる。林道?から 直接石段を登り石鳥居を潜ると左手:曲輪切岸状の端に朽ちかけた?ツブラジイの巨木が立つ。綾部市の神社仏閣・山城廻りではよく目にする「綾部の古木・名木100選」の案内板が立つ。
境内南に拡がる平坦地形:高い段差は造林用の造成か?

幹周3.4m・樹高14mの立派な大木だが中央部は根本から空洞化しており、 近年まで持ち堪えてきたが、遂に上部の重量に耐え兼ね今にも折れ倒れそう!!?,。境内から南には幾つかに区画されてもいるように思えるが、段差も殆どない平坦地形で、低土塁も在るが城遺構なのか、神社や営林の為のものか判断は出来ないが、先の竹薮との境付近の西側林道寄りから東へと、神社側の曲輪切岸下沿いは浅いが埋もれかけた空堀!?の様。 且つ林道側からは堀沿いには曲輪に入る土塁が有った様!!?。
境内南に拡がる平坦地形 :低土塁状も造林用等の造成か?

上宮神社から南へ拡がる平坦地形が屋敷跡なのか神社として・または造林や畑地として造成されていたものか判らないが、神社から北への広い緩斜な尾根筋も比高10数mで標高117m三角点峰の頂部の主郭に着く。雑木の中で荒れた余り広くない平坦地形で3〜4ヶ所に低い段差の曲輪 !!?らしいものを見るが、思い込みだけで城址のイメージも無かったが、
上宮神社背後の最高所:西面に切岸を見る(唯一の城址の明確な遺構!!)

主郭背を北から西方斜面に回り込んで初めて!!、主郭に切岸加工をみて城跡を実感。上宮神社から更に奥へ延びる林道!?側に落ち込む ・低丘陵西斜面を下ると、林道と接する部分に短いが空堀(横堀)状を見る。林道を隔てて神社側向いの雑木 ・竹薮の中に拡がる平坦地形も多分に造成改変されたと思える神社境内南側に延びる長い削平地に比してみると、西正面に切岸状に3〜4m程を切れ落ちる広い曲輪、
神社と林道を隔てた西側の空堀(左)・堀切道(正面)と其の左右に曲輪地形?

林道との間の 窪地形は直ぐ下方の池に延びて、空堀だったか泥田状の沼田堀、此の堀状の際から正面曲輪横を過ぎて先へ延びる通路が堀底道としての登城ルート?なら一帯は武家の屋敷群だったも思わせる。 此処は現在のところ?綾部安国寺からは最も近い城!!??、鎌倉期〜南北朝には上杉氏、 足利幕府の室町時代〜安土桃山時代(織豊期時代)にかけて、丹波守護・守護代から上杉氏・足利氏菩提寺として安国寺の寺領地は安堵されて来た。
石神社北:主郭の西斜面下の林道と平行に土塁・横堀地形が?!!?

城史不明の中山城ですが天正期(1573-92)城主に 川勝右兵衛秀氏が居た様です。慶長5年(1600)関ヶ原合戦前哨戦には石田三成の西軍に加わり東軍 :家康方の細川幽斎の田辺城攻撃に参軍した小野木縫介重次( 福知山城)・谷出羽守衛友(山家城) 別所豊後守重友(綾部城)小出吉政(出石城)等の武将のなかに川勝右兵衛秀氏 (丹波の内とあるだけだが、
中山城:最高所の荒れた主郭

北桑田郡:現・南丹市美山町を拠点の川勝氏か? 島城主の子に秀氏がおり秀吉に仕えており、戦功によるものか?綾部市に所領を与えられたといい、其の子孫は家康に仕え江戸幕府の旗本となった) がいる。確証もない推論ですが!!室町幕府の滅亡(天正元年 1573)以降に横領していた安国寺領を認められたものか?。関ヶ原の後・大阪夏の陣にも参戦した様ですが…?
(綾部市遺跡地図 1998.3市教育委員会 を参照)

姫城と嶋間城
姫城(大安城!) xxxx Ca135m  綾部市中筋町幽谷・阿古谷

上記の西八田城 へは上八田川を渡って府道74号へ左折した所、岡安バス停を右折して北上・西八田小学校側を抜け、上八田川を再び渡り返した川沿いに府道484号線へ左折して中筋町に入る。右手丘陵沿いに 「京丹波わち」から延びる京都縦貫自動車道の”丹波綾部道路”が、
中筋バス停・ポンプ場?と姫渡橋から望む姫城

前方には舞鶴若狭自動車道高架が見え始める辺り。左手の低丘陵部が八田川に一番迫り出して見える丘陵部に姫城が在りました。 二つの自動車道が交差する綾部JCT近くを走る府道484号線の舞鶴道高架下を南へ 700m程の位置。 八田川に架かる”姫渡橋”が正面丘陵先端部の頂部に姫城の城砦が在ったことを伝えているようで訪城には期待感も高揚する。
姫城主郭の西〜南を囲む幅広い低土塁

此処:八田川沿い府道484号”中筋町バス停?”前の交差点角には コンクリートブロック囲いの小さな物置倉庫の様なポンプ場が在るが、機能しているのか排水 (?送水)管も外れて不明?。北方の”丹波綾部道路”が抜けてゆく丘陵部裾の鳥居ケ岡集落内・正面に大きな石鳥居が見え,
城域東端の土塁を越え堀切を渡り、 切岸を詰めて東郭に入る

左手民家背後の丘陵東南端に位置する極小規模の独立低丘陵部には 間城(居館!!)が在ります。 石鳥居の直ぐ先に島萬神社の駐車場?が有り、 駐車場から直接向いの丘陵上が嶋間城・府道を越えての姫城の取付きまでも僅か250〜300m程なので、此処を利用させてもらいま。先ず府道中筋の交差点に戻って直進。
姫城主郭西の高い切岸(8〜10m程)と大堀切

府道の交差点に「綾部市なかすじ児童センター」の案内標識が立つので、地理不案内でも良い目標になるでしょう。農道?姫渡橋を渡ると姫城訪城コース。丘陵部を左へ捲くように進むと、 山に入っていく谷筋の山道(画像では左手に見える ?青いトラックの所から)が取付き点です。
主郭西の大堀切は長い竪堀となって落ちる

竹薮なので雑木混じりの急斜面へと、 早めに右手へと尾根筋に向かって侵入を開始。 比高40m程・幅広い尾根筋だが・なかなか城遺構を見ないままの登りが続くと思えたら、斜面上方に横一文字が見えた。堀切だ!!:下部に大土塁・堀底からの切岸5〜6m程を駆け上がると広い東郭部 (幅約25X長さ30m程)に入った。真っ直ぐ延びる丘陵尾根筋に曲輪を並べるだけの梯郭式縄張りの城で特に見るべき遺構には気付かなかったが、 低い段差の並ぶニ曲輪の先には、
姫城主郭南東角の虎口

東郭群からZ状の折れて 上段の主郭に入る虎口と、外側に一状の竪堀がある。虎口側近くからは・高さこそ(70〜1m程)と低いが割りと幅広い(2〜3m)低土塁が南から西へ、更に北側へも僅かに捲き込んでカバーする主郭部(およそ35u)が在る。主曲輪中程から尾根側を遮断する大堀切側の西端土塁へは、幅広い雛壇状の低い段差を持つ平坦地形となっている。 大堀切側の崖状切岸は8〜10m程と高い。
主郭西面の切岸と大堀切

姫城・嶋間城は 共に高城城の支城群の一つ。高城城は鎌倉時代の築城?らしいが、 城主・築城等の詳細は不詳です。当地土豪:大槻(備中守?)左馬頭清宗は室町時代末期(弘治〜永録頃?)の人物の様ですが不詳!!。大槻氏の嫡流や分流の一族と思われる 赤松左近が拠った城と伝えられています。 府道484号に戻って次の嶋間城に向かう。

(綾部市遺跡地図 1998.3市教育委員会 を参照)

嶋間城   xxxx Ca90m   綾部市中筋町宮ノ谷・ニノ段 ・城ノ腰

姫城を後に 八田川に架かる姫渡橋を渡り返して府道484号線に戻ってきた。
【嶋萬神社】「綾部市なかすじ児童センター」の案内標識を見て正面の島万神社の石鳥居に向かう。側に島万神社の太刀振・太鼓踊の大きな看板が立つ。京都府無形民族文化財(昭和60年<1985>)に登録がされている。 天平8年(736)諸国に疱瘡が流行し万民が苦しんだ翌年:疫病平癒祈願の為、
嶋萬神社

吉見(きみ)荘・八田(やだ)郷の郷社として勧請の社殿が造営されたといい、現在も安産・病気平癒の神として崇敬されています。式内社で社号は扁額に嶋萬神社とあるが、石鳥居側や境内案内標には島万(島間<嶋間>集落が在った)・島萬とある。漢字や読みに ・色々と変遷があるようですが?。
嶋間城南東虎口状:右に大土塁・正面主郭・左は南面の副郭を繋ぐ曲輪か?

福知山市境の高津(高津荘)から福知山市(旧天田郡)境の安場付近?に志万荘が有る。綾部市史には志麻郷・志万荘を此処・中筋町付近を充てる。広範囲ながら此の志万荘 ・江戸時代初期頃まで島村と唱え、以後は島四箇(大島・安場・延・岡)と称した志麻郷が嶋萬から島万へ・嶋間城の名称も此れ等の荘 ・郷名に起因するものと思えます。
嶋間城南東の山道(右端)から主郭に入る 虎口部の大土塁

須佐之男命を主祭神に祀る嶋萬神社の秋の祭礼(10月10日)には、氏子中により奉納される太刀振(オンヤー)と太鼓踊り(テンテコテン)は、室町時代末期に大流行した ”風流おどり”を伝えるもの。織田信長の”丹波攻略”等の兵乱の最中、領内諸々の城主等は、病気平癒ともに 領内安穏の祈願には”太刀振り”に断ち切ることも、”太鼓”により退散させる想いも届かず、
主郭北端:櫓台状一段高い曲輪先は造成で切り崩された断崖 (本来の主曲輪か?)

一族滅亡の路線を突き進んで行ったのでしょう‥!!。 嶋間城は大槻氏の本拠の高城から西へ延びる尾根先で南へ折れ流れ出る丘陵末端が途切れ、 又高城の尾根続き南西の尾根上に位置する坊主山城から西へ落ちる尾根が、嶋萬神社を包み込む谷間の出口を塞ぐ様な位置に立地する。
主郭北端:石仏(上写真)側から西側の切岸(此の下に横堀が廻る)

位置的には高城と深く関わり、有事には姫城や岡安城等周辺の 支城に指揮する旗城だったのかも?。 坊主山氏城を詰め城とした居館か出曲輪的存在も思えられる。 府道484号から島萬神社の大鳥居を潜り直進する地区道が嶋萬神社に通じます。 左(西側)は地名”城ノ腰”集落背後に比高15〜20m足らずに小丘があり、南面に個人墓地らしい石塔が見えるが既に郭と思えます。
嶋間城:主曲輪西下の土塁・空堀は堀を埋める朽ちた竹材が侵入を拒絶する

取付き点を探す要もなく、 此の墓地へ向かう田圃の畦道が丘陵麓に向かう。右手へ丘陵の入る山道の手前、地区道の直ぐ前方には駐車場も有る。車道東向は・駐車場付近と丘陵側嶋間城の城域にはニノ段と 城址を偲ぶ字名が点在する。此のニノ段に「児童センター」が在り、低丘陵部の北面を大きく取崩して開発された 削平地に建てられており、そのまま西側の集落に抜け出て、独立丘陵部となっている現:最高所が主郭跡と思われますが、北側端の一段高い段差は曲輪が続いていたか?土塁だったか?、スパッと切れ落ちて消失しています。
主郭南端から副郭部と虎口(主郭側切岸から)

字名”ニノ段”には現状:広い果樹園の様な平坦地形の主郭と、北に一段高い曲輪部は土塁状から先は、 施設建設等の開発に頂部尾根筋は切断され崖状に切れ落ちて消滅しているが、 主郭に並ぶニ段の曲輪から成っていたのでしょうか?。 現:主郭の西側切岸下には、 外側を高い土塁で囲う深い空堀が北方に向かって延びるが、其の先は途中で断ち斬られている様子!!?からも、遺構は更に北に延びて、車道が抜ける付近は堀切となっていたのかも知れません?。
南の副郭から土塁虎口と主郭への切岸

空堀に倒れ込んで簾状に成って枯れ・朽ちた竹材が簾となって、 空堀へも・外側の土類へも進めないが、嶋間城の遺構としては、駐車場から最初に主郭に侵入した南東端の大手口?の虎口状側の大土塁・広い主郭北に1mの段差で櫓台程度の幅広い土塁程しか残らないが、 現:主郭より更に広い曲輪が有って、ここが主郭だったかも‥?と思わせる遺構。段差の下段西端には五輪塔の残欠等 ・古い石塔が集められ祀られているが、 簡素な覆い屋さえ朽ち・崩れかけている。此処から短い竪堀状が今見てきた空堀に落ちている。
主郭南側下段の副郭には短いが竪堀を見る

近世の山林・畑地の排水用なのかも知れないが?。比高も小さい単郭の城だが居館と云うより ・城館スケールを感じる縄張りを見る。西面の主郭切岸下の空堀・土塁は南へ延びて、現:主郭の南7〜8mの切岸下の副郭に繋がる様です。更に下段にも尾根南面を帯状に囲む曲輪が有る。最初に石鳥居から見えた墓地が 此の平坦地か(未確認)?。下段から副郭に入ってくる虎口状・竪堀状・主郭西下から続く空堀(横堀)の土塁延長線が南側へも回り込んで延びる。
(現現地:嶋萬神社由緒 :綾部市遺跡地図 1998.3市教育委員会 を参照)



北谷城  xxxx Ca120m   綾部市渕垣町北谷

JR舞鶴線「渕垣駅」西で府道484号に左折し駅北方の間近に在る中山城は、中世戦国時代末期:天正期に城主の名が見えるが、期待した城遺構も城域さえも定がではなかった。中山城を後に府道484号うぃ北上し、岡安町から上八田川を渡り 綾部工業団地内を抜ける府道74号線に入る。
北谷城:稲荷郭?背後の土橋付き空堀

此の 工業団地北東入口に存在する西八田城も、城域全体?がxxx綾部工場敷地内りなり、工場建設工事前の発掘調査(1988〜89年)により城館跡で曲輪・堀切が検出されているが市の遺跡地図には”消滅”とあるように城址の存在を示すものは皆無。其れでも城跡の遺構や規模が地形等で状況把握できれば壊滅ですが、復元想像も出来ない完全消滅!!。この状態で、工業団地の真只中に位置する北谷城は…?。
北谷城:細長い南郭から一段高い稲荷郭?の切岸

西八田城と同様:工場建設用地の発掘調査(1988〜89年)により空堀・土塁の遺構が確認されているが城史については不詳です。 北谷城へは・およその位置が中山城・西八田城に寄った際、府道484号から望む〇田味噌工場の上に見えた低丘陵部端と 検討は付けており、西八田城跡にむかった岡安神社前から府道74号線を採って工業団地内を抜ける。途中「コミュニテイ広場」標示があるが、直ぐ行き止まりでガラとした駐車場と転回スペースがあるだけ?。下方に二つの貯水池が見えるので地図で確認。
北谷城:稲荷郭?背後の大土塁と土橋付き空堀

次のXX工場の角の交差点を左折して、小峠を超えると直ぐ大きく左右に分岐する道に”〇田味噌”の看板を見て左折・50m程進んだところに赤い鳥居を見る。取付き点には駐車スペースも有り、上方へは階段参道も 有って山城訪門には非常に助かる。参道を2折れ・3折れすると城域の南郭部(約:幅15mX長さ30m程)の細長く感じる平坦地だが、 竹薮内は猛烈な矢竹・篠竹に下草、竹は倒れ腐り、おまけに蜘蛛糸と薮蚊・・侵入しても遺構状況等の観察は覚束無い!!?.。
北谷城:北・西・南の三方を囲む大土塁

伐採された竹が積み上げられる …?というよりは危険な井戸跡を竹で覆っている様にも見える所もある。北端は参道終点の祠(鳥居からして稲荷社か?)の建つ曲輪の切岸下で、参道とは反対に南郭東北側から上り土塁jがある。直接祠の建つ曲輪に到達していないので、 途中一折れしているのか?・小曲輪が在るのかは未確認です。社殿の背後は大土塁で、東端から廻り込む様に上ると今日初めて出合う感動的な空堀を見る。空堀の東端には東郭に入る土橋が付く。
北谷城:主郭北コーナー部からの切岸と堀切

綾部 :甲ケ岳城の土橋付き空堀とは僅かに規模は小さいがよく似た遺構です。土橋を渡って二ノ丸 (東郭)に入るが、下草薮に覆われた平坦地形に、郭内の状況はよくわからないまま、曲輪を繋ぐ北端の土塁沿いに主郭に入る。 平坦地形は広いが同様に薮の中だが前方には曲輪北から西面に2m程の高い土塁を廻し南側へ低くなるが コの字状に曲輪の三方を囲む土塁が見える。
主郭南西:2段程の曲輪切岸下にも帯曲輪(空堀状?)と手前左には竪堀

曲輪内も土塁も羊歯類や雑木薮に覆われ、少し下草を刈り込まないと画像では判別できない。 【繊細ディテール画像では容量多過なので、サーバ見合いで・今後増え続ける城レポートUPに影響するので画質を落としているの、益々見苦しくて申し訳有りません】短い北尾根筋に面する主郭の幅広いコーナー部からは、急斜面の高い切岸(6〜7m)を落とし鞍部は緩衝帯?の尾根筋を遮断するため掘り切っています。
再度土橋付き空堀:空堀西から東端の土橋

主郭南側土塁の外に低い段差で2段曲輪が続き、 3m程の切岸下には帯曲輪(土塁空堀!!?にも見える)を廻し、南東角に竪堀が一条走る。立木が殆ど無い斜面だけに、見た目以上の急斜面と思える。工場用地に挟まれた僅かな山域部に、小振りながら確りした縄張りと遺構を 遺す貴重な城砦が残されていました。
(綾部市遺跡地図 1998.3市教育委員会 を参照)


松梨城館   xxx Ca80m   下八田町松梨

福知山市方面から府道8号線・広域農道・府道74号線で、 綾部市街地を抜けR27号線沿いに舞鶴方面に向かう。舞鶴若狭自動車道の綾部ICを降りても、 府道74号線に入り綾部工業団地を 目指すのが、時間的にも有利・便利。工業団地の南に続く桜ヶ丘団地を南端に抜け出た車道を、東へ下っていくと 由良川支流の八田川に架かる 下八田陸橋を渡る。
松梨城館の大土塁(高さ6〜8m程)
車道側溝から直接取付ける:大土塁(左)と大空堀(正面)


地図上から目標位置を説明するにはJR舞鶴線沿いの R27号の下八田町から下八田陸橋を渡れば良いのですが 「下八田陸橋」の道路標識を見たら、”とき既に遅し”で其の南一つ手前の交差点で右折して下八田陸橋を渡る事になります。八田川を壕として築かれた城館は西背後の 半独立丘陵の147m峰から南へ延びる尾根筋が一挙に八田川に其の先端を落とし、川と丘陵が三方を囲む幅約400m程の小さな谷間に 開けた松梨集落を背にしている。 城域は間近に迫る宅地まで広がっていたと思えるだけに、直接:松梨の集落内に入ってみたかったが今回は見送る。
松梨城館大土塁に入る!!?上り土塁?

松梨城館が居館であっても城館であっても背後の147mピークの丘陵山頂部付近からは、由良川と綾部市街地を南に望む、西に位田城や大江町 ・宮津氏方面、東に八田川沿いのR27号舞鶴・若狭方面の要衝監視には適地、南北朝期に大槻氏が居城の高城城(八田城)から見れば 南の玄関口を守る前衛と云うよりは最前線に位置する。未調査で市遺跡地図にも空白地帯ですが、詰め城としての城塞か?、見張りの砦が在ったとしても納得!!…?。
衝立状の大土塁(左)内壁と大空堀

松梨城館へは先に寄った北谷城から綾部工業団地内から、 桜ヶ丘団地内を抜け出て、下八田陸橋から府道77号・府道74号を結ぶ車道に出る。分譲住宅xxxの幟旗が立ち並ぶ団地への南入口は車道沿いの空地脇に駐車スペースがある。西上すると50mほど先が峠・東へ下っていくと下八田陸橋が見えてくる。橋の西詰めと・桜ヶ丘団地入口との・ほぼ中間付近の南側に丘陵端が 接する処に”落石注意”標識が立つ城域北端の大土塁側に有って取付きの目印にはなる。
大土塁と大空堀(東口の車道側)

標識の少し西に大土塁と尾根側との間に空いた空間!!が侵入口だが此れが大空堀。左に衝立状の大土塁・右に尾根側急斜面が迫る空堀道は、一瞬でもメイズ・ゲームの 主人公にでもなった気分!!??になり、ともに圧倒される。空堀を西に抜けると一段低く広大な竹薮になるが、倒れ朽ちた竹材に地表がどこかも見定められない荒れ放題の竹林には、踏み込むことは無論 ・一旦入り込むと進退さえ思うに任せられない程に凄まじい状態です。大土塁の西端が此の大空堀の端に延び、 土塁上と同じ幅の上り土塁が・此の竹林となっている平坦地形沿いの、 南下の曲輪から繋がっています。大土塁と空堀の東端(侵入口)は車道で寸断されている様で、往時の状態が不明ですが、
松梨城内の石積み井戸跡

大土塁東端には櫓台が付き、 近場に在った北谷城と同様にL字か・コの字状に高土塁に囲まれていたのかも?…空堀も車道を越えて東側斜面へ竪堀となって延びていたとも思えます。いま遺る縄張りは、147m山頂から東麓へ流れ出す短い丘陵の山麓端に段曲輪を 3〜4段並べただけの単純な構成ながら、 あまりに高い(7〜8m)土塁が築かれるが、ほぼ聳立する凄いもの。土塁上はほぼ幅1.5m程で尾根続きを大堀切で城域を分けている。
大土塁西端の上り土塁と 倒壊する竹が折り重なる西郭!?側と主郭との切岸境

尾根側は尾根幅は広いが緩斜面がの自然地形だが、 大土塁から南側への居館側には 石組の井戸と炊事・洗濯用と思える浅いが石積みの池状が有り、今も井戸は水を湛え、湿田・沼田状の池が通路土橋を挟んで並ぶ。石組・石列の井戸・池状の遺構が 松梨城館のものなのかは、曲輪内の状況も見て廻れる状態には無いし、 発掘等の調査資料は知らないが、此のような縄張り(大土塁だけが目立つが!!)、中世期以降の築城主をはじめとする城史は不明です。
(綾部市遺跡地図 1998.3市教育委員会 を参照)


安国寺      綾部市安国寺町寺ノ段1

景徳山安国寺(綾部観音霊場第二十六番札所臨済宗東福寺派 :本尊・釈迦三尊座像))は正暦4年(993)頃:恵心僧都62才の作とされる子安地蔵菩薩を本尊として開創されたと伝えられる元は光福寺を称した。鎌倉時代中庸期:建長4年(1252)宗尊親王 (後嵯峨天皇の皇子:皇族で始めての征夷大将軍)が将軍として 鎌倉に下った際:北条幕府に請われて 護衛役として鎌倉に移った際勧修寺(上杉)重房が八田(やた)郷の上杉荘<高槻保!!>を賜り、所領から上杉と改名し、其の後は上杉氏の菩提寺となり釈迦三尊像を併せて祀った。 上杉家は貴族:藤原鎌足の子孫と云う。
花頭窓も鮮やか :安国寺仏殿

鎌倉での上杉氏は北条氏ではなく足利氏に仕えるようになっていた様です。上杉頼重の娘清子が足利源氏の棟梁:讃岐守足利貞氏と結ばれ・嘉元3年(1305)上杉屋敷 (現:光福寺塔頭の常光寺!!?)に於いて足利尊氏が誕生する。その後は足利氏の帰依も受けるようになる。 安国寺は足利尊氏が南北朝期の始め暦応元年(1338)夢窓疎石の勧めにより、元弘の乱【(1331-33)後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐の為挙兵した】以後に亡くなった戦没者慰霊供養のため、
山門内より方丈と庫裏

国ごとに安国寺・利生塔を建設(全国六十六ヶ国 ・二島に一寺一塔の設置を勧め)するにあたり、光福寺を丹波安国寺とし、諸国安国寺の筆頭においた。康永元年(1342)尊氏は南禅寺の天庵妙受禅師を開山に紹請し、安国寺の始祖とし、丹波・丹後・陸奥 ・越後・三河・美作・日向等全国に得ていた、 多くの飛び地領が寺領として寄進された事でしょう。それ以後:塔頭16・支院28を有する大寺院で、応永21年(1414)足利義持により京都十刹の寺格を得ていたが江戸中期頃までには大半の寺領は横領され
開山堂山道門は旧山家城主:谷家の移築門

塔頭等は減少したが 今なを多くの重要文化財、府・市指定文化財、重宝等を蔵する名刹ですが、静かな境内の佇まいに、紅葉の名所は伏せておきたいところです!!。山家城主:谷家の屋敷門 駐車場は境内の開山堂前に在るが、安国寺山門を潜り、方丈・庫裏を左に・正面に仏殿を拝し、 紅葉の時期なら素晴らしい景観が楽しめる右手の鐘楼から、境内の池端を抜け駐車場に向かうと、数段の石段上に小さな山門(開山堂山道門)を潜って開山堂前に着く。此の山門が山家城主:谷家の移築門で、 平成13年10月全面改修されています。
足利尊氏と母・妻の宝筐印塔三基を祀る

宝篋印塔三基(綾部市指定<昭和45年3月20日>文化財)
開山堂の左側に建つ三基の宝筐印塔は無銘だが南北朝期のもので、 中央に各部が完存する仏塔が足利尊氏(延文3年4月 1358 享年54歳没)、左右には一部の欠損が見られるが左に尊氏母(上杉)清子(康永元年12月1342没)・右に尊氏妻(赤橋)登子(貞治4年5月 1365享年60歳没)を祀り 尊氏没翌年1359年2代目将軍を継いだ嫡男義詮によって、父母の遺骨の一部を安国寺に奉納された云われます。 仏殿他塔頭安国寺の伽藍は享保20年(1735)6月の山津波で裏山が崩れ、仏殿他の諸堂は倒壊・埋没したあとを整地仏殿は寛保3年(1743)再建された。 桁行五間・梁行五間・単層で屋根は入母屋造の茅葺。床は四半敷とし、中央の天井は鏡天井を避け格天井とし、正面両脇には花頭窓を配しています。
山門・方丈・庫裏と鐘楼

堂内には木造釈迦如来及び両脇侍の三尊坐像を本尊とし、 右側には木造地蔵菩薩半跏像(共に国指定文化財)を安置しています。方丈は萱葺き(2010・10月は葺替中)入母屋造りで横に瓦葺?が付く!!、棟上は寛政6年(1794)。 庫裏共に江戸時代後期の建築で京都府指定(昭和63年4月15日)文化財。鐘楼と共に天保14年(1843)再建された山門は四脚門で、本柱・控柱ともに丸柱・屋根は本瓦葺 ・山門左右に建つ方丈側・鐘楼側へは附属の袖塀が延びる。鐘楼とともに府登録指定(昭和63年4月15日)文化財に登録されています。
(現地安国寺境内の綾部市教育委員会案内板 ・尊氏公と綾部の顕彰碑 等を参照)

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