神戸北区・中区の山城 山田城(東下城)・福谷城・
近畿の山城 (阪神・淡路)  東下城(山田城) 福谷城と城ヶ谷砦
北神戸市の伝説:蛇池(東下城の姫伝承)
福谷城(神戸西区・山上に秋葉神社)を遠望

帝釈山〜丹生山〜シビレ山〜 (2002.11.10)レポートをUPした頃・登山ポータルサイト「低山徘徊派」の掲示板(この頃の掲示板は主に関西メンバの書き込みが活溌だった)に「やまあそ」島田さんから衝原湖近くの山に登った際・此処に山城が在った事を知らされた。城山の名も位置に詳細を聞き漏らしていたが、 稜線歩きの登山対象になりそうな所は城山(東下城)から長坂山に至る界隈しか無さそう?。
福谷城(秋葉神社から城ヶ谷砦を望む

兵庫県遺跡地図には近在に坂本西砦・西脇砦・山田館・畠田砦等が在るので、いつか訪城したみたい。山田町には「鷲尾邸」(鷲尾氏屋敷)の名があった。 源義経を一の谷に案内して大勝利した”鵯越の逆落とし”が有名ですが、其の後;義経に追従した猟師:鷲尾三郎は、壇ノ浦に平家滅亡の後の功により”山田庄”を領します。 また東下城には城主の姫が池の主に嫁いだという蛇池伝承も残ります。



東下城(山田城) 福谷城と城ヶ谷砦


東下城(山田城・東下山城)  城山 241m  神戸市北区山田町東下城山・城ヶ谷

中国自動車道の吉川ICから南へ向かうR428号線は、途中・淡河本町交差点で県道38号線と交差する。「道の駅淡河」が側に有り、 目前直近に在る淡河城跡へは軽く徒歩で向える範中。昔:谷沿いに丹生山系(丹生 山〜帝釈山 )へは此処から登った事もあったが、一般的には丘陵尾根を越えた南側。 R428号線では岩谷峠を越え・有馬温泉・蓑谷方面へ向かう原野南交差点で、呑吐ダム(衝原湖)・三木市に向かう県道85号線を西へ走る。西宮市から寄り道しながらの帰省では、 淡河から吉川へ抜ける事もあったが、
東下城南北尾根・鞍部の埋もれかけた堀切/土塁

此の県道沿いに呑吐のダムサイトに寄ったり、千年家から義経道を丹生山への登山に利用し、85号線を三木市・小野市へと走ることが多かった。此処を通る事も無くなって久しく懐かしい。 山田町原野交差点を直進する県道から左手(西)へ入る地区道を約150m程進むと志染川(山田川)に流れ出る二つの谷川?が車道側に突き当たり弧を描いて屈曲する地点が 地図でも確認できる。対岸の集落上には、阪神高速7号北神戸線の北側・長坂山から北へ延び出す低丘陵の尾根先が、 行願寺の南背後で盛上がり東下集落側からは、鉢(お椀)を伏せた様な )半独立丘陵を呈しています。
東下城主郭部(東西尾根)の堀切

此の山上が城山で東下の城が在りました。別称の山田城の名に相応しく・広い北区山田地区内の諸城砦群の中にあって、 南北朝期には既に存在していた古城らしく、室町時代末期まで使用されたと思える遺構(他所の城砦遺構に較べ土塁・堀切・段曲輪・曲輪の切岸や、城域の下部を囲い込む”犬走り”をみるが、 左程の特筆すべき縄張り遺構を見ない。城主や城史については不明だが、此の城にも竹の皮に似て ・笹の葉を敷き詰め・それに油をたらしたので寄せ手は足をとられて登って来れなかったが、それに火を付けられ落城したとの伝説が残る。
東下城主郭部堀切と西郭側の切岸

行願寺背後の城山へは東下集会所(幼児用小公園)から行願寺へ行かず 西側の宅地沿いに直進<飼い犬の歓迎を受けるが!!>すると溜池に出る。【登城口付近に駐車スペースは無く、集会所も入口や駐車空地が遊戯施設の有る小公園内では危険と迷惑?。 地区道を進むと駐在所先・七社前バス停が有り「七社大明神」扁額の掛かる鳥居奥100m程に在る七社神社(天満神社!!?と天一神社が並ぶ)の境内前を利用された方が良さそうです】七社神社は 北区山田地区内でも最古参の由緒をもち、丹生寺(明要寺)の開基:百済国の童男行者による勧進を伝え、はじめ丹生山にあって山田全村の総鎮守社として崇敬され、大国主命・大己貴命・大山咋命・大物主命・八千矛命・顕国玉命・葦原醜男命の七神を祀り、拝殿前の石燈篭は宝暦8年 (1758)のもの。神社南隣の安楽寺(廃寺)跡には薬師堂が建ち、堂前に二基の宝筐印塔が建つ。
主郭の土塁から箱堀状の曲輪を挟んで副郭(二ノ丸)側切岸

基礎から塔身の反花や格狭間、笠から相輪(九輪!!)・その上の請花・宝珠まで完存状態や、 隅飾突起の様式等からは 室町時代末期と思われるものと、隅飾りが拡がりを見せる装飾性高い宝筐印塔は江戸時代中後期:天明5年(1785)のもの。間には五輪塔の残欠も集められています。 東丘陵上の東下城に関する遺物かは不明。行願寺(真宗)は蓮如上人の布教で改宗したと伝えられ、天正7年(1579)秀吉による三木合戦により、淡河城攻め・三木城攻め・一向一揆による宗徒の 弾圧の渦中に遭って寺は焼かれ、其の背後の城山(東下城)も、荒木村重の謀反で花隈城 〜淡河城〜三木城へ運び込まれる、毛利方の兵糧輸送経路を断つべく、丹生山城を奇襲した際・別所方の東下城も合戦場となり、落城の憂き目に有ったのかも?。
東下城主郭部:西郭曲輪群の小曲輪から城域を囲む犬走り

集落奥から溜め池端を通り、狭い簡易舗装路が丘陵に向い延びているが農作業の専用道だろうか?。一ヶ所カーブミラーがあり、 其のすぐ先で道の右下と左上部に畑地がある。 道は更に延びていくが、長坂山に至るハイキング道だろうか?。東下城(山田城)の城域南端は・此の 左上に有る畑地(南曲輪群の最高所)で、物見櫓を兼ねた8u程の平坦地。北方の主郭部へ延びるら薮の尾根筋には、浅い鞍部に埋もれかけた堀切と低土塁・低い段差で平坦地形が数段続く。 此の南北尾根へは先程のカーブミラー設置場所から、トラバース気味に南端曲輪北へ回り込んでも乗れる。
東下城主郭を廻る”犬走り”も主郭東端は幅もある帯曲輪!!

此のトラバース 踏み跡の左下(谷側)に数段の広い平坦地形となり、登城口の”溜め池”に降りてくる。さて東西尾根に曲輪を並べる主郭部へは少し傾斜を強めて、東下斜面には崩壊による自然地形か ?幅広く大きな竪堀状が一条落ちる 尾根筋上に二段程の平坦地があり、東西尾根上主郭部の堀切に着く。堀切西には低い段差の曲輪を三段並べ、其処からは傾斜を増す尾根筋に小曲輪を3〜4段連ねているが、上段1〜2段付近から薮中を抜けて・西郭から東端の主郭下を 南から西へと細い通路”犬走り”が囲い込んで、登ってきた南北尾根筋に繋がる。
東下城主郭部:堀切

東側の主郭下は幅の有る帯曲輪だが、犬走りから下方は猛烈なブッシュで進むにも難儀・遺構確認など 専門知識も疎く覚束無い。遺構調査等の研究家でもないので此処で引き返す。堀切から東へは土塁を越えて副郭(幅約10mX25m程)・少し低くなった箱堀状の曲輪(副郭と主郭間の北面が 低土塁!!…)・北側半分に土塁を積む主郭(幅約18mX50m程と長く、丁寧に削平されている様で残存状態も良い様です)に入る。東下城から長坂山への尾根筋東山麓に有る 蛇池には東下城の姫伝説が残ります。また神戸市北区山田町と、兵庫丹波:篠山市鷲尾に関連深い人物がいる。 平安末期の寿永3年(1184)一の谷合戦に大勝し、翌:文治元年(1185)の壇ノ浦合戦に平家は滅亡しますが、兄頼朝に京を追われた義経が堀川の館を出て後、文治5年(1190)奥州衣川館(岩手県平泉)で藤原泰衡らに襲われ、自刃するまでの約3年間・空白の期間があるといわれ、 義経はその間・当地篠山の鷲尾村に鷲尾三郎経春(義久 !とも)を頼り三嶽修験者たちに匿われていたとされます。
主郭土塁と西小曲輪北面の低土塁線

義経に追随した郎党の一人・鷲尾氏は篠山市鷲尾や神戸市北区山田の鷲尾氏共に、子孫が続いていると云われます。 いずれの住人でもあり、鷲尾氏屋敷跡の碑が有ったり代々の墓所もあり、丹波・摂津・播磨へと山を棲家として移動する猟師が地域の道や地形を熟知していた事でしょう!!?。 平家本陣の一ノ谷へと、山田道を〜藍那〜鵯越へ抜ける山道を案内した青年猟師三郎は、一の谷の戦いに圧勝する事ができたとして、其の功により山田に土地を与えられ、 義経の名から一字を賜り「経春」とも「義久」とも名乗り、郎党の一人として常に側に付き従って活躍した人物です。



福谷城と城ヶ谷砦
福谷砦(中村城・福谷城・西神NTNo.84遺跡)   城山 Ca110m  西区櫨谷町福谷字上惣代

三木市方面からR175号線を南下し、神出町で県道65号を前開・学園都市に向かうと、端谷城の在る東方からの県道52号線が、県道65号線の高架下を潜る。此処が「福谷東」交差点で、南東側へ県道65号線に入る車道途中(約00m程)に見える右手西端から続く丘陵部に 城ヶ谷砦が反対に北方に斜上する車道が県道65号線に合流する地点の 右手に正一位「秋葉神社」への参道。
福谷城主郭!!:城砦跡を感じさせる?櫓台と秋葉神社

参道と合流地点先「福谷北」交差点で西神中央のニュータウン!!,に向かい、トンネルを潜る広い車道が通じています。 此のトンネル上の丘陵頂部に
福谷砦(福谷城・※中村城)が在りました<※福谷は県道52号線・65号線が交差する”中村”と呼ばれた西国街道の要衝の地にあった>。県文化財保護 :行政地区マップ(遺跡分布地図)には遺跡名称が、西神NT(西神ニュータウン)No.84遺跡とある。主郭と思われる広い平坦地形には秋葉神社が祀られています。
櫓台から狩場台等の西神ニュータウン眺望

城址の直ぐ西に”狩場台”等のニュータウンが迫るが、中世の領主や近世の藩主(元和年間<1615〜>以降の明石藩領)による「お狩場」が有ったのでしょう。 福谷東を通り過ぎても・一つ南の「福谷」交差点で右折する地区内の車道も、 県道65号線合流地点・秋葉社参道入口で、西神中央のニュータウンに向かうトンネル道との間の広い、駐車スペース付き?路側帯?が有る。比高20m程だが急斜面の簡易舗装道を辿れば 4〜5分もあれば見晴らしの良い秋葉社に登り着く。
福谷城主郭の尾根続き区切る片堀切

火の幸を恵み・悪火を鎮め諸々の厄(災い)を祓い給う火伏の神が関西の愛宕社でなく ・秋葉社との関連は知らないが、中世〜近世の在地領主や城主・藩主に関連するものでは無さそうです?。 なんと・黒っぽい櫓台の展望台が付属しており、 眼下に西神ニュータウン・西六甲の山並みを、北に神出の雄岡山〜雌岡山辺りの低丘陵を望む。
城域北端?の枡形土塁虎口?(尾根筋から)

神社域の北端境からの尾根筋(幅広い土橋!!?)から、 深い片堀切が東下方へ一条落ちている。此の先から急に薮に覆われる。 その中に尾根筋脇の少し低い位置沿いに一本の踏み跡を辿るが、少し高い(約1〜1.5m程)位置は曲輪。東端を土塁(土塁道)で繋いでいる様だが、縄張りを矢竹や灌木・下草に覆われた薮中では 全体像が判らない。踏み跡の左手に1.5m程の段差で曲輪があり、
城域北端?の枡形土塁虎口?(空堀状の下方から)

右側の曲輪群?は土塁線を残して(踏み跡)山道に合流。右側に広く大きな空堀状を見る。下方から登ってくる通路があるのか?、 秋葉社から西側をトラバース気味の通路が通じていたのかも‥?。空堀状に稜上から突出す様な土塁が虎口を形成している様です。土塁によってコの字状に囲む溝に沿う内側を左に・右に、二度折れてから尾根上に出る枡形虎口の構造にも見える?が、 城域は此処まで?の様で北に続く尾根筋は緩斜な平坦自然地形?をニュータウン東端部へ下っていくだけの様。
城域中程:土塁曲輪に続く曲輪切岸

福谷砦(中村城)・城ヶ谷砦は・櫨谷町内にあって、 櫨谷の谷筋(県道52号線沿い!!)には他に池谷城・城ヶ市城等、播磨赤松氏一族の、端谷城主衣笠五郎左衛門尉範弘により周辺に築かせた城砦群がありますが、 其の多くは城史等詳細は不明です。端谷城の支城として機能し築城から、淡河城(淡河氏)・福中城(間嶋氏)等と共に端谷城最後の城主:衣笠範景は、天正6年(1578)三木城別所長治に与した為、 秀吉勢によって天正8年落城の道を辿ったのでしょう。


城ヶ谷砦(大神城)
  xxx山 Ca90m  神戸市西区櫨谷町福谷字城ヶ谷

福谷砦と城ヶ谷砦の所在位置や神出・押部谷と前開を結ぶ県道65号と藍那から明石へ向かう県道52号が「福谷東」で交差する。西国街道の交通要衝地にあること、衣笠氏の本拠城:端谷城の支城・城砦群が周辺に数多く築かれている事等を上記の福谷城に記しているので 割愛しますが城ケ谷砦も端谷城主衣笠五郎左衛門尉範弘により周辺に築かせた城砦群の一つです。
造成地奥の林の中が城ヶ谷砦(配水所から…)

端谷城の城砦群は淡河城と共に 端谷城最後の城主 :衣笠範景が三木城別所長治に与した為、秀吉勢によって落城の道を辿ったのでしょう。県文化財保護:行政地区マップ(遺跡分布地図)の遺跡名称には城ヶ谷砦と有り、備考蘭は空白のままですが、砦と呼ぶには低丘陵上の広大な平坦地形上にあり、 深く幅広の空堀が二分する東西尾根側に高い切岸の曲輪が有る。南北は急斜面で両山裾には池がある。
城ヶ谷砦!!東郭部の井戸跡?

此れが城名の起源か?・東側は尾根幅一杯(約20〜25m程)、東奥へは7〜80m以上(最奥まで確認していないが!!)は続く、殆ど段差のない平坦地形が続き、途中には7X5m程の溜め池もある。 取り付き点を探して東福谷交差点付近から窺うと、排水施設の北東から農道が丘陵上に向かっているのが見えたので
城ヶ谷砦!!東郭部の広すぎるほど広く長い平坦地形?

「神戸市水道局福谷中層配水場」の北から丘陵側への農道を進み溜め池 に着いたが、丘陵へは鬱蒼とした薮の堰堤を突き進むことになる。思案して ・溜池北側沿いに進むと3段程の広い畑地が続く。その先は又薮だが空堀状を超えるとビニールハウスや農作業用車も見かける畑地が続く。
東郭を分ける大空堀と主郭(左)側切岸

結局・引き返して 溜め池側の薮の堰堤に突進。「案ずるより…」で薮はすぐ消え、対岸の丘陵斜面も薮ではなく尾根上に出たが、余りに広く長い平坦地に耕作地か開墾地が手入れされないまま荒廃したものかと思い、 また東を末端部まで詰めてもビニールハウスの並ぶ畑地に続くのかと思い此処でも引き返した。 西端部が途切れ、土塁状?切岸状5〜6mの急斜面を降ったら幅広く長い空堀状。西側は7〜8mの高い切岸となっている。
城ヶ谷砦!!主郭内部東端:空堀側の大土塁

西へ向かう切岸沿いも空堀<横堀>状の尾根端南側は途切れたところが 斜面下の溜め池か沼地に落ちる竪堀ともなっている?。切岸を上がってみて驚いた。 先程の南北の空堀沿いの高い切岸から西へ向かう曲輪沿いは高い土塁で囲われていた。曲輪内部の北面殆どは竹薮、南南も下草薮の中で全体像が不明ながら、とても砦クラスの縄張りでは無い。
城ヶ谷砦!!主郭東端から南面へL字状土塁が低くなって西端まで延びる

土塁囲みの広い曲輪を主郭とし東の広大な平坦地に兵を集めた陣城や西の高い土塁囲みや空堀・堀切からは居館(構居)のイメージが余程強い。西端で3〜4m程の切岸段差を降りると、城域端とおもわれる20X30m程の平坦地形に出た。東福谷交差点から 県道65号線に入る側道の側 ・バイパス工事で削られ ・大きく改変しているように思えるが尾根筋を除く三方は急斜面に囲まれている。
城ヶ谷砦!!主郭内:東面大土塁から南へ廻り込む土塁東南コーナー部

北面は配水所裏手のフエンスが斜面下部に見えるが、密集竹林に倒れた古い竹材が折れ重なり、進むにも大義だがフエンス沿いに外に出る回避場所も見えない。 此の平地も曲輪と思われますが資材置き場跡の様相に期待は出来ない。バイパス工事により実施された城跡発掘調査跡の様子とは思いたくないが・・・。



北神戸の伝説:蛇池

城山の麓に居館を構えていた 東下城(山田城)城主には自慢の美しい姫があり、近隣の国々から求婚者が次々と訪れます。ある夜・気品ある若侍が館を訪れ、姫は若者を一目で好きになりますが、 城主夫妻には不安で嫁にやる決心がつきません。身なりや供の者たちの様子からは大国の若殿らしいと思うのですが、近隣にその様な若殿が居る事は聞いた事も無い。 若侍に尋ねると「意外に近い国ですが、あなた方の御存知無い国です・・・」と応えるばかり。 一人娘だから断ろうとすると「ご心配なく・国も近くですから、度々里帰りさせます」城主夫妻は不審をつのらせ縁談を断ります。 若侍は意外な程あっさりと納得して引揚げますが、 姫の姿も見えません。数日後の夜:姫は大勢の供を従えて帰ってきます。
東下城(山田城)

其の後も若侍が約束した様に度々里帰りしてきますので、喜んで迎えますが不審は解けません。娘に尋ねても嫁ぎ先の国を教えようとはしない。 しかも里帰りはいつも夜で、夜明け前には必ず帰ろうとしまので、強引に引き留めようとしても、夜明け前には姫も供の者もいなくなっています。或る日・村人が山仕事で遅くなり、 暗くなった丹生山を下りながら何気なく村の方を見ると、沢山の火が城主の館あたりから 南の方に続いています。何事かと急いで山を下り館辺りまで来たが、あの多くの火は何処にも見えず、館では姫が帰ったと騒いでいるだけ。この不思議な火の話を聞いた城主は不吉な予感を覚え、 次に姫が里帰りした夜・家来達を密かに山に登らせます。
東下城の広い主郭

夜明け前・未だ濃い霧に包まれている館の辺りに不意に一つの火が現われ、やがて二つ・三つと南の方へ点々と数を増して動いていきます。それらの火は城の山裾を廻るように 蛇池の辺りまで続いていました。姫の嫁ぎ先はなる程近くの国でしたが、この世の国ではなく蛇池の主に嫁入りいていたのです。其の後:歳月は流れ城も滅んでしまったが、 「城山の狐火」とか「姫の送り火」と呼ばれる妖しい火は、城山を見下ろせる高い山から今でも時々見ることが出来ると伝えられます。丹波市の 藤ノ木橋の物語も此れに似た話として伝わります。 全国的に池・沼・滝壺の主・竜や蛇を題材として様々な伝説があるものですね。
(北神戸:歴史の道を歩く 神戸の伝説・・等を参照)
   本誌 丹波霧の里HOME 別冊 別冊丹波霧の里HOME
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