神戸:北区の山城  蒲公英城・茶臼山城・西浦城・貫主山城・宅原城・光寺山砦
校歌の山:大沢小学校 ♪光山寺(こざし)の山は 高うしてxx…♪
       大沢幼稚園♪xx・・光山寺の小鳥も歌いますxx・・♪

近畿の山城 (阪神・淡路)
蒲公英城  茶臼山城(上津城)
北区No12O近世居館と 西浦城  貫主山城 光寺山砦 宅原城
三田市(神戸市)の古墳:北神第3地点古墳
上津城(茶臼山城)の南丸(右手)と本丸(正面)

R176号を南下し神戸市北区・三田市境界の大規模スーパーとショッピングモール及びアウトレット・ストアがオープンして丹波市からも時々は出掛けてみる。3階休憩フロアから望む高台にある上津台公園も城跡らしい雰囲気を持っていたが、此の公園の西北・丘陵一帯・凄まじいばかりの宅地開発で、畑地は一切無く ・更地と新興住宅がどんどん建ち並んでいくニュータウン内に茶臼山城(上津城)が在る。

西浦城近く:近世の居館No120東面から下段曲輪への入口

神戸電鉄有馬三田線の神鉄道場駅東側・R176号線と近接する独立低丘陵上に蒲公英城が在り、道場駅前から鹿の子台北町を抜けて西へ向う車道が 三田市と神戸市境界を通り中国自動車道下を抜けていく。鹿の子台には宅原城が、直ぐ長尾交差点を西へ直進して大規模スーパーやアウトレットのあるショッピングモ-ルへ抜ける神戸市北区の近在には長尾城 (茶臼山城)・西浦城・貫主山城等の山城が在り、順次探索・訪城していきたいと思います。



蒲公英城 茶臼山城(上津城) No12O近世居館と西浦城 貫主山城
光寺山砦 宅原城


蒲公英城(松原城・道場城・佐々城・道場川原城・草下部城) xx182m  神戸市北区道場町日下部字西山

多くの別名を持つ松原城は神鉄道場(旧・道場川原)駅のすぐ東・目の前に在ります。武庫川上流の有野川と有馬川が長尾川に合流する地点、有野川左岸に接する独立した小山の上にあって 中程を丹波街道 (R176号線が走っている)が通る交通の要衝にありました。R176号線・道場交差点を西に入ると其処が城跡で、 以前は中程の大土塁上に白山(城山)稲荷神社が祀られていたがH4年に移転され、朽ちた鳥居と祠跡の石積みや公園化されていたようで噴水もあった石で囲った池跡や荒れ放題の曲輪が残るだけ。
蒲公英城・神鉄道場駅西から

神社跡地にある井戸は今も水を湛えています。 小城ですが、幾度かの争いの舞台にもなっています。宅地化が進み本丸等曲輪跡は廃墟になり密生した笹藪、西の丸も民有地になっている。畑地・宅地化が進む中で、見つかった五輪塔・供養塔などが山麓北側に集められています。築城年代ははっきりしないが、南北朝期の正平15年(1360)播磨守護・赤松弾正少弼氏範 (赤松則村円心の四男)が三田城主だった頃、有馬郡内一帯に三田城の支城や塞砦群を設けて一族に守らせています。この時・道場川原にも城を築き「佐々城」と名づけて嫡男赤松氏春を城主にしたという。
白山神社基壇下・水を湛える井戸跡

次男・家則を桑原大浪山城、三男 祐春を船坂城(西宮市)、四男・季則を福島岡山城(三田市)を其々構築させて支城 ・塞城として三田城の基盤を警固なものとしています。赤松氏範は父円心や兄弟が北朝方だったにもかかわらず、一人南朝方につき戦ってきたが永徳3年(弘和3 1383)8月山名・細川の軍勢に追われた氏範(享年57才)は子の氏春 ・祐春兄弟と共に清水寺を城郭化して立て篭もり山内で一族郎党 137名と自害しています。赤松満祐が起こした嘉吉の乱(1441)で赤松氏も一時期衰退したが赤松政則の代になって再興し、政則に従った一族の松原越前守貞基 (満祐の弟の子)は文明年間(1469-87)の頃、軍功により有馬郡道場河原(当時は草下部城)を貰い、 有馬庄などを領して松原氏の本拠として後120年もの間松原氏支配が続き 有馬郡の代表的な豪族になっています。この間にも蒲公英城は争いにさらされて城主の討死にが相次いでいます。
蒲公英城・高土塁から西の丸

永禄3年(1560)に城主になった松原山城守義富(右近大夫貞利)は、 天正元年(1573)に伊丹の荒木村重と戦い、 その年の5月には三木城主・別所長治に協力したが播磨攻めによる天正7年(1579)三木城攻めの際、羽柴秀吉の命で塩川伯耆守 ・山崎左馬介・中川瀬兵衛等に攻められ城主・義富(右近大夫貞利)以下討死したとも、その際此の地を去ったとも!!いずれにしても蒲公英城は落城します。 その後は秀吉軍の後方基地ともなった後、有馬氏の領有となった後は廃城となりました。
蒲公英城・西の丸から高土塁

城主・松原貞利の奥方は 淡河城(神戸市北区)淡河弾正の娘で鼓の上手な八千代御前の美しい鼓の音が毎夜、ポンポンと鳴っているのが近くの村に聞こえていたので「たんぽぽ城」と呼んだといわれます。 タンポポは「つづみ草」とも呼ばれるのが名前の由来のようです。また後ろの山から城内に引き入れた水が掘り抜き井戸に落ちる音が「たん・ポン」と鳴るので「たんぽんの城」と呼び、 何時とはなしに蒲公英城と呼ばれるようになったとも…
(ひょうごの城紀行 神戸新聞総合出版センター等参照)


茶臼山城(上津城・城の越) 茶臼山 xxxm  神戸市北区長尾町中所・上津台5丁目(上津字西高津甲)

上津台公園の西北・丘陵部一帯は凄まじいばかりの宅地開発で、 畑地は一切無く・更地と新興住宅がどんどん建ち並んでいくニュータウン内の車道を進み、上津台6丁目バス停の先で「茶臼山緑地・茶臼山城跡」の案内標識を見て、其の宅地奥にある「たかつこ公園」の広場に向かいます。此処から緩い階段道を斜上して茶臼山城跡の南丸への階段下へ、 南丸西下の水平道が本丸へと延び、此処に全国には200以上在ると云われる戦国時代の茶臼山城跡の一つがありました。
茶臼山城:本丸から南丸との鞍部

城跡の保存・保全は地元住民から神戸市や、土地を所有する都市基盤整備公団へ要望が出され、 上津台造成工事の一環として公園化することで「茶臼山緑地公園」として生まれ変わりました。広い本丸曲輪には顕彰碑の城跡由来の案内板が立ち、南丸(二ノ丸!!)曲輪は展望広場として整備されていた。 本丸(主郭)南端の少し盛り上がって見えるのは櫓台跡か?、此処から高い切岸を下って南丸(二ノ丸)へは、稜の鞍部を掘り分けて・北東下の集落から段差を持ち田圃・池の間を遊歩道とはなっているが、竹藪を抜けて此の鞍部に至る小道が有る。公園整備で大きく形容が変わって旧状は不明ですが、土塁囲みで防備された虎口部の様です?。 南丸側へ斜上する尾根も3段ばかりの段差をもち、虎口側の最下部は土塁を廻していた様に見えます?。
茶臼山城遠望

南丸から北側の本丸間の堀状までの遊歩道は、此処からほぼ円状に本丸を囲む帯曲輪の様で東側 ・西側何れからも階段、 位置が主郭(本丸)に付けられいますが、往時の曲輪の状況はどんなだったかは、これも不明ですが、北西下の現在の墓地も曲輪だった様子。北側の藪に急斜面にも数段の小さな平坦地と、 池跡とも思えない深い凹部を持ち(井戸跡か?)土橋とも土塁とも思える盛土が、其の外側を巻いていて武者隠し?とも思える。顕著な堀切や竪堀は無い様ですが、丘陵裾部の谷間の溝は深くなり空掘状 ・城域の出口付近には低い段差の2〜3の曲輪、其の下には二つの池が並び、西側池の外縁は先ほどの墓地への参道です。集落の北を東西に走る道は三田〜赤松峠から市ノ瀬〜三木市や依藤氏の東条谷へと通じる赤松道で、茶臼山(上津)城も当初は播磨赤松一族・有馬氏の居城で、落城については城主一連坊(井上源太夫!?)祐之のときとして、 三木城攻めの際・羽柴秀吉に攻められ落城した事では一致しますが二説ある。
茶臼山城:本丸北斜面の武者隠状土塁?

三木合戦よる三木城 :別所氏方に付く周辺の城を一つ一つ殲滅していく作戦の中で落城した天正5年までなら早過ぎ、天正6年頃なら摂津・播磨平定に羽柴秀吉が三田城を攻めた事でも判るのですが、天正元年に何があったかのかは ・・?時期の異なる二つの伝承を記しておきます。どちらが正説か・・・?と云う事ではなく、 有馬赤松氏の関連・摂津から丹波に隣接の三田地方に触手を伸ばしてきた有岡城主荒木村重等の軍事行動や、 其の時代時期を考えると三木合戦(天正5年:中国の毛利攻めで当初は織田信長方として、秀吉軍に参戦していた)以前の播磨攻めの頃とも思えます。
茶臼山城:本丸北斜面の削平段?

其の一: 上津(こうづ)城(茶臼山城)は天正6年(1578)11月:三木城に籠城した後藤将監基国 (後藤又兵衛の父)は、羽柴秀吉軍に包囲された三木城の勝ち目の無い戦に、落城も近いと基国自身:我が子又兵衛を小寺 (黒田)官兵衛に預けているを説き別所長治の奥方と相談して子供の為・子供が安らかに生きられる様にと基国が最も信頼を寄せる友人で、摂津国有馬郡上津畑ノ庄の土豪で茶臼山城主一連坊祐之のもとへ書状をしたためて別所長治の子:千代丸に乳母の羽束と御殿医 :平井左近を従者に付けて 預けることを勧めます。淡河城下から市ノ瀬に出て赤松峠を下れば上津の領地・一連坊祐之の城。
茶臼山城本丸北裾:最上段に低い段差の畑地と池がある!!

千代丸は祐之の元に預けられますが、三木城が落城した翌・天正7年3月には羽柴秀吉の命により塩川伯耆守・山崎左馬介 ・中川瀬兵衛等の軍勢が有馬郡に侵攻し蒲公英城(松原城・道場城)が落とされ茶臼山城にも迫ってきます。一連坊祐之は此の茶臼山城へ 秀吉軍が攻めて来るのも、ほんの数日後・一日と持ち応えられない。「此処で千代丸君を果てさせては申し訳ない・今のうちに城を出てくれ」と一連坊の所領である春井の家に匿ってもらうようにと、 平井左近に書状を持たせ抜け出させました。数日後茶臼山城は落城し祐之はじめ家来達は自刃して果てたと云います!!。
其の二:?天正元年(1573)一蓮坊祐之が 茶臼山に居城を構え250余名の家臣を有し近郷を支配していた。豊臣秀吉が三木 城攻めの時、 仙石権兵衛秀久にこの城攻めを命じます。一蓮坊は家臣の助命を条件に自刃して開城した。本丸北側から下ると直ぐ墓地に入るが、辻・坊ヶ内・一連坊等の墓碑銘に残される姓は、 現在地元の殆どの家系に残るという家臣達の末裔を示す姓なのでしょう。
茶臼山城本丸の顕彰碑

一蓮坊祐之の勇気ある行為を後世に伝え、その霊を慰め遺徳を顕彰し碑を建立します。時期は永禄年間末〜天正始め頃:織田の政権下にあって摂津に勢力を持っていた荒木村重 ( 有岡城)に仕えた中川瀬兵衛清秀(茨木城主)・塩川伯耆守国満(山下城 )・山崎左馬介(三田城)等の侵攻に戦わずして降服し、そのまま城と此の地に 居住することを許されたもののようです。
茶臼山城南丸展望台から上津台ニュータウン

茶臼山城主一蓮坊祐之は一時期でも僧籍にあった名の様ですが、此の地で大きな戦いに環俗して指揮・参戦していたものでしょう?。その後:天正6年(1578)に始まった三木合戦の際、別所長治の重臣 :後藤基国が一蓮坊祐之を頼り、千代丸を乳母と平井左近に託して三木城を脱出させて茶臼山城(上津城)に匿った。 此れを知った秀吉の弟:羽柴秀長が兵を茶臼山城に向わせた。此れには堪らず一蓮坊祐之は自らの命と引替えに家臣の助命を願って自刃した。
茶臼山城南丸から 鞍部に土塁と堀割?を経て本丸


天正7年(1579)8月のことと云い、この城を受け取った仙石権兵衛秀久(後:豊岡市の 出石城)が、赤松峠を越える播磨道の警護に当たったようです。 また秀吉が三木から幾度も通った湯山街道や有馬温泉を統括する湯山奉行にも任じられた記録があるという。天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いが終結すると【三木城が開城した天正8年(1580)との説もあるようですが 】秀久は茶臼山城を離れ淡路国:洲本城主を命じられ五万石の大名になっています。
(上津茶臼山城保存会による城跡由来の平成14年:案内板・郷土の城ものがたり 兵庫県学校厚生会を参照)


北区Np120近世居館(名称不明)と西浦城
北区No120近世居館 神戸市北区大沢町市原
西浦城   城山 xxxm  神戸市北区大沢町日西原

神戸北三田アウトレット・ストア・・・へ立寄った後・以前訪れた 茶臼山城への分岐を見送り県道17号線に入って市原バス停を過ぎると 大きくカーブしながら小峠を下るコーナーにコイン精米機の設置されている店舗?が有りバス停の名が「城山」。車道に崖状に迫り出す低丘陵上に目指す西浦城が在るが、 人目が無くても此処から取り付くのは無理。
大沢(おおぞう)町市原側からの 西浦城(山ではなく手前の藪地)

宅地等造成が進む市街地に近い郊外にあっては・・・荒れ放題ではあっても其れが比較的遺構残存状態を保持してきたものか消滅・壊滅・・・城跡の多い神戸北・三田市に近い地域にあって、茶臼山城は公園化で保存されているが、此処はどうなる事やら・・・ 車道に沿って丘陵側に歩道があるが、
西浦城:南斜面の段曲輪

下草藪が密生し、 急な傾斜面も細い竹の藪地・・・だが暗い竹藪の斜面上方をよく覗き見ると段曲輪状に1〜2mの直立した切岸に見える。山林・竹藪に見かける植林や作業用の造成や平坦地とも思えない・・。 同じ日西原に在る貫主山城を探すつもりだったが・此の位置は県遺跡分布地図にノーマーク。今回は此処から遺跡分布図に「北区No120遺跡」と記され、遺跡調査報告書等を拝見する機会もなく名称は知らないが、近世(慶長年間以降江戸幕府)・居館跡とされる遺構が、県道の西浦城南西端寄りから市原集落の農歳神社 (大歳神社と同じか?)付近に在る。県道から傾斜を増す直線坂道の左右は、棚田が圃場整備されてか広く土手も高い。
上段曲輪に入る土塁道!!

其の一枚の田圃の先・東方に見える雑木林の中に 比高20m程に、重ね連なる段曲輪を忍ばせる 西浦城の遺構が隠されている事など気付く人も少ない。「兵庫の城ものがたり・神戸」には載っていたが、 県遺跡分布地図に記載は無さそう。また農歳神社付近の居館跡も「北区No120遺跡」とあるだけで、圃場整備造成工事の中で発見され、遺跡・遺物から近世居館跡と推定されたものでしょう。
西浦城:主郭南斜面には二箇所に土塁囲み状の窪地有り・武者隠し?

何故こんな場所に?と思える位置にありますが、丹波側から赤松峠 (赤松PA近く!?)を越える播磨道・摂津方面からは道場・宅原・を経て市之瀬〜吉川 〜へと旧赤松氏重臣:依藤氏の東条谷〜小野市河合へと 嘉吉の乱には赤松満祐が将軍:足利義教の首を持ち帰ったルートか?。有馬温泉に通じる湯山(有馬)街道の一つ。此のルート西浦城下からは市之瀬を淡河城へ、吉川からは三木市へ、三木市からは神戸市や明石市へと山陽道へ通じる要衝。 播磨赤松氏や三木合戦時の羽柴秀吉にとっては、三木から幾度も通った街道だったのかも!!。
直立する切り岸

東条谷の岩屋城主:赤松氏保(うじやす)には赤松吉広・利忠と但馬・竹田城最後の城主となった赤松広英と三人の甥がいて広英は、 秀吉の但馬攻めで天正5年落城・其の後天正13年(1585)龍野城主だった広英が入り慶長年間初期には 総石垣造りの近世城郭として改修を終えているが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに負け徳川方として鳥取攻めに加わり落城させたが、城下の大火の責めを負って切腹し竹田城は廃城となっています。 城史(戦記)については茶臼山城と同期して 運命をともにしている様です!!?。
西浦城 :二箇所の池状窪地間の曲輪の切岸

赤松吉広・利忠にも領地を与えて郡主にしたいが、 播磨の地は赤松家一族:別所氏の支配地ばかりで攻め取って与える領地も無い。隣の北摂・有馬郡には強い領主もいなくて争いを繰り返しており、此の地の城を一つずつ落として郡主になれと、 二人に松原氏の兵を350人づつ預け、別所氏の家臣・松原定友(利忠の姉を妻としている )の意見に従って、松原氏の兵と共に大沢庄日西原の西浦城を攻めます。 西原城の城主高井重兵衛(有馬氏一族と思えますが有馬氏も赤松家一族の筈!!?)は、予(かね)てより 松原氏の侵攻を予想して土塁・空掘等の防備を強めていました。
直立する段曲輪の切岸

・・・がやがて城を取れば城主になれると吉広は勇敢に戦い重兵衛を討って西浦城主になりますが、僅かしか居ず直ぐに3kmほど北の東光寺に陣を構えました。 松原氏が道場城に入ったのも永禄元年(1558)頃と思われ、永禄3年:道場城は北摂に食指を示す荒木村重に攻められています。 また利忠が何処の城を取って城主になったかは不詳ですが、松原定友【山城守義富<右近太夫貞利>と同一人事か?】が道場城 (蒲公英城)を修復して入ります。
近世(江戸期)の居館No120・・東面下方から

天正3年(1576)赤松吉広は荒木村重の家臣・山崎氏に討たれ、天正7年(1579)蒲公英城主 :松原山城守義富も羽柴秀吉軍の塩川伯耆守・山崎左馬介等に攻め落とされ滅びます。 県道側からも斜面に続く段曲輪が、生い茂る暗い竹藪内・高さこそ1.5〜2m程、高くても3〜5m程だが切岸は殆ど直立に落とされ、 其れが崩れずに残されており、曲輪の削平も大小に関わらず丁寧に成らされて、造林地形と思ってしまう程。 放置された重機!!・これまた殆ど何も置かれていない資材置場から北を捲く様に広い平坦地が東方へ延びており、
近世(江戸期)の居館No120・西面から民家背後の森林部

逆に東から此処まで造成されて来ているが、工事進行は膠着状態なのか?打ち捨てられたような土砂 ・石材はそのまま・・・相当造成地形改変された形跡が窺えます。南斜面から主郭に向う途中には、浅いが空掘にしては広い池状の湿けた窪地が二箇所ある?。此れも南下方を通る街道に討って出る 武者隠しを意識した曲輪なのか?(郷土の城ものがたり 兵庫県学校厚生会・Wikipedia参照)
北区No120近世居館
県道から西浦城の西方から大沢町市原へ向うと農歳神社がある。神社前付近の田圃の周辺は堀状側溝に沿って屈曲する畦 ・高い切岸を見せて西の谷側に迫り出し、其の端一角に在る個人墓所も曲輪・・・!!?・・・と気になる地形はあるが圃場整備された跡地でしょうか?。
民家前(南方)も 堀状溝を隔てた数段の田圃も居館跡?の様

県遺跡分布地図を再チエックしてみると 市原集会所東向かいに建つ、高い石垣塀で囲まれた民家背後の丘陵部の林と田圃一帯が「北区NO120遺跡」の位置と合致する。近世(藩政時代)の居館跡とされますが、発掘調査報告資料等が有るのかは知らない ?…が有っても閲覧出来る機会は無さそうです。


貫主山城(神主山城)   城山 xxxm  神戸市北区大沢町日西原

兵庫l県遺跡分布地図をチエックしていて、摘要・備考欄は空白ながら遺構からも室町時代末期頃と思える貫主山城を見つけた。しかし「郷土の城ものがたり (兵庫県学校厚生会)」の巻末には此の位置より北西に境する大沢町簾に神主山城が載せてあって南北朝期!の築城とある。
貫主山城取付点の天満神社(中央)

有馬甚五郎が居城・遺構無し(出自不明!!?)ともいう。貫主山城の位置は西浦城とは県道17号(西脇三田線)を挟んで西南約600m程、 県道82号(大沢西宮線)と合流する西日原交差点の南東約400m程の地点。しかし名称:神主山城が在ったと云う簾集落付近…を先の遺跡分布図で探してみても、
竹藪内の曲輪切岸は西浦城同様に高さは無くとも切立

大沢町簾集落を抜け市野瀬交差点(三木市淡河からの R428号〜県道355号の合流地点手前に市野瀬城が在る)を過ぎ、毘沙門城付近まで地図に遺跡記号の無い空白地帯です。 神主山城と貫主山城は同一の城と考えられます。貫主山城が遺構無し・・!!・神主山城は南北朝期の築城らしい…のが引っ掛かりますが南北朝期か、其れ以前の荘園管理の下司職にあったものの居館跡で、 城名からは神社領の荘園主か、神官が荘園領主として年貢の取立て・
貫主山城:主郭東尾根の南空掘?

治安取り締まりの役人として武士化し勢力をもってきたものか?、鎌倉時代から南北朝期に入る頃には地頭になっていたのかも・・・とも思えます?。貫主山城への取付き点として選んだ日西原の県道82号線に 大沢公民館への標識と泰宝山福厳寺(曹洞宗)の山門石標が立つ。その先に天満神社の石標と石鳥居が見える。
貫主山城:主郭東尾根の北空掘?

神社由緒案内に「昔・此の村に住んでいた祇園左近太夫が、無数の梅ノ木が生え・一斉に開花するという霊夢を見て、其の場所を社地として 京都北野天満宮の御分霊を祀ったと言う。境内に重厚な大岩を背にして、 本殿他諸々の小祠が末社として合祀されていますが、伝承の祇園xxx氏の名からは、
貫主山城:東尾根南へ抜けると溜池・田圃は段曲輪か!!?

此処が祇園社(京都八坂神社)の社領で?、荘園管理の下司職にあったものが祇園姓を名乗って平安期〜南北朝期頃に居たものか?。丹波・丹後・近江等の養蚕や生産地が祇園社領であったり、祇園社領四箇保として近在には 丹波波々伯部保(篠山市)もあり、中世にはなんらかの関連があったものか?。
貫主山城:主郭西尾根側の段曲輪(4〜5段続く)

其の後の城史の変遷の中で中世期に赤松有馬氏の有馬甚五郎なる人物が現れてきたものか?。神社本殿横から丘陵上への道は直ぐ竹藪に入るが、 遺構は無いどころか、西浦城に良く似た縄張り状況で、猛烈な竹藪と倒れ枯れた竹材の通過に手間取るが、 竹林のスリットを透かして随所に曲輪の切岸を見る。西面・北面共に尾根筋沿いの切岸というより高い断崖状。 余り広く無く・細長い主郭の先に堀切と東南に大きな池状の窪地・平坦地形の尾根筋を 東に進むと直ぐ北にも同様の池状窪地があり、
貫主山城:東尾根側から 浅い堀切と主郭(左下手に空掘?)

北側に深い谷があるが池状窪地から谷へ水が抜ける箇所は無さそう。天水受け井戸と堀を兼ねたものか?。緩斜面から東南へ下がっていく道は、上部に灌漑用水池が有るが其処から数段は屋敷跡の曲輪だったか?とも思える様子です。 尾根筋直進は30m程で、少し高見の出曲輪らしい台地に着く。
貫主山城:主郭西尾根側の土塁・土塁道?

大正頃の倒れた石碑や壊れた廃神社が建つ。真直ぐ下る参道の下に民家がある。京街道を三田に抜けて赤松峠を吉川町・東条〜小野市へと、嘉吉の乱に赤松満祐も 将軍足利義教の首を携えて通った道が要衝なら、直ぐ近くを並走する此の県道は吉川町の毘沙門城や宮脇城付近で合流する間道だったか?。摂津(西宮・神戸)方面を繋ぐ要衝ではあったでしょう。

光山寺と光山寺砦
光山寺砦 点名:日西原 287m  神戸市北区大沢町日西原

上大沢(おおぞう)地区に見かける 「近畿自然歩道・太陽と緑の道」は、 いつの間にか山陽自然歩道・太陽と緑の道が近畿自然歩道に吸収されている様。しかし殆ど地元で歩道の整備管理された光山寺観音道と展望休憩施設は「大沢ふれあいの森」です。光山寺(こさじ)山293m〜光山寺観音堂〜3等三角点(点名:日西原 (ひさいはら)287mから鞍部へといっても10mほど降った平地から5m程の高みに修行行脚姿の大師像が立つ展望台に着く。三角の有馬富士と円い頭の羽束山が二つ並んで姿を見せる。
光山寺山の観音堂

此処を降って天狗岩の展望所 ・途中に何箇所も案内標識が立ち、いくつもハイキングコースは分れるが、東へ下ってフルーツフラワーセンタへの道を辿り嫁取り松を経て、いちご狩り看板の目立つ県道73号線に出る。光山寺山周辺の低丘陵一帯は棚田と溜池群・関西では有数のゴルフ場集中地帯?。 南に六甲の山並み・西に境する播磨の山々・北に摂津の山をと…
日西原〜中大沢へ抜ける北の林道から望む光山寺山

低山ながら眺望が拡がり近距離の手軽なハイキングコースが整備され、天狗岩・坊主岩!!?等の名所も備えた景勝地です。
光山寺:般若山光山寺(行基菩薩作とされる十一面観音菩薩を本尊として奉祀)の開創・開基の年代等詳細は不明ですが、真言宗石峰寺の末寺として創建され、七堂伽藍のあった巨刹として伝えられていました。 しかし戦国時代・羽柴秀吉軍の「中国の毛利攻め」軍議の意見相違から、三木城別所長治は毛利方に付き、先に播磨別所氏攻めが始まった三木城攻略の天正7年(1579)別所長治とは婚姻関係にあり、
観音堂下鞍部の遊歩道から三角点峰裾の土塁と空堀

同盟を結んでいた智勇に優れた武将淡河城主 淡河弾正忠定範 (騎馬軍団を混乱させた有名な戦略は此の項を見てください)討伐に兵火に遭って尽く焼失したという。淡河定範は此の作戦で淡河城を出て 三木城に篭城”平田・大村坂・加佐の合戦”に大活躍しますが、軍を立て直した秀吉軍の逆襲に撤退の途中 ・八幡の森で自刃したと伝わります。光山寺や宗徒等が三木城篭城の別所氏方を救援していたか、光山寺砦が別所氏方の城塞群の一つとして機能していたのかは不詳・
三角点峰裾の土塁と空堀(西北から南の遊歩道側を望む)

不明ですが、三田有馬郡領主:(赤松)有馬法印則頼は秀吉方に付き、 三木への進軍中に光山寺を攻撃したものか?。篭城戦で廃された淡河城へは有馬氏が入っています。 光山寺の堂宇が灰塵と化した中にあって、幸運にも十一面観音菩薩像が発見され、仮堂宇に安置した後・福厳寺の住職がこの地に移し慶長9年(1604)再建したと云われる。
光山寺山の点名:日西原(光寺山砦の主郭?)

さらに文化8年(1811)には村民の浄財により堂宇は改修されたが、 その後・堂宇の火災や、明治維新の廃仏毀釈の際、泉養寺の堂宇が取り壊され、 本尊地蔵菩薩尊像が合祀されることになり、明治27年(1894)には、管理上の理由ということで光山寺堂宇が福厳寺境内に移築された。両尊像が小さな堂宇に幽閉合祀されている為、 村民や信徒の寄進によって昭和5年(1930)元の
修行大師像の立つ光山寺砦副郭?

光山寺山に移築され 共に祀られたが、失火で堂宇を消失する(両尊像は難を免れた)等、 幾多の難関を経て後・ようやく平成になって町ぐるみで再興する機運が高まり,平成3年1月堂宇が再建され落慶法要を迎え、永年の念願であった観音堂および籠り堂も落成した。 (大沢町自治連合会案内板等を参照)
光山寺砦副郭の土塁虎口?

光山寺砦:光山寺砦の城主・城史については不明だが南北朝期:南朝方に付いた部将が、 北朝方と戦って落城して廃城となった様です。観応の攪乱(1351)・光明寺合戦に起因した戦いだったかも?。 県遺跡分布図にコメントは空白ながら、点名:日西原287mと大師修行像の立つ 一帯に光山寺砦として城域マークが付いている。
修行大師像の立つ光山寺砦副郭?

南北朝期の城址ならば・・・と遺構は諦めたが三角点峰の南下を捲く遊歩道(此の道自体が腰曲輪か帯状曲輪だったか?、 西から北へ裾を捲く空堀が此処もグルリと取り巻いていたか?)からは、目の前の大師像の立つ北側の 高くなった平坦地形が副郭の切岸にも見える。大師像の台地からは段差が1m程低くなって北へ延びる平坦地・緩斜面を下り始める北端部へは、東北端を低土塁が延び、西面の土塁状の盛上りとの間の通路が 土塁虎口状にも思える。三角点ピークが主郭だろうか?。
観音堂から光山寺砦?へ下る

7X12m程の平坦地形以外は何も無さそうだが、西〜北側斜面10m程下部を半周する土塁空堀状は、 塹壕・兵の移動通路としても充分な様に思え、山仕事の作業用とも崩壊防止や配水用施設とも思えない。城遺構なら、室町時代前期の南北朝から中世まで使用され、光山寺も城郭化されたため兵火に罹ったものか?。 北西約1.2km程には貫主山城が在り・其の出城として呼応する砦だったか?。調査された結果の県遺跡分布図なので、 郷土誌史等には報告されているのかも知れないが資料・内容等を知らない。



北神戸の伝説 T:天狗岩
近畿自然歩道(環境省・兵庫県)の案内板が天狗岩展望広場の岩頭に立つ。展望は良さそうだが(?生憎の 雪曇りで何も見えない)案内板が立てられている足下の岩場では無く、反対側のロープ伝いに急斜面を降る 遊歩道側の大岩が天狗岩。そういえば突出す岩が天狗の鼻か!!.。光山寺山【「こうさんじさん」とわざわざルビが付されているが光山寺(こさじ)山】の南面に露出した岩場の中に 一際高く突出した高さ15m程の岩は、
嫁取りの松

突き出た岩の形が天狗の鼻に似ているからか、或いは此処は天狗しか登れないだろう!!ということから「天狗岩」と呼ばれるようになったと云われ ています。この岩の陰に天狗が隠れていたという民話も残っている様です。 六甲連山の山並みや麓に広がる町並を一望することができます。三田の伝説に千丈寺山の天狗 の話がありますが、
光山寺・観音堂から天狗岩へ下る西国ミニ霊場の道

此の天狗は六甲山の奥深いところに大きな岩を根城として住んでいました。天狗は唐櫃(からと)の四鬼( 逢ヶ山・高尾山・水無山・鬼ヶ島辺りのことか?)で息を整え有馬の愛宕山・天狗岩で腰を掛けて・お供えを食べた。次の休み場所は西宮市山口町の丸山 (金仙寺湖・丸山ダムの側)へ、其処からピョンと跳んで三田・加茂の金毘羅山(有馬富士〜城ヶ岡〜金毘羅山)の大木 (天狗の休み松)に掻きついて汗を拭き、次に乙原の千丈寺山へと・・・此れが天狗の道筋となっていたという。丸山(金仙寺湖)から有馬富士へ飛ぶ事を思えば、唐戸からは有馬富士・羽束山を望む天狗岩に来て、加茂の金毘羅山へ飛べば 汗を掻く量も少なかったと思うが・・・。

嫁取りの松
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U:嫁取りの松跡

天狗岩から東へ下り、 フラワーセンタ・県道73号線へと田園地帯の中の地区道を進んでいると「嫁取りの松」の案内板と、切り株が3m程の高さで残された松の巨木の切り株がある。樹齢500年を超えた老松の切り株にも 伝説が残されています。此の地は小屋越山の東南嶺の分水地で老松の西枝の雫と・東枝の雫は、 其々に遠く離れた海へ注ぐことから、此の樹の下で別れを告げる時は再会の縁は遠退くと云われ非道の姑が此の地へ嫁を送って離縁を強いたとか、
天狗岩東下の登山口?から望む棚田と小屋越山

昔・花嫁が馬に揺られて近隣の里へ嫁に行く途中、 此処までやって来たところ突然、稲妻と共に空が曇り・雨が降り出した。慌てて付き人が松の下に駆け込み馬上を見ると花嫁は消えていた。村人達は松が焼きもちをやいたと考え「嫁取り松」と呼び、 その横にもう一本の松を植えて夫婦松とした。以来・花嫁はこの道を通らない・・・と。また山賊が出て・花嫁道具を奪ってしまうので、嫁入りのときには此処を通ってはいけないという目印として 名付けられたとも云われます。 (T・U共に近畿自然歩道の案内板参照)


宅原城
   城山 199m   神戸市北区長尾町宅原字曲り(鹿の子台北町七丁目)

神鉄公園都市線沿いの県道720号を三田市街地の嶋ヶ谷交差点に降りてきて神戸市・三木市方面に右折すると、北摂三田高校・三田学園を望み池端を進み、県道17号を越え・長尾川を渡って長尾交番前交差点に出る。 此処を右折するのが何時ものパターンで、 三田市と神戸市境界の神戸市北区に大規模スーパー、アウトレット・ストアの店舗数も倍加した神戸三田○○に立寄る機会も多くなった。
変電所から鹿の子台北町交差点付近:宅原城(中央造成地奥)

・・・が今回は長尾交番前交差点を左折。250〜300m程で鹿の子台北町のT字交差点に着く。南側に変電所の広く大きな貯水池・鹿の子台郵便局が有り、 その南方すぐ先・車道を挟んで東側の鹿の子台小学校には移設復元して保存されている 北神第3地点古墳が有る。
貫主山城:東尾根側か

鹿の子台北町交差点を東へ直進すると約1.5kmには 蒲公英城(道場城)が在る。長尾町宅原地区の鹿の子台北町交差点の歩道を挟んで北背後 :城域側の尾根筋まで削平され整地が進んでいる様ですが!?、比高20m程の丘陵上に立地する宅原(えいばら)城は、丘陵部の東面・南面一帯が北神ニュータウンとして宅地開発が進むが、 北面から西面を田園に囲まれてポツンと残された独立低丘陵ですが、
低土塁が四方を囲む宅原城(南東の谷側土塁)

その頂部付近は緩斜面をそのまま残す 自然地形を利用したものか、平坦面の四方を低土塁で囲い込む単郭構造(約南北60X東西50m程)の山城遺構がソックリそのまま遺されており、縄張図からは同様の構造をもつ単郭の城で、北摂ニュータウン:小学校建設工事により消滅してしまった ?釜屋城(貴志城:三田市貴志・すずかけ台2丁目)の状況を見るとき、
宅原城:北端の内折れする土塁虎口部

雑木藪・下草に覆われてはいるが、奇跡かと思える遺構の完存状態には感激です。 訪城を当初から諦め、山城リスト (阪神版)にも記載していなかったが、山城研究者のM氏よりメールにて宅原城を再訪された近況報告を聞いて、 遅ればせながら出掛けてきた次第です。鹿の子台北町のT字交差点から長尾交番前交差点側へ少し戻った側道(歩道)から比高10mも無い丘陵部東裾を北へ向う細い地区農道?が有る。
宅原城:低土塁も盛土と外側傾斜面の高低差で切岸を形成する!!

コーナー入口部に ブロック塀があり”下ノ池墓地”の石標柱が立つ。宅原城が位置する東側丘陵部は先述の造成工事中。細い車道の西面が北方・長尾川に向って棚田状に田圃が並ぶ。東側はガードレール沿いに深いコンクリート囲いの垂直の溝谷(2〜2.5m程・幅1.5〜2m)が裾を流れる。此の上部が城跡と判っていても、 山側への架橋は無く猛烈な藪と急な崖状に取付には躊躇する。
宅原城主郭内部”伊賀守信貞”宅原領主?の顕彰碑

下山時には藪を掻き分け溝谷を飛び越えたが城域北に1〜2軒の民家があり現状:此処からが登城口。民家の東・小谷を挟んで上部に住宅地が 拡がる。此処からも細長い丘陵尾根が南に延びる。尾根上の踏跡は土塁道状で、尾根道沿いには城域との谷側に 1〜2段の平坦な段差が有り、尾根筋側を削り落として長く延びる。谷は小さく城域が近いだけに、城遺構と関連付けてみるのは素人考えか?。
宅原城:南東端土塁のコーナー部

低丘陵部だけに宅地開発以前の芝山・畑地等の作業道なのでしょう!!。 急斜面ともはいえない東側の小谷をトラバース気味に対岸の丘陵尾根をに向うと、頂部の主郭を取り囲む低土塁を越えると、雑木・雑草に埋もれる中に”伊賀守信貞之城址”石碑と建つ主郭南部分に着く。 碑文からは「源経基30世裔で有馬摂州宅原領主の伊賀守信貞・・」とあり、其の後:越後守昌親が天正年中 茶臼山城(上津城)や石山本願寺に織田方として関わったものなら三田に移り・・・?は(織田や豊臣政権崩壊後?の事か)帰農したものか?。 伊賀守信貞の16世孫義村氏の建立碑が建つ。
宅原城南東の土塁:谷側に開口部が有るが虎口では無さそう?

姓氏が記されていないので宅原氏?か判らないが市史等に城史不詳!!?。 在地領主の居館で有ったのかも知れませんが、領主なら赤松家一族で蒲公英城:松原山城守義富の家臣と推察しますが 荒木平太夫の居城(出自不詳)からは、丹波進出を窺う伊丹有岡城 荒木村重が足懸りの摂津三田方面に侵攻し、天正元年(1573)蒲公英城を攻めた際、 此処に陣城を築いたものか?。縄張りからも陣城に共通する特徴が有り、守将として荒木一族が拠ったものか?。 茶臼山城(上津城)も此の時に攻めたものか?。 宅原城主が赤松一族なら蒲公英城(道場城)か茶臼山城 (上津城)に拠ったが落城:其の後三木城に籠城、天正7年の開城後は城を出て三田に帰農した!!?・・とも考えられます?。道場城・上津城と共に三木城の東方入口にもあたり、織田・秀吉方の 後方支援基地ともなっていたのでしょうか?。
宅原城:虎口部の土塁と切岸

丘陵背後尾根上には明確な堀切を見ない(南端西面に一本竪堀状を見るが、工事現場付近・溝谷側から通じる古い山道なのかも?)。城外側の土塁際は 土塁盛土による遮断効果の他、傾斜面との高低差を利用した切岸を形成して、城外と土塁頂部とは最大1.5m程(主に北側虎口土塁部付近)の段差を持つ。低土塁ながら土塁の開口部は南東側 ・西南側・北側に有る様ですが、虎口部は北側に有り幅約1mで、両脇の土塁は周囲より大規模に盛られ・土塁を城内側に曲げて導入部とする特徴的な構造を有している。
(三田市史V を参照)


農歳神社     神戸市北区大沢町市原

神社の創建年代は不明ですが 北区長尾町上津谷から移り住んだ開拓農家が、産土神として当地の大歳神 社の御分霊を祀っていたが、肥前国(佐賀)の浪士仲井市之丞守国(紀守国)が故あって当地に居住し、 当社を崇敬し自らが大願主となり室町時代後期:永正8年 (1511)私財を投じて現在の本殿を造営。その際:伊勢の豊受大神を勧進し豊歳神社と改称したと云われます。
豊歳神社

本殿は春日造りで覆屋内にあったため、屋根・柱・組物その他細部に至るまで完存し、 板壁の外側や柱・扉など全面が極彩色に飾られており、彫物では正面上部の雲龍や欄間の透かし彫り等が精巧で、向拝柱上部の組物や彫りの技法は他に見られない珍しいものと云う。 棟札に寄進者:紀守国・大工は奈良の宝田宗行・小工は藤原定行とあり、覆屋の納まる本殿は国指定(昭和54年5月21日)重要文化財となっています。
(現地:神戸市教育委員会 案内板参照)


三田市(神戸市)の古墳 北神第3地点古墳   神戸市北区鹿の子台北町6丁目34番

兵庫県遺跡分布地図(Web版)で宅原(えいばら)城を確認して出掛けてきたが、 所在近くに駐車場所を探し得ず、城跡を目前(約150m)にして 鹿の子台北のT字交差点から南側の浄水施設・郵便局前を過ぎて約800m程先のショッピングゾーン(家電量販店・スーパー等店舗がある)まで進んで、此処から城跡に向かったが、 途中:神戸市立鹿の子台小学校敷地の西北端フエンス側が少し高くなった土壇が有って此処から校舎や グラウンドを見渡せる。
土壇は元:北神戸中学校の南側に在った古墳時代後期(5〜6世紀)の円墳(径約15m)で、昭和55年(1980)調査されましたが、盗掘をうけておりナイフの様な刃物1点だけが採集されています。 古墳中央には竪穴式石室の石積が遺され、石室ごと切り取って此処に移設復元して保存されています。
(現地:北神第13地点古墳 H5.3市教育委員会案内板参照)
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