神戸:北区の山城  蒲公英城・茶臼山城・西浦城・貫主山城・宅原城・光寺山砦
校歌の山 :大沢小学校♪光山寺(こざし)の山は 高うしてxxx…♪
       大沢幼稚園 ♪xx…光山寺の小鳥も歌いますxx…♪


近畿の山城 (阪神・淡路)
蒲公英城 茶臼山城(上津城)
北区No12O近世居館と西浦城 貫主山城 光寺山砦 宅原城
   三田市(神戸市)の古墳:北神第3地点古墳
蒲公英城内:白山神社基壇下・水を湛える井戸跡

蒲公英城 (松原城・道場川原城)182m 神戸市北区道場町日下部字西山

城名は多くの別名を持つが落城時の最後の城主から松原城・其の夫人が鼓の名手で其の鳴る音から蒲公英城の名が体勢を占める。 たんぽぽは「つつみ草」とも呼ばれることからも作為伝承か?。松原城は神鉄道場(旧・道場川原)駅にあり築城初期の佐々城道場川原城・また此の地の旧名:日下部から草下部城とも呼ばれる城山は、
蒲公英城・神鉄道場駅西から

神鉄道場駅を出た目前の独立低丘陵<城域東西約150mx南北約100m>に東郭・主郭・西郭に帯曲輪を廻し高い切岸と土塁・井戸もあり、東と西に木戸門(東が大手・西が搦手口?)跡!!…等の曲輪段を見せる古城がある。武庫川上流の有野川と有馬川が長尾川に合流し武庫川に流れ出る道場川原は有野川を天然の外濠とした要害の地だが摂津・丹波・播磨国への交通が交錯する要衝地で、
蒲公英城・西の丸から高土塁

宅原から西へは長尾川沿いに吉川・三木方面への播磨道・有野川は吉尾から八多へ、有馬川も山口町から有馬温泉に至る湯山(有馬)街道で三木城攻略時に秀吉が有馬温泉に通った街道でもある。摂津ー丹波を結ぶR176号沿いの丹波街道(京街道・但馬街道)にも繋がる大坂街道の要衝で、中世は城下町として近世(江戸時代)の日下部村・道場川原村は宿場町として栄えていた。20年程空白後の再訪レポートの加筆に読み辛い部分はご容赦(-.-;)。以前の城趾は私有山地で立入れず
宿場町風情を残す日下部村

城内に立っても身の丈程の笹藪に埋もれ進む方向も定まらなかったが切岸も高い土塁上を歩いていることは実感できた。三田市街地から市境の神戸市北区道場に入るR176号線「宅原」の次:道場交差点を西に入ると其処が城跡で、以前は中程の大土塁上に白山(城山)稲荷神社が祀られていたがH4年に移転され朽ちた鳥居と祠跡の石積みや公園化されていた跡か?噴水もあった。
有野川から松原城

石で囲った池跡や荒れ放題の曲輪が残るだけ。神社跡地にある井戸は今も水を湛えていた …が今回(2019年2月)は重機の入った造成・開発の工事中?城域なので主郭部の遺構確認は諦めた。小城だが幾度かの争いの舞台にもなっています。宅地化が進み民有化になっている?西郭や東郭、南斜面麓等の曲輪跡に建っていた 宅地は廃墟となり城跡は密生する笹藪と宅地化?が進むなか五輪塔・供養塔などが山麓北側に集められていた。築城年代は不明だが 後醍醐天皇による建武の新政(1333)による朝廷政治の復権は
松原城北裾:家臣屋敷跡の旧家

新政における武士に対する恩賞への不満を招き・足利尊氏が離反・赤松一族も尊氏方に付くが赤松則村(円心)の三人の兄とは不仲だった四男赤松弾正少弼氏範は一人天皇(南朝方)に付き正平15年(1360)播磨守護として摂津国・有馬郡・加古郡・印南郡・明石郡…に勢力を張っていた。氏範は加古川の天神山城から三田城に移ると三田城を囲むように道場川原に「佐々城」と名づけた城(蒲公英城)を築いて長男氏春を入れ次男・家則に
神鉄道場駅側の帯曲輪に残る五輪供養塔群

桑原大浪山城、三男・祐春に船坂城、四男・季則には福島岡山城を構築し支城として一族を配置して三田城の基盤を警固なものとしていた。永徳3年(弘和3 1383)氏範は京都を攻めるが山名・細川の軍勢に追われ播磨清水寺城城郭化して子の氏春・祐春兄弟と共に立て篭もるが終に一族郎党137名と共々に自害した氏範(享年57才)。嘉吉の乱(1441)に衰退していた赤松家も応仁の乱に 赤松政則が播磨を再興すると政則に従った
神鉄道場駅と松原城(2019年)

松原越前守貞基 (満祐の弟・祐之の子)は姫路・明石の戦いに軍功を挙げ文明年間(1469‐87頃)赤松氏春(初代松原城主)旧領地の有馬郡道場河原(蒲公英城当時は草下部城)を賜り松原氏本拠として後120年もの間:義貞・家久・家長・義富と松原氏支配が続き 有馬郡の代表的な豪族になっているが、この間にも蒲公英城は争いにさらされて城主の討死にが相次ぎ、永禄3年(1560)最後の城主となった 松原山城守義富(右近大夫貞利)は松原城東郭(宅地跡?)から主郭切岸と西郭

天正元年(1573)有岡城の荒木村重と戦い其の年の5月には三木城主・別所長治に協力し天正6年(1578)信長の部将:羽柴秀吉の播磨攻め 「三木城攻め」の際・別所長治が秀吉に叛すると淡河城の淡河氏と婚姻関係にあった義富は別所氏に付くが三木城開城後:秀吉の命で塩川伯耆守国満 ・山崎左馬介・池田輝政・中側瀬兵衛(清秀?)等に攻められ義富右近大夫貞利)以下討死したとも、その際此の地を去ったとも!。蒲公英城は天正7年(1579)落城した?との案内板が建てられているが、
松原城東郭から閉塞土塁で防ぐ「箱堀」と西郭

天正6年淡河氏等と秀吉に叛して三田城に入った荒木村重を攻めるため、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が道場川原(松原城)等に築いた付城の一つ。城主の松原義富はそれまでに城を退去し三木篭城に参戦して討死したか?、「巻き取り飴」の伝承からは羽柴秀吉の軍勢に包囲されて落城したものか?。南北朝時代・赤松則村(円心)の四男赤松弾正少弼氏範が加古川の天神山城から 三田城に移り、その支城の一つとして道場川原に「佐々城」(蒲公英城)を築いたが、天正の三木合戦には
松原城西郭

秀吉の三田城攻め付城に転用され、その後:有馬氏領有地に城史も途絶え廃城となった戦国史と、たんぽぽ城の伝承も残り郷土に誇れる貴重な 歴史遺産だが在地意識は都市化の波に呑み込まれ希薄?、駅前開発により城趾は消滅する運命。今年(2019)2月・久方ぶりに寄ってみたが重機が入り発掘調査中? …その存在さえ藪に覆われ忘れ去られた悲運の城。今となっては当時の藪山さえ懐かしいが…
松原城の「箱堀」

表面観察も出来なかった貴重な歴史遺構が確認出来る。陣城以前の旧松原氏らの旧遺構も観察できそうだが、最期の姿を見納め…とは空しい。東西二郭間には深い堀切があったこと、まして堀切北端は外敵侵入を土留めの石積みを伴う閉塞土塁で防ぐ「箱堀」であったこと、閉鎖土塁の北西下部には生活痕跡の集石土抗が見付かっていることから武者溜まりと考えられる曲輪、東郭大土塁北切岸下部には堀切(箱堀)北から繋がる横堀が検出された。
松原城東郭・大土塁の盛土改修跡

大土塁は側面トレンチから基礎に石材を充填している下層部と、陣城として織田軍が三田城攻め陣城として緊急改修した上層部部分が観察される。手短に城下至近の有馬川・有野川から川原石が採取でき、曲輪内には礎石建物と周囲には雨落ち溝石列や、庭池かとも思える様な石敷遺構・城跡自体が岩盤上にあり、礎石・石敷遺構の多様も松原城の特徴かと…織田軍の 三田城攻め付城群として宅原城・立石城・茶臼山城…等が考えられるが、曲輪四方を大土塁で囲う特徴からは三木合戦の淡河城向城ともなった萩原城ともに、
松原城西郭の大土塁・石敷遺構

松原城廃城後秀吉方の有馬氏等?が改修し、三木合戦時の東方監視に使用されたとも推察するが?… 道場小唄28番の歌詞(神戸市北区)「巻き取り飴」の伝承からも城攻めの様子が覗える。その後は秀吉方・有馬氏の領有となった後廃城。城名は落城最後の城主松原氏の松原城or蒲公英城が体勢を占める様だ。たんぽぽは「つつみ草」とも呼ばれ 貞利の奥方は淡河城淡河弾正の娘は鼓の名手で…鼓の音が毎夜、ポンポンと鳴っているのが近くの村に
松原城東郭:高土塁と礎石建物

聞こえていたので「たんぽぽ城」と呼んだと云われる。 城内に引き入れた水が掘り抜き井戸に落ちる音が水琴窟の様に「♪たん♪ポン」と鳴るので「たんぽんの城」と呼び・何時とはなしに蒲公英城と呼ばれるようになったとか、川の瀬音が鼓音に似ていると…名前の由来も種々ある。 少将山城(篠山市)にも目前の篠山川に琵琶が淵・琴弾滝があり、水底から琵琶の音が聞こえてくる…と。
(ひょうごの城紀行 神戸新聞総合出版センター等参照)

茶臼山城(上津城・城の越) 茶臼山 xxxm  北区長尾町中所・上津台5丁目)

神戸市北区と三田市境の上津台公園西北の丘陵部一帯は凄まじいばかりの宅地開発で畑地は一切なく ・更地と新興住宅がどんどん建ち並んでいくニュータウン内の車道を進み上津台6丁目バス停の先で「茶臼山緑地・茶臼山城跡」の 案内標識を見て其の宅地奥にある「たかつこ公園」の広場に向かいます。

茶臼山城:本丸から南丸との鞍部

此処から緩い階段道を斜上して茶臼山城跡の南丸への階段下へ、南丸西下の水平道が本丸へ延び此処に全国には200以上在ると云われる戦国時代の茶臼山城跡の一つがありました。 城跡の保存・保全は地元住民から神戸市や、土地を所有する都市基盤整備公団へ要望が出され上津台造成工事の一環として公園化することで「茶臼山緑地公園」として生まれ変わりました。広い本丸曲輪には顕彰碑の城跡由来の案内板が立ち、南丸(二ノ丸!!)曲輪は展望広場として整備されていた。本丸(主郭)南端の少し盛り上がって見えるのは櫓台跡?、 此処から高い切岸を下って南丸(二ノ丸)へは稜の鞍部を掘り分けて
茶臼山城遠望

北東下の集落から段差を持ち田圃・池の間を遊歩道とはなっているが竹藪を抜けて此の鞍部に至る小道がある。公園整備で大きく形容が変わって旧状は不明だが土塁囲みで防備された虎口?。 南丸側へ斜上する尾根も3段ばかりの段差をもち、虎口側の最下部は土塁を廻していた様に見えます?。 南丸から北側の本丸間の堀状までの遊歩道は・ほぼ円状に本丸を囲む帯曲輪の様で東側・西側何れからも階段、位置が主郭(本丸)に付けられいるが往時の曲輪状況は不明。北西下の現在の墓地も曲輪だった様子。
上津城(茶臼山城)の南丸(右手)と本丸(正面)

北側の藪に急斜面にも数段の小さな平坦地と池跡とも思えない深い凹部を持ち(井戸跡か?)土橋とも土塁とも思える盛土が其の外側を巻いており武者隠し?とも思える。 顕著な堀切や竪堀はない様だが丘陵裾部の谷間の溝は深くなり空掘状・城域の出口付近には低い段差の2〜3の曲輪、其の下には二つの池が並び、西側池の外縁は先ほどの墓地への参道です。
茶臼山城:本丸北斜面の武者隠状土塁?

集落の北を東西に走る道は三田〜赤松峠から市ノ瀬〜三木市や依藤氏の東条谷へと通じる赤松道で茶臼山 (上津)城も当初は播磨赤松一族・有馬氏の居城・落城は城主一連坊(井上源太夫!?)祐之のとき。三木城攻めの際・羽柴秀吉に攻められ落城した事では一致しますが二説ある。 木合戦よる三木城別所氏方に付く 周辺の城を一つ一つ殲滅していく作戦の中で落城した天正5年までなら 早過ぎ天正6年頃なら摂津・播磨平定に羽柴秀吉が三田城を攻めた事でも判るが天正元年に何があったかのか!!?時期の異なる二つの伝承がある。
茶臼山城:本丸北斜面の削平段?

どちらが正説か?と云う事ではなく有馬赤松氏の関連・摂津から丹波に隣接の三田地方に触手を伸ばしてきた 有岡城荒木村重等の軍事行動や其の時代時期を考えると三木合戦(天正5年:中国の毛利攻めで当初は織田信長方として秀吉軍に参戦していた)以前の播磨攻めの頃とも思えます。
其の一:上津(こうづ)城(茶臼山城)は天正6年(1578)11月:三木城に籠城した後藤将監基国(後藤又兵衛の父)は 羽柴秀吉軍に包囲された三木城の勝ち目のない戦に・落城も近いと基国自身:我が子又兵衛を小寺(黒田)官兵衛に預けているを説き別所長治の奥方と相談して子供の為・子供が安らかに生きられる様にと基国が最も信頼を寄せる友人で、
茶臼山城本丸北裾:最上段に低い段差の畑地と池がある!!

摂津国有馬郡上津畑ノ庄の土豪で茶臼山城主一連坊祐之のもとへ書状をしたためて別所長治の子:千代丸に乳母の羽束と御殿医:平井左近を従者に付けて預けることを勧めます。淡河城下から市ノ瀬に出て赤松峠を下れば 上津の領地・一連坊祐之の城。千代丸は祐之の元に預けられるが三木城が落城した翌・天正7年3月には羽柴秀吉の命により塩川伯耆守 ・山崎左馬介・中川瀬兵衛等の軍勢が有馬郡に侵攻し蒲公英城(松原城)は落とされ茶臼山城にも迫ってきます。一連坊祐之は此の茶臼山城へ秀吉軍が 攻めて来るのもほんの数日後・一日と持ち応えられない。
茶臼山城本丸の顕彰碑

「此処で千代丸君を果てさせては申し訳ない・今のうちに城を出てくれ」と一連坊の所領である春井の家に匿ってもらうようにと、平井左近に書状を持たせ抜け出させました。数日後茶臼山城は落城し祐之はじめ家来達は自刃して果てたと云います!!。其の二:?天正元年(1573)一蓮坊祐之が 茶臼山に居城を構え250余名の家臣を有し近郷を支配していた。豊臣秀吉が三木城攻めの際仙石権兵衛秀久にこの城攻めを命じます。一蓮坊は家臣の助命を条件に自刃して開城した。本丸北側から下ると直ぐ墓地に入るが辻・坊ヶ内・一連坊等の墓碑銘に残される姓は現在地元の殆どの家系に残るという家臣達の末裔を示す姓なのでしょう。一蓮坊祐之の勇気ある行為を後世に伝え、
茶臼山城南丸展望台から上津台ニュータウン

その霊を慰め遺徳を顕彰し碑を建立します。時期は永禄年間末〜天正始め頃:織田の政権下にあって摂津に勢力を持っていた有岡城の荒木村重に仕えた中川瀬兵衛清秀(茨木城主)・塩川伯耆守国満(山下城) ・山崎左馬介(三田城)等の侵攻に戦わずして降服しそのまま城と此の地に居住することを許されたもののようです。茶臼山城主一蓮坊祐之は一時期でも僧籍にあった名のよう。此の地で大きな戦いに環俗し指揮・参戦していたものでしょう?。その後:天正6年(1578)に始まった三木合戦の際、別所長治の重臣:後藤基国が一蓮坊祐之を頼り千代丸を乳母と平井左近に託して三木城を脱出させて茶臼山城(上津城)に匿った。此れを知った秀吉の弟:羽柴秀長が兵を茶臼山城に向わせた。此れには堪らず一蓮坊祐之は自らの命と引替えに家臣の助命を願って自刃した。
茶臼山城南丸から鞍部に 土塁と堀割?を経て本丸


天正7年(1579)8月のことと云い、この城を受け取った仙石権兵衛秀久(後出石城主)が 赤松峠を越える播磨道の警護に当たったようです。また秀吉が三木から幾度も通った湯山街道や有馬温泉を統括する湯山奉行にも任じられた記録があるという。天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いが終結すると【三木城が開城した 天正8年(1580)との説もあるようですが】秀久は茶臼山城を離れ淡路国:洲本城主を命じられ五万石の大名になっています。
(上津茶臼山城保存会による城跡由来の平成14年:案内板・郷土の城ものがたり  兵庫県学校厚生会を参照)

北区Np120近世居館(名称不明)と西浦城
北区No120近世居館 神戸市北区大沢町市原
西浦城   城山 xxxm  神戸市北区大沢町日西原

神戸北三田アウトレットやショッピングモ-ルへ抜ける神戸市北区の近在には長尾城(茶臼山城)・西浦城・貫主山城等の山城があるので 順次探索・訪城していきたいと思う。茶臼山城への分岐を見送り県道17号線に入って市原バス停を過ぎると大きくカーブしながら小峠を下るコーナーに コイン精米機の設置されている店舗?が有りバス停の名が「城山」。車道に崖状に迫り出す低丘陵上に目指す西浦城があるが人目が無くても 此処から取り付くのは無理。
大沢(おおぞう)町市原側からの西浦城(山ではなく手前の藪地)

宅地等造成が進む市街地に近い郊外にあっては…荒れ放題ではあっても其れが比較的遺構残存状態を保持してきたものか消滅・壊滅…城の多い神戸北 ・三田市に近い地域にあって茶臼山城は公園化で保存されているが此処はどうなる事やら…車道に沿って丘陵側に歩道があるが下草藪が密生し、
西浦城:南斜面の段曲輪

急な傾斜面も細い竹の藪地だが暗い竹藪の斜面上方をよく覗き見ると段曲輪状に1〜2mの直立した切岸に見える。山林・竹藪に見かける植林や作業用の造成や平坦地とも思えない。 同じ日西原に在る貫主山城を探すつもりだったが此の位置は県遺跡分布地図にノーマーク。今回は此処から遺跡分布図に「北区No120遺跡」と記され、 遺跡調査報告書等を拝見する機会もなく名称は知らないが近世(慶長年間以降江戸幕府)
上段曲輪に入る土塁道!!

居館跡とされる遺構が県道の西浦城南西端寄りから市原集落の農歳神社付近にある。県道から傾斜を増す直線坂道の左右は棚田が圃場整備されてか広く土手も高い。其の一枚の田圃の先・東方に見える雑木林の中に比高20m程に重ね連なる段曲輪を忍ばせる西浦城の遺構が隠されている事など気付く人も少ない。「兵庫の城ものがたり・神戸」には載っていたが県遺跡分布地図に記載はなさそう。 また農歳神社付近の居館跡も「北区No120遺跡」とあるだけで、
西浦城:主郭南斜面には二箇所に土塁囲み状の窪地あり・武者隠し?

圃場整備造成工事の中で発見され遺跡・遺物から近世居館跡と推定されたものでしょう。何故こんな場所に?と思える位置にあるが丹波側から赤松峠(赤松PA近く!?)を越える 播磨道・摂津方面からは道場・宅原・を経て市之瀬〜吉川〜へと旧赤松氏重臣:依藤氏の東条谷〜小野市河合へと嘉吉の乱には赤松満祐が 将軍:足利義教の首を持ち帰ったルートか?。有馬温泉に通じる湯山(有馬)街道の一つ。此のルート西浦城下からは市之瀬を淡河城へ、吉川からは三木市を神戸や明石へと山陽道へ通じる要衝。
直立する切り岸

播磨赤松氏や三木合戦時の羽柴秀吉にとっては三木から幾度も通った街道だったのかも!!。東条谷の岩屋城主:赤松氏保(うじやす)には 赤松吉広・利忠と但馬・竹田城最後の城主となった赤松広英と三人の甥がいて広英は秀吉の但馬攻めで天正5年落城 ・其の後天正13年(1585)龍野城主だった広英が入り慶長年間初期には 総石垣造りの近世城郭として改修を終えているが慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに負け徳川方として 鳥取攻めに加わり落城させたが、
西浦城:二箇所の池状窪地間の曲輪の切岸

城下の大火の責めを負って切腹し竹田城は廃城となっています。城史(戦記)については茶臼山城と同期して運命をともにしている様です!!?。 赤松吉広・利忠にも領地を与えて郡主にしたいが播磨の地は赤松家一族:別所氏の支配地ばかりで、 攻め取って与える領地もない隣の北摂・有馬郡には強い領主もいなくて争いを繰り返しており、此の地の城を一つずつ落として郡主になれと、
直立する段曲輪の切岸

二人に松原氏の兵を350人づつ預け別所氏の家臣・松原定友(利忠の姉を妻としている)の意見に従って、松原氏の兵と共に大沢庄日西原の西浦城を攻める。 西原城の城主高井重兵衛(有馬氏一族と思えるが有馬氏 赤松家一族の筈!!?)は予(かね)てより松原氏の侵攻を予想して土塁 ・空掘等の防備を強めていたが、やがて城を取れば城主になれると吉広は勇敢に戦い重兵衛を討って西浦城主になるが、僅かしか居ず直ぐに3kmほど北の東光寺に陣を構えました。
近世(江戸期)の居館No120・・東面下方から

松原氏が道場城に入ったのも永禄元年(1558)頃と思われ永禄3年道場城は北摂に 食指を示す荒木村重に攻められています。また利忠が何処の城を取って城主になったかは不詳。 松原定友【山城守義富<右近太夫貞利>と同一人事か?】が道場城 (蒲公英城)を修復して入ります。天正3年(1576)赤松吉広は荒木村重の家臣・山崎氏に討たれ、
近世(江戸期)の居館No120・西面から民家背後の森林部

天正7年(1579)蒲公英城主:松原山城守義富も羽柴秀吉軍の塩川伯耆守・山崎左馬介等に攻め落とされ滅びます。県道側からも斜面に続く段曲輪が生い茂る暗い竹藪内・高さこそ1.5〜2m程、高くても3〜5m程だが切岸は 殆ど直立に落とされ、其れが崩れずに残されており、曲輪の削平も大小に関わらず丁寧に成らされて造林地形と思ってしまう程。 放放置された重機!!・これまた殆ど何も置かれていない資材置場から北を捲く様に広い平坦地が東方へ延びており、
西浦城近く:近世の居館No120東面から 下段曲輪への入口

逆に東から此処まで造成されて来ているが工事進行は膠着状態なのか?打ち捨てられたような土砂・石材はそのまま…相当造成地形改変された形跡が窺えます南斜面から主郭に向う途中には、 浅いが空掘にしては広い池状の湿けた窪地が二箇所ある?。此れも南下方を通る街道に討って出る武者隠しを意識した曲輪なのか?(郷土の城ものがたり 兵庫県学校厚生会・Wikipedia参照)
北区No120近世居館
県道から西浦城の西方から 大沢町市原へ向うと農歳神社がある。神社前付近の田圃の周辺は堀状側溝に沿って屈曲する畦・高い切岸を見せて西の谷側に迫り出し、其の端一角に在る個人墓所も曲輪…!!?…と気になる地形はあるが圃場整備された跡地でしょうか?。
民家前(南方)も 堀状溝を隔てた数段の田圃も居館跡?

県遺跡分布地図を再チエックしてみると市原集会所東向かいに建つ、高い石垣塀で囲まれた民家背後の丘陵部の林と田圃一帯が「北区NO120遺跡」の位置と合致する。近世(藩政時代)の居館跡とされるが発掘調査報告資料等があるのかは知らない ?…が有っても閲覧出来る機会は無さそうです。

貫主山城(神主山城)    城山 xxxm  神戸市北区大沢町日西原

兵庫l県遺跡分布地図をチエックしていて摘要・備考欄は空白ながら遺構からも 室町時代末期頃と思える貫主山城を見つけた。しかし「郷土の城ものがたり(兵庫県学校厚生会)」の巻末には此の位置より北西に境する大沢町簾に神主山城が載せてあって南北朝期!の築城とある。
貫主山城取付点の天満神社(中央)

有馬甚五郎が居城・遺構無し(出自不明!!?)ともいう。貫主山城の位置は 西浦城とは県道17号(西脇三田線)を挟んで西南約600m程、県道82号(大沢西宮線)と合流する 西日原交差点の南東約400m程の地点。しかし名称:神主山城が在ったと云う簾集落付近…を先の遺跡分布図で探してみても、
竹藪内の曲輪切岸は西浦城同様に高さは無くとも 切立

大沢町簾集落を抜け市野瀬交差点(三木市淡河からの R428号〜県道355号の合流地点手前に市野瀬城が在る)を過ぎ、 毘沙門城付近まで地図に遺跡記号の無い空白地帯です。神主山城と貫主山城は同一の城と考えられます。 貫主山城が遺構なし…!!神主山城は南北朝期の築城らしい…のが引っ掛かりますが南北朝期か其れ以前の荘園管理の下司職にあったものの居で城名からは神社領の荘園主か、神官が荘園領主として年貢の取立て・
貫主山城:主郭東尾根の南空掘?

治安取り締まりの役人として武士化し勢力をもってきたものか?、鎌倉時代から南北朝期に入る頃には地頭になっていたのかも…?。 貫主山城への取付き点として選んだ日西原の県道82号線に大沢公民館への標識と泰宝山福厳寺(曹洞宗)の山門石標が立つ。その先に天満神社の石標と石鳥居が見える。
貫主山城 :主郭東尾根の北空掘?

神社由緒案内に「昔・此の村に住んでいた祇園左近太夫が無数の梅ノ木が生え・一斉に開花するという霊夢を見て其の場所を社地として京都北野天満宮の御分霊を祀ったと言う。境内に重厚な大岩を背にして本殿他諸々の小祠が末社として合祀されているが伝承の祇園xxx氏の名からは、
貫主山城:東尾根南へ抜けると溜池・田圃は段曲輪か!!?

此処が祇園社(京都八坂神社)の社領で?荘園管理の下司職にあったものが祇園姓を名乗って平安期〜南北朝期頃に居たものか?。 丹波・丹後・近江等の養蚕や生産地が祇園社領であったり、祇園社領四箇保として近在には丹波波々伯部保(篠山市)もあり、中世にはなんらかの関連があったものか?。
貫主山城:主郭西尾根側の 段曲輪(4〜5段続く)

其の後の城史の変遷の中で中世期に赤松有馬氏の有馬甚五郎なる人物が現れてきたものか?。神社本殿横から丘陵上への道は直ぐ竹藪に入るが遺構はないどころか、西浦城に良く似た縄張り状況で猛烈な竹藪と倒れ枯れた竹材の通過に手間取るが竹林のスリットを透かして随所に曲輪の切岸を見る。西面・北面共に尾根筋沿いの切岸というより高い断崖状。余り広くなく ・細長い主郭の先に堀切と東南に大きな池状の窪地・平坦地形の尾根筋を東に進むと直ぐ北にも同様の池状窪地があり、
貫主山城:東尾根側から浅い堀切と主郭(左下手に空掘?)

北側に深い谷があるが池状窪地から谷へ水が抜ける箇所はなさそう。天水受け井戸と堀を兼ねたものか?。緩斜面から東南へ下がっていく道は 上部に灌漑用水池が有るが其処から数段は屋敷跡の曲輪だったか?とも思える様子です。尾根筋直進は30m程で少し高見の出曲輪らしい台地に着く。
貫主山城:主郭西尾根側の土塁・土塁道?

大正頃の倒れた石碑や壊れた廃神社が建つ。真直ぐ下る参道の下に民家がある。京街道を三田に抜けて赤松峠を吉川町・東条〜小野市へと嘉吉の乱に赤松満祐も将軍足利義教の首を携えて通った道が要衝なら、 直ぐ近くを並走する此の県道は吉川町の毘沙門城や宮脇城付近で合流する間道だったか?。摂津(西宮・神戸)方面を繋ぐ要衝ではあったでしょう。

光山寺と光山寺砦
光山寺砦 点名:日西原 287m  神戸市北区大沢町日西原

上大沢(おおぞう)地区に見かける「近畿自然歩道・太陽と緑の道」は、いつの間にか山陽自然歩道・太陽と緑の道が近畿自然歩道に吸収されている様。しかし殆ど地元で歩道の整備管理された光山寺観音道と展望休憩施設は「大沢ふれあいの森」です。光山寺(こさじ)山293m〜光山寺観音堂〜3等三角点(点名:日西原(ひさいはら)287mから鞍部へといっても 10mほど降った平地から5m程の高みに修行行脚姿の大師像が立つ展望台に着く。三角の有馬富士と円い頭の羽束山が二つ並んで姿を見せる。
光山寺山の観音堂

此処を降って天狗岩の展望所・途中に何箇所も案内標識が立ち、いくつもハイキングコースは分れるが東へ下ってフルーツフラワーセンタへの 道を辿り嫁取り松を経て、いちご狩り看板の目立つ県道73号線に出る。光山寺山周辺の低丘陵一帯は棚田と溜池群 ・関西では有数のゴルフ場集中地帯?。南に六甲の山並み・西に境する播磨の山々・北に摂津の山をと…
日西原〜中大沢へ抜ける北の林道から望む光山寺山

低山ながら眺望が拡がり近距離の手軽なハイキングコースが整備され、天狗岩・坊主岩!!?等の名所も備えた景勝地です。
光山寺:般若山光山寺(行基菩薩作とされる十一面観音菩薩を本尊として奉祀)の開創・開基の年代等詳細は不明だが真言宗石峰寺の末寺として創建され、七堂伽藍のあった巨刹として伝えられていました。しかし戦国時代・羽柴秀吉軍の「中国の毛利攻め」軍議の意見相違から、 三木城別所長治は毛利方に付き、先に播磨別所氏攻めが始まった
観音堂下鞍部の遊歩道から三角点峰裾の土塁と空堀

三木城攻略の天正7年(1579)別所長治とは婚姻関係にあり、同盟を結んでいた智勇に優れた武将淡河城主 淡河弾正忠定範(騎馬軍団を混乱させた有名な戦略は此の項を見てください)討伐に兵火に遭って尽く焼失したという。淡河定範は此の作戦で淡河城を出て三木城に篭城”平田・大村坂・加佐の合戦”に大活躍するが軍を立て直した秀吉軍の逆襲に撤退の途中・八幡の森で自刃したと伝わります。
三角点峰裾の土塁と空堀(西北から南の遊歩道側を望む)

光山寺や宗徒等が 三木城篭城の別所氏方を救援していたか、光山寺砦が別所氏方の城塞群の一つとして機能していたのかは不詳だが、三田有馬郡領主:(赤松)有馬法印則頼は秀吉方に付き、三木への進軍中に光山寺を攻撃したものか?。篭城戦で廃された淡河城へは有馬氏が入っています。光山寺の堂宇が灰塵と化した中にあって、幸運にも十一面観音菩薩像が発見され、 仮堂宇に安置した後・福厳寺の住職がこの地に移し慶長9年(1604)再建したと云われる。
光山寺山の点名:日西原 (光寺山砦の主郭?)

さらに文化8年(1811)には村民の浄財により堂宇は改修されたがその後・堂宇の火災や明治維新の廃仏毀釈の際、泉養寺の堂宇が取壊され、本尊地蔵菩薩尊像が合祀されることになり、明治27年(1894)には管理上の理由ということで光山寺堂宇が福厳寺境内に移築された。両尊像が小さな堂宇に幽閉合祀されている為、村民や信徒の寄進によって昭和5年(1930)元の
修行大師像の立つ光山寺砦副郭?

光山寺山に移築され 共に祀られたが失火で堂宇を消失する (両尊像は難を免れた)等、幾多の難関を経て後・ようやく平成になって町ぐるみで再興する機運が高まり,平成3年1月堂宇が再建され落慶法要を迎え、 永年の念願であった観音堂および籠り堂も落成した。(大沢町自治連合会案内板等を参照)
光山寺砦副郭の土塁虎口?

光山寺砦:光山寺砦の城主・城史については不明だが南北朝期: 南朝方に付いた部将が北朝方と戦って落城して廃城となった様です。観応の攪乱(1351)・光明寺合戦に起因した戦いだったかも?。 県遺跡分布図にコメントは空白ながら、点名:日西原287mと大師修行像の立つ 一帯に光山寺砦として城域マークが付いている。
修行大師像の立つ光山寺砦副郭?

南北朝期の城址ならば…と遺構は諦めたが三角点峰の南下を捲く遊歩道(此の道自体が腰曲輪か帯状曲輪だったか?、西から北へ裾を捲く空堀が 此処もグルリと取り巻いていたか?)からは目の前の大師像の立つ北側の高くなった平坦地形が副郭の切岸にも見える。 大師像の台地からは段差が1m程低くなって北へ延びる平坦地・緩斜面を下り始める北端部へは東北端を低土塁が延び、西面の土塁状の盛上りとの間の通路が 土塁虎口状にも思える。三角点ピークが主郭だろうか?。
観音堂から光山寺砦?へ下る

7X12m程の平坦地形以外は何も無さそうだが、 西〜北側斜面10m程下部を半周する土塁空堀状は塹壕・兵の移動通路としても充分な様に思え、山仕事の作業用とも崩壊防止や配水用施設とも思えない。城遺構なら、 室町時代前期の南北朝から中世まで使用され、光山寺も城郭化されたため兵火に罹ったものか?。北西約1.2km程には貫主山城が在り・其の出城として呼応する砦だったか?。 調査された結果の県遺跡分布図なので郷土誌史等には報告されているのかも知れないが資料・内容等を知らない。



北神戸の伝説 T:天狗岩
近畿自然歩道(環境省・兵庫県)の案内板が天狗岩展望広場の岩頭に立つ。展望は良さそうだが(?生憎の雪曇りで何も見えない)案内板が立てられている足下の岩場ではなく反対側のロープ伝いに急斜面を降る 遊歩道側の大岩が天狗岩。そういえば突出す岩が天狗の鼻か!!.。 光山寺山【「こうさんじさん」とわざわざルビが付されているが光山寺(こさじ)山】の南面に露出した岩場の中に一際高く突出した高さ15m程の岩は、
嫁取りの松

突き出た岩の形が天狗の鼻に似ているからか、或いは此処は天狗しか登れないだろう!!ということから「天狗岩」と呼ばれるようになったと云われ ています。この岩の陰に天狗が隠れていたという民話も残っている様です。六甲連山の山並みや麓に広がる町並を一望することができます。 三田の伝説に千丈寺山の天狗の話がありますが、
光山寺・観音堂から 天狗岩へ下る西国ミニ霊場の道

此の天狗は六甲山の奥深いところに大きな岩を根城として住んでいた。天狗は唐櫃(からと)の四鬼(逢ヶ山・高尾山・水無山・鬼ヶ島 辺りのことか?)で息を整え有馬の愛宕山・天狗岩で腰を掛けて・お供えを食べた。次の休み場所は西宮市山口町の丸山(金仙寺湖・丸山ダムの側)へ、其処からピョンと跳んで三田・加茂の金毘羅山 (有馬富士〜城ヶ岡〜金毘羅山)の大木(天狗の休み松)に掻きついて汗を拭き、次に乙原の千丈寺山へと… 此れが天狗の道筋となっていたという。丸山(金仙寺湖)から有馬富士へ飛ぶ事を思えば唐戸からは有馬富士・羽束山を望む天狗岩に来て、 加茂の金毘羅山へ飛べば汗を掻く量も少なかったと思うが…。

嫁取りの松
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U:嫁取りの松跡

天狗岩から東へ下りフラワーセンタ・県道73号線へと田園地帯の中の地区道を進んでいると 「嫁取りの松」の案内板と、切り株が3m程の高さで残された松の巨木の切り株がある。樹齢500年を超えた老松の切り株にも伝説が残されています。 此の地は小屋越山の東南嶺の分水地で老松の西枝の雫と・東枝の雫は、其々に遠く離れた海へ注ぐことから、此の樹の下で別れを告げる時は再会の縁は遠退くと云われ非道の姑が此の地へ嫁を送って離縁を強いたとか、
天狗岩東下の登山口?から望む棚田と小屋越山

昔・花嫁が馬に揺られて近隣の里へ嫁に行く途中、此処までやって来たところ突然、稲妻と共に空が曇り・雨が降り出した。慌てて付き人が松の下に駆け込み馬上を見ると花嫁は消えていた。村人達は松が焼きもちをやいたと考え「嫁取り松」と呼び、 その横にもう一本の松を植えて夫婦松とした。以来・花嫁はこの道を通らない…と。また山賊が出て・花嫁道具を奪ってしまうので、嫁入りのときには此処を通ってはいけないという目印として名付けられたとも云われます。 (T・U共に近畿自然歩道の案内板参照)

宅原城
   城山 199m   神戸市北区長尾町宅原字曲り(鹿の子台北町七丁目)

神鉄公園都市線沿いの県道720号を三田市街地の嶋ヶ谷交差点に降りてきて 神戸市・三木市方面に右折すると北摂三田高校・三田学園を望み池端を進み県道17号を越え・長尾川を渡って長尾交番前交差点に出る。 此処を右折するのが何時ものパターンで、
変電所から鹿の子台北町交差点付近:宅原城(中央造成地奥)

三田市と神戸市境界の神戸市北区に大規模スーパー、アウトレット・ストアの店舗数も倍加した神戸三田○○に立寄る機会も多くなった。今回は長尾交番前交差点を左折。250〜300m程で鹿の子台北町のT字交差点に着く。南側に変電所の広く大きな貯水池・鹿の子台郵便局があり
貫主山城:東尾根側か

その南方すぐ先・車道を挟んで東側の鹿の子台小学校には移設復元して保存されている 北神第3地点古墳がある。鹿の子台北町交差点を東へ直進すると約1.5kmには 蒲公英城がある。長尾町宅原地区の鹿の子台北町交差点の歩道を挟んで北背後:城域側の尾根筋まで削平され整地が進んでいる様ですが!?、比高20m程の丘陵上に立地する
低土塁が四方を囲む宅原城(南東の谷側土塁)

宅原(えいばら)城は丘陵部の東面・南面一帯が北神ニュータウンとして宅地開発が進むが、北面から西面を田園に囲まれてポツンと残された独立低丘陵ですが、その頂部付近は緩斜面をそのまま残す 自然地形を利用したものか、平坦面の四方を低土塁で囲い込む単郭構造(約南北60X東西50m程)の山城遺構がソックリそのまま遺されており 縄張図からは同様の構造をもつ単郭の城で北摂ニュータウン:小学校建設工事により消滅してしまった?
宅原城:北端の内折れする土塁虎口部

釜屋城(貴志城:三田市貴志・すずかけ台2丁目)の状況をみるとき、雑木藪・下草に覆われてはいるが遺構は完存状態。 鹿の子台北町のT字交差点から長尾交番前交差点側へ少し戻った側道(歩道)から 比高10mも無い丘陵部東裾を北へ向う細い地区農道?がある。 コーナー入口部にブロック塀があり”下ノ池墓地”の石標柱が立つ。宅原城が位置する東側丘陵部は先述の造成工事中。細い車道の西面が 北方・長尾川に向って棚田状に田圃が並ぶ。
宅原城:低土塁も盛土と外側傾斜面の高低差で切岸を形成する!!

東側はガードレール沿いに深いコンクリート囲いの垂直の溝谷(2‐2.5m程・幅1.5〜2m)が裾を流れる。此の上部が城跡と判っていても、山側への架橋は無く猛烈な藪と急な崖状に取付には躊躇する。 下山時には藪を掻き分け溝谷を飛び越えたが城域北に1〜2軒の民家があり現状:此処からが登城口。 民家の東・小谷を挟んで上部に住宅地が拡がる。此処からも細長い丘陵尾根が南に延びる。尾根上の踏跡は土塁道状で、尾根道沿いには城域との谷側に
宅原城主郭内部”伊賀守信貞”宅原領主?の顕彰碑

1〜2段の平坦な段差が有り、尾根筋側を削り落として長く延びる。谷は小さく城域が近いだけに城遺構と関連付けてみるのは素人考えか?。低丘陵部だけに宅地開発以前の芝山・畑地等の作業道なのでしょう!!。 急斜面ともはいえない東側の小谷をトラバース気味に対岸の丘陵尾根をに向うと、頂部の主郭を取り囲む低土塁を越えると雑木・雑草に埋もれる中に
宅原城:南東端土塁のコーナー部

”伊賀守信貞之城址”石碑と建つ主郭南部分に着く。碑文からは「源経基30世裔で有馬摂州宅原領主の伊賀守信貞…」とあり、其の後:越後守昌親が天正年中茶臼山城(上津城) や石山本願寺に織田方として関わったものなら三田に移り…?は(織田や豊臣政権崩壊後?の事か)帰農したものか?。伊賀守信貞の16世孫義村氏の建立碑が建つ。姓氏が記されていないので宅原氏?か判らないが市史等に城史不詳!!?。在地領主の居館であったか?。
宅原城南東の土塁:谷側に開口部があるが虎口では無さそう?

領主なら赤松家 蒲公英城:松原山城守義富の家臣と推察する。荒木平太夫の居城(出自不詳)からは丹波進出を窺う伊丹 有岡城荒木村重が足懸りの摂津三田方面に侵攻し天正元年(1573)蒲公英城を攻めた際、此処を陣城としたものか?。縄張りからも陣城に共通する特徴が有り、守将として荒木一族が拠ったものか?。 茶臼山城(上津城)も此の時に攻めたものか?。宅原城主が赤松一族なら蒲公英城(道場城)か茶臼山城 (上津城)に拠ったが落城:其の後三木城に籠城、 天正7年の開城後は城を出て三田に帰農した!!?・・とも考えられます?。道場城・上津城と共に三木城の東方入口にもあたり織田・秀吉方の後方支援基地ともなっていたのでしょうか?。
宅原城:虎口部の土塁と切岸

丘陵背後尾根上には明確な堀切を見ない(南端西面に一本竪堀状を見るが工事現場付近・溝谷側から通じる古い山道なのかも?)。 城外側の土塁際は土塁盛土による遮断効果の他、傾斜面との高低差を利用した切岸を形成して城外と土塁頂部とは最大1.5m程(主に北側虎口土塁部付近)の段差を持つ。低土塁ながら土塁の開口部は南東側・西南側・北側にあるようだが 虎口は北側にあり幅約1mで両脇の土塁は周囲より大規模に盛られ・土塁を城内側に曲げて導入部とする特徴的な構造を有している。
(三田市史V を参照)


農歳神社   神戸市北区大沢町市原

神社の創建年代は不明だが 北区長尾町上津谷から移り住んだ開拓農家が、産土神として当地の大歳神社の御分霊を祀っていたが 肥前国(佐賀)の浪士仲井市之丞守国(紀守国)が故あって当地に居住し、当社を崇敬し自らが大願主となり室町時代後期:永正8年(1511)私財を投じて現在の本殿を造営。その際:伊勢の豊受大神を勧進し豊歳神社と改称したと云われます。
豊歳神社

本殿は春日造りで覆屋内にあったため屋根・柱・組物その他細部に至るまで完存し、 板壁の外側や柱・扉など全面が極彩色に飾られており、彫物では正面上部の雲龍や欄間の透かし彫り等が精巧で、向拝柱上部の組物や彫りの技法は他に見られない珍しいものと云う。棟札に寄進者:紀守国・大工は奈良の宝田宗行・小工は藤原定行とあり、 覆屋の納まる本殿は国指定(昭和54年5月21日)重要文化財となっています。
(現地:神戸市教育委員会 案内板参照)


三田市(神戸市)の古墳 北神第3地点古墳   神戸市北区鹿の子台北町6丁目34番

兵庫県遺跡分布地図(Web版)で宅原(えいばら)城を確認して出掛けてきた。鹿の子台北のT字交差点から南側の浄水施設 ・郵便局前を過ぎて約800m程先のショッピングゾーン(家電量販店・スーパー等)まで進み此処から城跡に向かった。神戸市立鹿の子台小学校敷地の西北端フエンス側が少し高くなった土壇が有って此処から校舎やグラウンドを見渡せる。 土壇は元:北神戸中学校の南側に在った古墳時代後期(5〜6世紀)の円墳(径約15m)で、昭和55年(1980)調査されましたが、盗掘をうけておりナイフの様な刃物1点だけが採集されています。古墳中央には竪穴式石室の石積が遺され、 石室ごと切り取って此処に移設復元して保存されています。
(現地:北神第13地点古墳 H5.3市教育委員会案内板参照)
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