柏原町 「南多田新発意踊り」     柏原町南多田
氷上町石生との境:柏原町南多田の大歳神社で行われる秋の祭礼に奉納される「新発意(しんぽち)踊り」は ”雨乞いや五穀豊穣・天下泰平”の念仏踊りに田楽を取り入れて変化してきたものか?、
僧衣の新発意の振る団扇(軍配)に合わせて踊る

明治頃まで雨乞い行事として行われてきた 南多田の「新発意踊り」は大正6年(1917)の大旱魃を機に復興され、其の後も保存会により伝承されて今日に至っています。氷上町や柏原町にも無形文化財として伝承されている新発意[しんぽち]の発意は発心の意味で悟りを求め仏門に入ること。 新発意は新弟子をいい、
羯鼓を打つ少女と新発意(小坊主)

仏門に入って間のない新法師を指すが、一般には寺の子供さんや将来・寺の後継者に対して”シンポチ”さんと呼ばれることが多い様です。 南多田で行われる「新発意おどり 」の由来について定かではないが、 安土桃山時代頃から始まったと伝えられ、荻野氏発祥の地で黒井城主:
大歳神社に奉納の南多田「新発意おどり」

赤井(荻野直正)の生まれた後屋城のある谷村(氷上町)の新発意おどり (江戸時代:延宝年間(1673〜1681)以降に大和地方から伝わったとされる)よりは、其の起源・発生も少し早いようで丹波市無形文化財(昭和53.10.18)に指定されています。 墨染衣に袈裟を懸けた雲水姿の新法師を踊頭として、団扇(軍配)を頭上で 左右に振って向きを変え、 音頭取りの唄う道歌【伝承されている歌詞は清水踊り・御寺踊り等8種類が伝えられているが、 現在は「大蛇踊り」と「長者踊り」が行われている】に合わせ…
南多田「新発意おどり」(H18.10.08 AM10:30〜)

昔の写真には見ないが?花笠を被り腰の羯鼓(かっこ)を打つ 袴姿の女の子の参加で、地味な祭りに・彩を添え華やになっています。此れに新発意(小坊主さん)が団扇(軍配)と瓢箪杖を持って各12人程で踊り左右端に太鼓(大人)打ちが三人ずつ付いて行われます。
(氷上郡の文化財・氷上郡教育委員会 を参照)


柏原藩織田まつり     柏原町柏原

織田信包(織田信長の弟)が豊臣秀吉より慶長3年(1598)氷上 (丹波市)・天田(福知山市)・何鹿(綾部・福知山)の丹波三郡36,000石を与えられ、丹波柏原に国替えで移ったのが柏原藩の始まりで丹波市唯一の城下町 (城ではなく陣屋だが…)ともいえます。10月第二土・日曜に柏原八幡神社西麓周辺を会場として 「うまいもんフエスタ」が開催される。日曜の昼には「柏原藩織田まつり」武者行列が 柏原藩陣屋表御殿・長屋門前を出発し町内を廻り
大坂城鉄砲隊_H16.10.11

会場内の木の根橋までをパレードします。 年々”うまいもんフエスタ”では出店者が・武者行列も参加者希望者が増えてきている。柏原藩は信包から三代目信勝で後嗣なく断絶【前期織田家】。以後45年の間は天領地となっていたが、大和国松山藩から”宇陀騒動の内紛で減封され入封された織田信休入封により 明治の廃藩置県まで続いた後期織田家に分かれます。柏原藩陣屋を造営したのは信休だが・・・当初参列は無かったが姫!?、
大坂城鉄砲隊 (長屋門前)_H16.10.11

続いて殿が、NHKドラマで「江姫」で一躍知られるようになった信包が、 浅井長政滅亡後の浅井三姉妹【北近江・小谷城主浅井長政と市(織田信長の妹)の間に生まれた 茶々・初・江】を手厚く保護しています。「織田まつり」の主人公はやはり藩祖?。江姫は柏原町には無縁だが・江の最初の夫君が織田家の家臣で信包にも仕えた佐治(與九郎)一成で、 参勤交代等留守を守る柏原範筆頭家老の佐治氏に負うところが多かったと思う。
大坂城鉄砲隊_H20.10.13

いずれは佐治氏や、後期織田藩の藩政改革・財政刷新・藩校の設立等に功績の 小島省斎等も列に加わる時代行列になる事も期待したい。 織田まつりのほうは4年振りに大阪城鉄砲隊(堺鉄砲研究会)の参加があって、金色に輝く甲冑と織田家の紋入り陣羽織を着けられた、鉄砲隊S会長(火縄銃等・銃器研究家)の変わらぬ元気なお姿を遠くから拝見した。
大坂城鉄砲隊_H16.10.11

前回”柏原藩織田まつり”に参加された際には、 休憩控え室になっていた大手会館で「大坂城では11月初めに”秋の陣”もあり、出てみないか」…と夢計斎氏から打診され、S会長からも「武具を揃えて待ってる…」とまで甘いお言葉を受けていたが…足軽以下の身分では身に余る…。 今年来丹の参加者は前回に比して数名少なく、大阪城甲冑隊の夢計斎(K氏)さんの姿を探したが、
大坂城鉄砲隊_H20.10.13

他のイベントの参加されているのか見かけない。尋ねた夢x斎氏も10年ばかり丹波には来ていない…と!!残念。 「一文字」紋の幡指物で武者行列にも参加されていた夢X氏ならご存知だったかも? 実は本名を思い出したのは ズッと後「後のまつり…!!」でした。名さえ判れば彼を知らない人はいない筈なのですが…。夢計斎氏には:あの日の演武動画撮影のチャンスに同期が取れず失敗した事にお詫び致します。 天気が良くなくて後のパレードへ参加出来なかったのも残念でした。
時代行列の先頭を行く「挟み箱」H16.10.11

S会長の 解説と指揮で大阪城鉄砲隊による火縄銃射撃演武 (煙武かな?)が始まります。私の傍にいた幼児が、最初の一発の轟音に驚いて泣き出し、親が慌てて後方に引き下がる一幕もあった。立ち撃ち・膝撃ち・S会長自らも馬上筒(銃身を短かくした短筒)の射撃実演、 信長が武田軍に対して初めて披露し大勝したと云われる?
陣屋の長屋門を出発

三段撃ち(速射!!)や、一斉に釣瓶撃ち…の演武が終わり引き揚げると昨年(平成19年)太鼓櫓の太鼓の張替えと 「柏原藩織田陣太鼓」がお披露目され、太鼓櫓の前で実演されていた柏原藩陣太鼓が陣屋東御殿と長屋門間の庭で大手会館を背に演舞された。 ”ドンドン・カッカッ…”単調ながら勇壮さと 軽快なリズムを打ち鳴らす太鼓に併せて、左右に歩を進め始める時代行列は、
西楽寺前(うまいもんFESの主会場 )を過ぎるとゴールも直ぐ其処」H20.10.13

正午に長屋門前をスタートし、挟み箱を先頭に毛槍が続く。 持ち手は毛槍の交代時に投げて受け渡しする所作に、沿道からは拍手が湧く。今年はお姫様も登場して笠・羽織袴姿で続く大名行列・鎧武者を従えて、練って廻りメイン会場の八幡神社下・木の根橋まで町内をパレードします。写真の西楽寺からは数10mで 田ステ女の生誕地が在る。ステ所が夫の菩提を弔う為に籠もった千日堂跡は、西楽寺の北方・八幡神社西北丘陵の先端に 「ステ女公園」として整備され歌碑が立てられています。
鳥毛槍の"奴ふり”と木の根橋_H16.10.11

寺には出家 ・剃髪して尼僧となった貞閑の像がある。春頃に催される「ステ女俳句ラリー」への参加者なら拝する事が出来るのかも・・?。慶応4年(1868)西園寺公望が山陰道鎮無総督となって丹波に入り、 福住に次いで本陣を置いたのが此処:西楽寺で山門脇に石碑が立てられています。
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柏原藩の太鼓櫓
柏原藩は、慶長3年(1598)織田信長の弟・信包(のぶかね)が丹波柏原に36000石で移封されたのに始まり3代信勝が死去したことで・後継の子が無く廃藩となり、以来所領は45年間天領となっていたが、大和宇陀藩から織田信休が【父:信武が刃傷事件を起こし自害した 宇陀騒動の処罰として減俸され】20000石で入封して後期柏原藩織田家が引き継いで明治の廃藩置県により廃藩となります。
太鼓櫓と石田大歳神社

其の歴史の柏原町内を練り歩く時代行列が柏原藩陣屋を出発し武家屋敷や町屋の風情を残す町内には入り「つつじ太鼓で知られる太鼓櫓」前を通り、嘗て八幡神社の門前町として栄えてきた柏原町の原点に到着します。此処には町のランドマーク・木の根橋が行列の到着を待っていました。
太鼓櫓から鐘ヶ坂方面

町内には藩政時代)の藩邸や武家屋敷等の他 ”太鼓やぐら”が現存し町文化財に指定されています。 藩政時代の太鼓櫓は大手門付近に在って番所や物見櫓として使用されていたが、明治時代初期(廃藩置県で藩の遺構取壊しを避ける為、 町民の手で移されたと考えますが詳細な記録は無い様です)に石田の大歳神社境内・柏原赤十字病院近くに 移築されています。櫓の内部は三層構造になっており最上階に「つつじ太鼓」があり、平成19年(2007)太鼓の張替えが行われた事で、柏原藩織田まつりを期に「つつじ太鼓」の初打ちが披露されました。
太鼓櫓「つゝじ太鼓」と柏原八幡社(H20.10.13)


登城の合図や 参勤交代で藩主が帰藩した時の合図や時報、火事や大水等の警報で打ち鳴らされていました。元柏原町公民館長:藤本氏監修による「つつじ太鼓」変遷史(平成の 太鼓張替え披露行事のパンフレット)よると寛文8年(1668)大和松山藩3代 :織田長頼により作られたもので、元禄8年(1695)織田信休が国替えの際:柏原へ持ち込まれた。太鼓櫓は柏原藩邸が造営された同時期:正徳4年(1714)に前後して建てられ、 大手門付近にあったものと推察されます。
野口雨情の歌碑

平成19年7月 (昭和57年以来25年振りに太鼓の張替えが行われ、胴の内部に残されていた太鼓の革の張替え記録から、大和松山藩時代に5回・丹波柏原藩時代に12回・明治以降にも4回あり、今回:平成の張替えで 22回目行われた)。また狭い櫓内の梯子は人ひとり通るのがやっと。建築当時は床材を取り外し太鼓の上げ下ろしに内部で可能だった様ですが、現在では取り外し出来なくなっており、 梯子・ロープを使用して外部から搬入されています。 「町の真ん中 櫓の上で  つつじ太鼓が昼寝する」大正〜昭和初期の詩人:野口雨情が訪れて読んだ柏原小唄の一節を刻んだ歌碑が太鼓櫓前に立てられています。
太鼓櫓前で織田陣太鼓の披露(H19.10.14)

石田大歳神社境内の太鼓櫓の基檀部は、 横穴式石室を持つ円墳「石田大歳神社古墳」ですが、石垣が積まれて北側の敷地境も民家が迫り現状は未確認です。今は柏原町の玄関口・JR柏原駅前観光駐車場に新しく太鼓櫓が出現!。 定時になるとカラクリ時計が歌曲「丹波のあした」のメロディと共にカーテンが上がり、武者姿の人形が太鼓を打つ。”人間にとって「時間」は希望であり忠告であり、はたまた一種の規制でもある”…と!。

 
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