氷上町: 内尾神社と中野「奴ふり」/稲畑式三番叟

内尾神社の大杉と杉並木
   氷上町三原南奥島
 
2000年最後の干支の山竜ヶ岳へは長都羅志山から縦走した際 ・一寸寄った内尾神社 (平成元年4月制定の氷上観光10選)は閑散とした鳥居前の広い駐車場と目前にゴルフ場があるが、鳥居から正面の本殿へは昼なを薄暗く感じるほど参道の両側に並ぶ 太く真っ直ぐに伸びるスギの並木が印象的です。ゴルフ場から神社前を更に登って行く広く立派な林道は、篠ヶ峰の肩を越えて多可郡加美町の丹治へ
内尾神社・鳥居から本殿への参道の杉並木

越える車道が通じていたが、道路決壊によるものか以後復旧さ れる事も無く!?、もう随分と以前(30年以上前か?)より氷上町側からは通行出来なくなっています。 内尾神社から長都羅志山への取り付き地点を探して来たが、三原からの尾根へは ザ・サイプレスゴルフ場で遮断されているため諦め、山裾を巡りながら引き返して、カタクリの里・清住へと車を走らせといると、尾根の先端付近の杉林の奥に大岩を背にして
内尾神社本殿より参道(中央に石橋)


”内尾神社御旅所”の石碑が注連縄を囲った中にあります。計画した山の縦走は此処から向った事がありました。内尾神社は延喜式山陰道の要衝で但馬国境・丹波最北部、 佐治駅から成松にかけて氷上郡内の商業の中心として栄えたところです。 相模国愛甲郡荻野出身の荻野氏が「承久の乱」に功あって新補地領に葛野荘を賜って来住した尾張守定朝(丹波守護代になった荻野右衛門朝忠)がその祖と思われます。
内尾神社本殿と狛犬

内尾神社は居城とした 成松城から約5km西方に有り、荻野氏の加護を受けていたと思えるので 鎌倉時代:承久元年(1219)以前には既に存在していた古社です。さて行止まりの立派な車道側の鳥居から本殿に続く真っ直ぐな参道左右の杉並木を通って石橋を渡り石段を登り詰めた 内尾神社本殿前には幹周り5m程・樹高60mの二本のスギの巨木が立っています。


氷上町・中野の”奴ふり”  丹波市氷上町中野
内尾神社・中野奴行列
  丹波市氷上町三原 (H18. 10・8 但し行事全体を知らず内尾神社境内のみ AM9:00)

丹波市(旧氷上郡)氷上町葛野18ヶ村の総社である三原の内尾神社、秋の例祭で行われる中野奴行列の「奴ふり」は丹波市指定の無形文化財(昭和54年7月28日指定)で10月体育の日の前日 ・地元中野区民に伝承され、中野奴保存会により行われ、祭礼の神輿による神幸の露払い(先導役)を勤めます。法被(はっぴ)に前垂れを着けた奴が神社から御旅所までの間に、 9回”奴ふり”が行なわれます。
杉並木の参道を中野奴の宮入「奴ふり」(H18.10.08)

”奴ふり”には東海道の風景等を織り込んだ道行き文言には「此れからお江戸へ何百里」とか 「xxx女郎衆は気立てが良くて!?・・・」等が有り、挟み箱に傘持ちが合いの手を入れるなど・ゆっくり前から後ろへ掛け合いながら進みます。行列は2列で挟み箱の”中老”を先頭に、草履持ち(小学生)一人、槍持ち(中学生)・傘持ち(青年)・小鳥毛と大鳥毛(壮年)が各二人の順に並び、 行列の先導として羽織袴姿の警護人二人が列の前後に付きます。
内尾大明神が移られた神輿は本殿から御旅所に向う

奴を務める者は早くより(10月に入ると)肉食を禁じ精進潔斎して、祭り当日の朝は斎戒沐浴(一番風呂に入り心身を清め)して務め、 内尾神社本殿の大杉(市指定天然記念物)前に迎える神輿に移られた内尾大明神を乗せて御旅所に向います。本殿下の石橋を渡ると参道の左右に続く杉並木が素晴らしい。 この日7:30分〜からと聞いて神社で待っていたが、数名いた関係者?も全て引揚げて誰も居なくなった。 別の場所から迎えの出立があるのかも知れないが何処からかは判らず待つ・・・9時に20分前になってやっと参詣人が現われ毛槍や挟み箱を持った法被姿の奴の姿が見え、9時に鳥居から ”奴ぶり”が行われ、
正一位内尾大明神の御霊を待つ神輿

1時間程の神事の後・神輿を参 道迄下ろして、担い棒にセットされ、いよいよ本来の「神幸 の露払い」 ”奴ふり”が行われた・・と思うのですが、既に何処からか出立していた「宮入り」で神輿は御旅所に向うのでしょう。この日(H18.10.08)廻った丹波市の中野奴ふり・南多田の新発意 (しんぼち)おどり・稲畑式三番叟にしても、一通りの祀りの中の”祭り”の一部であり、 神に捧げる神饌の一つで米・酒・野菜・海や山の幸に続く神事の一つなんでしょう!。それらの所作では素朴なもの・特異なもの・華麗なもの・派手なもの、其の所作の意味するものも種々雑多ですね。
神事を待つ中野奴た神輿の担ぎ手


起源は明らかではないが、 江戸時代の後期から行われてきたものと推察されます。播磨や丹波にも、鶴と亀とか:相生の松・・・等の、縁起良い言葉の元歌の語句は地元に合う様アレンジされて後:アレワイナ コレワイナ ・・・の続いて「ヨ〜ォィヨイ」とか「ソリャ・ヨ〜ォィトセ〜」等の声を揃えてかける伊勢音頭の継承は、獅子舞の伊勢神楽同様に伊勢講を組んでの伊勢詣りが盛んだった頃からの名残なのでしょうか。 なを・丹波市内には市島町竹田地区で行われる竹田祭りで神輿(みこし)が一宮へ入る際にも”奴ふり”が行われています。
(中野奴保存会 氷上郡の文化財 ・氷上郡教育委員会 を参照)


氷上町・稲畑式三番叟   丹波市氷上町稲畑字泉山

稲畑の奴々伎神社の例祭の 宵宮(毎年10月第二日曜日PM6:30)本殿を正面に望む神社の舞堂【割り拝殿となっている中央の通路に填め込みの床を渡して塞ぎ通して舞台としたもの】で奉納される三番叟で、 いつ頃から此の地で始ったか明らかではありません。
奴々伎神社の舞堂は(割り拝殿の中央通路を繋いだもの)

丹波地方でも室町時代末期〜江戸時代後期にかけて能【丹波猿楽】が舞われ、藩主に代々世襲されて、 厄除祈願や雨乞いの際等に能楽が奉納された様で、稲畑・佐野・青垣等に残る 三番叟ともに160年以上続く伝統芸能とされています。室町時代には能・狂言で天下泰平・国土安穏・子孫繁栄・世継ぎの無事や長寿を願い、
三番叟奉納前に神殿に向う

また雨乞いや五穀豊穣を願って演じられる三番叟が庶民の中に、 娯楽・芸能として伝えられてきたものでしょう。稲畑は当時:奴々伎神社の神官 ・大原美能里が 伝えたものと云われています。現在は氏子である稲畑区全戸で稲畑式三番叟保存会が組織され、地元住民の協力を得て毎年行われており丹波市の無形文化財指定(昭和48年2月9日)を受けています。
三番叟奉納前の参拝を終え…

青垣町の翁三番叟は全国の足立姓の元祖とされる 山垣城足立遠政の二男・遠信の築いた小和田城の西麓にある 沢野の八幡神社で行なわれるが、稲畑の奴々伎神社も高見山城 (丹波守護:仁木頼 章)から萱刈峠を越え、尾根の末端を佐治川・柏原川合流地点の 穂壷城(稲継城)に落とす低丘陵上に位置する、高見山城の城砦群の一つ 妙見砦や泉山城(仁木頼章の弟:義長が拠ったと伝えられる)の西麓に有ります。
二番叟:清めの露払い「千歳」が踏まれ・・・


柏原町側の藤代神社や 奴々伎神社が城砦の城主の守護神として祈願所となっていたのでしょうか ?八上城波多野氏や氷上・後屋の荻野(赤井)氏や明智の丹波攻めへと、南北朝期から騒乱の中に在った稲継集落の 歴史は不詳・・(^^ゞ、ですが伏見人形の流れを汲み安政年間(1818-30)初期より練り焼かれてきた稲畑土人形は良く知られています。さて未だ薄明るかった辺りも午後7時前には、 西方の佐治川堤防沿いに走るR175号の車のライトが黄色の帯になり、スッカリ暗闇につつまれてくる。 シャツ1枚では肌寒く感じてくる頃、ひざ掛けや座布団を持参して三々五々・地区内から観客が集まってきます。此れに雨や風が伴えば相当に寒さが応えそうで、 踏子の三人の姿も観ずに退散かと思える頃、
翁の舞

堤燈の灯りを先頭に氏子に役員と踏子が神社本殿に参拝し、神事を終えて舞堂に入ると、舞台裏手からは呪術的な「とうとうたらり たらりら!? ……」謡で始まり、鼓・拍子に併せての囃子で始まります。先ず”露払い”には侍烏帽子の二番叟:小学校2年生の少年が舞う 「千歳(せんざい)」で謡う「鳴るは滝の水…日は照るとも…」と、 これ以後の舞の囃しの合いに入る「オンハ・・」の掛け拍子や、踏子の操り人形にも似た体や足の運びには、昨年訪れた 青垣町沢野・八幡神社の翁三番叟に共通しています。氷上町佐野地区・矢降神社(今年H18年は行われなかった)や、朝一番に内尾神社の中野奴ふり(当ページ上蘭に掲載)を見に寄って行けなかったが、氷上町上新庄地区・天満神社にも 三番叟の奉納があって、其々に「xxx式三番叟」とあるように演舞には特徴がある様です。
三番叟:鈴の段


中でも(白式尉面)の青年が狩衣姿で「坐して居たれ共・・・千早ぶる神のひこさの昔より・・・およそ千年の鶴は・・・万代(年)の池の亀は甲に・・・天下泰平 ・国土安穏の今日の御祈祷なり・・・」と謡(神歌)舞う中、「オンハ・・・」の単純で意味不明?の囃し方のリズムに、延々と(4〜50分)中腰状態を主体に足を徐々に上げながら体を廻し又・足を徐々に下ろす。 足と体のの奇妙な折れや・左の腕を上げ真っ直ぐ天を指して突き出した指、其の繰り返される 動きはまるで舞台の上から糸で動かされているギニョールの動作に似ていてユーモラス・丹波での三番叟は歌舞伎ではなく人形浄瑠璃により伝えられた影響を強く感じられます。 この動作と長い演技?が稲畑式の特徴の一つなんでしょう!。
翁の舞(足腰の崩れと、徐々に回転を伴って高く・・・

青垣の翁三番叟にも見られる此の動作は丹波で行われる三番叟に共通のものか?未だ見ていない佐野や上新庄で奉納される 三番叟とも比較してみたい。三番叟は小学校6年生の少年が剣先(立)烏帽子の後ろに白い花飾りを着けたものを被り、面を着用しないで扇を手に子孫繁栄・世継ぎの無事を願う「父尉の舞」を舞うと、黒式尉(こくしきじょう)の面を着けて二番叟と短い”掛け合い”をして 「黒式尉の舞」と二番叟から神楽鈴を受け取り、五穀豊穣を祈願する「鈴の舞」を舞って終わります。三番叟は能楽の正式番組の三番目に演じられる「式三番」の総称で「翁」の曲を世襲したものといい、
又低くなる手足の動きは”操り人形”そのもの!

二番叟の千歳・一番叟(白式尉の翁)・三番叟(黒式尉の翁)の歌舞から成り立ち、天下泰平・国土安穏・五穀豊穣等を祈祷する神事能として、 祭事に用いられるようになったものと考えられます。なを佐野の矢降神社の名称からは高見山の般若寺跡関連で、虚空蔵菩薩?を祀る場所を定める為に山上から矢を放って落ちたところを聖地と決め、 その場所が矢降神社や、稲畑の奴々伎神社ではなかったか・・・と。伝承はうろ覚えなので機を改めて・・・。資料等ご存知の方はお知らせ頂ければ幸いです。
(沼貫村誌 氷上郡の文化財・氷上郡教育委員会 民俗芸能GUIDE MAPのパンフを参照)

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