静岡県の城 浜松城

近畿の山城:番外(静岡)
 浜松城

近畿圏外へ城巡りに出掛けることは殆どなく今回も甥の結婚式。貴重な圏外での城廻り経験は…調査・自由時間の余裕もなく 遊びで行くわけではない…の気詰まり感もある。「浜松まつり」最中で浜松駅周辺は交通規制され地理不案内ながら近場?の浜松城まで行ってみた。「浜松まつり」こそ凡そ450年前、浜松城の前身:曳馬(引馬)城主の 嫡男誕生を祝った初凧が”凧揚げ”の起源となっているが、
家康公鎧掛松と浜松城

終戦前後に浜松市民参画の”浜松まつり”として山車(御殿屋台)の曳き廻し等を加え5月3-5日に掛けて浜松市民挙げて行なわれる大イベントとなっている。浜松城公園とはR152を挟んで東北の東照宮近くに位置した 曳馬(引馬)城は徳川家康に攻略され浜松城として拡張整備された浜松城の前身だが詳細不詳。 徳川家康は元亀元年(1570)武田信玄の侵攻に備え本拠地を三河岡崎から遠江(とおとおみ)の曳馬城に移し浜松城として築城して入城。城域を現:浜松城本丸側へと拡張・改修を行ない城下町の形成を進めたが、
若き日の家康公銅像

元亀3年(1573)信玄の挑発に乗って城を討って出た家康だが一方的な敗北を喫して(三方ヶ原の戦い)浜松城に逃げ帰る。その頃の浜松城は切岸高い曲輪・堀・土塁による防備の土の城。家康は天正14年(1586)在住17年(29-45歳までを過ごした)で本拠地を浜松から駿府城(静岡城・府中城)に移した。更に江戸城に移ると天正18年(1590)羽柴秀吉の重臣堀尾茂助(吉晴)が12万石で浜松城主となります。嘗て堀尾茂助吉晴は天正7年:明智光秀が丹波国を平定した後:天正10年(1582)本能寺の変に天王山・山崎合戦で秀吉に敗れると光秀家臣:斉藤利三に代わり丹波国氷上郡(丹波市)の黒井城主として6200石余りを扶持されて入城、秀吉命により明智軍に焼かれた柏原八幡神社の再建をも命じられている。
模擬天守閣と天守門:大手上り石垣?

氷上郡(丹波市)に6,284石の所領を与えられて城主を務めていた黒井城の石垣も土塁の上に築かれた野面積みの鉢巻石垣…等浜松城とも共通する。丹波攻め明智軍により落城までの土の城は明智の重臣:斉藤利三が入るが黒井城の石垣も本能寺の変後:秀吉の臣:堀尾茂助(吉晴)以後の事と推察します。黒井城からの移封-移封…で10年後の天正18年(1590)からは豊臣秀吉の重臣堀尾茂助(吉晴)が12万石で移封。穴太衆(滋 賀:近江坂本の石工集団)による信長の安土城石垣の石積は一躍天下に知られるが関ヶ原以前となると穴太衆を雇っての工事だったかは不詳だが、 割り石を使わず自然の石そのものを使って見た目の美しさより・
模擬天守閣と天守門:家康像のある本丸から

不揃いに思えるが堅固に積み上げられた石垣の荒々しさが寧ろ美しく、隅部に縦・横交互に石を組む算木積みも石材の特徴からなのか?顕著に見られる部分が浜松城には少ない様?。穴太衆の野面積み石組には タブー視されている積み方?のように思えるものもあるようで、此の野面積石積が穴太衆によるものか・穴太積み築造技術が取り入れられたもの!?かは不詳…だが堀尾氏在住の数年間で石垣の城・天守閣を築く等の大規模改修が成されたものでしょう。堀尾吉晴は秀吉の死後・家康に接近し石田三成ら反家康派との間に立って交渉・調整に務め 慶長4年(1599)家督を次男忠氏(浜松城は2代11年間の在城)に譲り隠居したが家康より越前府中の5万石の隠居料をを与えられている。
模擬天守閣

慶長5年(1600)関ヶ原合戦以後の歴代浜松城主は徳川家譜代大名に引継がれ、 縄張り改変や改修が進められてきたとおもわれるが堀尾氏在城期に創建された天守は17世紀のうちに姿を消し、天守台のみが現在に伝わるとされる。しかし天下人となった家康にとって、徹底した秀吉色の濃い城破は旧跡一切(石垣・井戸・堀を含め)が地中に埋め、徳川築城の大阪城にしたように 嘗ては秀吉家臣堀尾吉晴の城の中心郭・天守台に石垣積み…!!も秀吉色一掃を図り改修・改造規模は知らないが改修はされているのかも?。やがては東海道街道筋・城下町も再整備・新しく町割(整備)されていく。
富士見櫓から二の丸へ:本丸を包囲していたか?土塁石垣(家康時代の遺構?)

浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬(引馬=ひくま)城であり、築城時の城主は不明だが永正年間(1504-21)東海に最大規模の勢力を誇っていた今川貞相(さだすけ)築城説が有力のようで、今川氏配下の重臣:飯尾氏が城代として在城していた。この頃の引馬城は江戸時代の絵図にみられる「古城」と表記された部分であり 現在の元城町東照宮付近にあたる。浜松城周辺には「浜松市役所」東隣・路側帯にある家康公鎧掛松から…元亀3年(1572)12月(旧暦!?)三方ヶ原の戦いに敗走し
模擬天守閣石垣角の部分の算木積

浜松城に逃げ帰った徳川家康が城内の松の木陰で休み・鎧を脱いで此の松に掛けた伝承から 「鎧掛松」と呼ばれ、 初代の松は浜松城榎門の包丁堀脇にあったが暴風雨(昭和4年)により倒壊、2代目は焼失・現在の松は昭和56年元城町の人々の手により植樹された3代目。(現地説明文等を参照)
天守を正面に進み、城縄張りや発掘調査により確認された遺構…等の説明・解説板が設置されている南広場から向かう遊歩道は 浜松城公園内本丸跡に入り、此処で”若き日の家康公銅像”に初めてのご対面。家康公の像は「勝草とも呼ばれ目出度い
鉢巻石垣の屏風折れ

歯朶(しだ)の前立て(兜印)を手に持ち、穏やかに浜松城下を見守るかのような雰囲気で立つ。浜松城の野面積み石垣・石段に囲まれた本丸内。左上方の主郭(主曲輪の天守曲輪)へと天守門(天守台に対する東櫓門)を潜ると 復元された模擬天守閣が建つ。天守門は平成26年(2014)3月復元された。なを天守門の両門脇に据えられる巨石「鏡石」は城内スポットの一だが昨今のブーム!として石垣・石塁にゲーム感覚で
天守門両脇の正面を飾る鏡石

ハートマークを見つけるパワースポット探しも流行っているとか…。天守曲輪の東斜面の上半部に積まれた「鉢巻石垣」の「屏風折れ」は死角をなくすことで防御・攻撃戦術的にも効果的に側面からの攻撃を可能にする「横矢掛」や竪石塁(竪石垣!?)等、優れた実戦的石垣手法だが、これらについては不思議なことに市や個人サイトの画像等にも 何故か?…触れて説明されているものを見ない…!!?。土塁跡の高まりを感じさせるところもあるが…主要部を駆け足で巡っただけでは見残しも多い…明治6年(1873)廃城令により浜松城の建物や土地は払下げられ、
浜松城大手門跡碑

三の丸・二の丸も宅地化が進行したが天守曲輪と本丸の一部は大きな開発を免れ 昭和25年(1950)浜松城公園開設・昭和33年(1958)市民の浄財によって天守閣も復興(模擬天守)された。浜松城(浜松市中区)は歴代城主の多くが幕府の重役に出世したことから 世城と呼ばれているが初代城主:家康にとっての浜松は 武田信玄との負け戦…に始まり 良いイメージはないが歴代浜松城主:堀尾吉晴やその後の松平某・井上某・水野某…等の歴代城主の多くが老中…等幕府の重役を務めている。
浜松城出丸跡碑

曳馬(引馬)城玄黙口跡(浜松元城町 未訪):浜松城公園とはR152を挟んで東北の東照宮近くに位置した曳馬(引馬)城は徳川家康に攻略され 浜松城として拡張整備された浜松城の前身だが詳細不詳。浜松城出丸跡碑:浜松市立中央図書館南東駐輪場側の石段前に碑が立つ。浜松城公園内の縄張り図と照らし合わせれば(修築・造成等最終期の詳細年代は知らないが 曳馬城趾を取り込んでの規模のスケールが想像出来ますね。浜松城公園から中央図書館前を経て、嘗て東海道の宿場町・伝馬町・旅籠町へと向かう。
伝馬町の杉浦本陣跡

連尺交差点北角・大手門ビル側に浜松城大手門跡碑。連尺交差点を南へR257号沿い伝馬町に杉浦本陣跡。 同 伝馬町交差点側に川口本陣跡。同 地下道を斜向かいに渡ったところに梅屋本陣跡…等が点在している。地方からの参勤交代に多くの大名・旗本等が定宿とした”本陣”跡の碑を見掛けるが 各町村の目抜き通りでもあったか?「高札場」跡も見掛ける。国道筋を南下せず此の交差点を東へ向かえば「浜松まつり」の山車(御殿屋台)を見物しながら浜松駅へは近かったのだが交通規制と地理不案内の為遠回り。
 主にWikipedia及び「浜松城跡案内板」を参照
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