綾部市・上林川の山城U  沼ヶ谷城・赤道城・梨子ヶ岡城・東中山城・佃城・折山城・井根城 他
京都:綾部市(五万図=綾部)
近畿の山城:赤坂城 沼ヶ谷城  赤道城 梨子ケ岡城
      東中山城と佃城 折山城
井根城
梨子ヶ岡城(正面)取付きの玉泉寺道

丹波市から県道59号(市島和知線)で戸平峠を越え三和町に下りR9号線と交差して R173号(綾部街道)に出る。此処でR27号線に出るのに、由良川に架かる新綾部大橋を渡るか、 県道59号線を其のまま和知町へ走り抜けた方が近いのかは、ナビの持ち合わせも無いので迷うが、此の時期:幅狭くカーブの連続する山越えルートよりは、走り易い綾部市側から由良川沿いに、
沼ヶ谷城は右手集落背後の丘に在った

R27号線を暫く走って山家交差点で上林川沿いの小浜へ抜ける府道1号線は君尾山登山の昔から!!?、綾部温泉施設「二王の湯」も出来て何度か走った。山家交差点からR27号側の山家城・山家陣屋や上林川流域中程の上林城の再訪も、以前寄ったまま現状を気にしながら果たせていない。 昨年も八津合町や睦寄町に幾つかの山城を訪ねたが、つい未訪の城を優先している。
上佃橋北から望む東中山城

今回は其処に行くまでもなく・府道1号線に入って直ぐ?の口上林(十倉〜佃周辺)に点在する諸城を探索した。 生憎の残雪が溶けず取付き点がわからなかったり、雪の尾根筋を避け別尾根に入り込んで方向を誤り行き着けなかったりと、今回もまた周辺再訪を余儀なくされた。 お粗末な山城巡りの最初がまた・城(居館?)史も遺構も不明の城からのスタートとなった。



 赤坂城と沼ヶ谷城 沼ヶ谷城 赤道城 梨子ケ岡城 東中山城と佃城
 折山城 井根城


壹鞍神社と赤坂城    xxx Ca130m  綾部市十倉志茂町西赤坂1-1(壹鞍神社境内)

R27号線山家交差点から 府道1号(小浜綾部線)に入り、 多田町・下八田町方面から車道を合わせて、峠にさしかかる頃から 車道脇や山麓の日陰に残雪を多く見ながら十倉志度町に降りてくると、府道側に神社案内板と「壹鞍大明神」の立派な扁額を掲げる木造の鳥居が立つ。 鳥居を潜り直進する参道正面に石段と、高い石垣を積む境内最奥に壹鞍神社が鎮座する。
壹鞍神社

府道から神社前まで150mの参道は宅地・畑地が迫り、 神社突き当たりは左右の宅地に入っていくだけの地区道(生活道路)で駐車場所はない。正面石段を上がると玉垣内には 自然石だが 2m程の対の燈籠が立つ。社務所・手水舎前に数段高い石垣(5m程だったか!?)・石鳥居があり、 覆屋内には本社祭神に 木花開耶媛命を祀り、境内社には右若宮社、左に大宮神社・八坂神社を祀られている。綾部市遺跡地図には 壹鞍神社の位置に赤坂城が記され、城主渡辺九郎右衛門の城館跡とある…近在には 東方に沼ヶ谷城があり、城主は後白河天皇の皇子:
壹鞍神社

高倉宮以仁親王の忠臣渡辺隠岐守俊久の 居城と伝えられています。渡辺氏一族のものか!!?。…が崖状の背後に城域が広がっているようには思えず未探索。 荘園官吏に携わった代官・領主の居館だったのかも?。綾部市十倉xxxは福井県境から約30km程・長い谷あいを由良川に流れ出る上林川流域に拓けた上林荘の西玄関・口上林にあり、 鎌倉時代は山城国高雄の神護寺領だったらしく、 室町時代には京都相国寺領ともなっています。
(綾部市遺跡地図 1998.3市教育委員会 を参照)


沼ヶ谷城   xxx  Ca170m  綾部市十倉中町沼ヶ段・池ノ谷

壹鞍神社から府道1号(小浜綾部線)を東へ約1km程 ・十倉中町に 「心理教育センター:るんびに学園」の看板を見て左折。城の所在は左上方の狭い集落内へ入っていく 坂道上にあるが、 右手に巻き上がる車道を坂道上の学園グラウンド前の 駐車スペースに車を置いて、府道側の坂下の集落への分岐点まで戻る。
土塁虎口を抜け空堀状を第三曲輪に向かう

沼ヶ谷城の所在位置は、登り始め坂道正面(集落西北)の丘陵高みが府道を監視し易いと思えたが、 集落北背後の集落内宅地の陰に見え隠れする低丘陵が東南へ流れ出る斜面の先端部が畑地・宅地に接する位置に在った。 道なりに進む集落内の細い坂道の最奥の民家から北へ2段程の荒れた畑地脇を進む山道が古墓地に通じる。
南段曲輪(畑地?)上部付近の空堀・土塁虎口

2段程の荒れた畑地を東へ進むと雑木薮となるが、同様の段差で削平地が残る。曲輪よりは畑としての開墾地か転用されていた可能性が高いが、 南側民家からの侵入道が ほぼ中央付近を割って城域!!?に入り込む空堀状の侵入道は、 西側が土塁状で空堀状窪地から西側の畑地や墓地に入る道では無い様です。空堀道は此処で東上へ曲がり、土塁虎口状通路を東北上に在って、西端を竪大土塁・南から東へも低土塁で囲った広い (内部35X20m程)第三曲輪は居住性もある。
土塁と空堀道!!(南段曲輪<畑地跡?と墓地東端付近)

西端の竪土塁に沿って竪空堀道も虎口で、 上部へ延びて一折れして上方の第二曲輪と主曲輪への通路となっています。主曲輪は下草薮と残雪で荒れている様にも見えるが削平状況は土塁側は崩れた土砂が堆積している様だが、南切岸側は良さそうです。傾斜のある大土塁が西から北面をL字状に囲っていますが、 曲輪内部は25u程と広い。
主曲輪北の大堀切

大土塁の上部は広く・北面を高い切岸(10数m)と大堀切で背後の 尾根続きを遮断しているので、城域最高所でもあり櫓台であったと思われます。 現状の中世山城遺構について、城史不詳ですが、築城主は後白河天皇の皇子 :高倉宮以仁親王の忠臣渡辺隠岐守俊久の居城と伝えられています。平清盛は既に太政大臣の職を辞していたが、専横ぶりは益々激しさを増し、 治承3年(1179)後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し・翌4年:高倉天皇(以仁王の異母兄弟)を退位に追込み,自らの孫を安徳天皇として即位させた。
主曲輪と西から北を囲む大土塁の右手上に櫓台?

皇室をも蔑(ないがし)ろにする”奢る平家への不満・怒り”は全国に拡がり、治承4年(1180)4月:後白河法皇の第三皇子高倉宮以仁王源頼政
【摂津源氏・源仲征の嫡男で、歌人として知られ、保元の乱(1156)には後白河天皇方に付き勝利するが平治の乱( 1159)には義朝ら源氏に背を向け、平清盛らと行動を共にし、平氏の政権下にあって中央政界に留まり、 清盛の信頼を得て従三位に昇進した】等と図って,全国に「平氏討伐」の令旨を下し勤皇の兵を挙げたが計画は露見して
大土塁:櫓台から西側土塁線と主曲輪(左下)

源頼政は宇治川の合戦に敗れ平等院で自害、以仁王も山城国へ逃れたが 加幡河原(木津川市山城町・平家物語では光明山寺)で戦死したとされます。ところが綾部市の伝説に:死んだのは 付き添っていた若武者:藤原俊秀が影武者となって奮戦して最後を遂げた。大槻光頼、 渡辺俊久等十数騎の家来に護られた以仁王は、宇治川に自刃した源頼政の第六子杉山政国の案内で摂津から丹波へと、
三曲輪から二曲輪への空堀・竪土塁虎口(上部のU曲輪側から)

頼政が所領地:何鹿郡(綾部市)吉美郷有岡【 有岡御領城(南丹市日吉町も所領<田原城の項参照>) を目指して落ち延びた。しかし十日余りの逃避行に、以仁王が戦に受けた矢傷は次第に悪化29歳で他界されたと云い,此の地:上林荘からも程遠くない!?吉美郷多田!?に御皇霊を祭祀した高倉神社が有る。府道1号線を2km程西へ戻って峠を北方に越えR27号(舞鶴綾部福知山線)に出れば吉美郷。有岡や位田には時代は ズッと下がるかもしれないが諸城は多い。
沼ヶ谷城三曲輪から二曲輪への空堀・上り土塁虎口(V曲輪側から)

位田城は
永禄4年(1561)荻野肥前守が拠り、元亀3年(1572)明智光秀による落城を伝えるが、室町時代末期・荻野氏と同族の氷上郡(丹波市)黒井城主:赤井忠家が三郡 (氷上郡と天田郡<福知山市>・何鹿郡<綾部市>)を支配しており永禄5年(1562)の忠家の子:時家により国人:十倉九郎左衛門尉に、上林荘の下村・佃村等の一部に対する安堵状が出されている。織田信長の京都丹波攻め・横山城(福知山城)攻め時の、 諸城・将兵の動向等の一切は情報知らず未調査の為不明。
赤道城一番広い第V曲輪の北端:虎口付近の石仏

平安時代 :上林の地は 岩清水八幡領ではなかったかと考えられ、不確かながら鎌倉時代には山城国高雄の神護寺領となっていたとも?思われます。室町時代には京都相国寺領となっており、長禄3年(1459)熊岡某の横領や、 文正元年(1466)には年貢が納まらず、文明16年(1484)には牟礼某が上林吉忠番の地を違乱し幕府に訴え、丹波守護 :細川政元に停止を命じている。
十倉橋から上林川を挟んで赤道城(手前に低丘陵部)を望む

沼ヶ谷城を後にして、府道1号線を東に走ると上林川の流れと接する地点・十倉橋を渡り十倉向町に入る。上林川の流れの先に点在する集落背後の低丘陵上に赤道城が在る。 現状の府道1号線から見れば上林川を挟んで 対峙している様に見える赤道城ですが、上林川沿いがメインの街道筋で、 上林川が府道1号線に再び接合する睦合町付近までには、北山間に奥深く入っていく先に井根砦が在るだけで府道沿いに城塞は無い?。
赤道城主郭の秋葉神社?参道直下の大竪堀

ところが 上林川沿いには赤道城・隣接して梨子ヶ岡城。佃町に入って二つの山城が、 忠町に入って折山城が、続いて府道1号線側に大谷城等が上林氏の本城:上林城(生貫山城)へと点在する。其々の城主や城砦の関連は知らないが、館城沼ヶ谷城とは上林川を挟んだ直近の山城赤道城が 共に呼応し合った城主:渡辺氏と同族の城だと分かった。
(綾部市遺跡地図 1998.3市教育委員会 及び丹波の荘園を参照)


赤道城  xxx山  Ca175m   綾部市十倉向町イヤ谷

十倉中町の 沼ヶ谷城を訪ねた後、府道1号線を東に向かうと、上林川の流れと接する地点で 府道を離れ十倉橋を渡り十倉向町に入る。 地区内の道なりに進むと、目前の集落に迫る低丘陵の 北端ピーク上に赤道城が在りました。登城ルートは武吉町の玉泉寺に通じる上林川右岸沿いの地区道の地区最奥?の民家東横手から右手に丘陵上に向かう広い山道 (参道)がある。
赤道城主曲輪から左右を土塁で囲うニノ曲輪へ降りる

地区道からは 山ノ神と稲荷社を祀る真新しい祠が見えます。祠前からの山道(参道)を辿れば自然と赤道城に行き着きます!!?。正確には山道は 其の儘:城跡の下部を通り過ぎてゆく山道の様ですが,谷側に続く土塁が突然切れて、自然崩壊とも思える大竪堀が現れますが、現状では参道?山道の竪堀は、元々は尾根にかかる片堀切だったのかも知れません?。
赤道城:段曲輪の切岸

右手山側斜面上に祠が見えています。 此処が赤道城の最高所に位置する主曲輪 (10X18m程)で、祠は綾部市の城址に多い秋葉社 と思えます !?が愛宕社なのかも?。 山上からの眺望が効けば、上林川を見下し西北へ延び出す尾根先には沼ヶ谷城が望める筈!!?.。沼ヶ谷城の築城主は平安時代高倉宮以仁親王の臣:渡辺隠岐守俊久といい、其の一族と思える渡辺馬取が 城主と云われます。
赤道城中曲輪の中央虎口

同時期の 築城か時代を経て・後裔によるものか ?城史の一切は不明です。主郭から扇状に曲輪が拡がる沼ヶ谷城の縄張りに比較して、赤道城は最高所の主郭からは直線的な尾根上に三段の曲輪を梯郭式に並べるだけだが、全長80m以上有りそうな中規模の城です。二段目曲輪は左右に土塁(上り土塁)が設けられ各曲輪の切岸は高くないが。確り加工されており、中央部・西北端切岸には、 平入りだが虎口が設けられています。
西端の一番広い曲輪から・最奥が主郭

室町時代中期以後の縄張りが、古領主の渡辺氏が歴代守備し改修して護ってきた城であったか?は不詳・郷土史等での調査が必要です…。東南方僅か6〜700mの近距離には梨子ヶ岡城が在り、 小城ながら近隣に例を見ない圧倒的な・堀切と畝状竪堀群で主郭を防備する縄張りを見れば、此の城にも堀切や竪堀群が有っても良さそうに思えるが、時代と城主により縄張りプランは大きく異なるようです…ね?。
(綾部市遺跡地図 1998.3市教育委員会 を参照)


玉泉寺と梨子ヶ岡城
梨子ヶ岡城 xxxx  Ca185m  綾部市武吉町梨子ヶ岡・猪ノ谷

十倉向町に赤道城を訪ねた後は登城口・参道入口の”山ノ神と稲荷社を祀る祠”へ下りてくる。次の予定「梨子ヶ岡城」は上林川を左手に見て地区道を 5〜600mほど南へと、 武吉町の玉泉寺を目指して道なりに進む。
土塁と大堀切:主郭側(V曲輪)の切岸

登城口となる 玉泉寺山門に由緒・寺宝についての案内板が掛かる。屋根からの雪が山門を塞ぐ様に残るが、 除雪して入られた形跡は無さそうで、無住とは思えないが、檀家の少ない留守寺なのかも?。
V曲輪からU曲輪の切岸


梅林山玉泉寺 (臨済宗南禅寺派)は釈迦・文殊 ・普賢の三尊仏を祀り、 慶長6年 (1601)能登嶽峰恵林禅師の開創で五詮庵と称していた。嘉永7年(1854)火災に遭い、慶応元年(1865)再建、明治17年 (1884)玉泉寺と改称された。
空堀が畝上部でフオーク状に繋がる

寺宝の白衣観音図は室町時代の画家・霊彩の筆になる紙本淡彩墨画で綾部市指定(昭和50年)文化財で、現在・京都国立博物館の 寄託中とある。深山(!?所在不明)に在った真言宗薬師寺に祀られていた大日如来像は、 天正8年 (1560)織田信長の”丹波攻略”に横山城を落とした明智光秀が福知山城として大改修し、
畝状竪堀群(東面下から)


寺院が建材として壊し運ばれた際や、 明治新政の廃仏毀釈(明治6年1187)の難に遭いながらも、村民の護持と玉泉寺の理解を得て、昭和60年?(1985)建立された大日堂に祀られ、傷みの激しかった仏像の修理もされた。寄木造・彫眼で平安末期の様相をもつ・鎌倉時代の地方仏師の作は昭和 63年(1988)綾部市文化財の指定を受けている。
畝状竪堀群(東面)

梨子ヶ岡城 登城口となる玉泉寺山門前から丘陵側の墓地を抜けて上方に続く踏み跡を辿れば、城域北端の大堀切沿いに堀切外側の 土塁に登り着く。比高80m程で要害とも思えない 低丘陵上の堀切からは6〜7m程の切岸でV曲輪、続いて3〜4m程の切岸上にU曲輪が主郭西面をかこむ帯曲輪。其の先に2m足らずの切岸・薮に覆われた方形の主郭。
畝状竪堀群(西面)


西に僅かに膨らむ枝尾根状に小さな腰曲輪を乗せただけの小規模な山城ですが、 曲輪を囲む尾根筋には北に・いましがた見た大堀切、南側にも土塁を挟んで三重連の堀切が、 西方の腰曲輪下方への枝尾根上にも、削り残し部分が小曲輪とならず?土塁状に残るものか!!?二重堀切がある。堀は西下へ竪堀となり、畝状竪堀群に並び繋がる。短い尾根上に遺される主郭に通じる東・西・西の尾根筋を、大堀切・二重・三重連の堀切で遮断、 さらに主郭部左右傾斜面の全面には10数状の竪堀が畝状に刻まれています。
主郭南側尾根に大土塁を挟む三重堀切

綾部市には此の様な畝状竪堀群を駆使した幾つかに山城が有り、極めつけが高津町の大規模城郭 ・将監城だろう。100本を超す勢いで無数の畝状空堀・竪堀・堀切を備えている。築上時期や城史は不明の様ですが、 城主坂田氏が居城したと伝えられます。府道1号線を口上林地区十倉に入って直ぐの赤坂城・沼ヶ谷城・赤道城と 上記:渡辺氏の城を見てきたが、僅か5〜600mの至近距離に別姓:坂田氏の城があり縄張りも大きく異なる。
主郭西へ張り出す枝尾根状の土塁・二重堀切

居住性を無視・篭城戦も不可な低丘陵上の小城に、 過分とも思える堅固な防衛の空堀群を廻し、周辺の山城とは一線を劃(かく)した築城技術には、当地支配の一領主ではない坂田氏の側面が見え隠れする。 綾部市史・郡誌 ・古文書等の研究調査が進めば、坂田氏のこと・時代や築城目的が見えてくるのかもしれませんね・・。
(綾部市遺跡地図 1998.3市教育委員会 現地:玉泉寺案内板を参照)


東中山城と佃城
東中山城   xxxx Ca290m   綾部市佃町東谷・山ノ神/忠町スロ・段

「綾部市遺跡地図」を探して見ると梨子ヶ岡城からの 下山途中に前方に望む上林川沿い対岸(左岸)上流の佃町には 佃城と尾根続きの西北方に東中山城が載せてある。玉泉寺下の地区道を上林川の対岸に渡り、武吉町の集落を外れると、 急に車道の幅を狭く感じる。
東中山城東郭部:此の曲輪群を下れば佃城へ?

左に丘陵端の崖沿い、右手には谷深く・幅広く・水量も結構多くて流れも早い上林川が大きく蛇行して流れる。前方が拓けて佃町に入って直ぐ南方 ・上林川から側立つ独立丘陵(比高90m程・184m峰)の山容が山城の風格で迫るので、 ついその方向に向かう。丘陵側の対岸へと下佃橋を渡り、道なりの坂道を進み丘陵の北端を巻いてみると思惑は外れ!!、
東郭部:土塁(手前)と堀切

引き返すよりは其の儘上林川右岸に拡がる河川段丘の農耕地を通り抜け上佃橋を左岸に渡り戻った所で佃城の方向を見誤っていた。対岸から遠く離れた位置から高低差の少ない尾根筋を追いながら進んでいて、佃城〜東中山城へ続く尾根と・地図を見ず思い込みで、
主郭西の切岸

山道に入り込んだ大きな誤りで、間近の佃城さえカスって ・二つばかり西の尾根に向かった様だ。取付き地点と地図を照合確認せず、丘陵上の墓所に向かう山道に入り鹿除けフエンスを開閉して進むと山道は墓所に入って消える。殆ど知られることもない山城の多くに 経験するシーンなので、気にも留めず斜面に取付き進み、
主郭と櫓台土壇?

佃城から東中山城に続く尾根筋さえ外れていることには、枝尾根筋に出て大きくミスコースした事に気付かされる。 東中山城の城域南端付近の枝尾根を詰め上がった曲輪は主郭側に土塁を積んだ堀切が一本走る。 此の尾根を下って行けば佃城に行けるだろうからと後廻しにして、先に東中山城を探索。主尾根筋には段差低く・曖昧な平坦地形が主曲輪と判る最高所まで続くが、
東中山城主郭北尾根の堀切と曲輪

北側斜面には帯曲輪にしては幅狭く ・途中の曲輪に入る通路もないまま、残雪の白い線を残して一本の棚が主曲輪から北へ延びる尾根側に繋がる。 此の北尾根から枝尾根が東へ延びる先端部が上林川に落ち、川向かいには折山城が在る。此の尾根からなら兵の動きは一目で見てとれそうです。 東中山城の南に其の居館とも思える佃城が有り、此の東尾根上にも遺跡地図には空白ですが、
主郭:北尾根側の切岸と堀切

砦クラスの城塞が在って、上林川を挟んで北500m程の位置にある折山城と呼応して佃〜十倉に至る上林川の上流 (東)の出入口を監視、下流(西)の出入口を沼ヶ谷城 ・赤道城が守備・監視していたのでしょうか?。 もっともいずれの城についても築城主や時代等の城史は不明ですが、沼ヶ谷城の空堀・竪土塁虎口、赤道城の曲輪切岸と虎口、梨子ヶ岡城の小城に似合わず過剰な程の堀切・畝状竪堀群、
主郭:西面の堀切(空堀)

東中山城にしても主曲輪には櫓台と思われる土塁壇(マウンド)を持ち、 周囲を堀切 ・高い切岸で防禦しており、 中世戦国時代:中〜後期の縄張り遺構を遺しているようです。主郭北面の切岸 ・堀切を越えて東下方への尾根をトレースする余裕も、 引き返して南方の佃城へ向うにしても体力減退・時間切れ。西面の高い切岸と空堀を下ると、幅広い平坦地形を残雪が覆う前方の西尾根を辿ったが、
主郭の高い切岸と西面の空堀

空堀・切岸直下の広い平坦地は直ぐ自然地形の緩斜面となり、城遺構らしいもの見ないまま ・南へ降っていく広い尾根筋を降り、最後の丘陵裾と地区道の間に敷設されている、長いフエンスの開閉口を見つけてのトラバース。結果は尾根続きに並ぶ佃城と東中山城は、二城の関連を含めて再度挑戦する羽目となった。
(綾部市遺跡地図 1998.3市教育委員会 を参照)


佃城  xxxx Ca230m   綾部市佃町魚ヶ谷・岩尾/忠町スロ

府道8号線を東へ走りJR綾部駅前から由良川に架かる丹波大橋を渡るとR27号。今までは由良川沿い ・山陰本線山家駅の北で府道1号線を北上して”下八田”から「あやべ温泉」のサインボードを見て広域農道を旭町交差点で 府道1号(小浜綾部線)に出る。東へ峠を越えると車道脇に壹鞍神社(赤坂城址?)の鳥居を見る。中十倉(其の先の集落)・左へ坂道を登る分岐点に 「心理教育センター:るんびに学園」の案内板が沼ヶ谷城へ向かう道。
東中山城南端の堀切を越えて佃城へ下る

此処から約1km程進む「十倉交差点」で府道481号へと右折し井根川を渡り、大きく蛇行し水量も多い上林川左岸沿いに 南下して佃町へ向かう。上林川を挟んで西側には赤道城と梨子ケ岡城が在る。 府道と別れ幅狭い車道を東に向かい民家が途切れる先の十二社神社の空き地に駐車して昨年東中山城に向かった上佃橋の取付点に進む。丘陵末端部の畑地から鹿猪除けフエンスのゲートを開閉し墓地を抜ける。前回は地図上の橋を見誤り、 佃城へ行着けず佃城から延びる急登の尾根筋から東中山城の城域中央東寄り堀切近くに登り詰めた。
佃城北郭:北尾根続の土塁・堀切

今回は上佃橋の右手北上・上林川に落ち込む急斜面上の頂部に位置する佃城へ直上するべく橋の北詰を東へ 100m程進んでみたが丘陵裾は鹿猪除フエンスが廻り開閉部ゲートの先も藪の激急登に見え、前回のルートを先に東中山城へ・此処から東尾根伝を降って佃城に向かい、戻り着いたのが此処【車道の右手 ・上林川に落ち込む崖側に復興記念碑(昭和28年の台風による豪雨による災害復興 :昭和34年・・・)が建つ所】。 上林川は佃町の此の付近で 南へ折れて約500mを屈曲し約250東の忠町側で車道に合流してくる。
佃城北郭と櫓台!?

上林川の右岸から佃城側左岸に渡る橋があり城跡へは等高線の積む激急登の様ですが、山裾沿いに圃場が拡がっているので丘陵尾根末端に位置する 佃城へは山道も確保されているかも知れない!?。佃城の北東方・忠町と府道 1号線の睦合町で上林川は、東方247m三角点峰から流れ出る舌状亭丘陵部先端の三方を囲む様に 府道沿いに東へ屈曲する。
佃城南郭(主郭):竪堀か?

此の丘陵先端部には折山城が在る。佃城から東中山城へ向かう稜上からは蛇行する上林川が此の山塊の陰に消える付近の丘陵上に 折山城が見える。要衝の府道1号沿い睦合?十倉間 【城遺構が此の間に無く・蛇行を繰り返す上林川沿いに点在する為、 嘗ての主要道が川沿いであったかは未調査ですが!!?】を上林川沿いに通じる間道を折山城・佃城、下流に赤道城・ 梨子ケ岡城・沼ヶ谷城が呼応し、
佃城主郭(南郭)尾根側の上り土塁

若狭(大飯や高浜)方面や舞鶴東方面から上林荘へ・井根砦等は舞鶴西方面から弥仙山裾や黒谷を越えて上林荘へ、西は綾部市街地・京丹波町側の山陰道を 山家方面から入ってくる要衝・間道を諸城砦により監視出来る位置にある。Ca290m頂部に位置する東中山城の尾根続き東南先端に 位置する佃城は、縄張りや規模からも此れに従する出城的存在とは思えますが、共に築城時期や城主・築城目的等の城史は一切不明で、周辺の城砦との関連も不詳。
佃城南郭(主郭)南側の帯曲輪内の仕切り土塁か?曲輪差?

佃城の遺構説明は東中山城再訪後に 東南尾根を下りながらの確認なので、南麓・東麓からの訪城では読替えて下さい。東中山城の城域東端の堀切からも、尾根幅4-5m程だが自然(段にはなっていないし?緩斜面)に近い平坦地形があり、尾根から東方には樹間越しに上林川の流れと247m三角点から西へ長く延び上林川へ先端を落とす付近に折山城が位置する丘陵を望む。急斜面を降ると 北端の大土塁と堀切を見て佃城に入り30m程の急斜面上の北曲輪に上がる。
佃城南郭(主郭)切岸

最上部に櫓台か?小さな土檀が遺る。吊り尾根状の短かく浅い鞍部平坦地を通って帯曲輪とは低い段差(切岸約1.5m程は崩れて曖昧だが)で一筋の上り土塁状を南曲輪(主郭)に入る。 南面一段下にも曲輪を分ける仕切り土塁?なのか、高低差の低い段差で曲輪を分けたものか?二曲輪が主郭を捲く。 尾根筋の南端部に低土塁・堀切を見る。東中山城同様に尾根上の主要郭部両端(佃城は南北に延びる尾根筋の北郭と南郭(主郭!!?))の二ヶ所を堀切で遮断して城域を確保しているが、
佃城南郭(主郭)西尾根の堀切土塁

山裾から城域までが近いわりには上林川を天険の濠とし且つ 急斜面によるものか?竪堀を見ない?【東中山城は「綾部市遺跡地図」の遺構状況には竪堀が有る様ですが!!】。下山は南端の堀切からの尾根続き・上林川の瀬音を聴きながら山麓の車道までの急斜面を下り切り、 鹿猪除フエンスの開閉ゲート部を探して出た所が復興記念碑の前へ降り立ったが、北尾根側堀切から尾根を辿り、東中山城へ・植林帯となり藪っぽさが消える登り始め、左手へ下る踏み跡が佃集落側に続く様子。


折山城  xxx山  Ca175m  綾部市忠町雨乞・睦合町向山

JR綾部駅前から府道8号線を東へ走り 由良川に架かる丹波大橋を渡るとR27号。今迄 :上林地区へは由良川沿いを南下して「山家」から
上林川と折山城先端の西郭遠望(右端)

府道 1号線を北上していたが、R27号を北上し”下八田”から「あやべ温泉 」のサインボードを見て広域農道を旭町に向かい、 十倉町名畑町で先方で行止りとなる府道481号の上林川沿いに以前赤道城・ 梨子ケ岡城を訪ね、今回東中山城の再訪とリトライした佃城訪城を果たした。
折山城の東西郭を分ける大堀切(切通道)

上林(広義の!?)地区は府道1号線(小浜綾部線)が君尾山 ・養老山・三国山系(福井県高浜町とも境する)の東裾を抜け福井県大飯町へ、上林川上流の頭巾山は大飯町・南丹市に境し、 入口の”山家”は京丹波町に接する地域。中世:三丹(氷上<丹波市>天田<福知山市>・何鹿<綾部市>)に進出した黒井城主:赤井氏や、
大堀切から 西郭部への稲荷社参道

京都丹波から丹後・若狭の一色氏や武田氏を攻めた管領:細川氏と八木城主 :内藤氏等に翻弄されたと思われますが、当地各城や領主との攻防や帰順 ・・等の城史自体 ・詳細は不詳・不明部分が多い事は、 此の折山城も築城規模(中央の大堀切で縄張りを異にする東郭と西郭を含めれば凡そ300m程か!!?)が大きな平山城・山城ながら築城時期や城主等の城史は不明!?です。
折山城東郭:副郭と主郭

佃城山麓の上林川沿い佃町とは佃城の在る丘陵尾根を境に忠町に入ると、 上林川が大きく蛇行する前方に三角点峰(247m)から西へ突出す尾根筋が、舌状に低く延びて上林川に其の先端を落とす 丘陵が望まれます。赤道城・梨子ケ岡城・ 東中山城・佃城へは府道1号線「十倉交差点」で府道481号に入ったが、
折山城東郭(主郭)の竪堀

府道1号を直進し井根口(井根城への分岐)を左に見て小峠を越えると十倉名畑町の ”大宮バス停”のT字辻。忠町の折山城へは 東への地区道をとる。此のT字辻の左手に、車道から直接石段・大鳥居を潜ると山側に続く境内の奥に鎮座するのが「延喜式内社 :丹波国何鹿郡河(珂)牟奈備神社(旧郷社で祭神は天下春命【<あまのしたはらうのみこと?>】天の岩戸伝説で
河牟奈備神社

天照大神を連れ出す知恵を授けた八意思兼命<やごころおもいかねのみこと?>の孫とされる!!)。奈良時代:天明天皇の代:平城京遷都前の和銅 2年(709)創建で綾部市<何鹿郡>最古の歴史をもつ式内社。
此の地を今も大宮というのはかって崇敬篤い近郷近在 (口上林地区井根町・忠町等の旧八ヶ村の氏神)の大社であった故であろう。
折山城東郭(主郭)と祠背後の櫓台土檀?

境内に数基の古墳がある。元亀・天正の頃、兵火に罹り宝物記事等を焼失した。後朱雀天皇の長元9年(1036)大嘗会主基方神遊の歌に丹波国神奈備山を常盤なる神奈備山の榊葉 さしてぞ祈る万代のため(千載集)と詠まれているが神奈備山は神社背後の山と云われている。 境内社の阿上社の御神体石碑(平安時代:永久2年(1114)銘のある金石文で
東郭(主郭 )櫓台背後の土塁・空堀状

市指定<昭和50年9月>有形文化財)・・神社の概要・詳細や古墳については割愛する。河牟奈備神社から忠町を目指せば集落北西へ突出す低丘陵に折山城が在り、西末端部は逆コの字形に東の尾根続きを除く丘陵部三方を上林川が天然の濠となって護っています。 ”上忠橋”を渡り忠町の民家西端から
折山城東郭(主郭)の大堀切

丘陵上に斜上する幅広い荒れた山道が、低丘陵を北側に越える切通し道(大堀切)になっています。此処から向かう東尾根側は取付きに 所以は知らないが文化3年(1806)銘の諸国霊場巡禮供養の碑が建つ。 小高い頂部には主に二曲輪 (副郭と櫓台土檀をもつ東郭<主郭>)。城域は深い大堀切(現:尾根筋の切通し道)が南北を繋ぎ、
西郭(稲荷社)と櫓台土檀

一城別郭の様相で大堀切から東は先述の主郭部四方を堀切と竪堀でも 守る単郭状。西へは堀切から赤い鳥居を潜って急登だが、直ぐに舌状の長い低丘陵上に 曲輪を並べる連郭式縄張りの西郭部。幅広い土橋付き二重堀切の西上に方形の櫓台土檀を設けた西郭の主曲輪には稲荷社が祀られています。
西郭(稲荷社)の幅広土橋付き二重堀切

東郭(主郭)内にも神社が祀られていたが、祠は朽ち果て屋根は崩れ落ちて主祭神等は不明だが、字名の”雨乞”からは福知山市大江町の 元伊勢関連か?、近在では上林川上流に頭巾山(871m・HPは2000年からなので 1998年の登山レポートは無)があり、折山?(247m)西尾根続きのピーク東郭(主郭)山頂に祀られる青葉権現が雨乞いの神として知られます。愛宕社や秋葉社なら火伏せ・防火の神だが、
西郭(稲荷社)西面の箱堀状?地形

愛宕・秋葉の信仰は一端火が出れば一転:雨乞いの神になるのかも・・?。 朽ちた祠の背後の土檀(4x5m程)は櫓跡。此の主曲輪の南北に其々1条・西側の副郭(西曲輪)北面にも 2条程の竪堀を見る。櫓台からは浅い堀切土塁を見て、東に続く登り尾根手前に大堀切を見る。折山?山頂部にかけては未確認だが遺構は無さそうに思えた?。以前なら躊躇することなく 折山?山頂を目指し進むが、
西郭の尾根西端近く:土塁・堀切

前回と同じ轍を踏んで東中山城に向かった失敗!!?も有って佃城の後は折山城の東西・二郭を訪城しただけで疲れ帰路についた。前回は雪の為行き着けなかった井根城も遠くない位置に在るのですが…
【綾部市観光協会:綾部の文化財を守る会現地案内板 綾部市遺跡地図 1998.3市教育委員会 を参照】


井根城(井根砦)  xxx山  Ca175m  綾部市井根町奥山・寺の段

R27号から上林川沿いに府道1号線 (小浜綾部線)を走り、赤坂城・沼ヶ谷城
・赤道城・梨子ヶ岡城を、先日は東中山城・佃城・折山城への訪城は上記にレポートしていますが、府道1号線の十倉交差点(折山城へ向かう分岐点)の約1km先で、河牟奈備神社の西手前約1.2km:井根口から北方へ井根川沿いに進む幅狭い地区道を進むと、辻堂橋で谷沿いは農道になる。 橋を渡り更に細くなる車道が屈曲して急斜面を登っていく。丘陵側は高く垂直に切り落され、車幅一杯の車道が斜面に沿って左カーブしてゆく。
井根集落入口の高台に位置する稲荷社

切岸を割って付けられたコンクリート階段上部に稲荷社と観音堂?らしい建物。 其の北側に数軒の集落が肩を寄せ合うように建ち田圃が拡がる。稲荷社は集落への入口にあり井根川沿いに進入する唯一の谷筋道を見下ろす高台に位置して、 見張り警護する砦として堅固なゲートとして立地している様。稲荷社裏(北側にNTT/DoCoMoの無線中継施設が建ちフエンスに綾部井根寺ノ段の字名が架けられている。
民家背後の丘陵上に井根城(砦)が在る

集落の中央奥には聖武天皇の天平19年(747)行基により、 自ら刻んだ聖観音を本尊とした開基を伝える”中照山日円寺(高野山真言宗)”が建つ。力蔵坊・明王院等の十九坊及び七堂伽藍が造営され隆盛を誇ったが、やがて衰退しゆかりの人・帰依し力をかす者も無いまま荒廃、醍醐天皇の代(898-931)空也上人により 再興されたが、天正年間:織田信長の丹波攻略では主将:明智光秀軍の兵火に罹り堂宇は悉く焼失し、僅かに本堂・地蔵堂・山門等が遺る。周辺には寺の段・塔跡・仁王門跡 ・奥の坊・湯屋・仁王堂の坂等々の地名が残るという。
井根城登城口の石造五重塔(日円寺の塔跡)

日円寺とは小谷を挟んで西側に、北方へ延び上がる低丘陵があり南先端部の民家脇から 裏手に廻り墓地に通じる山道がある。墓地とは尾根を挟む東側の平坦地が日円寺塔跡と云い・中央部に五重の石塔が遺り、周辺や塔の前面(南側)に残る石が塔の礎石と思われます。 五輪石塔の背面・塔身には線彫の宝篋印塔(笠の隅飾突起が大きく外に反っているので 室町以降-江戸時代の造立か!!?、彫られた宝篋印塔の塔身には梵字の月輪まで描かれている)が刻印され、正面には肉彫された仏像の座造が刻まれている。
井根城(砦)主郭:尾根続きの大堀切

四方仏ではないので・南に面しているが釈迦如来座像なのかは不明!!?。井根城(井根砦)への登城は此処から始まります。尾根筋に沿って何箇所も石仏が祀られているが、 随所でよく見かける四国や西国観音霊場巡りの大師道では無さそうで、二体ではなく3-4体が並び祀られている。石仏群は井根城主郭から大堀切を越え、城域を外れて更に尾根筋続きは蓮ヶ峰(八葉ガ峰・八衆ヶ峯)へと延びていく。 君尾山-蓮ヶ峰-弥山山へは嘗て山岳宗教の修験道の山駆けルート。 行基菩薩が:山容を”八葉連綿して蓮華の如く・・”と表して、
井根城(砦)主郭:尾根続きの大堀切

此の地に日円寺を開創した山が蓮ヶ峰だったのでしょう。丹波修験の回峰行【君尾山の光明寺・弥山山の金峯神社 ・中間部の蓮ヶ峰には日円寺・施福寺(日円寺同様に行基の開基・空也上人の再興 )に参籠(?宿坊)施設があり、此れ等の寺を起点として、其々の修験のコースが設定されていたのでしょう。其の一:日円寺塔跡の石造五輪塔から石仏を祀る山道を辿り、 南西枝尾根との合流地点に着く。
井根城主郭:南西枝尾根上の小曲輪段

此処に在る石仏群を挟んで、僅かな低段差で主郭!!?に乗るか、そのまま直進する幅広く長い平坦地形(幅約8-12m程・長さ約40m程)の道筋が、正面の深い堀切まで延びる。右手(東側)一段低く帯曲輪が堀切まで続く。井根城における唯一の城址遺構は此のU字状に幅があり ・深く長く堀込まれた大堀切。堀切を渡った先に石仏が・更に幅広く緩斜面の登り道は蓮ヶ峰へ続く修験の道の名残か?。
井根城(砦)主郭

引き返した主郭部の石仏から南西枝尾根側は尾根幅は狭くなり藪っぽい。低い段差の曲輪が続くが、其れも直ぐ自然地形の緩斜面から・いつしか急斜面に消える。 凄い遺構を生々しく遺す堀切からは中世後期の築造を思わせるが、曖昧な曲輪群と縄張り構成からは寺院関連施設か、?領主の砦にしては辺境で且つ偏狭の奥まった位置に築かれている事に 築城目的や性格を探ってみるが判断出来ない・・!!。
(日円寺 綾部市観光協会:綾部の文化財を守る会現地案内板)

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