自動車専用道路に消えた城砦と黒井城付城火山城・ 東中城・河津館・惣山城・棚原城
兵庫丹波市(五万図=篠山)
近畿の山城: 火山城 東中城と河津館 惣山城と棚原城 愛宕山砦と平松砦
三尾山東裾を走る舞鶴自動車道:高架カーブ付近下部に河津館

中国自動車道吉川から丹後 ・舞鶴若狭方面へ自動車道(1991年舞鶴西まで開通)や、春日ICをジャンクションとして但馬豊岡方面に抜ける北近畿豊岡和田山自動車道路(2005年春日IC〜氷上IC間・翌2006年には和田山JCTまで兵庫のじぎく国体に併せて)が通じているが阪神間-兵庫丹波間に関しては
土取りで消滅した火山城と火山古墳群

高い高速料金を計算に入れなくてもアクセスが其れほど便利になったとも思えない。丹波を素通りする自動車道路は、 その経済産業の物流や文化交流等を余り享受することも無いまま但馬・丹後へ抜ける橋桁となっているだけの様な気がしてくる。
東中城:二重空掘と内側空掘りから腰曲輪へ入る虎口部

これ等の道路建設・宅地や圃場整備計画によって埋蔵文化財の発掘調査が実施され、各所で幾つもの新たな発見がなされ、記録が残されると共に 調査後は現地報告会等が実施されても、殆どの人の意識からは知られることもないまま消滅していきます。その様な遺構の中に火山城や東中城の存在を知りました。しかし何も無いと思えた東中城に比定出来る城は 分布地図にも記載のない別場所に歴然として中世後期の城遺構を残して存在していました。


 火山城 城と河津館
 惣山城と棚原城 愛宕山砦と平松砦

火山城   火山? Ca160m 丹波市春日町平松字火山

黒井城への立野交差点を過ぎて R175号を200m程・T字交差点を右折し茶臼山城の裾を抜けて県道69号(春日栗柄)線に入り R483号線【北近畿(春日和田山)自動車道路高架を潜ると自動車道右手奥の丘陵先端部が自動車道路建設の予定地と道路工事用の土取りの為に尾根先が削ずり落とされ山肌を見せているところが火山古墳群・其の最高所付近には 古墳のマウンドを城域に取り込んだ火山(ひやま)城が在った。以前から付近一帯には城砦や古墳等、遺跡の存在する可能性が高いところとみられていて 平成7〜9年確認調査が実施されています。
自動車専用道に接する火山城:正面に向山連山・左手奥は高尾城

10数基の古墳(小型の円墳で其の多くは木棺直葬墳の様です)が尾根上に並び、途中から急斜面になるが調査範囲内の最高所に二基の古墳があり此処に中世の城遺構が検出されたという。しかし此れ等全ての古墳群・城砦遺構は 北近畿豊岡自動車道で寸断され南の山側斜面は完全に土取りで削り取られて消滅し荒れた平坦地が拡がっているだけです。 山城遺構は道路工事による土取りで削りとられ、其の存在さえ消滅しているため全面的に調査報告書による実測図と解説に頼らざるを得ないが、
火山城側:専用道側から黒井城遠望

正面に黒井城 千丈寺砦を望み黒井城へは北方約2.5kmの位置・東方へ約600mには目立つドーム状の茶臼山があり、明智光秀が黒井城の向城として築いた 茶臼山城の遺構が山頂部に残ります。西へ約1.3km程に在る朝日城に見るような 曲輪 ・堀切・畝状竪堀、光秀陣城として築かれた茶臼山城の様な虎口を備える織豊系の陣城等の構造からは大きな隔たりがあるという。山頂部を中心として南北約55m・東西約0mの範囲には尾根状に階段状に曲輪を並べ、 斜面に小曲輪・西面には帯曲輪を設けているが土塁・堀切・虎口の様な防備施設を伴わない単純な構成だといい、 背後の尾根筋鞍部にみる通路状の掘り込みも明確に尾根を遮断する遺構とは考え難く、さらに高度を上げて南東部の裾にある萬松寺へ延びる尾根上部に遺構は無いという。
火山城の一つ東尾根筋:山ノ神を祀る桜?の大木

萬松寺の東側:半独立丘陵上の茶臼山城ともに「黒井城攻め」明智方の向城として結びつける証拠は認められないが茶臼山城からは 柏原・石生方面から黒井盆地内に回り込んでくる西面部の見通しが利きにくいので火山城が其の監視砦(茶臼山からは600m程と近く、山頂までの比高も40m程と低いうえ、尾根筋西斜面上の帯曲輪は西方に見晴らしが利き、 黒井城側からは動きが見え難いので出曲輪)として 利用できるのでは…!!、茶臼山城ともに黒井城に正対する最前線の陣城の一つと思えます。出土品についても小皿・鍋・擂鉢等の供膳具や調理具のみで壷・甕等の貯蔵具の発見がなく一時的な活動拠点であったとみられ、黒井城等と有機的な関わりをもっていたか現時点では判断できないという。山頂部からは 15〜16世紀にかけての須恵器等が発見されているようだが時期を限定できるほどの資料ではないという。
向山の北山麓:晴れゆく霧の下・自動車道の間に火山城が在った!

建武2年(1335)足利尊氏より丹波国・春日部庄や播磨国伊川庄等20余の所領を与えられ建武4年(1337)その居城を黒井・猪ノ口山に定めて城を築き、応仁の乱後・荻野氏に変わるまで約120年の間、春日部荘を領有していた赤松貞範 (円心則村の二男)の黒井城(砦)と呼応して黒井川・竹田川対岸に築かれた城砦群の一つとなっていたのか、更に応仁の乱後:荻野氏が春日部荘を横領して・本拠城の朝日城近くに砦を築いていたものか、 尾根の末端部分に比高も低く・防備性の弱い砦ではあっても、竹田川沿い南側の平野部の地質も考慮して考えたいところです。現状からは想像もできないが、中世期の当時一帯は湿田・沼田だったので正面(北)からの攻撃は難しいが背後 (南)の丘陵上から攻められれば・一溜まりも無さそうで、落とすに値する程に重要視される事もない臨戦時の砦だったのでしょうか。
【(火山古墳群・火山城跡・火山遺跡)北近畿豊岡自動車道建設事業に伴う 埋蔵文化財調査報告書 兵庫県文化財調査報告を参照】


惣山城と棚原城
惣山城
 惣山 Ca140m  丹波市春日町奥野村
棚原城
 点名:棚原4等 198m 丹波市春日町奥野村・棚原

野上野城.・ 野村断層のレポートに触れているように、織田信長の「丹波攻略」には天正3年(1575)第一回目の 黒井 攻めの際には明智光秀が春日部荘(野上野・棚原・長谷・野村・多利等の村々)一帯に侵攻して 小富士山に陣を敷き、各村内の要所に付城を築いて拠点としています。 黒井も春日部荘【丹波志では否定されているが…!!】内にあって黒井城の直ぐ足下にまで攻め寄せて来ており、
奥野村の春日神社(背後の杜に惣山城が在る)

黒井城に繋がる尾根先の砦も落城後は付城として利用されているよう。春日部荘に隣接の三井荘の一部は 大山荘・中澤氏の所領でもあり、上三井庄の大路城には二階堂秀香(八上城籠城・落城時の城代・秀治の義弟)が居城して当初は光秀の丹波攻めに従っているので、福知山側から大軍で侵攻する主力が小富士山に陣を置き、 南の栗柄峠側から波多野氏ら光秀方に付いた
断層崖を見せる総山北西部(岩頭頂部に惣山城)

丹波国人領主等の春日部荘への侵攻?は容易だったと思え、一挙に黒井盆地の南部を押さえ茶臼山に陣を敷き 左右の丘陵にも本拠の黒井城包囲・監視の拠点として付城を築いたものか…!!。春日部荘の総社は野村に在る春日神社で大和春日神社の荘園だったところ。 現地:県教育委員会案内板(平成元年10月)によると春日神社は春日四座並びに天押雲根命・豊受姫神・菅原道真・誉田別命が合祀され、
浅く短い堀切

五間社流造の社殿は全国的のも類例が少なく兵庫県下唯一のものといい、神社形式の変遷を知る上で貴重であるとされます。神社背後の丘陵が野村断層・しかも其の丘陵頂部には毘沙門天と大黒天を祀る社殿が建つが此処が惣山城。神社の建築様式や建物細部の絵・彫刻はその手法から 江戸時代初期を下らない頃のものとされるが観察している余裕もない。
主郭部は無線施設で壊滅

神社は光秀による天正3年〜7年の丹波攻めの際に兵火に遭って焼失、其の後再建されたと伝えられる社殿は県の(昭和52年3月29日)指定文化財です。春日神社は陣所の一部として利用されたと云い小さな独立低丘陵・惣山を背に建っています。神社南端からは50m程・だ貯水池(新池)側を廻りこんだ所には露岩を見せて表面観察が出来る史跡野村断層(高さ30m・幅約20m)があり 惣山の北末端に突然現われる屏風の断崖は西側裾を流れる溝谷から障壁を並べ古池(貯水池)から南へ廻りこんだ所・
棚原城:主郭部西尾根の露岩は眺望絶佳の展望台(下に写真あり)

新池(貯水池)との間の狭い地区道側に「野村断層」の標識を見ます。チャート(珪石)の断層崖を形成して 新池の東側の低丘陵・点標名:棚原に延びていきます。新池を北下方 50m程で先程の春日神社。池を東へ廻りこむ対岸にも 露岩の断層崖が見えており、此の細長い低丘陵の最高所に【4等三角点・点標名:棚原198m】棚原城が在りました。
主郭部東に残る削塀段


棚原城
【三尾山城と黒井城の間にあって、 矢継ぎの城の伝承が残る尉ヶ腰城も竹田川を挟んで棚原地区にあり 棚原城と呼ばれます。尉ヶ腰 (城ヶ越城!を棚原城と呼ばれる事も・訪城する人もないと思われます。 奥野村と棚原境にある此の山城に適名が見当たらないので山頂【4等三角点 198m】の点標名:棚原を採っても尉ヶ越城(棚原城)と混同される事もなさそうです!!?】
西尾根の露岩は当に黒井城(正面)監視と茶臼山城(左上)へ通信の砦!!

史跡:野村断層から新池堤防沿いに東側に見える断層崖を目指します。露岩下部で鹿猪除けフエンスを開閉すると 稲荷社への赤い鳥居のトンネルが続く。2段の曲輪跡と思える平坦地には夫々に携帯電話会社の「春日」中継塔と春日町防災行政無線施設「棚原中継局」が建てられています。 左手にチャートの断層崖が続き特徴の鏡面を見せて自然要害の城のイメージを強めます。
惣山城主郭東:越曲輪下二箇所の断層崖岩頭は見張台!!

稲荷社の祠から断層崖北端に続く踏み跡は露岩の大きな空洞に通じ、よく有る山岳修験の荒廃した祠・これも斜頚して不安定ながら持ち堪えている?燈篭が一基立つ。大峰構先達と思える方の大峰登山記念の祠なのかも…稲荷社から続く山道を進んで三叉路のコル(鞍部)に着く。北へ見下げる様な急斜面に鉄パイプの手擦り付きプラ階段が山頂にある無線施設へ延びる。この鞍部へは東の春日学園前からの林道経由で 巡視路が通じているようです。
毘沙門堂の建つ惣山城主郭と東側の腰曲輪

棚原城城域は山上部の二つの施設で 破壊されていると思える曲輪が占めている様だが東端部に7〜8uの2段程の平坦地があり春日学園側へ降る東尾根直ぐ下方約30m程には城域区分の為か下草を刈り取ってやっと判断できる?程度の浅く短い小規模な堀切がある。山頂施設から西尾根は露岩帯。断層崖の岩頭に立ち付城を体感してください 。遮るもの無い北方に黒井城と千丈砦・眼下に野村城・断層丘陵沿いの西に春日神社と惣山 ・茶臼山城が黒井城に対峙して間近に並ぶ。
惣山城主郭南東角の竪堀

惣山城棚原城から春日神社に戻り史跡:野村断層の崖上と惣山に通じる 裏(北)の凹角部沿いに斜上してみます。断層破砕帯の侵食による横掘状の地形的な凹角部(ケルンコル)が谷底部に残るが露岩部も無く平凡な山道で・其のまま西側の古池(貯水池)へ抜け出せそうです…が西端の斜面は数10mの断層崖!の筈!?。まさに切り離された独立断層丘陵 (ケルンバット)の鞍部(ケルンコル)からは

惣山城:茶臼山城との連絡道?:枝尾根沿いに 3〜4本の畝状竪堀

急斜面でもない丘陵尾根筋を7〜80mでチャート断層崖上の岩盤を削平して築かれた惣山城はケルンバットの城!!。此の様な断層崖を自然を要害とする城を全国的にリストアップしてみると 結構多いのではと思われる。長方形の主郭部は南北約60mX東西約18mで、毘沙門堂が建ち大黒天も祀られる。此処へは西の集落から溝谷に架かる民家側の 西北端から直接崖に向う踏み跡(サイレン塔に出るが櫓跡か?)から主郭東下段の腰曲輪に向うか、大黒橋から直上する長く急な階段を上り切った所に立つ
惣山城:主郭西面下方から畝状竪堀

毘沙門天の鳥居を潜れば主郭。毘沙門天像は盗難に遭って、此処には無く・今は別の場所に祀られています。登ってきた南尾根側の東側に竪堀を、 石段道との間の西斜面に三〜四本ばかり畝状に竪堀が走っているのを見ます。 此の主郭下の東北端部に越曲輪があり、北端の小曲輪への連絡通路となり、北東端下方も断層崖・岩頭部が自然地形の見張所か?。

東中城と河津館
東中城 xxxm  丹波市春日町東中

R175号線から県道69号線(春日インター入口‐栗柄峠・鼓峠に向う)に入る。特異な山容の三尾山城 【「丹波の赤鬼」黒井城主・赤井(荻野)直正の弟 赤井刑部少輔の城で、但馬竹田に出陣中に落城、病死した兄:直正に代わり黒井城城代として劣勢の丹波武士団を最後まで指揮しています】が姿を見せるが直ぐ手前の岩稜尾根が張り出してくる。
東中城遠望(左手の高速道下隧道を潜って取付くが?)

長谷山で此処にも 高尾城(長谷城)があり東山裾にある岩戸神社本殿裏にも切岸加工の削平段を持つ岩戸神社城があり 城主:秋山修理太夫の居館と山城セットと思えます。露岩を積み重ねる急斜面の尾根筋を詰めた山頂部付近にあって、八上城の波多野氏が氷上郡内(丹波市)に攻め込んだ 永禄年間か?天正期の「明智光秀による丹波攻め」の際だったかに味方の救援も得られず落城した悲話を伝える高尾城です。
自動車道に寸断され壊滅した?東中城付近

東に広がる盆地の奥に国領温泉(丹波市唯一の温泉)がある。「山の神湯」と呼ばれた鍋釜持参の 湯治湯だが大正期に村営として再開発され数軒の旅館があったが現在は料理旅館助七が一軒だけの秘湯。 国領地区からは県道69号を離れ、舞鶴若狭自動車道に沿う山手側(西)の間道を進みます。歩き始めて直ぐ古い石道標を見る。 「右:大坂 左:山みち?」此の道が瓶割峠を越え鐘ヶ坂〜篠山大山〜摂津三田・大阪へ通じる道。栗柄峠から多紀郡(篠山市)へ、
東中城東の山裾に、 法然上人古跡の阿弥陀堂?

鼓峠へ向かえば天田郡(福知山市三和町)へ通じる要衝と間道:瓶割峠への通行監視を兼ねた城砦だったか。瓶割峠への道標をみて自動車道沿いの南に採石場が見える。東中城の位置が遺跡分布地図で見ると此の採石場東側か ら自動車道を僅かにはみ出す丘陵部の先端まで 150mx250mの範囲内で須恵器・陶磁器等が採集されたとされています。林道と並ぶ自動車道下の隧道を北側に抜けて 丘陵部へ登り直してみるが砂防工事によるものか数段の段差で
東中池から”本当の東中城”を望む

稜上まで道路側は全て削られ、 対北側の急斜面に雑木・竹林が続くが平坦地は無さそうです。自動車道に沿って 東の東中地区側の雑木藪の急斜面を下って御堂の前に降り立った。東中城との関わりは不明ですが建久3年(1192)xxxxx法然上人旧跡」の石碑が立ち、御堂の端には「くすり井戸」・そばには小さな祠「薬師堂」が祀られている。本堂?らしい建物は阿弥陀堂だろうか。法然上人60歳の時なので布教活動に巡錫中此の地に立寄られたのでしょうか?。
主郭西の堀切から北面を廻る横堀

この年・此処に浄土宗の寺が建てられたということだけなのかも?。東中城は遺跡分布地図の備考欄にもコメント記載は無く、規模や遺構・城史一切が不明です。其れだけに隣接して(舞鶴若狭自動車道沿い東に300m程)存在した河津館も、 東中城として城史:伝承が混在していることも考えられます。
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●ホントの東中城!!?は此処に在りました。 城山 Ca150m   丹波市春日町東中

旧氷上郡埋蔵文化財調査報告書の遺跡分布地図の東山城に城遺構はなく、記載された位置より東約250m津館(河津屋敷)の在る東中池の西北部からさらに北方に延び出す低丘陵東先端部に二郭から成る小さな城館だが、集落内に良好な残存遺構を残しながら・今まで誰に知られる事も無く崩壊や近世の土地改修により 消滅する危機も無く現存している。
主曲輪南端は二重堀切と高い切岸で遮断する

東中城は西方に柏原〜鐘ヶ坂を越えず、国領から瓶割峠を越えて篠山・大山〜摂津へ通じる道、北から東には栗柄峠に出て多紀郡(篠山市)へ、鼓峠へ向かえば 天田郡(福知山市三和町)へ通じる 要衝の通行監視を兼ねた城砦と思えた。しかし発掘調査までされ位置が確定されている筈なのに城遺構が見つからないことが残念で諦め引き返していた。

二ノ曲輪と主郭西を空掘が廻り南端の堀切に繋がる(堀切から)

奈良文化財研究所の遺跡データベースでは此の位置が地図上に示されているので 県や市教委には何らかの資料・調査報告がなされているのでしょう?。前回:城遺構らしいものを何も発見出来ずに降ってきた「法然上人旧跡」の薬師堂を出たところ、 小さな神社前から三尾山を眺めたが(上記レポート添付写真を参照してください)
主郭西面を遮断する大堀切は主郭北ー東端まで横堀となって延びる

其の正面:焚き火の見える民家の裏手に見える超低丘陵(比高約20m程)が目指す東中城でした。此処からは高低差を感じる事も無く半独立丘陵の西部を通る1.5m幅の道が東中池に抜ける。北側の斜面上方に大堀切と主曲輪南端の高い切岸(8m程)が見える。西面の横堀は二重になっており大堀切に繋がり南側へ竪堀となって落ちる。竪堀は竪土塁を挟んで隣にもう一本の竪堀が走る。
主郭東:帯曲輪が二ノ曲輪を繋ぐ

地元では丘陵部を城山と呼び城域西側を抜ける山道は旧街道筋だったと聞いた。 東中池の西側沿いは河津館址を通り、池の東側は高い堰提沿いに抜けると南端で佐仲峠へむかう車道(途中から登山道だが県道289号で小坂・西紀に繋がる)に出る。 篠山歩兵連隊が福知山への夜間行軍訓練等で利用する際には城域南を通る此の道を使用せず、
主郭南西端:堀切は南に竪堀となり、竪土塁を挟み竪堀が敷設される

道路改修が伴ったと思えるが城域北側を通って 集落西北の県道69号線(春日栗柄線)に出てR175号線の塩津峠越えで行軍したのでしょう。遺跡分布図に示される位置の東中城について・城域の規模や遺構 ・城主等の城史一切が不明です。此処・東中城も是ほどの規模と遺構を残しながら、遺跡分布図にさえ記載のない謎の城砦です。しかも丹波市の城遺構には珍しい横堀 (しかも二重横掘)が主曲輪と二ノ曲輪(広い腰曲輪)の二郭で構成される城域の東から北面を廻り西側の大堀切に繋がり南側へ竪堀となって城域を囲っています。
二ノ曲輪から櫓台と主郭の切岸

二ノ曲輪には櫓台(壊れた小社の祠の壇石が残る)、北面の「法然上人旧跡」薬師堂側の畑地から短い竪堀を二重 堀切に入る堀底道から、 主曲輪の高い切岸と二ノ曲輪の櫓台の間にある凹郭部が大手道か?この虎口部付近が二重空掘りとなっており、二ノ曲輪に入る部分の内側空掘は鋭角に屈曲していて、 東側から空掘に進入してくる敵に対して横矢掛になっています。
主郭から切岸下の虎口と二ノ曲輪櫓台


横堀が切れる二ノ曲輪(北の横掘から入り、南側の帯曲輪へ廻ってから主郭東端の櫓台傍へ入る虎口受け曲輪でもある)は、東側の急斜面(約10m程で下は 民家と畑地)に2〜3本(一本は地層崩れかも?)の竪堀が、南面も西端にかけての細長い帯曲輪から数本の竪堀が走る。河津館が天正年中に落城したが三尾城主:赤井刑部幸家の客分河津氏の居館であった様に、 更に堅固な縄張りの東中城は赤井幸家が黒井城城代としての留守中 ・
城域北面・土塁を挟む二重横掘

三尾城の城代として残っていた赤井氏家臣柳田左衛門尉弘重が居城したものか?。部将玉置三郎兵衛等の三尾城留守部隊が河津館に分散して?拠っていたとも思われます。柳田姓・玉置姓共に丹波国人に聞きなれない姓で、縄張り特性からも天田郡や何鹿郡から黒井城主赤井(荻野)氏方に参軍・駐屯した援軍部将等による築城なのかもしれませんね。三尾山城と河津館・東中城は居館と 詰め城の関係が考えられ、東中城も居住性は高い。
城域の西を囲む二重空掘

強固な城の改修は古参の久下氏の玉巻城さえ許されていなかったようですから…客将:河津氏に三尾城に籠らず東中城築城を許したとも思えない?。此処は土塁囲みの曲輪ではないが、空掘りを廻す口丹波の穴人館(南丹市)や竪堀と空掘りからは猪倉城(亀岡市)に 感じが似ているように思える(縄張りを比較したわけではなく単にその様に感じただけ)。
二ノ曲輪から主曲輪の切岸(約7m)

丹波市で此の縄張りに似た城は少ないが虎口の形状等から織豊系とされ横掘を駆使した岩倉城、深い堀切と横掘りで 曲輪を囲む前木戸城等が挙げられるがいずれも丹波の土豪の城ではなさそうです?。竪堀も少ない丹波市側の城ですが 朝日城や約7km北方には 畝状竪堀を残す長谷山城等もあるが多紀郡(篠山市)波多野氏や内藤氏・三好氏が氷上郡に侵攻してきた時期に築城され、 其の後に入った黒井城主:赤井(荻野)氏配下の部将により改修されたとも考え難い?。
副郭(二ノ曲輪)北面:土塁を挟む二重横堀

茶臼山城の例はあっても明智方の向城として築かれたにしては大規模で、八上・黒井の両城攻めの最中では時間的な余裕や 余力は無かった筈。居城主だったとされる柳田左衛門尉弘重について調べてみるのが解明に糸口になるのでしょうが…!!何の調査による確証も・下地も無いまま無責任な推察です。

河津館(河津屋敷) xxxx 丹波市春日町東中

東中城とは舞鶴若狭自動車道沿いに東へ約300m、東中池の南端部と自動車道高架橋の下部に河津館があり 自動車道路建設工事に際し河津屋敷(居館)跡が発掘調査されています。東中地区は、ここでしか栽培できないとされる黒さや大納言が起因で 宝永2年(1705)亀山藩主(亀岡市)青山下野守忠重亀山藩主は次々変わるが久世家・井上家が一代で代わり、
東中池と三尾山:河津館は右手池畔奥から 道路高架橋手前付近

続いて元禄15年(1702)浜松藩から青山忠重が移封され、享保7年(1722)子の青山俊春・尼崎藩主の二男忠朝と三代続き、 後は篠山藩からの松平(形原)家が八代続いて明治維新を迎える。宝永2年ではなく寛永2年(1625)の記述が誤りでなければ青山下野守ではなく、初代亀山藩主となった大給(松平)成重の筈?。元和7年(1621)に移封され寛永10年(1633)死去している。 官位は左近将監】が小豆の優秀さに目をつけ一石あたり上納させ、その中からさらに精選して1斗を5代将軍徳川綱吉に献納した。 綱吉はその中からさらに粒を選んで 京都御所の天皇に献上したといい、その際 「大納言小豆」の称号が与えられたと云われます。
河津館:西面に長い土塁!!が続く

東中地区から東中池を経て山間を南へと山中へと登っていく舗装道は黒頭峰(くろつぼ)や夏栗山〜三尾山への尾根を越える佐仲峠を経て篠山市西紀町へ降っていく。 篠山歩兵連隊が福知山へと訓練の為に越えた道でもあり今は自然歩道としてハイカーに利用されている県道289号(下板井東中線)です。 県道とはいってもオフロード・バイクならなんとか丹波市側東中池から篠山市側佐仲ダムへ峠をクリア出来る?かもしれない道です。栗柄峠〜篠山へ、また鼓峠へ向かえば天田郡(福知山市三和町 )へ通じる要衝です。
クランクする土塁と空掘!!

東中城の位置から西に数百mを隔て河津館があり篠山・京都府三和町に通じる要衝・東中池側から 山手に向かい佐仲峠を越えれば篠山市に通じる間道でもあるが 佐仲峠からは尾根を辿れば嶮しい三尾山へ通じる。赤井直正の弟幸家の居城:三尾城から佐仲峠を降った三尾山西山麓の登城口にあって「丹波志」に三尾城主赤井刑部幸家の 客分河津氏の居館が在った所と云い天正年中に落城したとあります。河津氏の詳細は一切不詳だが明智光秀が大軍を率いた黒井城攻めの天正6年(1578)赤井直正が病死し、 弟の三尾城主:赤井幸家が城代として 黒井城に入っています。

河津館に見た手掘トンネルは東中池への取水抗!口

河津氏は幸家に付いて黒井城に入ったか・河津館に居残っていたものか?。幸家の三尾城には城代として柳田左衛門尉や部将:玉置三郎兵衛等が留守部隊として拠っていたと思われ、東中城には柳田左衛門尉弘重 (出自不詳?「丹波戦国史」だったか!!「丹波志 」)が拠って多紀郡(篠山市)に通じる佐仲峠を抑える要衝監視の任に当たっていたのでしょう!!。 昭和59年(1984)東中池の改修工事により事前の発掘調査が行なわれ、同時進行?の舞鶴若狭自動車道整備建設後の立地位置等、現在の地形図では示されていないので
東中池西:河津館土塁の延長線上にも続く 土塁!!?(配水溝か?)

遺構の消滅・残存状況が良くわかりません。南側と西側に一辺約85mの土塁と堀 (北側を欠いているが)を巡らせた正方形に近い方形館であり建物柱跡・宋銭や明時代の青磁等出土遺物から室町時代のものと考えられ「丹波志」の河津館に比定されています。拡張された池の東南部の湿地帯は水田跡か?、此処には土塁の残欠と思える大きな土盛がある。構保存の為残されたとは思えないが池改修時に浚渫不要部分だった為に削り残されたものか?反対に浚渫の土砂や発掘調査時に積まれて残されたものか?。
土塁残欠と見えたのは東中池配水用堤跡

自動車道高架下の東部分にある広い平坦地・南北に長い土塁状が続き 北西端がL字にクランク、外側は空掘状の溝が沿っている箇所等が居館遺構と思えます。なを東中池西側(自動車道高架)中程の丘陵側には、結構長くて立ったままでも入れる岩盤の手掘りトンネルがあった。坑道入口で鹿の骨を踏んづけてしまい、 目的も違うので中には入らず引き返したが、東中池への取水(引水)用の坑道として掘鑿されたものの様です。


平松砦
愛宕山砦<仮称>
  愛宕山? Ca140m 丹波市春日町平松
と平松砦<仮称>
     山? Ca163m 丹波市春日町平松

愛宕山砦<仮称>:
R175号沿い・稲継交差点から城山(乾ノ峯・向山・カマジョウジ山 198m) 【横田城<カンジョウジ城・乾ノ山城・城山城>】トンネルを抜けると
平松 愛宕山展望台(櫓台?)からの黒井城

黒井盆地の中央を黒井川が東へ流れ北方に黒井城を望み、其の南山麓の興禅寺から行者山砦前へと、平地を屈曲して抜ける旧街道筋は中世の城下町。此の付近から 兵主神社西砦・稲塚砦<仮称 未訪>・古河や牛河内の荻野・赤井方の城砦群があり、三次に渉る明智丹波攻め「黒井城攻略」の合戦では :第一次会戦(天正4年)に黒井川を挟んで明智軍と対峙して沼田・湿田帯へ誘い込み
展望台・遊具も置かれた山上郭

合戦となった?伝承の白蛇伝説が葦原明神【現:若年神社】に残る。明智方は 朝日城平松砦・火山城(古墳主体?の発掘調査後・自動車道用土取で消滅)・ 茶臼山城・野村や棚原、西は石才や歌道谷(うとうだに)に包囲の陣を敷き対峙した。 山城ファンでも黒井城以外余り訪城記事を見ない城砦群のなかでも、未だ探索・調査にも取組まれていないと?思える明智方 茶臼山城を本陣として其の東西左右に配された向城(砦)があった。 黒井城正面(南)に位置する茶臼山の本陣に集結するため、
山上郭東西の一段下左右に小曲輪が残る

石生(いそ)方面から侵攻した妻木主計等が朝日城から平松まで進んだと思われる。7‐10程の付城や平場?…等の陣所に”はためき”並ぶ「みずいろ桔梗紋」の陣旗の林には黒井城に籠もる丹波武士団も、多勢に無勢を多少は?意識したかも。しかし未だ前哨戦!!。北近畿豊岡自動車道で分断されるが向山連山から北方に落ちる幾本もの尾根筋の内・平松区へ延び出してきた低い枝尾根が2-3本ある。
展望台(櫓台)への北尾根はロープ頼りの急登

廣見寺側と其の西には尾根先端部に送電線鉄塔を三本ばかり載せて 黒井盆地へ一番長く延ばす尾根がある。明智方の「平松陣」は此の愛宕山砦<仮称>と平松砦<仮称>として先ずは 春日町平松の平照山廣見寺(曹洞宗 丹波市春日町平松)背後の小丘に愛宕山砦<仮称>を訪ねる。広見寺駐車場背後から比高30m程の岩稜の丘陵上に「平松 愛宕山展望台」と表記され、黒井城を望む休憩展望所になっている。
土橋付き堀切

北の公民館側からも番小屋でもあったような二段程の削平地からも遊歩道が展望台に通じているが、 露岩の上の展望台への最後はフィックスロープを頼りの急登となる。北へ幅10m・長さ約30m程の平坦地は遊具(ブランコ)もあり児童公園にもなっているようだが、 平坦地の左右(東西)に一段曲輪が付く。平坦地の先・土橋があり西に空堀・東側は露岩部を崩した土塁状。その南先に・整地削平も曖昧な曲輪…
平松滝(不動滝)

その先は駐車場から西側へ尾根を越える空堀道状。此の先は斜面を少し登って北近畿豊岡自動車道境にでる。 登り斜面に二段ほどの曲輪状はあるが砦施設ではなさそう。山中に平松の滝と呼ばれる清冽な湧水があったといい・流れが淀むところを「月光水」と呼び、
自動車道境の平松砦側から愛宕山砦

風流を好むグループらの避暑地だったとも・寺の山号ともなった関係もありそう。円通寺の僧により曹洞宗として元禄2年(1686)開山された江戸時代前期の寺だが 既に浄土宗寺院…?として存在していた様。平松区名所の一つ「不動の滝」が広見寺とは空堀状の丘陵部を挟んで反対側・西裾にある。 不動尊は約50m上流(愛宕山砦の南端・北近畿自動車道付近?)に古へより祀られ、北近畿:豊岡自動車道建設用地内になるため建設省より勧告を受け、○氏私有地の提供を受けた事で・水脈等付け替えされ此処に再現されている。
平松砦:小曲輪群

平松砦<仮称>:
平松地区の南端から八幡宮側を抜ける直線距離で約400m程・北近畿自動車(春日ー和田山・豊岡線)沿いに簡易舗装路や階段が続く道路公団用の巡視路?が延びている。 其の歩道の「行き止り」が向山連山…から低丘陵尾根を北方の黒井盆地へ流れ出す、幾本もの尾根筋でも最も長いもので
平松砦:小曲輪群

R175号側に建つ商業施設のすぐ背後に迫る。黒井城攻めの明智軍が荻野・赤井方と対峙した第一次会戦(天正4年)時の主戦場?。荻野氏の朝日城を落とした 明智方は朝日城・平松砦・火山城(自動車道工事の土取で消滅)・茶臼山城・野村や棚原、西は石才や歌道谷に付城や陣を築いて黒井城を包囲して対峙している。 平松砦は同じ平松区の愛宕山砦<仮称>と平松砦<仮称>二ヶ所を指すものかは推察ですが
平松砦先端部の中程には竪堀…?

、縄張りからは一城別郭の容相に思えるが、共に呼応して愛宕山砦<仮称>が監視の砦、平松砦<仮称>には東斜面に20数段の雛段状曲輪が連続する。朝日から棚原にかけて・荻野氏(朝日城)領内の百姓らが有事の際・背後の丘陵部にしか逃げ場のない為、此の雛段状曲輪は平松区の農民らが一時退避した”逃げの城”的要素があったのかも?…。 明智方が付城として利用し・イザ野戦の際の出撃に備え待機する将兵等の兵溜まり…か!!?。
平松砦先端曲輪の切岸?(土取による崩壊?)

此の位置からなら城域北尾根先端から攻撃に移るより、敵方からは見えにくい城域後方から愛宕山砦との間・八幡宮側から平松地区を抜け黒井城へ進攻する正面中央突破口に当たる。平松砦の縄張りは自動車道側の簡易歩道の長い階段道からの緩斜な尾根筋(東斜面に階段状曲輪群)上部を過ぎると、 長い緩斜面は先端付近の削平粗い2段程の曲輪(先端部切岸は明確だが…!?)と物見台らしい付け根部分東側に短い竪堀状をみる。
平松砦先端丘陵からの竪堀を下り稲荷社前に降りてくる

竪堀状は10数mと短く、後は幅狭い山仕事道?だがすぐ下方で民家側と、緩斜な林の中に稲荷社・さらに八幡宮に至る参道となる。平松砦の後方・兵溜まりからは 此の緩斜面を伝い出撃したものか?。また朝日城と愛宕山砦(共に約140m)のほぼ中間位置に平松砦(163m)があり、三砦間の相互連絡にも機能したと思えます。

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