本誌より移転・追加修正
大谷山〜波賀尾岳(嶽) 少将山城! 大山城・一印谷城・長安寺館 
篠山市 (五万図=篠山)  川代渓谷〜やきもち坂〜大谷山〜波賀尾岳392m H14年09月15日
校歌の山 : ♪・・波賀尾のふもと露しげき 教えの庭に誉れあり…♪大山小学校
丹波の由緒(年中行事): 池尻神社の人形狂言
近畿の山城: 大山城  波賀尾城 少将山城 一印谷城  長安寺館(屋敷の上)
川代渓谷(峡谷)

篠山川は舞鶴自動車道とJR福知山線・丹波大山付近で宮田川と合流して川代渓谷を経て加古川へと流れ出るが、ほとんど高低差の無い地帯で僅か 1Km程の流れが南に変われば篠山川は武庫川へと流れが変わったかもしれない。山南町から県道 77号から国道176号線の大山下へと JR福知山線と並行に篠山川を隔てて走る約4kmは両岸に奇岩や絶壁が続きゴルジュや淵・岩間を縫っての急流と絶景が拡がります。桜の名所でもあるが篠山川の 全流域の長さと高低差を考えれば貴重な??存在です。
波賀尾岳から石戸山・高見城山方面

山への取付きは県道から国道に出るほんの少し手前の「やきもち坂」と呼ばれる小峠からだが、峠から300m程の大山下・分水界付近の名所案内を!!峠を下り始めると 篠山川に赤い水門が並んだ 川代ダムが見えてきます。大山川に架かる伊出屋橋を渡って直ぐダム沿いの細い車道が「桜の道」でダムの先には「メロディ橋」が有ってタッチセンサーで「デカンショ節」等を奏でます。 R176号線へ出た丹波橋で左折すると栗柄峠から春日町や草山温泉への97号となりR176号は小滝橋を渡る。此の二つの橋の間に少将山」古跡がある。 丹波国の中でも多紀の地は国の南端に位置して 山陰道の道の口にあって、周囲を山で廻らされているがその中にニ大標山(シメヤマ)【古代の民俗が聚楽(集落)地を求めて移動する際に目標とした特殊な山】があり、 一つが八ヶ尾山(畑山・三嶽山)で、もう一つが此処波賀尾岳だといわれます。
大山城主郭部の高い切岸(大山川沿い耕地から見上げる)

農耕民族が標として定める的山(まとやま・はがやま)なら、その東山裾に拡がる田園(荘園として有名 !!な大山荘)に注目すべきか。八ヶ尾山にしても同様ですね。波賀尾岳(嶽)は、本場駿州の富士山に似ているとのことで西行法師が「富士に似て ふじにはあらぬ大山の 波賀尾か嶽の雪の曙」と詠んだと中道文書(大山村史)は伝えています。


川代渓谷〜大谷山〜325m峰〜371m峰〜波賀尾山  2002年09月15日

川代の渓谷美を垣間見ながら篠山川に沿って山南町から 篠山市に入って最初の建物が見えてくると車道は右にカーブしながら峠(やきもち坂)を越して川代ダムの赤い水門を見ながら篠山市の丹南町に入っていきます。国道176号へ出て大山下から柏原に向って 走りだして先ず左手に・さして高くもないが目立つ波賀尾岳からの山並みを追って行くと 高畑〜馬頭〜金山へと続いていく。波賀尾岳なら大山新の神社マークから短絡コース がとれそうですが篠山川沿いの稜線を繋いで波賀尾山に向かうつもりなので、 やきもち坂手前の建物 大山浄化センタ建設中から北に農道を進みます(PM12:40)。谷間の奥に続く田圃の奥に波賀尾岳が見えています。田圃と山裾に続く道にはツリフネソウや萩等、 夏の名残の草花と秋の草花が咲いています。
県道77号近く農道からの波賀尾岳

15分程で大山北野からの農道に合流し・さらに山の奥に向かうが林道ではなく、ズット農地が続くようです。分岐から右下方の北野へ進めば「三子塚古墳」だとは後で知った。 間近に迫る波賀尾への取付きはよく判りませんが農道を少し先へ進むと西側の尾根に取り付く山道があったので此れを辿ってみる。尾根近くで踏み跡も薄くなったが程なく尾根に出た(PM1:25)。 目前の波賀尾の右に黒頭峰〜夏栗山とその間に三尾山が荒々しい山容の一端をのぞかせています。 小休憩の後、踏み跡も明確な稜線を辿って大谷山 (Ca340 PM1:30)に登り付いて一寸ビックリします。なんとMTBロールアウト大柿氏の赤布を見つけます。赤白の測量ポールがあるが三角点はない様です。 大柿氏は波賀尾岳〜井谷坪と縦走し大谷山より 三子塚古墳へ下るコースだが私はその逆コース。見晴らしも良くないこの山頂からは判りにくい下山ルートだが、山地図(国土地理院等)には載っているんでしょうか!! 10分程でついたピークから先で 北!!への尾根筋は急に細く藪になってしまい引き返すと西下へ延びる道があり直ぐにMTBでも走れるほどの道になる。さらに10分弱で(PM1:48)白い大山振興会の境界標識に大谷山を示す「千峰漫歩」のサインと左手に下って行く方向に大柿氏の赤布が有って間違いに気付かず 随分先まで進んで波賀尾岳の方向を確かめて、 慌てて引き返します(約15分程ロス)。
大谷山枝尾根稜線から波賀尾・黒頭峰・夏栗山とその間に三尾山の頭部

分岐から直進の尾根も波賀尾と井谷坪を結ぶ稜線までは快適で此処までも10分弱(PM2:08)で到着。 先ず井谷山迄往復するつもりで 西への道を辿ります。 尾根と脇道があり脇道の先に赤布を認めて、そちらに進み最高地点(Ca370 PM2:13)にたどり着きました。大山振興会の白いポール以外何も無い。 吊り尾根上の右端まで行ってみたが何も痕跡なく、 最高地点から先は南に向って急下降していくだけなので此処で引き返します。実はこの下降ルートの先に井谷坪(4等三角点 点名:井谷348m)が待っていたのですが、 井谷坪の位置と三角点だったことは 帰宅してから知ったが道理で大柿布も見なかった。しかし波賀尾山頂でも大柿布のプレートは見掛けない。 三角点峰に気付かず残念です。無名ピークから今度は尾根通しに引き返し大谷山への分岐 (尾根通し)の下を捲いて登れ返すと直ぐNHKテレビ共同受信施設のアンテナがあって波賀尾岳山頂 (329m PM2.55)へは此処から10分程で辿り着きゆっくりと展望を楽しみます。
波賀尾嶽山頂から金山〜馬頭

歴史的には標山(シメヤマ)として、また富士にも似てと…西行法師が歌ったと伝えられる波賀尾嶽だが、登山対象としては丹波の周辺の有名な!!?山々に 囲まれ殆んど知る人もいない不遇の山だが、反対にその有名な山々??の展望台にもなっています。先ず南側から東へ目を移していくと山南町の 天狗山〜高山、篠山市(今田町)境界の高山から平石、 白髪岳〜松尾山、太平三山(中尾・愛宕・三国)、高城山、遠くに 弥十郎ヶ岳、北攝の大野山はアンテナで同定出来ます。多紀アルプスの主峰・ 三嶽〜西ヶ嶽、小金ヶ嶽、 栗柄峠から御在所〜鋸嶽〜鏡峠へ続く稜線、手前に目立つ二つの山は 黒頭峰〜夏栗山でその間に三尾山が頭を覗かせています。 北から西へ目を移せば国道176号線を境に鐘ヶ坂から金山〜馬頭〜高畑山、 その奥に譲葉山と賑々しく顔を揃えて居並んでいます。 展望を楽しんだ後は下山ですが名前のプレートをつけた木々が続く踏み跡のある東下への道は、直ぐ小さな祠(秋葉神社を祀る)のところで二手に別れるが北へ下る道が明確です。 大山下の鳥居マーク辺りへ続く道らしく、山頂にもあった大山小学校の生徒達が登山行事に利用する道かも知れません。私は東へ伸びる尾根に沿って下る道を採り7〜8分も歩いただろうか!!「北野新田へ」の道標が残っていて、この山への登山者がいる事に一寸ビックリですが、その方向への踏み跡は薄く 既に嘗ての様に 登山で利用する人もいない様子です。
波賀尾嶽山頂から黒頭峰〜(三尾山)〜夏栗山


北野新田への道を見送ってさらに10分程、尾根を忠実に辿るつもりでしたが下方に大きな溜池を認めて、最初の溜池側へ降り田圃を横切って農道に出ます(PM3:15)。 スタート地点の農道分岐とは200m程とか離れていない地点です。「北野新田」がどの辺りなのか知らないが先の分岐道標ルートで降れば、此処へ戻って来る途中で「三子塚古墳」を見学出来たが…波賀尾嶽を背後に 望みながら再度、野辺の草花を愛でながら県道77号の駐車場所の「やきもち坂」下へと農道を戻ります(PM3:30)。


大山城 波賀尾城  少将山城 一印谷城  長安寺館(屋敷の上)

大山城 (出合城・出屋城・中沢屋敷(長沢屋敷)・中沢城・小山城)  篠山市丹南町北野城

JR篠山口からR176号を北へ走ると鐘ヶ坂トンネルを抜けて丹波市柏原町へと入ります。大山城はこの境界尾根・金山越え(明智光秀の金山城がある )の街道入口にあたり、中世:大山市場(市場橋が架かる)附近には"市庭(市場)"が立ち、大山川との出合いからR176号線”大山下交差点”を左折して篠山川 (川代渓谷)沿いに丹波市(山南町)を経て播磨へ通じる街道は交通の要衝として、 また戦略上重要な場所でもあり、此処に本拠地を移して城を構えた大山城(出合の城)がありました。
大山城遠望・大谷川(大山川)井手屋橋から

井出屋橋の 80m程北の西(右岸)・常楽寺跡の山麓は西に自然に出来た深い溝があり、東と南には大山川が深い谷と切立った崖を形成して守られた自然の堀となり三方を囲った河川段丘を利用した要害の地で、北に開けた平坦な台地を数条の空掘りと土塁で仕切った 七区に及ぶ曲輪を直線的に並べて形成された丹波では珍しく篠山市でも此処だけの平城です。
大山城主郭:南西側切岸

櫓台・虎口・武者隠し等の施設を設けた大規模な城があって登城畑・本丸・城・北門・横坂 ・堀・横堀・下ノ町 等の地名が残ります。丹波の大山荘は平安時代の初め・承和12年(845)京都東寺の荘園でした。 鎌倉時代・承久の変(承久3年 1221)の戦功により多紀郡大山荘の地頭職を得て、武蔵国(埼玉・那珂郡!)中沢郷(児玉郡児玉町・美里町附近!!)より、元仁元年(1224)来住の 中澤小二(次)郎左衛門尉基政が入部して池尻谷に(長安寺館)本拠地を構えたとされます。
大山城主郭・西の曲輪・北(左手奥)の空掘と櫓台・主郭と北には土橋

荘園領主の東寺とは 領内の支配権を巡って土地を競せっての横領や東寺に対する年貢も滞り、幾度も騒乱が繰り返されたようで、永仁3年(1295)に行われた下地中分( 一印谷城を参照)により決着したが其の後も一印谷での支配紛争が続いていた様です。城主が中沢氏から 長沢氏に変わった経緯は不詳ですが ・・・!! 鎌倉以来・足利室町幕府の奉行人として仕えてきた中澤氏と、隣接する丹波市山南町・栗作郷を賜った 久下氏とは共に関東からの入部で、丹波来住から足利氏の危機を助け、波多野氏や赤井氏配下に属して天正期の丹波攻めによる落城まで、同族とも思える程に深く関わります。
大山城:奥中央が、東下方の曲輪から主郭に入る虎口部

正慶2年 (1333)足利尊氏が丹波篠村での旗上げには久下氏が一番に駆けつけていますが、足利幕府の側近として京に仕えていた中澤氏の内示を受けていたからでしょうか?。鎌倉〜室町期「丹波の4強」として 久下・波伯々部・荻野と名を連ね、戦国期・中澤治部大夫は黒井城主・赤井直正の軍師であったと伝えられます。 波多野氏の台頭で久下氏と共に其の傘下に入り”波多野七頭”の一人となった明智の「丹波攻め」当時の城主は中澤孫十郎伯耆守重基といわれます。

主郭東南の切岸沿いに斜上する虎口部


(現地案内では中澤重基ですが、 波多野秀治の家臣で七頭のひとり長澤治部太輔(太夫)義遠とも!!?・・・さらには黒井城主赤井直正の軍師で有ったとも伝えられます。丹波史・太平記等で大山城主が長澤氏で中澤氏は 分家だと伝えられているようです。・・・が京都東寺の下知状等文書に長澤氏の名は見当たらないようです) 中澤氏が長澤氏に姓が変っていることに関しては「大山村史」「丹南町史」等で詳細研究を願いますが…?、此処では中澤氏として統一しておきます。
大山城:主郭より望む:雑木林内に曲輪・土塁と空掘有

幕府奉行人としての中澤氏は足利義昭が織田信長に追われる直前まで元亀2年(1571)まで奉行人として京都で采配をふるっていたことが確認されており、最後の奉行人・中澤備前守源朝臣光俊の奉行人奉書は多数現存しており、 中澤下野守元綱(永正年中:波多野氏と戦い討死しており、子か孫が名を引き継いだものか?)は長岡藤孝と連署して奉書を発行しています。”丹波攻略”の明智軍により落城しますが、口丹波(能勢〜亀岡方面の 一族が明智に帰順していたので、旧領地:大山に住み着くことが出来ました。しかし徳川の世になると徹底的な大阪方の残党狩が行われ、一族保守の為には中澤の総領ではないという事を、姓を変えても 主張する必要があったようです!!。その辺の事情は丹波笑路城発掘調査報告(亀岡市教育委員会)が採取した 長澤重綱遺書を解読する事で、ある程度納得できるものがあります。波多野七頭の一:長澤義遠(軍記:籾井家日記による組織には時代と城主名等で実在が疑わしい!!?)は 大山・別院の長澤と姓の転換をした人たちが、
大山城東下:主郭より広い曲輪(雑木林の中の空掘と土塁<配水用!!?>)

自分たちの長澤を遠祖とし、大山城主に仕立て上げたのが実情では?と推察されています…が 長澤氏を続けてこられた方も中澤小次郎基政・十郎成綱の子孫に違いはありません。
未だ落ちぬ篠山・波多野の八上城と氷上 霧山城の波多野一族を遮断し 黒井城の赤井直正を牽制する為には、その間にある鐘ヶ坂の金山を押える必要があったが 金山への途中には山陰街道(旧山陰道は篠山から鐘ヶ坂〜丹波市柏原町への難路を避けて 丹波市山南町を経て佐治川(現:加古川沿いに氷上町〜青垣町佐治)へ抜ける)の要所を押えて、 波多野氏方の中澤孫十郎 伯耆守重基が大山城を守備していた。「丹波攻略:八上城攻め」に八上城を落せない光秀軍は周辺の小城を次々攻め落しながら天正6年(1578)8月:板井城(西紀町上板井)を落とした 明智軍は大山城へ押し寄せます。
大山城本丸・北の空堀(武者隠し!!)と幅広い駐車位置の土橋


寄せ手には明智光秀と織田信澄・細川藤孝と子の忠興 (奥方は光秀の娘で後ガラシャ夫人)・丹羽長秀の軍勢です。織田信澄の家臣には藤堂高虎が参加しており先陣で活躍したようです。 高虎による篠山城の縄張りの立派さも"丹波攻め"に参戦して地理にも詳しかったからでしょう。 自然の要害で護られた大山城であっても 、これほどの大軍で攻める必要は無かったが、多紀・氷上の郡境に城をつくり両勢力を断つためには早く大山城を落す必要があったからでしょう。
大山城本丸・土橋から北の空堀(武者隠し!!)


迎えた大山城は刀や槍の戦いに対して 堅固な城だったようですが、近代兵器を前にしては全く無防備で、藤堂与吉高虎等の攻撃により大山城は落城、重基は家臣の向井左近の介錯を受けて自刃したと伝えられます。落城時の城主がだれであったかは 確定出来ないが史料としては、長澤治部大夫義遠・中澤伯耆守重基・中澤伯耆守重国・長澤伯耆守高義・中澤伯耆守基重の名が伝承として残っているそうです!!。光秀は急ぎ当初の目的として年内に大山城の北方に 金山城を築き黒井城の赤井氏と八上城の波多野氏の勢力分断を図ります。

(郷土の城ものがたり丹有編・現地案内板 篠山市教育委員会 参照)

波賀尾城
     詳細不詳

波賀尾山の山頂にある小さな祠は大山区には三社あったが唯一残っている秋葉神社です。
池尻神社(右手丘)・長安寺館(左手の平地)と波賀尾山遠望

此処には波賀尾城があり神社北の植林の中に土塁が残り、 城主に酒井党の酒井右衛門兵衛の名を見ますが詳細は不詳です。南山裾には中沢氏の大山城があり、亀岡・牧の長沢氏の古文書に此処に地頭の山城が有った記録が有るようです。また下記の少将山城は 明野城としての記録があり、中沢氏と長沢氏は・・大山城や少将山城とも関連ありそうです・・!!??



少将山城(少将山館・明野城・黒田古館) 茶臼山 Ca210m!  篠山市丹南町西古佐

篠山川沿いの川代峡谷を抜ける県道36号は大山下交差点でR176号と合流し国道を700m程南下したところで宮田川に架かる丹南橋を渡ったT字交差点に着く。左折すると西多紀アルプスの北麓を通って氷上・春日町や草山温泉を経て京都・三和町へ抜ける県道97号線です。R176号線は続けて篠山川に架かる 小滝橋を渡って坂を登るとJR福知山線丹波大山駅も近い。
少将山古跡のある丹南橋と小滝橋

宮田川が篠山川と合流する地点に架かる二つの橋の間に「少将山 」古跡があって、いつもは通りすがりに気になっていた説明版ですが今日はじっくり目を通します。 先に大山城に拠ったので井手屋橋から篠山川沿いに続く「桜の道」途中メロディ橋もあるので歩いてみます。丹南橋から東に続く独立丘陵の茶臼山Ca210mは少将山と呼ばれ、篠山川を見下ろす高台に位置しており 付近に琴弾の滝(小滝)があったことから 小滝橋の名が残されている。「西紀町史」には承安4年(1174)丹波守護藤原少将成経が 国司として居館とし正平7年(1352)後村上天皇を援ける為に手勢500余騎を率いて吉野に向かったという。翌・正平8年(1352)千種少将顕経が居城・後醍醐天皇の臣で、天皇からの兵を受け ”唐戸越え”で吉野の軍と応戦したという。
少将山・最高所平坦地から川代ダム

元弘3年 (1333)天皇が隠岐島から脱出した際・顕経ただ一人を伴って脱出に成功したという。黒田古館とも呼ばれ:黒田村の丹波少将(藤原)成経千種少将顕経(源有経とも?)の居館とも云われるが伝説以外には 何も伝わっていないが、成経と顕経は同一人物ではなかったか・・・!!。南北朝期:官位の高い有力者・武将の居館が在ったと伝えられて,付近に残る地名もこれに関連づけられます。風雅を愛し特に琵琶を好んだと伝えられる 武将が出陣に際し、愛用の琵琶を沈めた場所を琵琶が淵、琵琶を好んで奏でたところが琴弾滝(小滝)と呼ばれ、武将は再び帰って来なかったが、大雨のあった日等には水底から琵琶の音色が聞こえてくると…。 丘陵のR176号線側にある最高地点には広い平坦地があって、南側から西面には篠山川・北を宮田川(後世の治水による川ですが 湿地や池があって要害を成していたかもしれません)、東には宮田川が篠山川に流れて四方を囲む自然の水堀で囲まれた要害の場所でした。二つの川に挟まれて取り残されたような小さな段丘が県道97号線に平行するように 東西に延びていて東へ緩やかに高度を下げて行きます。
伝説の地:琵琶淵の石碑と 右の森が少将山城・後方に篠山川

南側の篠山川沿いに下り始めて直ぐ、雑木藪の中で鳴く異様な鳥の声にビックリします。随分多くの鳥がいるようで鶏舎でもあるのかと思ったくらいだが、 此処は雑木と竹薮で時々見かける水鳥はゴイサギ!!よりは小さいが中型の大きな鳥ばかりです。
適当な所から藪に突入したら彼方此方に平坦地もあって、 中には周囲を土塁で囲った曲輪のような場所も有ります。 も少し奥へと入っていくが段々と異臭が強くなってきます。 足下は白い糞と鳥の羽根や割れたり・そのままの卵が散乱し・鳥の死骸さえ結構見かけるが、卵を狙って入り込んでくるのか真っ黒な蛇が藪の中へ逃げ込みます。ヤマカガシか?・カラスヘビ(シマヘビの黒化型)だ。
少将山・竹薮の中には土塁で囲った曲輪も!!???

糞の量も増え、藪も竹から雑木藪に変わり一段と密生してくるので引き上げます。 居館があったと思われる、人の手の入った削平地や土塁らしいものは見かけるので天永2年(1111)丹波守として此の地に任ぜられた 藤原忠隆に縁ある一族が、東寺領の荘園・大山庄の守護する為に此処を居館としたのでしょうか。かつての宮田川は少将山の東裾を流れて琵琶渕をつくり篠山川に合流していたが、上流の水害を救うため寛永年間 (1624〜44)篠山藩主三代目松平忠国による治水工事で現在の川筋に変更されたといわれます。

(西紀町郷土史研究会 現地案内板等参照)


一印谷城(小屋山城)  やが岳(297m)側近く Ca320m  篠山市丹南町一印谷コヤノジョウ

R176号線の長安寺交差点を過ぎると佐中三山(自称)の黒頭峰と夏栗山の緩やかな山容みる。大山新の標識手前で夏栗山を正面に・左右を低丘陵に挟まれた一印谷(井院谷)を進む。夏栗山(600m)から南西方のR176号が通る大山新集落へ延び出した丘陵と、大ヶ谷(409m)へと東へ延びる尾根の中程 432m峰から南南西へ張り出してくる丘陵の挟まれた山間の盆地が一印(いちい)谷です。
星丸池から”やが岳”一印谷城

一印谷公民館の東正面の丘陵が432m峰から南南西へ張り出してくる尾根の南端付近でやが岳(点名:庄谷坪 3等三角点 297m)が有り 尾根の北方500m程(Ca320m)の峰上の10uの平坦地(主郭と呼んで良いのかどうか?)を中心に、ほぼ同心円状に腰曲輪や帯曲輪を廻した一印谷城の遺構が残ります。一印谷地区の中央部を流れる川の周縁にある、 小さな谷筋をある程度耕地として開墾された後に、南の高燥な地域を耕地開発する為に一印谷の中程に、鎌倉時代(文治元年1185〜)以降に灌漑用に造成されたと考えられる星丸池は古風な方形の貯水池で 「法師丸」の呼称が残された中世の姿を色濃く残し、景観的記念物となっています。丸池が造成されたことによって収穫量の多い 地域へと変貌を遂げていきますが、貯水量からは全域に安定して供給する事は無理で、末流へ行くほど其の恩恵は受けにくかったようです。星池の東側に山裾を落としている低丘陵部の山稜には一印谷城がありました。
一印谷城・北面の帯曲輪から主郭(最上部)

位置的には旧山陰道の要衝監視には奥まっていて 遠く山に囲まれた低部では通信の狼煙・見張にも不適と思われ、地名「コヤノジョウ」が示すように、一印谷領民の臨戦時に避難する”逃げの城”ではなかったかと考えられています。北方の尾根に向かって少し下ったところ (25〜30m程か!)に僅か1m足らずの段差と土橋状を残した堀切が在るが尾根を遮断して侵入を阻止出来るほどの規模でもない?本来なら領主が財産として護るべき農民の”逃げの城”です。防戦の為の施設とも思えないし 尾根の左右は急斜だが尾根筋はそれ程ではなく土塁も無い、山頂部のテラスの周囲に2〜3段の曲輪が残るだけ。丹波の山城では領地農民等が抗議や臨戦時に戦乱を避けて避難したと思われる”逃げの城”の例を 余り知らないのですが、百姓等が荘園領主・代官の横暴や搾取に対抗するため、田畑の作業を放棄・意思表示したり、兵火から”逃散”ときに拠った避難場所だったと考えられる事例を挙げて一印谷城を推察してみます。平安時代の初め・承和12年(845)京都東寺領の荘園だった大山荘の中でも一印谷は 一井谷・井院谷・市院谷とも呼ばれ 中世文書の多くが戦国動乱で散逸・失われた中では、最も多く散見出来る大山荘ゆかりの地名です。
星丸池下の民家から一印谷城

荘園領主の東寺と、鎌倉時代・承久の変(承久3年1221)後の元仁元年(1224)関東は武蔵国中沢郷から地頭職として入部し 池尻谷に本拠地を構えた中沢氏との間では、永仁3年(1295)に行われた下地中分 【荘園の土地を分割して、互いの領分を侵害しない事を約束する協約】によって決着し東寺の領域として支配を受けたが、 一部(約5町)の田を中澤氏が横領ていたといわれ、一印谷をめぐる支配紛争が続いて訴訟になった様です。其れも丹波守護が山名氏から 細川氏に代わり室町政権も安定してくると東寺も諦めた様で、 土地は中澤氏が入り東寺へは年貢を納めています。また中澤氏は室町幕府奉行人として幕府全体の訴訟を担当するが、別奉行である「東寺奉行」にもなっており大山庄は東寺・中澤が混乱無く 支配を続けたようです。 文保元年(1317)荘園管理を任された荘園領主・代官の年貢や賦役に対する横暴もあった事でしょう。 百姓が上洛して対決し年貢の百姓請けを実現させています。また永享年間(1429〜)頃にも一印谷の百姓が日照りや大雨による災害で損免の要求をしていまいます。
主郭南西の帯曲輪

永正5年(1508)細川澄之と高国の内紛では内藤弾正忠備前守等と共に中澤日向守元綱は澄之方に付いて、 高国方の波多野(孫四郎)元清や家臣の波多野七組の一・波々伯部大和守(治良左衛門?)と栗柄峠の 福徳貴寺に戦いに敗れ、 内藤弾正忠備前守はあっさりと高国方に属していますが中澤元綱は此処で討死したといいます。波々伯部文書には波多野元清の推挙があって、波々伯部大和守が高国より 戦功により感状を受けています。細川澄元の没落が見えていた頃?なので中澤氏は領地・一印谷を焼き払い覚悟の出陣だったようです。此の福徳寺合戦によって東寺領大山庄は壊滅し、 勝者の波多野氏が代官職を横領したのかも知れませんが、一印谷を支配した事を示す文書は無いようです。いつの頃か大山庄は中澤氏が領地を回復したと思われます。領主からの「逃げの城」解釈に誤解の無いよう、また正確性を規す為にも一部”大山庄一印谷”と京都丹波・兵庫丹波の中沢氏については 中世丹波大山庄研究レポートを報告されている中澤氏から戴いたコメント文を参考として引用させて戴いております。
尾根側(北)に小規模な土橋付き堀切

丹波守護・細川氏の守護代が香西氏あたり?から内藤氏〜上原氏と変わっていくなかで、小守護代!クラスの波多野氏等と 同様に細川氏の内乱に翻弄されながら京都丹波・兵庫丹波の自領地の安堵を計った事でしょう。その意味でも丹波を離れ京で執務する事が多かった為、一印谷の領地を東寺の預けたが取り上げらそうになったり、 地頭の横領等で何度も訴訟になった土地でもあったといいます。
(1993年9月 西紀・丹南町教育委員会/篠山市教育委員会 現地案内板 参照)

長安寺館(長安寺城・屋敷の上)
 xxxm  篠山市丹南町長安寺殿垣内

江戸時代の浮世絵師・安藤(歌川)広重「六十余州名所図絵」に「丹波鐘坂」として描かれた「鬼架け橋」のある山頂 には天正期:多紀(篠山市)波多野氏の八上城・氷上(丹波市)赤井の黒井城を攻略する為、明智光秀が築いた金山城がある。 明治・昭和・平成の三代の三つのトンネルが残る鐘ヶ阪を抜けるR176号を丹波市側から篠山市側へ抜け出ると大山荘へ下ってくる。
殿垣内(居館跡)から一印谷川(前方藪)と波賀尾山

西方に高くはないが目立つ波賀尾岳392mが見える。古来・農耕民族の移動では標山(しめやま)として目標とされた山。 登山対象からも外された藪山ですが、2002年に登ったときには秋葉社の小祠が朽ちてはいたが残っていた。 酒井党か兵庫丹波で山城を持たなかった?中澤氏の大山城の城砦だったのでしょうか?。大山荘の領地監視の砦だったのかも?。
池尻神社西北側:深い溝谷と堀状に囲まれた田圃(曲輪?)

長安寺の三叉路交差点で東方に県道140号が分かれる。県道(長安寺篠山線)は木ノ部を越えて西紀の宮田荘に向う。木ノ部の峠にも 山城が在り大山荘への玄関口ともなっています。宮田荘からは京街道や但馬街道に通じており、中澤氏が宮田荘へ乱入した際には 木ノ部一帯も被害に遭った様です。大山荘は平安時代初期の承和12年(845)公卿:藤原良房から京都東寺が買い受けた荘園でした。
堀状と曲輪状の間を池尻神社前に出る

鎌倉時代・承久の変(承久3年1221)後に戦功により 元仁元年(1224)武蔵国(埼玉・中沢郷(児玉郡児玉町・美里町附近!!?)より、地頭職を得て大山荘に入部した中澤小二(次)郎左衛門尉基政が何処を本拠地として屋敷を構えていたかは不明だが、大山城を居城とする以前・殿垣内に居を構えたものと推察されます。長安寺交差点で池尻谷川を渡ります。R176沿いに鬱蒼とした竹藪林が見えるが、 池尻神社の道路標識を見て目の前の橋を渡り、両側に曲輪の切岸が迫るような車道を進み池尻神社に着く。
殿垣内(居館跡):北端は池尻谷川が一印谷川に合流する

此処:池尻谷の入口にあたる殿垣内に屋敷が在ったと推定され、篠山市教育委員会の殿垣内「大山荘ゆかりの地」の案内板が立つ。 寺社私有地の荘園を武家が横領する等、荘園代官と地頭職との領地支配の小競り合いは、公卿や寺社荘園主の権力が衰微し、 武家勢力が強まってくると頻繁に彼方此方で繰り返されます。中澤氏も例外ではなく、大山荘の支配権を領主・中澤氏が得ていきます。とはいえ支配者の年貢の引き下げ・取立ての不正を東寺に報告する<室町時代中後期 :永正5年(1508)>等、百姓等も自治組織を固めていき、
居館跡南端の枡形形状:正面丘陵上に神社、東の並びに旧長安寺跡

一印谷
(井院谷・市印谷)では戦乱時・百姓等の避難場所「逃げの城」コヤノジョウ ・一印谷城が在った。池尻谷の丘陵を挟んだ北側が一印谷ですが、池尻谷側からも池尻池北側の緩やかな尾根伝いに通じています。
此の地は西面を一印谷が深い谷を刻んで流れ、南面で大山川と合流する。東?(北)面を崖が囲い込む天然の要害を形成して三方を堅めています。同時に近くには西京街道と大阪街道が接続して、交通の要衝として重要な地点となっています。 中澤氏は地の利を生かして此処に屋敷を構えたと考えられます。
池尻神社参道前に篠山市教育委員会の「殿垣内」遺跡案内板が立つ

中世後期には此処よりR176号を約1.5km南下して、大山市場(市場橋が架かる)附近に"市庭(市場)"が立ち、大山川が篠山川と出合う付近は旧(延喜式)山陰街道も近く走る交通の要衝として、また戦略上重要な場所でも在って ・本拠地を移して城を構えた大山城(出合の城)があります。余談ながら鎌倉以来・足利室町幕府の奉行人として仕えてきた中澤氏と、隣接する 丹波市山南町・栗作郷を賜った久下氏とは共に関東からの来住で、丹波来住から足利氏の危機を助け八上城:波多野氏・黒井城:赤井(荻野)氏配下に属して天正期の「丹波攻め」でも落城するまで、
池尻神社:背後の鳥居右手上部は池尻古墳(前方後円墳)

同族以上の絆で深く関わります。 正慶2年 (1333)足利尊氏が丹波篠村での旗上げには久下氏が一番に駆けつけていますが、足利幕府の側近として京に仕えていた中澤氏の内示を受けていたからでしょうか?。鎌倉〜室町期「丹波の4強」として久下・波伯々部・荻野と名を連ね、戦国期・中澤治部大夫は黒井城主・赤井直正の軍師であったと伝えられますさて:中世の古書には「池尻東殿」・「地頭東殿」といった此の地に 関わりの深い人物名が見られ元仁元年(1224)武蔵国(埼玉・中沢郷より地頭職を得て大山荘に入部し大山城を本拠として移る前・
池尻神社:東側の高みに池尻古墳(前方後円墳)

先ず此処に居館を構えたと思われる中沢氏を指したものと推定されます。大山荘ゆかりの地殿垣内案内板の立つ池尻神社参道前からは、 南方約300m程の距離に有る低丘陵には、一族の菩提寺であった長安寺跡があり、池尻山間部・山裾の個人墓にも中澤氏の名がみえる。
(現地「殿垣内」篠山市教育委員会案内板 丹南町史等参照)


池尻神社(人形狂言と池尻神社古墳)   篠山市丹南町町之田字池尻ノ坪

池尻神社は御祭神に木花開耶姫命・大山祇命・少彦名命・素戔鳴命が祀られ本殿屋根瓦や 幔幕にみる「桜」の社紋は、人形狂言の「桜の木の下に住むと言う娘」稲田姫=木花開耶姫命(木の花は桜花を意味する)に因むものと思え、繁栄を意味するものと思われる。
池尻神社「神変応護桜」の頭首(カシラ)

大蛇の人身御供にされた娘 (稲田姫)を若い武士(八重垣)が、池尻神社祭神の大山隈命の神威を借りて此れを救うヤマタノオロチ退治の 伝承をモチーフにしたもので、秋の例祭(10月8日頃!?<平成20年は12日に行われた>日曜の午後)に人形狂言・人形浄瑠璃にして 演じられます。池尻人形狂言保存会の手により奉納される此の行事は民俗芸能池尻神社人形狂言(浄瑠璃)として知られ、 篠山市文化財(昭和35年1月18日)に指定され、五体ある人形の頭首(かしら)【若侍の八重垣は 口が動く・稲田姫は村娘とも思えぬ艶やか衣装が印象の残ります!!。
オロチ伝説を伝えて?池尻谷の中ほどにある池尻池

神職の禰宜(ねぎ)は足を組んだり舞台の外に突き出す等の足動きも加わり)共に3人で操られ、此れに爺・婆・大蛇(ヤマタノオロチ)が2人遣いで登場します】は婆の首以外は 江戸時代中期:安永年間(1772-81)以前の製作と推定されており、有形民俗文化財として 県指定にもなっています。演目は宝暦3年(1753)氏子で当時徳永村庄屋の中沢伝佐衛門近義!!が神変応護桜と題した詞章を書き下ろし、 初演は翌年【池尻神社遷座100年記念】の祭礼に明神講の手により奉納されています。奉納祈願には氏子安穏は当然ながら五穀豊穣・商売繁盛 ・家運隆盛・無病息災・夫婦円満・交通安全・大願成就・良縁成就・子宝祈願、さらにその他諸々厄払…と年に一度とはいえ此の日の神様は多忙です。神輿が急な石段を登り境内を練って宮入を終える3時頃に開演されます。 拍子木を打ちながら人形狂言「神変応護桜」の演題と感単にストーリーを説明する奉納口上で始まり、最終章では”ドン・ドン・ドン”と 太鼓の低音が鳴り響いてオロチの出現となります。
急な石段参道を神輿が宮入して錬りこみを終えると愈々始まります!!

口上にもコマ落としの様な上演にも、 表現が見られない部分は残るが 「毎年秋の収穫期になると14〜15歳の少女を大蛇の人身御供に捧げねばならなかったがある年・老夫婦の娘に白羽の矢があたりる。両親は大変悲しみ、そろって池尻神社に御願いに行った。 「桜の木の下に住むと言う娘と結婚する」とのお告げを受けて、都から来た旅の若い武士:八重垣が池尻神社には立ち寄り、 お告げの相手を聞こうと参詣して 一心に祈っていたが旅の疲れから、つい転寝(うたたね)してしまった。その夢の中に神の声が聞こえ、宝剣が桜の木の上に降りて来た。
境内での神輿の錬りこみと人形狂言の舞台

はっとして目を覚ますと、桜の木の下には宝剣が有る。池尻神社の御祭神:大山隈命の 神威となる宝剣を押し戴いた八重垣は蛇を退治して娘を救った。その娘:稲田姫こそ、お告げにあった 「桜の木の下に住む娘」であり稲田姫を妻とした武士:八重垣は村に住みつき、大願成就・子孫繁栄・夫婦円満・オロチ退治による厄払い…と種々御利益に 繋がるものか?前半は謡曲調、中程は浄瑠璃調・説教節調・能狂言調・後半は謡曲調へと場面によって 調子が変わるのと、囃子や三味線等の楽器類を使わず人形浄瑠璃の古い形態を残していることが特徴とされます。
神変応護桜の「稲田姫」


本殿背後に赤い鳥居が並び、直ぐ奥に三社を祀る祠が建つ。其の横が丘陵最高地点で、雑木藪の中に円型の盛り上がりを見る。埋蔵文化財遺跡分布地図による池尻神社古墳で全長41mの前方後円墳だという。 雑木・下草で蔽われた藪の中では、分布図と位置確認で古墳と思える程度。長安寺城(長安寺館)は此の池尻神社西下の石段参道の手前で「殿垣内」の案内板が在り、 西はR176から一印谷川を渡って、北面は一印谷川に池尻川が合流する地点に位置したフエンスで 囲まれた グラウンド前付近ですが、更に南へ進むと 民家手前の低丘陵末端部の端の田圃が丘陵裾に沿って 三方を深い堀状を廻して突き出す。車道を隔てた西側も溝はそのまま西端の一印谷川へ延び、民家の先は長安寺館で触れているように長安寺交差点です。
池尻神社人形狂言:終演後の揃い踏み・

一印谷川は大山川に合流し交差点は大坂・京都への街道分岐点。車騒や車の振動が伝わってくるほどの位置。 此の集落から東側の低丘陵部の間を池尻谷へ入る地区道があり、東側に中澤氏菩提寺に長安寺跡が、西側の小丘は山頂部に祠が祀られるが、此処も分布地図には内垣古墳(横穴式石室の円墳)が記されている。探してみたが・よくは判らない。 ただ大山荘へ入部した中澤氏の長安寺館は池尻神社前より、むしろ此の祠の有る丘を、二つの街道の監視・見張櫓として此の下に屋敷を構え、長安寺館の主要郭となっていたものか?。
(現地「池尻神社人形狂言 」篠山市教育委員会案内板 丹波地域民俗芸能GUIDE MAP等を参照)
別冊 丹波霧の里HOME 本誌 丹波霧の里HOME
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