本誌より移転・追加修正
大谷山~波賀尾岳(嶽) 少将山城! 大山城・一印谷城・長安寺館 
篠山市 (五万図=篠山)  川代渓谷~やきもち坂~大谷山~波賀尾岳392m H14年09月15日
校歌の山 : ♪・・波賀尾のふもと露しげき …♪大山小学校
丹波の由緒(年中行事) : 池尻神社の人形狂言
近畿の山城: 大山城 波賀尾城 市場砦(仮称)  少将山城 一印谷城
 長安寺館(屋敷の上)と長安寺砦<仮称> 常楽寺山砦(仮称)
川代渓谷(峡谷)

丹波大山付近で大山川・宮田川が合流する篠山川は川代渓谷を経て加古川へと流れ出る。高低差のすくない地帯で僅か1Km程の流れが 南に変われば篠山川は武庫川へと流れが変わったかもしれない。山南町から県道77号からR176号線の大山下へとJR福知山線と並行に篠山川を隔てて走る約4kmは 両岸に奇岩や絶壁が続きゴルジュや淵・岩間を縫っての急流と絶景が拡がります。桜の名所でもあるが篠山川の全流域の長さと高低差を考えれば貴重な??存在です。
波賀尾岳から石戸山・高見城山方面

山への取付きは県道から国道に出るほんの少し手前の 「やきもち坂」と呼ばれる小峠から。峠から300m程の大山下・分水界付近の名所案内を!!峠を下り始めると篠山川に赤い水門が並ぶ川代ダムが見えてきます。大山川に架かる伊出屋橋を渡って直ぐダム沿いの細い車道が 「桜の道」でダムの先には「メロディ橋」がありタッチセンサーで「デカンショ節」等を奏でます。 R176号線へ出た丹波橋で左折すると栗柄峠から春日町や草山温泉への97号となりR176号は小滝橋を渡る。此の二つの橋の間に少将山古跡がある。
大山城主郭部の高い切岸(大山川沿い耕地から見上げる)

多紀の地は山陰道の道の口にあって周囲を山で廻らされているがその中にニ大標山(シメヤマ)【古代の民俗が聚楽(集落)地を求め移動の際に目標とした特殊な山】 の一:八ヶ尾山(畑山・三嶽山)と此処波賀尾岳だといわれます。農耕民族が標として定める的山(まとやま・はがやま)は八ヶ尾山も同様。波賀尾岳(嶽)は本場駿州の富士山に似ているとのことで西行法師が 「富士に似て ふじにはあらぬ大山の波賀尾か嶽の雪の曙」と詠んだと中道文書(大山村史)は伝えています。


川代渓谷~大谷山~325m峰~371m峰~波賀尾山  2002年09月15日

川代の渓谷美を垣間見ながら篠山川に沿って山南町から篠山市に入って最初の建物が見えてくると車道は右にカーブしながら峠(やきもち坂)を越して川代ダムの赤い水門を見ながら篠山市の丹南町に入っていきます。 国道176号へ出て大山下から柏原に向って走りだして先ず左手に・さして高くもないが目立つ波賀尾岳からの 山並みは高畑~馬頭~金山へ続いていく。波賀尾岳なら大山新の神社マークから 短絡コースがとれそうだが篠山川沿いの稜線を繋いで波賀尾山に向かうので、やきもち坂手前の建物大山浄化センタ建設中から北に農道を進む(PM12:40)。
県道77号近く農道からの波賀尾岳

谷間の奥に続く田圃の奥に波賀尾岳が見える。田圃と山裾に続く道にはツリフネソウや萩等、夏の名残の草花と秋の草花が咲いています。15分程で大山北野からの農道に合流し・さらに山の奥に向かうがズット農地が続くようです。分岐から右下方の北野へ進めば「三子塚古墳」だとは後で知った。間近に迫る波賀尾への取付きはよくわからないが農道を少し先へ進むと西側の尾根に取り付く山道があったので此れを辿ってみる。尾根近くで踏み跡も薄くなったが程なく尾根に出た。目前の波賀尾の右に黒頭峰~夏栗山とその間に三尾山が荒々しい山容の一端をのぞかせています。小休憩の後、踏み跡も明確な稜線を辿大谷山(Ca340mPM1:30)に登りつく。赤白の測量ポールがあるが三角点はどこ!?。見晴らしも良くないこの山頂からは判りにくい下山ルートだが山地図(国土地理院等)には載っているんでしょうか!!10分程でついたピークから先で北!!への尾根筋は
大谷山枝尾根稜線から波賀尾・黒頭峰・夏栗山とその間に三尾山の頭部

急に細く藪になってしまい引き返すと西下へ延びる道があり直ぐにMTBでも走れるほどの道になる。さらに10分弱で(PM1:48)白い大山振興会の境界標識に大谷山を示す「千峰漫歩」のサインと左手に下って行く方向に大柿氏の赤布があって間違いに気付かず随分先まで進んで波賀尾岳の方向を確かめ慌てて引き返します(約15分程ロス)。分岐から直進の尾根も波賀尾と井谷坪を結ぶ稜線までは快適で此処まで10分弱(PM2:08)で到着。井谷山迄往復するつもりで西への道を辿ります。尾根と脇道があり脇道の先に赤布を認め、そちらに進み最高地点(Ca370 PM2:13)にたどり着く。大山振興会の白いポール以外何もない。吊り尾根上の右端まで行ってみたが何も痕跡なく最高地点から先は南に向って急下降していくだけなので此処で引き返します。実はこの下降ルートの先に井谷坪(4等三角点 点名:井谷348m)があったが井谷坪の位置を帰宅してから知る。三角点峰に気付かず残念です。無名ピークから今度は尾根通しに引き返し大谷山への分岐(尾根通し)の下を捲いて登り返すと直ぐNHKテレビ共同受信施設があり波賀尾岳山頂(329m PM2.55)は此処から10分程で辿り着き展望が楽しめる。
波賀尾嶽山頂から金山~馬頭

歴史的には標山(シメヤマ)として、また富士にも似てと…西行法師が歌ったと伝えられる波賀尾嶽だが登山対象としては丹波の周辺の有名な!!?山々に囲まれ殆んど知る人もいない 不遇の山だが反対にその有名な山々??の展望台にもなっています。先ず南側から東へ目を移していくと山南町の天狗山~高山、篠山市(今田町)境界の高山から平石、白髪岳~松尾山、太平三山(中尾・愛宕・三国)、高城山、遠くに 弥十郎ヶ岳、北攝の大野山はアンテナで同定出来ます。多紀アルプスの主峰・ 三嶽~西ヶ嶽、小金ヶ嶽、栗柄峠から御在所~鋸嶽~鏡峠 へ続く稜線、手前に目立つ二つの山は黒頭峰~夏栗山でその間に三尾山が頭を覗かせてます。 北から西へ目を移せば国道176号線を境に鐘ヶ坂から金山~馬頭~高畑山その奥に 譲葉山と賑々しく顔を揃えて居並んでいます。展望を楽しんだ後は下山だが名前のプレートをつけた木々が続く踏み跡のある東下への道は小さな 秋葉神社祠で二手に別れるが北へ下る道が明確です。大山下の鳥居マーク辺りへ続く道らしく 山頂にもあった大山小学校の生徒達が登山行事に利用する道かも知れません。
波賀尾嶽山頂から黒頭峰~(三尾山)~夏栗山

私は東へ伸びる尾根に沿って下る道を採り7~8分も歩いただろうか!!「北野新田へ」の道標が残っており、この山への登山者がいる事に一寸ビックリですが、その方向への踏み跡は薄く既に嘗ての様に登山で利用する人もいない様子です。 北野新田への道を見送ってさらに10分程、尾根を忠実に辿るつもりでしたが下方に大きな溜池を認め最初の溜池側へ降り田圃を横切って農道に出ます(PM3:15)。 スタート地点の農道分岐とは200m程と離れていない地点です。 「北野新田」がどの辺りなのか知らないが先の分岐道標ルートで降れば途中で「三子塚古墳」が見学できた。波賀尾嶽を背後に望みながら再度、野辺の草花を愛でながら県道77号の駐車場所の「やきもち坂」下へと農道を戻ります(PM3:30)。


大山城  波賀尾城 市場砦(仮称)  少将山城 一印谷城
長安寺館(屋敷の上)と長安寺砦<仮称> 常楽寺山砦(仮称)


大山城 (出合城・出屋城・中沢屋敷(長沢屋敷)・中沢城・小山城) 篠山市丹南町北野

JR篠山口からR176号を北へ走ると鐘ヶ坂トンネルを抜けて丹波市柏原町へと入ります。大山城はこの境界尾根・金山越え(明智光秀の金山城がある)の街道入口にあたり中世:大山市場(市場橋が架かる)附近には"市庭(市場)"が立ち、大山川との出合いからR176号線”大山下交差点”を左折して篠山川(川代渓谷)沿いに 丹波市山南町を経て播磨へ通じる街道は交通の要衝として、
大山城遠望 ・大谷川(大山川)井手屋橋から

また戦略上重要な場所でもあり此処に本拠地を移して城を構えた大山城(出合の城)がある
井出屋橋の80m程北の西(右岸)・常楽寺跡の山麓は西に自然に出来た深い溝があり東と南には大山川が深い谷と切立った崖を形成して守られた自然の堀となり三方を 囲った河川段丘を利用した要害の地で北に開けた 平坦な台地を数条の空掘りと土塁で仕切った七区に及ぶ曲輪を直線的に並べて形成された丹波では珍しく篠山市でも此処だけの平城。
大山城南西切岸(崖)下の大山川

櫓台・虎口・武者隠し等の施設を設けた大規模な城があって登城畑・本丸・ 城・北門・横坂・堀・横堀・下ノ町等の地名が残ります。丹波の大山荘は平安時代の初め・承和12年(845)京都東寺の荘園でした。鎌倉時代・承久の変(承久3年1221)の戦功により多紀郡大山荘地頭職を得て武蔵国(埼玉・那珂郡!)中沢郷(児玉郡児玉町・美里町附近!!)より元仁元年(1224)来住の中澤小二(次)郎左衛門尉基政が入部して 池尻谷に長安寺館本拠地を構えたとされます。
大山城主郭・西の曲輪・北(左手奥)の空掘と櫓台・主郭と北には土橋

荘園領主の東寺とは領内の支配権を巡って土地を競せっての横領や東寺に対する年貢も滞り、幾度も騒乱が繰り返されたようで 永仁3年(1295)に行われた下地中分(一印谷城を参照)により決着したが其の後も一印谷での支配紛争が続いていたようです。城主が中沢氏から 長沢氏に変わった経緯は不詳・・・!!鎌倉以来・足利室町幕府の奉行人として仕えてきた中澤氏と隣接する 丹波市山南町・栗作郷を賜った久下氏とは共に関東からの入部で、丹波来住から足利氏の危機を助け、波多野氏や赤井氏配下に属して天正期の丹波攻めによる落城まで、
大山城:奥中央が、東下方の曲輪から主郭に入る虎口部

同族とも思える程に深く関わります。ただ:大山城は南からの侵攻・多分に当初は新興勢力 の八上波多野氏を意識しての築城とおもえます。正慶2年(1333)足利尊氏が丹波篠村での旗上げには久下氏が一番に駆けつけているが足利幕府の側近として京に仕えていた中澤氏の内示を受けていたからでしょうか?。鎌倉~室町期「丹波の4強」として久下・波伯々部・荻野と名を連ね戦国期 ・中澤治部大夫は黒井城主・荻野直正の軍師であったと伝えられます。波多野氏の台頭で久下氏と共に其の傘下に入り”波多野七頭”の一人となった明智「丹波攻め」当時の城主は中澤孫十郎伯耆守重基といわれます。

主郭東南の切岸沿いに斜上する虎口部


(現地案内では中澤重基だが、波多野秀治の家臣で七頭のひとり長澤治部太輔(太夫)義遠とも!!?…さらには 黒井城主赤井直正の軍師であったとも伝えられます。丹波史・太平記等で大山城主が長澤氏で中澤氏は分家だと伝えられているようです。…が京都東寺の下知状等文書に長澤氏の名は見当たらないようです) 中澤氏が長澤氏に姓が変っていることに関しては「大山村史」 「丹南町史」等で詳細研究を願いますが…?、此処では中澤氏として統一しておきます。 幕府奉行人としての中澤氏は足利義昭が織田信長に追われる直前まで元亀2年(1571)まで奉行人として
大山城:主郭より望む:雑木林内に曲輪・土塁と空掘有

京都で采配をふるっていたことが確認されており、最後の奉行人・中澤備前守源朝臣光俊の奉行人奉書は多数現存しており中澤下野守元綱 (永正年中:波多野氏と戦い討死しており、子か孫が名を引き継いだものか?)は長岡藤孝と連署して奉書を発行しています。”丹波攻略”の明智軍により 落城するが口丹波(能勢~亀岡方面の一族が明智に帰順していたので旧領地:大山に住み着くことが出来ました。しかし徳川の世になると徹底的な大阪方の残党狩が行なわれ一族保守の為には中澤の総領ではないという事を、
大山城東下:主郭より広い曲輪(雑木林の中の空掘と土塁<配水用!!?>)

その辺の事情は丹波笑路城発掘調査報告(亀岡市教育委員会)が採取した長澤重綱遺書を解読する事である程度納得できるものがある。波多野七頭の一:長澤義遠(軍記:籾井家日記による組織には時代と城主名等で実在が疑わしい!!?)は 大山・別院の長澤と姓の転換をした人たちが
自分たちの長澤を遠祖とし、大山城主に仕立て上げたのが実情では?と推察されています …が長澤氏を続けてこられた方も中澤小次郎基政・十郎成綱の子孫に違いはありません。未だ落ちぬ篠山・波多野の八上城と霧山城の波多野一族?を遮断し黒井城の荻野直正を牽制する為には、
大山城本丸・土橋から北の空堀(武者隠し!!)

その間にある鐘ヶ坂の金山を押える必要があったが金山への途中には山陰街道(旧山陰道は篠山から鐘ヶ坂~丹波市柏原町への難路を避けて 丹波市山南町を経て佐治川(現:加古川沿いに氷上町~青垣町佐治)へ抜ける)の要所を押え波多野氏方の中澤孫十郎伯耆守重基が大山城を守備していた。八上城を落せない光秀軍は周辺の小城を次々攻め落しながら天正6年(1578)8月 :板井城(西紀町上板井)を落とした明智軍は大山城へ押し寄せます。寄せ手には明智光秀と織田信澄・細川藤孝と子の忠興(奥方は光秀の娘で後ガラシャ夫人 )・丹羽長秀の軍勢です。織田信澄の家臣には藤堂高虎が参加しており先陣で活躍したようです。高虎による篠山城の縄張りの立派さも"丹波攻め"に参戦して地理にも詳しかったからでしょう。
大山城本丸・北の空堀(武者隠し!!)と幅広い駐車位置の土橋

自然の要害で護られた大山城であっても 、これほどの大軍で攻める必要はなかったが多紀・氷上の郡境に城をつくり両勢力を断つためには早く大山城を落す必要があったからでしょう。迎えた大山城は刀や槍の戦いに対して堅固な城だったようだが近代兵器を前にしては全く無防備で、藤堂与吉高虎等の攻撃により大山城は落城、重基は家臣の向井左近の介錯を受けて自刃したと伝えられます。
市場砦(北野砦)<仮称>との平地)と波賀尾山遠望

落城時の城主がだれであったかは 確定出来ないが史料としては長澤治部大夫義遠・中澤伯耆守重基・中澤伯耆守重国・長澤伯耆守高義・中澤伯耆守基重の名が伝承として残っているそうです!!。光秀は急ぎ当初の目的として年内に大山城の北方に金山城を築き黒井城の赤井氏と八上城の波多野氏の勢力分断を図ります。

(郷土の城ものがたり丹有編・現地案内板 篠山市教育委員会 参照)


常楽寺山砦<仮称> xxx Ca2605m  篠山市北野常楽寺山

丹波市柏原町からR176号鐘ヶ坂トンネルを篠山市大山地区へ抜け出る。トンネル上部の丘陵尾根筋には、織田信長:天下布武の号令に「丹波国攻略中」の明智光秀が:氷上郡<丹波市>黒井城(城主荻野直正)への前進基地として ・また多紀郡<篠山市>八上城(城主波多野秀治)双方の監視と 連携する勢力の分断を図る軍事の重要拠点として構築した金山城があった。
常楽寺山砦(左上)・右手は直ぐ大山城主郭部

丹波市には光秀本陣の茶臼山城 の近くに平城の野村城(構居)があるが、篠山市にも共に珍しい大規模な平城の 大山城があり、 天正6年8月中澤孫十郎重基(最後の城主には諸説あり…‼?)の時に落城したが、 その 直後に金山城築城が着手されており金山城築城のため早急に落とす必要があったものか?。 大山城には「丹波攻め」主将:明智光秀に織田信澄(家臣の藤堂高虎も参軍)・ 細川藤孝父子・丹羽長秀らが大挙して押し寄せている。常楽寺跡の山麓は西に自然に出来た深い溝があり、東と南には大山川が深い谷と切立った河川段丘の崖と濠が自然の要害を形成、
地)と波賀尾山遠望

北に開けた平坦な台地は数条の空掘りと土塁で仕切った七区に及ぶ曲輪を直線的に並べて形成された平城が大山城だが、其の大山城の北方には市場砦<仮称>が、西側城近くに位置して常楽寺山砦(<仮称>がある。共に大山城の城塞遺構としては疑わしいが、大勢力で攻め寄せる明智軍による極一時的にせよ向城と推察すれば合点出来るかも …?鉄砲等の近代兵器には無防備に近い平城だが、大山城域の西端から北方の市場砦や丸山古墳へ延びる独立丘陵最高所Ca325mに向かう尾根上Ca260m付近までに曲輪が点在する。民家背後の曲輪群までは比高僅か20m足らず。 大山城西砦と仮称してみたいが?、城域主郭部の下部曲輪群は東約200ー250mの大山城主要郭に正対し、
古墳群!?上の常楽寺山砦

Ca260mから最高地点周辺にかけ城塞遺構が確認出来ない事からも?周辺監視守備の砦ではなく!!?圧倒的大軍とはいえ、接近戦による鉄砲攻撃や総攻撃に備えた向城に思えた。曲輪の多くは古墳の墳丘を均した曲輪で取付いて直ぐに現われる5-6基の古墳は”県遺跡地図に「栃谷古墳群1ー9号墳は何れも径10ー16m内の円墳・木棺直葬と思え”篠山市大下出谷栃谷”とあるが、尾根筋曲輪(墳丘)左右裾部の帯状は通路か?、曲輪ごと空堀・箱堀状は周溝痕と云うより塹壕?。
古墳群!?上の常楽寺山砦

多過ぎる寄せ手の出撃準備調整のための待機ベース基地ともなる付城だったのかも…?。 所在は総じて山麓に在ったという常楽寺(所在不詳)から常楽寺山砦<仮称>(篠山市北野常楽寺山)とする。念仏寺から貯水池に出る林道は、貯水池向いに市場砦<仮称>を見て貯水池西端の小丸山に至り林道の分岐を南にとると 現:川代トンネルの手前の浄化センターに出て、大山城下を通らず篠山川(川代渓谷)沿いに山南町へ抜ける間道ともなり、小丸山頂部からは真下に街道が監視出来る位置だが前方後円墳(小丸山1号墳)がある



波賀尾城
   詳細不詳

波賀尾山の山頂にある小さな祠は大山区には三社あったが唯一残っている秋葉神社です。 此処には波賀尾城があり 神社北の植林の中に土塁が残り、城主に酒井党の酒井右衛門兵衛の名を見ますが詳細は不詳です。
池尻神社(右手丘)・長安寺館(左手の平地)と波賀尾山遠望

南山裾には中沢氏の大山城があり亀岡・牧の長沢氏の古文書に此処に地頭の山城が 有った記録があるようです。また下記の少将山城は明野城としての記録があり中沢氏と長沢氏は ・・大山城や少将山城とも関連ありそうです・・!!??

点名「市場」の曲輪!!?


市場砦(北野砦)<仮称> 市場 4等三角点 247.5m  篠山市丹南町

JR福知山線・篠山川 川代渓谷(峡谷)沿い県道77号は篠山川に流れ出る大谷川(大山川)に掛かる井出屋橋を渡る。直ぐ北側には急崖を大山川に落とす河川段丘上に大山城がある。大山城は鎌倉時代大山荘の地頭職を得て武蔵国(埼玉県!)中沢郷から入封した 中澤氏が築城・池尻谷の入口にあたる殿垣内に居館長安寺館(屋敷の上)を構えたものか?。
市場(北野)砦

西紀(宮田荘)から木ノ部を越えてくる県道140号がR176号に合流する”長安寺の三叉路交差点”は京街道・摂津や但馬街道に通じる交通の要衝にあり、三叉路の「下馬橋」の名からは長安寺館(城)が 中澤氏(居館)本拠城だったのかも!?。R176西側沿いに集中して幅狭い集落内左右に民家が建ち並ぶさまは旧街道筋の面影を残している。集落の西を大山川が南北に流れ、 北へは金山城(八上城・黒井城を遮断する光秀の陣城だが丹波平定後も改築)麓の鐘ヶ坂を柏原側へ抜ける但馬・山陰道。(注:金山城は鐘ヶ坂より関所城として城中を抜ける「金山越え」道だったのかも)…南へは
城域西端の主曲輪!!?

大山川沿いに長く平坦な河川段丘の台地が大山城へと延び、川沿いに市場(市庭)が立った。「長安寺」交差点の西・大山城からの台地の北末端部が 波賀尾山(此処も城跡らしいが遺構不明?)から東へ流れ出る低丘陵尾根先端部に突き当るところ(北野集落と北野新田を分ける尾根!の東端末)に点標名:市場247.5mがある。 此処は篠山市北野の念仏寺から北方・奥の墓地前の貯水池向いの丘陵上に城砦と推察するが?不確かな面もあるが遺構として解釈する?。 構名称に小字名の呼称は過去のHPやブログに大山地区の方からの指摘があり!?、
東西曲輪間の土塁堀切は登城ルートか?

点名「市場」なり地区名”北野”位置的には”北野新田!?”を仮称する。遺大山城の北端・長安寺館西口に当たる街道監視・”市場”の警固の砦であったか?。念仏寺から貯水池・墓所間の林道を西へ抜けて南へ降る林道が現在川代トンネルの手前:大山浄化センターに出る。大山城下を通らず北を迂回して山南町側へ抜けるルートともなる…が?。 墓所前の貯水池堰堤正面真上の稜上は幅広く、西への緩斜な尾根筋には何もなさそうだが、東へは直ぐ藪中に搔上げ(掘り残し?)土塁囲み状の小規模ながらスッキリした曲輪が2段。古墳だとすれば墳頂部東面を切り崩して曲輪としたとも推察できる?。東への尾根筋鞍部に堀切り状もあるが堀切は鞍部近くで意味不明に折れ?(崩れて溝状に見えるだけか?)があるが単に尾根南北に越える道か?。
点名:市場の曲輪!!?

登城道かも…の鞍部から登り返す東峰が稜端で南北に短い尾根を分ける。東面と北側へは廻り込む大山川への激急斜面、南側の尾根上に1-2段ほどの平坦地形(曲輪跡?)がある。南側の曲輪跡に「点名:市場」4等三角点(247.5m)標柱石が埋まるが曲輪段に切岸加工も土塁等施設もみない!?。 北曲輪からは鐘ヶ坂への但馬道(R176)や黒頭峰・夏栗山、中央曲輪からは目前に長安寺口の要衝や一印谷南曲輪からは大山城側の”市場”監視の砦機能は発揮出来そう…!!?



少将山城(少将山館・明野城・黒田古館) 茶臼山 Ca210m!  篠山市丹南町西古佐

篠山川沿いの川代峡谷を抜ける県道36号は大山下交差点でR176号と合流し国道を700m程南下したところで宮田川に架かる 丹南橋を渡ったT字交差点に着く。左折すると西多紀アルプスの北麓を通って氷上・春日町や草山温泉を経て京都・三和町へ抜ける県道97号線です。R176号線は続けて篠山川に架かる小滝橋を渡って坂を登るとJR福知山線丹波大山駅も近い。 宮田川が篠山川と合流する地点に架かる二つの橋の間に
少将山古跡のある丹南橋と小滝橋

「少将山 」古跡があり、いつもは通りすがりに気になっていた説明版も今日はじっくり目を通します。先に大山城に拠ったので井手屋橋から篠山川沿いに続く「桜の道」途中メロディ橋もあるので歩いてみます。 丹南橋から東に続く独立丘陵の茶臼山Ca210mは少将山と呼ばれ、篠山川を見下ろす高台に位置しており付近に琴弾の滝(小滝)があったことから小滝橋の名が残されている。「西紀町史」には承安4年(1174)丹波守護藤原少将成経が国司として 居館とし 正平7年(1352)後村上天皇を援ける為に手勢500余騎を率いて吉野に向かったという。翌・正平8年(1352)千種少将顕経が 居城・後醍醐天皇の臣で天皇からの兵を受け”唐戸越え”で吉野の軍と応戦したという。
少将山・最高所平坦地から川代ダム

元弘3年(1333)天皇が隠岐島から脱出した際・顕経ただ一人を伴って脱出に成功したという。黒田古館とも呼ばれ:黒田村の丹波少将(藤原)成経千種少将顕経(源有経とも?)の居館とも云われるが伝説以外は何も伝わらないが 成経と顕経は同一人物ではなかったか?!!。南北朝期:官位の高い有力者・武将の居館が在ったと伝え付近に残る地名もこれに関連づけられます。 風雅を愛し特に琵琶を好んだと伝えられる武将が出陣に際し、愛用の琵琶を沈めた場所を琵琶が淵、琵琶を好んで奏でたところが琴弾滝(小滝)と呼ばれ、武将は再び帰って来なかったが大雨のあった日には水底から琵琶の音色が聞こえてくると…。
伝説の地:琵琶淵の石碑と右の森が少将山城・後方に篠山川

丘陵のR176号線側にある最高地点には広い平坦地があり南側から西面には篠山川・北を宮田川(後世の治水による川だが湿地や池もあり要害を成していたかもしれない)、東には宮田川が篠山川に流れて四方を囲む自然の水堀で囲まれた要害の場所でした。 二つの川に挟まれて取り残されたような小さな段丘が県道97号線に平行するように東西に延び東へ緩やかに高度を下げていく。南側の篠山川沿いに下り始めて直ぐ、雑木藪の中で鳴く異様な鳥の声にビックリします。随分多くの鳥がいるようで 鶏舎でもあるのかと思ったくらいだが、此処は雑木と竹薮で時々見かける水鳥はゴイサギ!!よりは小さいが中型の大きな鳥ばかりです。
適当な所から藪に突入したら彼方此方に平坦地もあって、中には周囲を土塁で囲った曲輪のような場所もある。も少し奥へと入っていくが段々と異臭が強くなってきます。足下は白い糞と鳥の羽根や割れたり ・そのままの卵が散乱し・鳥の死骸さえ結構見かける。
少将山・竹薮の中には土塁で囲った曲輪も!!???

卵を狙って入り込んでくるのか真っ黒な蛇が藪の中へ逃げ込みます。ヤマカガシか?・カラスヘビ(シマヘビの黒化型)だ。糞の量も増え、藪も竹から雑木藪に変わり一段と密生してくるので引上げる。 居館があったと思われる、人の手の入った削平地や土塁らしいものは見かけるので天永2年(1111)丹波守として此の地に任ぜられた藤原忠隆に縁ある一族が東寺領の荘園・大山庄の守護する為に此処を居館としたのでしょうか。 かつての宮田川は少将山の東裾を流れて琵琶渕をつくり篠山川に合流していたが上流の水害を救うため寛永年間(1624~44)篠山藩主三代目松平忠国による治水工事で現在の川筋に変更されたといわれます。

(西紀町郷土史研究会 現地案内板等参照)


一印谷城(小屋山城)   やが岳(297m)側近く Ca320m  篠山市丹南町一印谷コヤノジョウ

R176号線の長安寺交差点を過ぎると佐中三山(自称)の黒頭峰と夏栗山の緩やかな山容みる。 大山新の標識手前で夏栗山を正面に・左右を低丘陵に挟まれた一印谷(井院谷)を進む。夏栗山(600m)から南西方のR176号が通る大山新集落へ延び出した丘陵と、 大ヶ谷(409m)へと東へ延びる尾根の中程432m峰から南南西へ張り出してくる丘陵の挟まれた山間の盆地が一印(いちい)谷です。一印谷公民館の東正面の丘陵が432m峰から南南西へ張り出してくる尾根の
星丸池から”やが岳”一印谷城 

南端付近で やが岳(点名:庄谷坪 3等三角点 297m)があり尾根の北方500m程(Ca320m)の峰上の10㎡の平坦地(主郭と呼んで良いのかどうか?)を中心に、ほぼ同心円状に腰曲輪や帯曲輪を廻した一印谷城の遺構が残ります。 一印谷地区の中央部を流れる川の周縁にある、小さな谷筋をある程度耕地として開墾された後に南の高燥な地域を耕地開発する為に一印谷の中程に鎌倉時代(文治元年1185~)以降に灌漑用に造成されたと考えられる星丸池は古風な方形の貯水池で 「法師丸」の呼称が残された中世の姿を色濃く残し景観的記念物となっています。丸池が造成されたことによって収穫量の多い地域へと 変貌を遂げていくが、貯水量からは全域に安定して供給する事は無理で、末流へ行くほど其の恩恵は受けにくかったようです。星池の東側に山裾を落としている低丘陵部の山稜には一印谷城がありました。
一印谷城・北面の帯曲輪から主郭(最上部)

位置的には旧山陰道の要衝監視には奥まっていて遠く山に囲まれた低部では通信の狼煙・見張にも不適と思われ、地名「コヤノジョウ」が示すように、一印谷領民の臨戦時に避難する”逃げの城”ではなかったかと考えられています。 北方の尾根に向かって少し下ったところ(25~30m程か!)に僅か1m足らずの段差と土橋状を残した堀切があるが尾根を遮断して侵入を阻止出来るほどの規模でもない?本来なら領主が財産として護るべき農民の”逃げの城”です。 防戦の為の施設とも思えないし尾根の左右は急斜だが尾根筋はそれ程ではなく土塁もない、山頂部のテラスの周囲に2~3段の曲輪が残るだけ。丹波の山城では領地農民等が抗議や臨戦時に戦乱を避けて避難したと思われる”逃げの城”の例を余り知らないが、百姓等が荘園領主・代官の横暴や搾取に対抗するため、田畑の作業を放棄・意思表示したり、兵火から”逃散”ときに拠った避難場所だったと 考えられる事例を挙げて一印谷城を推察してみます。
星丸池下の民家から一印谷城

平安時代の初め・承和12年(845)京都東寺領の荘園だった大山荘の中でも一印谷は一井谷・井院谷・市院谷とも呼ばれ中世文書の多くが戦国動乱で散逸・失われた中では、最も多く散見出来る大山荘ゆかりの地名です。 荘園領主の東寺と鎌倉時代・承久の変(承久3年1221)後の元仁元年(1224)関東は武蔵国中沢郷から地頭職として入部し池尻谷に本拠地を構えた中沢氏との間では永仁3年(1295)に行われた下地中分【荘園の土地を分割して互いの領分を侵害しない事を 約束する協約】によって決着し東寺の領域として支配を受けたが一部(約5町)の田を中澤氏が横領ていたといわれ、一印谷をめぐる支配紛争が続いて訴訟になった様です。其れも丹波守護が山名氏から細川氏に代わり室町政権も安定してくると東寺も諦めた様で、土地は中澤氏が入り東寺へは年貢を納めています。また中澤氏は室町幕府奉行人として幕府全体の訴訟を担当するが、 別奉行である「東寺奉行」にもなっており大山庄は東寺・中澤が混乱無く支配を続けたようです。
主郭南西の帯曲輪

文保元年(1317)荘園管理を任された荘園領主・代官の年貢や賦役に対する横暴もあった事でしょう。百姓が上洛して対決し年貢の百姓請けを実現させています。また永享年間(1429~)頃にも一印谷の百姓が日照りや大雨による災害で 損免の要求をしていまいます。永正5年(1508)細川澄之と高国の内紛では内藤弾正忠備前守等と共に中澤日向守元綱は澄之方に付いて高国方の波多野(孫四郎)元清や家臣の波多野七組の一・波々伯部 大和守(治良左衛門?)と栗柄峠の 福徳貴寺に戦いに敗れ、内藤弾正忠備前守はあっさりと高国方に属するが中澤元綱は此処で討死したといいます。波々伯部文書には波多野元清の推挙があって波々伯部大和守が高国より戦功により感状を受けています。 細川澄元の没落が見えていた頃?なので
尾根側(北)に小規模な土橋付き堀切

中澤氏は領地・一印谷を焼き払い覚悟の出陣だったようです。此の福徳寺合戦によって東寺領大山庄は壊滅し、勝者の波多野氏が代官職を横領したのかも知れないが一印谷を支配した事を示す文書はないようです。 いつの頃か大山庄は中澤氏が領地を回復したと思われます。 領主からの「逃げの城」解釈に誤解のないよう、また正確性を規す為にも一部”大山庄一印谷”と京都丹波・兵庫丹波の中沢氏については中世丹波大山庄研究レポートを報告されている中澤氏から戴いたコメント文を参考・引用させて戴いております。
池尻神社西北側:深い溝谷と堀状に囲まれた田圃(曲輪?)

丹波守護・細川氏の守護代が 香西氏あたり?から内藤氏~上原氏と変わっていくなかで、小守護代!クラスの波多野氏等と同様に細川氏の内乱に翻弄されながら京都丹波・兵庫丹波の自領地の安堵を計った事でしょう。 その意味でも丹波を離れ京で執務する事が多かった為、一印谷の領地を東寺の預けたが取り上げらそうになったり、地頭の横領等で何度も訴訟になった土地でもあったといいます。
(1993年9月 西紀・丹南町教育委員会/篠山市教育委員会 現地案内板 参照)

長安寺館(長安寺城・屋敷の上)と長安寺砦)<仮称>
長安寺館(長安寺城・屋敷の上)
  xxxm 篠山市丹南町長安寺殿垣内
長安寺砦<仮称>  xx ca255m  篠山市丹南町長安寺

江戸時代の浮世絵師・安藤(歌川)広重「六十余州名所図絵」に「丹波鐘坂」として描かれた「鬼架け橋」のある山頂には天正期: 多紀(篠山市)波多野氏の八上城・氷上(丹波市)赤井の黒井城を攻略する為、明智光秀が築いた金山城がある。明治・昭和・平成の三代の三つのトンネルが残る R176号の鐘ヶ坂を抜け丹波市側から篠山市側へ抜け出ると大山上・大山下へ下ってくる。
殿垣内(居館跡)から一印谷川 (前方藪)と常楽寺山(城趾あり)

西方に高くはないが目立つ波賀尾岳392mが見える。古来・農耕民族の移動では標山(しめやま)として目標とされた山だが 登山対象からも外された藪山。2002年に登ったときには秋葉社の小祠が朽ちてはいたが残っていた。 酒井党か兵庫丹波で山城を持たなかった?中澤氏の大山城の城砦だったのでしょうか?。大山荘の領地監視の砦だったのかも?。 長安寺の三叉路交差点で東方に県道140号が分かれる。県道(長安寺篠山線)は木ノ部を越えて西紀(旧多紀郡)の宮田荘に向う。
殿垣内(居館跡):北端は池尻谷川・正面奥に波賀尾山

木ノ部の峠にも山城が在り大山荘への玄関口ともなっています。宮田荘からは京街道や但馬街道に通じており中澤氏が宮田荘へ乱入した際には 木ノ部一帯も被害に遭った様です。大山荘は平安時代初期の承和12年(845)公卿:藤原良房から京都東寺が買い受けた荘園でした。鎌倉時代・承久の変(承久3年1221)後に戦功により元仁元年(1224)武蔵国(埼玉・中沢郷(児玉郡児玉町・美里町附近!!?)より地頭職を得て大山荘に入部した中澤小二(次)郎左衛門尉基政が何処を本拠地として屋敷を構えていたかは不明だが 大山城を居城とする以前・殿垣内に「長安寺館」を構えたものと推察されます。
堀状と曲輪状の間を池尻神社前に出る

長安寺交差点北250m?程で池尻谷川を渡ります。R176沿いに鬱蒼とした竹藪林が見えるが池尻神社の道路標識を見て目の前の橋を渡り、両側に曲輪の切岸が迫るような車道を進み、神社の祭礼に行なわれる人形狂言で知られる池尻神社に着く。殿垣内(館?)だが一帯の圃場整備で城(構居!?)域は不明。池尻谷の入口にあたる殿垣内に屋敷が在ったと推定され、篠山市教育委員会の殿垣内 「大山荘ゆかりの地」の案内板が立つ。寺社私有地の荘園を武家が横領する等、荘園代官と地頭職との領地支配の小競り合いは公卿や寺社荘園主の権力が衰微し、武家勢力が強まってくると頻繁に彼方此方で繰り返されます。
池尻神社参道前に篠山市教育委員会の「殿垣内」遺跡案内板が立つ

中澤氏も例外ではなく大山荘の支配権を領主・中澤氏が得ていきます。とはいえ支配者の年貢の引き下げ・取立ての不正を東寺に報告する<室町時代中後期:永正5年(1508)>等、百姓等も自治組織を固めていき一印谷(井院谷・市印谷)には 戦乱時・百姓等の避難場所「逃げの城」コヤノジョウ・一印谷城があった。池尻谷の丘陵を挟んだ北側が一印谷だが池尻谷側からも池尻池北側の緩やかな尾根伝いに通じて いる。此の地は西面を一印谷が深い谷を刻んで流れ南面で大山川と合流する。東?(北)面を崖が囲い込む天然の要害を形成して三方を堅めています。 同時に近くには西京街道と大阪街道が接続しており交通の要衝として重要な地点。中澤氏は地の利を生かして此処に屋敷を構えたと考えられます。
館跡から旧長安寺跡?と長安寺砦(中央左の山)

長安寺砦<仮称>中世後期には此処よりR176号を約1.5km南下して大山市場(市場橋が架かる)附近に市庭(市場)が立ち、 大山川が篠山川と出合う付近は旧(延喜式)山陰街道も近く走る交通の要衝として、また戦略上重要な場所でもあって・本拠地を移して城を構えた大山城(出合の城)があります。 余談ながら鎌倉以来・足利室町幕府の奉行人として仕えてきた中澤氏と、隣接する丹波市山南町・栗作郷を賜った久下氏とは共に関東からの来住で、丹波来住から足利氏の危機を助け八上城:波多野氏・黒井城:赤井(荻野 )氏配下に属して天正期の「丹波攻め」でも落城するまで、幾度かは小競り合いもあったと思えるが同族以上の絆で深く関わります。 正慶2年 (1333)足利尊氏が丹波篠村での旗上げには久下氏が一番に駆けつけているが足利幕府の側近として京に仕えていた中澤氏の内示を受けていたからでしょうか?。
砦西真下切通(現;車道)を抜け [殿垣内]に入る側)

鎌倉~室町期「丹波の4強」として久下・波伯々部・荻野と名を連ね戦国期・中澤治部大夫は黒井城主 ・赤井直正の軍師であったと伝えられますさて:中世の古書には「池尻東殿」・「地頭東殿」といった此の地に関わりの深い人物名が見られ元仁元年(1224)武蔵国(埼玉・中沢郷より地頭職を得て大山荘に入部し大山城を本拠として移る前 ・先ず此処に居館を構えたと思われる 中沢氏を指したものと推定されます。(現地「殿垣内」篠山市教育委員会案内板 丹南町史等参照)
大山荘ゆかりの地殿垣内案内板の立つ池尻神社参道前からは南方約300m程の距離にある低丘陵には中澤氏一族の菩提寺であった長安寺跡があり (長安寺跡の位置は不詳)池尻山間部・山裾の個人墓にも中澤氏の名がみえる。木ノ部峠を越えてくるルートからは南から池尻谷川の濠を越えずに構居域に侵入できるルートととして、
長安寺砦

南面を東西に塞ぐ低丘陵の西端に櫓跡さえ想像できる八幡社を祀る小丘と、東へ延びる丘陵尾根を裂く切通し (現状は車道で通じる)の東側丘陵上に長安寺砦<仮称>が在る。二段の極小・単郭の砦跡で西面は切通道や176号(京・摂津・丹波・但馬を繋ぐ要衝)を望み主曲輪東面に切岸加工を見る。 南への尾根続きピークには目算で!18x20m程の楕円形平坦地があるだけだが、南端へ延びる尾根(県道140号側に力士碑?が立つ)に街道監視砦でもあれば此れも関連郭になるが!!。 市場砦(北野砦)<仮称>とともに中澤氏の大山城関連城塞群とは思えるが…?。


池尻神社 (人形狂言と池尻神社古墳)  篠山市丹南町町之田字池尻ノ坪

池尻神社は御祭神に木花開耶姫命・大山祇命・少彦名命・素戔鳴命が祀られ本殿屋根瓦や幔幕にみる「桜」の社紋は人形狂言の「桜の木の下に住むと言う娘」稲田姫=木花開耶姫命(木の花は桜花を意味する)に因むものと思え、 繁栄を意味するものと思われる。
池尻神社:背後の鳥居右手上部は池尻古墳(前方後円墳

>大蛇の人身御供にされた娘(稲田姫)を 若い武士(八重垣)が池尻神社祭神の大山隈命の神威を借りて此れを救うヤマタノオロチ退治の伝承をモチーフにしたもので、秋の例祭(10月8日頃!?<平成20年は12日に行われた>日曜の午後)に 人形狂言・人形浄瑠璃にして演じられます。池尻人形狂言保存会の手により奉納される此の行事は民俗芸能池尻神社人形狂言(浄瑠璃)として知られ、 篠山市文化財(昭和35年1月18日)に指定され、
オロチ伝説を伝えて?池尻谷の中ほどにある池尻池

五体ある人形の頭首(かしら)【若侍の八重垣は口が動く・稲田姫は村娘とも思えぬ艶やか衣装が印象の残ります!!。神職の禰宜(ねぎ)は足を組んだり舞台の外に突き出す等の足動きも加わり)共に3人で操られ、 此れに爺・婆・大蛇(ヤマタノオロチ)が2人遣いで登場します】は婆の首以外は 江戸時代中期:安永年間 (1772-81)以前の製作と推定されており、 有形民俗文化財として県指定にもなっています。演目は宝暦3年(1753)氏子で当時徳永村庄屋の中沢伝佐衛門近義!!が神変応護桜と題した詞章を書き下ろし、初演は翌年【池尻神社遷座100年記念】の祭礼に明神講の手により奉納されています。
池尻神社「神変応護桜」の頭首(カシラ)

奉納祈願には氏子安穏は当然ながら五穀豊穣・商売繁盛・家運隆盛・無病息災・ 夫婦円満・交通安全・大願成就・良縁成就・子宝祈願、さらにその他諸々厄払…と年に一度とはいえ此の日の神様は多忙です。神輿が急な石段を登り境内を練って宮入を終える3時頃に開演されます。拍子木を打ちながら人形狂言「神変応護桜」の演題と感単にストーリーを説明する奉納口上で始まり、最終章では”ドン・ドン・ドン”と 太鼓の低音が鳴り響いてオロチの出現となります。 口上にもコマ落としの様な上演にも、表現が見られない部分は残るが「毎年秋の収穫期になると14~15歳の少女を大蛇の人身御供に捧げねばならなかったがある年
急な石段参道を神輿が宮入して錬りこみを終えると 愈々始まります!!

・老夫婦の娘に白羽の矢があたりる。両親は大変悲しみ、そろって池尻神社に御願いに行った。 「桜の木の下に住むと言う娘と結婚する」とのお告げを受け都から来た旅の若い武士:八重垣が池尻神社には立ち寄り、お告げの相手を聞こうと参詣して一心に祈っていたが旅の疲れから、つい転寝(うたたね)してしまった。その夢の中に神の声が聞こえ、宝剣が桜の木の上に降りて来た。はっとして目を覚ますと桜の木の下には宝剣がある。池尻神社の御祭神:大山隈命の神威となる 宝剣を押し戴いた八重垣は蛇を退治して娘を救った。
境内での神輿の錬りこみと人形狂言の舞台

その娘:稲田姫こそ、お告げにあった「桜の木の下に住む娘」であり稲田姫を妻とした武士:八重垣は村に住みつき大願成就・子孫繁栄・夫婦円満・オロチ退治による厄払い…と種々御利益に繋がるものか?前半は謡曲調、 中程は浄瑠璃調・説教節調・能狂言調・後半は謡曲調へと場面によって 調子が変わるのと囃子や三味線等の楽器類を使わず 人形浄瑠璃の古い形態を残していることが特徴とされる。本殿背後に赤い鳥居が並び、直ぐ奥に三社を祀る祠が建つ。其の横が丘陵最高地点で雑木藪の中に円型の盛り上がりを見る。
神変応護桜の「稲田姫」


埋蔵文化財遺跡分布地図による 池尻神社古墳で全長41mの前方後円墳だという。 雑木・下草で蔽われた藪の中では分布図と位置確認で古墳と思える程度。長安寺城(長安寺館)は此の池尻神社西下の石段参道の手前で「殿垣内」の案内板があり、西はR176から一印谷川を渡って、北面は一印谷川に池尻川が合流する地点に 位置したフエンスで囲まれたグラウンド前付近ですが、更に南へ進むと 民家手前の低丘陵末端部の端の田圃が丘陵裾に沿って 三方を深い堀状を廻して突き出す。車道を隔てた西側も溝はそのまま西端の一印谷川へ延び民家の先は長安寺館で触れているように長安寺交差点です。
池尻神社人形狂言:終演後の揃い踏み・

一印谷川は大山川に合流し交差点は大坂・京都への街道分岐点。車騒や車の振動が伝わってくるほどの位置。 此の集落から東側の低丘陵部の間を池尻谷へ入る地区道があり、東側に中澤氏菩提寺に長安寺跡が、西側の小丘は山頂部に祠が祀られるが、此処も分布地図には内垣古墳(横穴式石室の円墳)が記されている。 探してみたが・よくは判らない。ただ大山荘へ入部した中澤氏の長安寺館は池尻神社前より、むしろ此の祠のある丘を二つの街道の監視・見張櫓として此の下に屋敷を構え、長安寺館の主要郭となっていたものか?。
(現地「池尻神社人形狂言」篠山市教育委員会案内板 丹波地域民俗芸能GUIDE MAP等を参照)
別冊丹波霧の里HOME 本誌丹波霧の里HOME