氷上町 鴨内の里 鴨内古墳・下隠谷古墳・鴨内城(仮称)
丹波市氷上町(五万図=福知山)
丹波の古墳 鴨内古墳1号墳・2号墳 下隠谷古墳
近畿の山城: 隠内城(隠ガ谷城 仮称)

高岩寺

R175号線(水分れ街道)とR176号線(丹波の森街道)が合流する 丹波市街地の稲継交差点から北上する県道7号(丹波の森街道・青垣柏原線)を 和田山方面に向かうと沼地区でカヤマチ山(748m)から水山を経て東へ延びる氷上町と青垣町も町境尾根先は一端県道7号線に落ち、鴨内(かもち)から点名:栗栖を五台山からの尾根を併せて京都府福知山市境のクロイシ山へ延びていきます。
下隠谷古墳:奥壁から崩れ落ちそうな?開口部の秣石?

沼地区で県道7号線に先端を落とす尾根先のピークには沼城が、尾根の北山裾(青垣町側)には丹波市では珍しい平城の栗栖野城があり、今では其の山腹をトンネルで抜けて和田山・豊岡自動車道が通じています。丘陵末端を廻り込んで青垣町に入る7号線の手前で県道109号が東芦田地区を抜け穴裏峠を越えて福知山市に向かいます。
鴨内古墳1号墳

此の東芦田地区は芦田氏本拠の東芦田城や支城の栗栖城がある。其の(県道109号)南約1.2km手前から 東の鴨内地区へ向う県道282号線は2km程入った山麓で消え、山道となって五台山〜クロイシ山〜 親不知への縦走登山ルート上の根鴨内峠を越えます。
鴨内城(隠ガ谷城)<仮称>連郭部

鴨内峠には通行の安全を祈る地蔵尊が祀られて、今は荒れているが道の確かさからは、昔は鴨内〜鴨坂へと氷上町・市島町を最短で繋ぐ間道を往来する人は 少なくなかったと想像出来ます。鴨内峠の市島町側には 主要街道のR175 (水分れ街道)に出る中程の上鴨坂地区だけでも中世城館が四つ程が集中して在るが、氷上町側の鴨内地区には遺跡分布図を調べても五つばかりの古墳の分布が見られるだけです。
チャペルの塔が示す!!仮称:隠内城(中央の丘陵部)

そんな鴨内地区にも城砦があっ!!?。古文書や詳細に情報収集して調査したわけではないので、 気付かなかっただけなのかもしれないが、町誌・市史・郡志や最近?までに発行された遺跡分布図や市・県教育委員会の調査報告書等に記載がなく、見当外れや見過ちがあるのかも解りませんが鴨内城(隠ガ谷城<仮称>)としてレポートしておきます。



 隠れ谷砦(鴨内城)<仮称>


鴨内城(隠ガ谷城)<仮称> Xxxx Ca300m  丹波市氷上町鴨内

プロローグに記したように鴨内(かもち)地区を抜ける県道7号(丹波の森街道・青垣柏原線)沼地区から県道 282号が鴨内谷川沿いに延びて途中から山道となり、五台山北尾根の鴨内峠を越えて市島町側の鴨坂へ降る。上鴨坂地区に鴨坂城が在り 鴨内谷川から北方の小谷へ越えると県道109号線・芦田川沿いに穴裏峠を越えて福知山市に入る要衝で、
堀切向いに主郭側の土塁櫓台!?

芦田氏の本拠城・東芦田城や栗栖城があり、 南への尾根を越えると伊佐、県道7号線へ下ると伊佐口だが、谷沿いに少し詰め上がると香良へ出るルートがある。香良は独鈷の滝や浅山不動尊があり、五台山への登山口として知られるが三好長慶に煽動されたかたちで芦田氏・足立氏の連合軍と、黒井城の荻野氏・赤井氏が戦い、若き闘将荻野(赤井)直正が重傷を負いながらも 辛勝し芦田・足立氏の連合軍は瀕死の大敗となった、香良合戦があったところ。
御霊神社跡?付近は屋敷跡か

此処には山頂部に香良城が在った。鴨内谷西の入口・県道7号線を北に進むと穴裏峠にむかう県道109号線との分岐。県道西側には氷上町と青垣町を分ける境界尾根があり東末端部を和田山豊岡自動車道をトンネルで抜ける。此の山上には沼城が丘陵北裾には丹波では珍しい平城の栗栖野城がある。遺跡分布図を見ていて・
主郭大土塁(櫓台?)から 隠ガ谷側に続く低土塁

鴨内地区内に古墳は数基存在しているが 城砦等中世期の遺構記載がない。北に芦田氏の本拠城があり、南の丘陵を越えてなを芦田氏・足立氏連合の城があったが青垣町方面と春日町竹田を結ぶ最短ルートで、県道も山道で切れるが両町を繋ぐ県道は〃282号線だが鴨内に中世城館や城砦を示すものは此処には何もない?。 小競り合いは有っても近郷を横領して勢力拡大を図る事なく、こじんまりとまとまっていた芦田氏の統括地領だったか?。 御霊古墳と鴨内古墳1号墳を探しているうち、氷上キリスト教会の背にある中庸の低丘陵上に城砦遺構を見つけた。
一ノ曲輪から主曲輪に入る土塁虎口部!!?

集落側から見て然程目立つ尾根のピークに位置してはいないが狭い集落全域と鴨内峠に向う間道と、北に小谷(県道109号東芦田への入口に近い)や南 に香良側へ抜ける山道を監視出来る位置には在る。 御霊古墳の所在は探し出せなかったが御霊の名称からは御霊神社が建っていたであろうと思える広い平坦地が隠ガ谷の東北方に在り、山の斜面には石積も残る3〜4段の平坦地がある。鴨内峠に至る道から少し入りこんだ位置にあり、 御霊神社の名からも小さな祠でも あったか?。
谷筋に並行して谷の水を引いた登城口の濠跡?

古来:街道を通って入ってくる悪霊・怨霊を鎮める為に祀る御霊信仰からも、 鴨内峠はよく利用されていた間道だったのでしょうか?。弘治元年(1555)赤井・荻野氏一族を討つ為、三好長慶の臣:松永氏・内藤氏の連合軍が香良に結集し、 芦田氏・足立氏は三好軍に加わっての香良合戦の戦闘は三好軍の敗北(実際の戦闘に三好軍は加わらず 芦田氏+足立氏vs赤井氏+荻野氏の戦いだったようですが)となり足立・芦田氏には生存者僅かの壮絶なものだったと云う。信長の天下布武により天正3年(1575)より始まる明智光秀による「丹波攻略」では、
谷筋と並行して、谷の水を引いた用水兼濠跡?

羽柴秀長・丹羽長秀等の援軍を得て本城の黒井城も天正7年(1579)落城します。香良合戦や明智氏の丹波攻めの際の 芦田氏の関わる伝承は 御霊社に残るのかもしれませんが?建物が有った痕跡はなにも残りません。数段続く平坦地も大きな神社で有ったとは思えず、隠ガ谷城砦関連の屋敷や小屋跡とも思えてきます。隠ガ谷を挟んで谷と並行して 尾根筋末端部の内側には貯水池跡・空掘り状の窪地があり、 急斜面上部に数段連続する曲輪ある。登りの尾根が続く途中・尾根の南側を遮断する一本の堀切が城域を分けている。
主郭切岸と最奥に櫓台土塁

尾根続きは暫く緩衝地帯の様な緩斜面が延びているだけ。堀切内側は櫓台状の土塁と主郭・段差をもって下方に二ノ曲輪があり、共に低土塁らしい盛り上がりが隠ガ谷側に見えて共に3-4m程の段差だが切岸加工されている。さらに4-5段小曲輪が続き 2つばかりは上段曲輪を少し廻り込み気味の腰曲輪となっている。帯曲輪は通路としてもな竪堀等の防御設備もみあたらない。一ノ曲輪から主郭に入る東端に土塁道か・凹角の平入虎口?らしい登り口がある。西側からも短く斜上して入れるが、後世の山道かは素人目に判断も出来ない…まだまだ周辺は未確認です。春日町への間道が通じる北側正面からの攻撃に対処できる 防御に乏しい様ですが、芦田氏の城砦の一つと考えてみます。
一の曲輪・二ノ曲輪(共に切岸2m)からの連郭部

教育委員会や専門家による町村誌や古文書の研究と詳細に・専門的に城砦の遺構調査をお願いしたいところです。高岩寺の詣り墓に芦田家1党の祖を祀る碑が立ち「蘆田下野守従五位藤原政家・元亀元年(1570)建立」と刻銘があった。 鴨内の土豪か…此の城に関連の人物かは碑文の建立年号以前の何時頃の人物なのか?は下野守従五位の官位からも読み取れず!!??不明です。建立時期からは:其の15年前香良合戦【弘治元年(1555)】があり、関連ありと推察するのですが?。香良合戦の敗戦に・黒井城主:赤井(荻野)氏に降して、傘下に組み込まれた足立氏 ・芦田氏は其々に旧領地を回復できたのかも?。芦田氏本拠:青垣町東芦田の瑞雲寺手前に栗住城がある。
大土塁櫓台からの堀切

鴨内城へは芦田氏の 栗住野城、其の詰め城だったとも思える沼城(氷上町)麓から東へ向い 鴨内峠を市島町鴨坂へ通じる間道筋。真北ほぼ約1.2kmに位置する栗住城とは竪堀・帯曲輪を外せば縄張り構造がよく似ている。殊に主曲輪の土塁線が西面の氷上領内側ではなく山側の東面 に築かれている事は 春日小富士を陣城として明智光秀の「丹波攻め」に黒井城主:荻野直政傘下にあった芦田氏が市島町徳尾・上鴨坂からの 侵攻に対する監視・防禦の任に応った砦だったと推察するのですが…?。
北斜面に曲輪が連続する

時代を遡ぼって赤井・荻野氏が蘆田氏と同族とする系図からは、源頼季の三男で井上姓を名乗った満実の三男家光が保元3年(1158)丹波芦田庄へ流され、芦田姓を称したとも蘆田党の一族:栗栖野氏の娘を妻とし蘆田姓を名乗ったともされます。 文治元年(1185)壇ノ浦に平家滅亡後:此の 家光の道家が 氷上郡(丹波市)から天田・何鹿・船井郡(福知山市・綾部市)へと勢力を伸ばし道家・忠家・政家の三代にわたって丹波半国の押領使となり、其の地位を確立して権勢を誇った時代もあった。源氏方であったという蘆田氏の墓碑に藤原!!は似合わない?が 「…xxx藤原政家」。
隠ガ谷側に延びる低土塁:櫓台から

その政家のものか?政家の孫為家が建保3年(1215)に 父朝家?から赤井野を与えられ此処に後屋城を築いて赤井姓を名乗ったとも云う。為家の子は兄家茂が後屋城を継ぎ、弟重家が朝日城に移り荻野姓を名乗ったと云い赤井氏の先祖!!?赤井・荻野氏系図も二系図があり、いずれもが正鵠を欠く?。 いつの日にか歴史家の研究調査により「蘆田下野守従五位藤原政家」の謎の石碑や、鴨内城の城主・其の城史が解明される事を期待して城を後にします。


鴨内古墳群
鴨内古墳2号墳  丹波市氷上町鴨内

県道7号(丹波の森街道・青垣柏原線)で氷上町の市街地抜け、香良の独鈷の滝への県道283号分岐を過ぎると、加古川(旧佐治川)に枝流:鴨内谷川が流れ込む地点で県道109号と合流して沼地区に入るが、川を渡る手前の日比宇に小公園が有り、 此処に日本海と瀬戸内海へ流れを分ける「日本一低い中央分水界

中央分水界「小水分れ」モニュメント

【水分れ】 (氷上町石生にある)」を石で表現したモニュメントが置かれています。鴨内地区へは沼地区殻は入れますが、公園脇からの車道から向います。鴨内(かもち)地区内を鴨内谷川沿いに走る県道282号は約2km程も進めば、 五台山からの尾根を市島町側に越える鴨内峠への山道(県道282号線には変わりがない…)となり、 山を下った上鴨坂で再び ?県道282号線となって前山(さきやま)川沿いにR175号(水分れ街道)に出る。
鴨内古墳2号残石(南側から)

県道に入って直ぐ北側の田圃の中・幅の細いコンクリートの畦道の先に雑草に覆われてはいるが古墳の残石が見える。丹波市の旧氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書に氷上町版がなく、 県考古博物館の遺跡分布図にも、此処鴨内に点在の古墳について全てコメント欄は空白のままなので鴨内古墳 2号墳はその概要も不明です。此処にはお宮さんが建ち、太鼓倉も建てられていた氏神の様ですが、神社は直ぐ山手に移されたという。
鴨内古墳2号残石

東北約800m程に在る高岩寺に連なる西方の山懐に芦田神社の鳥居が見える。お宮さんは此処に移されたものか ?其の下部に建つ小社なのかもしれません?。田圃の片隅に残留する鴨内古墳2号墳は横穴式石室を持つ円墳だったのでしょうが、 残存する石からは石室の側壁部が一部が残されているのか?天井石なのか?。田圃の畦の端に残された石材の一部から、古墳の状況を判断出来る何の知識も持ち合わせていないことが幸か不幸なのか…?

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鴨内古墳1号墳  丹波市氷上町鴨内

鴨内(かもち)2号墳を左手の田圃の中に見ながら県道282号線を進むと、 高岩寺側からの地区道と合流して鴨内谷川を渡る。橋の手前に広い駐 車スペースが在るので此処からスタート。橋を渡った右手に氷上キリスト教会への道を見送り、その先の最奥の民家の先に小さな芦田一党!!の墓地があります。
鴨内古墳1号:西側から


直進する細い車道は山間へ入る舗装された一本道、すぐ先で道路を遮断する鹿猪避けフエンスの 扉を開閉して続く道は何処まで進むのか?、鴨内峠を越えて市島町鴨坂地区へ通じる県道282号線も峠越えにかかる頃には登山コースとして歩く人も少ない峠越えの道・氷上町 ・市島町を繋ぐ最短コースの間道は丹波市最後の宿場町佐治から但馬へ、 市島町からは R9号(山陰街道)へ通じ、 よく利用された街道だったと思える鴨内地区は西に開き三方を丘陵に囲まれた小盆地。
鴨内古墳:1号玄室


先程の小さな墓地に続く奥隣に封土を流失して石室部を露出した鴨内古墳が在ります。前説が長くなってしまいましたが、此の古墳から南側の丘陵尾根を辿ると、此の尾根の北末端部の平坦な山頂部に 、 堀切で尾根を遮断し5〜6程の曲輪を連ねる城遺構があります。 訪城ついでの古墳ではあるが封土が石室に流れ込んで埋まったものか、
鴨内古墳1号:玄門部の秣石(羨道埋もれて袖部形式等は不明)

石室の規模や状況は判らないが横穴式石室を待ち石材・石室があり、狭くともその石室内には天井・側壁の石が紛失(抜けた)している部分から 消失入室可能の古墳だが、マニアックで訪れる人も稀有・殆ど知られていない事と相俟って古墳フアンの評価は 少しアップするかも…?玄室は長さ約4m・幅1.5m程・高さは流入した土砂で埋もれ不明ですが、石室内に持ち送りがなければ玄門部の秣石の大きさから両袖か片袖式が想定出来そうで?、規模は下隠谷古墳より少し小型か?


下隠谷古墳    丹波市氷上町鴨内

鴨内集落内の北側丘陵裾に白く光る二本の石の山門柱と、其の先には総石垣積の台地上に高岩寺(氷上町西国霊場・第23番札所:本尊 千手観世音菩薩)が建つ。 背後の緩やかな尾根の東北端に見える最高ピークの頂付近に露岩が見えているのが寺名の由縁か。本堂の縁側沿いには補修用と思われる瓦類が置かれているが、大きな二体の木彫りの布袋像・大黒天像・福禄寿?の笑顔に見送られて墓地横から裏山に続く 山道に入って直ぐ正面の鹿猪避けフエンスがある。
下隠谷古墳の玄室奥壁

古墳の所在を探そうと開閉してフエンス内に入るまでもなく、見上げる斜面上に下隠谷古墳の墳丘が見えている。近づくと炭焼き窯跡状の大きな窪地があり 此処も石材が持ち去られた円墳の跡かと思ったが、立木の下!!に岩の空洞が見える。羨道部の石材は抜かれているが、此処が玄門部で一気に天井が高くなる部分か、それとも天井岩がズレ崩れかかっているのか?。岩壁自体も風化して危険な状態に有るようですが 玄室部の封土と岩室は確りと残っています。丹波市の旧氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書には、氷上町版のみが過去にも氷上町の文化財!!等の種々調査・報告書が発行されている様で発刊されて いません。県考古博物館のWeb遺跡分布図にも、此処鴨内に点在の古墳については全てコメント欄は空白のまま。デジカメだけ持っての空身で懐中電灯も無く ・簡易にメジャーでの実測もしていないので見過ごしは多い。
下隠谷古墳:立木の下が石室の開口部

石室の現状は不確かですが凡そ高2m・幅1.5m・開口部からの奥行4m程か?。詳細は専門家に委ねます。ただ内部は岩質か・左右からの圧力か?岩の劣化等で緊急ではないにしても危険な状態にあるようです。開口部には玄門の秣石が支える岩を失って、 斜めに落ち入口を塞いでしまいそうな不安定さ。遺跡分布図には此処より東方に木ノ裏古墳の名が見えるがこの時期「止め山」の表示は無かったが探索は止めて鹿猪避けフエンスの外へ出た。下隠谷古墳とばかり思っていたが、 随分探して見つけ出せなかった木ノ裏古墳が、此の古墳では?開口部の立木を見て不図!!?そう思った。果たして・・?


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