「宵田表・水生表の戦」の舞台 宵田城・祢布城・国分寺城・伊福城・水生城・竹貫城
豊岡市日高町・垣屋氏の城館廻り
近畿の山城: 宵田城 祢布城  国分寺城 伊福城 水生城と竹貫城 藤井東城
宵田城主郭から神鍋山・三川山方面の残雪を望む

養父市から豊岡市へ円山川沿いに走るR312号は進美寺登山口・赤崎地区への分岐「赤崎橋]の浅倉西交差点から宵田城直下の城山トンネルをバイパスで抜けた岩中で神鍋高原・植村直巳記念館方面からのR422号と 交差する。直進すると祢布(にょう)でバイパス道から外れると西の丘陵に祢布城・分岐点前方のバイパス道国分寺トンネル上には国分寺城がある。
祢布城主郭と西の堀切

美方郡香美町方面から神鍋高原側へ越える街道筋・稲葉川が円山川へ流れ出る谷の南口を宵田城・北口を祢布城と国分寺城が押さえる監視・防衛する体制がとられている。国分寺城の南山麓の登城口には但馬国府跡と奈良 時代:天平13年(741)聖武天皇が国家安泰を祈願し諸国に建立させた但馬国分寺跡があり、川と山陰道・街道筋が交差する宵田は水陸交通の要衝地にあり、
国分寺城主郭

市場として・また城下町としての体裁が整い発展していったのかも。城名が所在地の井中ではなく 宵田であることは一因なのかも?。宵田城訪城の後は祢布・国分寺の二城を廻ってから水生城合戦や宵田表の戦い等・垣屋氏関連の諸城のうち水生城・伊福城へも後日訪れる予定…。



宵田城 祢布城 国分寺城 伊福城 水生城と竹貫城 藤井東城

宵田城(南竜城) 城山 155m 豊岡市日高町岩中字城山(城山公園)・宵田

岩中交差点をR422号へ右折し旧道と合流するとJR江原駅前に出る。宵田城はJR江原駅南西約1.5km・標高156mの城山山頂部に主郭を置く山城で バイパス城山トンネル上の城址は南口・北口どちらからも直上に切岸を立てる城址遺構はJRからも車窓からも確認出来るので城名までは兎も角としてご存知の方は多いでしょう。
宵田城主郭とニノ丸(左)・北帯曲輪(右)・間に竪堀

西方から山裾の北から東へ、更に南へと城址の丘陵を取り囲む様に流れる稲葉川を 天然の濠とし南西へ延びる尾根筋を除き三方は急峻で起立する城址を仰ぎ見る比高135m程を一気に稲葉川に落とす。神鍋高原(神鍋・万場・名色等スキー場が点在する)流れ出る稲葉川は蘇武岳を源頭に阿瀬渓谷から清流や知見川を集めて円山川へ流れ出る河口の高生(尾):平野(国府平野)に在って日高平野の南端部。
稲葉川(鹿島神社側登山口)から宵田城

城名は所在地「岩中」よりも山陰道・街道筋が交差する水陸交通の要衝にあり眼下に江原市街地を見下ろし円山川流域南に八鹿方面北方には 豊岡方面を望み山の資源・平野部の物産等物流の集散地で市が立ち城下町としても発展する要素が多分にある「宵田」によるものか?。国府が置かれ聖武天皇の 勅願:国分寺が建てられた但馬の政治中心地。但馬守護山名氏の被官で山名四天王の筆頭として日高の地に勢力をもつ有力国人で稲葉川流域・阿瀬鉱山(金山)を支配した垣屋氏の分流が
ニノ丸・東下腰曲輪から豊岡方面

居城したと伝わる。【惣領家越前守系の楽々前(ささのくま)城・越中守系の宵田城・駿河守系の轟城】 明徳2年(1391)暮:山名氏一族の時熙(ときひろ)と氏清・満幸の内紛を利用し全国六分の一:十一ヶ国の所領を有した山名氏の強大化を嫌った将軍足利義満は 前年康応2年(明徳元年)山名氏清等に時熙の討伐を命じていたが時熙が義満に許しを請い此れを許した事を氏清は怒り、
宵田城主郭北の石垣虎口T

義満を別邸に招待しながら風邪を理由に席に顔を見せず、今度は義満が出雲守護満幸を罷免する等の挑発に氏清が挙兵した明徳の乱に家臣の多くが氏清方に属するが垣屋ョ忠(弾正忠)は山名時熙に従い参戦するが討死。足利義満は直ちに細川ョ之・畠山基国・赤松義則・斯波義重・一色詮範・山名時熙等に討伐を命じた。乱の勝敗は一日で決し氏清・満幸等は逃走。
ニノ丸から主郭北帯曲輪・竪堀下の帯曲輪

山名氏の所領は但馬・因幡・伯耆三ヶ国だけとなり山名宗家は時熙の系に固定される【山名持豊(宗全)は時熙の子】。 垣屋家は明徳の乱を契機として山名家の筆頭家老として最盛期を迎え郡代として大躍進と隆国・国重へ続く基盤を堅めた。応永年間(1394-1427)山名氏重臣で但馬守護代 垣屋播磨守隆国(越前守熙忠!?)が楽々前(ささのくま)城を築き、嫡男越前守満成(熙続)が
主郭大手土塁虎口の延長上土塁

楽々前城を継ぎ永享2年(1430)宵田城を築き二男越中守国重(隠岐守熙知?)を、三男駿河守豊茂(国時)を竹野の轟城に配して其の支城としたと伝えられる。隆国の嫡男・二男には主君:山名時熙の偏諱(家臣の功に対し、 また元服の際等に一字を与え・信頼の篤い事を示す)を承けている。嘉吉の乱(1441)の恩賞として山名持豊(宗全)が播磨守護職を賜わると播磨守護代は 垣屋越前守満成(熙続)を代官に任命している。
主郭北の石積虎口U:内側には石段が敷設されていたかも!?

国重は文明8年(1476)死去し其の子?(孫)遠忠も文明18年(1486)播磨国英賀で赤松政則と戦って討死したが以後良国・忠顕と続き?宵田城は垣屋宗家の一翼をになって戦国時代を迎えた。応仁の乱に赤松氏は旧領の播磨等を回復し、 奪還を図り播磨へ侵攻するが押し戻される等、次第弱体化する山名氏に家臣団内部にも対立が生じ山名氏四天王(垣屋・田結庄・太田垣・八木)四家が対立するようになると 守護:山名氏とは対等の地位と勢力を持った垣屋氏により
主郭北虎口付近からの北郭

永正元年(1504)此隅城(出石町・有子山城前の山名氏本拠城)が攻撃される内乱も起きる。大永2年(1522)播磨へ侵攻した山名誠豊は敗退し但馬山名氏は衰微し永禄12年(1569)但馬守護:山名祐豊の時、毛利氏が山名氏を押さえる為の織田信長に援助を要請し 木下(羽柴)秀吉軍による攻略に此隅城を追われるが翌:元亀元年(1570)許されて旧領地但馬を回復して天正2年(1574)有子山に築城する。天下統一を推し進める織田氏と 中国地方の覇者・毛利氏のどちら付くか但馬の武将達は揺れ動きます。
北郭の二段曲輪虎口と堀底道か?・竪堀に改修されたか?

織田色を強める田結庄是義(鶴城・愛宕城)と毛利方との連携を重視する山名氏家臣団筆頭:垣屋豊継(竹野轟城主)・垣屋忠顕?(宵田城主)・八木豊信・太田垣照延との対立が熾烈化し天正3年(1575)10月には織田・毛利の代理戦争野田合戦が起こります。此の合戦に田結庄是義は自害し垣屋惣領家は反毛利として一族で反目し合ったようだが垣屋豊続は但馬を毛利方に統一し山陰の拠点として
主郭西:分かりづらいが土塁(中央右に露岩)を挟む二重堀切

立ち向かうが天正8年(1580)羽柴秀吉の第二次但馬(第一次は天正5年)侵攻の羽柴秀長軍に有子山城の山名氏政は因幡に出奔し開城、城に残った祐豊は落城後・日経たず病没した。宵田城主垣屋峰信 (鶴ヶ峰城主:光成の弟)父子等の主戦派は”宵田表”に抗戦し一時的に羽柴軍を退けたが敗れて楽々前城に敗走し討死したという。
ニノ丸から主郭(切岸約8m)

その後の秀吉政権下で羽柴秀長・岡城主となった宮部継潤に和を請うて下り宵田・江原に楽市令が出されると町場として有子山城の羽柴秀長・前野長康<泰>等の支配下に置かれた。宵田城主系垣屋国宣は楽々前城主となったが関ヶ原合戦には西軍に付き敗走し高野山に自害?<慶長6年(1601)江戸:四ツ谷に蟄居したとも!!?>戦後に所領を没収されている。
ニノ丸から主郭北帯曲輪:嘗て一部を除き矢竹の藪の中だった

宵田城跡へはR312号線沿い西にJR山陰本線踏切を越えた南東山麓の 岩中地区公民館に駐車させてもらったが、土地勘があればxx工場の南側角から直進する幅狭い車道が秋葉川を渡った川向い左に岩中水力発電所・右に鹿島神社の間の広い駐車スペースが利用出来そうです。発電所関連工事車輌用かと思うが鹿島神社側に車止めがあり此処から道標も完備された城山公園遊歩道が山上の宵田城主郭まで通じている。主郭の南土塁虎口を入った左手(南西)にも土塁が延び
三ノ丸

そばに送電線鉄塔が建つので其の保守・巡回点検用の専用道路がニノ丸からの南尾根段曲輪群の下方付近まで上がってきている。専用車道沿い遊歩道は途中”城山登山用旧道”の標識を見るが相当荒れ殆んど利用されていないが途中にも曲輪跡を見て遊歩道に出る。 次の旧道からは完全な藪の急斜面なので此処は避け遊歩道を主郭・二ノ丸まで進んだ方が良さそうです?。
北曲輪:土塁の残欠?より 枡形虎口受曲輪

藪の踏み跡伝いに竪堀を見て南端?曲輪にのると後は大小5-6段の曲輪群が続くが曲輪内は下草藪と雑木・更に竹藪は倒れ朽ちた竹材、鬱蒼とした矢竹と 雑木の藪を分け・おまけに急峻で高い切岸の曲輪を越すのに難渋する。一段高い切岸下で竹薮が切れ西端に城山登山遊歩道が上がってきている…?とばかりおもってレポートしていた。三の丸下付近まで木が伐採され遊歩道として擬木階段で整備され、訪城の為だけに此処まで車道を延長する予定だったが遺構を破壊する行為に中止された由し。
北曲輪群西端に落ちる二条の竪堀:右手上部に水曲輪?

切岸上部が二ノ丸・西側に主郭の切岸(約8m)を捲く帯曲輪が主郭西北端の石垣・石塁の虎口まで延びる。 主郭は南面をニノ丸から延びる帯曲輪が取巻き斜上する大手土塁虎口と北郭・西郭に繋がる西北面には搦手?の石垣虎口:二ヶ所を持つ大規模な楕円状の南北に約25m・東西約 45cm程の曲輪周囲は鋭角に切岸処理されている。石段にも使用されたと思える石材や崩れた石垣用材が散存し、特に堅固に見える石垣虎口の二ヶ所は枡形虎口だったと思われるが?が現状からは判らない?。
北曲輪群西外の曲輪は畝状竪堀が曲輪左右を分け、谷筋に水場・取水口あり!!)

城域は五方向に延びる尾根上の東西・南北共に約400m程(枝尾根末端部の曲輪群含めてもっと 広範囲となる)に曲輪・堀切・竪堀を配し防御する。ただ主郭部の縄張りは天正8年の落城後に織豊系勢力によって改修・改築された可能性が高い遺構と考えられています。山上の主郭からは清々しい残雪を頂く神鍋山・三川山方面の山々の素晴らしい眺望が得られます。ニノ丸北面角を幅広い竪堀が一条落ちるが ニノ丸中程から竪堀落口へと低い段差に沿って石列を見る。
北東尾根先端(切れ落ちる極小見張曲輪?の足下には屈曲する稲葉川!)

ニノ丸東端から5m程の切岸下・北の尾根続きに三ノ丸(東西約20mX南北約30m程)・高く急な斜面下にも大きな曲輪 (未訪)が見えるので稲葉川が屈曲する東北端に突出す此の下方や東側は稲葉川が廻り込んで宵田地区の要衝中心部を見下ろす位置にあり、急斜面ながら先にも縄張りは展開しているよう。主郭には古瓦が出土・ニノ丸(南北約30mX東西約45m程)には井戸跡が残って?いたと云う。 搦手?石垣虎口を北東下方へ降りると 北末端に鉄塔を乗せる北郭が城山トンネル北出口側へ延び出す。
城域北東端麓の屋敷跡?(3-4段の石積)

主郭北東側へ廻り込んで北曲輪へ下る谷の東北斜面に三条の畝状竪掘を見て尾根筋に乗る付根付近の傾斜面に連ねる小曲輪には二段(二重)の土塁曲輪に連続して開く虎口を抜け 送電線鉄塔に向かう西側半分は樹々が伐採されており切岸上に幅広い土塁が確認されるが残欠等は崩壊や建設工事に因るものか・荒れ過ぎて削平状態も悪いが東側半分程は伐採されず 雑木が残っておりニノ丸同等の規模の曲輪だ。引返して主郭北虎口下方をトラバースし西郭へ向かう北面斜面にも 2-3本の深く長い竪堀を観る。
城域北東端屋敷跡?から尾根筋へ石積みは崩れているが階段だったか?

西郭から主郭へは急峻な8m程の切岸。西尾根続きの10m程下方に大土塁を挟んだ二重堀切で尾根が遮断されているが更に先へは緩斜面が延びていくだけの様で藪地でもあり 引き返したが城域規模は東西の約500m程。北郭から北麓へ・ニノ丸や三ノ丸からも、更に北や東下方の山麓にかけて曲輪群が、また登ってきた南尾根筋を鹿島神社へと南北にも4-500mと大規模な縄張りの様相です。


祢布城   城山・祢布山? Ca110m   豊岡市日高町祢布字城山

宵田城の在るR312号バイパス道の城山トンネルを抜け出た R482号線「岩中交差点]の直ぐ先・国分寺トンネル手前でバイパス道を西北に外れて地区道を進めば左手の丘陵が目指す祢布(にょう)城
楯石神社が祢布城への登城口

<祢布城のは古名を充て禰布城とも記される>のある城山・取付きとなる楯石神社【祭神に武甕槌命・経津主命・武御名方命:始め祢布谷の大岩 を立石大明神と称し明和7年(1770)・安政6年(1859)本地に遷移し本殿を建立、其の間:弘化2年(1845)十二所権現・若王子権現を合祀し楯石神社とした境内には 稲荷社・八坂社・八代社・三桂社の四社も祀られる】に向かう。
祢布城:主郭西端:堀切側の土塁と腰曲輪

祢布城主は旧高田郷の地名を姓として南北朝期には成立していた国人領高田次郎貞長が居城していたが高田氏は南朝方に属していた為、足利高氏に従う北朝方の山名時氏によって攻略されたと伝えられ以後の城史については詳細不明だが宵田城主:越中守系垣屋氏が其の支城として
祢布城:大堀切西尾根側の土塁?

稲葉川の河口にあって宵田城に呼応した山陰道の要衝監視・守備に当たった城砦だったか?。急な長い石段参道上の楯石神社背後から続く山道を辿れば北尾根先の曲輪に入る。此れより尾根筋には数段の段曲輪が潜む形状が窺われ尾根最上部が主郭だが進入さえ阻む猛烈な藪尾根は曲輪状況も掴めず時間ばかりが過ぎ、
祢布城:大堀切からの主郭切岸

徒労に終わる可能性が高い。極最近まで根雪状態だったか?雪解けの泥濘を避けながら西側山腹を捲く山道を伝い主郭から西に延びる尾根筋の鞍部に出る。 山道は鞍部を遮断する堀切道で主郭側に高低差8-10m程の切岸を立てる。堀切底から斜上して主郭北面の曲輪に乗り西面土塁沿い2m程の段差で主郭に入る。展望は殆んど望めないが間伐されれば東や南の展望は良さそうだが宵田城の様な公園化は出来ないのかも?。
祢布城:主郭堀切側から 土塁・腰曲輪と主郭切岸(約2m)

茅・篠竹に雑木・下草に覆われて荒れ放題の曲輪内から北尾根上の曲輪群を見て楯石神社へ降る気にはとてもなれれない。宵田城のニノ丸南尾根の曲輪以上に足元も見えない藪では遺構状況の確認は難しそう。主郭(20u程)を挟む南北の曲輪下を南から西面にかけて帯曲輪が捲く。南曲輪も切岸高い堀切のある西斜面側に主郭からの土塁線が延び土塁残欠が消えるあたり?、 西南斜面下方に竪堀が落ちている様にも見えるが藪地の暗さで見ったかも!?。主郭から西へも堀切を挟んで曲輪が拡がっている様に見え
祢布城西郭部?・・中程には浅い堀切状
たが自然地形のままの幅広い尾根筋が4-50m程延び、埋もれた堀切状に見える箇所もあるが城域(西郭部)と考えれば曲輪を分ける仕切溝?。172mピークへの登り尾根と南枝尾根分岐付近が段差をもった堀切道状(南枝尾根筋を登ってくる山道か)にも見える?が規模を此処まで広げた中規模城郭の西郭か?・将兵の有事の待機所か?・単に緩衝帯なのか?。南北朝期の領主:高田氏の古城域だったのかも?。



国分寺城(大坪城)
 国分寺山・大師山・水上山 Ca90m 豊岡市日高町国分寺字城山

祢布城の南には稲葉川を挟んで宵田城が東にはR312号バイパス道の国分寺トンネル前高架を潜った先の 宅地・畑地?に但馬国分寺旧跡があり、史跡地の北方背後の丘陵上に国分寺城が在る。但馬国分寺旧跡碑や塔跡・金堂跡を見ながら北へ向かう。
但馬国分寺跡の石碑と金堂西の塔跡の礎石盤(中央)

護国山但馬国分寺・国分寺区公民館横から延びる「天平の径」を辿ると約1.5kmで売布神社(国分尼寺跡?)に着く。右手に斜上して霊場巡り石仏が並ぶ大師山への登り口があり、上水道配水(浄水)場施設だけにしては広過ぎる平坦地。曲輪跡か?寺社跡かは不確かながら秀吉の但馬征伐による水生表の戦いに焼払われたものか!!?、施設建設工事の際”焼き米”が出土したと云う。 南に直近の宵田城はじめ日高盆地の眺望よく円山川に落込む東方の丘陵
但馬国分寺金堂跡:背後の丘陵上が国分寺城

末端部に伊福城も確認出来る。城関連施設(曲輪?)跡か戦時中の陸軍監視施設が置かれていたところか?。上水道配水場の脇から続くミニ霊場巡拝道(観音霊場巡りは大正10年頃に発願された様)を辿れば 南曲輪・主曲輪の東面・西面から北尾根側へ廻り込む広く大きな帯曲輪に囲まれた国分寺城主(約15mX25m程)まで通じています。
国分寺城西郭の長い土橋・・此の先に古城跡が在った!!?

主郭東端(切立つ10m程の崖状切岸上には石廟に納まる大師像?が刻まれた石碑や石灯籠が建つ。尼寺跡から続く”天平の径”は国分寺城を東側の主郭・北郭と西側尾根続きの西郭【北側に空堀を挟んで大土塁線を堀底道側に延ばす曲輪状(広い方形地形だが平坦地形とはいい難い。藪の荒地に内部未確認だが武者隠しか?)】に分ける堀底道を北方の八坂神社へ抜ける簡易?ハイキング道<遊歩道>。
国分寺城西郭:空堀(竪堀)と横堀(堀切道)に面した大土塁曲輪?

西郭部は三ッ程の曲輪の先に細く長い土橋が延びるだけで 途中から引き返したが尾根筋を更に北西へ進むと広範囲に国分寺古城の遺構があることを訪城後に知った。先程寄った祢布城に見た大堀切から西へ延びる 主尾根の平坦地形も単に自然地形ではなかったのか?、更に西尾根頂部へ・南へ延びる枝尾根上にも城郭遺構を遺す祢布古城があったのかも知れない?。 主郭と北郭の西斜面は自然の切岸(崖状約10m程)で、
北郭西面(堀切道側)の土塁線と櫓台土塁

此の主郭と北郭の間にも幅広い(5-6m程)堀切が曲輪を二分して東へ抜ける。藪の東斜面にも三条ばかりの竪堀を落としている。大規模な横堀・空堀・竪堀が多用されており、土塁や北郭には広い櫓台土塁が「天平の径」の大空堀と西郭側を足元に見下ろし監視する。高く急斜な曲輪の切岸と相まって主要郭部の平入り虎口部?を除けば 中世末期の縄張りは技巧的で見応えがある。
空堀を抜ける「天平の径」から国分寺城主郭の切岸

観応2年(1351)9月23日北朝方の伊達三郎が国分寺に布陣した記録が残っており延文元年(正平11 1356)にも伊達真信が 大坪城(国分寺城)を攻めている「伊達文書<伊達真信軍忠状>」。大坪城は国分寺古城なのか現状の国分寺城をも含めて示すものか知らず・其の後の動向等は定かでない。「但馬の城」によると 国分寺城の築城年代は定かではないが延徳3年(1491)頃から〜天正8年(1580)羽柴秀吉の
主郭切岸と南面帯曲輪

第二次但馬攻略に際し水生城を攻めた羽柴秀長(秀吉の弟)軍により敗れるまで)のものとされています。戦国時代の始まりとなった応仁の乱(1467-77)に播磨国を赤松氏に奪還された山名氏は播磨へ侵攻するが押し戻される等…次第に弱体化すると山名氏家臣団内部に対立が生じ
主郭・北郭を分ける幅広い空堀

山名氏本拠の比隅城を垣屋氏が攻撃する内乱も起き、織田信長に付くか中国の覇者:毛利に付くかで 但馬の武将達は揺れ動きます。天正3年には織田色を強める田結庄氏と毛利との連携を重視する垣屋氏らが対立する野田合戦<織田VS毛利の代理戦争と云われる>が起きる。
主郭南側の平入り虎口(霊場巡り参道の造成か?)

天正8年:国分寺城最後の城主大坪又四郎は水生城の合戦に参軍して敗れている。此の合戦には水生城主:西村丹後守と其の子・平八郎忠宗の元に垣屋駿河守豊続(竹野轟城)・長越前守(林甫城)・赤木丹後守(上野城)・下津屋伯耆守(伊福城)・篠部伊賀守(宮井城 )・大坪又四郎(国分寺城)等の
主郭南端曲輪(上段の曲輪から主郭左右を帯曲輪が捲く)

山名氏諸将が集まり作戦を練ったが、うち続く内乱・意見の相違による小競り合い等によるものか?謀は水生城に寄った諸将の一人による遺恨から秀吉軍への内通があって計画は露呈し・諸将が籠城する水生城に進軍する羽柴秀長軍の前に落城します。
(但馬の城・Wikipedia・兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会 を参照)

伊福城  城山 Ca77m 豊岡市日高町鶴岡字城山

伊福(いう)城はJR山陰本線江原駅の北東方約1.5km程の地点:日高平野の南東部に位置する。R312号のバイパス道が宵田城直下の城山トンネル・国分寺城の在る国分寺トンネルを抜け、従来?のR312号が円山川沿いに豊岡市街地向かい「土居交差点]で合流する。江原駅前から但馬国分寺前を通り
伊福城:西郭と主郭西曲輪部を分ける鞍部の曲輪?

円山川に出ると「鶴岡橋交差点」。山名氏の本拠:此隅城・有子山城の出石に向かうR482号、円山川に架かる鶴岡橋(171m)の東詰めに先端を落とす丘陵上に伊福城がある。鶴岡橋東詰の円山川右岸沿い・城址の丘陵西裾間に舗装車道が有るが入口に「式内井田神社」社号石標柱が立つが此処から進入禁止の車止め。此の車道?に入って直ぐ「伊福城址」の案内板と矢印表示の導標が有り急斜面の比高40m程を一気に、
主郭から円山川を挟んで西北方の眺望

遊歩道かと思えた山道は突然途切れ、直ぐ上方へ藪の踏み跡を辿り伊福城西端の曲輪に登り着く。丘陵上の城域一帯は大正の初期から戦時に掛け地元青年団により城址公園として整備され、先の祢布城もそうだったが桜木が植樹されており花見の名所ともなっていたと云う…が戦時中の食糧難には・食糧増産の為、畑地としての開墾され桜木も切り倒され戦後はそのまま放置されたようで、
伊福城主郭南の石垣:石積み

主曲輪内全体が平坦地なだけに現状の整地された広過ぎる状態からは曲輪を分ける段差や堀・土塁・櫓台等土檀もあったものか?遺跡調査内容を知らないので不明。主郭の広大な平坦地形(東西に約80mx南北約35m)は旧城崎郡(香住・日高・竹野・城崎・豊岡市も?)の古城中でも最も広い規模を持っと思われます。
伊福城主郭南の石列(土留め!?)

主曲輪の西には三段の曲輪と鞍部状に幅広い曲輪を挟んで西に一段の広い西曲輪があり末端の西斜面を円山川に落とし北斜面も・R482号から見ても分かる切立つ崖状を呈しています。主曲輪の南切岸には土留か石列・石積み・石垣(石積と石垣の定義は知らないが3-4段程度迄は石積・4-5段以上に積まれたものを石垣として区分している?)が崩れかけながらも残っています。
伊福城主郭南の石積み

主曲輪北斜面・10m程の切岸下に帯曲輪(?)主曲輪の東尾根続きには高低差5-6m?2m程で3-4段の曲輪が並び、最下段の土塁曲輪の外(東)には尾根を遮断する掘切が一本走る。城域西端曲輪や主曲輪からは円山川流域沿いに日高平野や国分寺城・祢布城と呼応して国府の平野部を望む。此の城は断崖状の西斜面を円山川に落とし、
広大な主曲輪内(公園整備・畑地ともなって改変されたか?)

蛇行する流れは深い淵をなす天然の要害となっているが、それだけに舟運の利便性があり宵田城の支城として弥布城 ・国分寺城が稲葉川沿い舟運や山陰道要衝を監視、伊福城主:下津屋氏が出石へに間道と足元の舟運監視共に垣屋氏に対抗する勢力が政略的に投入され・垣屋氏に対しても監視に当たったものか?。鶴岡橋東詰めから円山川沿いの道は南へ約200m程で井田神社(通称:伊福八幡社)への石階段参道の鳥居前に着く。
伊福城:東尾根段曲輪(最上部が主郭)

車道を隔て鳥居からは旧斜面を川下に向かい階段が続いている。地図に見る円山川の西側対岸は洲になっている。鶴岡橋が無ければ当然・渡船による参拝や通行は鳥居から降る石段は其の舟運による発着場が利用され伊福城は通行税を、西の宵田は物資の集散地として要衝の地には”市”も立ち宵田城が物流税等を徴収したのかも…!!?鳥居を潜り階段を登ると参道に「日高町指定史跡名勝・
東尾根先の大堀切

天然記念物井田神社社叢」<昭和59年3月30日指定>案内説明板が立つ。円山川右岸から伊福城址の山上にかけて拡がる社叢8,792uには日高町内で稀なタブノキやカゴノキ(ナンジャモンジャの木とも呼ばれる)やイタビラカズラ等を含む珍木が大小数百本が自生しており、町内で最も低地にある暖地性植物群落を形成している事でも貴重で学術的価値は高いと云う。
東尾根先の大堀切

社叢案内板を見て参道を上る境内中央奥に井田神社社殿が建つ。創祀年代は不詳だが但馬国気多郡鎮座の延喜式内社:嘉祥元年(1106)悪疫流行 に岩清水八幡より勧進され祭神に倉稲魂命・誉田別命・気長足姫命「兵庫県神社誌」を祀り、境内社に稲荷神社が祀られる。神社背後の右手斜面上に東尾根を遮断する大堀切を見て
井田神社

曲輪3-4段の切岸を越えると主郭南切岸上に石列・石積の残欠を見て広い主郭に入る。伊福城は康正元年〜天正8年(1455-1580)秀吉が但馬を平定するまでの城。康正元年(1455)滑良兵庫と伊達新助との争論に因幡守護:山名棟豊は京都に居る但馬守護:山名宗全に訴えた。宗全は篠部伊賀守(宮井城)と下津屋伯耆守(伊福城)の両者に此れを討つよう下知した。
水生城登城口の長楽寺

両将は討伐に向かうが宗全の旨を伝えて和睦させたので宗全は大いに喜び両将に感状を伝えたと伝えられます<但馬の城>。天正8年(1580)羽柴秀長(秀吉の弟)軍の第二次但馬侵攻に城主下津屋伯耆守は西村丹後守の子・平八郎忠宗(水生城)・垣屋駿河守豊続(竹野轟城)・大坪又四郎(国分寺城)・笹部伊賀守(宮井城)等の山名氏諸将が集まった水生城合戦に加わるが敗れ、 其の後の消息は不明と伝えられる。
(現地伊福城/伊田神社社説明板・但馬の城・兵庫県の中世城館・荘園遺跡
県教育委員会・Wikipedia参照)

JR国府駅ホーム架下から望む竹貫城-水生城への丘陵

水生城と竹貫城
水生城(水尾城) 水尾山160m 豊岡市日高町上佐野・上石字水生・字コズ・歩危
竹貫城 xxx山 193m   豊岡市日高町竹貫

(長楽寺と城域)嘗て但馬国府が置かれ国分寺が建てられた但馬の政治の中心地に近い宵田城・国分寺城城下を抜けて水生城へはR312号からJR山陰本線国府駅を目指す。駅前付近からは其の北方に高低差を感じさせない緩やかな低丘陵が東西に延びている。
水生城主郭の石積

上石地区で八代川を渡った山麓の狭い地区道を登山口となる水生山長楽寺(高野山真言宗)を目指す。水生城・竹貫城の訪城を以前は山麓地区道の墓参用駐車場から薬師堂(本堂)への長い階段道をのぼる”段々あがりの長楽寺”さんと親しまれる寺だが本堂の上にある駐車スペースまで林道を利用させてもらうと10-15分くらいは時間が稼げるかも…?。
水生城T郭(主郭)とU郭の鞍部付近:屋敷跡

“水生山長楽寺”は奈良時代初頭の和銅6年(713)行基菩薩開創とされ継いで平安時代:弘法大師の弟子・真如親王巡錫の際当山に留まり以来、真言護国の道場となった「高野山真言宗」の古刹。山号は山麓に汲めども尽きぬ清泉ありこれに因んで水生山と称したという。 天正8年(1580)4月:羽柴秀長「第二次但馬侵攻」に水生城は落城し、寺も荒廃していたが江戸時代の正徳年間(1711-16)徐々に諸堂は整備され
水生城U:上り土塁虎口

享保5年(1720)庫裡が再建され山門(仁王門)は宝暦6年(1756)・本堂(薬師堂)は寛政3年(1791)に再建。本尊:薬師如来は行基手ずから彫った秘仏とされ古来霊験あらたかなことで知られている。境内の推定樹齢500年余を経た県指定(昭和53年3月17日)天然記念物「長楽寺のチリツバキ」は 枯れ死したため(2021年3月)伐採された。水尾城は長楽寺背後の丘陵部中腹(寺領だった処の字名「殿屋敷」)は
水生城U郭主曲輪(櫓台?)から帯曲輪

居館跡だったか?東西に延びる主尾根筋にはほぼ独立した3郭(注)丘陵部西端の竹貫城が県の遺跡地図によると”水生城址西群”(平成初期に発見!されW郭!?)となっているが 県遺跡地図の”水生城址西群(竹貫城)ー水生城に関わる南北朝期からの戦歴は最終項の(歴史)にまとめます。さてU郭から北方の枝尾根・V郭からも土塁曲輪下を回り込んで竪堀を越えた北尾根筋に小曲輪群が点在する。
水生城U:主曲輪(櫓台)から三重堀切

此の状態は東主尾根続きのW郭も同じで八代川に落ちる2箇所ばかり南斜面に極小曲輪群(南北朝期の遺構?)が点在する(幻のW郭曲輪群)水生城は一般的?には主郭から東尾根筋に設けられたV郭で構成されているとされるがWeb上では未だ報告を見ない?遺構があり広範囲に拡がる大規模城砦群。尤も南北朝期から続く長い歴史の中で幾度か繰り返されてきた水生城合戦だけに、
水生城U郭主曲輪(櫓台?)東尾根上の三重堀切

其の時代・敵対勢力・主戦場や其処に至る侵攻ルート等…目的や戦術の違いにより城砦遺構の城域位置・移動や戦いの規模も変ってくるので専門家による城郭研究・遺構調査による成果発表を待ち見解が知りたいところ。東西に延びる東尾根から派生する 枝尾根筋やV郭から東への主尾根続きに展開する曲輪遺構は主郭群に比べ随分と異なる。三角点峰の水尾山(160m)に石積みも遺る主郭(T郭)・
水生城T(主郭)東尾根側から

尾根幅の狭い東主尾根筋に三重堀切を設けるU郭から更に100m程!?東へ進むと西端に土塁を築き堀切で西端を遮断し城域を独立させ、二段曲輪を設け防禦性を有した物見櫓のV郭で構成されているが T郭-U郭間やV郭への郭間に堀切はなく・小曲輪群が数珠繋ぎ状態で連続する。大規模城郭の縄張りは城域をW郭(竹貫城ではない)へ繋ぎ、更に東尾根先端が八代川に落ち込む所にまで曲輪群が延びている。県遺跡地図・埋蔵文化財の遺跡一覧表にU郭-V郭に歩危1-4号墳があるが、
水生城T(主郭)二ノ曲輪西端の土塁と天水受井戸?跡

W郭北に片堀切を越え延びる幅広い尾根には曲輪を空堀・堀切で区分する三曲輪が残る。更にW郭の東7-80m先へは20m程下堀切状?もあり、X郭に入る一帯には夥しい(凡そ100基を数える古墳)点在のホーキ古墳群を取込む城砦遺構で尾根幅も広くなる城域150m程に 曲輪が続き内一基は前方後円墳。径20m前後の中規模古墳を取り込み墳頂部を曲輪にしたもの…
水生城T(主郭)西尾根端の土塁虎口部

広い墳頂部には近場にはない溶岩石?を土留石列に並べた近世の祭祀壇や祠跡らしいコンクリート片・西端に石室への羨道部?や古墳裾部には葺石らしい石片も残存している。前方後円墳頂部が主曲輪か?幅広い縄張り範囲の城域だが周辺の東西斜面下部は竹林跡?や其の土取や削平で破壊されている為、平場の点在も曲輪であった可能性が窺われる。未だ遺構に関して城郭知識は浅く詳細はスキップ!する。此より古墳群丘陵部から最東末端に掛けて
水生城(T郭)の石垣

中規模古墳の墳頂曲輪下にも20x20m・20x15mの広い二段曲輪があり、上の曲輪一角には祠・堂跡らしい壇と瓦片まで見る。下段曲輪端の斜面下6-70mの集落入口には祠が建つ。目前の県道50号はJR山陰線踏切と「上佐野」交差点中間で共に約4−50mの距離。水生城から竹貫城への丘陵部水生城は垣屋方の拠点ともなり天正5・6年の但馬攻め:羽柴秀長の水生城攻めの際には竹貫城を陣城に水生城を攻め・攻略後は水生城に移って 有子山城攻め陣城に使用したのでは…?。
主曲輪切岸の西北端に落ちる竪堀

水尾山(三角点峰)山頂部の水生城主郭(T郭)は南面と西面に設けられた土塁が西の細長い曲輪に繋ぐ土塁虎口・西面土塁の北角部は少し分厚く櫓台跡とも思える。北面切岸に石積みが遺り帯曲輪を廻す。主郭西の土塁虎口を西に下るが曲輪の西北末端部に塹壕か?・天水受け井戸か?大きな窪地があり・土塁の外側に曲輪が…傾斜の急な西切岸下の鞍部を二重堀切を設けて
水生城U郭の三重堀切

遮断する。此れより緩斜な細長い尾根筋を西へと進むと二ヶ所ばかりに長い土橋状を抜け出た所で最初?の関電:豊岡国府線25(平成9年)架設の鉄塔が建つ。此処は谷詰めに位置して南東方向に円山川と豊岡市街地方向に眺望が効く。此の先直ぐ左右上方の曲輪(木戸番所?)間の凹郭部(通路?)を抜け出た緩斜な尾根筋を150m程進むと竹貫城東郭部に入る。
V郭西端の土塁曲輪

20mx50m程と幅広い東尾根側曲輪の中程南からは中央部まで掘り込んだ広い空堀(竪堀状)があり、下方から通じる山道か?と思えたが堀底状のクランク(L字状)を一折れして東郭に入り、更に西端にも同様に土塁虎口をL字状に抜けて最高所の竹貫城主郭(中央角)部(旧W郭!?の水生城 主郭西曲輪)標高193mに入る。主郭部は但馬空港滑走路南東端付近に至る北尾根側と竹貫地区に先端を落とす南尾根の三方尾根筋を削平した竹貫城郭群だが堀切は主要郭の南端に一条設けられているだけ。水生城とは異なる縄張りには水生城址西群としてではなく、
V郭土塁曲輪北尾根側袖曲輪左端に竪堀が落ちる

改修されているとはいえ独立した竹貫城ととして区別する。 水尾城・竹貫城ともに築城時期や城主等の城史や、室町中庸期頃:在地国人領主?竹貫氏が城主だったか!?…についても詳細不詳。丘陵尾根続きの竹貫城ー水生城の 城域南西端:日高町藤井・竹貫地区から南東端の上石地区に掛けて丘陵南麓を
幻の!? 東尾根W郭と北枝尾根曲輪

八代川が流れ上石地区の先・佐野で円山川に合流する天然の二重濠が要害性を保つ。今回は水生城城域の東端までトレースした結果:上佐野(八代川・JR山陰線とR312号から県道50号に入り但馬空港線上佐野交差点に出る僅か100m程に接する丘陵尾根先にまで曲輪を繋げていたことを確認した。丘陵部西端に位置する竹貫城も水尾城からの西尾根接合部で南北の尾根が合わさる三叉路に主郭?部を置く。
幻の!? 東尾根X郭は:古墳群のなかに

此処を舞台とする野田合戦における垣屋氏(日高町)・田井庄氏(豊岡市東部)との”境目の城”を追いながら進んでみたい。”境目の城”として垣屋氏が寄った最前線基地の陣城には但馬空港の滑走路南端部の西側に岩井城があったが空港建設により発掘調査後に消滅したと云う。水生城から西尾根を竹貫城へ・竹貫城中央郭からは北尾根を辿って岩井城へ尾根続きの境界線上で繋がる。
古墳群のなかの水生城東尾根X郭

竹貫城北郭からの北尾根筋が但馬空港滑走路南端へと延びる直前に、出曲輪的存在と思える。竹貫城南端も土塁:塹壕状の外(南)下に堀切・片堀切をみるが更に南へ下ると小曲輪群が現れ少し距離を置いた比高90m程にも土橋付き空堀状・竪堀状を備える腰曲輪…更に古墳群を取込んだ竹貫城「南東曲輪群」(仮称)がある。また日高町竹貫・藤井集落間から滑走路真南へ延びる尾根最高峰132m付近にも藤井東城(仮称)がある。
東尾根X郭:最先端に二段曲輪あり・曲輪下方6-70mは集落入口

東尾根最先端に大きな二段曲輪があり、曲輪の下方6-70m集落入口に祠あり此れらの城郭は 消滅した岩井城に拠り南朝期から天正3年「野田合戦」や天正6年(1578)「水生城合戦」の垣屋氏に関連した砦として当ページ内別項で紹介したい。野田合戦・水生城合戦関連歴史水生城は南北朝中期の山名俊豊の仲裁で和睦し水生城は山名氏の家臣西村丹後守が預かるが
東尾根先端までU郭-X郭!曲輪群:上佐野交差点から

明智光秀が進美山城を陣城に西村丹後守の水生城を攻めるが、地の利を得て此の戦いでは撃退している…?。天正3年(1575)再び毛利方の垣屋氏(轟城・旧日高町域)と織田方の田結庄氏(鶴城・豊岡市東部から出石町域)との間で野田合戦(毛利VS織田の代理戦争とも云われる)が起こる。
水生城T(主郭)西尾根末端部の二重堀切

羽柴秀吉の第一次但馬攻めが開始された天正5年(1577)秋…弟の秀長(秀吉の異父弟)を但馬竹田城に入れ天正6年(1578)4月羽柴秀長による第二次但馬攻めの水生城合戦の際:秀長方の向城として 使用されたものか。利方の竹野轟城主垣屋豊続・古志重信・宇山久信らと織田方の伊藤与三左衛門尉(宵田城督)・垣屋光成・宵田城主(垣屋孝続か)らが宵田表(宵田城)や「水生城」で合戦にいたり 毛利方が一時的に勝利している。
水生城T(主郭)から延びる西尾根上<竹貫城>の土橋

続いて有子山城攻めの陣城としても使用されたようなので、古墳群を曲輪に取込んだ野田合戦やそれ以前の旧態を示す?「竹貫城の北西の砦」・「竹貫城南東尾根先端部曲輪群」・竹貫西の尾根筋にあった藤井東城(仮称)は:竹貫城(別項)に紹介…。別所氏の三木城が開城すると播磨の国人領主の多くが秀吉軍に属し・但馬八木氏も織田方に付く。羽柴秀吉の鳥取城攻めが開始される天正8年(1580)4月:羽柴秀長が
竹貫城主郭:東曲輪の虎口

第二次但馬攻めに出兵。毛利方の轟城主:垣屋豊続が西村丹後守の子:平八郎忠宗の水生城に日高町の国分寺城 (大坪又四郎)・伊福城(下津屋伯耆守)・上野(上郷)城(赤木丹後守)・宮井城(豊岡市)篠部伊賀守・林甫城(美方郡香美町)長越前守”ら毛利方但馬勢1500人を集めて立籠もった。 一方:織田方の羽柴秀長には宮部継潤(善祥坊)・藤堂高虎と家臣で養父市大屋町国人?の
竹貫城:東曲輪側から土塁と外枡形虎口

居相孫作・栃尾源左衛門らが強襲した。篠部伊賀守は日頃から西村丹後守や長氏に対する私怨があり、毛利方但馬勢が立てた策謀を羽柴秀長に密告したため作戦は失敗に終わり・水生城より先に浅間峠を越え出石城を攻め・緒戦の浅間城(八鹿市浅間)の戦いに城主:佐々木義高は戦わずして城を明け渡している。但馬平定の羽柴秀長は浅野弥兵衛・仙石権兵衛を大将とする一隊が
竹貫城主郭:北尾根側の虎口?(手前左)

狭間坂(出石町片間)を経て城の南方(大手)から宮部善祥房が北方の豊岡方面からの搦め手へ・二手に分かれて水生城を挟み撃ちした此の合戦に轟城主:垣屋氏は滅亡します。 秀長軍は水尾城から豊岡市街地への眺望が効き有子山城攻め臨戦の陣城として 使用されたのでは?…推察されている程度…!!。
「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」・ひょうごの城紀行(上)・豊岡市の城郭集成U…等を参照 ==========================================
竹貫城 xxx山 193m  豊岡市日高町竹貫
竹貫城北西の砦/竹貫城南先端曲輪は藤井東城で

竹貫(たかぬき)城は水生城T郭(主郭)の二重堀切を越え、幅狭く細長い尾根は土橋となり更に西へと延びる尾根の最高所Ca190m付近を主郭?とし、東尾根側には屈曲した低土塁を積んだ外枡形形状の虎口を境界とし尾根筋東側中央部に平入虎口跡?・東南側には内枡形虎口を設けた東曲輪、北方の尾根側に延びる高低差も少なく幅広い主曲輪は其の北尾根の中程左右にも其々に
竹貫城主郭の南尾根側虎口と南郭

一ヶ所は虎口?形状の窪地を見る。南方へは二段の曲輪に虎口と上り土塁を備え南端を堀切で遮断して区分する南曲輪に降りる。三方に拡がる尾根上に曲輪を置いて展開する縄張りで、主郭・東郭には虎口が有り、南郭には唯一堀切を備える。縄張りが先の水尾城の三郭群とは一線を劃す
竹貫城南郭東の土塁

織豊系の縄張特徴からも、W郭とはせず羽柴秀吉の第二次但馬攻めの 水生城合戦前後に秀吉軍が但馬豊岡盆地への進出拠点として陣城として臨時に使用されたと推察される様です。ただ掘切が敷設されていることからも陣城として新たに築かれたものではなく、竹貫集落背後から竹貫城への尾根筋にも城砦遺構が在る事からも旧但馬中心地の国府を望む要衝地だけに、
竹貫城南郭と上り土塁

水生合戦以前から但馬勢力によって築かれおり水生合戦の主戦場だったか?、また羽柴秀吉の第二次但馬征伐では秀長(秀吉の弟)軍により天正8年4月の水生城合戦・翌5月には山名堯熙<あきひろ>(祐豊の三男で別名:氏政)の有子山城(出石町)を攻め落しているので、旧城を改修して一時的に有子山城の攻撃拠点としたとも考えられます。
南郭南端の堀切

秀吉軍の但馬侵攻に抗する 但馬勢が水生城に集結し策を練ったが長越前守・西村丹後守に・私恨を抱いていた篠部伊賀守によって、其の謀略の一部始終を秀吉方に知らされたという。永禄2年(1569)秀吉の但馬侵攻に・山名祐豊は織田氏に臣従していたが天正3年(1575)毛利氏と同盟する。尼子氏(織田方)支持vs毛利氏支持の代理戦争と云われる野田合戦は織田色を強める山名四天王の一:
竹貫城南郭の竪堀!!?

田結庄是義(鶴城主)の臣:栗坂主水の海老手城が垣屋豊続・長越前守等に略取され是義に救援を求めたことに始まり、篠部氏は是義を支援していたが、戦況不利に毛利方との連携を重視する山名氏家臣:垣屋光成に降りている。篠部氏の私恨は野田合戦前後に起因するものか?。
兵庫県文化財調査報告書第130冊:教育委員会(1944年3月)岩井城跡:「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」:豊岡市の城郭集成U等参照

藤井東城(仮称) xx山 132m 豊岡市日高町藤井
 竹貫城北西の砦 191m 豊岡市日高町竹貫
 竹貫城南東先端曲輪群 60-50m 豊岡市日高町竹貫
 藤井東城(仮称)  xx山132m  日高町藤井

竹貫城出曲輪…
但馬空港滑走路南西端の標高245m!?山頂付近に岩井城があって平成3年(1991)但馬空港建設に伴い兵庫県教育委員会により 全面発掘調査が実施され調査報告書だけを残して遺構は消滅したと云う…。周辺に城砦遺構は無いと云うが?…この岩井城に関連した砦として、また竹貫城も
水生城(主郭)西の切岸下は堀切跡か?・西北端に落ちる竪堀

野田合戦から水生城合戦に関わる城砦として紹介してきた。但馬空港滑走路南東端から南へ延びる尾根筋が竹貫城に繋がる…。野田合戦時の竹貫城は水生城の一曲輪として、野田合戦後は「但馬攻め」羽柴秀長軍が水生城に籠った毛利方但馬勢を攻める向城・陣城に竹貫城を使用したとも推察される…。所在位置が分かり易いように竹貫城から向かう:北郭(北曲輪)へは城砦遺構を見ることなく単調な北尾根を辿るが、もうすぐ!?空港滑走路南端部手前と思える標高191m峰?の北斜面に
八代川より望む藤井城(中央奥!)から但馬空港(左端)

三段ほどの小さな瘤をみる。但馬のなかでも名にし負う古墳群密集地帯なだけに古墳か!?…まさかこんな山麓から遠く離れた所に…と思えるが?。連続する古墳毎に周溝が築かれる程の塚とも思えないが、曲輪段?の北最下段には土塁?と浅い堀切が西斜面にまで延び竪堀となって落ちる。岩井城とは打てば響く西の谷を挟む(尾根続きにも滑走路南西に繋がる..)近距離にあって、岩井城の出曲輪か竹貫城との繋ぎの砦か!?竹貫城北西砦と仮称する。
竹貫城北西の砦の段曲輪:最下段に土塁:堀切?

竹貫城主郭(中央郭)南部から南へ延びる尾根先端部付近にも竹貫城南東尾根先端部曲輪群がある!!。南尾根筋が東方向へ向かう尾根上を先端に掛けて125m付近に小曲輪群、 95m付近に土橋付堀切状?と南斜面に竪堀状?、標高60-50m程の最先端部には地理院地図に確認出来る森谷4号(径30m)大古墳と連続する5基ばかりの小古墳群をみて竹貫地区集落に降立つ。
竹貫城主郭(中央郭)北曲輪

また日高町竹貫・日高町藤井集落間:滑走路真南へ延びる尾根最高峰132mから南先端(R483号竹貫トンネル南口)上の送電線鉄塔付近に掛けても藤井東城がある!!。三城砦群の二つの尾根を北に延ばせば但馬空港滑走路南西端”岩井城”のあった山頂に繋がり、此処も最南先端には古墳が散存しているようだ!?。但馬守護:山名氏は明徳の乱(1391)以降続く 内乱に其の権威も衰退化…為に「山名四天王」の 垣屋氏・田結庄氏・八木氏・太田垣氏等は勝手に勢力拡大を図って
竹貫城中央郭北東尾根末端にあった"墳丘を葺石で覆う円墳"

相争うようになってくると、弘治2年(1556)には山名家臣団の勢力争いを抑止切れない程に弱体化した山名氏に離叛した太田垣朝延(竹田城主)は山名祐豊から再び生野銀山の領有権を奪還。天正3年(1575年)には円山川を挟んで対峙する旧日高町域の毛利方 :垣屋豊続と豊岡市・出石町域の織田方:田結庄是義の間で起こった(毛利VS織田の代理戦争とも云われる)野田(豊岡市宮島付近の沼田での野戦)合戦に
藤井東城の南端は北近畿道竹貫トンネル南口上部

垣屋豊続が改修した可能性が指摘されています。南南朝期から天正3年「野田合戦」頃までの岩井城(消滅した…?)に関連した砦として紹介します。山名時氏の臣・長左衛門尉道金によって築かれた南朝方の拠点「水生城」は延文元年(正平11年 1356)国分寺城に布陣した北朝方伊<今川ョ貞軍>達真信が攻め 宿南城・八代城・大坪城・長道金の拠る水生城も次々と落城後は大永年間(1521-28)西村丹後守の居城となったという。永禄2年(1559)播磨赤松則貞の但馬侵攻による水生城下 (善野寺野合戦)では垣屋光成が迎撃や、明智光秀が進美山を陣城に
:竹貫トンネル南口から国分寺城方面(左下藪地の段差は曲輪か古墳!?)

西村丹後守の水生城を攻めるが撃退したとか?。「岩井城」は旧日高町側の毛利方垣屋氏と豊岡市街地側の織田方が円山川を挟んで対峙する「境目の城」だが周辺に城砦遺構はないともされるが?…空港の滑走路南西端部に岩井城があり、尾根続き滑走路南東端部には「竹貫城北西の砦<仮称>」があり、東尾根はそのまま「竹貫城」に至り其処からの東尾根が「水生城」にも繋がる。三段曲輪(曲輪間を空堀・堀切状で分ける極小規模砦遺構は水生城東尾根でも散々見掛けた
藤井東城南端:送電線鉄塔付近下曲輪群

階段状の小古墳上にあるが、周辺一帯には遺跡調査分布図に一切遺構記載はない…が 岩井城直近の東出曲輪的存在と思える。「竹貫城」南郭部南端には塹壕状凹部と防御の土塁や竪堀が一本あるが竹貫城に 唯一の堀切!もあるが、途中に一基古墳?をみるだけで城砦遺構を見ないままの降る南尾根筋が東方向へ向かう尾根上を先端に掛けては125m付近に小曲輪群
藤井東城主曲輪西面の空堀(主曲輪手前.東面は大崩壊)

95m付近に土橋付堀切状?と南斜面に竪堀状?、標高60-50m程の最先端部には地理院地図に確認出来る森谷4号(径30m)大古墳と、連続する5基ばかりの小古墳を取込む小規模曲輪群が並び、竹貫地区集落に降立つ丘陵上の竹貫城南東部曲輪群<仮称>を見る。但馬空港滑走路南東の尾根筋に竹貫城があるが滑走路真南へ延びる尾根最高峰132mから南先端 (R483号竹貫トンネル南口)上の送電線鉄塔付近「日高町竹貫・日高町藤井集落間」に掛けての竹貫城西方にも
藤井東城主郭切岸西面の小堀切

藤井東城(仮称)があった。岩井城含め全ての城砦についての城主・城史は史料・伝承も不明だが、各曲輪群は中小規模の古墳群を利用したもの(自然地形に近く判断し辛い!?)・尾根筋に連続する遺構がなく「藤井東城」も尾根幅広く緩斜面が続く(古墳群か?)段差もある 山頂部に曲輪等遺構はない。堀切はなく土塁状に見えるのも雨水による土石の崩れか?。攻めが主?の臨戦的縄張りの様で消滅した南朝期から 天正3年「野田合戦」頃までの岩井城に関連した砦群と推察します。
藤井東城主郭北尾根続きの堀切

ただ但馬攻略に織田方が入ったとする竹貫城主郭に遺る土塁・堀切・竪堀や虎口構造からは室町末期より一部を改修してれ使用されてきた?遺構も混在しているよう。「藤井東城(仮称)」は空港滑走路からの南尾根:標高132m付近の幅広い緩斜面(曲輪化されていないが中規模古墳群か?)の南下120m付近を主曲輪に、南先端部 送電線鉄塔付近下・竹貫トンエル南口付近まで300m程と長い城域。主郭背後を堀切で遮断・主要郭には 堀切・片堀切・竪堀?が構築され曲輪段を積むが切岸・土塁等技巧的なものを見ない。
水生城主郭:西曲輪に散乱する石礫…先端は土塁虎口

藤井集落側の西枝尾根筋は主曲輪西斜面裾に堀切を見る。麓の藤井集落は直ぐ下方だが幅広尾根に見えた枝尾根筋は二方向に分かれ幅狭く急斜面で曲輪も古墳さえも無さそうです。主曲輪からは小曲輪群が続き・登路目標とした送電線鉄塔からの尾根筋下方にも、上り土塁状?下段から曲輪らしい?曲輪が4-5段連続し 少し離れた曲輪が竹貫トンエル南口真上付近に一つある。トンネル南口東側の藪に埋れる段差2段程は古墳と思えるが南正面に水上山城(未訪)や
水生城主郭:東末端:土塁にも石礫!?が散乱

友軍!の国分寺城が北近畿自動車道沿いの先に見えて、通信・見張の曲輪としても適地。 応仁の乱(1467-73)後:但馬守護山名氏支配の弱体・衰退してゆくなか垣屋氏等が台頭してくる。山名氏家臣団も毛利方と連携する垣屋氏と,小田方の田結庄氏との間で起きた野田合戦に懸かる城砦群として、続いて起こる水生城合戦にも堀切等を補強改修して使用されてきたものか…。
兵庫県文化財調査報告書第130冊:教育委員会(1944年3月)岩井城跡:兵庫県の中世城館・荘園遺跡:ひょうごの城紀行(上)等参照

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