朝来市 筒江城・加都城?・安井城・三波城・山内城・物部城・木ノ内城・立脇城・岩洲城 
但馬:朝来市(五万図=但馬竹田)
近畿の山 : 筒江城加都城? 安井城 三波城 山内城と物部城
   物部城と木ノ内城 立脇城 岩洲城(山口城)
筒江城<字名:シラガハナ(城ヶ端!?)>から

丹波市からは R427で遠阪峠を山東町柴へ降り、梁瀬の市役所支所前 交差点で県道136号か、R9号(山陰道 )のJR梁瀬駅付近から楽音寺【(ウツギノヒメハナバチの群生地で知られます)・天満氏館や小谷城も楽音寺からは至近距離…】 前を南下すれば大月西交差点で県道136号に合流する。
県道136号から浄化センター背後の安井城を望む

県道136号は茶すり山古墳の側を通って春日和田山道路高架と交差する。筒江城へは再び北近畿自動車道高架と交差する筒江橋を渡る。直進する県道136号は和田山ICに向かい加都北交差点でR312号に合流する。筒江橋バス停から春日和田山道路の高架を潜って直ぐ左折する。 左折して直ぐ上りカーブする道に右折して進むと加都城?が在った筒江の隣り町。
安井城主郭を 1‐2重に取捲く 帯曲輪南面から望む但馬:竹田城(中央)

和田山町加都地区中心部へ更に直進する道路は細くなるがR312号に出て交差点を直進すれば、 北方から竹田城へ向かう観光車道?が通じ、 其の出城と推察される安井城が目の前(北西)に在る。此の安井城は加都地区に入って直ぐ西方に富士形の独立した 美しい山容を見せています。
加都城?(県道136側の北西斜面に平坦段を観るが?)

今回のルートは 福知山市方面から和田山 ・八鹿へ向かうR9号(山陰街道)からも、播磨側の市川沿いに福崎町・神崎町から生野峠を越えて円山川沿いのR312号 (但馬街道)の幹線からも外れたコースだけに、城址を探しても領地支配の古いタイプの小規模な城か間道監視程度の砦程度と、余り期待を持たずに訪れた。
筒江城全景

京都・亀岡から篠山・佐治(丹波市青垣町)を経て遠阪峠を越え但馬側の矢名瀬(梁瀬)に出て R9号の山陰道に繋ぐ古代(延喜式)山陰道と、此の矢名瀬から西に進みR312号の但馬街道を繋ぐ間道は準要衝?で、矢名瀬や加都には市場が成立しています。此れ等の山城を後で訪れるつもり。先ずは筒江城へ向かう。


: 筒江城 加都城 安井城 三波城  山内城と物部城
 物部城と木ノ内城 立脇城  岩洲城(山口城)


筒江城   xxx130m  朝来市和田山町筒江字城ヤブ

筒江の東北方に茶スリ山古墳・筒江城直近の西には大型の横穴式石室を持つ城ヤブ1号墳が有る。筒江城北端の地区道路分岐には”筒江城と1号墳”の案内標識が立つ。城ヤブ1号墳は6世紀末頃の築造と推定される円墳で直径20m・高さ8m・石室の全長 9m【朝来市市内でも屈指の巨大な玄室】で天井石は3枚使用されており、玄室から羨道・開口部を観ると玄門部は確りした造りで完存し、
主郭と副郭を繋ぐ空堀土橋

左右ほぼ同幅の両袖式が美しい。筒江城の存在を知る人は少なく古墳では知られる様です。とはいっても県下でも古墳の多い但馬にあって一帯は古墳群の集積地!!。県の遺跡分布地図に示される加都城を探したが、送電線が走る低丘陵上は筒江地区?で尾根上は墓地で、 造成・改修はされていても
東面帯曲輪の副郭側:井戸跡?

7段程の曲輪が有ったとは思えない?。 所在は加都字上山とあって、此の東西に短い丘陵尾根を北側に越えた加都集落内の墓地上に続く緩斜な広い丘陵斜面に 数段の曲輪や尾根筋に土塁状を見るが此処にも10基程の円墳を見かける。城ヤブ古墳群の殆んどは中央付近が 陥没したような櫓台状の土檀・土塁は盗掘跡か?。
東面帯曲輪の堀切下部から竪土塁?と主郭切岸

古墳の墳丘等を利用した城址遺構とは思えるが位置的に加都城とみる自信 は無い。50基程の古墳が点在する城ヤブ古墳群のうちの一集合帯だが、位置的には加都集落中心地や円山川を北西に見下ろす 加都神社裏手の加都字上山が未確認だが適所の様の思える。此処も10基ばかりの加都神社裏古墳群が遺る。加都の円山川沿いには加都車塚古墳・加都王塚古墳等・・・がある。
土橋の主郭側東面に6-7個の石列を観る

此の筒江城もまた 城史の詳細は無論の事・その城の存在さえ余り知られず、 郷土の市町村誌史等から情報を得ることも出来ない ?埋もれた城です。…が加都への分岐点から筒江城に向かう 城址北山麓にシラガハナ(城ヶ鼻<城ヶ端>)の字名がある。
主郭西面の帯曲輪(段差2m程)

比高25‐30m程の殆んど平坦な南北に延びる全長100m程の丘陵を深く幅もある土橋付きの大堀切で二分した主郭(東西約30mX南北に約60m)と副郭 (東西約15mX南北に約40m)で構成されており 土橋の東面主郭側に数個の石列を見る。土砂崩壊防止の補強か?、主郭に入るのに少し高低差があり 此の位置に見かける残石は2段程の石段に使用されていたものか?。
主郭西面の上り土塁と堀切側からの横掘

臨時の山城ではなく城館を推定すると丁寧な造作を想像してしまう。西面を土塁横掘と竪堀・北面を高く急斜な切岸と土塁・空堀と一本の竪堀・東面も高い切岸と広い帯曲輪が廻り、大きな井戸状の穴が地区道へ落ちる切岸側に在る。小丘に防禦施設を施した戦国期の館城とされ、竹田城の出城とも推察されます。
主郭北面の大堀切(横堀)と土塁

竹田城の城砦群の一つと推察出来ますが、 築城時期や目的・城主等の情報は一切不明ですが、低い丘の上の小規模な城だが写真(TOP画像 )からは 想像出来ない程に残存状態の良い遺構が眠っています。地区道分岐点から東山裾沿いの車道を進むが城域側は 垂直に近い8‐10m以上の障壁を立て防御する切岸。
主郭北面の横掘と大土塁を別ける竪堀

地区道が城域の南端で廻り込む角の民家と物置(農機具等倉庫!!)間から 南郭(副郭)西裾を溝沿いに畦状の道に入る。東側溝上の民家と畑地も曲輪の一部か?、副郭の切岸が畑地に落ち込む。 溝沿いに 山裾道は北方の民家から地区道分岐点へ出る裏道として通じていたのかも!?。少し広くなる裏道?を見送り城域側を進むと2段程の曲輪?。
主郭北面の高い切岸と大堀切 (横堀)・土塁(手前)

幅広い空堀状(横堀)は土塁を伴い、 副郭と主郭を分ける堀切を繋げた堀切竪堀の組合わせ構造。主郭の一段下 (高さ2m程)には北面から西面にかけ帯曲輪を廻すが、 北側に低土塁が20m程残る。此処も高く急斜な切岸(約8m程 )を落としているが、底部を南北に大堀切 (北郭北部分を捲く横堀)が断ち、外側(北)には分厚い大土塁を廻す。此処には大土塁中間部を分けて竪堀が一条走り、空堀<横堀>竪堀の組合わせ構造が観られる。
城域北端へ延び出す曲輪段?と竪堀下部の平坦段<北末端曲輪>

竪堀は浅く傾斜も 緩やかなので下方曲輪 (平坦段だが密生する雑木・矢竹・篠竹・下草藪に遺構状況は未確認、東側は6m程だが断崖状で地区道側まで藪に埋まる)からの堀底道か?。大土塁の西部分からは北へ段曲輪 ?(段差の低い…)が数段続いて、先端を猛烈な藪の急斜面(6m程)を北西へ向かう地区道の落とす。
(但馬の城・Wikipedia を参照)


加都城?  観音山?・向山? 220m 朝来市和田山町加都字氷り坂

金梨山464m北尾根末端部が舌状に流れ出る丘陵部の150m付近から、北へ延びる舌状の低丘陵尾根筋は 、送電線沿いに北東へ方向を変え300m程の緩斜面の丘陵を、北近畿豊岡自動車道高架下付近で県道136号の筒江 ・加都の分岐点の其の先端を落とす。先程訪城の筒江城は此の尾根筋の東に突出す短い枝尾根状の先に位置して加都城比定 ?地からは南へ僅か120m程・目の前に在る。
曲輪 ・土塁櫓台状も古墳のマウンド

丘陵上の二本の送電線鉄塔の中央部を目指すが尾根部一帯は墓地となり 墓所関連の造成で遺構は不明。尾根上に七段の曲輪が確認されている様ですが一帯の所在地は和田山町筒江…?。 筒江城からは以前なら素通りしなかった城ヤブ1号墳に寄らず 送電線の走る丘陵中央部に向かう山道をたどるが尾根上一帯が墓地。
緩斜面の上部に見せる曲輪切岸のライン

加都地区へ西に向かう尾根筋は 50m程で送電線鉄塔の建つピークを過ぎフエンス沿いに下っていくだけ。 直ぐ北下方に見える筒江分岐から加都への県道312号線への斜面を降って加都の集落に向かう。 最初の建物が「いけのや(仕出し屋だったか)」と隣接した公民館?の横から南の丘陵上の墓地へ急斜面の参道を進む。遺跡分布地図の筒江地区の加都城址?とは、 送電線の西南延長上に有る加都地区内の此の位置
主郭(南東端!!?)部の尾根東端沿いに延びる低土塁線

【送電線鉄塔(奥多々良木出石線 No38)付近から東・南寄りの鹿猪除フエンス背後】の方が、備考欄にある七段の切岸加工された曲輪らしい遺構?が県道312号を見下ろす様に西斜面上に有る。比較的緩斜面上の幅狭い曲輪が営林 ・植林用の棚とは思えないし、高低差の少ない尾根上の南端? (竹田城とは円山川・R312号を挟んで東西に対峙 ・または呼応する位置にある金梨山へ 延びる尾根側)一部には、幅広く長い平坦地が有り尾根筋の東端寄りには低土塁が延びる。
城ヤブ古墳群 :盗掘により墳頂部の陥没が櫓台・土塁に見えるが!!?

此処だけを観ると一時的な陣城?か、大部隊の駐屯地の様相だが 一帯は 10基近い円墳・方墳が点在する。径10‐15m規模の中小規模の 城ヤブ古墳群は殆んど(全部?)盗掘跡らしく、 中央部が窪地や二分された櫓台状や土塁状に見える。 尤も古墳の墳丘を曲輪・櫓台に利用される例は但馬に限らず・丹波播磨の各城砦に見かける。応仁2年 (1468)夜久野合戦時に細川勝元方の内藤孫四郎貞徳に付いた丹波の芦田・足立氏等が粟鹿方面から攻め入った。
緩斜面に幾段も横並びの細長い陣城状?の曲輪群

山名氏側は竹田城の留守将:太田垣新兵衛の家臣 :行木山城守が和田山楽音寺に布陣していた。加都に陣して 竹田城側の守備の付いていたのが此の城(陣所)?だったか。 劣勢にあった山名軍の太田垣新兵衛は細川軍の規模や戦力を見抜いて行動し、将兵らが布陣・駐屯していた加都からも新兵衛に呼応して出撃したものか。夜久野ヶ原を 主戦場として細川方の主将 :内藤孫四郎等は討死にします。
加都城:墓地背後の古墳を捲く溝状の登城口 ?を土橋状尾根筋に上がる:

其れとも反対に竹田城を北方から攻めた 丹波黒井城の赤井 ・荻野氏等の駐屯地となったか?。 加都城は筒江城とは比較にならない程に城史一切不明・城名や位置さえ情報不確か?です。城が在ったとすれば最初に寄った城ヤブxx・・の筒江地区よりも此処の城ヤブ xx・・と思えるが、
安井城:下段帯曲輪より主郭帯曲輪に入る上り土塁(曲輪の仕切り土塁か?)

陣城で無ければ?・・加都には市場が設けられており、円山川・R312号線に出る手前の県道136号沿いに加都神社が有る。背後には此処にも10基ばかりの加都神社裏古墳群が存在しており、 祠を祀る此の頂部を主郭として円墳のマウンドを利用した曲輪・櫓等 ・位置的にもベストで・要衝や市場の監視 ・領内監視にも適所なのだが未訪・未調査。

安井城   向山? 210m   朝来市和田山町安井・加都向山・久留引

北近畿豊岡自動車道(R487号)と併走して楽音寺前を南下する県道136号に沿いに、上記の筒江城と加都城に寄り、幅狭い加都集落内を抜け出てR312号(但馬街道・播但道)の加都北交差点を西へ直進して円山川を渡る。竹田城址へ北西から登城する車道が通じ所々に案内板を見る。
安井城南面の帯曲輪と主郭

此の先に観光スポットは無い筈?なので、 時折通り過ぎる観光バスは客を竹田城へ運んでいるのでしょう。R312号を越え西へ安井川沿いの県道136号 ・安井集落の北方(右手)前方に低いが富士形の独立丘陵が見えている。丘陵ぶ西山麓に久留引集落・東面:円山川沿い加都集落・北方から西へ更に南へは和田山ICから繋がる播但連絡道路が走る。
安井城主曲輪内

此の範囲内中央部の標高約210m山頂に位置する単郭の城だが、 同心円状に南側に3段・北側にも2‐3段の曲輪・帯曲輪が主郭を囲む安井城が在りました。 築城目的や其の時期・城主等の城史一切が不明ですが但馬竹田城の真北約700m程の地点。東側は眼下にR312号(但馬街道)・北東にはR9号(山陰道)梁瀬・和田山方面が監視出来る!?。、
安井城北面の帯曲輪と主郭切岸(約3m)

中央の主郭を囲む帯曲輪の削平状態や 切岸加工は竹田城を望む南斜面とR9号(山陰道)・和田山市街地を遠望!!?する北斜面に顕著。 太田垣氏・又は山名氏が籠る竹田城攻めの陣城とも思えたが、本拠:竹田城の 周辺に築かれた竹田城の出城・支城群の一つと推察されています。取付き点は当初:天神社(天満宮)からの
安井城西面下部帯曲輪(切岸約6m)

西南尾根と考えていたが、南山麓:県道沿い安井集落の 浄化センターより安井川に架かる「えたかね?橋 」を渡った先・鹿猪除けゲートを開閉してフエンス内に 入った付近から (下山時は山麓の田圃端をフエンスが囲み 出られそうに見えないので、斜面をトラバースしながら 此のゲートの直ぐ側 (ほんの数m程)に降り立った)適宜・傾斜と藪の薄い地点を探して斜面に取付く。
安井城東面:二段の帯曲輪

山頂の鉄塔に向かって直線的に送電線下部が切り開かれているので 此れを登路にと思ったが駄目。下刈りされ木々の伐採されている切開きルート添いに 藪の激急斜面を攀じ登っていくと 南斜面上部の曲輪段が見えてくる。送電線切開きの東側は植林帯で下草藪の鬱陶しさは無いが雑木・下草が無いだけに立ち木の間隔が長い急斜面の登行は苦労しそうです。
主郭内中央東寄り:僅かの段差ながら土檀上(手前)が主曲輪か?

城名は安井城ですが主郭から東北方への短い枝尾根に段曲輪 ?・主郭北の帯曲輪に上り土塁?は、加都集落の円山川側から東北斜面の枝尾根が此の城への大手登城ルートだったか?ものか 。四方を急斜面の囲まれた独立丘陵上の単郭城だが、但馬の山城にしては珍しく?竪堀や土塁を見ない。短い尾根筋に堀切を見ることも無い。
三波城麓から安井城:竹田城へは播但連絡道路アーチ橋を潜った手前から

山頂の曲輪段下部は、雑木・羊歯類や下草藪に覆われ城遺構は広い主郭 (約25mX35m程)部さえも中央付近に円状<または方形 ?>に僅かな高みの土檀<マウンド>を見るが、荒れた曲輪内に区分出来るほどの段差も下草と篠竹等では目視確認も出来ない。主郭南側1段 ・2段下の帯曲輪や送電線下部の切開きからは樹間を通して、白く輝く総石垣の竹田城が望まれます。

三波城  城山 220m   朝来市和田山町三波字城山

R312号「加都北」交差点で右折し円山川と播但線を越えると、上記・安井城を右手に望む県道 136号は竹田城観光・車利用での一般侵入ルートと成った様で登山口迄行く?観光バスをよく見かけるようになった。…が目指す 三波(さんなみ)城は「竹田城」案内板のある車道・登山口を左に見送って通り過ぎる。「殿」地区の表示に此処には殿城が在った筈だが!!?と思いながら所在知らず先へ進むと、
藤和坂に向かう県道136号から三波城(中央右奥)

安井川を渡る三波橋の手前:県道沿いに「三波城址」の案内標柱が立つ。 此れより九十九折れの坂道を進むと、立雲峡と共に 竹田城を眺望出来るビューポイントの藤和峠に向かう。 更に峠道を走ると”大将軍杉”を見て藤和集落に入る。大将軍杉【兵庫県郷土記念物指定:昭和47年<1972>9月1日)は文和2年(1353)丹波市青垣町山垣城主の足立遠政の子・藤和が訳あって此の地に隠棲したが、
三波城:主郭内の櫓台土檀!?

自身の遠祖と同姓の藤原正司が嘗て仮寓した地であること ・同じ姓であることに因縁を感じて、藤和は:正司を「大将軍」と呼び・其の墳墓の傍らに杉木を植えて神木と崇めたと云い、 また藤和集落は:但馬国境を青垣町大稗から山東町与布土へ峠越えして奉公先の藤和への道を往き来していた”お杉さん”の悲恋(丹波のむかし話では孝行娘として)を伝える お杉地蔵 が峠の丹波市側・青垣町大稗に残され、
三波城西北斜面:自然地形の空堀状…と小曲輪

最近は祠が建てられ祀られている様です。竹田城の西方に雄大な山容を見せる大路山 603mから北東に延び出す尾根先が三波集落と殿集落の間に落ちる末端の小ピーク220mに三波城が在りました。安井城と同様規模(30X40m程)の円型状主郭を中心に、 斜面に小曲輪を数段置く砦規模の単郭城。築城年代や城主等の城史一切は不明ですが、竹田城の真北約700m程の位置に在る安井城と共に、
三波城:主郭東尾根側の段曲輪と切岸

三波城も其の北西約1kmと・至近の丘陵上に位置して、竹田城築城時に付属の出曲輪として同時に築かれた前線基地。 安井城とは指呼の間に有り、共に通信の砦(狼煙台)としても呼応出来る。安井城は要衝の播但街道(R312)筋を、 三波城は養父市建屋川沿いから峠を越えて和田山竹田に通じる間道監視の見張台として機能していたものか?。比高30m足らず…なので鹿猪除けフエンスが無ければ何処からでも取付けそうだ。 丘陵裾の車道沿いのカーブミラー側のゲートを開閉して入り、細い踏み跡を辿り斜面を
三波城主郭と櫓台土檀


西端尾根筋へトラバース気味に斜上すると直接・櫓台状土檀のある主郭に入る。南側の尾根続き側斜面との谷間が自然地形の大空掘を呈しているが、城域周辺に堀切・竪堀状を見ないのは安井城と同様?。 堀切状も見るが城塞遺構かは不明だが、防備施設としての堀切なら南への尾根筋にも必要なので、森林作業用の切通し道?とも思われた。


山内城・物部城と岩洲城について

物部城は朝来志に鎌倉時代中庸期の 弘長年中(1261‐64)物部ョ久が物部庄地頭としてか?此の地に移り住んで地名を姓とし物部氏を名乗り子孫が代々居城したとされる。 物部氏の後裔という土肥家に伝わる系図によると源頼政(鵺退治伝説で有名な文武に秀でた武将で、全盛の平家にあった唯一の源氏だが後:京都宇治川の戦いには源氏の将として平氏と戦い討死している)の三男
伊由谷川から山内城

:ョ兼の子孫で初代:ョ久が弘長3年(1263)物部に移り文永9年(1272)2月 京都に於いて二男:義清と共に討死している。二代目は嫡男:貞政が継ぎ四代目惟政の妻は太田垣土佐守景観の女(むすめ)。 五代目は嫡男:家親が応仁の乱中:京都で討死・三男:国観は山名家の近臣なり、二男清政が継ぎ応仁の乱に戦功もあった由。
ゲート左上に木ノ内城・物部城は 播但道高架の右手上奥

六代目:利政は永禄11年朝来郡の領地を織田家に渡し京都で討死している。織田方秀吉軍が但馬侵攻 (永禄12年)の1年前!!で守護:山名氏の権勢は堕ち守護代:太田垣氏は生野銀山支配を持続する為に織田方に下るが、信長は既に堺の商人:今井宗久に生野銀山管理を任せる事を決めており、此の事だけでも太田垣氏は反織田として毛利方に付く。天正5年(1577)物部城 七代城主物部(次郎左衛門)治政山内城の足羽(九郎次郎)是高と共に、太田垣氏に属して播磨国境の防備拠点岩洲城に籠っていた。
山内城側から望む木ノ内城・物部城

播磨:赤松広秀勢が織田氏に降り・羽柴秀長軍に参軍し、 竹田城主:太田垣氏を攻めて来た時:援軍の笠垣次郎武祐は戦死、足羽九郎次郎は大将:竹田城五代城主:太田垣朝延を護って脱出して山内に潜伏し逃げ帰り、其の後は帰農したようで、号を矢和と改め村人達に読み書きを教え、 医療の法を授け崇敬を受け、 歿すると矢和神社に祀られたと伝えます。退却の際:最後尾にあった物部次郎左衛門治政も、 奮戦の末に戦死した【土肥家系図によると物部城七代城主:治政は天正3年(1575)3月25日豊臣に属し討死…とあるが ?】と伝えられる。
木の内城 :東北尾根部の堀切

丹波をはじめ織田氏に付いていた領主達は、足利将軍を追放した 織田氏から離叛していきますが、太田垣氏の場合は「生野銀山」の支配権を既に信長に奪われており、天正元年(1573)岩洲城に籠ったのは、毛利に付き反織田方として天正5年秀吉の第一次但馬侵攻以前に秀吉軍に対峙したものと 考えます!!?。太田垣家は滅亡し物部治政も討死にして城は廃され、子孫は帰農した事になっています。
 
山内城   小城ノ根 222m  朝来市山内・納座城ノ根

北近畿豊岡自動車道和田山ICを降りてR312号線を円山川沿いに生野峠に向かい南下。 右手(西方)の丘陵には先程より・雲海に浮かぶ幻想的な山城の姿から”天空の城”として映画「天と地と…」のロケ地として、なにが 基準なのか解らないが・最近(平成)年になってからは日本100名城にもなった。全国的に見ても城攻めや攻防の歴史的舞台でもなく・代々続いた有名な城主の城でもない。但馬守護:山名氏四天王の一人:太田垣氏の土の城。 但馬侵攻を果たした織田信長方の但馬の押え・
山内城:小曲輪側の堀切

中国毛利攻めの但馬側前線基地として天正8年以降に改修されたと思われます。…が現在の総石垣の威容は天正13年:赤松氏入城の頃に完成したものと推定されます。慶長5年(1600)関ヶ原合戦には 西軍として丹後田辺城を攻めに参軍するが東軍が勝利・鳥取城攻めに東軍に加勢して出陣しているが、城下に火を放った責任を負わされ家康より 切腹を言渡されている。 廃城まで僅か30年程の短命の石垣の城。日本100名山が日本アルプス等の標高の高い山に集中している様に、日本100名城も江戸時代:濠と石垣に囲まれた、 昭和の鉄筋模擬櫓や天守が築かれている一国一城の平城が殆どの様?。
山内城主郭と雑木に覆われた土塁

竹田城(虎臥城 )も単にツアーを募る観光の城・デートスポットにさえなっている様子。車道からも城郭の石垣櫓跡に早朝から夕刻前まで 人影が絶えることが無い。此の竹田城の周辺に竹田城守備の城砦群が点在する。山内城・物部城(及び木ノ内城)共に竹田本城の南方約4km程の範囲内に在る。R312号線・円山川・JR播但線 ・県道70号(旧国道)を挟んで約2km程の距離・谷を挟んで物部城と呼応する。
山内城主郭北端からの山内集落

互いに城位置が確認出来、生野街道監視の木ノ内城・物部城と、山内城が在る。山内城は伊由谷川沿いに進むと伊由峠(トンネル)を越えて山東町与布土へ繋ぐが、 青倉神社を経て黒川ダムに通じる。 黒川には山名時義が創建の大名寺があり、此の時熈が幾度か大名寺に参籠しているが、 現:多々良木ダムから黒川ダムへの 山道を辿ったとも、生野町銀山口迄南下して、市川沿いに黒川へ向かったとは思えず!!?、伊由市場から山内城下を青倉神社経由で向かったものと思えます。
山内城主郭

また黒川からは現:R429号の生野峠越えで丹波市 青垣町に通じ、 丹波の足立氏や芦田氏領内の一部も山名氏領地だった様?。 領有したかは兎も角!!?丹波に通じる間道監視警護には山内城が辺り、 物部城と呼応し・物部城からは見え難い?竹田城への狼煙等による ”知らせ<通信>の城”の機能もあったのかも…。足羽氏の先祖は越前朝倉氏の家臣であったと云うが、越前朝倉氏の祖は但馬朝倉氏ともされます?、
山内城主郭北面と堀切

但馬足羽氏は越前:足羽郡の足羽氏に繋がりがある様に思えるが不明。 山内城へはR312号線の伊由市場交差点(交差点南東側に大きな石鳥居<伊由神社?>が見える)で青倉神社の案内標識を見て左折し県道526号に入る【車で青倉神社へ行くには 多々良木ダム側からが無難かも!!?】。伊由谷川沿いの車道左に山内集落 ・右に最後の民家を過ぎると低丘陵端を掠め丘陵裾まで100mもない幅の田圃が続くだけ。
山内城城域尾根北端:自然地形の平坦部から激急斜面を下る

田圃は車道沿い東先で丘陵が道路側に 落ち込む裾で橋【県道526号に入り最初に伊由谷川を渡る橋】の手前右上。急傾斜で延び上がり 三角垂の富士型を見せる丘陵頂部に極小規模の山内城が在りました。登路は山内集落側から R526号線側へ伊由谷川を渡る橋から、そのまま丘陵裾へ向かう畦道の先に墓地が見え、墓地参道横の鹿除けフエンスを開閉すると幅狭い未舗装林道が谷奥へ延びている。 急斜面だが杉やヒノキの植林帯なので何処からでも取り付いて
木の内城東尾根末端曲輪のΩ状は虎口?、 石室石材が抜かれた古墳跡?

直登出来そうだが林道を辿れば少し先:途中の溝谷の前で終点。溝谷に架かる朽ちた丸木橋は幅2m足らずなので、 危険な橋は渡らずに溝を越すと、 城域の南側尾根続き鞍部に向かう踏み跡が有る。鞍部から北末端への尾根筋は、急でも無い短かい登りで小曲輪(10x15m程)に着く。尾根側の浅くなった堀切を越え主郭(幅約10mX25m程)に入ると、 尾根筋境から山内集落を望む急峻な東側中央には雑木の覆われているが高さ・幅約1mX長さ6m程の土塁が遺る。 東斜面は植林が全て伐採されており、伊由谷川沿いの間道と集落(庄園内)監視、及び北方の物部に木ノ内城・物部城を望み、本拠:竹田城に正対して通信(知らせ)の城としての任にも当たった砦城と思えます。
物部神社と背後の物部城(出曲輪?)

主郭北の尾根先へ下る急斜面下に浅い堀切を見る。 西斜面側に回り込んで見ると自然地形か?埋もれかけの竪堀か ?二条程の浅い溝状を見る。主郭西面は中央から南側には 明確な二状の竪掘があり、主郭南北の堀切と・西面に落ちる竪掘を併せれば同方向に並び落ちる 畝状竪堀と呼べるかも・・?。
物部神社奥の乳母神社?から西国霊場道が続く

山内城は小曲輪・主郭の 2郭で構成されている様ですが、曲輪として利用出来る平坦な自然地形(約20m程)の先で一挙に登ってきた林道筋の山麓まで、雑木から植林帯へと急斜面を下る。降り立つ谷筋近くには幾段もの削平段が残るが、 城の規模からも此れが屋敷跡とも思えない。嘗ての地場産:紙の原料・ミツマタやコウゾ殖産の棚畑だったか?、蚕の桑畑だったのかも・・?。


物部城と木の内城
物部城 乳母山? Ca210m(乳母神社の背山) 蔵山?(播但連絡道トンネル上)240m 朝来市物部倉山

R312号線とは円山川を挟んでJR竹田駅を発ち播磨方面へ南下する播但線が県道70号線<旧国道>と並走する。次の駅:青倉駅直ぐ手前に物部八幡神社・駅の少し南先方の道端沿いに小さな丘と、その上に神社が 祀られる。此処が県指定文化財(昭和36年8月23日 )船之宮古墳がある。古墳の詳細を此処では避けるが、 平坦地形の一帯に古墳時代中期(5世紀後半)の周濠をもつ前方後円墳が在る。
三段築成の船之宮古墳後円部:手前は周濠で今は沼地か池?>

全長約90m<周濠を持ち此れを含めると約115m>・前方部幅50m・後円部径47m・高さ約8mで三段築成を成しくびれ部に造り出し <伊丹市の御願塚古墳を参照>をもつ大型の前方後円墳で但馬地方では 池田古墳につぐ大規模古墳です。 埋葬主体は不明ですが、国造級の豪族の墓として但馬国造を伝える彦坐王の五世の孫船穗足尼(ふなほのそこね)との伝承があり但馬日下部氏の大祖ともなる。首長級の古墳が築かれている此の地の特質等の参考に追記した。
物部城?<出曲輪>の休憩所:向の山上がホントの?物部城か?

県道70号を西南へ約4km・朝来市朝来支所 ・朝来中学校背後の丘陵上には立脇城が在る。さて・・・物部城の城史全般については情報不足で詳細不明だが、 上記山内城と物部城のプロローグと山内城のレポートにも重複しているが参照願います。JR青倉駅手前:物部集落の中央部 ・物部八幡神社の西角から北に入る車道は、
物部城 ?<出曲輪>から 木ノ内城を望む

直ぐ民家上部で田圃と先方に鹿猪除けフエンスのゲートから播但連絡道路の高架下を更に宮谷川の 谷間奥に向かう林道に入っていくがゲート側に「入山禁止」の貼り紙。此の谷間の左手:連絡道路手前に 木ノ内城・谷間の右:連絡道路沿奥に物部城が在る。物部氏の二つの城の南口となる物部八幡神社から北背後の低丘陵部へ直線的に延びる道がある。
物部城(出曲輪)?南下段西斜面にみる竪掘状!?

その先の丘陵尾根南麓に小さな祠(乳母神)が祀られ安産の神・婦人病の 神として尊崇されている。 幅狭い車道を挟んで南側に 屋敷跡とも思える広い削平段が二つばかりあるが城主居館にしては手薄過ぎる!!。祭神について俗説があり :竹田城落城の折り、城主の乳母が此の地に遺児を匿っていたと云う。此の小社の背後に続く尾根筋は西国33ヶ所ミニ霊場の参道となっており、程なく東屋休憩所(すゝ美堂)が建つ山頂部の平地に着く。
物部城?<出曲輪>南尾根側の段曲輪状?

此処が字名にある乳母山?頂上の物部城か?。 麓の小社から此処までの正面尾根は比較的緩斜面で平坦地形もあるが顕著な曲輪や曲輪段差の切岸加工も堀切・土塁等の防備施設も皆無。ミニ霊場巡りの整備された参道を辿り頂部の東屋休憩所に着く。此れが竹田城主:太田垣氏の武将物部治政が天正期始め頃に拠った城(砦)とはとても思えない。休憩所の在る頂部周囲に段差をもって 左右に曲輪や竪堀らしい地形も見えるが ?…物部城の前衛に位置する出城(物見砦)か?。
物部城(高架橋北取付き :小谷奥の石垣段?)

尾根続き背後:播但連絡高架道路のトンネル南出口・短い谷を挟んで西向いの尾根先端Ca240mピークに主郭を置き、尾根沿い南へ3-4段の小曲輪を並べるだけの極小規模の城(砦)が 物部城ですが鎌倉時代中庸期の弘長年中(1261‐64)物部ョ久が物部庄地頭として来住し、鎌倉・南北朝期にかけて 使用された旧物部城なのか?。取付き点は物部神社から西北へ進み、播但連絡道の高架下正面の鹿猪除け?ゲート手前から 高架下に向かう作業林道を進み、
物部城(高架橋北取付き :小谷の段曲輪状?)

播但連絡道 トンネル南口へ進む林道を見送り谷沿い林道の開拓農耕地?手前で、藪で覆われた細い谷筋に入ると、 直ぐ谷は拡がり泥濘む平坦段が幾重にも連なる。石積みも見られるが、 更に最奥部?には約4m程と2m程の高石垣積み上の広い平坦地に出る。 城の規模からしても武家屋敷跡とは思えず”隠し田”か?。高石垣の棚田?上部から右手斜面に取次いて物部城の主郭北尾根側鞍部に着く。
物部城(北尾根側鞍部から主郭

北尾根続きは単調な上りが続くだけ、 主郭側へも鞍部に堀切遺構は無く、下方からは曲輪切岸だけが認められる。細長い主郭(幅7mX20m程)から南尾根側に3段ほど小曲輪が有るだけで、平坦段以外に遺構は見られない。小曲輪から樹間越しに播但連絡道とは、谷を挟んで西南の至近距離に在る木ノ内城と呼応しているが物部城(先の神社脊山の城遺構 ?や此の播但連絡道高架・トンネル南出口部の城遺構にしても中世まで改修もされず使用されてきたとも思えない!!?)。
物部城 主郭から南尾根側段曲輪

山内城・物部城と岩須城に纏めて記しているが天正5年(1577)竹田城主:太田垣氏に属した部将:物部城主物部治政・山内城の足羽是高が太田垣出雲守の岩洲城(朝来市山口)に拠って、 羽柴秀長の但馬攻めに参軍した播磨:赤松広秀勢を迎え討つが敗れ敗走している。長年の宿敵であった 播磨赤松氏と但馬山名氏だけに、 播磨国境近くの但馬側防衛・警備監視の前線基地として、岩洲城・立脇城・田路城・物部城(このときの物部城とは木の内城<物部古城から本拠を谷向の木の内城に 移したものか?>のことか?)
木の内城主郭部東端:切岸下を堀切る土塁曲輪

・山内城等を円山川沿い・播但道(但馬道)の要衝沿いに守護代:太田垣氏に築かせていたのでしょう。しかし天正3ー5年(1575-77)羽柴秀吉の但馬攻略により、侵攻してくる頃には多くの城砦群は落城していきます。 殊に生野鉱山支配権を維持する為・織田信長に降りた太田垣氏ですが、始めから生野鉱山を狙っていた信長に鉱山を奪われた太田垣氏は、無念の思いで毛利方に付くが以来、城史等に太田垣氏の消息は不明。

木ノ内城 xxx山 220m 朝来市物部

県道 70号線(旧国道)沿い・JR青倉駅の西北約250m程び物部神社がある。神社側から西北の丘陵側に向かう車道は直ぐ圃場間を進む農道?はその先:左右の丘陵間に入って行く作業林道か?・播但連絡道の高架下の正面に鹿猪除け?ゲートが見える。此のゲートのある宮谷川を挟んで、右手・専用道路のトンネルを南口の西北尾根上に在る物部城が在った。 物部神社背後の丘陵上・西国33ヶ所ミニ霊場の参道で、頂部に東屋休憩所の建つ位置は物部城の出曲輪(物見の砦)かも・・・?。
主郭:散在するのは経塚の葺石用石材 ?・手前は盗掘抗か?

と思えるが・左方の専用道路南側の丘陵部に木ノ内城が在りました。物部城は堀切・土塁 ・竪掘等の防備施設の無い、数段の曲輪を並べただけの古い時代(南北朝期頃)の古城の様で、中世には物部氏も木ノ内城を築いて 本城とし移ったものか。城址への取付き点を探して谷間を奥へ進む地区の作業林道?入口ゲートに先日は「松茸山の止山の為シーズン中は入山禁止」の貼り紙を見て引き返した為、今回の再訪で二城(播但連絡道の トンネル南口高架上の物部城と木ノ内城)の訪城を果たした。
主郭部東端の堀切:左の竪堀状は東尾根末端曲輪への 通路兼!!?

物部神社・乳母神社?背山Ca210m(山頂部にミニ霊場巡りの休憩所が建つ)と、蔵山?(播但連絡道トンネル上)250mの二ヶ所に城郭遺構?を見るが砦規模の物部城に比して、木ノ内城は最高所の主郭部から三方に延びる尾根を堀切で断ち、東に落ちる尾根先に数段(3-4段)曲輪を連ね先端部は広い削平地で、 尾根上に通じる通路と思える部分にはΩ状に入り込む分厚い土塁囲みの虎口に似た箇所が在る。
主郭:西北端堀切(背後を播但連絡道が遮断)城遺構は消滅か?

但馬には古墳が多く、県道70号線沿い南西700m程には周濠を廻す地方の首長級前方後円墳船之宮古墳(県指定)もある。 南に開口する直径20m程度の横穴式石室をもつ円墳の石材が抜き取られてた跡の状態とも考えられます。此の曲輪左端から左 (北側)へ廻り込む様に下降すると、登路に辿った短い尾根(幅狭い此の尾根にも3段程の細長い曲輪が有り 主郭部先端の切岸下に堀切がある )との谷間に数段の広い削平段を見る。武士団の屋敷跡か?。 山内城と物部城・木の内城に関しては
東尾根筋末端曲輪 (手前Ω状・土塁虎口にも見えるが石材が抜かれた古墳跡?)

天正5年(1577)七代城主物部治政が太田垣氏の部将として山内城の足羽是高と共に太田垣氏の築いた岩洲城(朝来市山口 )に拠って、攻め上ってくる播磨:赤松広秀勢を迎え討つが援軍の笠垣次郎武祐は戦死、 物部氏・足羽氏等も大将:竹田城五代城主:太田垣朝延を護って敗走している。いずれの城も城史不詳ですが、城址残存遺構からも 物部城最後の城主物部治政の頃の物部城は木の内城<新物部城 ?>にあったと思われます。

立脇城(立脇砦)  xxx309m  朝来市立脇字シロノクビ

物部城と木ノ内城の訪城後は 物部八幡神社前を、そのまま円山川を挟んでJR播但線沿いに播磨方面へ南下する県道70号線<旧R312号国道>を走ると直ぐ青倉駅前、其の少し南の道端沿いには県指定文化財(昭和36年8月23日)船之宮古墳がある。そのまま約2km程直進してR312号線(道の駅あさご )への左折する交差点を越えた立脇地区に朝来中学校・朝来市役所朝来支所・図書館等が建つ。
朝来市立図書館前から立脇城方面!!

立脇城は県道70号線西側・朝来中学校背山に青い無線施設の反射板が見える丘陵頂部の西奥に有り所在の山頂部を目視出来ないが、R312号線側 (道の駅あさご)付近からなら確認出来るかも知れない標高309m峰山頂部に主郭を置く、極小規模の単郭の城。竹田城の出曲輪 ・出城として本城の南には近場に物部城・木ノ内城、北方には安井城・ 三波城が、円山川を挟んで北東方には筒江城 ・加都城
反射板から多々良木ダムへの車道を望む
.
竹田城の東には市御堂城・南東には山内城等、竹田城主太田垣氏傘下の部将等が拠って領内を守備監視しながら周囲を牽制していたのでしょう?。 朝来市支所と朝来中学校グラウンド間からグラウンド端を回り込み、地蔵堂側から神社に向かう。神社名は不明だがイザナギ ・イザナミの二神?を祀る古社のようで、捧祀者に太田垣xx氏の石標柱が立つ・・・。
立脇城主郭中央部の土檀

神社側から丘陵尾根に向かい斜上する下草生した山道は辿り、鹿除けネットを潜りなを続く。ネット手前左に急な直登する木階段が背高い雑木藪に隠れるように続くが、やがて朽ちた階段沿いに藪漕ぎ状態。 ”ふるさと活性化の為”?青年団により整備されたコースらしいが此処:立脇城を意識した整備道かは不明。 ネットの先へ続く道も此のコースも無線中継用反射板下部(標高258m)で合流して、尾根筋端のピーク(眼下の旧国道筋を望める先端部)は物見台だったか?。
立脇城主郭(主曲輪 )中央の三角点石標

此れより方向を変え更に登ると4等三角点(309m)石標柱の埋まる山頂主郭に入る。主曲輪部は南北に約40m程 ・東西に少し短い35m程か?の曲輪中央部に・切岸も曖昧な高さ約70cm前後?(東西30m程X南北に6-7m程)の櫓台にしては 幅広い土檀が築かれているだけだが、北尾根続きに切岸を5-6m落としたその先には土塁を挟む二重堀切が施してある。南北の尾根筋以外(尾根筋も此の先!!)は猛烈な下草・雑木藪で踏み込めず遺構確認は出来ないが 単郭の城域が更に拡張されているとは推定出来ず引返す。
立脇城主郭北の二重堀切

三角点峰からは 西方に峰並びに”さのう(佐嚢)高原のスカイヴィラが望まれる。さのう高原側をR429号が宍粟市一宮町・養父市大屋町側へ越えるが、北や西方に展望は効かない。守護山名氏が・其の後の守護代太田垣氏が播磨国境に近い此の地一帯に対播磨守護赤松氏への・さらに天正期前後には”但馬進攻”を始めた織田勢力・羽柴秀吉軍警戒の為の見張台として機能していたものか?。
主郭北尾根筋の切岸(二重堀切から)

天正5年(1577) 山内城と物部城城主が主君の竹田城主:太田垣朝延と岩洲城(朝来市山口)に拠って、攻め上ってくる播磨 :赤松広秀勢との合戦に参戦したが敗れ、城はそのまま廃城となったものか?。築城・城主・廃城等の城史一切が不明だが、 山内・物部・岩洲・立脇の各城砦は播磨側からの 侵攻に対する国境警備の為に築かれたものとは考えられます。
主郭北尾根筋の切岸(二重堀切から)

立脇城へ向かう反射板上方の尾根筋から、東正面には多々良木川沿いに多々良木ダムへと山懐に入っていく車道を望む。北方の物部城・木ノ内城の東正面には :円山川沿いの但馬街道・伊由市場からは、 同様に伊由谷川沿いに山内城麓を抜け青倉神社への車道が、山東町側与布土へ越える。 青倉神社の先は黒川ダムに通じるが、 多々良木ダムも其の上部貯水地が黒川ダム。さらに黒川ダムサイトの黒川には大明寺(臨済宗)があり、但馬守護となった山名時熈(ときひろ)により創建されている。
主郭北尾根筋 :土塁を挟んでの二重堀切

・・・・が生野峠を越えれば丹波市に入る国境近く、旧氷上郡佐治庄(丹波市青垣町佐治)の岩本城主 :足立基高の位牌も祀られている<但し末孫による元禄以後のもの>。山名氏が度々参詣した大明寺への道程が:多々良木川沿いか・伊由谷川沿いか、遠廻りながら生野口から市川源流沿いのR429号線だったか ?知らないが立脇城も要衝の生野街道と此の丹波国境越えの間道監視の砦であったと思われます。

岩洲城(山口城)  岩洲山・妙見山? 469m  朝来市山口字上山

R312号線とは円山川を挟んでJR播但線と旧国道(県道70号線)沿いに物部神社( 物部城と木ノ内城が在る)前を南下して朝来市役所朝来支所( 立脇城が在る)前を通り、JR新井駅を過ぎた所でR312号線「立野交差点」に出て250m程で播但連絡道路朝来ICからのR429号と合流する「朝来インター東」交差点。
山口護国神社(生野義挙史跡)

岩洲城(山口城)への登城口となる妙見宮参道入口は 此の交差点を左に進む地区道沿いだが、登山口近くに駐車スペースは見当たらない。地区道は此の先山口護国神社前を通りR312号線に合流するのでR312号 「羽渕交差点」先で「護国神社」案内標識に従って左折し地区道(区間バス道)に入る方が無難です。護国神社から地区道を約150m程北進した丘陵側に「妙見宮」の参道石標が立ち、崖沿い急斜面に山道が延びる。 鹿猪除け扉?を開閉して進むが、
「妙見宮」石標のある参道!!入口

急傾斜面に続く 九十九折れの道は途中まで送電線巡視路だが、参詣者共に利用者も少なく下草の覆われるが、直ぐ足元は今度は下草も生えないガレ場。巡視路分岐を過ぎると道幅は極端に狭くなり滑りやすくなってくる。巡視路の一方の送電線鉄塔の建つ尾根筋上部に平坦地形(曲輪)が一つ有る。尾根筋は岩盤・露岩帯で、尾根東崖側に 10m程の衝立岩を・尾根正面も5m程の岩場が凹角に囲む。
妙見堂の石垣部と出曲輪主郭部北端曲輪

岩壁沿いに中央突破で岩上に登ると2m程の石垣に囲まれた檀上に妙見堂が建つ。一般参道は尾根筋西から露岩部を捲き上がると、妙見堂の北(岩洲城出曲輪<物見台>主郭部の北)先端部に着く。円山川流域の上流・山口地区から立脇城・物部城から本拠:竹田城方面に展望が拡が岩洲城域唯一の展望地。
生野義挙の志士13名が一時籠った:妙見山(妙見宮)

遺跡分布地図上の岩洲城城域に320-330m付近の妙見堂部分は含まれず、標高380m付近から 山頂部469mを示されていますが、妙見堂背後には露岩の瘠せ尾根鞍部には岩盤を穿つ・深さは無いまでの岩を砕いてまで敷設された 二条の堀切と片堀切がある。石垣積みが妙見堂建立の用地補強と境内確保の為とは思えるが、此れ程までの峻険な山上部・
妙見堂前(出曲輪主郭部北端曲輪)から生野街道の眺望

狭い尾根上に排水等の空掘・堀切は無用!?!。堂と堀切間の短く幅の狭い平坦地にも大岩が残るが櫓台使用が考えられ、此の櫓台曲輪・妙見堂 ・妙見堂前の平坦地の三曲輪が、大きく改変されているが往時の砦構成か?。此処が太田垣氏が築いた岩洲城(山口城)?。 尾根幅(東西)は広い所で10m程・南北に凡そ50m程の極小規模の城域・しかも峻険な露岩上の砦に、どれほどの将兵が拠ったものか?。
妙見宮背後:露岩上の最高所の大岩と狭い曲輪は櫓台?

播磨境に近い但馬街道沿いには太田垣氏の竹田城城砦群:物部城(木ノ内城か?)・山内城・田路城や山口岩洲城が築かれていた。 天正5年(1577)中国・毛利攻めのため播磨に入っていた羽柴秀吉は播磨平定を進める一方:弟秀長を但馬に侵攻させた(第一次但馬攻め)。 播磨:赤松広秀は秀吉に降り11月の秀長による第一次但馬攻めに参軍している。物部城主物部治政・山内城主足羽是高が、主君の竹田城主太田垣(土佐守)朝延を護って籠った城。
妙見堂(岩洲城出曲輪!!)の二重空堀

攻め上ってくる播磨:赤松広秀勢を迎え討つが援軍の笠垣次郎武祐は戦死、物部氏・足羽氏等も岩洲城の 大将:太田垣出雲守(朝延の子 :輝延か?)を護り敗走した【此の戦いを郷土史には天正元年(1573)年赤松広秀による侵攻を伝えているものがある、 岩洲城(山口城)の築城時期や城主等城史は不明ですが、赤松広秀により先に一度:太田垣氏の留守将が拠った岩洲城が落城しているのかも ?】物部氏・足羽氏が拠った岩洲城合戦場とはとても思えない。太田垣氏の諸城は 悉く落城し翌日には竹田城に迫ります。
護国神社:西園寺公望揮毫の”殉節忠士之墓”碑

此の中腹に在る妙見堂が敗戦の最後の舞台となるのは286年後・天誅組が大和五條代官所を占拠した「大和義挙」に呼応して 生野町口銀谷の生野代官所を尊皇攘夷派が占拠し挙兵した生野の変(文久3年 1863)で但馬地方では平野國臣(平野二郎)・南八郎(河上弥市)・多田弥太郎等による生野義挙の史跡【R9号:若宮神社にも中嶋・黒田の顕彰碑 】として残されている。幕府天領の生野では表向き外国からの侵攻に備え(農民一揆の鎮圧の目的から!!)農兵組織が計画されていたのを、平野國臣(筑前藩)・美玉三平(薩摩藩・寺田屋事件で逃亡)等が利用し、 年貢の減免を宣言し農兵組織化を図り、
護国神社:生野義挙の十七志士碑(背後は志士自刃の山伏岩)

公卿:沢宣嘉を奉じて挙兵したが幕府の討伐軍攻撃に指導部は分裂・農兵は離散し、逆に農民一揆が起こり浪人達は農民の銃・竹槍に倒れ、僅か3日で破陣し岩洲山(妙見山)の妙見堂に南八郎(元長州藩士:河上弥一<市:21歳 >)等13名が立て篭ったが天誅組の変に続き・生野の変も失敗に終わり、麓に下り護国神社の「正義13士…」碑の立つ側”山伏岩”に 「今月今日討死」と血書して自刃し ・また付近で自刃・討死した同志四人を加えた17名の志士の碑も建てられている。此処に散った志士のなかにも現:丹波市春日町出身の片山九市・伊藤竜太郎がいる(人名等未確認)。
岩洲城主郭南端の土塁曲輪

”生野義挙”終焉の地が山口護国神社。生野の変(生野義挙)史跡として、 境内には「十七士之神霊・正義十三士自盡之址・生野義挙志士殉難之地等の顕彰碑や供養墓碑が立てられ、町指定<平成元年12月12日>文化財となっています。鳥居正面上の祠中央に慶應4年(1868)「殉節忠士之墓 」正三位中将藤原公望の揮毫は【戊辰戦争で明治新政府から幕末方地方の動乱鎮静 ・各藩の新政府に対する意思確認のため、 山陰道鎮撫総督・北陸道鎮撫総督に任命された西園寺公望書による墓碑が立つ。
岩洲城主郭南端の土塁曲輪

しかし此の倒幕運動が民衆の支持を得ての革命ではなかった事は、烈士達の無念に更に鞭打つ様で残念な結末ですが・・・。岩洲城の出曲輪(妙見堂)からは尾根筋背後の岩を削り落とした二重空堀を越えて標高469m(4等三角点)の山頂に向かう。尾根幅狭く急な登りが少し幅広くなる曲輪?か・緩衝帯?が山頂主郭群との粗中央部に在り、登り一辺倒だが少しは楽になるが展望は望めない。 曲輪等の遺構らしいものを見ないまま再び傾斜が増し、
岩洲城主郭から:再奥が南端の土塁曲輪

尾根幅狭く厳しい上り尾根上に城蹟が?…と思える山頂付近になると急に幅広い尾根の平坦地形になり、頂部L字状に東へ延びる尾根上コーナー部の西から南東にかけて幅広い土塁が囲こみ段差は低いが東側に一段曲輪 を越え・岩洲城主郭<最高地点469m:4等三角点石標の埋まる>に入る。郭の尾根続東側の切岸(1.5-2m程)下に2段程の小曲輪が続く。 山上曲輪群は東西100m以上あり、土塁以外の防備施設(曲輪の切岸や空堀等!!)を見ないが
岩洲城主郭(4等三角点469m)

物部氏・足羽氏らが此処を陣として籠り、妙見堂出曲輪への出撃や、主郭から東北へ尾根を降って山口・立野・多々良木方面への退去路を確保し、敗走する主君を将兵等が楯となって護ったものか?。 妙見堂よりは真実味がある!!?・・・が鉄砲戦では防禦効果は薄かったか?。山頂から南へ延びる尾根筋の430mピークも出曲輪の可能性はありそうに思えたが、国境に近い峻険な山城だけに岩洲城主郭以上の城遺構が遺るとも思えず 探索せず引き返した。
(但馬の城 兵庫県の中世城館・荘園遺跡 生野義挙:現地護国神社案内標<朝来町県教育委員会>を参照)

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