東河七城・・!黒田城砦群廻り 白井城・宮城・小川城・寺木城・東久田和城 |
宮城は宮集落内を東河川に流れ出る宮川!?の西北方の山稜上:黒田城の在る292m山の尾根続きに
圧し掛かるように頭を擡げる379m峰がある。其処から南へ下る山塊の山裾に、智源山圓明禅寺が在り、地区道路を分けて、
南に盛り上がる比高30m程の半独立丘陵の円錐状の小山がある。
宮城:山上二箇所に平坦地・向かい東に空掘り等遺構が明確に残る
県道273号から圓明禅寺へ向う区道路を分けて、西側の尾根先に在る小川城とは真東に正対して小山城〜宮城間は直線距離で約300m程。圓明禅寺は此の小山の北に在って、地区道からは高い切岸を見せて居館跡を想わせる様相をみせています。小川城の西南方約250mには寺木城が在り、
二つの城からは本拠の黒田城へは尾根続きで繋がります。
宮城主郭東:低い土壇状・主郭を捲く空掘からの竪堀?。
虎口にも見えてくる・・?
圓明禅寺側から取付き頂部に出ると西側の緩やかな平坦地が拡がる緩衝帯!!?。広い窪地を挟む二つに丘状で、 向かいの東側丘陵部の最高所に位置する主郭へ移ると、なんと主郭を空掘が周回する。空掘外側を土塁で積み・埋もれて浅くなってはいるようですが明確に残る。空掘土塁外には南から西を廻り北へ
帯曲輪が廻り北尾根先の小曲輪に延びている様ですが此処も城域を少し外れる北と東には古墳が有る様です。
宮城:主郭を周回する空掘
主郭東北端には窪地 か?・僅かな段差で土壇状になった一角がある。東河街道の
夜久野側から降りてくる通行監視の櫓台でも有ったものか?。東側の腰曲輪側には短いが空掘から斜面下へ竪堀らしい窪地がある?。下方kら見ると空堀に入る平入り虎口にも見えてくる。大手は北・東寄りに有ったのかも?。
宮城:主郭を周回する空掘
低い独立丘陵なので城域を遮断する堀切を敷設するところは
ないので空掘を廻して防備していたのでしょうか?。上道氏の縄張りでは今のところ此処だけ?のユニークなものの様です。
主郭から南へ数段の曲輪を下ると、屋根も朽ちかけ・瓦もズリ落ち・縁の下部も腐り柱の浮いている祠と、其の横に小ぶりながら新しい礎石壇に祀られた祠が建っている。
宮城:朽ちかけた祠の削平段が高い切岸?上に在る
古い祠は祈祷札が立ててあるが墨が薄く読みとれないが祠は天保10年
(1839)頃の落慶か修復されたものの様です。此処は城中で一番切岸の高い曲輪だったのでしょう。参道を伝い、竹林の中を突っ切って西南部の民家側に出てきたので、そのまま西側の小川城に向った。
小川城 xxx170m 朝来市和田山町宮字小川
上記の宮城が小川城からは東に約300m程。黒田城の在る292m山稜の上に、圧し掛かるように頭を擡げる379m峰がある。其処から南へ下る山塊の山裾に、智源山圓明禅寺が在り、
地区道路を隔てて南に盛り上がる西側丘陵上に在ります。また西に約200mの至近距離には黒田城から・同様に南に突き出した尾根先が県道273号(東河街道)に落ち込む突端に寺木城が在り、宮城・寺木城の中央に小川城が在り、三城が東河街道の向かい呼応し合って横に並んでいます。本拠?:黒田城と寺木城が東河七城の一に挙げられる様ですが、
主郭北の尾根側を殆ど堀切った!?空掘が西面に竪堀となって落ち込む
小川城と宮城は東河七城の 選から漏れている様です?が、応仁の乱以降に築かれた城砦であったか?は、城史も城主も・東河七城の一に挙げられながら 未だ城の所在が判らない?大治賀城が、新に城跡リストに載せた下記の東和田城に比定出来るのかは不明ですが、未だ潜在していると思われる未発見の城砦は在りそうです。
主郭北面の堀切から長く深い竪堀となって西下に延びる
宮集落西端民家側からの山道から墓地に向かうと、
墓地から直ぐ虎口状の窪地を上がると左右に小曲輪を見て尾根に向かうが、目前の小谷が尾根上の主郭まで続き、
尾根を裂く片堀切か竪堀なのでしょう?。竪堀を駆使する但馬の城にあって、何故か例が少ない上道氏の縄張りなので、土砂崩壊による自然地形なのもの?!!・・と思えるが、尾根上から見ると空掘から墓地上部へと
斜面に長く延びる竪堀です。
小川城主郭:此の下段に広い帯曲輪が廻る。
民家の先で直ぐ斜面に取付き・墓地へは帰路に降りてきたが、藪と下草が覆い、地肌を見せる部分さえも、荒れた尾根や斜面に曲輪地形の確認も出来ない。ただ比高20m程の主郭北面の片堀切(竪堀)や、
此処で城域が区分されて更に北へ長く延びる北郭部にも、尾根を掘り切って城域を遮断している山城遺構に訪城の気概が満たされます!!。南山麓に居館跡が在ったとされますが、宅地・農地造成で消滅したものかは不明!!?
寺木城
160m 朝来市和田山町宮字寺木谷夜久野町へ越える府県境から円山川に流れ出る、
東河川流域を支配していた上道(かんだち)氏一族の本拠:黒田城が東河街道中央部付近の北方の峰292mに在る。其処から南と東南へ延び出す二つの尾根先には、東に小川城との間に寺木谷を挟んで約250m程先・西南には
寺木城が在り、ともに黒田城の出曲輪的存在にみえるのですが・・。
二の郭から主郭切岸
:左に腰曲輪と主郭下に帯曲輪が廻る
黒田の本城と寺木城は上道氏の東河七城の一に挙げられている様?ですが城主・城史は不明。上道氏一族が配されて、尾根続きの黒田城・和田山町中の小栗城と共に三つの城を併せて笹田本城とも呼ばれる様です。県道273号線・東河街道の宮バス停から250m程西に「万屋
」さんの様な店の隣り家屋の西側に境界赤ポールが立つ。
二の郭への入口(右手の虎口!!?)側にある窪地は”武者隠し?"
此れに従えば県道から突き上げるばかりに急な斜面が、丘陵上の主郭に祀られる妙見堂【扁額に不動尊xxxとあった様に思うが、甲冑を身に纏う、
武人・上道氏一族の守護神として崇拝されたものか?菩提寺や宗派までは未確認!!ですが】まで参道が
通じており比高約30mだが4〜5分もあれば楽に行き着ける。参道は比高20m程にある広い二ノ郭に着く。ざざっ広いの表現が適当か?、居館跡の様な幅25mx奥行40m近くの綺麗な削平段で、
参道を登ってくる城域へのたった一箇所だけの出入口(虎口)の側に、天水受けの井戸にしては大き過ぎる円形窪地が有って、
主郭背後の堀切
虎口側への一部が低くなっているよう?。”武者隠し”とすれば虎口から一気に攻勢をかけるには適している様ですが、
切岸も20m程の激急斜面です。さらに此の二の郭からも一直線に石段参道が、妙見堂を祀る最高所の主郭に延びる。
主郭の切岸が此れまた10数mと高い。石段途中にも左手に腰曲輪・その上には帯曲輪が一段廻り、主郭中央には妙見堂が建つ。
主郭一段下の帯曲輪
背後の平坦な空間には、低い櫓台や土塁等遺構を削平・改変されているのかもしれません!!?…というのも、此の尾根続き背後には竪堀として長く延びる堀切があり、
城域を完全に遮断する体勢ですが、文字通り”最後の砦”主郭側の切岸が3〜4m程度では不安。土塁を設けることで切岸を高く、且つ防戦のための備えにもなる筈です。
東和田城 xxx xxxm 朝来市和田山町東和田
東和田と中集落には
小栗城(中集落北の丘陵部Ca220mピーク付近)・大治賀城(中集落内だが位置不明)と 此の東和田城が在る。
遺構からして砦クラスではなく、東河黒井城を本城として山上部からの尾根末端部、東に小川城・南に寺木城・西に此の東和田城が県道273号沿いに位置しています。しかしプロローグに記した東和田城を除く三城が
東河七城の一となっている様ですが、
中の曲輪(土壇?)浅い空掘を越えて北端の曲輪と広い削平地へ
此の城は先の資料等からも城名は見出ず、県の遺跡分布図に記載されているだけですが、東河平野部を治める領主の居館か代官所イメージが強く 比高20m足らずの低丘陵部に60m以上に平坦地形が続く。
城跡へは東河小学校の東約150m程・地区道の民家向かい:南側から古墓へは向う細い木の階段がある。
今は墓地(古い詣り墓が、其のまま残されている様?)となっているが、幾重にも重なる多くの小さな段曲輪が転用されている様で、曲輪毎に祀られた集合墓地の中を縫うように抜けると、
空掘状で区切られる三連の土壇状曲輪
そのまま尾根上の曲輪に着く。中集落とは微妙な位置に有る東和田城こそ!!?、
規模から見ても中集落に在るという大治賀城(東河七城の一)が此の城ではないかと思わせます。所在地は東和田ですが・中集落とは微妙な位置に在って、縄張り的にも空掘り状で区分けした10m四方の三つの曲輪を並べ、 尾根側との間にも広い削平地
(南北25m程か・多くのベンチが階段状やサークル設置されており、遊具は無いので東河小学校等の野外学習広場?か、広場に面する主郭部切岸北側は、
切岸を見せる北端の曲輪と造成された!!?広い削平地
後世の造成で改変著しいと思えるが、北西端一段下に腰曲輪が残り?其の下方に新しい墓地)がある。
浅い空堀で囲まれた三つの曲輪というより櫓台状の土壇を並べた縄張りは、土壇の大きさが標準的な?円墳かとも思え、其の周濠の様にも見えてくる。東河周辺には古墳群も多く、露岩を見ないので・木棺直葬の
円墳頂部を均したマウンドを櫓等に利用したものかとも思えます?。
久田和1号墳 朝来市和田山町久田和字亀田
東和田城の南登城口となる墓地参道前の地区道に「久田和1号墳」の案内板が立つ。
此処から真南へ県道273号を渡り約300m、左手田圃の奥に雑木・雑草が繁茂する墳丘が見えてくる。
右手には269mピークから北東へ延び出す丘陵尾根先が急斜面を溝谷に落ち込む。真上に送電線鉄塔が建つ辺りから緩斜面となって、
正面の小丘が東和田城・尾根伝い黒田城に至る(古墳側から望む)
269mピークから更に尾根上に延びているが、此処には遺構の残る久田和城が在り、黒田城と併せて共に出直し訪城するつもりです!!?。南から北へ緩やかに延びる段丘上で、肥沃な東河平野を一望出来る位置にあり、
覆土が殆ど流出しており、崩れた玄室奥壁部が開口している。
玄室奥壁が崩れ開口している久田和1号墳
鬱蒼とした雑木に埋もれ且つ蔦類が露岩部を覆っていて、先に位置確認出来ていないと見過ごしてしまいそうな現状です。古墳時代後期(6世紀末)頃の築造と推定される横穴式石室(東西径16m・南北径4m・高さ 2m)の玄室部最奥の壁石がズリ落ちてか露出しており石室内に入れます。羨道部は東にあるが塞がっているが玄門部の天井石は抜かれている。
良い石材が使用されているものを多く見かけるので、
玄室から見る埋もれた羨道部
何かに転用されたのかも?。 玄門部側組石が綺麗に残っており、両袖式の大型円墳であったと考えられているようですが出土品については一切不明。玄室長は7.8mで天井石は2枚で大きい方は長さ3.5m・幅2.3m・厚さ0.9mとあり
和田山町指定(昭和53年10月19日)文化財となっています。
(現地:久田和1号墳の案内板:和田山町教育委員会 を参照)
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