東河七城・・!黒田城砦群廻り  白井城・宮城・小川城・寺木城・東久田和城
但馬:朝来市 (五万図=但馬竹田)
石禾(石和)谷の城館廻り  2009年12月13日
近畿の山城 黒田城(未訪) 白井城  宮城 小川城 寺木城
      東和田城

但馬の古墳:久田和1号墳
寺木城:帯曲輪からの主郭に建つ不動尊堂

R9号線の下夜久野 :小倉玄武岩公園分岐を見送ると峠に「ドライブインやくの」がある。この先夜久野城 (府県境にあり所在は山東町)下を過ぎて兵庫県朝来市山東町に入り磯部氏館・新堂見尾城・向山城・滝野城・陳東氏館等の側を抜けて 和田山町に入り 「一本柳交差点に着く。R312号線へ左折すると竹田城へ向うが、右折して出石町へ向い1.5km程で右折し県道273号線を東河(とが)川沿いに京都・福知山市夜久野町の「道の駅 ・農匠の郷やくの」に向う。 一方「ドライブインやくの」から北へ向うと「道の駅農匠の郷やくの」でロータリーを左(西)へ進み四辻先の茶堂から県道 273号で峠を越えると和田山町に入る。農匠の郷から茶堂まで・夜久野ヶ原周辺の畑の土が黒っぽい ・・右方に見える宝山(田倉山)が、京都府下唯一の火山。火山灰地と玄武岩の火山遺跡を見てきたわけですが、此処が応仁2年 (1468)山名持豊と勢力争いをしていた管領:細川勝元の家臣で、丹波守護代:丹波八木城(京都府船井郡)の 内藤孫四郎貞徳が但馬国へ侵攻して起こった夜久野合戦の舞台です。
白井城:主郭の建つ妙見堂!!?

山名氏の竹田城支城の一つとして東河川沿いに築かれた黒田城は此の合戦の但馬側最前線に在って、上道氏の東河七城と呼ばれた黒田城砦群がある。 山名四天王【太田垣・垣屋・田結庄・八木】の陰に隠れ、一族の名と命を削り、身を粉にして尽くしても報われる事の少ない、名も知られない多くの部将の一人!!?上道(かんだち)氏の黒田城と其の城砦群が東河川沿いの中・東和田・久田和・宮・白井…に十幾つかの城砦が確認されている。
正面の低丘陵上に在る東和田城・尾根続きの頂が黒井城!

本拠の黒田城・小栗城(中集落北の男鹿山か?Ca220m山頂)と寺木城を併せて 笹田本城とも呼ばれます。三城共に東河七城の一?ですが、寺木城は黒田城から南へ延びる尾根先の出城。同じ尾根一つ東側の尾根先に小川城が在り、宮川?を挟んだ東に在る半独立丘陵上にある宮城は、 堀切を設ける尾根筋は無いが・主郭を空掘りで囲い込む城砦群では稀な遺構ながら、フタタ城(宮城の真南約500m)や白井城 (東南約500m)は東河七城からは外されているのかも?(未確認)。「但馬の城」但馬文化協会のリストで東河川沿いを探すと、和田城・三浦城・大治賀城・小栗城・寺木城・久藤城・黒田城の七城が浮かぶが所在位置不明の城もある。
こんな藪の丘陵部(比高30m程)に在る小川城

茶堂前の車道は夜久野城へ 高低差無くそのまま北から入城出来るが、 茶堂から一つ左の地区道か林道の様な車道が、宝山周辺に祀られる四国八十八ヶ所 (石仏群)巡りの登山口となっている峠に延び、下っていくと田畑が現れ・民家が点在してくると 兵庫県朝来郡和田山町。車道は東河川沿いにJR和田山駅に至る。R9号(山陰道)とは丘陵尾根を隔てた北側を福知山市〜朝来市へ通じる 東河街道は、夜久野合戦で細川方が攻め込んだが大将内藤孫四郎の討死と山名氏方の反撃に、堪らず押し戻された細川方が敗走した道。
R273号(東河街道)に先端を落とす丘陵上に在る寺木城

この戦いに山名(宗全)持豊の四天王:重臣で竹田城主2代目の太田垣土佐守景近の三男新兵衛尉宗朝 (のち竹田城三代城主:此の時・竹田城の留守将をしていた)が、多くの兵を引き連れて優勢利に陣をすすめていた内藤勢を夜久野ヶ原に迎え撃った。この時・東河の黒田城主:上道秀重は、黒田城を包囲していた細川方の 長谷部四郎休範を背後から急襲し、休範は討死しますが討ち取ったのが上道秀重と云われます。大将を失った長谷部勢は総崩れとなり、 夜久野ヶ原の合戦は山名軍の大勝となり、 山名宗全は大変喜び、御賀丸の太刀一振りと着替えの具足一揃いを新兵衛尉に贈ったと伝えられています。
宅地に囲まれた半独立丘陵上に空掘を廻す宮城が在った>

その後東河村には悪い病気が流行し、長谷部四郎休範のたたりであると噂が広まり、 村の氏神に休範の霊を祀ってその冥福を祈り、それからは悪病も流行せず、村の平和は続いたという・・・「黒田城と長谷部休範のたゝり」として、郷土の城ものがたり (兵庫県学校厚生会)に紹介されています。 本拠:黒田城未訪のままとは云え、諸々の城砦群についての城史については不明の為、城砦の存在と現状を紹介するだけになりそうです!!!。

「郷土の城ものがたり−但馬編 」兵庫県学校厚生会


 黒田城(笹田本城) 白井城 宮城  小川城 寺木城
 東和田城

黒田城(笹田本城) 未訪   xxx 292m   朝来市和田山町宮字寺木谷・小川

本拠?の黒田城・小栗城(中集落北の男鹿山か?Ca220m山頂)・寺木城を併せて 笹田本城とも呼ばれ、いずれもが東河七城の一ともなっているようですが、七城がいずれの城をよぶのかは未調査です (近畿の山城リスト但馬編参照)。和田山から京都府に通じる東河街道、宮・和田・中村の分界境となっている東和田の北・標高291.6m(三角点峰)の山頂にあって嘉吉年間(1441-44):
県道から望む正面379m峰・緩やかな中央左に黒田城・民家の左小丘に小川城

山名氏に 付き赤松満祐を攻めた上道(かんだち)秀重の築いた黒田城がある上道氏は元藤原氏で其の祖・和田磨!が応和元年(961)頃に東河郷に入り兵主の神主:和田氏の女を娶り和田氏を名乗り、子孫代々兵主神を祀る神人だったと云われます。 18代の孫上道秀重は小さいときから文武に優れ、山名持豊(宗全)に仕え嘉吉元年(1441)白旗城に赤松満祐を攻め、 続いて備前上道郡(岡山県)の戦いに功あり持豊より感状を授かり・以後上道氏と改姓します。
東河川を挟んで手前kら宮城・小川城・寺木城を白井城側から望む

応仁2年(1468)3月20日夜久野合戦は細川勝元の家臣・内藤孫四郎貞徳が長谷部四郎休範らとともに但馬国へ攻め込んで起こった合戦で、 内藤孫四郎・疋田の軍が夜久野に迫り、 急を聞いた竹田城2代目城主:太田垣土佐守景近の三男新兵衛尉宗朝(後の3代目城主)は戦闘態勢を整えると共に同族の八木城(養父郡)にも応援を依頼…この時、 内藤氏の大将長谷部四郎休範は先ず黒田城を取囲んだ。その時の城主上道秀則(秀重の子)は奮闘して此れをよく防いだ。援軍の八木城主・八木但馬守是秋が自ら陣頭指揮して糸井谷を迂回して 東河山に出で黒田城を包囲している敵の背後を急襲したため、長谷部軍は大惨敗し長谷部休範は討死します。討ち取ったのが上道秀重とも云われる!。大将を失った長谷部軍が総崩れとなったり、 上道軍は八木軍と共に一挙に夜久野ヶ原へ進撃し、内藤孫四郎も太田垣軍との戦いに…に討たれ山名軍の大勝利となる。上道秀重から4代後の上道左京之進は羽柴秀吉に仕えて天正8年(1580)鳥取城攻め天正10年 (1582)の中国征伐に功をたて、続けて山崎の合戦や賤ヶ岳合戦にも参加したといわれます。姫路に移り天正12年(1584)3月に病死したとされ其の頃・黒田城も廃城となり子孫も絶えたといわれます。 「郷土の城ものがたり」には現在では跡形もなくなり、 ただ伝説として物語が伝えられているだけとなりました。を失しですが堀切・竪堀遺構が残るようです?…
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教委 及び 郷土の城ものがたり 兵庫県学校厚生会 参照)


白井城 Ca185m 朝来市和田山町白井字フタタ

R9号線の「ドライブインやくの」から北へ向うと「道の駅農匠の郷やくの」がある。 ロータリーを左(西)へ進み茶堂から県道273号の府県境を和田山町へと峠を越えれば、円山川に流れ出る東河川流域【県道沿い(東河街道)】を支配していた上道(かんだち)氏一族 ・一統の諸城があるが、 本拠城の黒田城以外は城主・城史は不明。其の最も東(夜久野町)寄りに白井城があるので先ずは白井集落の白井城から始めましょうか!?。 道の駅から茶堂へと、夜久野ヶ原の高原を走る。応仁2年(1468)・旧火山の宝山(田倉山)裾野一帯に繰り広げられた、此処が有名な?夜久野合戦の舞台です。
白井城:平入り虎口状から主郭に建つ妙見堂?へ…

多勢で優勢利に 展開していた細川方は、 東河街道から侵攻して上道氏の黒田城を 包囲していたことでしょう。山名氏方の将:太田垣 新兵衛の目算は図にあたり内藤方を押し戻し此の戦いに内藤孫四郎が討たれると、 東河街道に侵攻して細川方は一斉に退去。東河平野での上道氏の諸城と戦いぶりについての情報も皆無の様で一切が不明です…。
主郭から東へ 緩斜な長い平坦地形が続く

落葉の舞う林道の様な峠は、突然広くなった舗装道路を東河平野に降りてくると直線道路正面に 円状の独立低丘陵が宮城、其の手前・東河川が左手(南)の低丘陵裾を流れているが、此の丘陵部が西端の田園地帯に落ち込む先端のピークに白井城が在りました。 東西に流れる東河川を正面(西)に望み、 右岸に沿って上道氏の本拠城・黒田城支城・城砦群の宮・小川・寺木・東和田や、 左岸には間近にフタタ・岩屋谷(一城別郭と見るべきか?)や久田和の諸城と東河平野の上道氏領地!!?の粗全域を眺望出来る立地に在って、 領内監視と全城砦への旗城となっていたものか?。
二の郭から主郭切岸:左に腰曲輪と主郭下に帯

もっとも烽火等での知らせの砦としては400m程の至近距離にあるフタタ城が烽火場として、さらに尾根上211mピークに位置する岩屋谷城なら 白井城以上に領内監視の適所です。城跡へ地図では宮バス停の交差点から 圃場の中の直線道が有りますが、北の県道からは・自家製アイスクリーム直売所の有る看板と作業小屋 (大きな!!?)から丘陵末端に到達できる道があり、東河川を渡った処からも宮・小川・寺木の三城が在る丘陵が見える。
竪堀は堀切まで延びて…白井城

丘陵先端裾からは山上主郭に寺木城と同様に妙見堂か?建ち参道が通じています。主郭から緩斜面を下る長い(35〜40m程)自然地形の平坦地?が傾斜を増して 尾根続きの鞍部に向かうところ、尾根筋に竪堀が現れ、少し蛇行する竪堀は其のまま鞍部の堀切まで延びる。”搦め手”の堀底道だったのかも?。堀切を北にとり堀切末端部が裾で消えると目の前に東河川が天然の水濠 (改修され現状幅約4m・高さ2.5m程)を成して白井城の北面丘陵裾を廻ります。



宮城 xxxx Ca185m  朝来市和田山町宮

宮城は宮集落内を東河川に流れ出る宮川!?の西北方の山稜上:黒田城の在る292m山の尾根続きに 圧し掛かるように頭を擡げる379m峰がある。其処から南へ下る山塊の山裾に、智源山圓明禅寺が在り、地区道路を分けて、 南に盛り上がる比高30m程の半独立丘陵の円錐状の小山がある。
宮城:山上二箇所に平坦地・向かい東に空掘り等遺構が明確に残る

県道273号から圓明禅寺へ向う区道路を分けて、西側の尾根先に在る小川城とは真東に正対して小山城〜宮城間は直線距離で約300m程。圓明禅寺は此の小山の北に在って、地区道からは高い切岸を見せて居館跡を想わせる様相をみせています。小川城の西南方約250mには寺木城が在り、 二つの城からは本拠の黒田城へは尾根続きで繋がります。
宮城主郭東:低い土壇状・主郭を捲く空掘からの竪堀?。 虎口にも見えてくる・・?

圓明禅寺側から取付き頂部に出ると西側の緩やかな平坦地が拡がる緩衝帯!!?。広い窪地を挟む二つに丘状で、 向かいの東側丘陵部の最高所に位置する主郭へ移ると、なんと主郭を空掘が周回する。空掘外側を土塁で積み・埋もれて浅くなってはいるようですが明確に残る。空掘土塁外には南から西を廻り北へ 帯曲輪が廻り北尾根先の小曲輪に延びている様ですが此処も城域を少し外れる北と東には古墳が有る様です。
宮城:主郭を周回する空掘

主郭東北端には窪地 か?・僅かな段差で土壇状になった一角がある。東河街道の 夜久野側から降りてくる通行監視の櫓台でも有ったものか?。東側の腰曲輪側には短いが空掘から斜面下へ竪堀らしい窪地がある?。下方kら見ると空堀に入る平入り虎口にも見えてくる。大手は北・東寄りに有ったのかも?。
宮城:主郭を周回する空掘

低い独立丘陵なので城域を遮断する堀切を敷設するところは ないので空掘を廻して防備していたのでしょうか?。上道氏の縄張りでは今のところ此処だけ?のユニークなものの様です。 主郭から南へ数段の曲輪を下ると、屋根も朽ちかけ・瓦もズリ落ち・縁の下部も腐り柱の浮いている祠と、其の横に小ぶりながら新しい礎石壇に祀られた祠が建っている。
宮城:朽ちかけた祠の削平段が高い切岸?上に在る

古い祠は祈祷札が立ててあるが墨が薄く読みとれないが祠は天保10年 (1839)頃の落慶か修復されたものの様です。此処は城中で一番切岸の高い曲輪だったのでしょう。参道を伝い、竹林の中を突っ切って西南部の民家側に出てきたので、そのまま西側の小川城に向った。


小川城 xxx170m   朝来市和田山町宮字小川

上記の宮城が小川城からは東に約300m程。黒田城の在る292m山稜の上に、圧し掛かるように頭を擡げる379m峰がある。其処から南へ下る山塊の山裾に、智源山圓明禅寺が在り、 地区道路を隔てて南に盛り上がる西側丘陵上に在ります。また西に約200mの至近距離には黒田城から・同様に南に突き出した尾根先が県道273号(東河街道)に落ち込む突端に寺木城が在り、宮城・寺木城の中央に小川城が在り、三城が東河街道の向かい呼応し合って横に並んでいます。本拠?:黒田城と寺木城が東河七城の一に挙げられる様ですが、
主郭北の尾根側を殆ど堀切った!?空掘が西面に竪堀となって落ち込む

小川城と宮城は東河七城の 選から漏れている様です?が、応仁の乱以降に築かれた城砦であったか?は、城史も城主も・東河七城の一に挙げられながら 未だ城の所在が判らない?大治賀城が、新に城跡リストに載せた下記の東和田城に比定出来るのかは不明ですが、未だ潜在していると思われる未発見の城砦は在りそうです。
主郭北面の堀切から長く深い竪堀となって西下に延びる

宮集落西端民家側からの山道から墓地に向かうと、 墓地から直ぐ虎口状の窪地を上がると左右に小曲輪を見て尾根に向かうが、目前の小谷が尾根上の主郭まで続き、 尾根を裂く片堀切か竪堀なのでしょう?。竪堀を駆使する但馬の城にあって、何故か例が少ない上道氏の縄張りなので、土砂崩壊による自然地形なのもの?!!・・と思えるが、尾根上から見ると空掘から墓地上部へと 斜面に長く延びる竪堀です。
小川城主郭:此の下段に広い帯曲輪が廻る。

民家の先で直ぐ斜面に取付き・墓地へは帰路に降りてきたが、藪と下草が覆い、地肌を見せる部分さえも、荒れた尾根や斜面に曲輪地形の確認も出来ない。ただ比高20m程の主郭北面の片堀切(竪堀)や、 此処で城域が区分されて更に北へ長く延びる北郭部にも、尾根を掘り切って城域を遮断している山城遺構に訪城の気概が満たされます!!。南山麓に居館跡が在ったとされますが、宅地・農地造成で消滅したものかは不明!!?


寺木城   160m   朝来市和田山町宮字寺木谷

夜久野町へ越える府県境から円山川に流れ出る、 東河川流域を支配していた上道(かんだち)氏一族の本拠:黒田城が東河街道中央部付近の北方の峰292mに在る。其処から南と東南へ延び出す二つの尾根先には、東に小川城との間に寺木谷を挟んで約250m程先・西南には 寺木城が在り、ともに黒田城の出曲輪的存在にみえるのですが・・。
二の郭から主郭切岸 :左に腰曲輪と主郭下に帯曲輪が廻る

黒田の本城と寺木城は上道氏の東河七城の一に挙げられている様?ですが城主・城史は不明。上道氏一族が配されて、尾根続きの黒田城・和田山町中の小栗城と共に三つの城を併せて笹田本城とも呼ばれる様です。県道273号線・東河街道の宮バス停から250m程西に「万屋 」さんの様な店の隣り家屋の西側に境界赤ポールが立つ。
二の郭への入口(右手の虎口!!?)側にある窪地は”武者隠し?"

此れに従えば県道から突き上げるばかりに急な斜面が、丘陵上の主郭に祀られる妙見堂【扁額に不動尊xxxとあった様に思うが、甲冑を身に纏う、 武人・上道氏一族の守護神として崇拝されたものか?菩提寺や宗派までは未確認!!ですが】まで参道が 通じており比高約30mだが4〜5分もあれば楽に行き着ける。参道は比高20m程にある広い二ノ郭に着く。ざざっ広いの表現が適当か?、居館跡の様な幅25mx奥行40m近くの綺麗な削平段で、 参道を登ってくる城域へのたった一箇所だけの出入口(虎口)の側に、天水受けの井戸にしては大き過ぎる円形窪地が有って、
主郭背後の堀切

虎口側への一部が低くなっているよう?。”武者隠し”とすれば虎口から一気に攻勢をかけるには適している様ですが、 切岸も20m程の激急斜面です。さらに此の二の郭からも一直線に石段参道が、妙見堂を祀る最高所の主郭に延びる。 主郭の切岸が此れまた10数mと高い。石段途中にも左手に腰曲輪・その上には帯曲輪が一段廻り、主郭中央には妙見堂が建つ。
主郭一段下の帯曲輪

背後の平坦な空間には、低い櫓台や土塁等遺構を削平・改変されているのかもしれません!!?…というのも、此の尾根続き背後には竪堀として長く延びる堀切があり、 城域を完全に遮断する体勢ですが、文字通り”最後の砦”主郭側の切岸が3〜4m程度では不安。土塁を設けることで切岸を高く、且つ防戦のための備えにもなる筈です。


東和田城  xxx xxxm   朝来市和田山町東和田

東和田と中集落には 小栗城(中集落北の丘陵部Ca220mピーク付近)・大治賀城(中集落内だが位置不明)と 此の東和田城が在る。 遺構からして砦クラスではなく、東河黒井城を本城として山上部からの尾根末端部、東に小川城・南に寺木城・西に此の東和田城が県道273号沿いに位置しています。しかしプロローグに記した東和田城を除く三城が 東河七城の一となっている様ですが、
中の曲輪(土壇?)浅い空掘を越えて北端の曲輪と広い削平地へ

此の城は先の資料等からも城名は見出ず、県の遺跡分布図に記載されているだけですが、東河平野部を治める領主の居館か代官所イメージが強く 比高20m足らずの低丘陵部に60m以上に平坦地形が続く。 城跡へは東河小学校の東約150m程・地区道の民家向かい:南側から古墓へは向う細い木の階段がある。 今は墓地(古い詣り墓が、其のまま残されている様?)となっているが、幾重にも重なる多くの小さな段曲輪が転用されている様で、曲輪毎に祀られた集合墓地の中を縫うように抜けると、
空掘状で区切られる三連の土壇状曲輪

そのまま尾根上の曲輪に着く。中集落とは微妙な位置に有る東和田城こそ!!?、 規模から見ても中集落に在るという大治賀城(東河七城の一)が此の城ではないかと思わせます。所在地は東和田ですが・中集落とは微妙な位置に在って、縄張り的にも空掘り状で区分けした10m四方の三つの曲輪を並べ、 尾根側との間にも広い削平地 (南北25m程か・多くのベンチが階段状やサークル設置されており、遊具は無いので東河小学校等の野外学習広場?か、広場に面する主郭部切岸北側は、
切岸を見せる北端の曲輪と造成された!!?広い削平地

後世の造成で改変著しいと思えるが、北西端一段下に腰曲輪が残り?其の下方に新しい墓地)
がある。 浅い空堀で囲まれた三つの曲輪というより櫓台状の土壇を並べた縄張りは、土壇の大きさが標準的な?円墳かとも思え、其の周濠の様にも見えてくる。東河周辺には古墳群も多く、露岩を見ないので・木棺直葬の 円墳頂部を均したマウンドを櫓等に利用したものかとも思えます?。



久田和1号墳        朝来市和田山町久田和字亀田

東和田城の南登城口となる墓地参道前の地区道に「久田和1号墳」の案内板が立つ。 此処から真南へ県道273号を渡り約300m、左手田圃の奥に雑木・雑草が繁茂する墳丘が見えてくる。 右手には269mピークから北東へ延び出す丘陵尾根先が急斜面を溝谷に落ち込む。真上に送電線鉄塔が建つ辺りから緩斜面となって、
正面の小丘が東和田城・尾根伝い黒田城に至る(古墳側から望む)

269mピークから更に尾根上に延びているが、此処には遺構の残る久田和城が在り、黒田城と併せて共に出直し訪城するつもりです!!?。南から北へ緩やかに延びる段丘上で、肥沃な東河平野を一望出来る位置にあり、 覆土が殆ど流出しており、崩れた玄室奥壁部が開口している。
玄室奥壁が崩れ開口している久田和1号墳

鬱蒼とした雑木に埋もれ且つ蔦類が露岩部を覆っていて、先に位置確認出来ていないと見過ごしてしまいそうな現状です。古墳時代後期(6世紀末)頃の築造と推定される横穴式石室(東西径16m・南北径4m・高さ 2m)の玄室部最奥の壁石がズリ落ちてか露出しており石室内に入れます。羨道部は東にあるが塞がっているが玄門部の天井石は抜かれている。 良い石材が使用されているものを多く見かけるので、
玄室から見る埋もれた羨道部

何かに転用されたのかも?。 玄門部側組石が綺麗に残っており、両袖式の大型円墳であったと考えられているようですが出土品については一切不明。玄室長は7.8mで天井石は2枚で大きい方は長さ3.5m・幅2.3m・厚さ0.9mとあり 和田山町指定(昭和53年10月19日)文化財となっています。
(現地:久田和1号墳の案内板:和田山町教育委員会 を参照)

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