「野田合戦」の契機となった海老手城?を目前に・・!!  福田城:亀ヶ崎城
豊岡市(五万図=城崎)
豊岡市の城館廻り 2008年04月26日
近畿の山城: 福田城 亀ヶ崎城
大浜橋からの亀ヶ崎(左)と海老手城(右丘陵)

円山川の右岸・豊岡駅からJR山陰線と奈佐川が円山川に合流する城崎郡境付近の西方のかけて、荘園時代五つの庄があった五荘地区は山名氏四天王の一 :但馬垣屋氏の本貫地か?。一方城崎郡側は同じく四天王の一:田結庄(たいのしょう)氏の領地ですが、郡境に近い垣屋氏の森津に亀ヶ崎城と、田結庄氏の海老手城が在った事が争点となったものか?
  野田合戦の契機となった海老手城とは、奈佐川と合流する大浜川の左岸に並んで南に僅か500m程の地点にある亀ヶ崎城は山名四天王の一:垣屋氏の福田城とは奈佐川を挟んで呼応する支城とされています。
一方・海老手城は同じ四天王の一で鶴城城主:田結庄(たいのしょう) 左近将監是義の属将・栗坂主水が拠っていたが、天正3年(1575)城主の留守中・城崎郡竹野の轟城主:垣屋駿河守豊続等に攻められ落城します。 織田信長の但馬侵攻では織田方の山名氏も毛利方と同盟を結び、四天王では田結庄氏だけが織田方として、海老手城落城を契機として始まった 野田合戦は織田VS毛利の代理戦争と云われます。織田方に付いた田結庄氏が、毛利方の垣屋氏等に攻められ壊滅、是義は自害し田結庄氏が滅亡した戦いです。
福田城主郭:土塁(高さ1.5m程)が三方を囲む

城史不明の多い但馬の城ですが、 此の田結庄氏と垣屋氏の戦いと結果に於いて変わりはないが「但馬史」の野田合戦には垣屋氏が城主の留守中を襲ったのは田結庄氏本拠の鶴城とされ、六日に渡る騒乱は垣屋豊続に屈した田結庄是義の自害によって終結したとしており、 以前より不仲であった両氏の間で燻ぶっていた遺恨に火をつける事象として、是義の宴の席に・垣屋氏の家来が狩で鳥を撃ったが外れた鉄砲玉が宴席に飛び込んできた。怒った是義が家来を捕らえて殺した事が事の発端と云う。




 福田城  亀ヶ崎城
 
福田城 xxx Ca60m  豊岡市福田字杉崎・栃江字福井

但馬空港への標識を見て円山川沿いのR312号線を走る。西(左手)下方側に豊岡カバン団地・東に遠く但馬の 穀倉地帯六方田圃に但馬富士:三開山の姿を遠望する。鶴城(愛宕山)とともに登山を主体に登った城山は、も一度ジックリと再訪したいところです。素通りした豊岡市街地内の豊岡城や藩陣屋・正法寺城・妙薬寺城等も未訪なので 宿題を一杯積み残したままですが・・・!!。
福田城:福田交差点近くからの遠望

豊岡大橋まで来てしまい、何気なく4〜5回通った県道3号(円山川リバーサイドライン)へ直進したが、Uターンする場所も無く小さな川を越える堤防への道があり森津付近からJR線路を渡った。GPS機能と地図があれば目の前の丘陵にが亀ヶ崎城とわかったものを…何処を如何通ったか、 逆走して福田の標識を見て付近に駐車スペースを探す。
福田城登城口の切通し道

丘陵先端部の特異な山容に其処が福田城だとは直ぐ思えたが東面も北側も但馬楽座近くの軽部城より更に険悪な様子です。 登城取付き点を北側の奈佐川寄りの道を選んだのが誤りで、丘陵尾根の西面から南へ入り込む宅地のある谷筋から、 果樹農園となっているの尾根筋南側に出て北末端部を目指すが、途中で諦め尾根東側の福田集落に降りた。福田城の南側山裾に神社が在り、7〜8m程高い本殿裏手の丘陵部にも下草に覆われた2段ほどの広い平坦地がある。
福田城の堀切

福田城の登城口は神社から福田交差点へ戻る途中、丘陵裾民家の端から直ぐに墓地へ向う参道に有った。…といっても墓地への表示が有る訳でもなく、まして竪堀を深くした様な・ビックリするような切通しに斜上する道が、一度屈曲して続く先に墓地があり、其の目の前に曲輪が見えている。墓地自体も城域にはいっている様だ。
福田城主郭北:一段下の曲輪

切通し自体・入城出来る唯一の虎口となり、屈曲する通路上の正面・横の平坦地は木戸・番小屋であり 「横矢掛かり」を想定しているようにさえ思えます。標高60m・比高50m程の山上に位置する福田城について、築城年代・ 城主等の城史は不詳だが「豊岡誌」の因幡垣屋氏系図(一説としては)但馬垣屋氏の初代:垣屋駿河守重教が関東より山名時氏に従って【後醍醐天皇の後:後村上天皇の南北朝時代(康永3年(1344)頃か?…】但馬に入り、 奈佐荘の亀ヶ崎を領有したという。
福田城主郭:土塁(高さ1.5m程)が三方を囲む

亀ヶ崎城を示すものかは不明で、豊岡を亀ノ崎(きのさき)といい・豊岡城のことではないかとされているようです。亀ヶ崎城は奈佐川を挟んで南約1km地点に位置する福田城の支城とも推察されています。この時期に既に垣屋氏の城として存在したかは不明だが羽柴秀吉の「但馬侵攻」が始まった天正3年(1575):野田合戦で田結庄氏が滅亡して以後、天正8年(1580)頃まで五荘地区一帯は垣屋氏の勢力下にあった思われます。
軽部城:城域中央付近の堀切と R9南の谷間地峠方面

高屋城【未訪・織豊系の城とも云われるようですが?、此処も垣屋氏か田結庄氏の関連で明確では無い城の様です】から北に延び出す 低丘陵の北末端部が奈佐川左岸の車道側に落ち込む先端のピークに主郭を置き、三方に6個ばかりの曲輪を並べた福田城がありました。切通しから墓地に出て尾根伝い、一ヶ所堀切(余り深くなく土橋付)を越え主郭の三方を1.5m程の土塁が囲み、細長く続く曲輪の片側(北側)にも奈佐川に面した西側に長く高い(約1.5m)土塁が続いて(主郭部と併せて延長40m程)築かれています。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会 を参照)

亀ヶ崎城   向山! Ca65m    豊岡市福田字向山・森津字海老手

福田城を後にR178号を直進・奈佐川に架かる栃江橋!!を渡る。亀ヶ崎城のある 丘陵を正面に見る直線道路の先に、豊岡綜合卸売市場の看板。卸売市場倉庫背後の丘陵に送電線鉄塔が建つ位置が遺跡分布地図にある亀ヶ崎城の中核部に当たる様です。

R178号線・大浜橋手前から 亀ヶ崎城遠望


城域への最短登城口が倉庫群の奥にあっても、広い綜合卸売市場の敷地内を通り抜けることは出来ないので、 も少し先に進んでR178号線沿いに北方の丘陵が大浜川に落ち込む尾根筋東末端部に向かい、大浜橋南詰めから丘陵裾を、 清掃部の処理場だったか大規模土取り場跡へ向う車道に、取り付き点を探して進んでみます。福田城の北を流れる 奈佐川が・大浜川と合流して約2km程で由良川の大河に流れ出るが、其の奈佐川合流地点から森津から7〜800m程上流地点が 通称:亀ヶ崎。
主郭部鉄塔下の堀切
大浜川に迫り出した丘陵は、 車道確保の為に切り崩されたものか?道に沿って断崖状が先に続くようだ。城跡までは比高30m程のなので、 獣道らしい踏み跡を見つけて先端部から直ぐ激急斜面に取り付いたが、藪はたいしたことも無く利用出来る枝木も多いので 比較的楽に比高20数mをこなして、後は狭いが緩やかな尾根筋を辿る。1〜2段の平坦地の少先で径7〜8mの円墳頂部を均した様なマウンドに立つ。 浅いが土橋付堀切状を前に、高さ1.5m程・径10m〜級の平坦地を持つ此処が主郭。主郭前を東に延びる堀切状の先には細い溝が真直ぐに掘られている。
主郭部鉄塔下の堀切

西方へも更に同様の長く細い溝が続く。曲輪の排水溝!!・・・は此の後:主郭南側へと2m程の段差を降った広い平坦地に建つ送電線鉄塔を越えた先に 堀切が有り、 其の堀切の上部・南へ続く尾根のく曲輪にも有った。鉄塔から北方へ短い尾根が木樹も無く地肌を露出して突き出しており、 高地性集落の遺構は此処にあったものか、堀切を越えた先で城域を一端は降る独立丘陵状?の土取りで崩された広大な平坦地と同様に、綜合卸売市場造成の土取りによるものかは知らないが…?。
小円墳?と堀切の先に円墳のマウンドを利用した主郭部

此処は城跡の前に「亀ヶ崎遺跡」で、 弥生時代中期の高地性集落で、円形竪穴住居跡からは”投弾石”と呼ばれる川原石が発見され、 戦闘用の遺跡とされます。此れだけでも会下山遺跡(兵庫県芦屋市)同様に高地性集落で、且つ狼煙台跡らしいものや、 出土品にも軍事色の濃いものが多い様で、食糧等を貯蔵し敵からの防御のための軍事的施設を兼ね備え、生活の場を一体化させた、環濠集落の吉野ヶ里遺跡の様な古代の城としても分類できそうですが、 此れは早計かも知れませんね・・・!!。主郭前の小円墳と思えたのは此の竪穴住居跡だったのかも?。主郭との間の堀切状?先の東西に掘られていた細い溝状は、 多分に此の遺跡調査のために掘られたトレンチだったのでしょう。
主郭から土橋付堀切?と小曲輪

そして城域中心部に位置した古墳は、マウンドをそのまま曲輪として利用したものの様です。「兵庫県の中世城館・・・」によると 昭和55年夏(1980)〜翌56年夏まで発掘調査が行われ弥生時代の見張り台とされます。 尾根上の曲輪内に直径4m余の円形竪穴式住居跡が発見され、その一角には纏めて30個ばかりの石(飛礫用か?)もあったことから、「魏志倭人伝」の「倭国の乱」に関連した高地性住居があり、かつ見張り台ともなった建物であったとされます。また住居跡と重層して尾根の2箇所を切断して堀切とし、北側斜面にも土塁と堀切を設け、曲輪から発見された建物の掘立柱跡からは、 中世のおいても見張りの砦であったと考えられています。
鉄塔の建つ曲輪から主郭

主郭の円墳跡?とは鉄塔を挟んで南側に堀切が有るが内側の主郭側が1m程なのに、尾根続きの外側が2m程あり最高所。此処が大浜川流域・奈佐川流域を望む見張り台だったのでしょうか?。 此の後・送電線巡視路伝いに栃江に続く尾根道を辿ったが、尾根筋の分岐付近・西南へは栃江の丸山城(分布図で位置は確認しているが資料未調査)・北への枝尾根末端にある海老手城へ分かれる尾根付近に2〜3の堀切状・竪堀状・平坦地を見るが、気の性か城遺構に見えてくる。 途中で北方への枝尾根をとって海老手城を目指したが、尾根分岐地点も・踏み跡も分らず 通り過ぎ北西の尾根筋に入り込んでしまった様?おまけに麓に降りても農道を大浜川に阻まれて大廻り。
亀ヶ崎城:南西尾根からの遠望(鉄塔の建つ丘陵部)


岩熊集落・新堂集落を経由してスタート地点に戻った。其のお蔭で海老手城の所在が判ったが、登り返す時間も無く再訪を期して引き上げた。城史は不詳だが 「豊岡誌」の因幡垣屋氏系図として(一説には)但馬垣屋氏の初代:垣屋駿河守重教が関東より山名時氏に従って【後醍醐天皇の後:後村上天皇の南北朝時代(康永3年(1344)頃か?】但馬に入り、 奈佐荘の亀ヶ崎を領有したという。 豊岡を亀ノ崎(きのさき)といい・豊岡城のことではないかとされているようですが、奈佐谷の開口部:亀ヶ崎も豊岡盆地の北西部をおさえる要衝の地に在ります。奈佐川を挟んで南約1km地点に福田城を築き、其の呼応する支城として亀ヶ崎に砦を築いたものと推察できます。結論には・まだまだ不明で、古文書の研究・調査等を待つ必要がありそうです。
栃江に向う尾根筋も、気の性か土橋付堀切や堀切に見える・・?

なを大浜川左岸・亀ヶ崎城の北方僅か500m程の丘陵に海老手城が在り鶴城城主:田結庄是義の属将 :小栗坂主水が拠ったが天正3年(1575)垣屋氏等に攻められ落城したことが野田合戦 (織田VS毛利の代理戦争と云われる)の契機となり、此の年:山名氏が毛利氏と同盟を結んでおり、山名四天王のなか織田方に付いた田結庄(たいのしょう)氏が、毛利方の垣屋氏等に攻められ壊滅、是義は自害し田結庄氏が滅亡した戦いがある。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会 を参照)


金剛界五仏種子板碑
      豊岡市新堂

宝筐印塔や五輪塔等の石造供養塔婆の一種で、 銘文からは室町時代初期:応永24年(1417)の時正(春分)に、法華経の写経一千部を埋納し、供養の為に建てられた板碑で、 高さ181cm方柱状の自然石が用いられています。
新堂の金剛界五仏種子板碑

正面の舟形輪郭の内部には、金剛界の五仏【大日如来(バン)を中心に阿弥陀如来(キリーク)・宝生如来(タラーク)・不空成就仏(アク)・阿閃(あしゅく)如来(ウン)】を表わす種子(梵字)を薬研彫りの刻み、 その下には蓮華座をレリーフしています。保存状態も良く、堂々たる風格をもち県下でも貴重な板碑とされます。(平成元年3月兵庫県指定重要文化財)
(現地:新堂の板碑 豊岡教育委員会の説明板を参照)
別冊 丹波霧の里HOME 本誌 丹波霧の里HOME
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