緑風の郷:但馬・山東町  柴城/楽音寺・天満氏館/小谷城/
丹波市 (五万図=但馬竹田)
近畿の山城 : 柴城 天満氏館 小谷城
但馬の古墳 茶すり山古墳
ヒメハナ公園(楽音寺)

兵庫丹波と但馬境界にある粟鹿峰(粟鹿山)はR427号線で国境の遠阪を越えた但馬側の朝来市山東町や和田山町からは、四季を通じて ・眩いばかりに陽を浴びて照り映える明るい山容は何処からも目立つ存在で、丹波市側に比べ校歌にも多く謳われ親しまれている様です。 遠阪峠を降って峠下の柴城や、矢名瀬のR9号手前で左折し、正面に北近畿豊岡道”道の駅まほろば”見て右折して直ぐの楽音寺に寄るとヒメハナ公園・天満氏館、その北方の小谷城へも散策コース内。


 柴城 天満氏館 小谷城

柴城 上ゲ谷山 Ca210m   朝来市山東町柴字上ヶ谷山

朝霧の流れる”丹波の森街道”を氷上町から青垣町に入り芦田氏の領地・栗栖野を抜け全国足立姓の祖・足立氏の山垣城を見て R427号線を遠阪峠に向います。【遠阪トンネル(有料)を抜け出たところが山東町柴です】峠に立つと乳白色に包まれた雲海の底に但馬の山東町・和田山町は未だ眠りから覚めていないような静かさです。
主曲輪南下:帯曲輪の秋葉社

僅かに大倉部山・室尾山等の山が霧の上に峰の頂を見せています。冬季は通行止めが続く険路の丹波 ・但馬国境を但馬側に峠を下って来た最初の柴集落に城が在りました。遠阪峠近くの湯船山から西北に延びる稜線から西に突き出してきた 枝尾根の末端が柴集落に落ち込む。此の遠阪峠こそ丹波と但馬を分ける国境の峠ですが、南北朝期から戦国期にかけて軍道ともなり足利軍や黒井城主・赤井直正が幾度となく但馬の諸城に侵攻し、
主郭下部帯曲輪の東端部は主郭より広い帯郭?部

戦国末期には織田信長の”丹波攻め”で羽柴秀長軍が丹後方面から 大軍で此の峠を越えて攻め寄せ、 多くの城が次々と落とされていきました。此処に築かれた柴城が街道の要衝にある事実に変わりはないが、誰が何の目的を持って築いたのか 城史は不明です。要衝の監視なら但馬の山名氏・太田垣氏配下の城塞群の一として、小城ながら単に物見の砦や山陰道の関所城の機能を超える規模の縄張りをもつ。
主郭から南側下部帯曲輪

繋ぎや知らせの城にしては国境の端で、しかも周囲を山に囲まれ僅かにJR 矢名瀬方面の西が開けるだけ。 山名氏と細川氏の夜久野合戦が行われた頃なら楽音寺付近に陣を張っていた太田垣氏に狼煙は届くでしょうが、 幾度となく敵・味方が入れ替わり?利用してきたものかもしれませんが今残る遺構からは 丹波では余り見かけない竪堀が多用されており、
帯曲輪周囲に見る竪堀の一つ

但馬の領主なら山名氏四天王・太田垣氏配下の枚田氏が拠ったか?土豪・比治城主(和田山町)の梶原氏の砦だったか?、いずれにしても朝来市山東町内では諏訪城夜久野城陳東氏館・磯部氏館・向山城・滝野城 と共に竹田城支城だったのでしょう。但馬オフで出石城から竹田城に寄った帰り路は 与布土を抜けてR427に出る。遠阪トンネル手前にある柴城へも時間の余裕が少し有るので立寄ってみる。
主郭から北枝尾根部側の堀切と曲輪・箱堀状?は空堀

比高30m余りの城は柴バス停近くの神社から 石燈籠のある愛宕?神社までは参道(山道)が通じている。 しかも其処からは既に城域に入り、踏み跡を拾いながら主尾根部に沿って並ぶ曲輪は主郭を取巻く帯曲輪に着く。其処には秋葉社の小さな祠が祀られていた。此れより上部に続く曲輪ごとに堀切や左右に竪堀がある。北 東側への短い尾根にも二重に堀切と其の先端は左右に竪堀となって延びる。其れら竪堀群が比較的良好な状態で残っており、 数段の曲輪・帯曲輪も比較的大きく感じる。
秋葉社上のコ字状土塁囲みの曲輪

藪や下草・倒木に悩まされることが無く、 歩き易い上に良く観察できるのが嬉しい。…!!と思えた城跡も再々の訪城ではスッカリ状況が変わり尾根筋の細い踏み跡さえ藪に埋もれ、参道のある最初の祠へ・大手虎口を入る西曲輪部からは、祠背後の特徴ある(山陰道 <R427号>を眼下にする南に開き三方を土塁で囲う 曲輪さえ土塁を覆う笹藪には以前の面影もない。主郭との間に土橋付き堀切だったか左右は竪堀として確認できるが鞍部の土橋状は崩れ?ただの堀切?。主郭から北への枝尾根先へは直下に堀切・先端曲輪点前には空堀状もあるが
主郭帯郭南下の空堀土塁

目視でなら確認可能なほどの荒れようで、城郭遺構の曲輪・土塁・堀切・竪堀等の表面確認は 段々条件が悪化していくようです。柴城主郭をあとにして取付点のR427号に戻り羽柴秀長の軍勢が”丹波攻め”遠阪・山垣等の城を一気に攻め落して黒井城に迫った遠阪峠へ向います。


天満氏館と小谷城
天満氏館
  寺山・上山 Ca120m  朝来市山東町学音寺字上山

朝来市山東町は丹波市からR427で 遠阪峠を降って来た所。柴城に寄った後は矢名瀬交差点を左折して直進するかR9号線(山陰道)に出てJR矢名瀬駅近くの交差点に「楽音寺ヒメハナ公園 ・道の駅まほろば」の看板を見て左折。正覚山楽音寺は紀州那智山に参籠していた明賢上人の薬師如来像による奇瑞により、平安時代初め:大同2年(807)創建と伝えられる古刹で、
ヒメハナ公園

兵庫県指定の重要文化財の経瓦(瓦状!?の掛仏は表面に阿弥陀像が陽刻され、腹部に法華経普門品が隠刻された全国的に貴重な歴史的資料 となっています)・仏涅槃図・両界曼陀羅はよく知られるところです。55年毎に開扉される秘仏の本尊:薬師如来を拝みたいものですが昭和61年に 400年記念法会が執行されたので此の世での拝顔は無理の様です。
楽音寺:駐車場前の天満宮

但馬七福霊場の弁財天を 祀るので、各地七福神・薬師霊場廻り但馬版の一は成就?したことになる・・? 5月始はまだ殆ど姿を見ないが、ウツギの花(ウノハナ)が咲着始める初夏(5月下旬〜7月頃まで)は公園の名が示す”ツギノヒメハナバチ(体長10〜13mm程度・旧山東町のシンボル!!?)”が”ハチの寺”とも呼ばれる楽音寺本堂前庭周辺の砂地に、成虫となった蜂が土中から巣穴を盛上げ出て、 飛び回る姿が見られる筈です?。
大師山尾根東末端部の平坦地・真下に市道・南に近畿自動車道を望む展望所

兵庫県の指定天然記念物に指定され、日本一の群生地として知られる楽音寺のウツギノヒメハナバチですが、境内の散策道に種々のxxウツギ等の花園を抜けて”ヒメハナ公園”が併設されています。15年ほど前に来た頃が 開設時期だったか?”ふるさと創生事業”として建設され、公園テーマは人々の「交流」と自然の「共生」という。往時と変わらない木造の ヒメハナ橋(旧山東町のランドマーク!!?)の姿に懐かしく・またホッとする瞬間です。
八十八ヶ所ミニ霊場巡りの大師道に堀切と曲輪の削平段!!を見る

橋の端から延びる長いローラースライダー(全長170m)に向う子供達が多く、人気の様ですが開園当時から有ったかは覚えていない。初夏の風物詩で、 午前中の活動時間帯には 20万匹とも云われる・ウツギノヒメハナバチですが、最近は巣穴が激減しているという。ヒメハナ公園の駐車場から楽音寺境内 ・交流ゾーン・レクリエーションゾーン・林苑ゾーンへと延びる 細長い谷間を囲い込む馬蹄形丘陵上には、殆どが全壊・半壊状態らしいが40数基が確認されている大師山古墳群の円墳が点在しています。
大師山尾根東部:3〜4段の削平段と堀切:

第一駐車場の正面に石垣・石段があり石鳥居が見える。楽音寺天満宮とあり・いままで学問・勉学の神様 ”菅原道真”を祀る単に「天神さん」の杜としてしか見ていなかったが平安時代末期の寿永年間(1182-84)頃:日下部氏の嫡流で 郡司天満権主日下部家衛が居城していた天満氏館が在った云い、此処に鎮座する天満宮は”天満家衛”を祀ったものと伝えられます。日下部氏の後裔は中世には・但馬山名氏の四天王で朝来郡を本拠とした太田垣氏を始め、
天満氏館の城域の西端?に位置する片堀切!!??

八木氏・朝倉氏等に分かれますが、 城史の詳細不詳の為、 とても素人の踏み込める領域ではないのでこの辺で諦めます。…楽音寺天満宮の創建は鎌倉時代 :文永年間(1264-75)、狭いが境内には三宝荒神社・稲荷社が合祀されています。境内横からも良く踏まれた2m幅程の広い山道が続くのが大師山古墳群の有る寺山一帯の尾根筋に「四国八十八カ所霊場」ミニ巡拝コースが設けられています。
小谷集落中央の低丘陵上に在る小谷城

尾根端に出ると小広い平坦地となり、R9号線へ向かう市道を足下の崖状急斜面下に、 南には北近畿豊岡自動車道 ・遠く粟鹿山も望める。緩斜な尾根筋が続くが阿弥陀如来像と 大師像が並ぶ第七十八番の 郷照寺まで来ると高低差は(約3m程)余り無いが 鞍部が土橋付き堀切になっている。
小谷城:丘陵東南端・急斜面上方に曲輪が有り切岸に思えてくる

堀切を越える 尾根筋は次の鞍部で北側の谷筋に深い片堀切状の溝(民家側への出口付近は土塁壁状?)を残して落ちる。尾根上に土塁も残っていたのかも知れませんが見出せず、 霊場巡りの山道・祠設置の造成・整備により消滅したのかも?。尾根筋は更に観音霊場巡りの大師道が続くが、南側へは少し急な山道を下って交流ゾーンからレクリエーションゾーンへ延びる遊歩道の中程に降り立つ。


小谷城   xxx  Ca140m  朝来市山東町小谷字ハス子     土塁 横堀

352m三角点峰を主峰として 南北に延びる主尾根から 東へ延び出す枝尾根は、其の先端付近を小谷や楽音寺の集落に舌状に流れ出て比高2〜30mの細長い半独立低丘陵となって、与布土川側に延び出しています。兵庫県立考古博物館Webの行政地区マップで見つけ、出掛けた天満氏館は楽音寺・ヒメハナ公園の谷を囲む馬蹄型の尾根筋には40数基を数える古墳群が点在する。其の尾根先に在って先にレポート済みですが、 北隣にも同様の低丘陵が小谷集落へ流れ出ています。
教照寺墓地は既に小谷城の曲輪域

与布土川沿いの市道からは 丘陵上部に建つ無線中継塔を乗せる一帯が城跡ですが、行政地区マップ上には”ハス子(ね)古墳群(1〜4号墳)”としての記載と、備考欄に「テラス状・・・城跡の可能性」が指摘されてはいます。此の遺跡分布図によると、 小谷城は更に谷を挟んだ北方の小谷地区西脊山129mの丘陵上を指して標されているのですが、此の位置では・直近の街道筋や与布土川に正対せず、 直ぐ山道にかかる南側谷筋・比高10数mの丘陵に有り、
西側1郭・2郭間の埋もれかけた空堀?と径10m程の郭(古墳か?)

遠目には疑問視していたがハス子古墳上?の小谷城には確認しなかった土塁が有る様なので、日を改めて出直してみたい。天満氏館を後にして、楽音寺の駐車場から与布土川沿いの市道を北へ進むと、左手(西)に無線中継塔が立つ半独立状の低丘陵が見えてきます。大きくカーブする小谷集落内の小谷公民館から教照寺(浄土真宗本願寺派)前を通り、 山に入っていく林道?の先には教照寺墓苑があり墓参用の駐車場がある。
南面(竪堀は天満宮から入る登城道か?)

尾根筋の集合墓地も曲輪跡であった事は急斜面が続く南面の林道側や、北面は墓地として造成されているが、尾根上曲輪北下の帯曲輪から墓地へは、高さ3〜4m程だが 切岸加工の処理がされている様です?。帯曲輪の北斜面は麓までに比高約25m程を一気に下る急斜面に、自然崩壊かと思わせるほどの?大竪堀が二条落ち込む 。
北面に二条の大竪堀が落ちる

墓地から無線中継塔が立つ東へと延びる尾根続きには、古墳の墳丘を均したと 思われるマウンドが 三つばかり有って、其々に埋もれかかって浅くなっているが空堀状が廻る。朝来市には北方の和田山町の東河川沿いに 城塞群のなかに東和田城が在るが切岸も無く・高くもない位置に狭い一曲輪ごとに独立させて並ぶ様は、戦うには不利?でどのような機能をもって使用されたものか想像も出来ないだけに!!?異様な感じさえします。主郭や切岸加工の曖昧さも 古墳の墳丘利用を思わせます。
墓地隣(西T郭の浅い空堀(周濠)と帯曲輪?。手前に竪堀の落ち口

直ぐ近場の 茶すり山古墳はじめ・但馬には数多くの古墳が点在しています。おそらく?は此れ等の古墳の周濠を・曲輪と空堀に転用とした臨時の砦と思われ、此の様な形態の小規模な山城が他にも存在しているものと推察します。東南側の城域端近くに・短い竪堀状が一本有る。踏み跡も有って後世のものか?とも思えるが、 登城の為の堀底道としては虎口ともなりお誂え向きですが、此の取付きが天満宮の祠裏手。
天満宮から教照寺を望む

此の天満宮こそ!!天満氏館に記した平安時代末期の朝来郡の郡司・天満(日下部)家衡を祀ったものか?。城史は不明ですが養父市史の糸井荘公文に、 家衛の孫小谷太郎家茂がおり、小谷城に居城していたのではないかと思われます。天満宮は墓参の林道を挟んだ教照寺の北正面・民家側からの急な石段参道上に、見張り台としても適所の小場にあって、 与布土川と並走する市道、近畿豊岡自動車道(この延長線上はR312号線・円山川に出ると竹田城は近い)。正面に丹波国境の粟鹿山と遠阪峠が望まれる。


朝来市 道の駅「但馬まほろば」・茶すり山古墳

北近畿自動車道 (舞鶴道)の春日 IC〜氷上ICまでが通じていた(豊岡道)もH18年 (2006)7月には和田山ICまで開通し、山東PAには道の駅「但馬まほろば」出来た。北近畿自動車道:春日和田山道路の建設整備に伴っては丹波 ・但馬において多くの遺跡・古墳・山城遺構等、多くの発掘調査が行われ成果が報告されてきました。道の駅「但馬まほろば」の直ぐ近くには西日本最大規模の円墳:国指定”茶すり山古墳”が有る。
センター入口を飾る「王者の棺

併設されている朝来市埋蔵文化財センター「古代あさご館」には茶すり山・若水(わかす)・池田・船宮 ・岡田等近在の古墳が紹介され出土品が展示されています。センター入口には朝来市内に存在する石棺一部から推定される長持形石棺を「王者の棺」や、 茶すり山古墳の西向いに位置する長尾古墳出土の頭椎太刀が復元展示されています。与布土温泉から立雲峡登山口へと農免道路を走る道路脇:和田山町との境辺り、迫間には一つの墳丘に
古代あさご館内展示の「頭椎太刀」

二つの横穴式石室が存在する珍しい 石積双室古墳があります。朝来市埋蔵文化財センターに置いてあった朝来市域の遺跡分布図には記載されていませんが、古墳や住居遺跡、一番知りたい・・・!但馬の城館の位置まで含めれば、 小さな地図が真っ黒になる程の興味深い地域です。茶すり山古墳 (朝来市和田山町筒江)は古墳時代中期(5世紀前半)の築造とされ、近畿地方 最大規模の富雄丸山古墳(奈良市)と並ぶ規模で (全国で四番目!!:径約 90mX78m 高さ18mを測る円墳)となっています。円墳の規模や未盗掘だった事から貴重で豊富な副葬品の数々からも、 ヤマト中央政権に次ぐ但馬の首長?の墓と推測され、
発掘調査後は埋め戻し、芝生育成中で立入禁止(H19.5)

古墳保存の為に北近畿豊岡自動車道建設工事の計画一部変更を考慮され平成13・14・17年度の発掘調査で其の全貌が明らかとなり国史 (平成16年<2004>2月27日)に指定され引き続い発掘調査されていました。道の駅「但馬まほろば」や「古代あさご館」のすぐ側に有るので陸橋でも通して歩い行ければ良いのですが、 古墳は自動車道とほぼ並走する山東町〜和田山町を繋ぐ 地道の「宝珠峠」近くの車道沿い:尾根先(標高Ca144m)に位置する。
発掘調査後は現状保存展示される予定の「17トレンチ葺石」


墳丘は2段に構成されていたと推定され、墳頂部(約東西36mX南北30m)の楕円形平坦面に、円筒埴輪や朝顔形埴輪列が墳頂と上段テラスに並べられて、墳丘斜面には葺石が見られ、斜面中程から上部は全面に葺かれていたが、 石が小さい事や斜面が急な事から多くが流失しているが、そのまま観察出きる形で残される様です。墳頂部の主体部は 二つの埋葬施設から成っており第1主体部は東西約13.6mX南北約10mの巨大なもので、其の中央には約8.7mX幅約 1mの組合せ式箱形」の長大な木棺が安置されていたと想定されます。 腐朽にともなう溝状の落ち込みからは、
茶すり山古墳側を通る近畿豊岡自動車

大小の家形埴輪などが出土し、古墳築造時には各種の形象埴輪が立て並べられていたようです。家形・衝立形・円筒・朝顔形等、埴輪の丁寧な製作技術の高さからは但馬地方の工人ではなく畿内の埴輪作りの工人によるものとも考えられていますが、 彼らの指導を受けた地元工人の手になるものと思われるものも出土しています。 木棺内からは銅鏡3面をはじめ甲冑類や多量の鉄刀・
第一主体部の甲冑等武器・武具類(復元展示)

鉄剣類(49本 )・鉄鏃(389本)、槍鉾(34本)、盾(7枚)、玉類、鉄製農工具類や刀剣装飾具の漆膜など武器・武具を中心とした多量の副葬品が、埋納された当時の配置のまま、足の踏み場もないほど密集し、良好な状態のままて出土しました。但馬の王(首長)の棺から出土した鎧兜二揃の内・一揃いは畿内では大阪府と奈良県でのみ確認されている「三角板革綴襟付 (ばんかわとじえりつき)短甲」で、
第一主体部(復元展示)銅鏡

鉄柄付手斧(てつえつきちょうな)・ 蛇行剣といった畿内周辺に出土が集中するもの、全国的にも珍しい出土遺物等が確認され、ヤマト中央政権に於ける地方支配との密接な関係を示すものと指摘され、但馬を治めた王(首長)の墳墓と確認されます。第2主体部は長さ7.5mX幅3.7mの墓壙中央に、長さ約5mX幅約60cm箱形木棺が納められており、三つに仕切られた棺内中央の遺体埋葬部分からは鏡・玉類・櫛・鉄刀が出土、 その両側からは農工具類と鉄製工具類の鉄鏃が纏まって出土しています。
茶すり山古墳遠景


詳細情報は 「古代あさご館」で分かるでしょう。 昭和59年(1984)旧和田山町教育委員会により山城遺構と埴輪片の発見で存在が確認された茶すり山古墳は古来の出雲街道(山陰道)を奈良・京から丹波〜但馬へ、円山川沿いに播磨から 和田山で山陰道に合流する、 但馬支配の軍道ともなる交通の要衝地に位置して、私的には柴城と竹田城の中間に在る中世山城遺構であったことの確認情報が知りたいところですが !!…地方に存在する古墳でありながら、中央政権と深い結びつきを示す副葬品が多数出土しているのが特徴。その一方で、 山を削りだして造られた構築手法や埋葬方法に但馬地方の特色がみられた。
茶すり山古墳の第一主体状況展示室

古墳頂上部には第1埋葬施設と 第2埋葬施設を出土時の復元模型で紹介。墳頂部埋葬施設の上・外周・中段テラス部には 円筒型を中心とした埴輪のレプリカが復元配置されています。出土品の一部は市民が粘土で形を作り、野焼きして制作したものも含んでいる。 古墳の内容を説明するガイダンス施設「古墳学習館 」には解説パネルや約8分間のビデオを 視聴できる設備を整えた。総事業費は3億2244万円。
(朝来市埋蔵文化財センター古代あさご館” 兵庫県教育委員会埋蔵文化財 説明会資料を参照)

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