但馬:磯部谷の城館廻り(朝来市山東町)  磯部氏館・向山城・滝野城・・他
但馬:朝来市 (五万図=但馬竹田)
磯部谷の城館廻り  2008年04月05日
近畿の山城: 陳東氏館  磯部氏館 新堂見尾城 向山城 滝野城
   戦国武将:磯部豊次:波多野秀光の墓
磯部氏館:主郭西面帯曲輪の西下へ畝状竪堀が数条走る

京都・福知山市方面からJR山陰本線と並走する R9号が県境の夜久野峠を越え但馬側に入ってくる朝来市の金浦・田の口・塩田・野間・大内・新堂(総称して磯部谷)の集落を磯部川が流れ、丹波側から遠阪峠を越えてくるR427号沿いの柴川と粟鹿山を水源とする粟鹿川与布土川が矢名瀬町で合流します。更に約3km程下流のJR和田山駅付近でR312号とJR播但線沿いの円山川に合流して日本海に流れ出ます。
陳東氏館:主郭東側の切岸と横掘

播磨から兵庫丹波・京都丹波から但馬に入る通行の要衝を固め、 山名氏の此隅城や太田垣氏の竹田城にも遠くない位置を占める朝来市和田山・山東の両町には、山名氏・細川氏との応仁の乱(1468〜)による夜久野ヶ原の合戦を待つまでもなく、鎌倉時代から南北朝期初め頃までには、 特に竹田城を本拠とする此の地には山名四天王の一・太田垣氏と其の傘下に有った諸将・土豪の城館が数多く築かれていた事でしょう。



 陳東氏館 磯部氏館  新堂見尾城 向山城 滝野城

陳東氏館(陳東城)   陳東山167m  朝来市山東町矢名瀬字陳東山

陳東氏館の築城時期や築城主については城史不明だが「朝来志」によれば 鎌倉時代の土豪が足利9代将軍義尚の頃に近在に勢力を張っていた様ですが、竹田城主:太田垣氏や赤松氏時代に其の出城的存在として丹波 ・但馬の玄関・戦略的にも重要な要所を任されています。慶長年間(1596−1615)に衰廃するまで存続していたという。矢名瀬村に「ちんど」と呼ぶ山畑があり陳藤左衛門の城とも云われます。
矢名瀬町の酒造蔵と陳東氏館

其の経緯は判らないが城主は闇に乗じて出奔したと云い、口碑に陳東氏の居城とされています。 天正期:羽柴秀吉の「但馬平定」後にも此の地に居残っていた土豪 :陳東氏についての唯一残る文献内容は何を語っているのでしょう ?藩政時代の厳しい諸藩財政下に有っては自由に?逃げ出せる地位 ・環境にあっただけでも救われたのかもしれません。丹波市側から遠阪峠を越え柴城側を通るR427号を下ってR9号と合流する矢名瀬町に出る。
陳東氏館:主郭西曲輪群

R427号に沿って延び出した北東側の丘陵末端部を落とすのが磯部川と柴川 ・粟鹿川の合流地点で200m程下流では与布土川を併せ更に約3km下流のJR和田山駅に近いR312号・播但線沿いには竹田城下を流れる丸山川に合流します。R427号線を下ってきた矢名瀬町の山東町役場付近からは、 北側には山頂付近の桜と鯉幟が立てられている 秋葉神社を祀る秋葉山しか見えないがR9号手前で、やっと秋葉山より少し低い峰の 山上部が見えてきます。JR山陰線梁瀬駅から南西約 1.5km・矢名瀬町の大垣交差点からR9号線を東にとって夜久野方面に進むと「秋葉神社」の案内板があり狭い集落内へJR山陰線のガードを潜ります。
陳東氏館:主郭と東面の横掘

陳東山(標高167m)より標高10mばかり高い秋葉山が西に近接して立ち、 此処も陳東氏館に関連の城郭遺構が有りそうですが、陳東氏館は此処から西方にR9号が大きく左へカーブしてJR山陰線ガードを潜る間・北側には山肌こそ藪に覆われ見えないが、断崖状でJR線路に覆いかぶさる様に迫る 陳東山の山頂に築かれているのが陳東氏館(館というより陳東城)です。急峻な山城への取付きに獣道や、立木・露岩利用出来れば上等ですが、立入り禁止の線路内が取付きではお手上げです。登城口を探して丘陵部を北へと廻り込み、 一つ谷を跨いだ北東側の墓地への急な石段参道がある。谷に面した縁沿いに居住空間は此方に在ったかと思える様な墓地を抜け、 畑地跡の様な平坦地を抜け城域外と思える尾根東から主郭に向った。遺構らしいものの無いまま西へ尾根を辿ると目前に8m程の切岸を見る。
矢名瀬町の酒造蔵と陳東氏館

幅広い尾根の切岸底部は、浅くなっているが主郭部東面から北面を囲む空掘(横掘)となっています。南北に急峻で狭い尾根なので 竪堀は無さそう?(未確認)で、標高が低くなる西末端部も民家を真下にして登城ルートは無さそう?で主郭以西に堀切も無かった?。尾根幅一杯に削平された、文字通り?の数段続く梯郭式曲輪は広く・切岸も高い。
(山東町史 兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会 を参照)

磯部氏館(野間館・磯部城)
 xxx 180m  朝来市山東町大内字スゴ谷・城畑・野間字矢ノ谷

矢名瀬町の 陳東氏館から徒歩で磯部氏館に向かいJR山陰線沿いのR9号線を夜久野方面へと東に進みます。磯部氏館から新堂に引き返し 磯部川を南に渡って向山城滝野城へと尾根伝いに訪問して、兵庫丹波の青垣町から遠阪峠を下りてくるR427号線の和賀に出て、矢名瀬に戻る訪城周回ルートです。
大内側の養護施設から望む磯部氏館

R9号から新堂の集落内を通る地区道の分岐には 戦国武将:磯部豊次:波多野秀光の墓の目立つ看板が建てられており以前 :矢印をまともに追って見て?地区道分岐から直ぐの墓地に入ってみたが間違い。今回は歩きで新堂集落内を抜ける。
磯部氏館:5段程続く曲輪はいずれも高い切岸を持つ

集落中程にある公民館横の路地(案内板有り)から、北山麓の墓地に上がると最奥に磯部豊次 (此れから向う磯部氏館の館主)夫妻と、但馬出石有子山城主山名祐豊の部将:波多野秀光の墓が祀られています。天文4年(1535)因幡:山名氏一族の上野介【但馬朝来郡の国人:山名上総介康熙の4男ともされる】が
西面に並ぶ畝状竪堀

食邑.(しょくゆう 知行所)を失って子の豊直・豊次兄弟を但馬出石城主 :山名祐豊に預けられた。康熙の二児の将来を祐豊より懇請され、扶育を託されたのが波多野秀光で、二児を護り扶育して後・兄の磯部兵部大輔豊直を夜久野城に、弟磯部豊次を此処に封じて野間館(磯部氏館)を 建てて館主に据えて依命を果たし、更には娘を豊次の妻に娶わせます。天文11年(1542)当時盛況だった生野鉱(銀)山を太田垣氏から 取り上げた祐豊が、竹田城への北の玄関口に二城を置いて太田垣氏を牽制させたとされます。
西面に並ぶ畝状竪堀群

弘治2年 (1556)竹田城主太田垣朝延が祐豊より生野鉱(銀)山の領有権を奪い返しています。山名四天王の内紛で山名氏の勢力が衰微していく中・磯部氏館をはじめとして磯部谷の諸城は竹田城の城砦群として 改修されていったものか!!?。豊次の其の後の動向等は不詳ですが、子の右衛門は福知山城有馬氏に仕え元和7年 (1621)有馬氏の転封に際し久留米に移ったが豊次は此の地にあって寛永20年(1643)死去により廃城となった様です。兄の磯部兵部大輔豊直については 夜久野城を参照願います。
磯部氏館の主曲輪(南東角から東面)

磯部城主の墓の説明が先になってしまいましたが、磯部氏館は新堂集落を抜け出て、次ぎの大内集落の東端で地区道がR9号線に合流する地点・西北方の尾根筋から大内集落と野間集落の間に延び出した枝尾根の 202m峰から更に舌状に突き出してくる丘陵末端部がR9号線に落ち込むところ。大内集落の墓地に上る地点から丘陵に取り付く。 墓所の東南端から丘陵上に向う急斜面の山道ですが、直ぐ上方に曲輪の台状地形が見え広い曲輪に入る。東下方にも尾根続きの先にも広く・また切岸の高い曲輪を尾根続きに次々4〜5段現れる。北西側に高さ1m程の土塁をもつ曲輪が有り、 其の先が主曲輪。
曲輪はひろく切岸は高い

主曲輪の西に帯曲輪が延び、 斜面には竪堀が平行に並ぶ(畝状竪堀は数えていないが7〜8本位だったか?)。最高所に主曲輪北面の堀切で城域を遮断し北東に竪堀がある。尾根続きは緩やかで此の先に遺構は無さそう?但馬へ寄せる外敵の侵攻を防ぐべく東方の防備よりも、 身内?山名氏領の西方に曲輪の土塁・畝状竪堀が集中しているようで、身内の紛争時に、太田垣氏に備えたものか?
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会 磯部豊次の墓所の説明板を参照)


新堂見尾城
  xxx Ca160m付近    朝来市山東町新堂字見尾

陳東氏館から磯部氏館に向かいJR山陰線沿いのR9号線を夜久野方面へと歩き出す。 新堂集落に入った最初・西端の民家横から車道沿いの丘陵部に踏み込めそうな踏み跡を辿るが直ぐ上方10数m程の尾根?上に向う道も無く、 藪を突いて斜面を登ると尾根と見えたのは突然現れた真新しい片側1車線の林道?として、切り崩された道路端部だった。
新堂見尾城域近く?の神社

此の車道は和田山町桑原よりR9号線山陰線JR矢名瀬の北方の山間を縫って 山東町新堂でR9号線に出る広域林道なのか?。矢名瀬付近で混む為R9号線交通緩和のバイパス工事なのか?知らないが、此の新工事建設による確認調査により、一帯からは中世墓地の集石遺構や曲輪が新発見されたが 道路開通とともに消滅してしまっているようです。
新設道路上か?其の背後の丘陵部を含む付近が新堂見尾城か?

城主や築城時期等の城史は無論のこと、城砦位置についても兵庫県の埋蔵文化財遺跡分布図と、直ぐ其処にある神社との位置関係で、およその位置を推定してみるだけで、調査報告書でもなければ城砦の形態や規模は想像すら出来ません。 新堂地区には戦国武将:磯部豊次:波多野秀光の墓があり、距離的には近い陳東氏館よりは磯部氏館の山名氏方勢力下の砦だったのかも知れません?。
(県の埋蔵文化財行政地区マップを参照)


戦国武将:磯部豊次・波多野秀光の墓   朝来市山東町新堂
磯部甚太夫豊次・夫妻の墓:
磯部甚太夫豊次は山名上総介康熙の 4男として夜久野城主:磯部兵部大輔豊直の弟で、幼少にして出石有子山城主:山名祐豊に託され、波多野秀光に扶養され、後に野間館(磯部館 )主となり秀光の娘を妻として、山名氏麾下の一将として其の名を挙げたという。天正5年(1577)羽柴秀吉の「但馬侵攻」に際し其の軍門に降り姓を磯部氏と改めた。
磯部氏館:幾つも曲輪を越えても 主郭は更に先・土塁の下には横掘・竪堀


山名氏の滅亡により野間に閑居し元和元年(1615)大坂の役(夏の陣 )にも病気を理由に参戦せず、子の新右衛門を出陣させています。豊臣氏の滅亡により但馬へ帰った新右衛門は後:福知山藩主有馬氏に仕えたが、有馬氏が久留米へ移封されると此れに従従い、久留米磯部氏の祖となった。 秀次夫妻は生涯野間の地にあって豊次の室は寛永13年・豊次も寛永20年(1643)1月死去し磯部氏館(磯部城)は廃城となった。

波多野軍曹秀光の墓:波多野秀光は天文5年(1536)波多野秀行を父として因幡国八束郡高平城に生まれ 永禄2年(1559)兄高平城主秀実?丹比孫之丞に謀殺され落城するが、秀光は難を避け・縁を頼って但馬国出石城主:山名祐豊に仕えた。 秀光は勇猛・智謀の士で、特に砲術に長じて歴戦に於いて大いに其の名を挙げ、元亀2年(1571)山名祐豊に従い丹波国の山垣城(足立基晴)を落とした合戦にも、鉄砲を以って山名氏の危機を救ったと云われ武功と多年の功労により、磯部庄 100石を知行し大内村に居を構えたという。
新堂集落:戦国武将波多野秀光と磯部豊次の墓

特に祐豊の一族山名上総介康熙の二児の将来を祐豊より懇請され、扶育を託された秀光は二児を護り、兄豊直を夜久野城主・弟豊次を野間館主に据えて依命を果たし、更に娘を豊次の妻としている。天正8年(1580)出石城落城・山名氏の滅亡により 大内村に閑居し、寛永3年(1626)10月波瀾万丈の生涯を閉じたとされます。波多野秀光が因幡国の人と云い、秀の1字を持つことから、出身国について色々説の有る丹波八上城主の波多野氏と最も深く関連してくると思えて (石見とに説が有力の様ですが!!)…波多野の名に関心があり寄ってみました。
(現地:戦国武将の墓 郷土史研究会 平成3年による 案内板を参照)


向山城   長谷山 Ca235m   朝来市山東町新堂字向山

磯部氏館からR9号に出て新堂集落に戻ってくると、 南側の横たわる丘陵の谷間に真直ぐに向かう高架道路の右手(西側)手前、磯部川沿いに走る山陰線の頭上に見える長谷山(標高約235m)の台形の峰の頂に 向山城がありました。
大内から向山城遠望(中央前面)
向山城:主郭北斜面の竪堀群


新堂集落から磯部川を渡って真直ぐに 南の山の谷間に向う高架橋の新しい?道路は峠を越えてR427号線側の和賀地区へ延びているようです。 其の山間の西側手前には台形の峰を丘陵頂部に見せている長谷山(標高約285m)がある。此の長谷山の最高所に主郭を置く向山城がありました。「朝来志」によると寿永年中(1182−83)佐藤主膳督が築き、元弘3年(1333)主膳督の子孫 :掃部頭が櫓等を築き城を大改修して此処に拠ったと云い、
向山城:東端の空掘と切岸

其の子 :新左衛門の時足利氏に攻められて落城し廃城となったとあるのが唯一の資料とされます。しかし現状からは、明らかに中世山城の遺構が残されています。 山頂の長谷山からは尾根続き・南西方(直線距離で約600m)の点名:峠(標高285m)にある滝野城(磯部城)や、北方には磯部川を挟んで陳東氏館 新堂見尾城磯部氏館さらには 夜久野城が在ります。
向山城の曲輪群(右手は虎口か?

南北朝期:足利氏に抗して但馬南朝方にあって落城した山城ですが、但馬への東玄関を固める要衝に在って要衝 監視に適した磯部川沿いの街道を正面に眺望出来る位置にあり、半独立丘陵を呈する丘陵は 山城の条件を整え過ぎているほどの適地です。但馬山名氏方の城砦群として此れ等の城と呼応して、 但馬に侵攻してきた丹波黒井城の赤井(荻野)氏や、羽柴秀吉の「但馬攻略」の際にあたって、一時的ではあっても赤井(荻野)氏や秀吉軍に抗して応戦したのかも知れません?。
向山城:主郭部側西の大掘切

城域の尾根筋は三箇所ばかり堀切で遮断され、幾条もの畝状竪堀が北側斜面を掘り込んで走っています。切岸に面した曲輪の角 ・堀切に面した曲輪端には土塁の高まりも見られます。北面には山裾を磯部川が流れ 陳東氏館と同様にR9号線から望んでもわかる様に、山麓を走るJR山陰線の上に覆い被さる程に聳え立ち天然の要害を呈しています。
向山城:主郭部側西の大掘切

線路沿いには明確な登路が見出せそうに無いので、長谷山の東山麓からと思い和賀へ抜ける?高架橋車道をとったが 道路に面して砂防のコンクリート壁が廻り取り付けない。少し先で南東側からの短い谷筋に入った丘陵の尾根端の小曲輪に出るまで急登と藪漕ぎ、曲輪の続く尾根筋も踏み跡薄く、木材・柴の伐採刈放かしも無く、そのため返って障害物がなく歩き易い。浅い空掘(横掘)から高い切岸を越えると二の丸・三の丸と呼べそうな広い曲輪の段差の北角に土塁切れ目の様なところは虎口か?
向山城の主郭部西三つ目の堀切(城域最西端か?)

其の下方には西北方の斜面に6〜7本は有るだろうか ?竪堀が等間隔に並ぶ。主郭部西の大堀切を越えても2〜3曲輪が有り堀切、其の先は身体が隠れる程の藪だったが直ぐ抜け出すと平坦地を過ぎ高い切岸(5m程)下の堀切で城域を出る様だ?。滝野城へは南側斜面をトラバースしながら戻り気味に 南東へ延びる尾根に出て進む。此の稜線には明確な踏み跡が滝野城まで続いていた。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会を参照)


滝野城(磯部城・鬼ヶ城・悪魔城)   上ノ山 点名:峠 (4等 285m)   朝来市山東町和賀字上ノ山・新堂字峠 

南北朝期:観応2年(正平6 1351)但馬守護今川駿河守頼貞が拠った磯部城に比定されているのが滝野で、馬南党が勢力を盛り返して南但馬の滝野城の今川頼貞を、出石神社神主長尾彦太郎家景が代人として出陣させた弟の彦七長家・堀河左衛門佐・江田治部卿の三将で、頼貞が城を退去するまで 攻めたてた城といわれ、名の由来は知らないが別名:鬼ヶ城・悪魔城とも呼ばれる様です。
向山城の主郭部西二つ目の堀切

翌観応3年:今川頼貞は岩清水八幡宮に出石郡大田庄内赤花村三分一地頭職を寄進しており、但馬守護職に後任されています。丹波市青垣町から遠阪峠を越え柴城側を通るR427号を下ってくると、和賀集落の北背後の丘陵部の 最高地点が上ノ山(点名:峠4等三角点285m)で、山頂部一帯を城域とする滝野城が在りました。県の埋蔵文化財行政地区マップでは山頂部から 和賀集落へと南に流れ出る急斜な枝尾根部に遺構分布表示されていますが、尾根が西に延び出し其の先端部が矢名瀬町の柴川・与布土川が合流する地点にまで、曲輪・堀切等遺構が断続的に点在している様です。
滝野城!!?西尾根末端部

山東町役場付近からは公園となっている様で伐採された尾根上に 曲輪と思える平坦地も見える。特にR9号線を新堂地区に向かいJRのガードを潜る辺りから望む西尾根筋の電波塔!!?上部、休憩所と思える場所は切岸を持った曲輪に見えます。登城の取付き点に考えていましたが、 今回は向山城から縦走して三角点石標柱の埋まる主曲輪の山頂部から、西尾根と南尾根への分岐曲輪に降りる。 此の曲輪の北端中央の分岐点となる要部に1〜1.5m程の高さで大きな露岩が方形に集められ、二枚ばかりの岩の上部は平坦・水平で天然自然の櫓台を形造っているところがある。
滝野城:主郭東尾根の横掘 ・土塁

岩場付近も西尾根へも踏み入る気にならない藪なので確認しなかったが、あまりの方形・台状なのを見て、勿論戦国期に入って竹田城の城砦の一つとして、 石積み改修された櫓台なのかも知れないと想像してみた。三段ほど曲輪が続く南斜面を和賀地区に下ったので、西尾根は何時か再訪の際にトレースしてみます。但馬は古墳の多いところですが、その古墳のマウンドが城砦として利用されていても尤もで不思議はありません。「朝来志」に瀧野氏が居城したと云われるが其れを伝える資料・伝承は無く、地元にも城跡である事を知る人は少ないとある。
主郭南尾根にも4〜5段曲輪が続く


城跡を意識しての公園化なら歓迎ですが、 北西向かいの秋葉山が陳東氏館(実際は秋葉山の東側にある標高が10m程低い陳東山)と地元で思われているらしいのでは期待薄かもしれませんね。遺構や規模にかかわらず、共に曲輪・堀切・横掘・土塁まで残っているのですから、 丹波の平坦地だけ・伝承も残らない城跡に較べれば、郷土の史跡として研究・調査がすすめば、城史として加わる貴重な発見があるのかも!?。 保存に努め大切にして欲しいですね。
(山東町史 兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会 を参照)
別冊 丹波霧の里HOME 本誌 丹波霧の里HOME
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