但馬の城と但馬富士 鶴城/亀城/三開山(但馬富士) 兜山/盛上山!!
但馬 (五万図=城崎)
T 京都(久美浜湾) 久美浜野外センタ車道〜人喰岩〜兜山 2001年05月18日
U 兵庫(但馬海岸) 日和山温泉・金浪楼〜御待岬〜盛上山   同日
V 豊岡市の城山 愛宕山(鶴城)と三開山(但馬富士) 2003年4月27日
近畿の山城鶴城  三開山城 亀城(豊岡城) 豊岡陣屋
ふるさと富士 三開山(但馬富士)
豊岡市内の遺跡  大石りく顕彰碑
豊岡城(神武山)から望む豊岡市街地と三開山(但馬富士)

兜山チューリップ畑の網野や城崎・来日山へ登った時も此処を通り、気になる小山だが美しい兜山によってみます。R178号線の甲山付近からは整った綺麗な山容の山ですが、生憎今回添付の 写真はなんともズングリムックリで世辞にも美しいとは言いがたい様子ですが、久美浜湾に浮かんだ大文字山が自身の姿を誇示していますが湾に沿って車道がグルリと取り囲んでいます。しかも独立峰で登山対象からは興味薄になる一方、 それが周辺の僅かな自然環境を守っているような印象の山です。


T山陰海岸国立公園・久美浜湾に姿を映す兜山〜人喰岩
 H13.05.18

但馬・日和山へ母を伴っての小旅行中・市内観光や買い物・食事の時間帯を利用し一人気儘に低山歩き。出石町の有子山へ登った後は豊岡のコウノトリ公園へ立ち寄り 城崎温泉への道と分かれてR178号線を久美浜湾に向かう。小さな山だが久美浜町に近づくと山腹の大文字が気になる山です。なをも178号を網野町へむかって走らせていると、海に浮かぶ、美しい円錐形の山容をフロントガラス越しに 見せてくれるのが兜山です。山頂付近には注意して見ていないと気が付かないが、せり出したように人喰岩が姿を見せています。久美浜湾に面したこの小さな山を登山対象にはする人もいないでしょうが対峙する対岸の宝珠山 (156m)と共に久美浜湾を見下ろす展望の高台が兜山です。 国道と分かれて林道を入って行くとレストラン 「レセプション・ガーデン 」やキャンプサイトがあり、 釣りも楽しめそうなポイントです。広い兜山(甲山<こうやま>)山麓一帯がアウトドア観光サイトです。
久美浜公民館から兜山

展望駐車場とレストランを過ぎ久美浜野外センタ キャンプ場のある大駐車場へ下って車を入れる。いまの時期は近畿地方でも、豊岡周辺は何時も最高気温を記録しています。今日も国道を走っていて28度表示になっていましたが今の気温は既に30度越していると思われます。母を此処の休憩所で、 出石で買った煎餅などを食べながら休んでもらい山頂まで登ってくる(PM2:40)。山頂へのメインは此の一本道?。先のレストランと途中の展望?駐車場(芝生公園になっている)の間に京都自然200選:兜山の標柱がある。 久美浜は京都府の最北西にあり丹後半島と山陰海岸の丁度境に位置します。 湾の入り口は小天橋と呼ばれる東の方から突き出た砂嘴で日本海と隔てられ、海岸線の出入りが多いため景観が素晴らしい。カヌー等のスポーツが盛んで兜山を撮った写真もカヌー艇庫がある久美浜公民館からのものです。
兜山山上展望台より駐車場・キャンプ地と久美浜湾をのぞむ

一本道の山頂近くに人喰岩(ババ岩 )の分岐がありコースから岩の頭部が見えます。ほんの10数mの位置なで寄ってみますが、岩頭から下は見下ろせません(PM2:55)。ハングしているので高度感は相当なものを感じますが、高々2〜30m程度でしょうか。 岩を撒いての細道コースはあえて説明せずそっとしておきます。僅かに残る自然は道が消えれば維持出来るかも!!!コースへ戻れば直ぐ甲山寺から山頂まで続く車道に出て山頂熊野神社前に着きます。15m程先にあるコンクリート製展望台が 兜山(3等三角点192m PM3:00)。


U 日和山の海中公園近く 御待岬〜盛上山    2001年05月18日

盛上山:城崎マリンワールドの敷地内にあるホテル金波楼のロビーや大浴場から日本海の眺望を楽しんでいたらシーランド(日和山の海中公園 ・城崎マリンワールド)を隔てて 高い岩壁を衝立状に並べて海中に突き出した御待岬と車道に架かる一本の橋と、山名は知らないがアンテナ塔の建つ山が直ぐ側に見える。日没までには未だ二時間程は間があるので散歩がてらトンネルを抜けて旧但馬海岸有料道路(もう何年か前に無料化 ?)沿いに最初の岬に出てみます。高い橋を渡って行き着く御待岬は急な崖を下り釣り場の岩場へ出る細い道が出来ているが、ザイル無では少し危険か?ホテル側からは見えなかったが西側には5〜60m以上の岩壁が海面から突き出しています。 戻って車道をなをも進むとDoCoMoの無線中継施設のあり山上へ荒れた細い道が続いている。途中少し藪っぽいところもあったが直ぐに山頂の施設脇に着く。これより西方に少し高い山があるが、そこへ伸びる尾根道は小道も無さそう ?巡視路を下って車道に出ると「盛上山ハイキングコース」の白い標柱が建っていた。
しかし先刻の山頂の様子からは、これより先へのコースが無さそうなのでアンテナ山が盛上山だと勝手に解釈して戻ります。車道を先に進めば 城崎カントリー倶楽部で。きっと「海に向かってプレーする」がうたい文句の広大な芝生の砂漠が拡がっていることでしょう。ハイキングコースにしては山低く、展望も乏しく距離も短いこの山が盛上山とは考えにくかったが、 時間の余裕も少なくなったので此処で引き返した。但馬・丹後地方は・此方の重鎮「たじまもり」さんにお尋ねした方が良かったのですが、突然の思いつき散策です。山名が違っているようでしたら再度、周辺の山をもターゲットにして訪れたい。 駐車スペース情報も記しておきたい所ですが、いくら交通量の少ない道路でもカーブの多い危険と迷惑を考慮すれば個人意識に任せましょう。



V 鶴城(愛宕山)/三開山(但馬富士・三開山城)   H14.04.27

三川山からの帰路は予定が無ければ竹野の海岸線を走る但馬漁火ラインを走り津居山漁港で土産を漁って ・城崎温泉街を抜けて…となるところですがR178を豊岡へ戻り円山川を渡る豊岡大橋を渡ります。円山川東に広がる六方田圃と呼ばれる但馬の穀倉地帯・六方川に沿ってはコウノトリ繁殖・飼育場近くに、名も鶴城の愛宕山と、 円錐形の秀麗な独立峰但馬富士(三開山)が近距離にあり、山名氏の二つの城は、豊岡を代表する コウノトリと但馬富士の山で手頃な寄道コースに加えます。豊岡大橋北の野上には田鶴野、さらに北には下鶴井の地名があり、北へ2km程のところには昔から!!コウノトリの繁殖飼育場があり(コウノトリ公園が出来たので此処での見学は出来ません!!?)。
円山大橋(江本)付近から・六方田圃と但馬富士(三開山)

さて登城口を船町からと思っていたが豊岡大橋東詰で右折とそのまま 「この先200m行き止まり」にドキッとしながら宮津線のガード手前まで来るとラッキー。「鶴城・宝城寺跡・愛宕山登山口」の看板と石段が有る。ガードの先は数軒の民家があって此処で行き止まりのようです。取付きの石段は直ぐ上部にある 貴布祢神社に行き着きます。鳥居の横の7〜8mの高い壁は既に曲輪の切岸の様です。神社奥から山腹を捲く様に「貴布祢の道」と名付けられた散策道が愛宕山の山頂に続いています。眼下には円山川を渡るタンゴ鉄道の、何処か懐かしさを感じる鉄橋が 架かっています。深く大きな堀切を見上げながら山裾を捲きながら進む道も尾根筋へ出てくると、 小さな山城は山頂付近全体が 堅固な城郭となってきて驚かされます。堀切や土塁で囲む曲輪・高い切岸、本郭部に近づくと数段の曲輪、帯曲輪の中に井戸と 苔生した石積みが残る。その先(南東側)には数条の畝状竪堀が見える。

鶴城本郭部

尾根は北に向かって曲輪を連ね、堀切の先には東屋 (休憩所)を経て金剛寺方面へ山道が延びていますが、日撫集落へ下る堀切附近にも同等の畝状竪堀があります。石積みの残る本郭部は愛宕神社の境内となり、裏手には基壇の礎石が残る宝城寺跡がある。西側からは愛宕社への参道が延びていて山頂部は 石垣と石階段があって、此処も良展望台で円山川の東には、六方川を挟んで左右に延々と続く田園風景とその奥に来日山、西に遠く但馬の屋根のように青く延びる高嶺は、今日歩いてきた三川山から蘇武岳の稜線でしょう。ザゼンソウ見るだけなら神鍋高原から 三川山でも良かったのかも?、神鍋なら花はもう遅いのかなとも思ってみたり…。コウノトリの鶴城を後に南下して直ぐ日撫には忠臣蔵・大石蔵助良雄の妻 りくの遺髪塚があるので寄ってみますが此処では、野田合戦で知られる鶴城の城主・田結庄氏が垣屋氏に攻められ此処・正福寺で自刃しています。
三開山城・千畳敷の武家屋敷跡

さて次の但馬富士(三開山)に向かいます。
「但馬なる 富士とやいはん 三開の かすみ棚びく篠岡の里 (沢庵禅師)」豊岡盆地の東部・円山川と六方川に挟まれて拡がる平野は六方田圃と呼ばれる但馬の穀倉地帯。田園風景の先に見える秀麗な円錐形の独立峰が但馬富士と呼ばれる三開山(3等三角点202m)で、 山頂部一帯が南北朝初期・但馬南朝の拠点として 山名時氏(但馬山名の祖)が拠った三開山城の跡で、最高地点の本丸から桜やツツジの花々を通して三方に拡がる展望は眼下に円山川の流れを見て、遠望する山々は来日山と大岡山は勿論 その奥に青い山並みを連ねる但馬中央山脈の妙見山 〜蘇武岳 三川山、南には須留岐山や床尾の山(近日に鉄鈷山アップ予定です)等を眺め 出石近辺の山が望めます。折角の展望も曲輪に点在する石仏が不粋ですが、木内(きなし)の見登山・瑞峰寺(曹洞宗)から大篠岡の金勝寺へと三開山を周回する山道には霊場巡りの石仏(大師と並ぶ)がある信仰の山で瑞峰寺から三開山山頂へ23分。
三開山・横穴式の石室(瑞峰寺コース)

三開山を含め周辺は古代より開けた地で史蹟・中ノ谷貝塚もすぐ近く。 大篠岡のバス停で何処から登ろうかと思案していたが、木内の見登山・瑞峰寺(曹洞宗)の山号碑の横に「登山コース」の白い標柱を見て境内の駐車場へ進む。墓地内を抜け出ると山道が続く。道標は無いが霊場巡り石仏が道標代わり。 石室が露出した古墳の上に置かれたものもあった。山頂近くなって数段の曲輪が現われる。最後の高い切岸を越えると広い本郭部に着く。城址の案内板と周囲に石仏が祀られてはいるが、明るく展望の開ける山頂は気持ちが良い。鳥居を潜って曲輪の続く尾根筋を下る。 案内板の縄張り図を念頭に入れて中腹の千畳敷と呼ばれる所にある武家屋敷跡を訪ねるてみます。杉林の中に湿気た…もう沼地のような所を廻りこんでゆくと数段の平坦地を囲むように長い石積みが続いている。千畳敷を後に濡れた溝のような道を下って 「カミヨシNo.102電柱」の所へ出てきたが、僅か10数mのところが篠岡集落の民家の間を抜けていく「金勝寺側登山口」でした。まだ時間は充分あるのまでR482経由でR312号線に出て元来た道を戻りながら円山川の対岸に 進美寺山を望む大松山の宿南城へも寄って行きます。




 三開山城 鶴城(愛宕城)  亀城(豊岡城) 豊岡陣屋

三開山城  三開山 (但馬富士 202m)  豊岡市大篠岡・木内

三開山城の築城時期は不明ですが 南北朝時代初期・建武3年(延元元年1336)楠木正成が湊川の合戦で敗れ、 足利尊氏の台頭と共に但馬守護となった今川頼貞が但馬の南朝方を攻めます。此れに対して南朝方は三開山城を但馬の一大拠点として新田義貞の子(弟?) ・秋田城ノ介義宗が拠ったが翌・建武4年 (1337)足利直義軍に攻められて 因幡や伯耆の南朝方の応援がないままに美寺山城 (日高町)や妙見山城(八鹿町)と共に落城し、義宗は越前に敗走し但馬の南朝方は一掃されます。
三開山城・本郭の切岸(瑞峰寺コース側

丹波守護代萩野朝忠が拠っていたともいわれます。康永3年 (興国5年1344)山名時氏(但馬山名の祖)師義父子が、萩野朝忠を追って但馬に入り三開山城は攻略した後、自ら但馬守護を称として一時期、南朝方に落ち山名時氏が居城します。延文元年 (正平11年1356)足利直冬に属して南朝方に付いて三開山城に立て籠っていた山名時氏に対して足利幕府軍・今川頼貞による長期間 (4〜11月迄)の攻撃があって 城下での攻防戦が展開されています。延文3年(1358)伊達三郎(朝綱)に攻められた時、山名時氏は因幡へ敗走しますがその後・但馬で着実に勢力を伸ばし貞治2年(正平18年1363) 足利義詮に帰参する頃には但馬は、ほぼ完全に山名の勢力下になっていました。
三開山城・千畳敷の武家屋敷跡

…その後・天正5年(1577)と天正8年(1580)の二度に渡る 羽柴秀吉の「但馬征伐」に対し垣屋勢が大改修したものと考えられているが、第二次の但馬攻めで落城したといわれます。当時の城主等は不明です。山頂にある案内板の縄張り図によると主郭部(東西40m南北18m)を中心にして尾根上には多くの曲輪や掘切、 特に千畳敷と呼ばれる家臣団の屋敷跡には石積みが残り、背後から山頂への斜面には20数本もの畝状竪堀が構築されています。
(豊岡教育委員会の城址案内板 / 郷土の城ものがたり但馬編 兵庫県学校厚生会 参考)


鶴城(愛宕城)  愛宕山(城山 155m)  豊岡市山本字鶴ガ城・船町

円山川と六方川の合流地点の北・船町集落の東側にある丘陵が愛宕山(155m)で豊岡城主杉原氏が城の北東の守護神(辰巳の方向にあって鬼門除け)として元和5年(1619)城址に愛宕大権現を歓請し 豊岡城下の歴代領主家の祈願所となっていた事に由来し、別当寺として宝城寺が置かれていました。明治以降 宝城寺は廃され代わって 愛宕神社が置かれました。南北朝期・永享年間(1429-41)但馬守護・山名 (宗全)持豊による築城とされています。
鶴城・土塁と堀切や竪堀で防禦を固める曲輪

垣屋・八木・太田垣とともに山名四天王の一人に数えられ円山川下流域を勢力下とした国人・田結庄(たいのしょう)死の鶴城があり、円山川を挟んで豊岡城の亀城に対する呼称として鶴城と呼ばれます。田結庄氏は山名氏居城(此隅城・出石町)に近い鶴城に拠ったため、 最後まで山名氏に付いています。田結庄氏は桓武天皇の皇子・葛原親王の後裔といわれ、七代後の越中次郎兵衛盛継が源平合戦に敗れ城崎郡気比に隠れ住むが捕えられて殺されるが、その子の盛長が田結庄に住み田結庄氏を称したといわれ左近将監是義の時、鶴城を築いて居城とします。鶴城は但馬でも有数の城郭で三方に延びる尾根上の南北660m,東西460mに曲輪を連ねる大規模なもので、主郭背後の尾根を二重の堀切で切断して城域を確保し、 北西方向は土塁を多用した曲輪を、南には大きな曲輪が配されています。
貴布祢神社側の堀切(山本集落側)

東側と北側の斜面には幾重に掘られた 畝状竪堀を設けて防禦を堅固なものとした 戦国期特有の遺構がみられます。主郭には石積みが残り、その山頂愛宕神社の境内からは豊岡盆地に拡がる六方田圃の景観の中に海老手城(豊岡市森津)や野田合戦の主戦場(豊岡市宮嶋附近)を望めます。天下統一を推し進める 織田氏と中国地方の覇者・毛利氏のどちら付くか但馬の武将達は揺れ動きます。織田方の山名祐豊・田結庄是義と毛利方の垣屋豊継(竹野轟城主) ・同族の楽々前城主:垣屋隠岐守隆充<たかみつ>・八木豊信・太田垣照延との対立が熾烈化し天正3年(1575)10月には織田と毛利の代理戦争野田合戦が起こります。
鶴城本郭の苔むした石積

野田合戦は田結庄是義の属将・栗坂主水の海老手城が垣屋豊継・長越前守らに略取され、その救援を田結庄是義に求めたことに始まり、一時海老手城を奪回するが結局:野田の泥田での野戦となり、 垣屋豊継に攻められ田結庄方の宮井城(豊岡市宮井)篠部伊賀守が垣屋氏に降参し、田結庄是義は日撫の菩提寺正福寺に退き自害して田結庄氏は滅亡する。この合戦によって垣屋豊続は但馬を完全に 毛利方に統一し、対織田防御ライン(竹野〜竹田)を構成する繋ぎの城として鶴城・海老手城を確保したことになり以後、天正8年(1580)羽柴勢の勢力が支配するまで垣屋豊継の支配するところとなりました。
*垣屋豊継(竹野轟城主)を、郷土の城物語では垣屋隠岐守隆充(楽々前城主・日高町佐田)で説明されています
(平成7年3月 豊岡教育委員会の城址案内板 / 郷土の城ものがたり但馬編 兵庫県学校厚生会 参考)



豊岡城と豊岡藩陣屋・豊岡県庁

豊岡城(亀城・木崎城・城崎城)  神武山 (亀山・城山) 49m  豊岡市京町・宮町神武山公園

JR豊岡駅の南東約800m程・円山川の左岸に位置して、 独立低丘陵ながら豊岡市街地を一望する神武山(標高49m)の東西尾根に梯郭状に曲輪を並べ・主郭北側の急斜面にも 輪郭状に段曲輪を構える豊岡城が在りました。清和天皇の貞観年中(859-877)安達弾正信輝が領地支配していたと伝えられ、室町時代:康生年中(1455-57)但馬守護 :山名持豊(宗全)が一帯を支配した頃、
豊岡城主郭:コーナー先の北西隅に在った天守台跡!!

此隅山城(出石町)の出城として 城崎荘と呼ばれた長講堂領(後白川法皇の私有地)に、木崎城(城崎城)を築いたのが 始めとされます。さらに長享2年 (1488)宿敵播磨の赤松攻則に敗れた但馬守護:山名政豊は、
主郭天守台から萩ノ丸?:左の石碑側が笠ノ丸(神武山貯水池)

山名四天王の筆頭 垣屋氏等の但馬国人衆から敗戦責任を門責された為、唯一:政豊に付いた田公肥後守父子等と木崎城に籠ったとされる神武山。全国「六分の一殿」とも呼ばれた山名氏の衰退は山名四天王(垣屋・太田垣・田結庄・八木)の対立を生み・羽柴秀吉の但馬侵攻が始まるころには、毛利・織田の東西勢力の影響を受けて、四家は夫々に割拠し一族の内でも分裂、 秀吉に付き最後まで生き残った垣屋氏も関ヶ原の合戦には西軍に属して没落する。
笠ノ丸西の広い曲輪切岸・レンガ塀に囲まれてはいるが往時の遺構か?

とは云え神武山は戦国期〜近世にかけて但馬地方支配の重要な 拠点ではあった。明治5年(1872)皇祖:神武天皇陵の 遥拝所は豊岡城の天守台跡に設置された事に由来する神武山一帯は、神武山公園として豊岡市民の憩いの場として、 平成10年には”歴史・文学の小路”として歌碑等が立てられ、市内有数の桜の名所ともなっています。天正8年(1580)羽柴秀吉の”第二次但馬侵攻”により山名裕豊の籠もる出石の有子山城を落とし但馬を平定すると、
笠ノ丸(貯水タンク)から天守台西の切岸と登り土塁?

出石に青木勘兵衛、豊岡には鳥取攻めに吉川元春の援軍を阻止・撃退した宮部(善祥房)継潤を2万石で配置。 宮部氏は木崎を豊岡と改めて神武山に豊岡城を築き城下町が形成されていく。鳥取攻めの戦功を認められた宮部氏は翌天正 9年鳥取城へ移封されると城主は 木下助兵衛尉重堅・尾藤久右衛門知定・明石左近則実・福原右馬之助道高と城主が代わり慶長2年(1597)杉原伯耆守長房(北政所ねねの従弟)が肥後臼杵城から2万石で入封される。
本丸南西角から南下へ2〜3条の竪堀が有る筈?(笠ノ丸下広場への歩道から)

長房は関ヶ原合戦 (1600)に西軍として行動<田辺城籠城戦に参戦>したが徳川方:浅野長政の娘婿でもあり、 長政の取り成しにより旧禄を安堵され杉原氏は長重・重元と三代続くが、承応2年(1653)早世すると嗣子がなく改易され、豊岡は天領となり豊岡城は廃城された。 山名氏の城としての「城割り」も、廃城による破却も、
遊歩道北から本丸北東角の切岸を仰ぐ

藩政時代〜明治維新へと廃城令による破却も 免れてきた城遺構も、明治以降の市水道局配水施設・学校や病院等周辺の開発建設や公園整備により絵図に見る天守台や周辺の竪堀・堀切・石垣等城郭遺構は壊滅。萩ノ丸・笠ノ丸の曲輪名や、一部分に其の遺構を止めている様です!!。
(豊岡城跡案内板 Web百科ウイキぺデイア等を参照)


豊岡藩陣屋と旧豊岡県庁  …xxx   豊岡市京町

豊岡市立図書館の敷地には旧豊岡県庁の正門【総檜造:脇戸付薬医門:横幅8.4m(瓦屋根部13.2m)X高さ7.6m】が残されており、 豊岡市指定文化財(昭和52年11月1日)となっています。廃藩置県により明治3年(1870)当時の久美浜県庁(京丹後市久美浜町)建設に伴い築造されたが翌:明治4年には豊岡県に合併されて、陣屋跡の現在地に移築され豊岡県庁の表門となったもの。
陣屋跡地の図書館と京極家屋敷!?・豊岡城

明治9年には豊岡県は兵庫県と 京都府に分割され、豊岡県庁は其の後:城崎郡役所として利用されたが 大正12年(1923)改築を機に庁舎は再び久美浜町に移築され現在:神谷神社社務所(京都府指定文化財)となっています。 唯一遺された県庁遺跡です。図書館敷地内に遺される元の 豊岡藩陣屋の遺構は…?。豊岡は一時期天領となっていたが寛文8年(1668)田辺城(舞鶴市)から京極伊勢守高盛が 豊岡藩35000石で入封すると神武山の豊岡城跡ではなく、
陣屋跡に建つ市立図書館と旧豊岡県庁正門

北東部山麓の現 :豊岡市立中央図書館のある敷地一帯を整備して豊岡陣屋を構えた京極氏は4代:高寛が10歳で没し除封の危機もあったが6歳の弟:高永が15000石に減封の上で家督相続が許され9代:高厚まで続いて明治維新まで存続します。豊岡城跡へ 神武山公園への散策道が陣屋跡(図書館駐車場)南側から東側を竹垣が、西丘陵斜面は切岸状の急斜面沿いに延びる。 鋭角曲がり階段道となる南側に広い曲輪跡?(私有地!!?)。登ってきた竹垣外側と東下方へ降る細い尾根筋は幅広い土塁・竪土塁状が山麓末端の地区道まで延びる様です。
城下絵図の武家屋敷南北を結ぶ東道路まで延びる土塁状 !?尾根先

階段上に上水道配水施設(曲輪跡?すぐ歌碑が立つ分岐で、歌碑の上に高く切岸を立てる曲輪が主郭の本ノ丸(東西約60X南北約30m程)で北西隅に天守台の土壇が 公園整備前の古写真にあるのを見たことがある。直進すると萩ノ丸・曲輪北端に土塁らしい盛上がりをみるが遊歩道整備によるものか?。此処にも歌碑があり、分岐道を主郭へは左への歩道を上がると本ノ丸の天守台に着く。縄張り絵図からは萩ノ丸と笠ノ丸の間に は堀切が有り、石積の天守台は萩ノ丸に有った様で、現地点にある案内標柱「萩ノ丸」?が 天守台跡にも立ててあれば、笠ノ丸(貯水タンク)から望む天守台跡の切岸や 歩道の底部から南急斜面へと堀切が竪堀となって延びていた様にも見受けられる。
豊岡城主郭東下段曲輪に立つ京極高住の歌碑

広く 削平された山頂主郭に城郭遺構はなく此処にも歌碑が立つ。近世〜明治へと破却を逃れて遺されてきた豊岡の歴史的原点である城跡遺構は、水道施設だけではなく公園整備でも失われたものか?。遊歩道脇に立つ天守台跡の標柱に虚しさを覚える。 「歴史・文学のこみち」として諸処の立つ歌碑・文学碑のなかに豊岡藩:京極家二代目藩主京極高住の直筆句碑が、本丸東一段下の腰曲輪跡に立つ。眺望の良好さはベンチに腰掛け休める分だけ、主郭より歩がありそうです。高住は云奴(うんぬ)の俳号を持つ文学大名で「こそ見めの至りが浦や所の春 云奴子」 延宝7年(1679)二見浦(城崎町)連歌会の発句。居館や藩庁が設けられ、外側には武家屋敷を配し、 自然の外濠となる円山川と水田が囲み、池から円山川へと通じる溝を内濠とも成したものか?、
豊岡城下絵図:元禄15年(1702)

丘陵部の豊岡城や近世の陣屋・藩庁の城域を囲い込む。濠の外域に町屋・寺社を配した城下町縄張りは宮部氏〜杉原氏の領主館が置かれた頃には 既に構築されていたものか?。平成7〜9年(1995-97)の図書館建設に伴う発掘調査により江戸時代初期〜後期の建物跡や、 織豊期の建物跡等の遺物が発見されています。また円山川の洪水から陣屋を守るため、当時大量の盛土が施され、各時期の遺構が 地下に良好に遺存する。陣屋(政庁)の北と西側を限る堀や石垣、裏門(搦手門) ・釜戸の跡等が見つかり、江戸時代初頭ころの豊岡陣屋の実態が明らかにされたが陣屋跡遺構と伝えるものは旧県庁の正門と横に並ぶ発掘調査による案内説明板だけで、
京極家屋敷門?


藩陣屋門は市内の長松寺(下鶴井)と慈等寺(三宅)及び、出石城下に移されて家老屋敷向かいの福成寺山門として移築 ・利用保存されています。結局:亀城(木崎城)以降の館・屋敷・陣屋も、旧豊岡県庁の遺構は何も残らず唯一・明治の久美浜県庁から移築の正門が遺されるだけ。図書館側の京極館跡に長塀に囲まれた屋敷門が建つ。元禄15年豊岡城下絵図にみる京極氏居館に位置に在り 京極家屋敷か?
(豊岡城跡及び豊岡陣屋跡・旧豊岡県庁の正門案内板 高住の句碑 Web百科ウイキぺデイア等を参照)


”大石りく”顕彰碑
 正福寺の遺髪塚・・豊岡市日撫(ひなど) 生誕地の碑・・・豊岡市京町

大石りく遺髪塚(豊岡市指定史跡)は三開山麓の六方川沿い:日撫の香林院(正福寺)にある。元禄15年4月夫と離別した ”理玖”が京都山科を発ち、寺坂吉衛門を伴に三人?の子供【二男の吉千代11歳と長女:くう12歳・次女ルリ3歳(三男:大三郎を懐妊中…?)を連れ、但馬豊岡の実家に戻る旅装の理玖と二人の子供の銅像と顕彰碑が香林院の駐車場傍に建つ。
大石りくの遺髪塚(左よりクウ・りく・吉千代の碑)

香林院の「りく遺髪塚」を挟んで長女くうと二男吉千代 (共に早世した)三基の墓が肩を寄せ合うように祀られています。香林院は大石内蔵助良雄の妻りく(理玖)出家後の法名で、正福寺は石束(いしづか)家の菩提寺です。 賢明で貞淑:武士の妻の鑑ともされる大石りく生誕地は豊岡城(亀城)の在った神武山公園山麓・豊岡藩陣屋跡の直ぐ東・豊岡藩武家屋敷群のなかに在った。市立中央図書館にしては立派過ぎる!!!?大きな門。 此処は豊岡藩陣屋跡に建てられた旧豊岡県庁の正門を西正面に見る通りに面して石束家旧居に近い位置!!?に 「大石陸女生誕之地」に石碑が建てられ”理玖<りく>”と 豊岡藩石束家についての説明板や、元禄15年(1702)の豊岡城下絵図が並び掲げられている。
大石りく生誕地の碑

豊岡藩主京極家の筆頭家老:石束源五兵衛毎公(つねとも)の長女として寛文9年(1669)豊岡で生まれ、 18才で赤穂藩浅野家筆頭家老の大石良雄に嫁いだが、元禄14年3月藩主・浅野内匠頭の殿中刃傷事件が起こり、 大石内蔵助良雄以下:赤穂浪士が吉良邸に討ち入りする前の元禄15年4月に離別し子供を連れて但馬豊岡に帰ります。 その後二男・吉千代は出家、長女・くうは15才で早逝、三男・大三郎が広島の浅野家本家から父:良雄と同じ1500石の破格で仕官に召し抱えられます。りくは次女ルリを連れて大三郎の元に移り住み、元文元年(1736)68才で亡くなり墓は国泰寺 (広島)に祀られています。
正福寺(香林院):大石りく顕彰碑

正福寺には ・その三回忌に建立されたのが遺髪塚で明治に再建されたもの。りくは浪士が本懐を遂げるまでの間、残された浪士の家族の面倒を見ながら、ひたすら困苦に耐え良妻賢母の鑑として称えられています。 なを丹波市にも”大石りく”遺跡があるので紹介…りくが京都山科から実家の豊岡へ帰る途中、腹痛に苦しんだが、 湧き清水で腹痛も治まり、後に”りく”が自ら書し・但馬の石に刻まれた報恩碑が建つ「りくの森」が佐治から但馬に向う街道筋の天王坂(丹波市春日町)にある。
【日撫の香林院(正福寺)及び大石りく生誕地碑にある顕彰会の説明板等を参照】
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