兵庫県最北端・最西北端の城と但馬を毛利方に統一した垣屋豊続の城
兵庫県最北端に位置する賀嶋城 2021年10月16日
兵庫県最西北端に位置する芦屋城 2023年4月15日
但馬の海洋領主!垣屋豊続の轟城 2023年4月22日
ジャジャ山公園から猫岬半島
近畿の山城: 賀嶋城 芦屋城 轟城

兵庫県最北端に位置し竹野川河口(竹野港)から細長く日本海に突出す陸繋島:猫岬半島の先端には猫崎灯台がある。賀嶋公園駐車場からは断崖絶壁上の起伏に富んだ 賀嶋公園・賀嶋山・猫岬灯台へ海岸線眺望が楽しめるハイキングコースがある。賀嶋公園に登り着くと 整地された大きく幅広く削平された広場に出る。曲輪を仕切る段差はないが左右(南北)に拡がる高低差のない三段曲輪に思える。ほぼ中央部西面に 賀嶋公園:朝日・夕日・漁り火の見える丘の観光標示板が立つ。曲輪の先から自然歩道に入るが突然土橋付堀切状を抜ける。尾根筋には途中までは不動尊・菩薩・観音霊場巡拝の遊歩道にもなっているがコースを外れ藪化し通行困難な
賀嶋公園から賀嶋山

巡礼道だが幅広く大きく削平された箇所もある。遊歩道入口の堀切状霊場巡りコース尾根筋の平場…第33番「波切不動尊」がミニ霊場巡りの終端か? 西面の大土塁は断崖絶壁上にあり風防の為?いろいろと城郭類似遺構を見掛ける。賀嶋公園(比高50m)付近を降り初めて直ぐから遊歩道脇高みの露岩部にも風食地形かと思える崖壁一部にも小さなポットホールを見る。比高50m程とはいえ此処は日本海に突き出た半島も 元は波打ち際の岩場。波蝕による:おびただしい甌穴群は駐車場端から柴栗山睨満の碑が建つ前を海岸に出てみてよく判る。江戸時代中末期:幕府の儒者(寛政の三博士)の一柴野栗山は文化4年(1807)此の地で:遙か雲天の外に満州を望み雄大な景色に感動して詠んだ詩が刻まれている。朱子学こそが最高…と栗山の建議によりできたものという”寛政異学の禁”だが 我が宗教/我が政党だけが…と他を排する施策の効果は?。
ジオサイト!から望む賀嶋城全景

気分を変え駐車場から海岸に出てみると:此処はジオスポット。 波打ち際の岩棚・岩場斜面の広範囲に波(喰)蝕甌穴群・竹野港に向かう賀嶋城趾西麓の岩棚にはゾウの足跡の化石も見られると…正にジオサイトです!。賀嶋公園入口駐車場に戻る。



 賀嶋城 芦屋城 轟城

賀嶋城  豊岡市竹野町竹野 字賀嶋(五和)

賀嶋城は猫岬半島の付け根:竹野川河口(竹野港)との間に半円状の独立丘陵があり北の公園入口駐車場と 南の竹野港側の五社下駐車場から参道が通じる標高53mの山頂部に土塁囲みの主曲輪内に五社大明神「愛宕・住吉・春日・八幡宮・天照皇大神宮」を祀る五所神社が鎮まる。五社下駐車場からの参道坂道が大きく屈曲する右手切岸上の虎口受曲輪と左手上部の
猫岬半島:左端の半円が賀嶋城

小曲輪下の枡形状を二折して正面石段参道を上がり主曲輪に入る。侵入者に対しては左右の曲輪から狙われる。突破しても急斜面上の正面主曲輪から射掛けられる有効な虎口形状。 主曲輪には狛犬を配した五所神社。西面には防風を兼ねた大土塁・東面にも低土塁が神社背後まで廻り、背後には埋れかけてか?土橋付堀切(幅7-8m)が主部を遮断しているが、
主郭の五社神社と西面の大土塁

堀切北に露岩帯があり北へ傾斜もあり本来なら堀切は此処に造成されたのかも?尾根筋北端(北の駐車場からの参道尾根筋の直ぐ下部)にも広い平坦地形がある。足下は「カシマカンコウ」の建つ岩場断崖上で海岸線西・北への眺望が効く唯一の場所?。堀切西面は海岸岩場へ、東側は藪なので見通せないが賀嶋公園駐車場側へ落ち・幅狭いが西面下部の南北を
五社神社背後の堀切

約40mほど帯曲輪に繋がる?。竪堀が存在するようだが?:神社南東側の土塁間に竪堀状?(下部帯曲輪から主郭に入る通路か虎口)が唯一。賀嶋城城域は南虎口から北は堀切を越えた北尾根先端の曲輪まで南北100m東西30m。主郭は土塁に囲まれ堀切で遮断する東西30m・南北45m。
主郭西面の大土塁:南先端は櫓台か木戸門跡か!?

西面大土塁の南端は幅広く櫓台曲輪だったか?。城主や城史一切が不明だが吉川元春書状写:御書感状写」による天正8年(1580)5月吉川元春が都野越中守・弥四郎父子への書状による「鹿島の儀、普請彼是相調え油断なく候由…」からも鹿島城が毛利方の拠点として築城されたものとされる。都野氏は那賀郡都野郷(島根県江津市)を本拠とした毛利氏家臣。
虎口受(右)を折れ小曲輪(左上)下を捲き主曲輪に入る

都野父子は吉川元春の名代として但馬に出兵し垣屋豊続等と共に織田勢に対し但馬奪回作戦の橋頭堡(最前線基地)としたと推察されているが毛利派の垣屋豊続らの要請を受けた 吉川元春は天正7年但馬へ出兵し竹野まで進出するが南条氏(東伯耆)が織田方に離叛して撤兵し、
大土塁(櫓台?)下段の小曲輪から虎口受曲輪を折れる侵入者を狙う

但馬八木氏も織田方に付き秀吉傘下に入り天正8年3月:第二次但馬征伐に羽柴秀長の出兵・秀吉の鳥取攻めが開始され、吉川元春も但馬垣屋にしても”おちおち”賀嶋の小城に居て情況を把握しながら…と落着いてもおれない。 但馬奪還の陣城どころか織田・秀吉方勢力の防戦に一砦として耐えられたか…?は伝承も残らず城史は不詳。
豊岡市の城郭集成 Wikipedia 参照


芦屋城(亀城/亀山城/阿勢井城/諸寄城)  城山176m 美方郡(旧浜坂町)新温泉町芦屋・諸寄

豊岡市からR178号「鳥取豊岡宮津自動車道」に入り佐津・香住・余部ICの連続する僅かなトンネル間の隙間から北方に余部鉄梁と但馬の海を眺めながらトンネルの終端で新温泉浜坂ICを出る。浜坂駅前を過ぎると芦屋(浜坂漁港)の西から北の但馬海岸線に岩壁を突出す丘陵部を塩谷
城山園地展望所からの諸寄漁港全景

(諸寄漁港)に越える峠から芦屋城へ車道林道が通じ林道入口の浜坂ユースホステル(?休館中)看板に気付かなかったが林道終点が城山園地の駐車場。東屋展望所から芦屋城や崩の浜海水浴場・加藤文太郎之碑へ通じる遊歩道に近畿自然歩道の案内板が立つ。R178号が越える峠から北方へ突出す半島付根付近の二つの丘陵上に芦屋城二ノ丸と最高所に主郭を置き、更に北へは太い
芦屋城北尾根の激急斜面途中に望む浜坂漁港

フイックスロープを頼りの激急斜面から但馬の海に向かい幅狭い尾根筋を辿ると城山園地からの遊歩道と切通し道で合流する。半島先端の矢城ヶ鼻の岩礁群に落込む(西に諸寄・東は浜坂漁港)尾根筋に芦屋城へのルートを示す道標はない。ふるさとの碑文太郎から先への遊歩道が矢城ケ鼻灯台に通じているよう。新田次郎「孤高の人」に描かれた単独行者の加藤文太郎は浜坂・同じく登山冒険家植村直己(日高町)の人。城山園地の駐車場からの眺望は眼下に諸寄漁港・
単独行者「孤高の人」加藤文太郎の碑

西北防波堤の西北に白い小さな灯台が建つ 岬の先端峰から一気に80m程の岩壁を海に落とす。日和山と呼ばれ江戸時代:御城米…等を運搬する北前船寄港地で往来していた当時は演歌のタイトルの様な「風待ち湊」として賑わったという。北方を但馬の海に突出す半島の付け根付近にあって 西に諸寄港・東に浜坂港を見下ろす周囲は断崖・絶壁の天然の要害となる山城だが諸寄・浜坂港を利用する海上交通要衝の押さえとして海上を
芦屋城の北尾根・散策道合流点の切通し分岐

往来する物資輸送等運行を監視・警備するための海城の特徴をもつ城!。南方を望むと青垣迫る山塊が重畳と続く半島丘陵部の海抜176m頂に主郭が築かれ、主郭部西端に井戸跡とされる穴(天水受け井戸か? 半地下式の貯蔵倉か?)櫓台?とも云われるが城域拡張が露岩の為削り残ったものか?櫓台設置スペースはあるが海運や諸寄漁港監視なら重要性は薄い露岩部頂部へ高さ2.5m程の土塁沿い。
城山園地(駐車場)から散策道と芦屋城主郭部を望む

此処から西北の細い尾根筋を降る先端部に三段ほどの曲輪を並べる 潮見(?の見張所的)出郭・主郭東部の最高所(美方郡広域事務組合”はまさか”基地局が建つ)が主曲輪で昭和59年(1984)中継局設置工事に伴う発掘調査が行なわれ掘立柱等遺構や青磁・白磁・天目茶碗・古銭・硯等が多数出土している。一段東下の曲輪はNHK中継無線?中継施設で旧状は不明。尾根続きは藪地の丘陵部なので巡視路兼城山登山道を少し下って(旧巡視路?階段があり…堀切?とされている鞍部だが)
芦屋城主郭東郭(発掘調査された)

其の間の幅狭い尾根筋に土留め石積?を残す4段程の小曲輪が並び、上り返した東峰小ピークが”二ノ丸”郭で主郭に次ぐ幅も広い曲輪が2-3段続く。 西端の曲輪から南東へ帯曲輪が虎口受け曲輪まで延び二ノ丸曲輪群中央部に入る平入虎口がある。低い段差で曲輪を分ける様なコンクリートで固めた石塁が残る?。祠があったのかも?…NHK標柱が埋れて曲輪東端下にもコンクリートで壁面を固めた施設跡があり、二ノ丸尾根筋は本ノ丸主郭下の施設が出来るまで旧施設の巡視路だったか?。
主郭虎口:左手前西へ帯曲輪・正面西郭・右手最高所の東郭

二ノ丸郭の北切岸下部には土留めらしい石積/石垣がある。虎口受け曲輪のある南切岸下方に曲輪はない?が二重の堀切(残土処理を兼ねた土塁!)がある。ただ二重堀切より南下方に向かって左右にランダムに拡がり気味の小曲輪群が無数?に現われるが猪のヌタ場か。寧ろヌタ場の方が曲輪群より広いくらい…!。本ノ丸郭の東麓は居館部とされるが其の居館先端付近にも西尾氏図面には曲輪群が示されている。未確認だが長い城史をもつ塩冶氏の初期の縄張りか?。
主郭西部の削り残(櫓台?と井戸?か半地下貯蔵庫?)と土塁

其所まで廻り切れず…城遺構は割愛する!!。主郭の東麓(浜坂放送局の電波アンテナ塔が建つ最高所)から太いフイックスロープを頼りに激急斜面を降ると北尾根が遊歩道と合流する鞍部(切通)に降立つ直ぐ手前にも 極狭く斜傾斜する山抜け状態の平場を曲輪とするには主郭から離れて過ぎ?、荒れた遊歩道も此の尾根先部の腹を巻いて切通し道に出る。主郭東尾根先端:浜坂漁港側の居館部(近世の陣屋?)背後の丘陵部に点在する
芦屋城主郭西南端の二段帯曲輪の上段は主郭東部虎口まで延びる

旧城郭曲輪群?(未確認)の方が有効かも。【歴史】山名氏清は南北朝期足利尊氏の挙兵に従軍し軍功により建武4年(1337)尊氏より伯耆守護に補任され山陰地方随一の勢力となり、やがて全国66ヶ国の11ヶ国を守護領国にもち「六分一殿」と呼ばれる山名氏。塩冶氏遠祖は近江源氏嫡流:佐々木氏一族で宇多源氏の成瀬が蒲生郡佐々木庄に住み、承久の乱の功に対し成瀬の孫:秀義の五男:義清が出雲・隠岐守護に補され、
 主郭西端櫓台?下から諸寄漁港と北西尾根先の出曲輪を望む

義清の孫:出雲守護頼泰が惣領として塩冶郡を根拠として塩冶左衛門尉を称し塩冶氏の祖とされる。暦応4年(1341)幕府の重臣で出雲・隠岐の守護に補されていた塩冶(判官)高貞が京都を出奔し出雲に逃れ尊氏への謀叛を疑われ山名時氏と嫡男の師義・桃井直常らにより出雲で討伐され塩冶氏嫡流は没落した…が高貞の弟:塩冶時綱は生き残り子孫は出雲国に存続し後:出雲守護職京極政経から 守護代を任ぜられた塩冶掃部介がいるが因幡塩冶氏は割愛する。
北西尾根先の出曲輪(帯曲輪は冬季の風除用?)

山名時氏の正平(南朝1346ー70)/貞治(北朝1362ー68)に伯耆・丹波・丹後・因幡・美作5国の守護職を得ているが南北朝期や守護大名同士の抗争により山名氏勢力拡大に注力し出石郡の此隅城を本拠として:各国内に城を築き朝来郡(武田城)に太田垣氏・養父郡(但馬八木城)に 八木氏・気多郡(日高の楽々前城)に垣屋氏…因幡国境の但馬北西端二方郡(新温泉町・芦屋城)に塩冶氏を置いた。塩冶判官高貞没後は甥の塩冶通清の四男:周防守の子(孫)?某を祖として
二ノ丸への小曲輪群(登山道脇の堀切?):残石と土留石列

但馬山名氏の有力被官:塩冶氏は「周防守」・「塩冶左衛門尉」・「塩冶肥前守」・「塩冶前野州太守」・「塩冶彦五郎」…の 名が散見され戦国時代に登場する芦屋城主:塩冶高清はその末裔とされる。南北朝期頃より続き恩賞として任命され与えられる官位官位「周防守」…が其の後も続いたものか?武家官位としての 「周防守」が連綿と引き継がれてきたかは不詳だが芦屋の”龍潜寺”開基として祀られる芦屋城主塩冶周防守は
二ノ丸郭中央東北面の石垣?

天文8年(1539)に亡くなっている。因みに高清(周防守)の父:綱高は(若狭守・左衛門尉)・髙清の長男は安芸守。元亀2年(1571)塩冶肥前守(尼子方!・織田信長方)のとき毛利方の因幡山名氏当主の豊数や鳥取城主武田高信が布施城に居た山名豊国が攻撃を察知し豊国と 通じ芦屋城に逃れ?高信の嫡男次男らが芦屋城を攻撃するが塩冶勢には二方郡(美方郡温泉町…)の七釜城主田公筑前守・
二ノ丸:西面虎口受曲輪?からの南尾根に二重堀切

温泉城の奈良氏・指杭城主矢谷伯者守・栃谷城(おどろが城)塩冶左衛門ら援軍に撃退され逆に高信の息子二人が討取られた庭中合戦。但馬塩冶氏国最後の芦屋城主:塩冶高清は天正8年8月羽柴秀吉の弟秀長による第2次但馬攻め:宮部善祥房継潤の攻撃に落城するが要害の城の攻略に攻めあぐねていたが別名を亀ヶ城「亀の首を 切らなければ落ちない…亀の首は“坂の上(主郭の南方(二ノ丸)のこと!)”」だと話してくれた茶店のおばあさん。
二ノ丸:主要曲輪南斜面の二重堀切

其の水源を絶ったことで落城したと云う!!。茶店には男の子が生まれなくなり家は絶えた…と。よく似た話に:天正年間明智光秀の黒井城(丹波市)攻めに際し鉱脈・水脈を熟知する 鉱山師集団の女首領:橋爪某を詰問して城の水の手を聞き出し・水の手を止められ落城し後、赤井・荻野氏の残党により橋爪一族は処刑された。参考(現地:城山園地案内板 郷土の城ものがたり-但馬編:兵庫県学校厚生会)。塩冶高清は共に山名氏配下の
:二重堀切下方に拡がる小曲輪群は?芦屋古城の遺物!?

但馬水軍(根拠地は城崎の津居山で最盛期は丹後水軍・隠岐水軍としても隠岐・丹後・若狭に勢力を延ばしていた)奈佐日本之介だが鳥取城落城により山名豊国は秀吉に降伏した。周防守は山名氏の後:新たな鳥取城主毛利方の吉川経家を頼り因幡に逃れ、翌天正9年羽柴秀吉の鳥取城攻めでは鳥取城への兵糧輸送・備蓄基地としての”繋ぎの城”として機能した支城の雁金城・丸山城(奈佐日本之助の城)を重要視した秀吉は宮部継潤に命じ此れを攻撃させ、高清は此れをよく禦ぐが
主郭西端の櫓台?露岩頂からの諸寄漁港

激戦に:いずれも落城し吉川経家は降伏・塩冶高清は丸山城に退くが此処で自刃します。後:高清の子:塩冶安芸守やその弟の塩冶高久は吉川氏家臣となり周防岩国に移った。芦屋城は其の後:鳥取城代となった宮部善祥坊継潤の持ち城となり「関ケ原の戦い」に宮部氏が自害し慶長10年(1605)山崎家盛が因幡・若桜(鬼ヶ城主)に入り
主郭西の南面二段帯曲輪は主郭東部間の虎口まで延びる

二方郡内6014石を分領された弟:宮城(右京進)頼久が芦屋城東山麓(芦屋)に陣屋を構え、寛永4年(1627)三代宮城主膳正豊嗣(頼久の嫡男)のとき陣屋を芦屋から清富に移して芦屋陣屋は廃された。
【参照】但馬国ねっとで風土記(とよおか市民学芸員講座)・但馬の城ものがたり(塩冶氏と芦屋城)・”兵庫県の中世城館・荘園遺跡”・郷土の城ものがたり(兵庫県学校厚生会)・現地:芦屋城案内板…資料により年・人名等に差違があり未確認 間違いはご容赦を… 


轟城(青葉城/諸寄城)   城山147m 豊岡市竹野町轟字城山

北近畿自動車道R483号「日高北IC」を過ぎ上佐野トンネル入口直前:山の斜面の見覚えに気付いた。此処は日高町藤井と竹貫の境・トンネル上から続く丘陵先には竹貫城・水尾城があり抜け出たところが但馬空港IC。
手前:竹野川・轟城山麓:大谷川が合流する右手東山麓に畝状竪堀を見る

水尾城から竹貫城へトレースし、其所から南へ延び出す尾根先端付近にも曲輪群がありそうと出掛けてきて、上佐野トンネル南入口から取付き藤井東城(仮称)を発見。水尾城の数週間前に寄った宵田城は垣屋氏庶流の垣屋頼忠(弾正忠)が拠ったといい山名氏一族:轟城主駿河守時熙(ときひろ)と 氏清・満幸の内紛を利用し山名氏の強大化を嫌った将軍足利義満が山名氏清等に時熙の討伐を命じていたが、時熙が義満に許しを請い此れを許した事を氏清らが怒り
轟城:南郭先端土塁から観る二重の土塁付外ハ字型!堀切・竪堀がある

室町幕府(足利義満)に対し挙兵した明徳の乱(1392年)に家臣の多くは氏清方に属したが垣屋賴忠(弾正忠)は山名時熙に従い参戦したが討死。 足利義満は細川賴之・畠山基国・赤松義則・斯波義重・一色詮範・山名時熙等に討伐を命じて乱は一日で決し 氏清・満幸等は逃走。明徳の乱で没落した山名宗家は時煕の家系に受け継がれ但馬・安芸・岩見・伯耆・
南尾根:南三段曲輪南先端土塁(左切岸上の土塁線・左手に南虎口)

因幡…等を領有地を取り戻す。垣屋家も明徳の乱を契機として山名家筆頭家老として応永年間(1394-1427)垣屋隆国が”築城年代は定かでないが「楽々前城」を築き嫡男満成(熙続)が継ぎ永享2年(1430)宵田城に二男国重・応仁の乱前後(1467ー77)には築かれていたか?轟城に三男(豊茂)国時(応仁の乱に山名(宗全)持豊の被官として参戦)を配して支城としている。
南三段曲輪と主郭南端に入る虎口間の虎口受曲輪!?

但馬轟城(青葉城 147m)は賀嶋城(毛利氏の但馬進出拠点:家臣・都野氏の城!)ともに毛利方として竹野の海岸線沿い(現:山陰海岸ジオパーク:但馬漁火ライン)に鳥取境界の諸寄まで要衝を監視・防備する城砦だったか?。R178号から「森本」交差点を竹野川沿い県道1号に右折する。見えてくる轟城へは大谷川の合流地点付近から”たけのこ村(2022年廃園?)”側の
轟城:主郭北西尾根の二重堀切・左東尾根側にも同様のU字堀切あり

東大谷集落で道を尋ねた民家背後の丘陵頂部が主郭!だが北東尾根の蓮華寺(垣屋氏菩提寺)側「竹野生コン」会社裏手に神社参道があり例年4月の祭礼前には地元で山頂の主郭に祀られる秋葉神社参道を普請される大手からを案内されたが、東大谷集落の入口部に廃屋(殆ど崩壊)があり山裾の墓地への参道板橋が架かる。城域三方を竹野川と大谷川が
主郭北西尾根先端曲輪(東面切岸)の土塁?

天然の濠となり半独立低丘陵だが急斜面と高い切岸が守備を堅める!!。 大谷川からの南枝尾根筋を二重堀切への最短を進むが谷筋は朽ち倒れ込む竹藪に通過は困難・急斜だが右手から取付き幅狭い尾根筋を辿る。土塁付末広がり(外ハ字型)堀切から三段の曲輪( 曲輪段の南北両端にも櫓台状?土塁があり土塁下方に馬蹄形というか?外ハノ字型!の二重堀切がある。
Ⅱ郭から主郭に入る坂虎口・主郭右隅部が張出す

内側土塁が防禦力を補強した南端曲輪で東西の切岸高く綺麗に残り曲輪東端にも土塁がある。切岸高い崖が独立曲輪の様で曲輪ごとの規模が大きく、曲輪間は連郭式というより梯郭式曲輪段で配置され、幅広い坂虎口(秋葉神社参道として 拡幅改修された?)を主郭に入る。急斜面を斜上し一折れする虎口受曲輪!?からは左へ斜上し主郭に入る通路・右端は主郭虎口から監視台状の造出し部があり、
大手Ⅲ曲輪からⅡ曲輪に入る切岸と手前に坂虎口

高い切岸真下の副郭角にも土塁が、その下段曲輪からも坂虎口が・主郭下段の副郭からも秋葉神社への参道石段を伴う 拡幅によるものか?幅広い坂虎口が付く。副郭から北尾根筋まで腰曲輪(大型の二曲輪を繋ぐ帯曲輪!?)を廻し、下段曲輪からも坂虎口が此の帯曲輪!に繋がり、共に坂虎口からの入口上部には 高い切岸上には曲輪部から横矢掛け・櫓台状小曲輪?が張出す。主郭からの北・東尾根(大手?)側曲輪のいずれもが相当に広く切岸も高い。
秋葉神社を祀る主郭の切岸

轟城の遺構特徴に南と東尾根の先端には堀切を尾根筋左右に落とし堀切・竪堀ともなるU字型竪堀がある。此のU字型堀切両側に竪堀!を落とす東斜面は谷筋ではなく尾根幅の内側に浅い4本の竪堀(畝状竪堀)が配され 他地域・他城にも類例少ない?珍しい遺構。此のU字竪堀内に畝状竪堀を持つ遺構を見下ろす切岸は高く、連郭式というより梯郭式曲輪群?
Ⅱ郭から坂虎口を主郭に入る

先端曲輪の背後の切岸斜面に石垣かと思えたが大小様々な石が一箇所に集積されている?。石積みが曲輪域確保や砂防土留め石で石垣とも思えず石礫は畝状竪堀や大きな落とし石は侵攻する敵に対し狙わなくても 落としさえすれば左右に拡がる堀切が上で振分けてくれる!?。竪堀の下方に登城口のコンクリート工場の屋根が見える位置にある。東尾根は大手道?だが
左右はU字状堀切:内に 4条の畝状竪堀がある!!

畝状竪堀より下方に曲輪等はなく尾根筋最先端に位置する最大の防禦ライン!?。北西尾根は主郭からも腰曲輪からも激急斜面を下るが城域最大規模の大堀切があり、小曲輪を挟み堀切と土塁曲輪と北端に堀切が付くが三方の尾根筋のうち此の北西尾根筋にU字型竪堀はない。南尾根先曲輪の切岸は綺麗。轟城では細長い三段曲輪の両端には土塁が
東尾根先端部のU字状堀切:尾根筋に4本の畝状竪堀

付く。また曲輪下で分岐する尾根の南側に二重堀切・南東に一つ堀切があるが何れも土塁付きU字型(堀切・竪堀)がある。山名氏は嘉吉の乱(1441)の功に与えられた播磨だが応仁の乱(1467ー69)に赤松氏が播磨を回復・領国の奪還を図り播磨へ侵攻するが押し戻される等…弱体化する 山名家臣団に対立が生じ 山名四天王(垣屋・田結庄・太田垣・八木)四家が対立するようになると 守護:山名氏とは対等の地位・勢力を持った垣屋氏が台頭する。
主郭北西尾根の大堀切

永禄12年(1569)毛利氏が山名氏を押さえるため 織田信長の援助を要請し部将:羽柴秀吉の但馬侵攻に此隅城を追われるが翌年には許され旧領但馬を回復し築城したのが有子山城。天下布武を進める織田氏か・中国地方の覇者 毛利氏に付くか…但馬の武将達は揺れ動くなか、織田色を強める田結庄是義(鶴城)と毛利方との連携を重視する家臣団筆頭轟城主垣屋駿河守
主郭北西尾根最先端堀切

豊続・宵田城主垣屋忠顕?・八木城主八木豊信・太田垣輝(?照)照延は信長から後毛利の吉川氏に通じる竹田城主が対立し天正3年(1575)垣屋豊続(毛利方)が織田方の田結庄是義家臣:栗坂主水の海老手城を攻め、鶴城の田結庄是義に救援要請したことで鶴城を攻めた「織田vs 毛利」の代理戦争とされる野田合戦に是義は菩提寺の正福寺に退き自刃し田結庄氏は滅亡した。
主郭北西尾根先端曲輪土塁(櫓台?)

垣屋豊続(惣領家は反毛利として一族で反目し合ったようだが)は衰退する但馬の主家:山名氏に代わり毛利方に統一する。海老手城と鶴城は垣屋氏の持城となり対織田防御ラインを構成する繋ぎの城ともなった。天正5年(1577)部将羽柴秀長軍による第一次但馬侵攻に有子山城:山名氏政は因幡に出奔し開城、城に残った祐豊は落城後・日経たず病没した。宵田城主垣屋峰信(鶴ヶ峰城主:光成の弟)父子等主戦派は”宵田表”の合戦に抗戦し一時的に羽柴軍を退けたが
東大谷集落(大谷川)から轟城主郭::直ぐ近くに見えるが!

敗れて楽々前城に敗走し討死したという。天正7年には垣屋豊続の再三の出兵要請を受けた吉川元春が但馬へ出兵し竹野まで進出したが南条元続(羽衣石城主:東伯耆)が父:宗勝の死が毛利方の謀略とみて毛利氏に離叛して撤兵 ・吉川元春の但馬救援も途絶える。八木氏も織田方に付き秀吉傘下に入ったものか?、天正8年(1580)部将羽柴秀長による第二次但馬侵攻に山名氏は戦わずに有子山城を
主郭南角の張出しの横矢掛と坂虎口(石段は秋葉社参道用!)

開城したが織田方に徹底抗戦の轟城主垣屋豊続は但馬の軍勢を西村丹後守の籠もる水生城に集結させ最後の抵抗を試みた水生古城の戦いに落城し、豊続は城を脱して余部城・更には田井城(浜坂)へ移り徹底抗戦したが最後は降伏した。但馬の国人領主等は所領を没取され秀吉の「因幡攻め」に送り込まれ…岩常城(鳥取市)に垣屋光政?(豊続の 従兄弟?)・私部城
南曲輪群南端土塁下の二重のU字状竪堀

(八頭郡八頭町)に山名氏政・若桜鬼ヶ城に八木豊信らを城番に配置。鳥取城落城後:但馬の国人等は因幡国内に知行地を与えられ但馬に復帰は果たせなかったが、秀吉の但馬侵攻に最後まで毛利方として抵抗した山名四天王:筆頭垣屋豊続ひとり但馬に留まり、しかも秀吉から厚遇され美含郡(竹野・香住)を安堵し後、宮部継潤に従い鳥取城攻めに参軍。垣屋豊続は竹野を拠点として芝山・香住・浜坂・諸寄にかけての沿岸部を押さえ、地の利と海洋領主として海上輸送に関わっていたと推察され秀吉も此の事で重用したか。「垣屋文書:神戸市立博物館所蔵」に秀吉の豊続宛て書状には宮部継潤に但馬沿岸部の美含郡(竹野町・美方郡香美町の香住区や新温泉町久斗山)を与えた上で宮部氏配下で働くことを条件に其の内から竹野を含む2000石が与えられており天正9年鳥取攻めの宮部氏ら軍勢や兵糧米を因幡に搬送(海上輸送)は 垣屋豊続の関わりが推察される
(参考兵庫の中世城館荘園遺跡 兵庫の城紀行 郷土の城ものがたり但馬編 現地案内板…)
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