能勢杉原城・吉野城/田尻城・田尻東山城/井内城/宿野城/上杉下所城/平通城
大阪府豊能郡 (五万図=広根)
近畿の山城 :杉原城と吉野城 :田尻城と田尻東山城
 井内城と下見砦 宿野城
上杉下所城と平通城  eminokan

杉原城傍の仏称寺
平成14年(2002)能勢町人権広報部発行の「広報のせ」No.462号”文化財への道”で 杉原城の存在を知っていたが今回まで訪城の機会を失していた。猪名川・能勢の山城を皮切りに中世山城に魅せられた同志の誘いに乗り能勢の山城を何箇所か案内してもらった。
吉野城(居館)の森と城主:横川氏子孫宅から…


篠山市からR173号線(綾部街道・能勢街道 )を山辺川沿いに山辺・栗栖へ降りてくる。 此の周辺の山辺・今西・森上 片山・上杉や三草山】等の山城を以前に訪れてはいるが、此処から東方へは野間中周辺を除いて・登山以外に走るのは久しぶり。
田尻城の南尾根続きの土塁と大堀切

明月姫伝説で知られる明月峠から 明月砦を訪れた後、府道106号線(田尻川沿)に待合せ場所の能勢高校前に向かった。後で寄った田尻城や田尻東山城は田尻交差点を挟む東西の丘陵部に在る。府道106号線を北へ走り抜けてR477号線の合流して約500m程?には吉野城。R477号線を南に引き返し 歌垣山?妙見山奥の院へ続く丘陵を越える堀越峠を東へ下ると亀岡市西別院町へ出る。 その市境に在る仏称寺の背山に杉原城が在る。
井内城:主郭切岸と堀切の内に有る井戸?跡

再び引返して府道 54号(薗部能勢線)を大路次川沿いに宿野の井内城を打止めとして真夏の城廻りを終え同志のバイク ・デポ地の能勢高校近くへ戻ってきた。少し時間と余力は有ったが近在の城址ポイントもチエックしていないので 位置不明 ・判らない直帰してしまったが、地図を見直せば再訪にはなるが・レポートや画像等に不備の多い丸山城 ・地黄城も近場に在った。



杉原城と吉野城田尻城・田尻東山城 井内城と下見砦  宿野城 
上杉下所城と平通城

境目の城・杉原城と吉野城
杉原城  城山 370m  大阪府豊能郡能勢町杉原

R173号(能勢街道)から府道 4号線に入り明月峠から明月砦を往復した後・田尻に下りて合流する府道106号を北上する。能勢高校正門前を過ぎた先の交差点で右折して府道732号を堀越峠に向かう。峠からは以前:妙見山奥の院から下り・峠北側へ続く丘陵尾根を歌垣山までを往復したことがある。 歌垣山は万葉の昔・男女が集まり「歌合わせ=かがい」が行われた山で、筑波山(茨城県)・杵島岳(阿蘇五山の一)とともに歌垣三山の一つ。堀越峠を下り杉原地区に入る。
複雑に屈曲して三ノ曲輪に入る虎口

亀岡市西別院町犬甘野に向かう市境も近い位置。車道右手上方に数軒の宅地に向かう急斜面のうえ 幅狭い地区道に入ると”○○学校跡”の碑が立つが、無住の仏称寺が在り高台上の境内が駐車スペース。其の背山が杉原城で寺からの比高は40m程。 境内の杉原城側丘陵裾には昭和 63年(1988)調査された高橋成計(しげかず)氏作図の杉原城縄張図付き城址案内板<平成12年3月>が立つ。寺の背山が城址で府道から10m程の仏称寺からでも比高は約40m程。
三ノ曲輪から八幡社を祀る腰曲輪と二ノ曲輪(最上段)

寺の山門(石柱)を出て直ぐ藪の激急斜面に獣道か ?踏み跡か?侵入口は有るが、民家傍から城域の鎮守:八幡社への参道が通じ、虎口受けとなる腰曲輪端に入り、城址最大の見所とも思える虎口(二折れ・三折れ屈曲して深く狭い溝状を上段の曲輪に入る)を経て、広い削平段の 三ノ曲輪に乗ると2m程の切岸を石階段で登ると八幡社の祠が祀られています。城山の字名はあるが土地の人々に城址としての認識は無かったと云う。 縄張りは中規模程度だが能勢町に此れ程の残存状態良好な虎口・曲輪と切岸・土塁・堀切が見られる城遺構は少なく、案内板さえも設置されている。
尾根側の浅い空堀?から堀切・土塁・主郭

其れだけに虎口に至る通路・虎口より北下方に2-3段ある曲輪、主に虎口を入った三ノ曲輪と祠の建つ腰曲輪 ・更に其の上段に築かれた当城最大の二ノ曲輪(東西約20mX南北には主郭【堀切側の土塁を含み約10mX約 18m>を挟む様に延びて約50m】がある。 掘切を越えると緩斜な尾根が延びるだけだが埋もれ浅くなった空堀を見る。土橋付き堀切とするには溝浅く橋の幅が広過ぎる。両サイドの斜面に落ちる片堀切?・案内説明文にある竪堀施設か?。
主曲輪の土塁と堀切

続き三の曲輪が八幡社造立や其の参拝・祭礼等の行事や二ノ曲輪は植林作業場として遺構が改修されているのかも知れない ?と思えた。とは云え広報誌にはその後も:長年(現在も)永続して”文化財への道”シリーズを掲載され、遺跡・寺社・植生・伝統文化や伝承 ・・等、土地に根付く郷土の誇りとしての啓発や、文化財擁護に理解を求め勧められている能勢町の対応には敬意を評します。杉原城の城史は不明ですが、能勢町東端・北摂と京都丹波国境に位置する杉原地区は能勢街道 (R172号)と摂丹街道(R423号)を府道732号で東西に結ばれています。
主曲輪の土塁 ・尾根続きの倒木側にも浅い空堀 ?(竪堀?)が有る

摂丹街道(R423)から現在西へ通じる道は南に豊能郡豊能町から能勢妙見の北 ・野間峠を野間中へ府道605号(茨木能勢線)が、北は亀岡市内から湯ノ花温泉を経て本梅町でR477号に合流するR372号(篠山街道)が通じるだけに、要衝を繋ぐ間道としての利用度は高い。杉原地区から国境を越えると亀岡市西別院町。 此処に長沢氏(中沢氏 )関連の犬甘野城や笑路城が在る。
杉原城虎口を抜けると三ノ曲輪・目の前に八幡社の祠が建つ腰曲輪

長澤氏について詳細は避けるが:鎌倉時代 ・承久の変 (承久3 1221)の戦功により多紀郡大山荘の地頭職を得て武蔵国(埼玉・那珂郡)中沢郷(児玉郡児玉町・美里町附近!!)より、元仁元年(1224)来住した武蔵七党の一中澤氏 大山城(篠山市)を築き、弥勒寺別院荘(西別院周辺!)・三井庄(丹波市春日町)の一部を領して一族を配し、 貞応年中(1222-4)本目庄(本梅)の神尾山城を築いた中澤氏に実子無く養子に越中国長澤氏を迎えて以来・長澤氏を称したと云い、犬甘野・笑路・神尾山の各城主:長澤氏も大山城の中澤氏も同じ一族と推察します。
吉野城屋敷跡曲輪?と最上部に長く延びる低土塁

また杉原地区は慶長7年(1602)頃迄は中澤(長澤)氏一族の本拠地であった桑田郡犬甘野村(現:亀岡市西別院町犬甘野)に有り、亀岡市との国境に在って、犬甘野城側の”境目の城”・砦とも考えられている様ですが、中世丹波の中澤氏は波多野氏幕下にあり、本梅の本目城や同・西加舎の数掛山城に拠る波多野氏側の出城として、また波多野氏滅亡後・明智方に降りた中澤(長澤)氏が亀山城 (亀岡市)の南西の監視砦として(改修して?)利用したとも思われます。
吉野城西曲輪と一段上の空掘曲輪・手前の南端土塁は櫓台曲輪まで続く

R477号を本梅町東加舎から南へ国境を越えると嘗て要衝の地に吉野城(能勢町吉野)が在り、波多野氏幕下に有った城主 :横川氏は明智軍の八上城波多野氏攻めの余波を受け
て落城。昭和期の調査では其の際のものと思われる焼土が検出されたと聞く。能勢町東端R477号沿いの歌垣山西麓から北山裾の吉野地区にかけても京都桑田郡であったか ?地勢は調べ切れていません!!。
【現地:杉原城案内板 を参照】


吉野城(蔵王砦)  xxx 290m   豊能郡能勢町吉野

池田市・川西市からR477号(豊能郡能勢町と豊能町の中央を抜ける能勢街道)を北上すると ”吉野の関”が在った大槌峠(関所跡碑・案内板が立つ)を越えて野間中交差点に下りてくる。西は府道106号線田尻から猪ノ子峠 (此処には田尻東山城<田尻御所>が在り、今回の城廻りで寄る)を越え、東は能勢妙見口の野間峠を、北に向えば国境の大槌峠(ひいらぎ峠)を越え
吉野城:高い段差の田の中の杜に蔵王権現社が祀られる

京都府側本梅町から 篠山市や園部方面へ、途中の堀越峠を東へ越えれば亀岡市を経て園部へと ・・・四方からくる街道が集まる要衝の地。ひいらぎ峠とも呼ばれ丹波側にはトゲ有り摂津側には無く、此の柊(ひいらぎ)に隠れて 大江山の鬼を防いだとの能勢の民話が伝わる。また大槌峠(吉野の關)には關明神<道祖神>が祀られ、 平安時代:寛治5年(1091)吉野式部源ョ吉が祠を再建したと云われ居館が吉野城とされるが現在の吉野城と同位置かは不明。
切岸も高い堀切は城域遮断より関所城として南北に抜ける街道筋通路の様?

堀越峠を越えた杉原地区は旧桑田郡 (京都府)で杉原城は犬甘野(亀岡市西別院町犬甘野)の中沢氏(長沢氏)が寄った出城とも推察される「境目の城」です。R477号で吉野地区を抜けると大槌峠で、亀岡市本梅町の加舎に出て瑠璃渓付近で園部・篠山市に通じる街道と、 湯ノ花温泉付近で亀岡市内や本梅町から宮前町を通る篠山街道を篠山市や綾部・福知山市方面へ向かう要衝に出る。永正5年(1508)細川家の内紛には 高国に付いて郡奉行難波氏を追放し八上城を拠点に勢力を張った波多野秀治に仕えた初代横川備後守正広が 此処に築城した居城。
吉野城:曲輪は全面と南北両端を土橋で残すだけの空堀曲輪?

天文 21年(1552)細川晴元に西加舎に領地を認められ数掛山城を築いた波多野与兵衛尉秀親の勢力下にあったものか?。吉野城もまた丹波・摂津の要衝の分岐点にある「境目の城」・数掛山城の支城として任に当たったものか?。秀親は天正年間(1573〜9)陣没したと云われ、天正7年(1579)明智光秀は 「丹波攻め」に 籾井城籾井越中守「丹波の青鬼」を討ち、波多野氏方だった「荒木鬼」 荒木山城荒木山城守等を仲介として城主波多野秀治・秀尚の兄弟を、
西端曲輪から空堀曲輪に入る上り土塁側に遺される五輪塔(中央右)

本目城(神尾山城)に招き入れ捕え安土城に連行して殺害した。義弟 :二階堂秀香等多くの将兵は二ヶ月余りの八上篭城の末・城に火を放ち自刃した。横川氏の討死が天正5年(1577)籾井城や荒木城(井串城)での激戦期か八上城籠城戦の頃かは不詳です。吉野城は昭和中?後期にxx大学による調査で焼土が検出されている。
吉野城の空堀:北端から土橋と主郭側切岸

此処で合戦が有ったとも思えず城に火をつけ ・何処かの城に合流したか八上城に篭り、討って出て討死したものか?。吉野城主2代目の動向が不明ですが、3代目(正広の孫 )横川久助正次が旧領に復帰しているので、波多野氏滅亡後は明智方に降り・秀吉方に付いていたものか?。故不明ですが正次は就寝中に槍で謀殺されたと
西端曲輪から空掘 ・主曲輪までの南切岸下を囲む土塁

古文書には記されていると聞く。R477号線が通る国境の要衝で・吉野の関が置かれた柊峠(大槌峠)に近い吉野地区。 東山麓に妙華寺が在り、北に向かってへ高い段差(5m程)の棚田が3-4段続く中程には、樹木が茂る小さな杜には蔵王権現が祀られ蔵王砦の別名がある。其の北端には東から北面にかけて横川家を囲う丘陵裾が迫る此処に吉野城が在る。寺から横川家迄延びる棚田の棚田の最上部・山裾沿いの下草藪に埋もれているが、一部低土塁が妙華寺まで延びていて 極近時代迄は遺されていた様で今も随所に土塁の残欠を見る。
吉野城堀切の南口 ?から続く土塁線は山裾を妙華寺まで長く延びる

鹿や猪除けのトタンやネットのフエンスが張り巡らされている当家横川氏の持山へは、自家の池庭から案内していただき。上段の畑(鹿・猪の被害甚大で畑地は花壇になっていた )から東西に延びる土塁(高さ1-2m)の間・トタン塀越えて入る曲輪からは東上方へ続く尾根側の切岸に五輪塔らしい二基の墓石が残る。 2-3段の切岸を落とす段曲輪を観るが、墓石上の曲輪は其の殆んどが南北端を幅狭い土橋として残した深い空堀が占める。
蔵王権現を祀る小さな杜の先 :妙華寺まで土塁線は延びていた

主郭側へは空掘に板橋が渡されていたのかも知れません。急傾斜の切岸先には城域最大規模の曲輪(20x30m程)があり、背後の高い切岸 ・南北の端は掘り残しを土塁として曲輪を囲う。中央南付近に円形の溝(10x5m程・深さ3m程?)が遺る。大事な曲輪域を占領する井戸跡とも思えず 半地下式の倉庫かと思える。其の背後の曲輪は広い櫓台状マウンドを遺し、大きく深い堀切が城域を断つ。堀切というより此の堀底道は・山裾を妙華寺へ延びる長い土塁線と 絡めて考えてみると、
吉野城櫓台?から堀切(堀切道?)と尾根側への切岸

南北に通じて能勢街道”吉野の関”を結ぶ「関所城」の様相も見えてくる。 堀切から東南への尾根続き最高地点には望楼が有ったらしい・・が雑木藪に覆われる尾根上へは未確認。堀切を南へ・土塁の東南の延長上には落葉に埋もれた墓石・石佛群が集められていたが、空堀曲輪の切岸下に見た墓石同様 ・横川家一族の供養碑とは思えますが此れも不明です。
(能勢町の山城<高橋成計氏調査報告資料 > 横川家末裔の山主さんの案内 参照)


田尻城と田尻東山城
田尻城  xxx 283m   豊能郡能勢町下田尻中村

R175号の栗栖から 府道4号線で明月峠を越え下田尻へ降りてくる途中の「北脇」付近から南へ入る地区道か府道106号線を少し南下して豊能田尻簡易郵便局手前から 北への地区道を辿り、長久寺を目指し寺院駐車場から左手にある墓所を抜けた背後の丘陵上・寺からの比高約60m程に田尻城が在りました。
田尻城:東の土塁・土橋付き空堀

踏み跡は有るが・・無くても疎林の斜面は差ほど急斜面でもないので歩き易すく、山上の城址位置は目星が点く円錐状の斜面の上。ダイレクトに?向かっても6-70m程だが、斜上する踏み跡を辿ると外側に土塁を積む空堀に向かう。正面には高い切岸を傍立てる主郭が在り最下段帯曲輪北面先端の切岸が見え・
東の土塁・空堀の尾根筋土橋付きで主郭切岸下を北に廻り虎口?に向かう

手前の東端 (空堀を正面に見下ろす位置)が少し出っ張っている。長久寺から空堀底を横掘に入り・空堀最高地点の東南端(尾根筋)にあたる土橋状から 主郭の西から北へ廻り込むように、出っ張り部の曲輪角に至り・溝状を抜けて北先端部の曲輪に入る虎口と思えます。浅いが同様の溝は中央部(北端曲輪の正面)にも有るが・此れは崩壊か山林作業用の通路か?。
横堀から主郭の切岸を望む

田尻城の縄張りは最高所に広い主曲輪(約30X30m程)を中心に3段程の曲輪が囲む輪郭式で、北面下段の2段程は 切岸を立てる山城の堂々の様相だが、南から西面と山上部一帯は雑木藪と夥しい倒木に遮られて、荒れるに任せた状態で曲輪遺構の全体の様子は確認出来ず ・通り抜けるだけでも容易でない。主曲輪の尾根側には特大の土塁と大堀切が有る。土塁だけなのか?
帯曲輪北面最下段の切岸と突出す曲輪(左端)間に入る虎口?

更に尾根続きに曲輪等の城遺構があるかは未確認だが地形的には 尾根側に高低差も殆んど無いまま左右に拡がる斜面上には無さそうで、離れた位置からの目視だけでは遺構の確認はできなかった。倒木は主郭側切岸から此の大堀切に雪崩込むように覆い被さり・重なり合う。
田尻城南端の大堀切(尾根側土塁から)

堀切は左右の谷に粗同じ堀底幅で落ちるのが通例?ですが、此の大堀切は尾根西斜面直ぐ下方で急に細い溝(竪堀とみるか!!?)になっている。充分堀切れていない状態での水を含んで自然欠壊崩した溝なのかも知れない?。
田尻城南端の大堀切と土塁(主郭側から)

摂津・能勢氏についての概略:摂津は源満仲が多田荘を拓いた 多田源氏発祥の地。嫡男頼光を摂津源氏の祖とし、多田ョ綱の孫国基が摂津国能勢郡の地を領して能勢氏を称して一族が田尻荘を本拠にしていたと云う。 能勢氏は在京の御家人として足利幕府に出仕し、田尻荘の地頭職を得て所領の田尻・野間地方に勢力を拡大していく。一方在地に勢力を持つ摂津衆の一 ・山下城主塩川氏とは領地を境して長年に渡り対立し・小競合いが続いていた。
大堀切の東斜面へは堀底幅が急に細くなり短く竪堀が落ちる

田尻城の動向は不明ですが丸山城主能勢ョ道が天正 6年(1578)織田信長に離叛した荒木村重に同調して此れに従うが翌7年:有岡城(伊丹市)攻撃中の 丹羽長 秀・中川清秀等の軍に能勢の諸城は落城するが能瀬氏の動きは不明のままだが、天正7年塩川国満を通じて信長への帰属を勧めているがョ道は此れに応じず、天正8年9月塩川国満は能勢ョ道を山下城に招き入れて謀殺されてしまう。
田尻城主曲輪少し高く見える部分が主郭かも?

天正9年には丸山城を捨て為楽山城 (能勢妙見宮)を築いて移り、信長軍への備えとしたが、明智光秀の緩衝に応じて連携し兄能勢ョ長に兵をつけ其の指揮下に入った。 しかし天正10年(1582)本能寺の変に、羽柴秀吉軍の河原長右衛門宣勝が大軍で丸山城に迫まり落城 ・為楽山城のョ次は城を出て丹波桑田郡・大和の郡山・備前岡山へと諸国に落ち延び宇喜多家に属し・さらに豊臣秀長に仕え、
輪郭状最下段の帯曲輪切岸下の土塁と空堀を望む

天正12年(1584)能勢頼次が秀吉の九州遠征に従軍し 不在中の手薄を好機とみた多田城の塩川勢が能勢に侵攻し丸山城や田尻城等を落としたとされます。 知らせを聞いた頼次が秀吉に報告し報復の許しを得たものか?、天正14年塩川氏打倒の兵を挙げ・大槌峠?の戦闘に塩川軍を破っている?。(大槌峠は天正8年の戦い・不詳?)
猪ノ子峠の上・366m三角点峰に田尻東山城が在る

秀吉は勝手に戦を仕掛けた国満に激怒し池田輝政・片桐且元 ・堀尾吉晴等に討伐を命じて山下城を囲こみ、 秀吉に許されないと知った塩川国満は山下城を開城し自刃した。能勢ョ次は豊臣断絶後は徳川家康に従い 関ヶ原の戦いに軍功が有り・旧領能勢を回復して能勢氏中興の祖と云われ、徳川氏の信頼を得て旗本として大阪方の備えとして地黄 (丸山城側)に一国一城を領有する。
(能勢町の山城<高橋成計氏調査報告資料> wikipedia を参照)


田尻東山城(田尻御所)  東山?(点名:猪子 366m)  豊能郡能勢町下田尻東山

R175号(能勢街道)の栗栖から始まる府道4号線(茨木能勢線)は、 明月峠を越え田尻から猪ノ子峠を経て野間へ、更に能勢妙見へ出てから府道605号線と別れて、光明山・天台山へと広域林道の様な丘陵上を走って 箕面勝尾寺から茨木市へ向かう。ところで地図上に田尻から野間に至る猪ノ子峠越えの区間には4号線が消え分断されている。
田尻東山城:主郭南面の空堀と切岸

峠途中で途切れ”行き止まり”のxx号線が丘陵を越えた向かいから再び延び始まる例は探せば結構見つかるものですが、道路が続いているのに空白状態?。府道106号 (吉野下田尻線)から右折 (明月峠を下りてきた場合)して猪ノ子峠に向かう舗装道路は「くりのみ園」障害者・老人介護福祉関連施設で途切れ 広いがダートな道となる。此処までにも 離合困難な幅狭い車道の為か”通行と迂回”の注意を呼びかける看板をみる。
田尻東山城:主郭南面の空堀土塁と切岸

府道としては珍しい?未舗装区間が・此処から約2km程続く。地元の軽トラも通らないだろうと思える此のダートなルートはオフロードバイクや MTB愛好家には峠越えツーリングのスポットとして知られる存在らしい。能勢氏の田尻から野間氏の野間中へ抜ける猪ノ子峠にも”南妙法連華経 ”の石碑が立つ。此処から左手へ斜上する車道(工事中・バリケードで進入禁止だが)を進むと、長い林道の終点が高岳412mの無線中継所に至る管理道。峠の分岐で管理道を進み林道山側の斜面に取り付けば4等三角点(点名:猪子 366m)峰の位置が田尻東山城です。
田尻東山城:主郭の三角点標柱

城史不詳 ・田尻御所とも呼ばれた別称の由縁も調べきれてはいませんが、多田源氏の祖:多田満仲の嫡男頼光を摂津源氏の祖とし、多田ョ綱の孫国基が荘園整理令により永承年間(1046-53)頃・摂津国能勢郡の地(仁和寺領の荘園だったか ?)を領して能勢氏を名乗り・一族が田尻荘を本拠とし田尻東山城は此の田尻城の支城となったものか?在京の御家人として足利幕府に出仕し、田尻荘の地頭職を得て所領の田尻・野間地方に勢力を拡大していく能勢氏と同族には、猪ノ子峠を東へ降った野間郷には野間氏が、更に能勢妙見を東南へ降れば余野氏能勢三惣領の領地。辺境の府道4号線は他領地を通る事なく ・三惣領を繋ぐ軍事的にも重要な間道だったのかも!!?。
田尻東山城:主郭北面の空堀土橋

田尻御所とも云われるが城遺構は幅約30m・長さ約100m程を城域とした丘陵上部は、曲輪は目立つ段差もなく・切岸も見られない平坦な自然地形のまま。それでも主郭南面(此処は高さのある<約3m程>の切岸と 空堀(広い尾根幅を掘切っていない)が捲き、主郭の北側にも浅い空堀が土橋を伴っている。縄張りからは南北朝期【室町時代初期(明徳の乱後・南北朝が合一されるまでの1329-92頃】に築かれたものと推察されています。
(能勢町の山城<高橋成計氏調査報告資料> wikipedia を参照)


井内城と下見砦
井内城  xxx 290m  豊能郡能勢町宿野二区

R175号(能勢街道)で栗栖の北手前で城山 :能勢氏の山辺城<鷹爪城>を望みながら 川辺口で左折し府道54号(園部能勢線)に入り、大路次川沿いに宿野二区公民館の先・高村で左折し、 取付きポイントの常慶寺に向かう。寺の背後:西南の丘陵尾根上に井内城が在るが、今回は高村バス停を北に左折し直ぐ常慶寺への道を見送って山城のある丘陵裾を西奥へ向い、
北端の堀切土塁とと主郭部の切岸

宅地裏手から谷間に延びる短い林道の途中から城址位置の丘陵を目指して疎林の斜面を登る。 尾根伝には踏み跡も有るが南東末端から北西への尾根筋だけ。井内城へは短いが荒れた細い尾根を覆う藪の中に突入・50mも進めば藪は薄くなり、 疎林の尾根先に曲輪段が見える。曲輪と見えた手前は堀切で中央には・ほぼ半分を倒木等で埋もれ・隠れた穴が有る。
井内城 堀切側の切岸

空堀・特に堀切内は鹿猪等の罠として仕掛けられた落し穴は有効と思えますが、山城の防禦施設とすれば・堀切内の移動を抑える役割としても有効なのか?、丹波京都の山城では時折見かける。詰め城・籠城を意識しない砦規模の城でも監視・守備に常駐するなら、山麓や谷間へ降りていかなくても鞍部の堀切を 天水受け等により井戸としての利用も考えられます。
堀切と平行に落ちる短い竪堀(主郭側から)

単郭の 井内城は北端に井戸?跡を遺す堀切と腰曲輪・堀切と平行に西斜面に短い竪堀が走る。幅広い主曲輪(約20mX35m程)の東面に2-3段 (高さ1-1.5m程)の帯び曲輪が主郭南斜面を回り込み延び、眼下には大路次川流域の府道54号(園部能勢線 )を望む位置にある。城史については不詳ですが、宿野地区には常慶寺の東方 ・約800m程、宿野一区の 宿野城別名が井内城
井内城主郭東南端:二段の帯曲輪・最上が主曲輪

平安時代中期の永延元年(987)多田満仲の弟・満快の子である満国が築城し撰見(えみ)之館と称し、平安時代終期の建久元年(1190)には田口判官頼基が修築しながら田口氏累代の居城としたが、田口ョ亮 (よりたか)が最期の城主であった天正6年(1578)丸山城主:能勢ョ道は織田信長に離叛した荒木村重 (伊丹市・有岡城主)に同調して此れに従うが翌:
堀切と平行に落ちる短い竪堀(竪堀下方から)

天正7年 有岡城攻撃中の丹羽長秀 ・中川清秀等の軍に、能勢の諸城は落城しますが能瀬氏の動きは不明のまま。 宿野城は織田信澄(信長の甥)の攻撃を受けて落城したという・・・が「摂陽群談」に井内孫之進景忠が居城としていたとされます。 宿野城の記録は能勢町では所在が明確では無かったが宿野二区の井内城を指すものと推察されている様ですが
井内城:幅広く長い主曲輪東側には低土塁が伴う

”昭和63年(1988)調査された高橋成計(しげかず)氏”により発見されています。宿野城が此の井内城を指しているかは不詳ですが、ただ宿野城と区別するため井内城と呼称されますが、城主は井内孫之進であり・何れも宿野城=井内城なので混乱します!!?。さらに井内城は 猪倉城(亀岡市宮前町)の別名として良く知られる存在で、神尾山城の砦(出城・遺構の縄張りからは
下見砦への取付き点 :西方寺

最終は明智方陣城として改修されたか?)城主:井内筑前守は天文年間(1532-55)中沢豊後守豊綱の支配下にあったとも。 田口氏の城なら能勢氏勢力の城?。井内氏なら杉原城・吉野城とともに井内城・宿野城も”境目の城”として天正初期までは 八上城波多野氏方に、明智光秀が亀岡城主の頃は其の配下に在った城なのか ?とも思える。
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下見砦 4等三角点(点名:宿野? 279m)   豊能郡能勢町宿野三区?

304m峰から南へ延びる尾根上には井内孫之進が城主の城とされる井内城があり、304m峰から西に延びる 尾根先に位置しては下見砦が在りました。何れの城も昭和63年(1988)の高橋成計氏調査により発見された城。井内氏は中沢氏の支配下にあり、早い時期に明智方に降りたとすれば、織田方に攻め落とされたのは平安時代頃より 累代の田口氏の宿野城か?。
下見砦:唯一の遺構は埋もれかけた浅い土橋付空堀

天正に落城した最後の城主も田口ョ亮(よりたか)。「摂津群談」による井内氏の城なら、井内城も吉野城・杉原城と同様に大阪府豊能郡と京都府南丹市・亀岡市を境する国境近くに位置する八上城(篠山市)波多野氏や丹波国領主ともなった亀山城(亀岡市)明智氏の”境目の城”だったものか・・?。昨年:井内城訪城の際304m峰から西への尾根に入り込み引き返したが、 そのまま進めば下見砦だったが今回は南山麓の西方寺裏手墓地から尾根筋を目指して直登した。
下見砦:自然地形の平坦段中程の露岩部(西端三角点から)

鎮流山香華院西方寺(浄土宗・本尊:阿弥陀如来)は天正19年(1591)天誉上人<宿野八木家出身>が北村・八木家庵に隠棲し、慶長3年(1598)八木宗春の寄付により 現在地に堂宇を建て今日に至ります。急斜な石段参道を上り詰めた境内に南北朝期:貞治5年(1366)建立の板碑(板状の長基五輪塔)二基が立つ。 大きさ・形式共に同時期に建立された夫婦一対のものと云われ資料的価値が高いもの。宿野近隣には多くみられるが府下では数少ない様ですが郡や町指定文化財なのかは不詳。
下見砦:自然地形の尾根上は曲輪の段差も曖昧

下見砦へは地図でもわかる通り等高線の目が積む比高約 80mは激急登ですが立木が多くて楽勝・・・ですが、尾根に出ると藪山で踏み跡は有っても雑木・倒木を左右に避けて通過する緩斜面の藪が薄くなると、土橋付き堀切【現状では深さ1mに満たない埋もれ浅くなっている ・尾根を断つ程でもなく幅も無く城域確保の空堀?】が現れる。幅8-15m程の尾根上を南北に約80m程の自然地形の平坦部が城域で、 中程から西先端279m4等三角点にかけて露盤・露岩の粗れた地形で表上に自然石が多く散存するところ。
下見砦:自然地形の平坦段中程の露岩部は櫓台か?(主郭東側から)

曲輪の段差は殆んど無く・区分け出来ない?程だが、露岩・自然石の集中部分がそれを補っている様?。殊に露岩が目立つ一角は僅かな土砂を積んで均らせば櫓台の造設は可能で、 位置や展望からも適所と思われます。井内城の出曲輪として共に府道104号大路次川沿いに宿野や亀岡市畑野や、南正面には大路次川を渡り逢坂峠を田尻や倉垣に越えて摂丹街道(R423号)にも繋がる府道732号線の街道筋を望む 要衝の監視と警護に当たった宿野城の前衛か?。


宿野城 (七星城・撰見<えみ>の館) xxx 245m  豊能郡能勢町宿野一区

R175号(能勢街道 )の山辺口から山辺城の南:府道54号(亀岡市畑野に至り、南丹市の瑠璃渓や天王を経て篠山市を繋ぐ丹州街道の要衝)を東へ進み井内城と下見砦南山麓を大路次川沿いに北上し、 才の神バス停宿野区公民館)前から宝林寺への狭い車道に入る。
宝林寺から望む宿野城 (正面中央丘陵尾根上)

府道側に宝林寺の山門標柱は立つが初めての訪城で此の入口は見つけ辛く、余程注意していないと通り過ぎてしまいそう。狭い車道を進むと最奥民家向かいの栗林端には能勢の里によく見る<能勢町教育委員会の>石仏案内板が立つ。田口垣内の弥陀三尊坐像で室町時代の文安7年(1450)とある?。
宝林寺を居館とし、石積の畑地も武家屋敷群の段曲輪か?


文安年間は(1444-49)なので1450年なら宝徳2年だが、紀年銘「文安」は大永(1521-)とも、 拓本による検討では文永(1264-)とも読まれ後考にまつと未決・不詳の様です。弥陀の坐像と左右に「サ:観世音菩薩」と「サク:勢至菩薩 」の種子を刻む石仏はネットフエンスを張り巡らせた個人所有の栗園の中なので側に寄れないが、其の民家西隣には城主:田口氏の墓所があり大型の五輪塔と
谷川を挟む宝林寺西側にも土橋付き空掘・土塁から成る砦?遺構がある!!?

軸部(塔身)の四隅に磨耗しているが石仏を浮彫りした十三重の供養石塔が建つ。 「多田源氏正統田口氏の墓所 29世治郎左衛門ョ義?」と読めるが?宿野城主:田口氏については城史共に不詳。 墓所の西隣り畑地に土塁石垣を見る。 一つは貯水池堰堤の補強基礎部だが、もう一つは狭い畑地や果樹園の割りに重厚な石垣積みは、北方に観る城館遺構?からも家臣屋敷等の城砦に関連の遺構とも思えた。
宝林寺西側丘陵にも 2-3の曲輪を土塁が囲う城館?遺構がある

石仏案内板まで引返した直ぐ先で狭い車道は二分し右手前方に宝林寺が、左手林道は貯水池を挟んで背後には家臣屋敷跡らしい石垣段差の薮化する空地が広がるが、林道を挟む東側低丘陵(比高20m程で其の尾根頂部から北や西・南へは緩斜面を降るだけ)への、 上り土塁状:短い尾根筋は林道沿いの間に高土塁と空堀・土橋もある。丘陵内側も幅広く分厚い土塁囲みの曲輪が二段程あり、
田口氏墓所の五輪塔と十三重の塔

南側に虎口状が開くが尾根周囲から内部は雑木藪の中に倒木が折重なり、侵入も状況目視観察も出来ない。本来の宿野城に向かい宝林寺 (南側に4-5段の広い石積みの畑地・空地跡)を見ながら東端の尾根筋(平坦地形で墓地となっている)に出て其処から南先端を丹州街道(府道54号 )へと突出す目の前の丘陵部を目指す。西に空堀・土塁の砦・東南の丘陵端に宿野城・間を流れる谷川を挟む前後に広大な家臣屋敷と思える段曲輪(果樹園・畑地!!?)によって
宝林寺東側丘陵の宿野城:城域北端曲輪の切岸と大土塁

防備体制を整えた最奥に位置して宝林寺を城主の居館とみれば、小規模な単郭の宿野城が大きく見えてくる。宿野城は宝林寺の東南に見える低丘陵尾根筋に在って、城郭は鞍部平坦地の墓地からも斜面(切岸)上の大土塁曲輪が目に付く。 斜面東側は削り落し切岸加工したものか?通路とも見える空掘状が大土塁東端に至り主郭に入る。
宿野城:主郭内:西面から北を土塁が囲う

幅広い櫓台を設けた大土塁で西角から南へ上り土塁を兼ねて長方形(南 北約40m・東西幅約20m)の主郭を囲む。南側に石列を敷き低い段差の一曲輪(虎口受曲輪)を持ち、南下方からの大手に開く虎口がある。主郭中程東下方に幅広く自然崩壊かとも思える大きな竪堀が一条落ちる。
主郭部中程東面の切岸と幅広く急斜な竪堀

単郭の宿野城は撰見<えみ>の館とも呼ばれる居館跡。 平安時代中期の永延元年(987)多田満仲の弟・満快(みつよし)の子:満国が築城し撰見(えみ)之館と称し、平安時代終期の建久元年 (1190)には田口判官頼基が修築して以来:田口氏累代が世襲し義盛の代には足利氏に従い功により代々の居城としたが、天正6年(1578)最後の城主田口安芸守ョ亮(よりたか)の時:丸山城主:能勢ョ道は織田信長に離叛した荒木村重 (伊丹市・有岡城主)に同調して此れに従うが翌:
主郭南端(右手に大手?虎口):石列の段差下部の 虎口受け曲輪

天正7年宿野城は塩川国満(山下城主):織田信澄(信長の甥 )の攻撃を受け北摂の武士団西郷衆の(山辺・垂水・森上等の枳根庄や宿野・片山・栗栖等の西郷地域)諸城は悉くが落城したという。・・・が「摂陽群談」に 井上孫之進景忠(枳根(岐尼)ノ宮合戦に参戦した井内城主)が居城としていたとされ、 宿野城の記録は宿野二区の井内城を指すものと推察されている様です。以降宿野城の城史不詳:は井内城を参照願います。


上杉下所城と平通城
上杉下所城   xxx山 300m  豊能郡能勢町上杉下所

R173号(能勢街道)栗栖交差点から府道 602号に入り、岐尼神社から南へ折れる府道603号を上杉地区に向かう。天文18年(1549)多田城(川辺郡猪名川町)・山下城(川西市)の塩川氏が能勢郷に侵攻し此処岐尼神社背山の森上城に集結した 能勢氏と付随する西郷衆らが迎え撃ち、塩川氏の敗戦となった杵根ノ宮合戦の戦場となった稲地を抜けて
上杉下所城の長い主郭(北郭)の平坦地形

上杉地区から上阿古谷を猪名川町へ抜ける府道603号は猪名川町・川西市から池田市へと丹波・摂津を結ぶ丹州街道の要衝 。塩川氏の侵攻ルートと思われますが、上杉城へは主計坂(稲荷坂)を挟んで尾根続き。上杉集落南入口部に位置し猪名川町境のカイモリ峠を監視する上杉下所(シモンジョ)城が 上杉地区の南口を押え、
下所城:主郭北端部と下部の腰曲輪

地区内の 上杉城の支城とも出城とも築城目的は推察出来ます。もっとも此の城跡は1988年の調査で高橋成計氏等により発見されたもので、その後 :地方史誌等に公的に認められ記載されているか、大阪府の遺跡分布図等に反映されているかは知らない。上杉へはR173号の道の駅”栗の郷能勢”の直ぐ先から戻り気味に府道603号に出て上杉区に通じるルートもあります。
上杉下所城主郭へは腰曲輪から主郭北西へ回込み上り土塁状を入る

上杉城も城史不詳で城主は小塩民部(塩山民部?)か上杉は嘗て平家村との伝承があり、 寺社創建には平安時代後期:長承3年(1134)三浦兵部建立とみえ、村の鎮守は【現:稲荷社・室町時代中期より祭祀されている】延徳4年 (1492)向式部尉康元により創建」合わせて主計坂に白髮明神(豊受比売神か!?)を祀った(霊雲寺文書)とある。
主郭北西端:腰曲輪下部の切岸と堀切状

白髮明神は明治43年(1910)岐尼神社に合祀されたが、後に上杉の三浦一族により三河国(愛知県)豊川稲荷より茶枳尼天(だきにてん)を単独で勧進した後、 村人の同意を得、此の頃より峠の名も主計(かずさ)坂から稲荷坂と変わった様です。以前主計坂のお稲荷さんから直接尾根伝いに 北方の上杉城まで辿ったが、南へは上杉下所城へも稲荷坂から水晶山(4等三角点・点名:下田365m)へと延びる尾根伝いにトレース出来るが、城址へ向かう最短は尾根筋西南末端付近からの直登!!?・・と踏跡は無く ・急斜だが短絡ルートを狙ってみる。
腰曲輪から北東への尾根続きに折れを伴う竪堀:上部の小曲輪は横矢掛け可能

上杉城へ取付く稲荷坂を降ったヘアピンカーブから府道603号を南へ直進すると、左手に谷川と田圃沿い・車幅一杯の農道が一本延びる。 谷川に落ち込む丘陵上が城址。農道は少し進むと谷川を渡り丘陵裾を進む。最初の農機具小屋を過ぎた辺りから次の小屋迄の間には比高約70-80m程の丘陵上に向かう藪中の踏み跡(獣道かも?)が幾本かある。
竪堀と並走?の北東尾根から腰曲輪・長い帯曲輪(犬走り?)と主郭(最上段)

藪に覆われ・今では殆んど使用されていないが 尾根筋には薄い踏み跡も現れる。羊歯類が覆う斜面まで来ると城域も間近。正面に羊歯類の覆われた2m程の段差が南曲輪の切岸で、 幅約25m程の尾根幅に数段の曲輪を過ぎた段差の西端に竪堀らしい溝があり、尾根筋の先には長さ6-70mの長い平坦地形が続く。
上杉下所城主郭(南曲輪)から 竜宮山を望む

堀切や土塁等で城域を区分する遺構は無さそうだが、西面を2-3段にわたって小曲輪群が附随するが、一曲輪を形成する段差は崩れて曖昧なものになっています。此の長い曲輪の東側にも細い帯状の曲輪が城域の片方を包む様に伸びており100mかそれを越える長い城域ながら南・北曲輪を明確に分けられるものが無く・単郭?に分類される城なのかも知れません。
上杉下所城の城域南端は羊歯に覆われた曲輪の切岸から始まる

城域北端の 主郭部一段下の腰曲輪を確認し、曲輪切岸ラインがハッキリし、小さな2段程の曲輪に上り虎口状・堀切状を見て、やっと此処が城だと気付く!!?。 そして北端の腰曲輪を北東に移動して、三角点峰 365mへの尾根を下り初めて特異な此の城の遺構を見ることになる。幅狭くなってくる尾根筋(曲輪!?)の東斜面には尾根沿い?に深い空堀(竪堀)を見る。
平通城(第二トンネル上)から能勢街道・府県境の第一トンネルを望む

空堀はカーブして落ち主尾根側(曲輪)とは竪堀を挟んだ向いにも小曲輪が有る。 当然:北方から竪堀沿いに侵攻する敵に対する 「横矢掛け」が可能となる設備。更に尾根筋北端の鞍部には城域を遮断する堀切ではなく、屈曲する片堀切が東斜面に落ち込む。此処もまた東の谷筋から此の竪堀沿いに侵攻してくる敵に対する 横矢掛けを意識したものでしょうか?。
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平通城(岡崎城)   平通南山? 307m   豊能郡能勢町平通南山!

川辺郡猪名川町との府県境に上杉下所(しもんじょ)城が位置しているが、真東に約1.5kmの距離に在る平通もまた川西市にも近い猪名川町側に在り、豊能郡能勢町の最南端に位置して天文18年 (1549)多田城(川辺郡猪名川町)・山下城(川西市)の塩川氏が能勢郷に侵攻した 杵根ノ宮合戦には最前線にあって、大きな役割を負った城塞であったと思われますが、
大路次川から松風台住宅地を挟んで望む 平通城

平通城の築城時期や城主については城史不詳だが岡崎氏が拠っていたようです。岡崎四郎義實が此の合戦に参戦していた人物なのか 天正7年(1579)織田信長の摂津攻めに織田信澄・塩川伯耆守国満の連合軍により、能勢町の能勢氏や西郷衆の多くが討死し、 悉く落城して残った西郷衆も帰農して終焉するが、
平通城北端:露岩の中の小曲輪

平通城の落城時の居城主が岡崎左衛門宗盛かは未調査ながら、此の戦いに陣没し城は廃されています。R173号 (能勢街道)栗栖交差点を直進 ・平野で道の駅「くりの郷能勢」を通り抜け「能勢第二トンネル」を正面にして山辺川を合わせる大路次川を渡る陸橋前の下田交差点で右折し大路次川沿い陸橋下へ降りる。
石積み?かと思わせる 平通城主郭北面の切岸

平通城は能勢第二トンネル真上の丘陵上に在って406mピークから西へ延びる尾根末端の307m地点に主郭を置き、 直線的な尾根幅一杯に主郭部以外は緩斜面を曲輪として自然地形のままに、鞍部から先へも緩やかな登り斜面の広い平坦尾根部を曲輪として 利用している様ですが、削平地としての手が加わっているものかは判断出来ず、城遺構かどうかの判断は専門家に任せ鞍部迄を城域と推定しますが、
平通城主郭南面の虎口(露岩部右下部に右積み?)

主郭から鞍部迄に(鞍部に堀切は無い)二本の土橋付き掘切が有ることから、鞍部から東に延びる先程の広い平坦地 ・更には下田の「能勢第二トンネル」北出口下方からも平通城の東側に尖峰を見せる峰にも関連する遺構があるのかもしれません。 直線的な尾根上の曲輪を分ける二本の堀切構造からは加西市の河内城を思いおこす。
平通城主郭の虎口は主郭内に大きく入込む?

平通城への取付きを探してR173号線高架下から西山裾を回り込む 林道然とした車道を峠?に向かう。尾根に取付く踏み跡は直ぐ分かったが、此処からも結構急な斜面です。林道にしては通行車輌が多いので 公園墓地でも有るのかと思ったが、先には松風台xxx住宅地が在り、其の住宅地の西方を囲むように府道104号線が大路次川の流れに沿って走る。
平通城:東(外側)の土橋付き堀切北側

此処から望むと府県境に立地する平通城の築城目的や状況が自ずと推測出来る。 急峻西北斜面から尾根に出ると露岩の多い二段程の小曲輪に着く。其の上部へ捲き上がると尾根筋正面上に、 石垣積みか?自然石を切岸に取込んだ主郭部が見える。自然の平坦(緩斜面)地形だけの城域で、先の2段程の小曲輪の西北先端部と
平通城:主郭側の石塁が目立つ土橋付き堀切北側

此の主曲輪部に削平地。直線的な尾根上の自然地形の緩斜面上に築かれる土橋付きの二本の堀切。其れに主曲輪南西部には平入り虎口と も思われる主曲輪に入り込む円形窪地は露岩を切岸に取込み南東側切岸下部には土止め石積み?らしい石列が残る。 自然地形として残る露岩部が其のように見えるだけなのかもしれませんが?天正7年の落城時遺構か?。
平通城全景(遠く三草山を望む)

同様に主郭側堀切の北東側部には石材が散逸しているが石積で補強されている様にも見える石塁状を見る。虎口が主曲輪の南面に有ることからも、 登城の大手道は 松風台住宅地背後から比較的等高線の広がる谷状から通じていたのかも?。国境を背にはしているが、国境は現在でも更にもう一つの峠があり能勢第一トンネルを抜けて、やっと塩川氏陣営の一庫ダムサイトに降りてくる。

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