三木市歴史の森に付城遺構を訪ねて 三木合戦の付城群 其の三  
兵庫:三木市 (五万図=三木)
三木合戦の激戦地と付城めぐり 其の三  H18年03月04日
近畿の山城 正入寺城と三木城新城 淡河弾正の墓・・合戦場
   大村城と大村山上ノ付城(平田山上の付城?)/谷大膳の墓
   法界寺(別所家菩提寺)  慈眼寺山裏山城 加佐山城
三木市の名所:伝説  弁慶の足跡

湯の山街道・三木の商家

神戸電鉄粟生線を小野市から三木市への沿線沿いにも三木城攻めに関連の歴史の道は散見していた。羽柴秀吉の本陣が在り智将:竹中半兵衛が病死した平井山は、両者の知名度と共に合戦場としてもよく知られています。 大村駅北方にも豪将:谷大膳の拠った平田山の陣所が在って、別所方の大村城が在ったところ。兵糧輸送活路の攻防では毛利軍の夜襲を受け、奮戦するが戦死を遂げた谷大膳の墓と付城がある。 三木城籠城後の別所方の出撃では数少ない戦勝でしたが、秀吉方の援軍によって大敗し、別所長治とは姻戚関係に在り ・智勇に優れた淡河城主 :淡河弾正忠定範が此の戦いに自刃した!?という平田・大村坂の激戦地でもあり淡河弾正定範の墓も”八幡の森歴史公園”として市民病院近くに有ります。 美嚢川岸には船付場があり、当初・毛利からの兵糧は此処から荷揚げされていたのでしょうか?。
大村城と平田山陣所(右)・此処は「平田・大村坂・加佐の激戦地」


神戸電鉄や県道が美嚢川を渡った本町は三木城の里郭が在った所。商店街のアーケードや電鉄上の丸の南側に丘陵が迫り、 市役所の建つ南面を除く三方は今も急斜面で高い自然の切岸をつくっています。金物資料館の建つ本丸曲輪・商店街から堀切跡の坂道を分けて図書館の建つ西の丸(南構)・上の丸駅東から本丸へは新城側に高い崖を見ながら登り着く。 住宅ち内の急坂を抜けて市役所・文化会館へ向かうと鷹ノ尾・雲龍寺・宮ノ上要害へと丘陵上に一城別郭の様に曲輪が点在します。其の広大な城域の北東端に正入寺が在ります。今は寺の庭がある南側:丘陵続きを割って 神戸電鉄が走るが嘗ては新城側に通じており、平山丸と呼ばる曲輪跡でした。船板塀の残る民家や杉玉を吊るした造酒屋等、旧街道の面影を残す”湯ノ山街道”の歴史街道散歩道は、秀吉が有馬温泉へ幾度と無く通った道。



正入寺城と三木城新城大村城と大村山上ノ付城(平田山上の付城?)/谷大膳の墓
淡河弾正の墓・・合戦場 
法界寺(別所家菩提寺)  慈眼寺山裏山城 加佐山城

正入寺城と三木城新城
正入寺(勝入寺)城  xxxm   三木市本町1-7

本町1交差点から県道38号 (三木三田線)を東に一つ目の信号を右折して三木山森林公園に向かうが、中間点付近に「曹洞宗護国山正入寺(本尊:聖観世音菩薩)」の山門石柱と”歴史街道”の写真と縄張り図付き案 内板が建てられています。上記・プロローグに記したように正入寺は 嘗て三木城東の一郭・平山丸として、大手を守る要害を呈しており、参道石段の西北には竹薮の間に下方に降る道があるが、切岸然とした急斜面となり東西に長く延びています。
正入寺境内・居館の土塁遺構か?

山門側は住職の手で雑木藪を少しずつでも 整備されているようです。 一部に”茶の木”が目立ちますが当初からあったといいます。慶長6年(1601)姫路城主池田輝政の家老伊木豊後守忠次が三木城主となった時、先君池田勝入斉信輝公追善のため、尾州知多郡大野の斉年寺より3世日山和尚を招き建立し、護国山勝入寺と号して伊木(いぎ)氏の菩提寺とされました。 ”茶の木”は数多く植えられていた様ですが、 勝入寺が建立された以後なのか?・三木合戦では、此処より北約2kmに平井山があります。天正7年 (1579)2月秀吉の平井山本陣に討ち出して激戦となった平井山合戦で、奮戦しますが秀吉方の郎党 :樋口太郎政武に組み伏せられて 討死した別所長治の弟小八郎治定の居館平山丸跡とも云われます。茶の木は其の頃からあったものか? お茶は嗜好としても、急斜面に植えれば柵や逆茂木としても侵入防護に効果的なのかも知れません。
正入寺への参道と歴史街道案内板

天正8年(1580)1月三木城開城で秀吉が入ってから元和2年(1616)三木城が廃城され、 小笠原忠政が明石城に移るまで10幾代も城主が代わっています。其の最後の方・慶長5年(1600)から慶長8年(1603)11月死去するまで 3万7千石の三木城主として入城していたのが、姫路城主・池田輝政の筆頭家老:伊木豊後守忠次で、 慶長6年(1601)旧主池田(勝入斎)信輝の恩顧を慕い平山丸の館跡に勝入寺を創建して追善供養したのが勝入寺(現在は正入寺と改称)で、元和2年(1616)姫路城主池田利隆が36歳で死去、嫡男:光政は8歳の幼君で池田家は因幡 ・伯耆へ移封され、お寺も伯州倉吉(鳥取県)の勝入寺に移ります。 同年・久留美慈眼寺の13世:海翁宗智大和尚を開山に、勝入寺から正入寺として再建され伊木家の菩提寺となって現在に至ります。尾張国小伊木の土豪香川 (伊木)長兵衛忠次は織田信長に仕え、永禄4年(1561)東美濃侵攻には斉藤氏と戦いに伊木山城 (岐阜各務原市鵜沼)攻めで武功を挙げ、 信長より伊木(いぎ)氏の姓を与えられた。 正入寺墓所:忠繁の五輪塔前に置かれている家紋「丸に一引き」の謂れは知らないが、物事の全ての始まりを表す「一」であり忠次も香川氏から伊木姓を称し伊木氏の祖となります。
姫路城主:池田利隆と伊木忠繁と母を祀る五輪塔

後・信長の部将:美濃大垣の城主 池田信輝(恒興)【後入道して勝入を称した】に仕え、家臣の筆頭として仕えます。忠次の跡を継いで三木城主となった子の長門守忠繁はまた、池田輝政が関ヶ原合戦の後、姫路藩52万石で移封されると慶長6年 (1601)姫路城大改修に着手し、築城の総奉行に任ぜられ姫路城を完成させた名築城家です。堂内に主君:池田信輝・輝政親子と伊木忠次・忠繁親子の位牌を祀り、 境内墓所には姫路城主として池田輝政の跡を継いだ利隆、伊木忠繁と母を供養する五輪塔が祀られます。
(現地:正入寺の案内板 及び三木市観光協会刊「探訪 三木合戦」参照)


三木城新城     三木市本町

三木城本丸(上の丸)の一角にあり、図書館のある西の丸(南構)と堀跡の車道 ?を挟んで三木城復元図の絵馬が架かる稲荷神社が有る。側の金物資料館を南に出ると 神戸電鉄上の丸駅方面へと坂を下る。
宅地で消滅した三木新城

両側は切立つ壁状に ・また深い谷状にと自然の堀や切岸を形成する要害を呈しています。執権職の居館が在った所から新城の名が有るといいすっかり宅地の中に納まった城域に 城の面影も、
上の丸と新城を分ける堀割!正面が金物資料館・左上が新城)

其の遺構を偲ぶものも殆ど有りません。まして別所氏時代の遺構は・・・?市役所側へ向かう住宅地内の曲がりくねった車道の急斜面に、土塁や堀跡らしい空地や階段を見かけて城域の区分けを判断してみます。
(三木市観光協会刊「探訪 三木合戦」参照)


大村城と大村山上ノ付城
(平田山砦 ・平田山陣所・平田山上ノ付城?) /谷大膳の墓
  三木市平田・大村

小野市から三木市に入って直ぐ? 神戸電鉄線に沿って走る県道23号 (三木山崎線)に入って大村駅北方に在る豪将:谷大膳の墓所を目指します。 平田小学校西側から川に沿って金剛寺に向かう史跡ハイキングコースが有り案内標識が立っています。県道20号久留美へ抜ける車道に出るとエンゼル保育園が有り、背後に二つの小山がある。車道沿いの丘陵へ20m程登ると、 其処が谷大膳の廟所です。
老人ホーム端以後の丘陵上に平田村山上ノ付城があった

三木合戦の秀吉方智将には竹中半兵衛がいたが、豪将としてならした谷大膳も知られた武将で、重要な平田の陣所を守将として任されています。平田山の陣所・平田山砦の名があるのですが、 三木城内にある”包囲網の秀吉軍武将配置図”には、谷大膳の拠ったのは大村山上の付城で、極・近隣に平田村と平田山上ノ付城が有り、付城の名や位置が釈然としません。平田山上ノ付城の位置や消息?については、 遺跡分布図等資料で確認出来るまで平田山陣=大村山上ノ付城とします?。
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大村城   三木市平田・大村

赤松一族の別所氏は嘉吉の乱に衰退し山名氏の領地となっていたが、応仁の乱に赤松政則に従い山名氏を攻め其の戦功により 明応元年(1492)三木城を再築した別所大蔵小輔則治の子貞治が大村に城を構えて大村姓を名乗ったといいます。 三木城攻めが起こった天正7年(1579)頃の城主は、貞治の孫大村九郎左衛門治吉の時ですが、 この”平田大村坂の合戦”で討死しています。
大村城?(平田村付城)は保育所背後の丘

大村城は谷大膳が布陣した平田陣所の側、川に面したエンゼル保育園が城跡だったらしく周辺も宅地で遺構は残らない。背後の小山の稜沿いに土塁が長く続くが山頂部へは続かず、 また山頂は狭く曲輪があったとも思えない。この土塁の南斜面に台地が広がり谷大膳墓所となり、此処が城砦であった事がわかります。三木城籠城が決定されると大村城主:治吉も一族共に城を出て三木城に向かった事でしょう。
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大村山上ノ付城(平田山砦・平田山陣所)!?平田山上ノ付城  三木市平田・大村

★ 注(平田山上ノ付城・・と大村山上ノ付城では場所も守将も違うのですが・・大村山の谷大膳について多くは平田山XXで解説されていて・・・混在させています。 平田山上ノ付城について 判れば後日修正します…(^^ゞ)
天正6年(1578)糟屋氏の加古川城内で行われた 中国毛利攻めの協議で、秀吉の態度に反抗し織田信長に叛く事になった別所長治は、毛利氏に味方することになって三木に籠城を決意した事に始まる三木合戦は、周囲の城砦・支城を次々と落として三木城に迫り、城を孤立無援にして 「三木の干殺し」と呼ばれる悲惨な兵糧攻めが行なわれます。
谷大膳墓所の背後に丘陵尾根筋に続く土塁

毛利の水軍による高砂や魚住(明石市)から加古川を遡って、美嚢川に入り三木城への川運による運搬を阻止されるのは別所方には大きな打撃でしょう。 稚児ヶ墓山〜花折山の山名に残る伝説が残る丹生山越えも、三木城支援の物資輸送ルートと 落城の秘話を伝えます。花隈城(神戸市)にいた有岡城(伊丹市)の荒木村重が信長に叛いた事で、花隈城〜 丹生山越えルートで武器:兵糧補給基地の淡河城を経由して搬送する道々には、
谷大膳墓所の背後に丘陵尾根筋に続く土塁

40数ヶ所に及ぶ付城や包囲土塁・柵等での運搬阻止策がとられます。
搬送路遮断を打開すべく 城外遠くへ討って出た最初で最後?の戦闘は初めて勝利した後で大敗を嘗めた大激戦となっています。毛利・別所の軍が物資輸送と、付城への夜襲をかけたのが谷大膳の守備する平田山陣所?(大村山上ノ付城)で、 三木合戦における秀吉方部将では最初の犠牲者となった様です。


谷大膳の墓

谷大膳亮衛好(もりよし)は享禄2年(1529)宇多源氏佐々木氏の末裔、福田六兵衛尉正之の二男として美濃国(岐阜県)莚田郡伊地良村に生まれた。幼名小太郎は近江国甲賀郡長野の豪族 :谷衛之の養子となり後 ・斎藤道三:織田信長に仕え、天正4年 (1576)石山本願寺(大阪市)との戦いでは大手柄をたて、豪将として成らし谷大膳亮衛好は天正6年(1578)羽柴秀吉の三木城攻略に参軍して大村山上ノ付城の守将として三田新兵ヱ・前野勝右ヱ門等と、兵糧輸送の遮断と別所氏に合流するために入ってくる援軍を 阻止する為の守備に就いていた陣所が大村山上ノ付城(平田山砦・平田山上ノ付城)です。
平田村付城の三木包囲網土塁!!(大膳の墓直ぐ上方)

R175号を挟んで西側に鳥町ですが、三木城天守側に立てられた”包囲網の秀吉軍武将配置図”には 城主長治の叔父別所重棟が鳥町河原付城に陣しています。天正7年(1579)9月・夜半に兵糧を三木城内へ運び込もうとした別所・毛利の軍勢が補給路を開くため 平田の砦に夜襲をかけ、 大膳は自らも薙刀を揮って奮闘したが及ばず討死します。
谷大膳の墓所が平田山陣所跡

数少ない別所方勝利の戦いですが、其の日の夕刻には秀吉方の軍勢が駆けつけ、別所軍は此処でも大敗します。谷大膳の嫡男:出羽守衛友が此の戦いに仇の室小兵衛!?の首級をあげ、 遺体を取り返した勇戦に天正10年(1582)秀吉から丹波山家(綾部市)に6000石を拝領し初代山家藩主となっています。 夜襲を受けて共に戦死した谷大膳兄弟や甥等一族を併せ葬られた墓所が陣所跡(大村山上ノ付城)にあり、石山本願寺攻めの軍功で賜った「揚羽蝶」の家紋が廟の石扉の刻まれています。
(現地:谷大膳の墓の案内板 及び三木市観光協会刊「探訪 三木合戦」参照)


加佐山城(加佐山上付城・加佐山上の塁)   xxxm  三木市加佐

R175号を小野市から三木市に入って直ぐ? 神戸電鉄線に沿って走る県道23号に入ると平田。 電鉄は大村。平田小学校の裏手、車道を隔てた丘陵に谷大膳の廟所があるので立ち寄った後、廟所前の車道を三木高等学校に向かって東に歩き始めて老人ホーム前に出る。 背後の低丘陵上に平田村山ノ上付城?が有る。以前に平田村付城(谷大膳廟所から入り込んだ10数m先に土塁が続く)から、 雑木藪の尾根を辿ったが土塁らしいもの?・段差のある曲輪らしい平坦地もあるが、繁茂する藪の下に埋もれて良くわからなかった。
三木SA:緑地公園ゾーン東端(左画像の中央奥)


位置も怪しいので出直すつもりで引き上げた。未だ平田と大村の城 ・付城が上記の大村城の例の様に未整理のまま。 折角此処まで来てはみたが今回はxx城を望みながらエスケープ。三木高等学校南側大池の堤防から東側に出る。貯水ポンプ場施設の建つ付近は・どうにも気になる地形です。ポンプ場の東側は幅狭い堀状の外には土塁が走り、 ポンプ場前と民家横の田圃地形は居館を思わせる。「跡部村山ノ下付城」の位置は此処かと誤って記入していた地点ですが、僅か数 100m?程の範囲内に此の付城は有ったようです…此処もまた次の機会となりました。三木高等学校のテニス・野球のグラウンド場横を北方の、山陽自動車道三木SAへの車道をとる。 谷大膳廟所から此処までは諸処に 史跡ハイキング標識の「弁慶の足跡」表示を辿ります。
三木SA:道路部含む中央付近に加佐城が在った?(三木市街地を望む)

山陽自動車道建設工事に先立ち此の三木SA予定地の加佐山城と、同自動車道の東方約1.4kmに在った 慈眼寺山裏山城【共に三木城攻めの付城で30箇所ほど在った付城群の中でも此の二城が 最も標高の高い位置に築かれています】が教育委員会で発掘調査され、 報告書も出されている様です。田舎の図書館には検索しても、館内閲覧のみとしても蔵書が無く調べられないが、もっとも加佐山城は道路とSA工事で消滅。慈眼寺山城も道路工事と公園化整備で、堀切や土塁 ・建物礎石跡等は調査後復元はされず?遺構確認は出来ない。「ひょうごの遺跡xx?号」で見た加佐山城発掘調査状況の遠景写真では、周囲を土塁と堀で囲まれた陣城の様子が見られます。加佐山城に拠った部将は 豊臣秀吉の臣杉原(七郎左衛門)家次 【秀吉の正室・寧々(高台院・北政所として知られる)の母の兄(伯父)にあたり、早くから秀吉の家老として仕えて、三木城代・近江坂本城代としてまた天正10年 (1582)山崎の合戦後には丹波 福知山城主(墓所は福知山市の長安寺)となり、 翌年の賤ヶ岳の戦い後には、さらに京都所司代にも任じられています。
山陽自動車道:三木SA:北の丘陵を抜けると小野市

天正12年(1584)9月「小牧・長久手の戦い」に出陣中に没しますが、秀吉の怒りを買って自害したとも云われます】
。東隣の慈眼寺山城には有馬則頼が拠っていますが、 有馬氏とは天正7年(1579)5月:淡河城に淡河弾正忠定範を攻めた時にも、浅野長政【石田三成・前田玄以等と共に豊臣政権の五奉行の一人】等と共に参戦しています。 加佐山城と慈眼寺山城を南山麓に下ってくると、 加佐八幡の森の激戦に討死したとされる淡河定範の墓が平田・大村・加佐合戦の慰霊碑 が市民病院近くの”八幡の森歴史公園”に祀られています。淡河合戦においては定範の奇略で、三木城への逃走を許した杉原・有馬両氏にとって、再び此の戦いに参戦して定範の最後を見届けたのでしょうか ? しかし此処でも定範の生死は定かでなく無事に遁れ出たのかも知れません…!!。


慈眼寺山城(慈眼寺山裏山城・慈眼寺裏山砦・慈眼寺山ノ塁・慈眼寺山付城)   点名:一本松?148m  三木市久留美字内界

三木警察署前から岩宮交差点に出て県道20号を久留美に向う。八雲神社で小野市へと北上する県道510号 (万願寺久留美線)は直ぐ山陽自動車道と交差して越える。此処に「慈眼寺(じげんじ)山裏山城跡」の案内板が 立てられていることは以前から知っていたが、山陽自動車道に沿ってうねうね続く細い車道は丘陵中腹を伝う 林道かと思っていたが、西方約1.4km程 ・慈眼寺山城からは南方の山影に見えている、三木SAや三木高校へも抜けられるのか?結構東から・西からと通り抜ける車は多い様です。
慈眼寺裏山砦から望む三木市街

未だ登山が主で・城めぐりには余り関心が無かった6〜7年前の頃 (ちょうど発掘調査されていた頃だったので、 今は確認も出来ない土塁や堀・建物跡らしい礎石等も確認できた事でしょう)。車道側に砦への登り口があり、車止めのチエーンが張られている僅かなスペースに幅寄せして車を止める。 西側へ回り込む道 は北に向う緩やかな尾根沿いに続くがハイキングコースか?。右手の木階段を登ると、水神:八大龍王を祀る石碑 (何も刻印されていないが、注連縄飾りの石は空に向かって身体をうねらせる龍の姿を形造っている様!!)が立てられる。
慈眼寺裏山砦から望む三木市街

此処が最高所の曲輪跡。 建物礎石は八大龍王を祀る一角に在ったものか?。曲輪を廻る空掘が有ったとされるが公園整備化で 破壊されたのか?、龍王社裏側へ廻る藪の側にも石仏がある。主曲輪直ぐ北側から延びる尾根筋は何処までも緩やかに延びて、城域を遮断する堀や土塁・切岸をもつ曲輪は見かけない。主曲輪を北側から東へは数段 ・曲輪らしい平坦地も有るが此処にも空堀跡らしいものは見当たらない。まして南側を除き・東方は急斜でもない尾根が下っているだけ。「慈眼寺一本松(慈眼寺山城)よりの鳥瞰図」の写真位置説明のある 三木市観光協会の案内板が立てられているので4等三角点(148m)山名か点標名を一本松と呼ぶのでしょうか?。標高150m足らずの山頂なのに、三木城と三木城を包囲する秀吉軍の付城・多重土塁の塞砦等、 これら城砦群を総括して尽く指呼できる位置にあって、三木合戦の際には羽柴秀吉の家臣:有馬法印則頼が 陣を置いたとされる慈眼寺山付城です。慈眼寺は大化4年(648)法道仙人の開基を伝え、一時荒廃したが南北朝期:播磨守護の赤松(円心)則村が再興したとされる名刹です。
慈眼寺山裏山城北側に2段ばかりの曲輪?がある

紅葉の名所であり・境内には鼠小僧次郎吉の墓が祀られているという。 良く知られるところでは鎌倉時代の「延慶2年(1309)播州印南郡益田村佐伯寺鐘」銘が印されている三木市内最古のもので県文化財の指定を受けている梵鐘があります。梵鐘は天正年間:三木合戦で秀吉軍が神吉城を攻撃した際、 この鐘を奪って陣鐘としたとされ、慈眼寺裏山に布陣した有馬則頼が、慈眼寺の山門に吊るして陣鐘に使用したと伝えられ、 合戦後に慈眼寺に寄付されたものといわれます。有馬則頼は此の後:淡河城に入るが元城主の淡河弾正定範が慈眼寺に近い加佐八幡の森での激戦に討死したとされ、 平田・大村・加佐合戦の慰霊碑と淡河定範の墓が慈眼寺山付城から南へ下る市街地に祀られています。西方約1.4km程・三木SAの位置にも道路事業で消滅したが、
慈眼寺山裏山城跡に祀られる八大龍王

杉原七郎右ヱ門が守備する加佐山城が在り、 此処も丘陵の並びにあって谷を隔てた東端からは同様に展望が良い。今回:三木市北方の三木城付城を幾つか調べて出かけてきたつもりですが、位置や現状を知らず・結局はよく分らずに、立寄ったのは案内標識のある此処 ・慈眼寺山城と、美嚢川側のハイキング名所?の伝承地「弁慶の足跡」だけ…というお粗末さですが、春の野辺山歩きは快適です。此処:慈眼寺山城からは眼下に自動車道を眺め、南に拡がる三木市街地を遮るもの無く 眺望できる絶好の展望台です。



淡河弾正忠定範の墓・八幡森史跡公園      三木市加佐

淡河城主 淡河弾正忠定範は智勇共に優れた武将で、 三木城主別所安治の妹を妻とし、幼くして城主を継いだ長治の後見役として尽くした義伯父です。天正6年(1578)6月、長治が織田信長に抗して三木城に籠もると、 淡河氏は三木城の後詰めとして国境摂津境の守備を固めます。次々と落とされていく三木城の支城にあって最後まで残り 丹生山越えルート等の兵糧補給基地として 重要な役割を果たした事はよく知られています。智将として 其の奇策(史実かどうかはわかりませんが・・!)で知られるのが雌馬作戦ですね。 天正7年淡河城を攻め城を囲んだ羽柴小一郎秀長(秀吉の弟)の敵陣に雌馬を放って、騎馬軍団を混乱させて快勝したという。
平田大村加佐合戦場慰霊碑と淡河弾正の墓(八幡森史跡公園)


この戦いの後定範は、秀吉軍が立て直して再度攻撃してくる事と、小城では勝算がないと知って城に火を放ち、一族・郎党300余騎を率いて別所氏の三木城に入ったとされます「別所長治記」。 天正7年(1579)9月10日・夜半に兵糧を三木城内へ運び込もうとした際に別所・毛利方の軍勢が平田村の谷大膳衛好の付城を夜襲し守将:谷大膳は奮戦するが討死、別所方は一時・勝利します。 …が軍を立て直した秀吉軍の逆襲で、定範等は激戦の末討死したとも…撤退の途中此処・八幡の森で自刃したとも伝えられる”平田大村坂・加佐”の合戦場は、秀吉本陣の平井山の合戦場とともに 三木城攻めの大激戦地となっています。淡河弾正忠定範戦死の碑と、この合戦による陣没将士の慰霊碑が建てられています。行年41歳というのですが…、毛利輝元が家臣井原元尚に宛てた書状には 「弾正殿御事、今御逗留に候」と記され其の後の弾正の消息について生死もよくわからないといいます。
(現地:八幡森史跡公園の合戦概略案内碑文及び三木市観光協会刊 「探訪 三木合戦」等を参照)


法界寺 別所家霊廟     三木市別所町東這田

虚空山法界寺(浄土宗西山禅林寺派:本尊・阿弥陀如来)は、 行基菩薩が聖武天皇の勅願を奉じ、天平4年(732)虚空山と号して 開創されたと伝える古刹です。延徳年間(1489-92)別所則治が中興の祖として諸堂を造営し、別所家累代の菩提寺と定めました。 羽柴秀吉の三木城攻めに遭って合戦中は秀吉方の部将:宮部善祥房 (坊!)継潤が法界寺山ノ上付城を守備し此処を陣所としていた為、
別所長治の廟所と、本丸と少し違う!?馬上の長治像

荒廃していたが戦後・家山上人が 中興して再建され、秀吉も長治の香華料として寺領 30石:境内10余町を寄進しています。天正8年(1580)1月17日、 城主別所長治が自刃して三木城は開城されます。法界寺は長治の遺体は此処に葬られたと伝えられる寺で、霊廟や別所長治夫妻の霊牌及び画像・木像がある。なを 三木城の鷹ノ尾城麓の雲龍寺には長治の首塚が有ります
法界寺

例年4月17日(以前は命日の1月17日)には別所長治の追悼法要が営まれます。此処には三木合戦記を絵物語にした、三幅の絵図(掛軸)が伝えられており、 別所軍と羽柴秀吉軍の戦いを再現解説する「三木合戦絵解き」が行われます。此の法界寺も三木城合戦により天正8年兵火で燃失し【秀吉が本陣として使用した本要寺以外は殆ど焼亡した!】慶長元年(1596)城主 :杉原伯耆守長房により諸堂が再建され、延宝6年(1678)別所長治百回忌の法要が行われ別所氏累代の廟と定められた。
(現地:法界寺縁起 案内板を参照)


弁慶の足跡と跡部の石仏       三木市跡部

寿永2年(1183)三草山(加東市社町)に布陣する平資盛を大将とする 七千余騎の平家軍を、夜間に奇襲して勝利した源義経軍は勢いに乗じ、本陣を置く”一の谷”へと敗走する平家軍を追って、社から三木を通って”一の谷”を目指します。義経の通った道にはこれら進軍の際も ・また兄:源頼朝の追われて北陸〜東北〜蝦夷(北海道)へと辿った逃避行にも、其の進路となった行く先々に 義経主従に関する幾多の伝説が残されています。 其の一つが此処・三木市跡部の美嚢川端「六ヶ井堰」近くの田圃の畦道の傍らにも残されています。志染川が合流して大きく屈曲する美嚢川は浅瀬をつくり、 渡河するには恰好の地点だったのかも?。
石仏の裏面に有る「弁慶の足跡」

此処を渡った 義経軍が三木市街地を抜けて明石・須磨方面に向かったものか?、三木市役所・文化会館を抜けた高台から三木山総合公園を南へ下っていく新興住宅地と宅地開発整備で更地が目立つ福井・さつき台付近に 二位谷奥ノ付城が有った。今は其の面影さえ何一つ残らないが車道脇に義経道案内板が立つ。鵯越へは志染〜衝原湖(呑吐ダム)付近 ・丹生山越えのコースのはず !!? 小野へ出て二手に分かれた義経軍の本隊が此の道を辿り、 義経主従の別働隊が鵯越へ向かい背後からの「逆落とし」奇襲を実行して勝利します。丹生山中?で一度は道に迷ったとは云え丹波路から(または神戸市北区山田の住人との説もある)鵯越の道を案内した 鷲尾三郎が 三木ルートをとったかどうかは?疑問です。
跡部の石仏


大きな二つの岩には其々に一体の仏像が刻まれて川に向って祀られていますが、 その一つには人の足跡のような窪みが有って、怪力をもって知られる弁慶が踏み締めた時にできたという 弁慶の足跡」と呼ばれています。此処は常蓮寺(廃寺)の山門・堂宇の跡だったと推定され、 地名の跡部は「弁慶の足跡」か、寺院跡の意味なのでしょうか?。表の石仏より裏の足跡に似た窪みを持つ石は民家の石垣にも見掛けますよ。
(現地 弁慶の足跡説明板 参照)
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