三木市歴史の森に付城を訪ねて…三木合戦の付城群 其の二
歴史の森に合戦の付城めぐり 其の二 H18年02月19日…
近畿の山城 高木大塚城 包囲網多重土塁(高木大山土塁:小林土塁:福井土塁)
  八幡谷の上明石道付城:羽場山上付城 小林八幡神社付城  君ヶ峰城
高木大塚城・南面の土塁

R175号沿い国有林が開発整備された三木ホースランドパークがあり其の入口に道の駅みき・福井バイパス側に歴史の森公園があり此れ等施設内に「付城」が残り前回の付城群巡りに続き付近の見残した付城・多重土塁を散策する。織田信長の中国毛利氏征伐途中、織田から毛利方に付くかたちで叛く結果となり三木城に籠もった別所長治を天正6年(1578)から天正8年(1580)まで約1年8ヶ月に及び攻めた羽柴秀吉軍は別所氏に加勢する勢力や毛利方からの援軍と兵糧搬入の路を断つ為に三木城を取囲んだ。付城と包囲の網多重土塁は其の数に於いても総延長も此れまでの合戦に例を見ない壮大さ。「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めの凄惨な三木合戦は信長が行なった伊勢長島一向宗との戦い・伊丹の荒木村重の叛逆に対する一族・婦女子を皆殺し・焼き殺した酷さに於いて「勝敗が見えて行う非常さ」は残忍で
羽場山上付城・山上と思えない広く長い台地に城遺構は?

非情な行為。羽場山上付城・山上と思えない広く長い台地に城遺構は?余程の恨みを感じての事でしょうが…悲劇の舞台・三木城も破却され明石城築城の資材として持ち出された明石道にも秀吉軍の包囲網の城砦は続く。記録に40有余の付城・多重土塁が敷設され其の多く(約30ヶ所)の位置は確認されているようです。遺構は私有地で立入れなかったり消滅したり僅かに片鱗をのぞかせる部分も公園化で保存されない限り開発で消えていく。付城位置さえ開発計画による調査で発見されている現状。遺構巡りで地図上では確認出来ても現地では開発で周囲の様子が変わり位置や向かう方向さえ分からず行着けなかった付城へ再度・・・

高木大塚城 包囲網多重土塁(高木大山土塁:小林土塁:福井土塁)
                    八幡谷の上明石道付城:羽場山上付城 小林八幡神社付城 君ヶ峰城


高木大塚城 Ca85m 別所町高木・朝日ヶ丘

三木ホースランドパーク園内概略図の中程に大塚城があるが直結する道やコースがわかり難く、ゲート付近から園外へ出ないだめか?絵地図で行き着けるほど簡単な場所ではなさそうで諦め県道20号線の高木からバス道を朝日ヶ丘団地内へ
高木大塚城・土塁と櫓台(北面から)

入ることも考えた。三木ホースランドパークのゲート北側「ふれあいの館」からトラック馬場東側に「物見台」標識があるゲート近くの三叉路に着く。ゲートから北へ下る管理道を辿って朝日ヶ丘の住宅最南端部に着くと、高層マンション・車道を隔てた 林の中に曲輪と分かる台地と湾曲に曲がりくねりながら東北の住宅地に延びる土塁が高木大塚城遺構。南北に土塁囲み中央西よりの一番高い位置を占めているのが櫓台と思え古墳のマウンド使用の付城は三木城を兵糧攻めにするため天正7年(1579)に築かれた30余りの
!高木大塚城の外周土塁線(南東面)

付城の一つで三木城絵地図に描かれ曲輪は主郭のみで櫓台を中心に配しその周囲を十字形に土塁で囲み南西に虎口を設ける。曲輪の広さは約3,600㎡で古墳所在の周囲を含めると約6,500㎡が残る。土塁が十字形に四方に張出しているのは正面だけでなく側面の攻撃も意識し築いた横矢掛。櫓台は一辺約20mの隅丸方形を呈する高さ約5mを測る規模で 周辺に古墳(塚)が点在する古墳群最大の古墳を利用して築かれた付城は
城名の由縁・古墳(大塚)のマウンドは櫓台(南面から)

「大塚城」と呼ばれるが武将は残念ながらわからない。城域西の車道側に虎口があり北側の住宅地境に沿う数ヶ所の曲輪を区切るような土塁・深い薮を抜け中央櫓台付近の土塁と結合してガイドにある十字形を呈して南北に走る土塁から櫓台の北の薮中を一周してみたが土塁のクロスしている部分が よく判らなかった。南東側の歪に湾曲する土塁が横矢掛を意識した構造?にしては外側が広く空き過ぎ有効とは思えない?。
高木大塚城(北面)宅地境界の土塁

往時の地形は判らないが単郭だったようなので東西に延びる土塁に東播・北播から駆けつける別所方の援軍を迎え討つ為、朝日ヶ丘西側丘陵の北端部にあった法界寺山ノ上付城と呼応する形で北西側にも土塁を付け足して双方向からの敵に対する備えをしていたのでしょう。
(現地:ホースランド内案内板[HISTORIC SITE MAP]  大塚城案内板を参照)

三木合戦包囲網多重土塁
(高木大山土塁)  Ca85m 別所町高木字大山

三木ホースランドパークのゲート北・トラック馬場の東側に”物見台”の標識があり、大塚城近く:住宅地の奥に高木大塚土塁と一連と思われる土塁がトラック馬場を横切る形でゲートから西方へ延びているので車道に沿ったホースランド側に注意して歩いてみる。ホースランドゲートへ戻るる際:民家と田圃に100m程続く土塁を見つけ民家の人に声を掛け
高木大山土塁(土塁線が手前でT字状に交差する)

裏側から其処に向かう。畑と竹薮の間には40m程続く高さ1m程ばかりの土塁が南に向かい先端で南北にT字に交差し畑地に沿って南の車道側に延びていく。西北は民家側の竹林と西の雑木薮の間に延びるが直ぐに前回は迂回させられたホースランドの馬事センタの南端で開発予定の空地で西に谷を挟んで牧場側。この付近一帯は風の強いところで風防の為民家の方のお話では
高木大山土塁(民家裏)

竹薮は先代が植えたもの、以前は松林で松茸も良く採れたという。足元の土中には蜂がいるようで注意するように…冬場なのにと思っていたが最近刺されて入院した人もいたとか?。T字部から南北に走る土塁南側の道路を横切ったシクノ谷峯構付城側の民家付近にも残っていたという。三木市遺跡分布地図に記載されていないが土塁の延長線はシクノ谷峯構付城の南を通り宿ノ谷土塁や小林土塁 細谷池の東の福井土塁に繋がる。
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(小林土塁)  Ca100m  三木市福井

福井バイパスへの車道を挟んで宿ノ谷土塁の向い側。細谷池の北上に車道に沿って西に延びる尾根先部が車道とビニールハウスが並ぶ畑地に其の境を接する。畑地の奥から細谷池に向かって薮の尾根道に低土塁が延びている。
小林土塁(末端の残欠部)

斜面を登る土塁は1m程の低土塁:土塁残欠が残る先端部分(畑から山側へ這い上がる境の取付き)は2m程と高く感じる。高木大山土塁がシクノ谷峯構付城の西へ延びていた様なので此処から大山交差点南への 車道沿いに此の小林土塁及び宿ノ谷土塁とも交差・直結してR175号へ続く土塁線、更に明石道峯構付城の南から小林八幡神社付城へと約300m程の間を空けて続く二重の包囲網土塁線の関連が考えられるのですが…!。
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(福井土塁) Ca100~120m  福井

シクノ谷峯構付城小林土塁・R175号線の福井バイパスを直進し 抜けた所・左手に明石道峯構付城があるがR175号を 南側へ右折すると明石道峯構付城と谷(奥池)を挟んだ国道沿いと奥池と三木グリーンパークのグラウンド(野球場)側に包囲網多重土塁(福井土塁)がある。
福井土塁・グラウンド北隅に湾曲する土塁がフエンスの先へ

開発で姿を変えゆく一帯のなかでもさま変わりの大きなところ。明石道峯構付城が史跡公園として残るがR175号線沿いグリーンパークの西・奥池の谷上に続く 土塁の直ぐ南側は広く切崩された平坦地。奥池からの谷向いにグリーンパークのグラウンドが拡がるが”関係者以外立入り禁止”看板がある。遺構位置は一番奥の北隅にあってホームベース付近なのでグラウンドの中を突っ切っており諦めきれず、
明石道峰構付城南の福井土塁

車道とグラウンド端から下方の池へと斜面を下り谷沿いをトラバースで目的位置に向かう。土塁はグラウンド北端へ登るようだが西の谷(フエンスや薮)に向かう高さ程の土塁が緩いカーブを描き延びる。グラウンド北側の谷に面する縁が東端の雨天ゲートボール練習場施設北側へと土塁が延びているが違うのかな?。R175号の西・下ってきた細谷池との間にも 一連の土塁があり7-80mをほぼ直進する高さ1-1.5m程の土塁は水道施設のポンプ場施設?周辺の荒涼とした感じからは工事で消滅しているのではと思える状態だが舗装道も消えかけた車道跡から
福井土塁・小林墓所から東に延びる土塁

薮の山林に入るとポンプ場背後に破壊を免れて残る土塁線が細谷池の北・ダムの下方に延びていく。広範囲に点在する福井の土塁線は小林八幡神社の東へも続く。幾つもの土塁が残るようだが会社や個人私有地内で立入れないが小林八幡神社に寄るので其の周辺を探してみる。実は神社入口左右に土塁があり三木グリーンパークから道なりに進み県道脇の車道に出てくる。交差点向いの小林八幡神社参道入口から森林公園へ左折する手前:工場に囲まれた空地?前の用水路と車道に沿って 土塁が延びている。
福井土塁・細谷池側

八幡神社燈篭の先、地区内の道沿い・神社側や県道22号線に出る県道三木環状線沿いにも土塁跡(xx自動車から小林墓地にかけて)あり。八幡神社から東に抜けると小林墓地に行く。墓地の北端に土塁が東に残片的に延びていく。土塁線の北側は明石道峯構付城・奥池からの谷筋に面し比高20m程の斜面になっている。

八幡谷ノ上明石道付城と羽場山上付城
八幡谷ノ上明石道付城 95m~107m 県道神戸三木線沿 福井
羽場山上付城  虎ヶ嶽! 93m  福井字薬師ヶ谷

八幡谷ノ上明石道付城県道22号三木山森林公園分岐「八幡宮交差点」から北へ進むと鶯谷三叉路に着き緩やかに下っていくと県道沿東側の低い丘が三木山森林公園でハイキングコース鶯谷入口からは10m程登れば後は森林公園へ降るだけの遊歩道。三木山森林公園と県道22号線間に細長く延びる尾根が北方の送電線鉄塔に向かう。
鶯谷交差点~鉄塔中間付近の空掘状・尾根を挟んで 土塁と堀切状?

県道22号線側は土採りで削られているが高低さのない10m程の壁状の自然の切岸となって続く。二位谷奥付城が白川道(義経道)沿いに城域を点在させ八幡谷ノ上明石道付城も神戸明石方面への県道22号線沿いの丘陵上に遺構が点在。曲輪に土塁はなさそうだが中央郭部の北端には尾根を堀切土塁で遮断する形で県道側に深さ2m・幅3m・長さ6-7m程の空堀状の窪地があり尾根筋を土橋虎口としている様な箇所がある!。空堀状の側には櫓台があったのかも?。
同位置は尾根筋を堀切・土塁で遮断している様、中央は虎口か!

森林公園側に土塁囲い曲輪があり薮で確認出来ないが尾根上に数ヶ所・数段の曲輪はありそう。此処から北へ尾根上に、びっくりするほど広く長い平坦地が薮の中に続く。潅木が伐採されている辺りは建物があった所かも北に送電線鉄塔を見るが遺構を見かけないまま北郭の城域を抜けると思った鉄塔の直前に曲輪と北に土塁の残欠?、曲輪の北側にも低い段差ながら土塁囲い曲輪があって腰曲輪らしい雑木薮の平地の先には不必要な程広く尾根幅いっぱいの平坦地に
八幡谷ノ上明石道付城・鉄塔横の曲輪と土塁

送電線鉄塔が建ち県道を挟んだ送電線西側の丘陵に羽場山上付城があり巡視路を降ると三木第一水源・奥池北端に降り立つ。県道22号線から直接・奥池経由で訪城する人は少ない?が…八幡谷ノ上明石道付城は羽柴秀吉により築かれ西に羽場山上付城・東に三谷ノ上付城と呼応して法界寺上山ノ上付城・大塚城と共に三木城北面と西面からの兵糧搬送や別所方への援軍阻止の警戒にあたっていた付城群の一。
三木山公園側の曲輪と上段の切岸!

「播磨鑑」等に守将:間嶋(鹿島!)彦太郎・福原右馬之助が拠ったとされる。羽場山上付城:前回・県道22号線鶯谷から県道沿い尾根筋の八幡谷ノ上明石道付城へは三木山森林公園内から向かい巡視路手前の遊歩道を取り 途中から尾根筋へ疎林の間を直登し東端曲輪と土塁の残る送電線鉄塔から巡視路沿いに県道22号に降り、ガードを越え続く巡視路を今度は羽場山上付城へ登る。守将は明石与四郎則実?という県道22号を挟んで二つの付城が物資輸送の主要経路。明石道から三木城への
雑木の山腹を歩き回っていたら踏み跡の続く土橋状が有ったが?

兵糧搬入を阻止するため此処に築かれたのでしょう。プラ階段の登りが終わると平坦で広い台地に出る。左右を雑木に囲まれた道に台地のイメージはないが鉄塔に着けば周囲の様子からも実感出来る。其れだけに付城とは云え城砦らしい場所も遺構も見当たらない丘陵頂部の広い台地の広い範囲をフエンス囲いの鉄塔が建つ。丘陵頂部には30㎡の方形曲輪とL字形の土塁があったという? 平坦な丘陵部の藪中の端部を探しながら少し降り傾斜となる部分、別尾根に続くらしい浅い谷間に土橋状の小道が延びていた。鉄塔からの正面尾根筋は山火事跡:煤けた黒い立木も哀れだが谷間の造成地は田畑や宅地ではなさそう。工場か不燃物廃棄所に成るのかな?遠くにホースランドや朝日ヶ丘団地の建物が見える。羽場山はよく地図を見直せば"道の駅みき"背後の丘陵部:「伝承の里みき(市立図書館)」には
羽場山上付城・造成中の谷間越しにホースランド方面

怨霊が宿る虎が嶽包囲網の秀吉軍武将配置図には羽場山の塁の守将石兵四郎と記されている。見晴らしの良い丘陵は三木合戦で別所軍の見張砦だったが秀吉方の部将:石兵四郎が攻め別所軍を虐殺し占拠して陣所としたと云われ両軍の怨霊が残る激戦地だったといい「羽場」は練兵場の意だそうで此の広い平坦な丘陵部は黒井城の練兵場だった百間馬場の雑木藪を取り払った姿を想像する。

小林八幡神社付城 xx118m 三木市福井

三木山森林公園分岐「八幡宮」交差点の南方:小林八幡神社背後(北)一帯は谷に落込む崖状で天然の深い堀となる要害。明石道峯構付城付近南側にある奥池からの谷南側丘陵沿いと,県道三木環状線沿い二重の土塁線が小林八幡神社東にある小林上墓地付近で合流し仁位谷奥付城へ続くようだが県道23号に出た”さつき台入口”からは
八幡神社拝殿東の低土塁と排水溝?

仁位谷奥付城と二位谷土塁や旧白川道(源平争乱の頃・三草合戦で勝利した源義経が須磨一の谷の合戦に向かった主要街道)も案内道標がないと気付かない程宅地化の波で埋没している。仁位谷奥付城の一つも”さつき台入口”の三木郵便局北隣にあるタンクの北側と旧白川道への道側に出来た”さつき台住宅案内所”の駐車場奥に沿った雑木薮に埋もれた崖状を切岸として土塁・曲輪が残っているかも?白川道側からは飼犬が吠え立てる民家と○○工業所の裏手崖状までの僅かのスペースに微かに曲輪や土塁の片鱗を見るのかも知れないが私有地と猛烈な薮では諦めと期待薄と…興味も半減以下です…(^^ゞ さて小林八幡神社の南側参道入口左右にも包囲網多重土塁の延長「福井土塁」の残欠が残っておりシクノ谷峯構付城の南を通り 宿ノ谷土塁や小林土塁細谷池の東の福井土塁へと秀吉の三木合戦包囲網多重土塁が此処八幡神社前へと続く。小林八幡神社も平成4-7年(1992-95)県道三木環状線から
八幡神社拝殿西の土塁曲輪

森林公園側の県道22号を結ぶ道路新設拡張工事等?!で発掘調査された寺社跡だが発掘調査で掘立柱建物や古銭・鉄砲玉・陶器等も発見された城館。小林八幡神社の東200m程に小林墓所があり谷を望む北側に土塁が走っている。この墓所に【享保7年(1722)当時明石領主松平直常の代官:黒田豊前守直邦の命により当時天領であった御林(小林)は三木市久留美の社僧であった子谷善徳坊によって開発され享保13年(1728)播磨国美嚢郡小林新田が誕生した】として小林の起原:開祖小谷善徳坊の廟と顕彰碑が建つ。現:八幡神社と関係する人物か顕彰碑文からは判らないが?南側から鳥居を潜り小林八幡神社拝殿に至る参道は平坦で付城イメージはないが境内西の車道側には曲輪の段差と土塁があり、虎口らしい通路は車道に出て消える。車道の西向いは小さな谷が神社に北面・西面を囲い込み要害を形成する。
八幡神社境内の陰陽の祠

(陰陽の祠)山桃の古木一帯の神社東側は低土塁で区切られ民家と田畑の境を高さ1m程の土塁で囲われている。調査報告書等を知らないが寺社跡か生活空間が東側・城郭遺構は拝殿・本殿の西側から北側に在るようです。南側は平地が拡がるだけなので谷を隔て北側を望む本殿の位置辺りには見張り櫓台があったか?守将は誰かも不明!?。多重包囲網の南端部に位置する付城なので 別所方から秀吉方に付いた者が後方を谷に隔てられ逃げ道を絶たれた文字通りの背水の陣!で敵の矢面に立たされ嘗ては身内・仲間と戦う常套手段の図を想ってしまうがどうでしょう?陰陽の祠(ほこら)境内の拝殿の隅に空洞化した山桃の古木があって注連縄が張られている。古代より石や岩・古木の洞穴を女陰と見て子宝恵みと安産を祈る素朴で!おおらかな信仰が此処にもあり鎮め奉られています。古木の胴内に男根を象徴する鋳物?の造形が置かれているのはリアルさはないものの感心しない。此れならソーラー式の園芸用照明燈の方が安くて気が利いているかも?

君ヶ峰城 xx三角点Ca120m 君が峰町・宿原字赤松谷

三木山総合公園野球場の南端・さつき台入口に白川道(義経道)の案内板が建てられた小公園?から宅地開発が進む二位の谷池を三木郵便局のある県道22号さつき台入口交差点にかけて車道沿いに城域が点在す二位谷奥付城がある。総合公園野球場の南側を北東に進むと高台の分譲地と三木東中学校の校舎を望み其の東側には北方から緩やかに突き出してくる丘陵がある。
君ヶ峰城は三木東小学校途端付近の丘陵上にある

大きく崩され土取りで削平された山肌を露呈する丘陵帯に山城の遺構は既に壊滅・消滅していると思われる状態だが東中学校東上を市営団地へ抜ける車道へ末端を落とす尾根先に君ヶ峰城がある。阪神:播磨には朝鮮征伐に関する”神功皇后”伝説が多く此処にも百済国を助けるため新羅国に出兵した話が伝わる。遠征の途中・神功皇后が君ヶ峰あたりで休息された際、土地の民が壺に入れたお酒を献上した。
広い造成地?・疎林中に土塁が続く(高さは曲輪内側50cm・外側1.5~2m程)

皇后が大変お褒めになり御酒(みき)と呼ばれたのが三木の地の由来とされ、美壺(みつぼ)も美嚢(三木市は旧美嚢郡)転じたと云われる。三木市が金物の町となったのは遠征に多くの韓人を連れ帰り三木に住み鍛冶を行なったのが始まりという。昭和63年(1988)の発掘調査で土師器・陶磁器・古銭・鉄釘等が出土している。付城は目前に三木城の宮ノ上要害や鷹尾山城を直視出来る位置。三木合戦の際には秀吉軍の付城として守将羽柴小一郎秀長(秀吉軍武将配置図に木下与市郎:秀吉の弟で後に大和郡山城主)が陣を敷いたところ。開発による重機作業を除いても!大部隊を駐屯させたと思えるほど
三木東小学校東丘陵上にある君ヶ峰城

広い削平地があり低土塁が広い平坦地の端を囲んでいる。広過ぎ・また平坦地の削平状態も良過ぎるので当時の曲輪とは思えない。其れに三木市資料にも発掘調査によって消滅した付城として二位谷奥付城や加佐山の付城(山陽自動車道のSA内)と共に君ヶ峰城も含まれるが…壊滅と聞いても此処は淡河城主:定範との戦いが良く知られる秀吉の弟秀長の付城だけに薮だが何かある?…土取りで大きく崩され削平されている付近に三段ばかり広い削平地
広い造成地からも疎林野中に土塁が続く

その中に西端の段差に沿って長く延びる低土塁は西北端部で堀状になり其処の土橋状を渡る箇所は土塁がT字形となっています。堀切にしては幅も深さもないが狭い凹郭部なので虎口と考えれば判ります?。この北側下にも広い平坦地があり山側に斜上する土塁線が 此の虎口と思える位置に延びているので通路かも稜線端の土塁道を北に降ると平坦地の直ぐ下方で東中学校裏手の市営団地方面への車道に出る。此れ等遺構!?は既に消滅したとされる君ヶ峰の付城のものか?。

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