三木市歴史の森に付城遺構を訪ねて・・・三木合戦の付城群 其の二
三木市(五万図=三木)
歴史の森に合戦の付城めぐり 其の二 H18年02月19日
近畿の山城 高木大塚城 包囲網多重土塁(高木大山土塁:小林土塁:福井土塁)
  
八幡谷の上明石道付城:羽場山上付城 小林八幡神社付城  君ヶ峰城
高木大塚城・南面の土塁

三木山森林公園は震災(平成7年・兵庫南部地震)以前にも何度か訪れた所ですが、R175号線沿いの国有林が開発整備され三木ホースランドパークが出来、其の入口には”道の駅みき”が有り、更に近くの福井バイパス側には”歴史の森公園”も出来た。 此れ等施設内に「付城」の遺構が残るといわれ前回の付城群巡りに続き三度訪れて付近の見残した付城や多重土塁を散策してみます。織田信長の中国・毛利氏征伐途中、 織田方から毛利方に付くかたちで叛く結果となり、三木城に籠もった城主:別所長治を天正6年(1578)から天正8年(1580)まで約1年8ヶ月に及び攻めた 羽柴秀吉軍は、別所氏に加勢する勢力や毛利方からの援軍と、兵糧搬入の路を断つ為に三木城を取囲んだ。付城と包囲網多重土塁は其の数に於いても総延長に於いても、此れまでの合戦に例を見ない壮大なものでした。兵糧攻めによる飢餓作戦 「三木の干殺し」と呼ばれる凄惨な三木合戦は、信長が行った・伊勢長島の一向宗との戦いや、伊丹の荒木村重の叛逆に対する一族・婦女子を区別無く皆殺し・焼き殺した酷さに於いて「勝敗が見えていて行う非常さ」には、どちらも遜色ない 残忍で非情な行為に思えます。余程の恨みを感じての事でしょうが・・・
羽場山上付城・山上と思えない広く長い台地に城遺構は?

悲劇の舞台・三木城も破却され、城遺構は明石城築城の資材として持ち出された明石街道(明石道)にも、秀吉軍の包囲網の城砦は続きます。記録には40有余の付城や多重土塁が敷設されているのですが其の多く(約30ヶ所)の位置は調査 ・確認されているようです。遺構は私有地の中で立入れなかったり消滅したり、僅かに片鱗をのぞかせる部分も公園化で保存されない限り、開発・整地で消えていきます。付城の位置さえ・其の開発計画があって調査が入り発見されている現状です。 先日・三木市内の三つの公園の遺構巡りで、地図上ではだいたい確認出来ていたが、現地では開発で周囲の様子が・すっかり変わっていて今居る位置や向かう方向さえ分からなくなって、行着けなかった周辺の付城を再度探し出かけてみました。



 高木大塚城 包囲網多重土塁(高木大山土塁:小林土塁:福井土塁)
 
八幡谷の上明石道付城 :羽場山上付城 小林八幡神社付城 君ヶ峰城


高木大塚城  xxx Ca85m   三木市別所町高木・朝日ヶ丘

先ずは「三木ホースランドパーク」ガイドパンフレットの マップに描かれている大塚城です。案内パンフに描かれている園内!?の概略図では、其の中程に大塚城があって簡単に行けると思っていたが、直結する道やコースがわかり難く、ゲート付近から園外へ出ないと行けないのかも?絵地図で行き着ける様な簡単な場所では無さそうで、初めてホースランドに行ったときは地図で探しても迷うだけ?なので諦め、県道20号線の高木からバス道を 朝日ヶ丘団地内へ入ることも考えたが・・。
高木大塚城・土塁と櫓台(北面から)

三木ホースランドパークのゲートの北側「ふれあいの館」から徒歩で上がって来ると、トラック馬場の東側”物見台”の標識があるゲート近くの三叉路に着く。 ゲートとは反対に北へ下る管理道を辿って朝日ヶ丘の住宅最南端部に着く。高層マンションと車道を隔てた林の中に曲輪と分かる台地と、 湾曲に曲がりくねりながら東北方の住宅地側に延びる土塁が高木大塚城の遺構でした。
!高木大塚城の外周土塁線(南東面)

南北に土塁囲みの城域の中央西よりの一番高い位置を占めているのが櫓台と思え、 古墳のマウンドを使用しています。この付城は、三木城を兵糧攻めにするため天正7年(1579)に築かれた 30余りの付城の一つで、絵図「三木城地図」に描かれています。曲輪は主郭のみで、櫓台を中心に配しその周囲を十字の形に土塁で囲み、 南西に虎口を設けています。曲輪の広さは約 3,600uで古墳が所在する周囲を含めると約6,500uが残っています。土塁が十字形に四方に張り出しているのは、 正面だけでなく側面からも攻撃できるように意識し築いたもので、これを横矢掛りと呼んでいます。
城名の由縁 ・古墳(大塚)のマウンドは櫓台(南面から)

櫓台は一辺約20mの隅丸方形を呈する高さ約5mを測る規模で、周辺に古墳(塚)が点在することから、古墳群中最も大きい古墳を利用して築かれたものと考えられています。 このことからこの付城を「大塚」の名称を用いて「大塚城」と呼んでいます。なお、この付城を守った武将については、残念ながら分っていません。城域西の車道側に虎口があり、北側の住宅地境に沿う数ヶ所の曲輪を区切るような土塁が あって、深い薮を抜けて中央櫓台付近の土塁と結合して、ガイドにある十字形を呈しているのかと 思われますが、南北に走る土塁から櫓台の北の薮中を一周してみたが土塁がクロス状態を呈している部分がよく判からなかった。
高木大塚城(北面)宅地境界の土塁線

南東側の歪に湾曲する土塁が”横矢掛り”を意識しての構造にしては 外側が広く空き過ぎているので有効とは思えません。往時の地形は判りませんが単郭だった様ですので、東西に延びる土塁に、 東播・北播から駆けつける別所方の援軍を迎え討つ為、朝日ヶ丘西側丘陵の北端部に在った法界寺山ノ上付城と呼応する形で、北西側にも土塁を付け足して、 双方向からの敵に対する備えをしていたのでしょう。
(現地:ホースランド内案内板[HISTORIC SITE MAP]  大塚城案内板を参照)


三木合戦包囲網多重土塁
 (高木大山土塁)  xxx Ca85m   三木市別所町高木字大山

「三木ホースランドパークのゲート」の北・トラック馬場の東側に ”物見台”の標識がある。南の大山交差点へ向かう三叉路角には駐車場が有って、この辺りが「高木大山付城」跡かと思われますが、位置や城砦遺構ら しいものが良く分かりません。今回は行き着けた大塚城ですが、 其の近くに在って住宅地の奥に消えたものか?行けなかった”高木大塚土塁”と一連と思われる土塁がトラック馬場を横切る形でゲートから西方へ延びているので車道に沿ったホースランド側に注意して歩いてみます。
高木大山土塁(土塁線が手前でT字状に交差する)


前回はホースランドの馬事センタ東端から抜けるつもりだったが、車道側の民家との境の丘陵上へは崖状で、 しかも立ち入り禁止の鉄条網フエンスで囲われています。引き返すのも癪!なので南西側の丘陵側を登り牧場を抜けて車道へ出た。ホースランドのゲートへ戻る際に民家と田圃に100m程続く土塁らしいものを見つけていたので早速其処に向かった。 民家の人に声を掛けて裏側へまわる。 畑と竹薮の間に此処からは40m程続く高さ1m程ばかりの土塁に沿って南に向かう。土塁線の先端は南北にT字になって交差し、畑地に沿って南の車道側へ延びていく。西北側は民家側の竹林と西の雑木薮の間に延びるが、直ぐに前回は迂回させられたホースランドの、馬事センタ側の南端で開発予定の空地、西に谷を挟んで牧場側です。
高木大山土塁(民家裏)

この付近一帯は風の強いところで風防の為、民家の方のお話では竹薮は先代が植えたもの、以前は松林 ・松茸も良く採れたといいます。足元の土中には蜂がいるようで注意するように・・・とのこと。冬場なのに!と思っていたが最近刺されて入院した人もいたとか?。T字部から南北に走る土塁の南側は道路を横切ってシクノ谷峯構付城側にある民家の付近にも 残っていたといいます。三木市遺跡分布地図には記載されていませんが。土塁の延長線はシクノ谷峯構付城の南を通り 宿ノ谷土塁や小林土塁、細谷池の東の福井土塁へと繋がっていきます。
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(小林土塁)    xxx Ca100m    三木市福井

福井バイパスへの車道を挟んで宿ノ谷土塁の向い側。細谷池の北上に車道に沿って西に延びる尾根先部が 車道とビニールハウスが並ぶ畑地に其の境を接しています。畑地の奥から細谷池に向かって薮の尾根道に低土塁が延びています。
小林土塁(末端の残欠部)

斜面を登る土塁は1m程の低土塁ですが土塁残欠が残る先端部分(畑から山側へ這い上がる境の取付き部!)は2m程と高く感じます。 高木大山土塁がシクノ谷峯構付城の西へ延びていた様なので、 此処から大山交差点南への車道沿いに此の小林土塁及び宿ノ谷土塁とも交差・直結してR175号へ続く土塁線、更に明石道峯構付城の南から小林八幡神社付城へと約300m程の間を空けて 続く二重の包囲網土塁線の関連が考えられるのですが・・・!。
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(福井土塁)   xxx Ca100〜120m    三木市福井

シクノ谷峯構付城や小林土塁を見た後R175号線の福井バイパスを直進して抜けた所・左手に明石道峯構 付城があるがR175号を南側へ右折すると明石道峯構付城と谷(奥池)を挟んだ国道沿いと、奥池と三木グリーンパークのグラウンド(野球場)側に包囲網多重土塁(福井土塁)が残ります。 開発でどんどん姿を変えてゆく一帯の中でも其の様変わりの大きなところです。
福井土塁・グラウンド北隅に湾曲する土塁がフエンスの先へ

明石道峯構付城が史跡公園として残されたがR175号線沿い の土塁(グリーンパークの西へ奥池の谷上に続く稜線上にある)も直ぐ南側は広く切崩され平坦地になっています。 奥池からの谷向いにはグリーンパークのグラウンドが拡がりますが”関係者以外立ち入り禁止”看板があるのですが、
明石道峰構付城南の福井土塁


遺構の位置は一番奥の北隅に有ってホームベース付近・行き着くルートはグラウンドの中を突っ切って・・おり無理かと思うがどうにも 諦めきれない。車道とグラウンド端から下方の池の向かって斜面を下り、谷沿いのトラバースで目的位置に向かった。 土塁はグラウンド北端へ登るようですが、西の谷(フエンスがあり更に薮)に向かう高さ1m程の土塁が緩いカーブを描いて延びています。グラウンド北側の谷に面する縁が東端の雨天ゲートボール練習場施設北側へと、土塁の高みをもって延びているのですが ・・・違うのかな?
福井土塁・小林墓所から東に延びる土塁線

さらにR175号の西・いま下ってきた細谷池との間にも一連の土塁が有りました。 7〜80mをほぼ直進する高さ1m〜1.5m程の土塁は水道施設のポンプ場らしい施設周辺の荒涼とした感じからは、工事で消滅しているのではと思える状態で、諦め半分でとりあえずフエンス沿いに旧道の舗装道も 消えかけた車道跡に降りて、薮の山林に入ってみたら、 ポンプ場背後に破壊を免れて残る土塁線が細谷池の北 ・ダムの下方に延びていました。広範囲に点在する福井の土塁線は小林八幡神社の東へも続きます。 幾つもの土塁が残るようですが、やはり会社や個人私有地内には立ち入れませんが、小林八幡神社に寄るので 其の周辺を散策して探してみます。実は神社入口の左右に土塁線は有りました。
福井土塁・細谷池側


三木グリーンパークから道なりに進むと、県道脇側の車道に出てきます。交差点の向いに”小林八幡神社”の参道入口があり、森林公園へ左折する手前 ・工場に囲まれた空地?前の用水路と車道に沿って土塁の底部が延びています。八幡神社の燈篭の先、地区内の道沿い・神社側や県道22号線に出る県道三木環状線沿いにも土塁の形跡を残す所(XX自動車から小林墓地にかけて)がある。八幡神社から東に抜けると 此の小林墓地に行き着くが、この墓地の北端に土塁線が東に残片的に延びていきます。土塁線の北側は明石道峯構付城・奥池からの谷筋に面して比高20m程の斜面になっています。


八幡谷ノ上明石道付城と羽場山上付城
八幡谷ノ上明石道付城
 xxxx 95m〜107m 県道神戸三木線沿  三木市福井
羽場山上付城     虎ヶ嶽! 93m  三木市福井字薬師ヶ谷

八幡谷ノ上明石道付城へ・・県道22号(神戸三木線)の三木山森林公園分岐「八幡宮」交差点から小野方面へと 北へ進むと鶯谷の三叉路に着く。 緩やかに下っていく県道に沿って東側に低い丘が続いています。鶯谷からは「三木山森林公園ハイキングコース」の鶯谷入口が有って、10m程登れば後は森林公園へ 降るだけの遊歩道が通じます。 三木山森林公園と県道22号線に挟まれて細長く延びる尾根が北方の送電線鉄塔に向かいます。
鶯谷交差点〜鉄塔中間付近の空掘状・尾根を挟んで土塁と堀切状?

県道22号線側は土採り等で削られてはいるが、高低さの殆どない10m程の壁状の自然の切岸となって続いています。二位谷奥付城 が白川道(義経道)沿いに城域を点在させて存在していますが、此の八幡谷ノ上明石道付城も神戸・明石方面への県道22号線沿いの丘陵上に遺構を点在させて残っています。一城別郭を意識出来る様な、明確に城域を区分する堀切や曲輪の土塁や切岸等は無さそうです。・・・が中央郭部の北端には尾根を堀切 ・土塁で遮断する形で、県道側には深さ2m・幅3m・長さ6〜7m程の空堀状の窪地が有り、 尾根筋を土橋風にして虎口としている様な箇所があります!。
同位置は尾根筋を堀切・土塁で遮断している様、 中央は虎口か!


空堀状側には櫓台が有ったのかも?。この内側東(森林公園側)には土塁囲いの曲輪が在ります。 薮で確認出来ないが広い尾根上に数ヶ所・数段の曲輪は在りそうな様子です。此処から北への尾根上には、 びっくりするほど広く長い雑木林の様な平坦地が薮の中に続きます。潅木が伐採されている辺りは建物跡が在った所なのかも!。北に送電線鉄塔が見えてきたが、 しかし遺構らしいものを見かけないまま此の北郭部の城域を抜けるのかと思っていたら、鉄塔の直前になって 曲輪と北に土塁の残欠らしいものが見えた。
八幡谷ノ上明石道付城・鉄塔横の曲輪と土塁

この曲輪の北側にも低い段差ながら土塁囲いの曲輪が有って、腰曲輪らしい雑木薮の平地の先には、不必要な程広く尾根幅いっぱいの平坦地に送電線の鉄塔が建っていた。 この位置が城域の曲輪跡で有ったかどうかわかりませんが、県道を挟んだ送電線西側の丘陵上には「羽場山上付城」が有りました。立ち寄る時間が無くて今回はパスします。 ホンとは未だ良く調べていなかったので後で気付いただけですが ・・(^^ゞなを送電線巡視路を利用して降ると三木第一水源・奥池北端に降り立ちます。
同 三木山公園側の曲輪と上段の切岸!


県道22号線から直接・奥池経由で訪城する人は少ないでしょうが・・・?八幡谷ノ上明石道付城は羽柴秀吉軍による天正の三木城攻めの際に築かれ、西に羽場山上付城、 東に三谷ノ上付城と呼応し、法界寺上山ノ上付城・大塚城と共に三木城北面と西面からの兵糧搬送や別所方への援軍阻止の警戒にあたっていた付城群の一つで、「播磨鑑」等には守将として間嶋(鹿島!)彦太郎、福原右馬之助が拠ったとされています。 羽場山上付城へ・・・ 前回・県道22号線鶯谷から県道沿いの尾根筋に位置する 八幡谷ノ上明石道付城へ行ったが、折角撮った画像を消去してしまい、再度の訪城になりました。今度は三木山森林公園内から向かい巡視路手前の遊歩道を取り、途中から尾根筋へ疎林の間を直登して東端部の曲輪と土塁の残る送電線鉄塔に着く。 此処からは巡視路に沿って県道22号に降りる。車道を横切って、 ガードを越え谷筋に続く巡視路を今度は羽場山上付城へ登ります。此処の守将は明石与四郎則実といわれます。県道22号を挟んで二つの付城が、兵糧搬入の主要経路・明石道!?から三木城への物資輸送を阻止するため此処に築かれたのでしょう。
雑木の山腹を歩き回っていたら踏み跡の続く土橋状が有ったが?

プラ階段の登りが終わると、今の登りが嘘のような平坦で広い台地に出ます。 左右を雑木に囲まれた道なので台地のイメージは無いかも知れませんが、正面の鉄塔に着けば周囲の様子からも実感出来ます。其れだけに付城とは云え,城砦らしい場所も遺構も見当たらない?丘陵頂部の広い台地の広い範囲をフエンスで囲った鉄塔が建つ。 丘陵頂部には30uの方形曲輪とL字形の土塁があったというが ?平坦な丘陵部の藪中の端部を探しながら、少し降り傾斜となる部分、別尾根に続くらしい浅い谷間に 土橋状の小道が延びていた。 鉄塔からの正面尾根筋は山火事跡、煤けた黒い立木も哀れだが、谷間の造成地は田畑や宅地では無さそう。工場か不燃物廃棄所に成るのかな?遠くにホースランドや朝日ヶ丘団地の建物が見える。
羽場山上付城・造成中の谷間越しにホースランド方面


羽場山はよく地図を見直せば”道の駅みき”背後の丘陵部。「伝承の里みき(市立図書館 )」には”怨霊が宿る虎が嶽”・包囲網の秀吉軍武将配置図には羽場山の塁の守将に石兵四郎と記されている。見晴らしの良い丘陵は三木合戦で別所軍の見張り・狼煙台の砦だったが秀吉方の部将:石兵四郎が攻めて、 別所軍を虐殺して占拠して陣所としたと云われ、両軍の怨霊が残る激戦地だったといい、「羽場」は練兵場の意だそうで此の広い平坦な丘陵部からは 黒井城の練兵場だった?”百間馬場”の雑木藪を取り払った姿を想像してみた。


小林八幡神社付城  xxx xx118m  三木市福井

県道22号(神戸三木線)の三木山森林公園分岐「八幡宮」交差点から南方を見ると良くわかりますが、小林八幡神社の背後(北)一帯は谷に落ち込んだ崖状で、天然の深い堀となった 要害を呈しています。明石道 峯構付城付近南側にある奥池からの谷南側丘陵沿いと、県道三木環状線沿いに土塁が残ります。この二重の土塁線が小林八幡神社東にある 小林上墓地付近で合流して、仁位谷奥付城へ続く様ですが、県道23号に出た”さつき台入口”交差点からは仁位谷奥付城や”包囲網多重土塁(二位谷土塁)”の痕跡は勿論、旧白川道(源平争乱の頃・三草合戦で勝利した源義経が須磨・一の谷の合戦に向かった 神戸方面から播州・姫路方面への主要街道)も、案内道標が無ければ気付かない程、宅地化の波で埋没しています。
八幡神社拝殿東の低土塁と排水溝?


前回寄った仁位谷奥付城の一つも”さつき台入口”交差点に有る三木郵便局の北隣にある排水タンクの北側と、旧白川道への道側に出来た”さつき台住宅案内所”の駐車場奥に沿った雑木薮に埋もれた崖状を切岸として、 上部の土塁を伴った曲輪が残っているのかも?白川道側からは、飼い犬が吠え立てる民家と○○工業所の裏手の崖状までの僅かのスペースに、微かに曲輪や土塁の片鱗を見るのかも知れませんが私有地と猛烈な薮では諦めと期待薄と・・・興味も半減以下です ・・・(^^ゞ さて小林八幡神社の南側参道入口の左右にも包囲網多重土塁の延長 「福井土塁」の残欠が残っており, シクノ谷峯構付城の南を通り宿ノ谷土塁や小林土塁、細谷池の東の福井土塁へと秀吉の 三木合戦包囲網多重土塁が此処八幡神社前へと続いています。
八幡神社拝殿西の土塁曲輪


小林八幡神社も平成 4〜7年(1992〜1995)県道三木環状線から森林公園側の県道22号を結ぶ道路新設・拡張工事等?!で発掘調査されたようです。寺社跡ですが発掘調査では掘立柱建物跡や古銭・鉄砲玉・陶器等も発見され城館跡でもあった様です。小林八幡神社の東200m程に 小林墓所が有り谷を望む北側に土塁が走っています。この墓所に【享保7年(1722)当時明石領主松平直常の代官:黒田豊前守直邦の命により当時天領であった此の地・御林(小林)は三木市久留美の社僧であった子谷善徳坊によって開発され享保13年(1728)播磨国美嚢郡小林新田が誕生した】として小林の起原:開祖小谷善徳坊の廟と顕彰碑が建つ。現:八幡神社と関係する人物か顕彰碑文からは判らないが ?南側から鳥居を潜り小林八幡神社拝殿に至る参道は、平坦で付城イメージは無い様に思えましたが、境内西の車道側には曲輪の段差と土塁が有り、虎口らしい通路が車道に出て消えてしまうが・・・(^^ゞ
八幡神社境内の陰陽の祠

車道の西向いは小さな谷が入り込んで神社に北面・西面を囲い込んで要害を形成しています。”陰陽の祠”山桃の古木の有る一帯の神社東側は低土塁で区切られ、 民家と田畑の境を高さ1m程の土塁で囲われています。調査報告書等の情報を知らないが、寺社跡か生活空間が東側・城郭遺構は拝殿・本殿の西側から北側に在るようです。南側は平地が拡がるだけなので、谷を隔てて北側を望む本殿の位置辺りには 見張りの櫓台が有ったのかも?守将が誰なのかは不明の様です。多重包囲網の南端部に位置する付城なので、別所方から秀吉方に付いた者が後方を谷に隔てられ、逃げ道を絶たれた文字通りの背水の陣!で、敵の矢面に立たされ嘗ては身内・仲間と戦う、 常套手段の図を想ってしまうのですが・・・どうでしょう?
陰陽の祠(ほこら)境内の拝殿の隅に空洞化した山桃の古木が有って注連縄が張られている。古代より石や岩・古木の洞穴を女陰と見て、子宝恵みと安産を祈る・素朴で!おおらかな
信仰が、 此処にも有って・鎮め奉られています。古木の胴内に男根を象徴する鋳物?の造形が置かれているのは、リアルさは無いものの感心しない。此れならソーラー式の園芸用照明燈の方が安くて気が利いているかも?


君ヶ峰城  xxx Ca120m 三角点xxxx    三木市君が峰町・宿原字赤松谷

三木山総合公園野球場の有る南端 ・さつき台入口に白川道(義経道)の案内板が建てられた空地(小公園)が有る。此処から宅地開発が進む二位の谷池を三木郵便局の有る県道22号”さつき台入口”交差点にかけての車道沿いに城域が点在する二位谷奥付城が有る。総合公園野球場の南側を北東に進むと高台の分譲地と 三木東中学校の校舎を望み、其の東側には北方から緩やかに突き出してくる丘陵がある。
君ヶ峰城は三木東小学校途端付近の丘陵上にある


大きく崩され土取りで削平された山肌を露呈する丘陵帯に山城の遺構は既に壊滅・消滅していると思われる状態だが東中学校東上を市営団地へ抜ける車道へ末端を落とす尾根先部分に君ヶ峰城が有り ました。 阪神:播磨には朝鮮征伐に関する”神功皇后”の伝説が多い様で、此処にも百済国を助けるため新羅国に 出兵した話が伝わります。遠征の途中・神功皇后が君ヶ峰あたりで休息された際、土地の民が壺に入れたお酒を献上しました。
広い造成地?からも疎林の中に土塁が続く(高さは曲輪内側50cm・外側1.5〜2m程)

皇后が大変お褒めになったの事から御酒(みき)と呼ばれ、此れが三木の地の由来とされ、美壺(みつぼ)は美嚢に(三木市も旧美嚢郡)転じたと云われます。 更の三木市が金物の町となったのは、この遠征により多くの韓人を連れ帰り、 三木に住んで鍛冶を行なったのが始まりと言い伝えられます。昭和63年(1988)の発掘調査で土師器・陶磁器・古銭・鉄釘等が出土している付城は、目前に三木城の宮ノ上要害や鷹尾山城を直視出来る位置に有ります。
三木東小学校東丘陵上にある君ヶ峰城

三木合戦の際には秀吉軍の付城として守将:羽柴小一郎秀長(秀吉軍武将配置図に木下与市郎と記されている 、秀吉の弟で後に大和郡山城主)が陣を敷いたところで、開発による重機作 業を除いても !・大部隊を駐屯させたと思えるほどに広い削平地があり、低土塁が広い平坦地の端を囲んでいます。広過ぎ・また平坦地の削平状態も良過ぎるので当時の曲輪とは思えない。 其れに三木市資料にも発掘調査によって 消滅した付城として、二位谷奥付城や加佐山の付城(山陽自動車道のSA内)と共に、君ヶ峰城も含まれているのですが・・・。壊滅と聞いても此処は淡河城主:定範との戦いが良く知られる秀吉の弟・秀長の守った付城です。薮が有る限り何か有る?・・・土取りで大きく崩され削平されている付近に、三段ばかり広い削平地・その中に西端の 段差に沿って長く延びる低土塁を追って歩いてみた。
広い造成地からも疎林野中に土塁が続く


土塁は西北端部で堀状になり其処の土橋状を渡る箇所は土塁がT字形となっています。堀切にしては幅も深さも無いが、狭い凹郭部なので虎口と考えれば判ります?。この北側下にも広い平坦地があり、山側に斜上する土塁線が、此の虎口と思える位置の 延びているので通路かも?稜線端の土塁道を北に降ると、この平坦地の直ぐ下方で東中学校裏手の市営団地方面への車道に出る。此れ等遺構!?は・・・既に消滅したとされる君ヶ峰の付城のものか?。

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