歴史の森・ホースランドパーク周辺/三木合戦の付城群 
兵庫阪神(五万図=三木)
ホースランドパーク・三木山に合戦の付城めぐり H18年02月11〜12日
近畿の山城 三木陣屋/秀吉本陣(本要寺)/高木陣屋
法界寺山ノ上付城
包囲網多重土塁(朝日ヶ丘土塁)
シクノ谷峯構付城 明石道 峯構付城
二位谷奥ノ付城 箕谷ノ上付城
 包囲網多重土塁(宿ノ谷土塁・小林土塁)
三木ホースランド内・ふれあい館と道の駅みき

R175号を小野市から三木山森林公園や”道の駅みき”から”三木 ホースランドパーク”【自然環境の中で人と馬との触れあいを通じて、 活力と魅力のある地域振興と文化の創出に貢献する・馬術を中心とした競技やスポーツ振興・さらには自然にふれあうキャンプ場など、 野外活動の拠点として開園されたもので総面積約162ha(甲子園球場の約50倍)の内約80%の130haの森林 ・緑地を保全する】を訪れてみた。
地場産:金物の町のシンボル!(商工会館駐車場)

一帯が「三木市歴史の森」で園内には古墳や三木合戦の際の秀吉軍の付城が幾つか点在しています。馬術の屋内・屋外練習場や練習場のほか ”トレッキングコース”とあるのでハイキング用かと思ったが、どのコースにも”馬の蹄”が続く。心地よく何処までも続く森林の中の散策道の所々には、バー:ブラシ:水濠等の障害練習用施設があり、国際馬術連盟公認の クロスカントリーコースになっています。この広い公園はR175号から「産業文化ゾーン”道の駅みき”」に入った所から始まります。いこいの森 「道の駅みき」は、一般的な施設のほかに地場産業の 「金物」を一堂に展示した金物展示館があります。道なりに「ふれあいの館」のある”ふれあいゾーン”
ミオの森で、来園者に対する各種活動案内、施設紹介などを行い、
法界寺山ノ上付城副郭:土塁囲み曲輪の西面

林間を活用した 野外レクリエーションゾーンになっています。 物見台跡地に登ってくると目前に緑の広場のトラック馬場(一周880m)を見る。車道のゲートを抜け馬場に沿って進むと馬事センタ前を通る。”国際馬場ゾーン”エクウスの森は馬術を中心とした 競技やスポーツ振興さらには自然の中で 馬と触れあうことで、より馬についての知識を深めてもらえるための施設で円形等の屋内練習施設や馬の医療や厩舎も此処にある様です。 車道の終点が研修センターで、駐車場の先から ”野外活動ゾーン”エオの森で人と馬・自然とのふれあいを通した
明石道峯構付城(歴史の森公園)

多目的野外活動センターで敷地内には宿泊・研修施設の「研修センターやデイ・キャンプ場や、テントを設営し野外活動が楽しめる「キャンプエリア」、工作室やリーダー室も設置された「キャンピングセンター 」があり、谷に沿って、山裾を更に尾根に登っていく遊歩道。馬との遭遇を期待していいのか、人が歩いてはいけない専用のクロスカントリコースなのか区分が無く、其れでも遠慮がちに付城探してのトレッキングですが、進む方向に行き先の案内 (キャンプ場以外)は無く現在地の確認も分かりにくい。いっその事・方向が規制される道も案内標も無く、何処でも通れたら迷う事もないだろうな?。
(三木ホースランドパーク のパンフ・案内板を参照)

三木陣屋/秀吉本陣(本要寺)/高木陣屋  法界寺山ノ上付城
 包囲網多重土塁(朝日ヶ丘土塁) 
シクノ谷峯構付城 明石道峯構付城
 
二位谷奥ノ付城 箕谷ノ上付城  包囲網多重土塁(宿ノ谷土塁・小林土塁)

三木合戦の付城・陣城(歴史の森/ホースランドパーク /三木山森林公園の周辺)

西脇市にも”馬事公苑”はあるが、総合自然公園の三木ホースランドパークは 丘陵一帯を敷地として広大なスケールをもっています。三木市街地なら消防署 ・観光協会前を福井交差点に出て県道20号を加古川方面・三木鉄道 :高木駅へ向かいます。高木駅の手前”三木ホースランドパーク”への案内には、 馬の銅像と標識が立っているので此処を左折し日月之宮(宗教法人)の建物を見てR175号に合流して”道の駅みき”を目指します。
県道20号からの三木ホースランド入口

広大な”三木ホースランドパーク”の開発整備工事によって、 余り知られる事の無かった古墳群や、三木城の南に築かれ・古絵図には載っている「付城群 」の幾つかの所在が開発時に確認出来・此の敷地内に一部は現地保存されており、 三木合戦や付城群の事、園内の付城の事も説明板や標識も立てられています。 開発の名のもとに消滅した古墳や城館遺構が多いなか、なんとか残された遺構ですが、 300m余りの長い”包囲網多重土塁”が園内周回道路等で分断されているのは残念ですね (三木城を包囲する多重土塁は約4kmに及ぶといわれます)。
南面(宿の谷)側から車道から望む”シクノ谷峯構付城”

薮の中の1mにも満たない低土塁は気付く人も 少ないかも知れないが、毛利方が瀬戸内から高砂〜加古川を・・・又・明石方面からの兵糧搬入や援軍の侵攻を阻止する為のものと考えられ、荷車での搬送なら輸送の障害にはなりそう?。出来る事なら高木大塚城から包囲網多重土塁(高木大塚土塁 )から寸断されたR175号線を羽場山上付城へ渡り、さらに分断される県道22号を越えて明石道付城への散策コースが有れば良いのですが。”三木ホースランドパーク”絵図ガイドマップには法界寺山ノ上付城・包囲網多重土塁(朝日ヶ丘土塁と高木大塚土塁)・高木大塚付城・シクノ谷峯構付城とR175を挟んで八幡谷ノ上明石道峯構付城が記載されているが、行き着くコースが分かり難い。 また説明板には東に小林八幡神社付城、北東の三木山森林公園内には三谷(箕谷)ノ上付城が現存していると云う。

包囲網多重土塁(朝日ヶ丘土塁)三木ホースランド内

織田信長の天下布武の号令に大将:羽柴秀吉は毛利氏の中国地方へ侵攻を始めます。当初・信長方の 三木城主:別所長治も足利義昭(前将軍)の誘いや家臣の意見の相違から、信長に叛き毛利方に付いて三木城に立て籠もった天正6年(1578)から天正8年(1580)まで約1年8ヶ月に及ぶ、「三木の干殺し 」と呼ばれる凄惨な兵糧攻めの三木合戦が起こります。三木城への救援・兵糧米等物資輸送に関わる悲話も数々残されますが、 其の兵糧搬入や援軍が三木城に入るのを阻止するため、三木城を包囲する30有余の向城(付城)を築き、 秀吉は平井山に本陣を置いて入ります。
三木山森林公園・文化会館(右の丘陵上に三谷ノ上付城がある!)

長期にわたる兵糧攻めにより籠城した三木場内は凄惨を極め、立上がる事も出来ず餓えに苦しむ将兵や領民達の助命を条件に、 「今はただ恨みもあらじ諸人のいのちに代はる我身と思へば」城主:長治は 辞世の句を残して一族共に自害し開城しました。1城攻めに30数箇所を数える付城を築いた例は殆どないが、秀吉は此の大規模な包囲網で三木城を攻略した経験を、 後の鳥取城や備中高松城の城攻めにも行っています。


三木陣屋/秀吉本陣跡/高木陣屋

三木陣屋   三木市本町2  消防署・商工会館・駐車場・三木観光協会付近!:

R175号から山陽自動車道三木小野インタ手前で 県道23号を市街地へ向い 神戸電鉄三木駅付近で美嚢川を渡って県道20号(加古川三田線)に合流する。三木城下・本町を西に向かうと中央公民館・商工会館 ・消防署と其の向いに三木市観光協会案内所が建つ。 一部が正入寺にかかる美嚢川沿いの此の一帯が三木陣屋の跡とされます。
三木陣屋比定地(美嚢川河川敷から商工会館)

三木城廃城後・天正13年(1585)三木城主になったのは、四国征伐では阿波一宮城攻め等の功績が有った中川秀政が65,000石で移封され、 徳川幕府になってからは天領となり譜代大名の領域として常陸下館藩の黒田氏陣屋!?が置かれた。元和3年(1617)には10万石で信州松本から明石城に転封された譜代大名:小笠原忠政が、明石城の完成まで船上城を居城とするが、 家臣団の多くは三木に住んでいたようです。明石藩領となってからは諸大名の飛び地領支配のため陣屋が建てられるようになった。江戸中期以降:上州館林藩の松平右近将監武元や浜田藩等の譜代大名の陣屋に替ります。三木の領内にあって、 一柳氏の高木藩が別に高木陣屋を構えていたようですが、どちらも遺構は残っていません。
(「古文書による三木陣屋と代官たち」三木市観光協会 等参照)


三木城落城後の秀吉本陣跡   三木市本町2  本要寺

県道20号に沿って観光案内所を少し西に向かうと吉祥山 本要寺(日蓮宗)の山門前を通ります。三木義民碑と秀吉ゆかりの寺の案内があり、 ”歴史街道”案内板も設置されているので読んで見ます。三木城を包囲していた秀吉が、幾度も有馬温泉に通った三田方面へは”湯の山街道”が、 姫路や明石へ向かう街道が三木市街地の中心部で分岐し、此の要衝に三木城が有りました。本要寺門前の県道周辺も戦前までは寺の境内に含まれていました。 羽柴秀吉の三木城攻めでは兵火に遇いますが本堂は戦火を免れました。
三木城落城後の秀吉本陣跡・本要寺

天正8年 (1580)1月:城主別所長治一族が自害して三木城が開城されると秀吉は平井山本陣から此の本要寺の本堂に本陣を移し戦後処理を行った。此の寺において別所長治の首検分がされたともいわれます。当寺を三木町16ヶ寺院の主席に命じ、 各地に四散していた町民を呼び戻すため三木を免租地する制札を立てさせ町の復興を図ります。 ところが延宝5年(1677)徳川4代将軍家綱の 検地令によって免租の恩典が取り消されようとします。当時・集会所としても利用されていた当寺での会合結果、 平田町の大庄屋:岡村源兵衛と平山町年寄:大西与三右衛門が打首覚悟で江戸への直訴を決行しました。老中酒井雅楽頭の屋敷前で断食して座込みます。結果・死罪を免れ、免租はそのまま二人は無事三木の地に戻ります。 秀吉の免租の制札は宝蔵に収めてあり、宝永4年(1707)境内に建てられた顕彰碑が有ります。この日は法要のため門外から・・
(現地 本要寺由来案内板 参照)


高木陣屋      三木市別所町高木    豊城根神社付近!:

県道20号 (加古川三田線)で福井の交差点を右折して、 西へ向かうと馬の銅像が立つ”三木ホースランドパーク”への看板を見る。 20号線を直進した直ぐ先が朝日ヶ岡団地分岐で手前の宿谷川に架かる高木橋を渡ると北の朝日神社に向かいます。三木鉄道の鉄橋が跨ぎ踏切りを渡った辺り、 宿谷川の緩やかにカーブに沿って続く堤防が延びる境を東端として、道なりに西へ進む集落内の狭い宅地や、 田畑の間にも土塁を思わせる堤や畦に、嘗ては屋敷跡!と連想します。
高木陣屋の地神を祀るという豊城根神社

この付近から高木駅にかけての北面一帯が 高木陣屋跡とされています。 其の中央部に豊城根神社が有り、 代官として中心の藩邸があった所でしょうが、宅地の中で周囲に明確な遺構は残っていない・・!?。 高木陣屋は三木陣屋の項にも記しましたが、初代一柳直増から続く一柳氏の高木藩の陣屋です。天正6年(1578)の三木合戦に際しては、 浅野長政とともに”二位谷の奥付城”を構えた一柳直末(伊予国西条藩:河野宣高の孫。 宣高が美濃に移って土岐氏に仕え一柳の姓を名乗る)は其の後も数々の合戦で戦功を挙げ、岐阜大垣城主となり播磨加東郡も賜ります。 天正18年(1590)山中城の合戦で直末が討死した為、弟の直盛が継ぐことになった。その直盛には三人の男子があり、長子の直重が伊予西条三万石の藩主、 二男の直家が播磨加東郡を相続して敷地陣屋(小野史敷地町)28,600石の藩主となり、 2代目直次が小野藩陣屋を設立します。
宿谷川・高木橋から 朝日神社付近

そして三男の直頼が伊予小松一万石の藩主となり、ここに三つの一柳藩が成立します。後に西条藩の直興が幕府に対し不興を買うこととなり 領地は没収され、貞享3年(1686)加賀で病死した事により西条藩は天領となり取潰しになります。 ・・・が本家西条藩の建直しが幕府に認められます。しかし天領となっている伊予国(愛媛)西条を復興することは出来ず、宝永元年 (1704)一柳直増が西条から三木に5,250石を領して移り築いたのが高木一柳藩陣屋です。初代直増から9代続いて明治3年(1870)の藩籍奉還の時まで高木は一柳氏の支配地として続いた。
(「三木の人物史」三木市観光協会 等を参照)


這田村法界寺山ノ上付城(善祥房城)  xx 79m  三木市別所町東這田字才ヶ谷

”三木ホースランドパーク”の研修センタからキャンプ場を抜け、馬の蹄形を追うようにトレッキングコースを道なりに進みます。 彼方此方に枝道はありますが広く明るい自然の森の中、直接行着 けなくても散歩がてらの森林浴。少しずつ北方への高みに向かえば間違い無し ?「三木合戦包囲網多重土塁(朝日ヶ丘土塁 )」から少し先(150m程)に休憩展望台があり
法界寺:別所長治廟所と長治の騎乗姿石像

ホースランドパーク内の遺跡略図付案内板が建てられています。包囲網多重土塁の案内板を見て直進するとウッド・デッキの展望台に着く。三木城・鷹ノ尾城の丘陵台地を正面に 望むところで、乗馬のトレッキング・ルートだが遊歩道として開放されている。展望台の近くには「法界寺山ノ上付城 」の標柱が立つが、 其の先数mは薮の中にフエンスが廻らされて立ち入られません。
界寺山上ノ付城:主郭外郭部?の神変大菩薩石碑

フエンスは城域の曲輪に沿って延びおり外側は浅い堀が西面から北側に周っている様ですが、猛烈な薮の中では土塁の高まりも判断出来ません。山ノ上付城へは東這田から名の示す 法界寺から登ってくる道がある様で,”法界寺裏山付城”とも呼ばれる。展望台横からは玉石を左右に並べた参道が、さして険しい山でもなく周辺に岩場も無さそうですが?「神変大菩薩(役行者 )」と彫られた石碑が建てられています。
法界寺山上ノ付城:副郭(北西コーナーの低土塁

一段下に帯曲輪状の平坦地、石碑裏手の廃小屋!?先にも土塁か堀が有るようです ?法界寺が登城道なら堀を渡り曲輪へ登る土橋や虎口も有るのでしょう ・・・鬱蒼とした薮が後世に残す遺構を護っているのかも知れません? 羽柴秀吉が天正6年(1578)三木城攻めに際し築いた向城 (付城・陣城)とはいえ1年以上の長期警備にあたった城で、
主郭 (東面切岸上野土塁線と主郭内部)

此処を守備した武将宮部(善祥房)継潤【近江浅井長政の家臣で秀吉とは対峙したが、小谷城落城後は秀吉の従い、 但馬豊岡城主・鳥取城城代となっている】で出口五郎左衛門・石川清助の名があるようです。【再訪】天正8年(1580)1月17日は三木合戦に城主:別所長治が自刃し、其の遺体が埋葬されたと云われ、菩提寺にあたる法界寺に於いて、例年:その命日に当たる此の日(最近は4月17日に変更)寺に伝わる三木合戦の三幅の合戦絵図が一般公開され信長に叛き 毛利方に付いた開戦初めの野口・神吉・淡河で合戦から、
主郭(南西面切岸)の横堀と土塁(右手)

熾烈・凄惨を極めた籠城戦の様子を再現する”三木合戦絵解き”が行われる法界寺の南丘陵側墓地の背後から直接取次くと 直ぐ這田村法界寺山ノ上付城の北斜面上の曲輪群切岸が現れる。以前:寺と○○工場の間から登城ルートがある事を聞いていたが、 今回はT氏の遺構縄張り確認調査に便乗し、猛烈な藪中に未確認のままの遺構を見て廻った。既に付城の調査・測量図もあり、
主郭内西面切岸上の土塁

一部下草藪は伐採もされている・・・とはいえマダマダ藪地で、ホースランド・パーク遊歩道からの訪城者も皆無に近い状態?は続いている様だ。法界寺東側の竹薮から○○工場間の背後・南方斜面から山上の付城(主郭・副郭)迄には幾段もの段曲輪が駐屯兵の待機場所なのか?間隔を開けずに断崖状に落ちる北山麓近くまで削平段が続く。
主郭・副郭北斜面一帯に拡がる段曲輪群

北方には美嚢川を挟んで正法寺砦が在る。 関連は兎も角三木城の監視<東正面に望まれるが>以上に、加古川から美嚢川に入ってくる船運の要地であり、加西市・小野市側から入ってくる 別所氏援軍や兵糧搬入を阻止出来る街道の要衝地点を見据えての出撃体制にも思える。三木城包囲網の中でも三木城西側付城群の拠点ともなった陣城で、
主郭西北から北東へ延びる横掘 <主郭側切岸3-4m程>と外側大土塁(左)

丹波市譲葉山に発見した黒井城攻めの陣城 譲葉山城東郭・西郭(仮称)に似て?、浅い空堀状を挟んだ東西には四方を土塁で囲う主郭(ほぼ30m四方で横堀と・副郭より高く 幅広の明確な土塁に囲まれた曲輪)と、副郭(主郭より広い南北に約30m・東西45m程の長方形で低土塁が囲む曲輪)が在り、南へ抜け出ると主郭側に土塁と横堀が・東へ延びる土塁線の端がホースランド境界の・
副郭土塁曲輪の東北角(主郭と堀状を挟んだ北の口

此処は前回寄ったフエンス側に延び、 今も藪っぽい内側奥には鳥居と神変大菩薩 (役行者)石碑が祀られ、東下方からの参道が通じている。遊歩道に出る手前にも南西へ自然地形の広い平坦地形があるが、平坦地東角から 南へ短いが低い土塁線が遺る。平坦地系の南側は比較的緩斜面の谷筋だが、小曲輪とも思える平坦段がある。短い谷は南へ流れ出る谷筋を見ない行止りで盆地?状態。北へは幅広土橋状(井戸跡?窪地が有る)から先を落としている・・。
主郭西面の幅広切岸土塁

此処から西へ斜面を登ると遊歩道に出て古墳群案内板の立つ付近。数基の円墳が点在するが詳細は割愛する。 ホースランド・パーク内や付近に高木大塚城明石道峯構付城 シクノ谷峯構付城・二位谷奥ノ付城・箕谷ノ上付城等が在るが 法界寺山ノ上付城もまた、三木城攻略のため・秀吉軍が兵糧搬入や援軍を阻止するため三木城を包囲した付城が30余り築かれうちの一つ。それにしても三木城主:別所氏一族の菩提寺となった法界寺の直ぐ背後の丘陵上に、 此の三木城包囲網の付城や多重土塁が在る。
現地xxx付城説明板等を参照


三木合戦包囲網多重土塁(朝日ヶ丘土塁)  79m 三木市別所町朝日ヶ丘:ホースランドパーク内

三木城の南側に築かれた2〜4重の土塁で 「法界寺山ノ上付城 」から朝日ヶ丘住宅地で分断されていますが「高木大塚城」から東方へ「羽場山上付城」み延び、県道22号(神戸三木線)沿いに「八幡谷ノ上明石道付城 」から 三木山森林公園内の「三谷ノ上付城」を経て、総合運動公園の野球場南端に位置する 「二位谷奥の付城」さらに「君ヶ峯城」へと各・付城を結んで、
包囲網多重土塁:遊歩道西(案内板の反対)側)

三木城とその出城を包囲して南面の堅固しています。 この包囲網は「法界寺山ノ上付城 」からは朝日ヶ丘土塁・「高木大塚城 」周辺には高木大塚土塁・小林八幡神社付近には福井土塁・R175号線沿いには「シクノ谷峯構付城」に宿の谷土塁・小林土塁・福井土塁等の包囲網土塁が取り囲み、総延長は約4キロメートルに及んだと推測されます。此れ等付城や 包囲網多重土塁を一つ一つ廻ってみたいとは思うのですが、場所不詳の上・開発で消滅したり分断されたり、 私有地の中・しかも薮の中であったり・・・見つけても曲輪や 土塁遺構を画像で紹介出来るかどうかは疑問です!!?。
包囲網多重土塁:遊歩道東案内板近く

包囲網多重土塁や付城は、 別所氏と同盟関係にある中国地方の大名:毛利氏が、兵糧を魚住の浜(明石)に陸揚げし、三木城へと搬入していたことから、 これを阻止するために築かれたもので、総延長は約4キロメートルに及んだと推測されます。土塁の高さは約0.3〜1.5mを測る比較的低いものですが、 兵糧を積んだ荷車が幾重にも築かれた土塁を越えるのは困難だったでしょうし、迂回すれば付城の監視の目に触れたと思えます。
包囲網多重土塁:遊歩道(案内板側の東外れ近く)

方向を違え・継続した長い土塁ではなく幾本かに分かれていることから多重土塁となっているのかは、此の後訪れた多重土塁は一本だけ ・二本が並行・・等種々有るようですが、薮や雑木の中での低土塁は判り辛い。なを此の朝日ヶ丘土塁は法界寺山ノ上付城からもホンの数 100m足らずの距離にある・・
(現地:ホースランド内案内板[HISTORIC SITE MAP] 参照)


三木合戦包囲網多重土塁(宿ノ谷土塁 /小林土塁)
宿ノ谷土塁 Ca95m付近(細谷貯水池西北端上 )  三木市福井字大山
小林土塁  Ca102m付近(大山交差点)     三木市別所町字大山

”三木ホースランドパーク”のゲートに向かう三叉路を直進して南への車道を進むと「シクノ谷峯構付城 」の案内板と階段のある登城口が見えてきます。しかしホースランドや歴史の森をはじめ、道路の改修・バイパス道 の新設等、周辺 の開発のすざましさは ・ほんの数年前の記憶も地図さえも殆ど用を成さない変わりようです。車道はシクノ谷峯構付城の南側谷を跨いで、 明石道峯構付城側の福井バイパスからの新道と合うT字辻に出る。
包囲網多重土塁(宿ノ谷土塁?)

正確な位置確認が出来ないが、左手(北方)のR175号福井バイパス交差点へ下っていく新道の 右下方に細谷貯水池が見える。車道左の丘陵の頂部が此処で一気にR175号線側の谷に傾斜を強めます。開発整地されるまで時間の問題 !と思われる広い雑木薮に台地の中に廃屋が有るが、国道を見下ろす東面に沿って高さ1m程度の低い土塁が3〜40m程続く。
包囲網多重土塁(小林土塁?)

南に東西に延びる土塁は新道路で消滅したのかも?土塁に北方約300mには谷を挟んで”シクノ谷峯構付城”が有ります。新道をT字辻に戻って北へ向かって直ぐの民家付近に有るのが小林土塁?。宅地の奥に雑木森が続き、 西に畑地が拡がる間に大きな1.5m〜2m弱!の土塁の残欠らしいものが在った。気付かず進むと大山交差点が有り右折するとホースランドパークのゲート前です。此処にも土塁が残るのですが今回はパス(車道側からは行辛い)。


シクノ谷峯構付城     xxx Ca95m     三木市福井字大山   :ホースランドパーク境 郭 土塁 虎口 櫓台

”三木ホースランドパーク”の「ふれあいの館」から 先・三叉路を右折してゲートに向かう前に、 少し直進して”シクノ谷峯構付城”に寄っていきます。「ふれあい館 」の丸い屋根の向こうにはR175号を隔てて”道の駅みき”が望めます。登山対象になる目標の山もなく・小野市付近の播磨平野を想像していると、 広く拡がる丘陵を縫うように・複雑に深く大きな谷が入り込み、自然の要害を形成している地形にビックリします。しかも丘陵上の城域周辺も平坦地形が拡がっ て住宅 や田畑・工場・牧場地となっています。此処「シクノ谷峯構付城 」も土塁囲みの雑木林の外には殆ど高低差もないまま、
シクノ谷峯構付城・入口の案内板

田圃が拡がっていて不思議な感じです。 南面は谷、東へも深い谷を隔てて「明石道峯構付城」が呼応して、中央部を抜けるR175号線を監視し、明石道からの兵糧搬入や援軍に対する構えとしたのでしょう。車道から案内板横の階段を上って虎口に着く。 帯曲輪が西北へ延び、虎口から一段高い櫓台跡の有る土塁囲みの主郭へ出る。西北隅にも虎口が有り高さ1.5m程の堀!か幅の狭い腰曲輪!状の北には、なんと耕作地や遠くに建物さえ見える平坦地が広がっています。付城は三木城を兵糧攻めにするため築かれた30余りの付城の一つで、天保12年(1841)の絵図「播州三木城地図」に描かれていましたが、ホースランドパーク建設事業に伴って 所在が確認されたものです。
シクノ谷峯構付城・土塁囲みの本郭部

「宿の谷」と呼ばれる谷に張り出す尾根の 先端部に築かれていることから、谷の名称に由来した「シクノ谷峯構」と呼ばれます。曲輪は主郭と腰郭から構成され、主郭は四方を土塁で囲んだ東西約45m・南北約25〜40mの規模で、 南端の土塁中央部には約5x6mの方形の櫓台を築き、 北西隅と北東隅の2ヶ所に虎口を設けています。北東隅の虎口から続く腰郭は主郭のような土塁囲みではなく、削平などの整地により平坦部を造り出しています。主郭・腰郭を合わせた付城の範囲は約3,000uで、 西に隣接する平坦部を含めると約 4,600uとなっています。なお、この付城を守った武将については分かっていません。
(現地:ホースランド内案内板[HISTORIC SITE MAP] 参照)


明石道峯構付城Ca125m   三木市福井  (市指定文化財)

R175号で「道の駅みき 」への分岐を過ぎて緩い坂道を登っていくと福井バイパス交差点に・・・というより、三木市役所の標識を見て国道を外れてバイパスの信号の有る 交差点を左折するところで富士型円錐形の塚が見え、古墳公園の円墳かと思えるが分布図の古墳表示はなく此処が”歴史の森”公園です。
犬走り状テラスから土塁越しに東郭部東南端の虎口

車は進入出来ませんが広い芝生公園で、土塁状の帯や小丘が有るのですが、案内標柱の矢印は雑木林の中の丘の上を指しています。 この付城も天保12年(1841)の絵図「播州三木城地図」に描かれていましたが、平成11年の都市計画による道路工事に際し、 市内遺跡詳細分布調査が実施されて所在が確認され、三木城攻め付城に関する貴重な資料であることから、 道路予定地でしたが市指定文化財として保存整備されることになりました。明石道峯構付城は、明石城の築城用材を三木城から搬出した明石街道の R175福井バイパスの側に有って”シクノ谷峯構付城”等と、また・源義経が三草合戦で勝利して
土塁で囲まれた明石道峯構付城本郭部

一挙に”一の谷”に向かった白川道(阪神間:播磨:姫路方面を結ぶ重要な街道)にも近く、こちらも・神戸や明石方面から押部谷町や神出町を経て三木城への兵糧搬入と援軍を阻止するために、 ”三谷の上付城や二位谷奥付城”等と共に 警戒に当たったのでしょう。30余りの付城の一つで包囲網多重土塁(朝日ヶ丘土塁) の記事のように”法界寺山ノ上付城”から続く 付城や多重土塁が三木城を包囲しており、”明石道峯構付城”の南方にも福井土塁や小林土塁を彼方此方に築 き、執拗に物資輸 送を阻止するため防備の手を休めません。
主郭郭東の土塁・堀切・虎口

明石道峯構付城への表示に従って 尾根上に出た所が西郭部 (本郭)の虎口で南側に続く主郭を囲む土塁南西端が少し幅広になっていて櫓台が築かれています。土塁で囲まれた主郭の東寄りに城址碑があり縄張り図付案内板が石碑に取付けてあります。西郭部の東端部は土塁と堀切が東郭との城域を分けて、虎口部で東郭をつなぎます。付城は遺構の状態が良く残っている主郭部と、其の約3倍程の広さを持つが明るいだけで 雑木林の中の 雰囲気だけ・・・(^^ゞを持つ東郭から構成されているようですが、此処も低土塁が曲輪を回っています。
明石道峯構付城(西郭部)櫓台から見る土塁囲みの本郭

東南端に虎口を設け土塁に沿っての空堀も、土塁が低いところへ、広い遊歩道が付けられているので遺構が目立たず城の防備の緊迫感が有りません?。 此処から東へも平坦な丘陵台地が工場らしい建物へと続いており、犬の散歩道にも利用されているようです。谷筋を北側へ下ると入口から付城の北山裾に沿って延びる芝生公園ですが、此処に見かける自然の大堀切の方が凄さを感じさせますが。
(現地:明石道峯構付城 及びホースランド内案内板[HISTORIC SITE MAP] 等を参照)


二位谷奥ノ付城   xxxxm      三木市福井・さつき台1〜2

県道20号(加古川三田線)から「三木市役所・三木山森林公園 」の標識を見て神戸電鉄のガードを潜り市役所 ・文化会館を抜けると高台の、三木市の東市街地を見下ろす明るく広いロケーションに三木山総合公園の施設が建つ。 此処を通る度に ・陸上競技場と球場施設の間に残された 小さな丘陵部分が 気になっていました。当初は此処が”君ヶ峯城”かと思ったが地図を確認すると其処は丘の陰になっている更に東の様だ。この丘陵に何か有るのかな?と眺めていたら「何かお探しですか?」と声がかかる。 付近の史跡を探している旨を 伝えると「直ぐ向こうに小公園が有って、 何かの説明板が建っているよ」という。方向は野球場南端部!「二位谷奥ノ付城」の比定地がある新興住宅地だ。 開発整地された更地で、 なーんにも無い筈と思っていたので早速・其方に向かった。
(三木山総合公園南端から)二位谷奥の付城

住宅造成地入口のような三叉路の空地(小公園?)に説明板が建てられていたが、城址関連ではなく須磨・明石へ向かう「義経道」の説明案内板だった。開発で大きく変貌した周辺に 遺構はおろか城砦が有った事のイメージさえ湧かない。しかし此処から二位の谷池へかけて約500mの範囲に”二位谷奥の付城”が有ったといわれ、開発に先立っての発掘調査によって戦国時代の土師器・陶磁器・鉄砲玉・古銭等が出土し、 掘立柱建物跡や礎石建造跡としては虎口の城門礎石、土塁・櫓台・堀等のほか、”包囲網多重土塁(二位谷土塁)”も発見されていますが、宅地化で全て消滅したようです。”二位谷奥の付城”は旧白川道(神戸方面から播州・姫路方面への主要街道 )に面し、源平争乱の頃・三草合戦で勝利した源義経が須磨・一の谷の合戦に向かった際、三木市本町の大宮八幡宮に戦勝祈願した後・此処を通って広野を県道22号線沿いに進んだ道なのでしょう?。有名な鵯越へのルートはどうなったのでしょう?。 小野付近で軍を分けているので、本隊が此のルートを辿ったのでしょう。天正6年(1578)に始まった羽柴秀吉の三木城攻めでは、其の南面からの兵糧搬入を阻止するため、翌:天正7年春頃には秀吉軍が築いた付城(陣城)で、 此れに拠って警戒にあたった守将には浅野長政・浅野彌兵衛・一柳小兵ヱ(一柳直末か!)がいたとされます。


箕谷ノ上付城(三谷ノ上付城)   xxxx 112m   三木市福井  三木森林公園

”二位谷奥の付城”に寄ってみたものの得るものは無く、 食傷気味のまま三木山森林公園に向かった。震災以前に息子と来た時・車に乗れるようになったら「此処に練習に来よう」と思った上の広い 駐車場に数台車が止まっている。この時期でも散策に訪れる人が増えたようです!。駐車場側の芝生広場を抜けると「ウッディ広場」のゲートと遊戯施設が点在する広場がある。
三木山森林公園「ウッディ広場 」・ハウスと反対の高みが比定地!

森林公園では一番標高の高い位置で、木工教室なんかが有るだろう 「クラフトハウス」の裏へ回れば急斜な谷となっています。 展望が利けば真北方約1kmには三木城出城の”宮の上要害”が見えるんでしょうが! 谷を挟むように北側尾根に沿って森の研修館〜茶室を経て、森の文化会館へと周回する散策道が有ります。このコースには鉄筋の展望台が建てられ、三木城に正対しており、 向城なら此処に在っても納得ですが?三木城合戦付城や包囲網多重土塁は、三木城を背にして外側に向かっているようですね。”箕谷ノ上付城 ”比定地は駐車場からウッデイ広場に出てきた左手・バーベキュー広場!の一角らしい。遊歩道の造成で左右を削り取られた平坦な通路沿いが、最も虎口・土塁・其の上部が曲輪を感じさせる程で、何も遺構は無さそうです。
バーベキュー広場?に低土塁らしい高まりが見えるが?

高低差のない平地を分ける様な、 なんでもない低い高まり (3〜40cm)が曲輪を区分する土塁にさえ見えてきます。三木城の運び込まれる兵糧の搬入や援軍を阻止するため築かれた向城なので当然でしょうが、此の箕谷ノ上付城も同様・二位谷奥ノ付城や八幡谷の上明石道付城 (真嶋彦太郎)、羽場山上付城 (石兵四郎)等々と旧白川道や明石道(県道22号沿い)の、南方からの侵入に対し警戒にあたったのでしょう。此処の守将には加古川城主:
糟谷(内膳正)武則(後:天正11年(1583)賎ヶ岳合戦での七本槍:武勇者の一人)があたっています。

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