口吉川町から冷泉家(下冷泉)の細川荘へ 藤原惺窩誕生地から城館めぐり
三木合戦の支城・付城、 別所氏に攻められた城等 H18年08月27日
近畿の山城 衣笠城 細川館(藤原惺窩生誕の地・細川城) 中村城
        福井八幡谷付城  三木山森林公園鉄塔口砦
藤原惺窩誕生地(細川館)

美嚢川沿い県道20号(加古川三田線)を三木市に向かい衣笠神社の標識を見て衣笠城へ行ってみるが細く曲りくねった山裾の道は判り辛い。探し当てた城址の小さな曲輪と切岸・裏手の藪中には大きな空堀と其処には石組の井戸が残されていた。県道20号に出て次の「藤原惺窩生誕の地」案内板に導かれて細川館に向かう。儒学者:惺窩の銅像が建ち冷泉家と惺窩の生誕地だが三木城:別所長治が織田信長に叛旗を翻し、羽柴秀吉軍に対峙すると播磨の多くの諸将が別所長治方に付くなか惺窩の父・冷泉為純と長男為勝が其の誘いを受けなかった為に別所氏に攻め滅ぼされた細川館跡です。
衣笠城(民家の庭先から競り上がる切岸)

冷泉為勝の救援に駆けつけた冷泉家の執事:小沢城主(東条町)依藤太郎左衛門恒殷も奮戦し社・滝野・西脇を経て丹波を目指し脱出しょうとしたものか?、其の途中で追いつかれて覚悟を決め自刃した依藤野には二人の供養碑が建てられている。依藤氏は先に別所氏に攻め滅ぼされているが一族の誰かが執事として匿われていたものか。曲がりくねった車道を県道に戻り細川町中への緩やかな坂道にかかり、平凡な小さな神社横を過ぎただけと思ったが後で此処が中村城だとわかった。三木市の平井山本陣へ向う中交差点の分岐まで来て周辺に神社を見かけないので引返して立ち寄ります。

衣笠城 細川館(藤原惺窩生誕の地・細川城) 中村城
    福井八幡谷付城 三木山森林公園鉄塔口砦


衣笠城  三木市口吉川町西中字城ノ下・馬場

中国自動車道吉川インター近く、県道17号線の渡瀬(旧美嚢郡吉川町)には別所方に付いた豪族・渡瀬氏の渡瀬城や有安城があって昨年末に訪れたばかりです。距離的には其の渡瀬城と本城・三木城の中央付近に別所方の支城で衣笠氏発祥の城:衣笠城中村城があり、更に其の中程の細川町高篠・桃津の美嚢川東には天正6年(1578)三木城別所長治が織田信長に叛旗を翻して毛利方に付いた際、長治の誘いに応じなかった為に滅ぼされた細川館(細川城)がある。
衣笠城(隣の民家庭先から競り上がる切岸)

冷泉家・藤原定家が支配した荘園・細川荘で此処は儒学者藤原惺窩誕生の地として知られる。父為純・兄為勝が此処を別所氏に攻められ落城し自刃した事は現地:細川館の案内板の長い説明の一行に記されているだけ…!!この時・三木城からは遠いが直近の別所氏の支城である衣笠城と中村城が細川館を急襲したと思われる。この衣笠城は美嚢川が大きく複雑に蛇行を繰り返しながら小川川と合流する豊地の北方・細川館の上流にあって共に美嚢川に向かう地形で 三方が急斜な段丘を自然の要害として取り込んでいます。
衣笠城(隣の民家庭先から競り上がる切岸)

その高台に築いた城館だが広い丘陵の東面は平坦で東側に回り込まれれば防備は弱い様です。細川城の遺構は気付かなかったが衣笠城は四方を空掘り・土塁に囲われていた様。現状は民家の庭から築山の様な切岸上に2段程の曲輪・最上部に櫓台か、 二の丸・三の丸と思われる四隅を低土塁で囲った田圃があり田の北側には深く(5-6m程)長い空掘があり覗き見ると急斜面(崖)下の堀底部には石組みの井戸が見える。空掘りの幅は広く(8~10m程)長い堀底道が城域を二分しているのかも知れない?(端までは未調査)空掘の 北側は細い土橋状の尾根だが急斜面となって落ち込んでいる様です。空掘の底以外は藪がひどくて遺構状況を把握出来ず退散します。衣笠氏の祖は赤松円心の弟敦光(円光法師)から出た別所氏の一族で賀野城主(立丹野城・賀野構 飾磨郡夢前町)赤松祐定の子・衣笠上野介祐盛とされます。
衣笠城の空掘

祐盛は政則に仕え応仁の乱(1467-77)に軍功が有って 衣笠氏を名乗ったとも、しかし既に鎌倉時代中期の文応~文永年中(1260-75)衣笠法眼が櫨谷庄の領主となって端谷城(神戸市西区櫨谷町)を築き本拠としていた衣笠一族だったのでしょう?口吉川の衣笠城最初の城主は赤松一族の衣笠豊後守経興といわれ嘉吉の乱には赤松満祐に従い足利義教を謀殺して 書写山坂本城引上げた諸将の中に衣笠豊後守の名も見える。衣笠経興は此の乱により山名氏に攻められ討死、衣笠城は落ち一族は端谷城に逃れ廃城となったと云います。
衣笠城空掘・切岸下に石組の井戸


此の嘉吉の乱では(端谷城の?)衣笠政重が活躍していたようです!ともに三木別所氏配下にありました。嘉吉の乱に滅亡していた赤松家は応仁の乱(1467-77)による細川勝元による赤松政則起用により播磨の山名氏を攻め立て追い出して播磨守護に任ぜられ赤松家再興成って政則に従った豊前守知員(衣笠経興の兄憲泰の子)が旧領を回復し元の衣笠城に復帰します。最後の城主衣笠親信の時に三木合戦が起こり子の信実と此処で秀吉軍と戦ったが夜襲を受けて落城したと云うが…此の城でも籠城戦は不利だと悟り夜間抜け出して三木城に籠城したが 其処で親信は討死したとも云われる。信実は古河城に逃れたという。別所一族の衣笠氏が最初に三木本城の籠城に駆けつけず此の小城で戦ったとも思えない…?衣笠城での籠城は不利と知り、三木城に入ったものと思えます。
(「別所氏と三木合戦」「ひょうごの城紀行」Webフリー百科ウィキペディア 参照 )


細川館(細川城・藤原惺窩居館)   三木市細川町高篠・桃津字構

細川荘は歌道の名門:藤原家ゆかりの荘園で『千載集』の撰者として有名な歌人・藤原俊成が歌所の所領として朝廷より賜わり子孫を伝えたという。13世紀の始め俊成の子で百人一首の撰者で歌道の祖と云われる藤原定家の支配下にあり三木市志染や揖保郡新宮町にも荘園をもって支配している。定家の後:荘園領地争いが続くが南北朝期の冷泉家は冷泉為尹の長男:為之の上冷泉家と二男持為の下冷泉家にわかれ、応仁の乱以後には持為の子・政為が細川荘に移り住んだとされます。
藤原惺窩誕生地(細川館)

朝廷とも疎遠になりやがて公卿ながら武家の一面を持つようになると美嚢川に面して西に断崖状に突き出す丘陵の居館を 改修し城郭化し細川姓を名乗る。戦国期から江戸時代前期にかけての儒学者で近世朱子学の祖とされる藤原惺窩【名を粛(すすむ)といい字名を歛夫(れんぷ)・別号には其々謂われを持つ”北肉山人・昨木山人・柴立子・広胖窩・妙寿院等 ”があるが「惺窩」の号で知られます】は此の下冷泉家で細川荘(三木市細川町)の荘園を領した冷泉為純の第三子として永禄4年(1561)此の地に生まれます。7-8歳のころ播州竜野・景雲寺で剃髪して宗舜となり禅僧として修行中・天正6年(1578)惺窩18歳の時、三木城:別所長治が毛利に付き織田信長に叛旗を翻した際為純為勝父子が 別所方の誘いに応じなかった為に長治に滅ぼされた。
美嚢川を望む小高い丘に位置する細川館

別所氏方の諸城の中でも細川館に近い衣笠城や中村城の岡村大炊助祐治が夜襲をかけたものか攻め手に岡本某の名がみえる。惺窩は戦渦を免れ叔父泉和尚のいる京都相国寺を訪れ仏教と儒学(特に朱子学)を基調とし陽明学をも受容して学んだ。門弟のなかでも林羅山・那波活所・松永尺五・堀杏庵を惺門四天王と称され石田三成・加藤清正・赤松広秀・戸田氏鉄・紀州城主浅野幸長や保津川の土木工事で知られる角倉了意なども門下生で豊臣秀吉・徳川家康にも儒学を講じており家康の仕官要請を辞退し門弟の一人林羅山を推挙した事でも知られます。
(現地藤原惺窩誕生地 三木市細川町豊かな町づくり推進協議会案内板を参照)


中村城  三木市細川町中  大日神社

地図上で見ても極端に上下左右にと蛇行する美嚢川に沿って県道20号が通じ途中社・滝野方面の県道85号を 分ける高篠付近に藤原惺窩誕生地の細川館がある。細川館の東方約1.5km地点に衣笠城・西方約2km地点には中村城が細川館を挟み込む様に位置したつの三木城の支城がある。
中村城・神社東の切岸


当初は別所氏の三木城の北方・三田や丹波方面への要衝を守備する城砦群を形成していたのでしょうが天正6年(1578)二月:三木城主別所長治が織田信長に叛旗を翻し毛利方に付いた際:冷泉為純・為勝父子が別所方の誘いに背いた為、長治は翌三月には細川城(細川館)に冷泉家を攻め滅ぼし、藤原惺窩の人材を惜しみつつも此の早い対応は播磨近在の諸将に対し別所氏に加勢させる為のデモンストレーションだったのでしょうか。攻めての別所氏に岡本某の名があるところから
中村城主郭(単郭の城か?)に建つ大日神社

攻めての別所氏に岡本某の名があるところから諸城の中でも細川館に近い中村城(岡村大炊助祐治)や衣笠城が左右から夜襲をかけた様です。細川館急襲に際し嘗ては赤松一族の中でも主要重臣で東条谷に勢力を張っていた依藤氏が冷泉氏に加勢している。依藤氏等の旧臣に替わって勢力を持ってきた別所氏は永禄2年(1559)依藤氏を滅ぼして戦国大名の地盤を固めていく。冷泉為勝の救援に駆けつけた冷泉家の執事小沢城主(東条町)依藤太郎左衛門恒殷 も奮戦し脱出するも落城、冷泉父子や依藤氏も覚悟を決め自刃ます。中村城については戦国時代に三木城の別所氏勢力によって急造された城で別所氏一族の家臣として仕えた在地領主なのか?城史について不詳ですが岡村大炊助祐治が居城していたとされる。三木合戦に衣笠城主は三木城に籠城して討死しているが
中村城 (二段曲輪の手前藪に隠れて深い空掘りが美嚢川に落込む

天正7年(1579)三木別所方の諸城を攻める羽柴秀吉軍に攻められ落城しています。中村城の跡地には享保10年(1725)大日神社が建っているが県道20号からは細川中の交差点に向う 緩い登り坂の上付近にチラリと鳥居の見える小さな神社が中村城とは?平坦な田園風景が拡がる中交差点府付近まで来て気付き、引返す途中で神社に立寄り判った。城とあるが単郭の居館だったのか…しかし県道に面した神社東端には2m程の切岸をたて、更に一段の平坦地があり其の東側には深い藪に覆われて観察できないが深く大きな空掘りが北側の美嚢川に落込んでいるようです。境内の裏(北側)の廻ってみると驚く。美嚢川を真下に望む断崖絶壁上に迫り出要害に位置して正面からは想像も出来ない険しい様相ですよ。
中村城・大日神社北側の断崖から望む美嚢川

西面は神社敷地に続いて自動車整備工場と其の駐車場らしい空地があって城域の様子はよくわからないが南正面から西面は空掘りと低土塁で囲われていたのかも知れません。小寺氏の御着城も三木合戦の際別所氏を援け同じ天正7年(1579)には秀吉に攻め落とされているのですが。子孫は小寺氏の養子に入った黒田(小寺)官兵衛(孝高)に仕えており岡村氏の子孫も小寺氏を頼って御着に移ったものか。小寺氏が黒田孝高と共に福岡に移った後に御着に移ったものか?
(「別所氏と三木合戦」「ひょうごの城紀行」Webフリー百科ウィキペディア参照)


三木山森林公園鉄塔口砦(仮称)     xxm 福井・鷹尾

志染川左岸と美嚢川右岸に挟まれ観光ぶどう園で知られる平井山の段丘一帯に平井山の上付城・平井村中村間の山付城や竹中(半兵衛)重治廟所がある。美嚢川が大きく湾曲して西に向かうコーナー付近が三木市中心部で南側の
鉄塔口砦は”森林公園前バス停”裏にあり向かいはテニスコート

丘陵部に 釜山城(三木城)があり三木城包囲の付城群も推定約40ヶ所程あるとされる。平成6年頃立てられていた現地案内板には平井村中村間ノ山付城が秀吉本陣跡とされていたが江戸時代前期に描かれた「播磨国平井山」絵図により現地確認調査され山間を隔て南側丘陵上の「平井山ノ上付城(羽柴秀吉本陣跡)」が発見され以後は伝:竹中半兵衛陣所跡に
鉄塔口砦:西面は森林公園側に落ちる谷

修正されたよう…三木合戦付城群特徴は1-3期(序盤・中盤・終盤)に分類され?。第1期(天正6年7月)に秀吉本陣の平井山があるが付城背後には長治の叔父:淡河弾正(神戸市北区)や東播磨吉川方面の別所方領主ら友軍への防禦も…。西方にも毛利方の援軍や加古川から小野市境の美嚢川を三木城下まで直接水運で?がる兵糧搬入阻止は最重要なのだが美嚢川からも三木本城から離れた北方に第3期(天正7年10月)平田の付城がある。
鉄塔(曲輪?)前を森林公園に下る尾根左右は深い谷

美嚢川を眼下に収める三木城主郭(天守台・かんかん井戸)・三木城二ノ丸(みき歴史資料館)・三木新城(宅地開発で壊滅・キャッスル名の集合住宅がある)の東北に位置する正入寺も長治の弟:治定の居館勝入寺城(平山丸)で南裏手の深く広い空堀底?を神戸電鉄粟生線が走る。新城の南に鷹尾山城(勤労者体育センタ-西裏手・竪堀西下方に別所長治公首塚の龍雲寺)・宮ノ上要害(高尾山城南の中央図書館裏)其の南には県道20号を挟んで三木山森林公園と三木山総合公園があり三木山総合公園東端には
鉄塔(砦)の西斜面を森林公園側に落ちる谷

秀吉の弟:羽柴秀長の付城だが 元三木城古城の霧ヶ峰城(君ヶ峰城)がある。三木城域(鷹尾山城・宮ノ上要害)に超最近接し三木山森林公園鉄塔口砦や包囲網第3期(天正7年10月)には包囲を狭め八幡谷ノ上明石道付城等軍勢の駐屯可能な付城を中心に主要街道(明石道の県道22号?や三木山森林公園間を抜ける義経道(県道563号?…等)を押さえ八幡谷ノ上明石道・二位谷・君ヶ峰と樅山付城(三木山総合運動公園内?)に
バス停南へ車道側土塁状?を越え、西の崖状間を鉄塔まで延びる入口

最前線付城を築くが 丹波八上城攻めにも主郭まで直近500m程の至近距離に築いた光秀の八上城南東砦(仮称)を彷彿とさせる鷹尾山城・宮ノ上要害直近(総合運動公園前バス停)にあり郷土史家「三木飛行場を記憶する会」主催M氏に以前案内していただいたのが此の鉄塔口砦(仮称)で三木山総合公園テニスコート北裏・森林公園側の車道は土橋で隔てる谷であった…と。バス停背後丘陵上に鉄塔が建つが小広い方形曲輪!で北と西の 鉄塔口砦::北斜面は深い?(雑木藪で不明)

森林公園間の深い谷に挟まれた急な細い尾根筋を降り森林公園内の展望休憩舎へ続く山道がある。三木山総合運動公園前バス停の三木山総合公園テニスコート北から東の福田池までは深い谷で?がる。バス停西裏の鉄塔から南へは車道沿い西側には森林公園駐車場までに一軒家カフェがあるだけ。また丁度バス停とカフェとの中程から土塁道状山道が鉄塔に?がるが西面は深い谷・土塁道は単に車道建設・拡幅工事による 削り残し残土かも…?。



福井八幡谷付城(仮称)  xxm 福井

三木山森林公園鉄塔口砦(仮称)からは近く一軒家カフェ南のエコガーデン(リサイクルショップか?)で車道が左右に分れる。直進は森林公園を南へ下り福井の八幡谷交差点に出るが 県道22号線西100m程に土塁囲いの福井八幡谷付城(仮称)があり明石道峯構付城に向かう(神戸三木線)。
八幡谷交差点:左折は三木山総合公園・右は閉鎖?駐車場と付城

エコガーデン前三叉路を左折二位谷奥付城を抜け県道563号を須磨浦へと向かう義経道。R175号を南下し「道の駅みき」前を抜ける西には三木ホースランドパーク・直ぐ先の福井ランプを東に向かえば明石道峯構付城・歴史の森・三木山森林公園がある。三木山森林公園南下の八幡谷交差点近くが今回の目的地。県道22号(明石道)は一国一城令により破却された三木城の
土塁囲み曲輪南西の広い曲輪と南段曲輪からの虎口?

解体建材を明石城築城材に転用し明石道:三木本町を通り抜ける県道22号(神戸三木線)より運び出された道?か。三木山森林公園の西方には八幡谷ノ上明石道付城があり「鶯谷」(三木山森林公園ハイキングコース鶯谷入口があり10m程登れば後は森林公園へ降るだけ!?)三叉路交差点を左折するとR175号「福井ランプ」手前に明石道峯構付城がある。
土塁南西端:土塁は北東上に延び右手は東へ帯曲輪

県道22号線「鶯谷」を東南へ直進し約400m程に城山町公民館…”城山…x!”とあるが周辺に遺跡分布図:城砦遺構記載はない。八幡谷交差点を越えると白川道沿いの二位谷奥付城で源平合戦に義経が通った義経道。城山公民館の直ぐ前方に珈集があり駐車場東端から三木山森林公園分岐「八幡谷」交差点まで県道22号沿い東西に幅広く深い藪の谷が南斜面に落ち込む。対岸(東丘陵部)の荒れた雑木藪内の土塁状は
主曲輪内:荒れた不整地(畑等改変跡か?)だが低土塁囲み!

自然の切岸?とも思えず道路拡幅工事によるものか?侵入口を探すが繁茂する藪地に踏跡なし。イベント用か?駐車場西端に出るが駐車場は閉鎖状態。駐車場の東端は「八幡谷」交差点。付城群Ⅱ平田山城と平田・加佐境ノ付城(仮称)・付城群Ⅲ三木山森林公園鉄塔口砦・付城群Ⅳ・城郭研究「城郭談話会」高橋成計氏から此の付城名称と調査図面をいただき福井八幡谷付城を後追訪城した。天正6年(1578)中国:毛利討伐の総大将:羽柴秀吉が播磨の領主らを
付城東端の土塁切岸と外曲輪?…上右端は駐車場跡?

招集した「加古川評定」に三木城主:別所長治の叔父別所賀相(吉親)や家老三宅治忠等により軍議が決裂。秀吉に従っていた長治だが叔父吉親の説得に信長から離反三木合戦が勃発。秀吉軍の三木城包囲網(東西約6km・南北約5km範囲)には文献史料から築かれた付城は確認されたもの23ヶ所(現存20ヶ所と云い推定約40ヵ所に点在している)あり殊に三木城南側一帯には付城と付城間に
土塁東側中央部!:長い堀底道?からの虎口は第3期!の土塁線?

土塁・多重土塁を設けられている。付城群は付城築城時期に応じて特徴も異なっており段階を踏み乍ら包囲の飢餓作戦「干し殺し」を完結させていく推移も理解できるものとして国史跡(平成25年3月27日)指定を受けている遺跡群は時期や特徴から3期に分けられ第1期は天正6年(1578)7月織田信忠以下の大軍が美嚢川を隔て北方の丘陵部に平井山本陣以下の付城群を築いた頃・第2期は
県道22号から覗くと:付城側の急斜な深い谷

翌7年4月~信忠 以下が再度播磨に入り付城6箇所等を築く(信長公記)高木大塚城や小林八幡神社付城…等とある。第3期(天正7年10月)の付城群はさらに包囲を狭め尾根全体を城郭化した八幡谷ノ上明石道付城跡など大軍勢が駐屯可能な付城を中心として主要街道を押さえ、力攻めを意識したまさに最前線の付城群と評価できる。 「三木市立みき歴史資料館Web資料を参照)

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