京都・山と渓谷観光の嵐山とホントの嵐山 松尾山〜嵐山城〜嵐山382m〜蔵王神社城・岩田山
京都・西山 (五万図=京都西北部)
嵯峨野・嵐山散策 H21年10月25日
松尾山〜嵐山城〜嵐山(382m)〜蔵王神社城・岩田山モンキーパーク

近畿の山城: 嵐山城と蔵王神社城:
トロッコ列車(嵯峨野観光鉄道)

校歌の山 ♪春秋ゆたかに嵐山xx…♪嵯峨野小学校
  ♪緑は深き松尾山xxx…♪梅津小学校
  ♪錦綾なす 嵐山xxx…♪嵐山小学校
  ♪嵐の山に 朗らかなxx…♪松尾小学校<
  ♪東に立てる東山 西に聳ゆる嵐山xxx…♪鉄道唱歌(東海道線編)

保津峡と霞む愛宕山

山陰線の複線電化と新線切替のため、1989年3月に廃線となった旧山陰線嵯峨野駅−馬堀駅の7,3km区間は 1991年4月レトロ感覚の ディーゼル機関車が牽引するロッコ列車(嵯峨野観光鉄道)がトロッコ嵯峨駅〜トロッコ亀岡駅として所要時間約25分をかけて走る観光専用列車として生まれ変わって誕生した。トロッコ亀岡(旧馬堀)駅から遠くない篠村八幡宮は足利高(尊)氏が 元弘3年(1333)六波羅探題(鎌倉幕府京都出張所!!)の北条氏を討つ為に挙兵した地。
トロッコ亀岡駅:現:山陰線が直ぐ側を走る)

八幡社を探しあぐねて以前此の付近まで来てしまったことがあった。現:山陰線は殆どトンネルで短時間に抜けるが旧路線は保津川の峡谷沿いの為 ・渓谷美を楽しめる。此の景観を観光資源にとの商魂を称したい。更には「保津川下り」との相乗効果・双方景観のコラボまで、 考え及んでいたかは知らないが!!、船と列車が並行したり・交差して通過する時には、互いに手を振り・声さえかけ合う開放感に満ちています。
野宮神社付近の竹林道

京都の観光名所の一つ嵯峨野・嵐山廻りの観光遊園地の中にあって着ぐるみの鬼(亀岡境の大枝山の鬼が題材か?)や妖精?の見送り ・客車内では記念写真販売あり、車内のダウンライトはLEDだったりと14〜5年前に乗った頃とは大分様子も変わってきたか?。 遊園列車で・なんとも落ち着かない。まして最後は曲だけのBGMならまだしも車掌のご当地ソングまで!!。楽しさだけが「売り」の観光では諦めるか妥協するしかないですね。
保津川下りの船とコラボの観光ルート

編成される客車の仕様も異なる様ですが全指定では…!!此れも仕方が無い。 せめて景観だけでも昇降口での立見が良いのかも?。嵐山といえば其のシンボルが渡月橋。其の渡月橋を引立たせているのが 嵐山と烏ヶ岳の丘陵東北斜面のグリーンカーテン。奥にホントの嵐山が有る事をご存知の方は…というより、嵐山の地名は山ではなく、京都の一名所の名で山とは関係ないよう・まして此の山稜に山城がある事など 殆ど知る人もいない様子?。
野宮神社の黒木鳥居

保津峡は「保津川下り」で知られるが、 渡月橋付近の上流を大堰川・下流で桂川と名を変え事も、観光では関心を持たれる事も無いのでしょう。古来より風光明媚を謳われてきた名勝嵐山観光には無用の事柄ですね。大井川しぐるゝ秋の櫟 (いちい)谷 山や 嵐の 色をかすらむ・朝ぼらけ 嵐の山は峯晴れて麓をくだる秋の川霧藤原為家【藤原定家の二男で 鎌倉時代中期の歌人で晩年・嵯峨の嵐山に隠棲した】。保津峡といえば川下りが有名ですが、其れを可能にした育ての親!?が此処にいるのですが…
大堰川辺より渡月橋


伐採材搬送では筏を組んで流す為・また舟運通路確保の為、邪魔になる浅瀬の浚渫や水中や 幅狭な部分の岩場を開削して大堰川・渡月橋下流の桂川へ、高瀬舟による亀山(亀岡市)からの薪・炭・米等の舟運は、さらに発展させ市街地から伏見を繋ぐ高瀬川(森鴎外の高瀬舟で知られる運河 )を開通させる等、通運に尽力した角倉了以の存在を知る人も少なく、保津川下りの下船場の上に立つ亀山公園の了以は川を 眼下にしながら…心は遠く市街地から伏見を繋ぐ高瀬川!!を向いて立っている様に思えた。亀山公園を北に下ると大河内山荘(大河内伝次郎の別荘…)からは嵐山・嵯峨野を語る名所:
観光寺院となった天龍寺(拝観料が高くて・・)

竹林トンネルの道に古都京都のイメージを重ね、 朱色に染まる野宮(ののみや)神社にと感慨に更ける余裕も無く、みやげもの屋の並ぶ雑踏の中を停滞・停滞の車の列を横目に大方の人波は渡月橋方面に進むことになる。竹林を抜けてきた観光客は人々で込み合う 狭い境内と朱色の社に目を向けるが、黒木鳥居の両袖の「くろもじ」の木を用いた小柴垣や、 黒木の鳥居に関心を示す人は殆ど見かけない !!が黄色の鳥居だと違ったかも。黒木鳥居は樹皮の付いたまゝの鳥居の形式としては極めて原始的日本最古のものとされ、用材にクヌギを使用して 三年毎に建て替えてきたというが、鳥居に適するクヌギも入手困難となってきている。
ツルハシを持ち立つ角倉了以の像

角倉了以
(天文23年<1554>〜慶長19年<1614>)
保津川下りの舟が屋形船やボートが浮かぶ大堰川の下船場に着く。其処から続く高台への坂道が亀山公園展望台や、大河内山荘を経てトロッコ嵐山駅や野宮神社を結ぶ散策道。公園内の一角には岩の上に立ち真直ぐ遠くを見据え・鶴嘴を右手に 持ち起立する了以の銅像:昭和63年(1988)5月建立の顕彰碑が立つ。銅像は二代目で、 初代は大正元年(1912)に建立されたが、ご多聞に漏れず・第二次世界大戦中の金属類供出により撤収され・台座だけが残されていた。
了以の像が安置される大悲閣付近

了以は京都嵯峨に生まれた豪商で慶長8年(1603)宕朱印船貿易の開始とともに第一船を出航させ、安南国等との貿易を行ない ・また幕命により三年後の慶長11年(1606)保津峡の開削で大堰川の舟運を開いて幕府の信用を得て翌慶長12年:富士川・慶長13年:天竜川(未開削)、慶長16年:高瀬川(京都から伏見への運河)・等の開削を行った。 大悲閣千寺に安置される了以の木造座像をもとに立像として造られたものだそうです。
岩田山(Ca155m)の嵐山モンキーパーク
阪急嵐山駅からなら 名所観光嵐山のスタート地点の渡月橋を渡る左(西側)手前に嵐山温泉があり、大堰川左岸沿いにボート乗り場 ・大悲閣千光寺へと遊歩道が延びる。観光目的での行楽客が此方へ向うことは無さそうですが、隠れスポットがありますが、名所観光とするには軽いハイキングを伴なう岩田山(155m)への登山?コース。 渡月橋は十三詣りで知られ虚空蔵菩薩を祀る法輪寺への参拝用に架けられたもので法輪寺橋と呼ばれていたと云う。 皆:向う方行が間違っているのかな・??。
足下にしがみ付いてきた小猿だが、親猿の手も飛んできた

遊覧船乗り場前に櫟谷(いちたに)宗像神社(嵐山弁天社)への参道階段が有り、 案内板も立てられ、神社境内に「嵐山モンキーパークいわたやま}の入口があります。尤もこんな尾根を歩く人もいないでしょうが、 彼方此方で散歩中?の猿を見かける。此の時期(10月末)なので山に戻り初めているのかも?。 分岐尾根山頂部の異様な臭気は「狸の溜め糞!かと思ったが猿のものだったのかも??。此処は嵐山の野猿公園ですが、猿はいなくても眼下に桂川(渡月橋の上流を大堰川・下流は桂川と名を変える)・京都市街地や比叡山・ 東山連峰の展望台。
展望台から休憩所屋根の猿と桂川流域

紅葉の頃は ライトアップもされ市内の夜景を見る事も出来そう。1954年京都大学の研究の為の野生猿餌付けから1957年には一般公開されるようになった様です。展望台で小猿が足下にしがみ付いてきた。 オーバーズボン姿なので飼育員と間違ったのかな? まんまる目玉で餌をねだっているのか可愛くてカメラを向けた途端飛び掛らんばかり親猿の手が伸びてきた(其の手が見えるかな?)。 餌を与えない事・目を見つめない事(猿を威嚇している事になり攻撃してくるかも)・近付き過ぎない(向こうから寄ってきたのに?)が共存していくためのルールなんでしょう。
(嵯峨観光鉄道パンフ  フリー百科Wikipedia 了以顕彰碑文 野宮神社案内板等を参照)



松尾山〜嵐山城〜烏ヶ岳分岐〜嵐山〜嵐山城〜蔵王神社城〜岩田山モンキーパーク H21年10月25日

上記の嵯峨野・嵐山散策とレポートと重複部分があるかもしれないが、 もと荒樔山の名が転訛して嵐山(382m)と呼ばれたとも、また紅葉等が風に舞い散る様から嵐山と呼ばれるようになったともされます。 嵐山へは京都一周トレイル【伏見稲荷〜比叡山〜清滝へと全長約60kmがハイキングコースとして整備されている】のうち西山コースの松尾山〜苔寺の案内に従います。 標柱が町内や尾根上の分岐ごとに設置されています。
西山はトレールコースに限らず :名物はやっぱり竹林…ですね

嵐山観光メインストリートの人ごみを抜け渡月橋南詰めを其のまま府道29号沿いに約100m程進むとT字辻。阪急嵐山駅からのバスが入ってくるが狭い車道で大型車の右折 ・左折が大変な様で、法輪寺駐車場のガードマンかと思ったらバス誘導の整備員が常駐されている様!!?。直進すると歯科院隣の駐車場横に細い路地が取付き点・トレイルコース西山26の標柱が立ち、 松尾山を経て苔寺の案内板がある。路地の奥からは早速・竹林のトンネルから始まる 静かな遊歩道。竹林を抜けると 自然林の明るく緩やかな尾根道。紅葉しかかった樹木を見かける。子供の声が聞こえてくると松尾山直下の広い峠小場の様な交差点?。
松尾山山頂

嵐山まで行かず松尾山を往復して苔寺へ降りるという。尾根筋を直進しても右手を捲く様に進んでも松尾山頂 (3等三角点 276m)を通る周回路。 山頂東下30m程下(先程の捲き道)にベンチ付き休憩所があり、真下に渡月橋から 観光嵐山の亀山公園・天龍寺や大覚寺の伽藍や 大沢池)・五山の送り火(大文字)の鳥居形の曼荼羅山や清滝方面が見渡せる。此処から戻る人は多い様で後から登って来た人も引き返したが、私には此れからが本番で嵐山城に向う。ただ烏ヶ岳に向う縦走からは外れていくので 「嵐山城へ」のプレートを見落とさないように。
松尾山から:眼下中央に渡月橋から桂川

嵐山城は嵐山山頂付近から嵐山城跡プレートの掛かる南曲輪(西尾根続きに自然露岩を切岸にした堀切土塁が、東北端下の尾根に沿い竪堀が・更に此の尾根を下る末端部Ca120mには嵐山城の出曲輪か 砦と思えるが自然地形に近い粗い数段の曲輪をもつ蔵王神社城が在った<詳細不明>)西南尾根の320m付近までの鞍部にも堀切・・と尾根上に堀切・竪堀・曲輪等遺構が残ります。西南尾根の320mと松尾山との中間付近にCa300m峰があり縦走路は此れを捲いているが、稜上に出るまでの間・周辺に異臭が漂う。 よく見かける「たぬきの溜め糞」か?、鹿の死臭かとも思ったが!!、此の尾根先端付近は嵐山モンキーパーク、山に木の実等の餌が多い時期なので、
嵐山城南曲輪

山に戻っている猿のものか…??地図に実線で表示されている道は既に廃道で、踏み後もない!?。 藪ぽい尾根筋を急いで下り先に進むと、 カーブする長い土塁道が現われ愈々城跡域に入ったかと感じ、心なしか山道の溝状が木戸門であったり・虎口とも思える石門風の箇所が有ったり…城域への緩衝帯にさえ思えてくる。 縦走路を外して次のピークCa320mも展望良好なので一服。ここを下った所が三ッばかり石標の埋まる鞍部で堀切か?、嵐山の帰路に此処から蔵王権現堂に谷筋沿いに下る里道(りど)に思えたが、なかなかの急斜面。 蔵王神社城とマークした地点へぼちぼち移り変えよう 考えていたら谷向かいに斜上する踏み跡が有る。 しかし激急斜面は手懸かり少なく、足場は砂地混じりで滑りやすく安定しない。
嵐山城南曲輪からの渡月橋(中央)

こんなルートに虎ロープが二本続いている。しかし一本はフイックスされていない様で危ない。 何とか上部のローブを引き寄せたが立木・草利用の手懸かり同様に バランスを取る為だけに使用。危険な程の急斜面をこなすと傾斜するが雑木も無く広い尾根先部に着いた。自然地形ながら段曲輪の様に思える。元来た道へ引き返せる筈も無く・長く感じる尾根を詰め上がると 嵐山城跡プレートのある南曲輪に着く。直前に長い竪堀が二条程見るが雑木・下草で見通せない。幅広い谷側の傾斜面からは 更に数本の竪堀が 畝状に並んでいる様にも感じたが地方・時代・城主による縄張り特性からは此処に畝状竪堀の技法が存在するかは知らない。
嵐山山頂

縦走路から此の南曲輪へは鞍部の堀切を越えて登り着き広く (南北25mX東西60m程)東に展望が開ける。尾根続き曲輪端は2m程の土塁で、 北側は自然石を抱え込んだ高さ3m程の切岸として堀切を渡ると唯一石積遺構を残す副郭(375m)?曲輪群。登山道は石積跡を通過するので見落とすことも無いでしょうが、この石積の北側下方にも石積がある。 探せば見落としの思わぬ遺構が発見出来そうです。そしていよいよ嵐山最高所382mの主郭部 【曲輪周囲の防備は南曲輪に比べ見るべきものは少ないが附属の曲輪を含め広い城域】です。雑木藪の中で全体像は捉え難いが北側から西側へと広い曲輪(帯曲輪か?)が捲いている様。
天龍寺から望む嵐山城

北側下方には東に堀切? (竪堀・西側は空掘状の土橋付)と思える遺構を有る。 土橋と空掘に思えたが主郭へ通じる尾根筋は此処だけ!。枡形虎口?に見えるが後世まで改修されながら使用された城ではなさそうで、 古城縄張りに優れた特徴が見られるものかは?疑問です。崩れ・埋もれた現状から素人目では判断出来ず有識者の調査報告書でもあれば助かるのですが。このまま下っていけば大悲閣千光寺に降り立つ筈だが 元来た道を戻ります。


 嵐山城と蔵王神社城

嵐山城と蔵王神社城
嵐山城(嵯峨城・香西又六古城)  嵐山 382m  京都市西京区嵐山元禄山町

古来より風光明媚な嵯峨野 ・嵐山は名勝地としてよく知られるところですが、鉄道唱歌にも謳われていた嵐山が・此処嵐山にある事を、観光嵐山のシンボル渡月橋から望む岩田山(嵐山モンキーパーク・京都市街地展望の隠れスポット!!?)・嵐山(嵐山城) ・烏ヶ岳の山稜を眺めながら意識して知る人は、まして登る人も少ないでしょうが

城域までは未だ先だが長い土橋状の尾根道


山城が在る事は更に御存知無いかも・・!!。そもそも渡月橋は「十三詣り」で知られ、虚空蔵菩薩を祀る法輪寺への参拝用に架けられ法輪寺橋と呼ばれていたと云う。 其の法輪寺側から嵐山城跡への訪城ルートは上記の登山レポートを参照してください。 明応6年(1497)山城半国(下五郡)守護代となった香西元長(通称:又六)の築城した嵐山城は嵯峨城・香西又六の古城の別名があるようです。
嵐山城南曲輪:正面奥に堀切土塁がある

香西元長は室町幕府の実権を握る細川氏家臣団の中でも権勢を揮った実力者で、細川政元には実子が無かった為の家督争い【政元の養子:澄之を擁した香西元長と細川高國が擁した澄元<同じく政元の養子>との勢力闘争】では永正4年(1507)6月・丹波守護 :澄之側に付き、薬師寺長忠らと共に主君の管領:細川政元を討ち(入浴中を暗殺)、都の政権を握るが、
嵐山城南曲輪尾根続き:北の堀切と露岩を切岸の土塁


同年8月には摂津守護:澄元を擁した細川高国らの攻撃を受け、京都遊初軒において敗れて討死し、僅か40日余りで崩壊し政権に終止符が打たれますが、元長の悪政・酷使に耐えていた西岡衆(京都西山・現在の向日市や 長岡京市辺りの国人衆か?)が蜂起して嵐山城へ乱入し 嵐山城は落城。留守兵を皆殺しにしたという。其の後嵐山城は、
嵐山城:南曲輪東北に見る畝状竪堀の一つ

天文8年(1539)〜同18年(1549)と細川晴元らが在城して断続的に使用された事が記録により推定されています。平安時代から鎌倉期へと、荘園監理や自領警護の城が築かれてきたので、此処京都市内に城が築かれていても不思議では無いのですが、京に幕府を開いた足利氏の中枢部:都に将軍・管領・各国の守護職が常駐する天領地?。 此の領地の支配権を持つ領主がいるはずも無く?、築城に許可を与えたのは足利将軍か?。
嵐山城南曲輪から主郭へ向う途中の藪中に見る石積


足利氏が制定した京都五山の一つ・天龍寺が在るが寺社との繋がりは関係無さそう?。誰が城を築いて何を護るのか?。 丹波守護職や摂津守護職は京都市街地のどのあたりまでが境界だったか?。違乱が在れば幕府自ら直ちに制圧できる?。 城が有ること!!・まして自国領内の警護とも要衝監視とも思えない位置と高さに築城の目的がよくわからない。 清滝から周山街道や水尾を京都丹波へ入る間道監視としても、更に重要な要衝監視場所は東山から滋賀へ ・伏見から宇治・奈良へ、山崎から高槻・摂津へと幾らでも考えられます。
嵐山城:登山道に現われる石積

素人考えからは:足利義教の恐怖で支配する政治が嘉吉の乱を引き起こして以来・足利政権への不満・叛乱や、其の権威が衰退してきた兆か?細川氏と山名氏の実権を握る為の抗争 「応仁の乱」に始まる下克上の戦国時代。 足利将軍の権威衰退に反比例して管領守護・守護代クラスが近江 ・摂津 ・丹波に通じる要衝や間道に城を築き始めた 魁が嵐山城ではなかったか…と?。元長は細川の家督争いで高国勢に追われ嵯峨城(嵐山城)に逃げ込んだ様に、都での有事の際の将軍の逃避先としても確保されていたものか…??。
嵐山城主郭(最高所)北尾根下方の土橋付堀切?(竪堀側!!)

嵐山城の城域は最高地点382mから大悲閣へ下ると思える 北方尾根側に広い帯曲輪・其の下方に堀切(土橋付で西に空掘、東に竪堀二本が落ち込んでいるように思えるが、 空掘が通路と見れば枡形形状の虎口とも思える遺構 (室町中期の1500年頃に優れた縄張り構造があったかは知らないが!)。南東尾根上に数段の帯曲輪を梯郭式に曲輪を積んでいる様で 南曲輪へ下る部分の登山道と東北側の藪中に二箇所の石積を見た。
嵐山城主郭(最高所)北尾根下方の土橋付堀切?(空掘側!)

何れも高さ1m足らず・長さも10mとは無さそうで、曲輪の切岸加工を意識したものではなく領域確保の土留め石と思えるが誰でもわかる明確な城遺構です。南へ下った鞍部は 掘り切られ露岩を取り込んで切岸を補強している土塁。土塁を越えると広い城跡の標識プレートが掛かる南曲輪に着く。北に展望が拡がり渡月橋も真下に見える。南東から北へ延び出す尾根側に長い竪堀が二本落ち込んでいるが、 更に竪堀が畝状に並走しているらしいが藪と倒木でよくは確認しなかった。また此の尾根先に蔵王神社城が在り、此処へは南曲輪の下方に三個程石標識柱が埋まる嵐山城城域最南端部の堀切から、谷沿いに下った。

蔵王神社城   xxx Ca120m   京都市西京区嵐山元禄山町

京都市遺跡詳細地図に見つけた城跡No976で調査報告書等資料はあるのでしょうが、城域を示す範囲地図しか見えず、POINTや概要を示す文も見ていないが渡月橋から大悲閣・嵐山温泉へと保津川(大堰川)左岸を進むと、 嵐山モンキーパークいわたやまへの登山口。其処から150〜200m程先の並びに蔵王神社への 急斜面に参道があり鳥居が立つ。参籠所の様な?小屋もあり、城名からも蔵王権現堂から通じているのかも知れませんが、嵐山城南曲輪の堀切から谷を下って訪ねてみた。山慣れないと危険な程の激急斜面を下降して、城というより砦規模の 城跡位置へ検討をつけて、稜上へ上がれそうな斜面を 1〜2本見送ったが、
嵐山城東:蔵王神社への 尾根より望む嵐山

荒れた地肌を見せる急斜面に踏み跡を見つけた。虎ロープの捨て縄も2箇所設置されていたが、使用せず登った下の一本は固定されていない?というより、 斜面途中に引っ懸かっている状態。足下は砂地で滑り安定しないし、手懸かりも間隔遠く高い。幸い上のロープは確りしているようでバランス保持程度なら使えた。岩田山の猿なら大喜びの遊び場になりそうです!!。 谷下降以上に危険な激急斜面を抜け出ると、尾根一杯に拡がる雑木の少ない緩斜面に出た。150m程の砂地の長い緩斜面だが、雑木が目立つ中ほどに広い三段ほどの 曲輪らしい平坦地形が有るだけ。たった一枚だけ撮った写真も、 嵐山城主郭曲輪の写真数枚と一緒に編集作業中に消去・回復も出来なくなって添付写真はないが画像で確認出来るほど明確な遺構は見当たらなかった。 嵐山城南曲輪から北に延び出す尾根の先端が保津川(大堰川)に迫り出す位置に在って嵐山城の出曲輪か、他目的の砦と思える蔵王神社城ですが、築城目的が清滝街道等の間道監視・
渡月橋から岩田山・嵐山・烏ヶ岳を望む・中央手前の峰が蔵王神社城

まして後世の保津川舟運の監視とは思えない。 此の目的なら・谷を挟んで東側には更に好条件の岩田山「嵐山モンキーパーク」があり物見の砦・嵐山城前衛の城砦遺構が無い事の方が不審に思えます。 畿内一円に火種を撒き散らした応仁の乱の主戦場は寺社の多い、此の付近が激戦区だったでしょう。其の意味なら足利家京都五山の一・天龍寺を目前にする蔵王神社城の存在がなんとなく?わかる様な気がしてくる!!。 稜線小幅の平坦地形は数段あるが概して自然地形のままの尾根は100m程先で雑木藪に入り、そのまま上り続けて嵐山城南曲輪に着く。竪堀も此の曲輪に出る手前に見る。
【日本城郭総合辞典:新人物往来社 日本歴史人物事典:朝日新聞社 Wikipedia等を参照】
別冊丹波霧の里HOME 本誌 丹波霧の里HOME
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