河守から元伊勢内宮へ 城山〜上杉城(仮称)・河守城・新治城・蓼原城
京都:福知山市大江町 (五万図=大江山)
丸山?〜城山 (日室ヶ嶽・岩戸山)〜面山?上杉城(仮称)〜元伊勢内宮 H22.05.30
近畿の山城 :上杉城(仮称) 河守城と新治城 蓼原城

近畿の山(京都T): 城山(日室ヶ嶽)〜面山(尉ヶ越・上杉城 <仮称>)
元伊勢内宮(皇大神社)参拝道

福知山市大江町は大江山の鬼伝説で知られる「鬼の里」。その山麓には元伊勢と呼ばれる三社【内宮(皇大神社)・外宮(豊受大神宮)・ 天岩戸神】が祀られ、内宮と外宮が伊勢神宮(三重県)の元になった神社と云い、 大江町内には内宮・外宮の地名・宮川(その直ぐ下流の外宮付近は五十鈴川)・宇治橋・真名井ノ池や猿田彦神社等々の伊勢神宮に関連する名称も数多く存在します。
日室ヶ嶽遥拝所から望む 城山(427m)は日本のピラミッド!!?

其の事で反って「元伊勢」を名乗り格式の高い丹後一宮の籠神社が元伊勢説として 有力視されてもいるようです。 いずれにせよ伊勢の地に落ち着くまでに20箇所近くに遷移されているので全てが元伊勢なのでしょう?。福知山市街地からR175号線を由良川沿いに大江町に入り宮川沿いの府道533号 ・北近畿タンゴ鉄道宮福線沿いにタンゴ鉄道”大江山口内宮”に向う。主目的は城山(3等三角点 427m)が山城なのか ?遺構探しですが、尾根筋の西端近くの丸山!?(334m)と元伊勢内宮(皇大神社)と宮川(五十鈴川)を挟んだ対岸正面に、丸い頂部を見せる面山!(尉ヶ越または尉ヶ腰か!?・点名を知らず。
珍しい竹の柱で築造されている御門神社(厄除神の本宗)

古墳の在地字名が上杉 (4等三角点 144m)も低山ながら(比高100mで南面は等高線の目が積み断崖状の激急斜面)宮川に架かる鬼嶽橋<大江山:鬼嶽稲荷神社(展望所からの雲海でも知られる!!?)へも車道が通じる>を望み、内宮下部から天岩戸神社側を抜けて 宮津方面へ向う街道や、宮津街道本筋を監視出来る位置にも在る。西端の334m峰には疑問も有ったが城山427mに城砦遺構が有れば出曲輪の可能性は有ると思い、これ等の城山連山?を縦走踏査してみたくなった。


北原〜丸山?〜城山(日室ヶ嶽)〜面山?:上杉城(仮称)〜元伊勢内宮   2010年05月30日

府道9号(宮津街道)大江町内宮で元伊勢内宮 (皇大神社)への看板を見て左折。 集落内を進まず宮川沿いに内宮(皇大神社)の鳥居を見上げる鬼嶽橋の分岐に着く。大江山・仏性寺への標識に従って宮川(上流約1.5km程に天岩戸神社を祀り、二瀬川渓流・岩戸渓谷とよばれている)を渡り、北原川?沿いの車道を進む。 約2.5km程で大江山遥拝所”鬼嶽神社”扁額の掛かる石鳥居。
平家落人の里・奥北原集落と大江山連峰

その直ぐ先に 取付点とした平家落人の里 「奥北原・平家そばXXX茶屋2k」と仏性寺・「口北原」の案内標識が立つ分岐だが、 石鳥居の 2〜30m手前に短い小谷を見て引き返し此処から登頂を開始。激急斜面が何処までも続く。尾根上に出てヤッと大江山連峰の山並みと、緩斜面に拡がる山里「平家落人の里」を望む。
丸山!!?(334m)山上

雑木藪も無く・緩斜な踏み跡程度の山道だが歩き易い。何処が山頂か判らない程・平坦な緩斜面に古墳跡かと思えるような 円形の窪地に続いて、低い段差で曲輪状の平坦地形が有る。丸山!!?(334m)地点だが、大水による崩壊等の自然地形の様で、更に何事も無かったようにダラダラと続く緩斜な上り尾根だが展望は殆ど効かないまゝ城山 (日室ヶ嶽3等三角点 427m)に着く。 此処までの尾根上に大岩・露岩を見ない。 日室ヶ嶽: 皇大神宮を出て天岩戸神社へ向かう途中には一願さん(一願成就)として信仰される日室ヶ嶽遥拝場があり、石造りの三宝を載せた石のテーブル?がある。
日室ヶ嶽遥拝所から望む 日室岳(城山)

宮川(岩戸)渓谷沿いの道からは断崖絶壁上に位置しており、対岸を立木等で遮蔽される事も無く望める日室ヶ嶽こそ元伊勢内宮 ・天岩戸神社の御神体山であり、最初に天照大神が降臨された山として神聖視されているのでしょう。今日の山行目的のメインが城山 (3等三角点峰 427m)で日室ヶ嶽・岩戸山・日室岳・日裏ヶ岳)で多くの別名をもつ神霊降臨の神奈備を伝えます。 山麓宮川の鬼嶽橋からの比高約380mは低山ながら、その激急斜面に描くスカイラインは優美と神秘な神々しさを 際立たせる山容を見せており、
北原の取付き点近く:鬼嶽神社遥拝所

聖域となる東斜面は 禁足地になっており、人の手が全く入っていない原生林は京都府の貴重な自然林保全地域に指定されています。日室ヶ嶽を「ふるさと富士」ではなく、酒井勝軍(Wikipediaフリー百科参照)により日本のピラミッドとして提唱されてもいる様ですが、地形図からは・遥拝所から見る ピラミダルな容姿とは異なる、緩やかに長く延びる尾根が続く。見る位置によって三角形にも見えないが、
城山(日室ヶ嶽)山頂三角点

日本のピラミッドとしての条件 ?には自然人口を問わず三角形の山・頂上近くに太陽石?と其れを取巻く列石・鑑石・方位石や立石 ・磐座等の古代石造祭祀遺構がある・山の周辺にも 拝殿の様な祭祀場があり其の山と一体となっている等々の定義は有るようです。 太陽神:天照大神が降臨し、 祭祀を司っていた倭姫(ヤマトヒメ)命の住居とする伝承地も日室ヶ嶽の中腹に在るという!?。長く緩斜な尾根筋は西峰の丸山?(334m)から城山(日室ヶ岳)までに露呈する岩・大石等を見ない。
山頂付近:北面一段下に平坦地形はあるが・・??

東尾根への下降に入ると、巨岩や露盤の岩尾根は無く、目立つという程ではないが 1〜2m程度の露岩や、平坦地形に低い段差で、石列・石積かと?感じさせる岩石を見るが、神話・伝承の太陽石・磐座・倭姫命の 祭祀場や住居跡を探す「思い込み」によるものか?。城山(日室ヶ嶽)の名に中世山城跡を期待したが、山頂部は平坦な尾根筋と北面に一段低く自然の曲輪状平坦地形は有って、府道9号線(宮津街道)?沿いの狭い範囲を遠望出来る程度。
日室ヶ岳側から面山!(上杉城)への僅かの上り、鞍部に二本の土橋がある

福知山市遺跡情報地図には 大江町内宮一帯に山城遺構の存在は無く、地元史誌(大江町誌)に伝承も聞かないが、北近畿タンゴ鉄道二俣から北方の内宮地区一帯にかけては、沿線沿いにヤブガ古墳、城山古墳群として面山144mピークに2基、その南・谷を挟んで 遺物散布地の梅ヶ平遺跡と、その東南部の丘稜上に稲荷山古墳【宮川に架かる鬼嶽橋を中心とした約500m四方】の 4ヶ所のみが記載されているだけ。梅ヶ平遺跡は鬼嶽橋を渡って100m程先の民家南側で北原川?の簡易板橋を渡った処に 古い遺跡案内標柱が立てられていたが遺跡詳細は知らないが縄文後期の石鏃・石器剥片が発見されている様です。この民家の真北上に迫る 山頂部が小字名上杉で、内宮の正面に位置する為に面山と呼ばれるのか?・なんと尉ヶ越(城ヶ腰か城ヶ腰とも?)の名も採取出来た4等三角点144m)峰にすくなくとも2基の円墳が発見されており城山古墳群の名称がある。
上杉城(仮称)西端頂付近:土橋上の二段曲輪はいずれも15mX8m程

城山(日室ヶ嶽・岩戸山)から東南へ延びる尾根の末端部に位置して・皇大神が降臨された日室ヶ嶽は祭祀を司った 倭姫命が居住した事で呼ばれる城山を高城、出城(出曲輪)として呼応する形の低城(面山・点名が城ヶ越か上杉か?!!)は、 皇大神の遺骸を納めた地との伝承があり、城山古墳が其の陵なのだろうか?。西方(日室ヶ嶽側)の鞍部付近に、もう1基(2号墳?)が存在している様ですが未確認。此処が倭姫命の墳墓とも云われ伝承が面白そうだ。【注:福知山市遺跡情報地図の 城山古墳二基の所在は144mピークの山頂部には無く、鞍部と鞍部から西の尾根端部・等高線100mに示されています!!?】
上杉城<仮称>主郭の櫓台は古墳跡(三角点から)

伝承は伝承として、周囲の状況や僅かに稜上に見る僅かに 散存する葺石程度の小さな石片から推しても、 古墳の内部主体に横穴式石室を構築することは無理!!?・せいぜい竪穴式で埋葬施設に石積み・石組みの石室が精一杯と思え、古墳時代後期の一般的な?木棺直葬が妥当なところと思えたが、 古墳門外漢の勝手な解釈ですので古墳フアン・専門家の調査報告を待つことにしましょう。古墳径12〜15m程の1基(1号墳?)は面山 (城ヶ越!・?)山頂最高所に在って、墳頂部は盗掘抗だろうか?円形に陥没して底に頭蓋骨大の石が一個残る(古墳の埋葬施設の石材かは不明?)だけの半壊状態。此処は上杉城(仮称)主郭にあって盗掘抗か改修?による 半地下倉庫を持った櫓台跡にも見えてくる。
主郭内の三角点(面山・城ノ越・上杉城<仮称>)

西端の櫓台(古墳)を捲いて東に延びる曲輪内に面山 (点名知らず小字名の上杉?4等三角点144m)石標が埋まる。崖状南斜面を避けて東北斜面の急斜面を降って宮川(二瀬川渓流・岩戸渓谷)の調整ダム?らしい施設の下流に降り立った。 向かいに岩戸神社に向う林道の白いガードレールを見て、山裾を南に進むとスタート地点の北原川?沿い車道の民家?農業倉庫側。100m程で鬼嶽橋へ戻り、嘗て門前町で栄えた内宮集落内を抜けて元伊勢(皇大神社)から天岩戸神社へと参拝した。



元伊勢内宮(皇大神社)
駐車場から観光スポットでもある?元伊勢内宮に向う。 宮山を神域として主祭神に皇祖:天照皇大神・摂社:天手力雄命・栲幡干々姫・末社には熊野神社他 80社に及ぶ神々を祀り、奥社には天岩戸神社を祀る。命等 神々が鎮座される古神道の聖地:元伊勢内宮(皇大神社)は福知山市大江町字内宮宮山に在って、人皇第十代崇神天皇の39年(紀元前59年)「別に大宮地を求めて鎮め奉れ」との皇大神の御教えに従い、 永遠にお祀りする聖地を求め、
元伊勢内宮(皇大神社)本殿と黒木鳥居

皇女豊鋤入姫命御杖代となり給い、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑(奈良桜井市の三輪山?)を出御されたのが、2千数十年前の遥かな昔であった。大和を発し但波(たにわ・丹後や丹波)へ御遷幸になり、仮鎮座され・其の由緒により 当社が創建されたと伝えられている。皇大神は其の後全国20数ヶ所に御神蹟(みあと)をとどめて4年後に再び倭へおかえりになり、 人皇第十一代垂仁天皇の26年(紀元前4年)伊勢の五十鈴川上の整地 (現:伊勢神宮)に永遠に御鎮座になった。
御門神社(皇大神社の厄神さん)側には”カネのなる石”がある!!?

しかし遷座された後も、天照皇大神の御神得を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は、引き続いて当社を伊勢神宮の元宮として「元伊勢内宮あるいは元伊勢皇大神宮とよび親しみ、 丹後宮津藩:第三藩主:(宮津城主)京極高国により神楽社・御供所等の改修が行われた明暦2年(1656)4月付けの棟札が残されており、今も庶民の篤い信仰が続いている。嘗て”元伊勢”の門前町として繁栄していた風情を僅かに残す 民家間の狭い車道の突き当りは車止め不要の参道石段がと”元伊勢内宮:皇大神社”標柱が待ち受ける。石段混じりの広く長い参詣道は、古い歴史につつまれた古木・原生林の中に身をおく清々しさと緊張感が心地よい。石段参道も終り近くには参詣道の中央に「麻呂子親王御手植えの杉」の巨木が立つ。巨大勢力の大和政権により土蜘蛛退治(丹後・丹波の制圧)に派遣された 麻呂子親王【用明天皇の皇子で聖徳太子の弟)手ずから植えた杉だとされ、参道右端並びの岩下に”真名井の水”がある。
元伊勢:麻呂子親王手植えの杉と真名井の水

土蜘蛛は此の地を拠点としていた英呉・軽足・土熊等に率いられた賊(当地の土豪を土蜘蛛 ・鬼に喩える伝説は、伝承地により陸耳御笠(クガミミノミカサ)と匹女(ヒキメ)等と賊名も変わる】が征伐<丹波・丹後を平定>を退治した際の・勝利祈願に植え・丹波平定ののち:戦勝記念に社殿を造営して元伊勢と称したとも云う。 本殿に向かう階段左手に小社が見える。元伊勢:皇大神社の厄神さん御門神社で、天岩戸で天照大神をお護りした豊岩窓神・奇岩窓神を祀る。御門神社は我が国の厄除神の本宗で、八方除の神。社殿は天地根元造・竹の御柱という古式造りで、 社周囲の壁・扉・柱は竹材で構築されている珍しい!!?もの。古墳の石室かと思える石組みの岩釜や、石で打つと金の音が鳴る奇岩”カネのなる石”。 天岩戸神社へ通じる参道を戻ると神石のさざれ石は「君が代」で知られ、石灰岩質で成長する「大小の石を凝集して巨岩をつくってゆく目出度い奇岩」とされます。
岩長姫命を祀る社 「天皇神道」幡の近くに在る和泉式部の歌塚?

本殿前の鳥居は「黒木鳥居」と呼ばれ、杉の木皮を剥がさず、付けたまゝ組込んで使用する 古い形式のもので全国的にも珍しく、野々宮神社(京都嵯峨野)と此処だけに例が残る様です。黒木鳥居の右手奥に「天皇神道」の幟幡と岩長姫命を祀る社が建つ。由緒は割愛するが和泉式部の歌塚石碑と宝筐印塔が立つ。 なぜ此処に?の疑問の前に、元伊勢から大江山を越え宮津へ抜ければ天橋立。「大江山いく野の道の遠ければ まだ文も見ず天の橋立」小式部内侍は和泉式部の母。時を経て同じ街道を歩んだものか?

岩戸山(日室ヶ嶽)と天岩戸神社

元伊勢内宮(皇大神社)から宮川 (二瀬川渓流・岩戸渓谷とよばれる)の峡谷へ向う参詣道の途中には、深い渓谷の底から聞こえてくる川瀬の水音・対岸には遮るものなく聳え立つ、皇祖の神霊降臨の聖地の尖峰を望む広場がある。石造の三宝が置かれ「一願さん」と呼ばれる ”日室ヶ嶽遥拝所”は、皇大神社と天岩戸神社の神南備(御神体山):日室ヶ嶽427mは岩戸山・日室山・日浦岳・城山)とも呼ばれ、 先ほど・長く平坦な尾根筋を歩いて城山(日室ヶ嶽)から戻ってきて、麓から望む此の美しい富士型の山が、地元では親しみを込めた ふるさと富士としてではなく、日本のピラミッド?の一つとして知られることを知った。
天岩戸神社と御座石 !?(谷を埋める巨岩は此の奥にも有る!!)

ピラミッドとするのは太陽神としての天照大神を祀る事だけに起因するのではなさそうですが、古代山岳石造祭祀場としての関連は有りそうです。日室ヶ岳(岩戸山)については 登山レポート 丸山?〜城山(日室ヶ嶽 )〜面山?上杉城(仮称)〜元伊勢内宮にも触れていますので天岩戸神社へ戻します。 山岳から此の渓谷に磐座等の祭祀対象を遷したとすれば、さらに巨大な御座石・神楽岩の他、神々が湯浴みした霊跡として産盥 (うぶだらい)・産釜【ともに甌穴で他にも点在する岩には大小多々】の甌穴を見る。
展望所から甌穴の産盥と産釜を覗きこむ

甌穴の霊水は旱天に枯れることなく、此の水を水面に注げば慈雨を呼ぶとか、汚すと大荒れになるとか?、近寄る人もいないでしょうが?観察し易い位置に有り明確なものに名がつけられたものか?】・鶏鳴岩・鯉返しの岩等、 奇岩怪石を神秘の対象物とした地名・旧蹟があり、幽玄の地【岩戸渓谷】を天岩戸に比定して天岩戸神社を祀り、祭神である櫛岩窓戸命・豊岩窓戸命(門を守る岩石を門番神として配祀したものとも伝えられます。
(現地:皇大神社の由緒・境内各所の案内板・神社明細書・大江町誌・Wikipedia等を参照)



上杉城 河守城と新治城 蓼原城 

上杉城(仮称)  面山・尉ヶ越城ヶ越!? 144m(4等三角点)  福知山市大江町内宮上杉

福知山市街地から由良川沿いに走って北近畿タンゴ鉄道大江駅に着く。全国的に知られる「鬼の里」に様々な鬼の出迎えを受け、 大江駅から府道9号(宮津街道)に入り、元伊勢外宮(豊受大神社)前を通り、内宮(皇大神社)前で宮川に架かる鬼嶽橋を渡り上記登山レポートのルート城山 (日室ヶ岳・岩戸山3等三角点427m)に向ったので、面山(城ヶ越 の名も有る!! 4等三角点144m 点名は知らず)、
鞍部付近の平坦地形に延びる土橋状が二ヶ所続く

此処に古墳が発見されていて<!!市の遺跡情報地図では山頂部では無く、鞍部と・鞍部付近の尾根筋西南端の二ヶ所>其の所在の小字名に上杉とあり城跡遺構は 上杉城と仮称しますが、城ヶ越の名が有ることからは(じょう)ヶ越(腰)=荘園等の官吏役人なり、尉の官位を持つ領主が居た事があったものか?。登路を北原川沿いの道路・南斜面から求めても激急斜面、 丘稜裾の東面から北へ廻り込んで、地図上の谷筋を詰め上がるのが良さそうですが、此処に至るまでが下草藪に覆われ・そのうえ宮川沿いの湿地帯。 なによりも発電所?らしい施設から上流は入山する人もいないでしょうが?、東面一帯が御神体山:城山(日室ヶ嶽・岩戸山・・)の禁足地となっています。
上杉城曲輪切岸下を竪堀と空掘状に分け、 土橋は曲輪南を捲き上る

日室ヶ嶽(岩戸山・城山 427m)から東へ大きく高度を下げながら 延び出す尾根先付近は、鞍部に二つの土橋状を繋いで、 南へ竪堀状 ・西面を北への尾根を浅い(埋もれかけてか?)空掘りを廻して、20m程高度を上げる小ピーク上に主郭を置く上杉城 (仮称)が在りました。福知山市遺跡情報地図には大江町内宮一帯に山城遺構の存在は無く、地元史誌(大江町誌)に伝承も聞かない。城主・築城時期等の城史については更に不明です。
上杉城西端曲輪から二段目同規模の曲輪への段差

上記の登山レポートと重複するので古墳・分散地については割愛。 皇大神の遺骸を納めた地とも、倭姫命の墳墓とも云われる伝承からも、此処の二基(二基以上有るのかも?しれないが)の古墳が城山古墳群と呼ばれる事にも城山(日室ヶ嶽)と此の面山(尉ヶ越:城ヶ腰:上杉城 <仮称>)は、府道9号線から望む城山の山容に重なり包み隠される高城(城山)と低城(面山)との高低城を、 自然環境と神話に関連付けて考えてみるのも面白そうです。鞍部まで延びてきた土橋は空掘(南へ竪堀・北へ浅い横掘?)を渡り、そのまま西端の曲輪南側斜面を巻き上がります。尾根幅10m程 (西から3段目の二ノ丸(西ノ丸)とも呼べる曲輪が幅20m)の城域は、西への尾根筋を除く三方を急斜面に囲まれ、
上杉城主郭内:主曲輪櫓台!!?は盗掘孔を残す城山曲輪

登城ルートは山裾を禁足地となっている?(もっと上流かも知れないが!!)北方へ廻りこんだ谷筋から鞍部に至るコースが唯一の様で、 警備・防備!!?の曲輪群が府道9号線(宮津街道 )沿いの狭い範囲を遠望出来る程度の東方ではなく144mピークから城山 (日室ヶ嶽427m)の西方下鞍部に向って4段ほど並ぶ。 主郭から東側へは尾根上に長い自然地形の緩斜面が1段・更に細くなる尾根筋に緩衝地帯の様な緩斜面の先に土塁状の低い盛り上がりと空堀状は塹壕として使えそう!!?。
上杉城主郭:櫓台(古墳の墳丘)から西の腰曲輪

上杉城の主曲輪東端の4等三角点標石柱が埋まり、最高地点の西端部に位置する高さ1.5m程の土壇は櫓台か?。 【注:福知山市遺跡情報地図の 城山古墳二基の所在は144mピークの山頂部に無く、鞍部と鞍部から 西の尾根端部・等高線 100mに示されていますが!!?山頂には無い1号墳?の概要説明が、位置・規模・墳頂部は盗掘抗だろうか ?円形に陥没して半壊状態等の現状説明までソックリ此の古墳に符合しています】此の主曲輪の中程と、西に一段切岸下の腰曲輪からは 北斜面に竪堀らしい溝状もある。二基の古墳が神話や伝承に依る皇祖の陵とも、倭姫命の墳墓と伝えられるものの様ですが、古墳時代後期の円墳なのでしょう?。
宮川の鬼嶽橋から望む上杉城跡(仮称)

埋葬施設に石室や石組をもたない木棺直葬と思えますが、此の場所に城砦遺構が認められなかった事には疑問を感じます。仮称○○として幾つか 遺跡調査の空白位置に見つけたり、遺跡地図とは別位置に存在した城砦をレポートしているが、此の上杉城<仮称>も実際は既に発見・調査がされているのかもしれませんネ。


河守城と新治城(河守別城)
河守城   城山 Ca165m   福知山市大江町河守大谷城山・清水
新治城(河守別城) 城山 96m   福知山市大江町河守清水城山

福知山市街地から由良川沿いのR175号線を走って北近畿タンゴ鉄道大江駅に着く。大江町の玄関口・駅と町役場前には、 流石に全国的に知られる「鬼の里」をPRする大江山鬼瓦公園があり、 様々な鬼の出迎えを受ける。 大江町は平成18年福知山市に統合されるまでは加佐郡で丹後国一色氏配下にあって、隣国京都丹波の福知山 ・綾部等関連中世史から得られる情報も稀薄。郷土史頼みのレポートを御容赦願います。
大江町役場前から河守城 (右)・観音山(中央)新治城(左端)

R175号線を挟んですぐ北の丘稜には河守城と新治城(河守別城)が在り、国道沿いを南西約 700m程戻ると蓼原城が在る。いずれも丹後一色氏一族:新治氏の城だが、永禄年間(1558-70) 何鹿郡物部城主(綾部市 )上原氏が丹波守護代の頃:加佐郡(福知山市大江町)の一部領主となっていた様で、河守城の古城主に上原氏の名が有る。 新治氏は元亀年間(1570〜73)に至って天田郡(福知山市)や何鹿郡(綾部市)に侵攻した黒井城主(丹波市)赤井氏によって河守城・新治城 ・蓼原城等に拠った新治氏は一時期滅ぼされたとされるが・・・?(詳細は後述)。
観音山ルート:山頂の霊場石仏と稲荷社(河守城・新治城への分岐点?)

新治氏の本拠城が浄仙寺背山に築かれた大江町最大規模の河守城なのでしょう。 河守城の尾根続き 南端に在る新治城は河守別城とも呼ばれるます。集落はR175号線沿いの西:城下の山麓部に有って丹後宮津へ抜ける街道が通じ、 宿場町として栄えていた旧街道の面影を遺す町並みが遺されています。街道筋から・河守城への登城口の浄仙寺や新治城への登城ルートなりそうな威徳山念称?寺付近の
観音山から僅かに下がる鞍部の空掘状

集落裏の山際【清水町は別名:殿町】(段丘部)は、河守城主の居館とか馬場跡の伝承地ともなっています。 新治氏の居城河守城へは 北近畿タンゴ鉄道大江駅・町役場からR175号線の交差点を北に渡って直進・突き当りが緩くカーブしながら 坂道が続き、 集落が軒を並べ宿場町として繁栄していた風情を今に感じさせる旧宮津街道筋。右折し浄仙寺への案内標識に従い 細い車道を詰め上がっていくと山門に着く。
主郭東の2〜3ノ丸曲輪南下の切岸 (正面上)と帯曲輪の直立に近い切岸

正面の霊園に入る茶屋ヶ谷を挟んで右手は山門を潜り、枯山水の庭園を抜けるか・庭園外側壁塀沿いに民家側の細い道を伝い田圃境から山手に入る道が、河守城東尾根末端付近の秋葉社(城主上原氏の時・守護神として登城口に祀られたものか?)への参道でもあり 秋葉社の台地自体が曲輪。
河守城主郭東面の切岸

直ぐ上方の尾根沿いに土塁跡の残欠を見て 細長い平坦 地形の尾根が徐々に傾斜を増すなか段曲輪が続き、低土塁を北端の残す20数m程の東曲輪に入る。此の付近東下方への斜面にも 2段程の平坦地形を見て約1km程入り込むだけの”林道河守大谷線”に降り立つ。
主郭北面曲輪より主郭に入る上り土塁

南下方にも数段の曲輪を見るが、主尾根筋は高い切岸を越えると、主郭に次ぐ・二段の大きな曲輪(25m程・尾根幅は12〜20mと主郭側に幅広くなっていく)を経て、切岸高い主郭東一段下の小曲輪(尾根筋前後に切岸約5〜6m程)に着く。浄仙寺山門前:左手の小さく狭い石段道の横に”河守城跡”と書かれた白い標柱が立つ(?残っている!!)。
河守城主郭西北尾根筋から北面の切岸を望む

尾根上に此処だけ切開かれて眺望の効く観音山(稲荷社の祠が建つが !!?)へと、九十九折れの山道が延びて此処に至る、ミニ観音三十三所霊場巡りの石仏が並ぶ参道。稲荷社から河守本城を目指し 西北寄りの尾根筋を採って、僅かに下って広い空掘状を超えた対岸の急斜面に向い、3段程続く腰曲輪(最後は高い急な切岸を越えて 主郭東の二段の大きな曲輪(二ノ丸・三ノ丸に相当)に登り着いた。
河守城城域の最北端?堀切

観音山 (稲荷社)から南方への尾根筋は、念称寺から道?(竪堀か大手?堀底道が有るらしい・・未確認)と合って新治城(河守別城 )に通じている様です。河守城からの尾根筋をトレースしていないので不明ですが、新治城は北の尾根筋を除く南へ突き出す尾根末端部の 三方に段曲輪・帯曲輪を幾重にか廻しているが、城として独立した機能を有しているか疑問で、河守城の出曲輪と思えます。
河守城:ニ〜三ノ丸南斜面下部の曲輪

新治系譜(蓼原区新治家蔵)」によると丹後国」吉原の郷士新治蔵人定照が、平安時代末期:元暦年中(1184-85壇ノ浦に平氏滅亡)一ノ谷の合戦に戦功があったとして、 源頼朝より丹後本箇 ・大埜の二庄を与えられ、文治3年(1187)新治郷に入ったと云う(参考:鎌倉時代=建久3年<1192>鎌倉幕府が開かれる〜)。 山名時氏が丹波守護代となった康永2年(1343)には久下頼直(観応1年<1350>時氏のもと1年間だけだが丹波守護代を務めている)が河守庄代官を補任されている。 其の後…丹後守護:一色満範の 幕下に入り、 延文3年(1358)但馬守護山名時氏が、一色氏を攻めて丹後を横領した時、新治郷を捨てた一族の新治利照
河守城:三ノ丸東面の高い切岸(約12m)

(内蔵介・内蔵佐持忠は同一人物か!!?)が明徳2年(1391)河守に築城したとされる。この間:新治氏は何処にいたのだろう?。 一色氏支配の地に京丹後市峰山町新治があり新治城が在る。一族は此処に居たのかも?。二代目近照は嘉吉3年 (1443)播州で討死したと云う。赤松満裕が将軍足利義教を殺した嘉吉の乱(1441)の余波によるものだろうか?。三代政広は応仁の乱 (1467〜77)に細川方について戦功を立て、旧領を恢復し弟:政明が新治城に帰り 咲いたと云う。四代照信・五代照郷は共に内蔵佐を称している。六代国照は永禄8年自殺(詳細不明)・子の七代内蔵太郎則広のとき:織田信長の「天下布武」命により ”丹後攻略”が開始され、
河守城登城口は新治氏菩提寺の浄仙寺から

天正7年(1579)細川藤孝・明智光秀連合軍が 一色義有を弓ノ木城を攻めた時?【天正10年9月:細川方が一色義有を宮津城に謀殺し、一色氏の決断を強いた際、一色氏に殉じた合戦のことらしい!!?】則広と弟:則友は一色氏救援に懸け付けたが共に討死。則広の子:基照の河守城も父討死後に落城 ・丹後を平定した細川藤孝に降り、旧領地を安堵され郷士となるが、是より系なし・・とある。 河守は慶長年中(1596-1615)宮津藩領、享保年間(1716〜36)頃以後は天領(幕府の管轄下)になっていた様です。
秋葉神社側は裏手直ぐに低土塁:北端は岸を切って、続く曲輪を空掘状で分ける

永禄年中(1558-70)有路上下を上原氏(物部城)支配に任せており 天正13年(1585)の河守城主に上原氏一族と思える上原徳寿軒(志史等により福寿軒ともあるが同一人物か?)の名があり、 其の後京極家家臣の岩崎(豊後守)氏が居城したともある。最後になったが新治家菩提寺天輝山宝林院浄仙寺(浄土宗)の「新治内蔵介の開基也・・・」を「新治系譜(蓼原区新治家蔵 )」により追ってみる!!?。
河守城下を抜ける宮津街道の旧宿場町

応永11年(1404)河守城主新治内蔵佐持忠(天輝公)?が入道して浄泉を名乗り 応永18年(1411)3月に逝去し、法名を宝林院殿清誉道樹浄仙大居士という。また別古書には蓼原城二代目を継いだ秀道は・赤井氏(氷上郡黒井城主か ?)に城を攻略されて後・剃髪して浄泉と改名?宝誉浄山禅定門と云い、天文2年(1533)に没し戒名・忌日は「浄仙寺過去帳」に残っている・・との異なる伝承を残す。また江戸時代中期の地方史(丹哥府志)に 「天輝山浄仙寺は新治内蔵介の 開基也…浄泉天輝という位牌有」…と。
林道脇の弁財天から直ぐ新治城(但し急斜面の藪漕ぎ覚悟!!)

浄仙寺は永享2年(1430)明誉上人伝了和尚により開基されており、応永年間頃の開創者・河守城主で天輝公と称し後浄仙入道を名乗った 新治内蔵之佐持忠を比定すると、明徳2年(1391)河守に築城した初代利照を、二代目近照が 嘉吉3年(1443)播州で討死しているが、初代を弔い一族の菩提寺とした開創者と思えてきます。
(大江町誌・Wikipedia等を参照)


新治城(河守別城)   城山 96m    福知山市大江町河守清水城山

新治氏の城が「鬼の里」の玄関口・KTR大江駅と R175号線を挟む北方に峰を並べる低丘陵上に在る(城史等河守城を参照してください)。 天輝山浄仙寺背山に在る河守城と、其の尾根続き南端・威徳山念称?寺の背後に在る新治城。R175号線沿いに二つの城を結ぶ東山麓部に集中して、狭い車道を挟んで民家が両側に軒を連ねる。
新治城数段の帯曲輪上に直立する切岸の曲輪と上り土塁!?

大江町河守は大江山から南下する宮川が由良川に流れ出る合流点近く・古代の川守郷の中心地に在って、 其の流域の西北部に拡がる一帯。宮川沿いに元伊勢・普甲峠を越える府道9号、北近畿タンゴ鉄道が走る宮津街道と、由良川沿いの R175号線が向う舞鶴田辺城下へ向う河守街道が交差する経済・軍事の交差点。
藪を抜けると疎林・竹林の奥に切岸高い段曲輪 (帯曲輪)が現われる

城下は丹後宮津・舞鶴へ抜ける街道の要衝で、宿場町としても栄えていた旧街道の面影を遺す町並みが残り、街道筋が崖状に迫る丘稜先端付近で南へ方向を変える。 丘稜裾に沿って西北へ入る狭い車道 (林道)があり入口に”安産・学業成就弁財天”この奥100mの看板を見る。新治城へは此の林道の先・送電線巡視路を利用するつもりだったが、 城域から外れ遠回りの様なので、雑木藪に篠竹まで密生する弁財天からの 急斜面に取り付いた。直ぐ藪漕ぎからは解放されたが、急斜面に変わりなかったが、雑木・竹藪となった目前には幾段もの曲輪が現われる。
新治城:空掘状を屈曲して通過する土橋・上り土塁状?の地形

幾段か続く曲輪・帯曲輪【高い切岸をもつ曲輪群は 河守城から南へ延び出す尾根先端部に位置して頂部主郭に向う三方を輪郭式に取巻く曲輪群】で防備している。山上の広い平坦地形(幅25X長さ30m程か)に、居住性は有りそうですが、防御を強固にする施設、台地中程の低い土壇状 (櫓台とも思えない円状は、削平された円墳跡か?)を除けば段差や仕切り土塁・空掘等によって 曲輪内を区分することもなされていない。 低丘陵ながら嶮しい天然の要害を呈する河守城の地形からは、先ず新治城を居城とし、砦としていた河守城を”詰め城”として改修してきたものか?。
新治城:主郭部は広い尾根上に4〜5段・低段差で曲輪が続く

新治城の北へ延びる緩斜な尾根筋は中程に観音山があり、 未確認ながら堀切等で遮断して独立した城域を形成している様には思えず、 此処から河守城へは低い鞍部に広い空掘状地形が有る。 此処から向かう急斜面は主郭近い尾根筋近くに2〜3の段曲輪(帯曲輪)を備えています。 明徳2年(1391)新治利照が河守城を築く以前・既に城砦が築かれていたのかも不詳です。
新治城:主郭部 :最高所の円状土壇は円墳を櫓台として使用したものか??

新治城への登城ルートは威徳山念称?寺 (浄土真宗本願寺派)裏手からと思っていたが 念称?寺に向う山門への通路に敷居の高さを感じて?二の足を踏んでしまい、城域の丘陵部を廻り込んで 取付点を探したが、此の念称 ?寺裏手から新治城へは、新治内蔵佐【新治氏の先粗新治蔵人定照ではなく、河守城を築いた新治利照(内蔵佐持忠(天輝公)は同一人物か!!?)】を祀る新治神社の祠を経て行けそうです?。
新治城:主郭部を輪郭状に帯曲輪が廻る

しかも河守城にも見なかった竪堀(新治城への登城用堀底道かも ?)が存在する様です。河守城の竪堀はもしかして・秋葉社の祠上から延びる長い曲輪の北側の斜面にあったかも?。じっくり観察する余裕が無く思い返してみるだけです!!。地理的には一色氏幕下の城なので、足元の街道監視は無論ですが、 主に由良川沿い南面・西面に福知山方面からの敵の侵攻に対する備えが集中しているとは思えます。

(大江町誌・Wikipedia等を参照)


蓼原城   城山 Ca65m  福知山市大江町蓼原谷堀

R9号線からR175に入って北タンゴ鉄道・由良川沿いに走って蓼原地区の地名案内標識をみると、右手由良川沿いに鬼を象った 石のモニュメント”緑の一里塚”の有る休憩ロード・パーキングが有る。「山の鬼道・河の鬼遊」とも記されてあり、鬼伝説の里・大江町内各所にはウオーキングや由良川河川敷・堤防や川原に遊園施設でも有るのでしょうか!?。
蓼原城:六地蔵と墓地参道の間に朽ちかけた城跡標識が立つ!?。

由良川を挟んで東側を並走する府道56号線が 鬼が城東山麓・観音寺側の峠を越えてくる府道492号線(丹波綾部・福知山市と、 旧丹後・加佐郡大江町を結ぶ短絡街道)の合流地点で尾藤橋を渡る。正面にR175号線に其の先端を落とす丘陵上に蓼原城が在りました。
蓼原城:国道工事で断崖となった南郭部小曲輪群!?

北近畿タンゴ鉄道大江駅・町役場から R175号線を北に渡って突き当るT字辻付近の緩くカーブする坂道が続く中央集落の浄仙寺背山に河守城が、軒を並べ宿場町として繁栄していた風情を今に感じさせる旧宮津街道 (現:KTR線沿い)・河守街道(由良川沿いに舞鶴市田辺城下に向う)の要衝。清水集落には念称?寺背山に 新治城が在る。
蓼原城:主郭南曲輪の直立する切岸

街道筋 ・宿場町を南下してくると 新町で国道に合流するが、更に北側の山麓際を国道と併走する街道筋は、由良川に合流する地点も近い蓼原川を渡った先で 国道筋に出る。綾部・福知山市側から由良川に架かる尾藤橋を渡って国道に合流する地点でもあり、 蓼原川沿いの西丘稜尾根の先端が国道筋に落込むところに位置する蓼原城は、
蓼原城主郭:南曲輪南東隅の残石は?

指呼の間にある(約600mで)新治城・(約750〜800m程で)河守城の新治氏三城?が街道筋 ・宿場町の西入口を守備・監視出来る眺望の効く位置に有る。 蓼原城への取付き点は”緑の一里塚”の有る休憩ロード・パーキングから東へ 100m程だったか?、急峻な露岩含みの崖状に迫出す丘稜尾根先が此の参道や六地蔵尊の立つ国道端に延び出してきている。六地蔵+一体の地蔵石仏が瓦屋根の祠に並ぶ。
蓼原城主曲輪北面:土塁を挟む二重空掘 (中央奥)

六道輪廻の思想に基づく六地蔵が、極楽往生の叶わず苦界に沈んだ衆生を救済すると いう。安寧を得る為祈願するが一体多い場合は 六地蔵尊に新仏(死者)を導いてもらう意味からか、墓地の入口に祀られます。 当然此処も・・急な斜面を真直ぐ延びる車道参道は集合墓地の 駐車スペースの空地!?まで上がる。正面が墓所だが左手(西)に巻き上がる細く急な墓参道の左右、高い切岸と狭いが段曲輪を思わせる平坦地形が集合墓地の一区画!!。
蓼原城城域中央北東郭へ向う土塁?幅の細い尾根が空掘(堀底道?)に延びる

丘稜尾根筋まで出た最奥に新治家・・・・等墓所が並ぶ。此の低く緩斜な尾根筋は 進むほどに段々と藪が濃く、蓼原城の北西へ延びる城域端へも同様で猛烈な篠竹藪に進退窮まり撤退します。 駐車場から浅く広い谷間(空掘状?)の正面墓地を詰め上がれば城域北部の細長い尾根上曲輪に出る。尾根上に曲輪らしい段差の有る平坦地形が続いている様だが、踏み跡を追っての侵入さえ阻む篠竹藪の猛攻には画像も無理で退散する。
蓼原城城域中央北東郭向う尾根上の空掘

六地蔵尊と墓参車道との間・蓼原城跡の柱頭部に書かれた”蓼”の 字さえ欠け、城名を知らなければ文字判読出来ない程に朽ちた城跡標柱が残る背後から、南端部は国道拡張工事で削られた後だが、 崖上を巻き上がると幾段もの小曲輪 ・空堀状・西面には竪堀や帯曲輪状の平坦地形がある。
蓼原城:城域中央北東端 (上右)手前:西面を低土塁で廻す曲輪

南帯曲輪から高く垂直に切り落とされた切岸を越えると広い主郭部の南端曲輪に入る。南東端切岸に石列を見るが 当時のものかは推定できない。1〜2段の 小曲輪下の土橋付き空掘を越えると 急斜面を下るだけ・城域を此処で区分している様。広い南曲輪から西寄りの平坦地形の先に少し高い台地があり、 地蔵像かと見えたが愛宕大権現の像を祀る祠が建つ。
蓼原城:城域中央北東端の曲輪を繋ぐ上り土塁

由良川沿いの河守平野!?を望む眺望に優れた位置に在る主郭(10x15m程の楕円形台状)は北尾根側の切岸下に、 土塁(竪土塁)を挟んで二重堀切がある。堀切西斜面下方に集合墓地への参道が見える。二重堀切を隔てて幅狭く細長い平坦尾根(片側が通路か?)が延び、 途中北東(右手)に竪土塁状の細い尾根を分ける。右手:幅狭い尾根は片堀切状となって、尾根沿い低位置に続く山道と合って集落に (地図上の鳥居マーク)付近に下っていく様です?。
蓼原城:城域中央から北西尾根に続く長い土橋

空掘から北東へ登リ始める尾根上は櫓台とも思える6X8m幅の台地・其処から下り始める尾根幅は広くなり、曲輪片側には低土塁は、 更にその先の広い平坦地形を繋ぐ上り土塁の側まで延びています。「新治系譜(蓼原区新治家蔵)」によると、 蓼原城は嘉吉2年 (1442)初代河守城主新治利照の三男秀照が 城を築いて此処に拠った。二代秀道が継ぎ、赤井氏(氷上郡黒井城主?)に城を攻略されて(元亀年間1570〜73か?)後・剃髪して浄泉と改名?宝誉浄山禅定門と云い、天文2年(1533)に没し戒名・忌日は「浄仙寺過去帳」に残っている。
城域北西郭:竪堀を挟んで右端に低土塁?が続く尾根先は笹竹藪に阻まれ撤退

室町時代の城主に 新治小次郎の居城を伝えられますが入城時期や城主名出自までには至らず!!?城史は研究者による古文書等による成果に期待したいところです。蓼原城も河守城・新治城(河守別城)共に、丹後攻めの天正10年【(1582)細川藤孝 ・明智光秀連合軍が一色義有を弓ノ木城を攻めた時、新治城の内蔵太郎則広・則友の兄弟が一色氏の付き討死】頃には蓼原も落城して帰農しています。
(大江町誌等を参照)
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