酒呑(酒顛)童子伝説・大江町の山城探訪U 金屋城・波美城・千原城・尾藤城
京都:福知山市大江町 (五万図=大江山)
大江町の山城U 元伊勢と鬼伝説・大江山玄関口の山城巡り
近畿の山城:金屋城 波美城 千原城 尾藤城

    大江山:鬼瓦公園
R175号線金屋トンネル:フエンス手前から金屋城に向った

加佐郡大江町へは福知山駅から出ていた北丹鉄道(軽便鉄道)河守(こうもり)線の名で懐かしいが、 北近畿タンゴ鉄道が福知山市から宮津市に通じ、 河守の町名・駅名は河守から大江と変ったが大江町の中心地で舞鶴市・宮津市・福知山市を繋ぐ要衝の地。加佐郡一部は舞鶴市に編入され・大江町だけが加佐郡として残っていた。福知山市を東西に挟んだ天田郡夜久野町 ・三和町と共に、 大江の各町が平成18年(2006)合併して福知山市に編入されました。此処大江町河守からはR175号線と分かれて府道9号線が宮川沿いに元伊勢・大江山・普甲峠を越えて日本三景 :天橋立・宮津市街に入る。
金屋城:城域外の東北山裾堀切?

遷宮で寂びれ・其の名を知る人も、 参詣に訪れる人も少なくなった ?元伊勢神宮と大江山への玄関口。大江山の鬼伝説を生かした「鬼の里 」イメージが強いのですが 豊かな水と自然が此の地を育んで、由良川流域に沿って発達した、宮津街道・由良の湊から福知山へ舟運による産業 ・文化 ・経済の発展や、領地をせせる土豪・覇権を競う勢力の軍道ともなった歴史の道へと、北近畿タンゴ鉄道・大江高校前の高架を潜りR175号を東へ進み大江町金屋に入ります。
金屋城・北の平坦尾根から主郭の愛宕社祠と堀切が見えてくる

直進すると金屋城南山麓の金屋トンネルを抜け北有路城の北方尾根鞍部を通って堂本へとR175号バイパス道が通じ、 阿良須神社の東150m程先で交差します。 北有路とは由良川を挟んで対岸に南有路・二箇の集落があって有路三ヶと呼ばれ由良川水運とは 深く関わる名前の様です「和名抄」郷名では有道郷に比定されている金屋なので、金屋城を 阿良須城北有路城引地城二箇村城「有路三ヶ」の城に入れようかと思ったが、訪城予定にしていた金屋城南約1kmのある波美城のある波美は 川守郷に比定されています。
千原城:城域東末端部の平坦地は壊れた祠。手水鉢が散乱する

川や丘陵尾根等の地形により境界が明確に区分できる位置でもなく、田園が拡がる金屋・波部集落の間を北近畿タンゴ鉄道「おおえ」からの車道が横切っているだけ!!。河守には下記の他:夏間城・河守城・新治城 (河守別城?・蓼原城)・・等が点在しており、川守郷の城として随時訪城の都度ここに紹介していく予定です。

鬼瓦公園

北近畿タンゴ鉄道 (KTR)と聞けば天橋立・丹後七姫(羽衣伝説の天女・山椒太夫の安寿姫・ガラシャ夫人・・)等丹波から遠い丹後国。 舞鶴市かと思えた加佐郡に残された大江町は福知山に編入され郡名は消えたが、この大江町の中心・且つ玄関口のKTR大江駅・大江町役場前には全国的に知られる「鬼の里」をPRする大江山鬼瓦公園があって、 バスターミナルともなっている「三州・淡路・石州の瓦葺き大屋根の上からは、邪気を祓うとされる鬼瓦が 睨む鬼の回廊 」・全国の鬼瓦製作者の鬼瓦作品は生産地毎に分けられた石柱上に飾られ 72点が野外展示されたプロムナード。照り付ける陽の下では光の三原色を表わしてか?赤・青・緑の鬼の酒噴水等もある。大江町駅構内の売店には特産土産の他に鬼のグッズ類も販売、二階には鬼瓦関連のアトリエや無料の作品展示場が有るようです。 人気無い2階へは歩も進まず・・本来の目的地へ向かってKTRホーム下を潜り、直線道路を東へ進み由良川へ流れ出る宮川を渡る。この橋の親柱にも大江町シンボルマークの鬼と大江山のレリーフが埋め込まれていた。 目指すのは目に前の低丘陵にある波美城や千原城です。天領地だった波美に陣屋(代官所)跡もあった。



金屋城 波美陣屋と波美城 千原城 尾藤城

金屋城(金谷城)  xxx山 Ca85m  福知山市大江町金屋小字小山端

福知山市大江町の中心地・河守で元伊勢神宮・大江山への府道9号を左に見送り、 宮川を渡ると北近畿タンゴ鉄道宮福線「おおえ高校前」駅を左手(北側)に見て、高架を潜るR175号は大江町金屋地区に入る。 山裾を廻りこむ様に進むと金屋トンネルに向って直進するバイパス道、金屋トンネル手前で右折すると大江高等学校前を通って、小峠を上野集落に降りてくる旧道?とに分かれます。
金屋城主郭:北面の切岸と堀切(右端で竪堀を落とす)

大江阿良須城へは此の道を進みますが、金屋トンネルを抜け旧道との合流地点を右折して西へ約150m程戻った阿良須神社をベースに訪城出きます。金屋城へは旧道?の大江高校側から R175号線に合流する地点から、丘陵上の主曲輪に祀られる金屋愛宕神社への参道(山道)が通じていますが、 付近に駐車スペースは無さそうです!!?。生憎・この日は下草刈作業中のため、国道を少し北に進んで金屋トンネル手前の
金屋城:北堀切側から東面堀切と主郭虎口部?

秋葉大明神のそばから、トンネル側までの作業道?からの北東の尾根伝いに金屋城主曲輪を狙ってみる。 国道筋側から見上げる崖状の 急斜面上の秋葉社も数段の曲輪から成っている様に思え、確認したいが此処も参道階段を作業中。 下草に覆われた谷筋の杣道を進むと、藪の覆われる横掘!!?らしい溝を越えて城跡(主郭の秋葉社からは、既に出曲輪か?、平坦尾根上は南正面に宮川が由良川に合流する地点を望む物見台を敷設した、
金屋城:土橋付堀切を愛宕社を祀る主郭に入る

城域 100m規模の中級規模の城だったのかも?)に向う急斜面に取付き踏み跡を追って進む。幅の狭い平坦地形の尾根筋だが、2〜3小広い曲輪跡らしい台地の空間が有る。其の平坦だが幅狭く 山道だけの?尾根筋を突然遮断する堀切があり、堀切の切岸上に祠が建つ。北側からの尾根伝いに直接・金屋城主郭に着いた!!。 城主は金屋将監とも金谷小原とも伝承されているが、それ以上には城史を語れる記録等はなさそう?。
金屋城:城域西端の堀切

西面を除く三方は3m程の切岸と、北面から東面を堀切で廻した端を竪堀で落とし防備を固めています。愛宕社の祠が建つ10u程の主曲輪から西には、 一段低く(1〜1.5m程の土壇・西曲輪からは櫓台に見えるが・・)30m程で東西に幅15m程の一曲輪が付き、城域西端も堀切で遮断しています。 主曲輪から土塁道状の細い尾根筋(愛宕社への参道)沿いに、不整地ながら小曲輪らしい平坦地形が2〜3続く。
金屋城:西曲輪から主曲輪(愛宕社が建つ)

足下に金屋トンネルを通過する車音が聞こえる。樹木が無ければ由良川の流れと川守郷の眺望が眼前に拡がる筈の斜面を降る。 下刈作業中で伐採された雑木等で埋まる参道は、トンネルへ向うR175号・正面に大江高校前への旧R175号道?分岐点に降り立つ。2009年07月07日
(舞鶴の山城 ・舞鶴山城研究会No130の縄張り図を参照)


波美村陣屋と波美城
北近畿タンゴ鉄道「おおえ」駅前の 大江山:鬼瓦公園からホーム下を潜って、宮川(大江山を源流に、元伊勢神宮側を流れる由良川支流の河口付近)を渡る。矢部山310mから南へと、 宮川沿いに延びる支尾根の末端部が金屋地区に落ち込み、此処に金屋城がある。河守と金屋地区を分け由良川に流れ出る河口に扇状地が拡がり、由良川の合流地点東の左岸に独立した河川段丘(南北約600m・東西400m)があり、 地元でも城山と呼ばれている。橋の右手(南)前方の低丘陵上に目指す波美城が在りました。
R175沿いに立つ氾濫時の水位標柱

由良川は宮川の水を合わせ東に流れを変えるが波美城のある丘陵に阻まれ大きく蛇行する。集落は橋から望む西側だけに集まり、由良川沿い南から東面には民家も無く由良川氾濫の驚異は、 R175号沿いに見かける現在の水位表示や、国道沿い民家の2階に達する程の、xx年の水位(6〜9m)を示す標柱が示しており、 此処や有路の大雲橋付近で大きく蛇行する。舞鶴湾までの高低差は9mを切る程で、浸水被害を最小限に留める日頃の対策は講じられているのでしょう。
宮川から望む波美城(丘陵左)(

山上の城域北端部は共同墓地なので登路は直ぐ判ると思ったが、人一人通るのがやっとの細い民家横から 急斜面を伝う墓参道など判る筈もない。由良川より10数m高い位置に、旧街道筋を思わせる狭い地区道が通じ、南端で丘陵を廻り込んでいく道が有る。街道筋(集落)中程に陣屋跡を、丘陵南端に三宮神社が鎮座する。 墓参道は此の三宮神社手前・丘陵に挟まれた谷間を通信施設の無線塔が立つ墓地入口まで、車道が延びていた。
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波美村陣屋   福知山市大江町波美

由良川水運を監視する絶好の場所として此処に室町時代後期《天正年中 (1573-92)一色氏を滅亡させた田辺城:細川藤孝の時代か!!》 此処に城砦が築かれたと伝えられ、城山と呼ばれている丘陵山頂部に波美城が在る。江戸時代(田辺藩領)になっても其の重要性は変わらず、 寛文6年(1666)宮津藩主:京極高國が領地召上げになったとき三年間は幕府直轄領(天領)として、1669年には宮津藩領となり、 1670年には幕府領となったが、翌年にはまた宮津藩にと変遷めまぐるしい。天領として生野代官所の支配下に置かれていたのは何時の頃なのか?。此の時:波美に出張陣屋が置かれたとされるが場所は明確ではないという。
波美村陣屋跡

それから50年後: 8代将軍徳川吉宗の享保2〜4年(1717-19)の2年間:波美は蓼原・公庄(くじょう)・夏間の一部と共に天領と なり、丹後国内の幕府領支配のため,京都久美浜代官所の波美村出張所として、陣屋は当村新井市郎右衛門家に設置され、当地の天領を総括する仮陣屋として改修されます。其の後:陣屋は宮津市久美浜町へ 移されたが仮陣屋として使用されたまま残ったという。
波美城:北西部の土橋付堀切・墓地(上方)付近は空掘を廻す曲輪?

新井家には今も当時の陣屋遺構・遺品・文書類が丁寧に保管されており、御用御絵符・御城米幟・御用掛札などが残されています。案内板を撮っているとき通りかかった方に、 波美城の在る墓地への道や、此処を城山と呼んでいる事を教えてもらった。当家のご主人だったのに案内板を読み終えていず、礼を言って分れたあと、石段を登っていかれるのを見て残念な気持ち!!。 陣屋遺構も残っているというのに・・。
(現地:波美村御陣屋跡説明板を参照)
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波美城  城山 Ca70m  福知山市大江町波美小字城山

大江町波美は矢部山の西山麓を流れる宮川が、 大江山連峰を源に元伊勢内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)側を経て、由良川へ流れ出る合流点の扇状地に拡がる大江町の中心地:河守を西に、金屋を東・南には矢部山から南へ延び出す支脈が金屋で途切れ、由良川の接する地点へ突き出す様にというより、盛り上がり先端部を由良川に落とす 東西約400m・南北約500m程の独立した 河川段丘の山麓西面に集落が集中し、其の低丘陵最高地点の標高Ca70m頂部に主郭を置く波美城が在りました。
波美城中央域:北東側の畝状竪堀群

西方を宮川が南北に流れる河口にあり、宮川を合わせて西方からは、 この丘陵南端で流れを阻まれ大きく蛇行して流れを変えて南面を東方へ廻り込む。北方を覗いては 天然の濠を形成した要害となっています。河守城や金屋城の前線基地か由良川通運の見張所としては適地の様ですが、単に領主の城なら北方を押さえられれば、河守城・金屋城に救援を得られない時は、 反対に孤立してしまう危険性がある。
波美城:中央域北端部堀切の直ぐ前方に畝状竪堀群

河守城の古城主に上原氏の名が有り、永禄年間(1558-70)、有路にかけて丹波守護代:上原氏が加佐郡の一部領主となった頃!!なら、河守城の出曲輪・砦としてか、由良川を挟んで千原城と対峙 (または呼応)して築かれたものか?、山頂部は平成7年(1995)発掘調査されていますが、調査資料報告書類を見る機会とて無く、古文書で確認出来ない限り、城主等の城史は不明のままか?。三宮神社の宮裏古墳や宮山古墳群(消滅?)同様に、円墳・竪穴式木棺直葬の波美古墳群が波美城の城域西(共同墓地 )一帯の尾根上に沿って並んでおり、墓地の区画を示すような小さな段差や空掘状の溝は円墳の周溝跡にも見えてくる・・?。
波美城主郭

古墳群や波美城域の一部は無線施設・車道・墓地整備により破壊されている様子。尾根部を堀切と空掘りで区画された小曲輪!!? 【縄張り形状や位置からは、城館跡とも推察されている様ですが・・】側を抜ける横掘り伝いに、土橋付掘切を越えると段差をもつが不整地な、 数段の小曲輪状斜面の先で尾根筋を遮断する大掘切。此れを越えた上の曲輪が主郭の核心部だが、ここで「舞鶴の山城No131縄張り図」を見ると、大堀切から二本の竪堀上の細い通路を虎口受け曲輪 (竪堀群の上部に位置して、 両端部の竪堀には横矢掛・ 正面竪堀に対して出撃を兼ねたテラス状の小曲輪!!)があり、虎口付近の北斜面に集中して防備強化が図られており、此の曲輪から虎口が上段の主郭部北端に開き、 細長い曲輪に入る構造になっている。
波美城:主郭部は南側に一本の土橋付堀切が有るだけ!!

主曲輪から東尾根筋にかけての平坦地形は、丘陵部最高地点に小古墳のマウンド状頂部を利用したような台形地形!!?が在り、虎口から向う曲輪群は低い段差を積んで並ぶだけ?。 主要な中心部なのに削平状態の粗さからは(河守城と支城群?や金屋城に対峙してのものか!!?)陣城との推察もされる。主曲輪の防御施設は南尾根側に土橋付の浅い堀切が一本有るだけ。
遠望する波美城は其の地形や位置からみても、 四方の眺望は優れていると期待したが、案の定:樹木と藪に遮られて展望は皆無だった。
(舞鶴の山城・舞鶴山城研究会No131の縄張り図・大江町誌等・を参照)

三宮神社  大江町波美宮ノ段

三ノ宮神社境内の社殿裏にある高さ1.2m・径11mの古墳時代後期の宮裏円墳は町指定文化財となっていた!!が、墳丘以外・埋葬施設の遺構や標柱・案内説明板等は見当たらない。 宮山を中心とした一帯には東方に宮山古墳群(昭和40年頃・畑地(桑園)造成の際に円墳三基が発見された)が調査後消滅しています。 しかし参道の石段横には立派な神社由緒案内版が立てられている。 「河守盆地を囲むように、一宮神社(波美)・二宮神社(天田内)・三宮神社(波美)・四宮神社(河守)・五宮神社(在田)が鎮座する。祭神は丹波道主命 (たにはみちぬしのみこと)ともその五子とも伝えている。
波美:三宮神社

この丹波道主命は日本書紀ではヤマト国家が、諸国平定のために派遣した四道将軍の一人として丹波国へ派遣されたとされるが、最近では、古代丹後の豪族であったのではないかといわれている。 「丹後風土記残欠」にある・土蜘蛛、陸耳御笠(くがみみのみかさ)を、川守郷で討ったとされる日子坐王(ひこいますのみこ)の子と位置づけられている。三宮神社の本殿は、一間社隅木入春日造という形式で柿(木村を細く削りとった板 )葺き建立は元禄11年(1698)。棟梁は宮津の富田市郎左衛門盛康の手になるもので、洗練された力強い装飾が見事である。背面の妻飾りの蟇股は、足が内側に曲がる丹後風のもの、町内における貴重な神社建築である」と云う。 覆屋中の神殿を外からは見ることも出来ず・・?
(現地:xxx案内板 大江町誌等・・参照)


千原城
  城山 Ca90m  福知山市大江町千原小字上ヶ岡

大江山に棲む三つの鬼退治伝説として最も良く知られているのが平安時代中期 :摂津国多田の清和源氏源満仲の子:頼光 (天暦〜治安 948-1021)の酒呑童子・土蜘蛛退治。次に其れより以前:第31代用明天皇【聖徳太子の父:在位585〜587】の第二皇子:麻呂子親王による陸耳御笠(クガミミノミカサ)と匹女(ヒキメ)を首領とする土蜘蛛退治。
尾藤城近くの八幡橋から千原城遠望

さらに遡っては、 崇神天皇の代には日子坐王(彦座王)【崇神天皇の弟開花天皇の第三皇子】が若狭の青葉山に棲む陸耳御笠・匹女等土蜘蛛族を討つ為派遣されます。日子坐王の軍に青葉山を追われ逃れた陸耳御笠の軍は由良川河守付近で再び激突し、此処に一方の首領・陸耳匹女は討ち取られ、 辺り一面は血で赤く染まる。丹後風土紀等に依る千原は「血原」と呼ばれ、 後に千原(チハラ)は「せんばら」と呼ばれます。
千原城:主郭北下段の腰曲輪東末端の竪堀

大和朝廷軍の追撃から川を越えて逃れようとした陸耳御笠は、対岸には官軍が楯を列ね、矢を放って上陸を阻止・陸耳の郎党は由良川に流れて云ったといい、此の地を河守また楯原(蓼原)と呼ばれます。 何れにも河守城と蓼原城が在り、対岸の此処・千原城とともに渡し船による街道の要衝監視に就いていたものか・・・ ?陸耳御笠と匹女の一族残党は大江山に逃れ住んだといい、麻呂子親王に追われる第二話に続き?・・さらに土蜘蛛族の残党狩りが頼光伝説の第三話なのか!!。国家(大和朝廷)権力による地方勢力への圧制は、 征夷大将軍の名で近世の将軍職!?にまで引き継がれますね。
千原城:主郭西の堀切(土橋状を残した肩堀切か?)と竪堀

千原(せんばら)城は由良川の右岸の千原集落南背山や愛宕山(三角点峰・標高149m)が西へ長く延びる峰続きの丘陵部西末端ピーク(Ca90m)に位置して幅(南北約50m)・長さ (東西約150m程)の小〜中規模城郭です。尾藤口側から谷筋への取付きを窺うが判らず、バス停千原上を更に東へ進むと南側上方の山に入って行けそうな荒れた道が有ったが、主を失い廃墟となった一軒の民家で行き止まり。 山側上に竹林の残る平坦地が数箇所在るが 竹林管理用でも無さそうで、屋敷跡だったのかも!!?。急斜面に取付き比高約70m程で北側堀切から延びる竪堀(登城様の堀底道だったか?)を見て腰曲輪に着く。 腰曲輪の東端も掘り切られており、竪堀に対して横矢掛の効く攻撃用テラスなのか?。城域の山頂尾根の両端部を 堀切で遮断し東西約60m・南北約20m程の削平された主郭部が確保されています。土橋付堀切の外:東側には径30m程の削平された円形マウンドがあるが、中央付近に朽ちた柱や屋根板等が集められ、 マウンド東端には水鉢らしい石材が捨て置かれている。
千原城:主郭東端の土橋付堀切

山名の愛宕社が此処に祀られていたのでしょう。西側の土橋付堀切外側は自然地形か、余り削平や防御等には手を掛けていない小曲輪?が低い段差で尾根上に続き、 小曲輪群の端は浅い堀切で城域を終えている様で、東・西共に主郭部両端の堀切外側の曲輪に防備を意識した切岸・土塁・堀切等の施設をみない。何も無いと思える東西両外側を含む三区画の全てが千原城の 遺構と思えます。 主郭堀切から西へ小さな段曲輪を連ねて尾根を下るが、末端小堀切まで北斜面下の一つの細長い帯曲輪が延びる。 城域を外れての緩斜面は居館跡かとも思える尾藤稲荷神社跡の広い平坦地に出る。
千原城:主郭東外側曲輪(愛宕社跡か?)への幅広土橋?と竪堀

屈曲する旧参道は谷筋の堰提に降り立つと、畦道の様な細い道を伝い尾藤口集落内の民家裏手に出る。城主は地元伝承によると中岡左京進康信(右京之進・右近之進の名も見えるが ・・)の居城と伝えられます。中岡家は周防(山口県)守護職の大内義隆の親族で、天文20年(1551)先祖:中川信清の時、家臣の陶全姜(晴賢・隆房ともあり?)の謀反により主君:大内義隆は滅亡し、中川信清も此の戦いに戦死し嫡子 :左京進康信が、父の遺命により采地の千原へ逃れ築城したものと云われ 「中岡家系譜」によると天正年間に帰農して中岡姓に改姓したという。 
(舞鶴の山城・舞鶴山城研究会 No132の縄張り図 大江町誌 Wikipedia等を参照)


尾藤城    城山 Ca40m  福知山市大江町尾藤小字風呂谷

福知山市街地からは音無瀬橋を渡った北詰に猪崎の城山を見て、 由良川右岸沿いに府道55号(舞鶴福知山線)を走り大江町に入る。夏間・常津と山城の有る(位置等未調査で素通りする)集落を過ぎると約1Kmで由良川支流の尾藤川を渡り尾藤口で府道を右折して約400m程、 尾藤奥への地区道を進むと尾藤口南側の集落内に右折する車道が尾藤川に架かる八幡橋を渡る。 集落中心部に折れず直進する車道の正面奥に八幡神社と民家が見える谷間の台地"しろん谷"と云われ、西側民家の上に覆い被さる様に迫り出す丘陵上に尾藤城が在りました。
八幡橋から尾藤城遠望(中央小屋上部の稜を軸にV字状城域)

三角点峰の陣取山(259m)から北西に派生する尾根上176mピークから北へ落ち込む枝尾根の先端に位置する。尾藤集落の八幡神社の西で其の先端部を短いV字状の二股に分け、一方を北西の民家と・北東に田圃の拡がる農耕地に落ち込む。尾根続きのV字状・扇の要部分を掘り切って遮断し、二方に延びる尾根先部への7〜80mを削平して城域を確保。 夫々に細長い曲輪を乗せ民家上部に迫る北西郭部は分岐の堀切側と先端付近に2〜4段の小曲輪が設けられています。
尾藤城:尾根先二方向に分岐する尾根元の堀切

特に先端部曲輪は小さいながら丁寧な削平・切岸も2〜3mと高い。民家の屋根を真下に望む程なので曲輪位記確保の為と思えます。 北面の谷側には一段帯曲輪が分岐基部付近まで延びる。北東郭部へは何の変哲も無い平坦地形が尾根端の共同墓地へ続く。 尾藤から尾藤奥への車道 ・農地を見下ろす方形平坦な空地?や小さな墓地の段差が、嘗て此処も城域の一部として使用されていた様に思われます。 天正年間(1573-92)の尾藤城主を尾藤市正政廉 (古文書<田辺旧記等>により長野市正政廉・・)と云い、
尾藤城 :堀切東側曲輪下の祠

天正6年 (1578)織田信長の”丹後攻略”命を受けた細川藤孝・明智光秀の丹後侵攻に際し、建部山城主:一色義通に付いて落城したものか?。室尾谷観音寺文書(南北朝期 :延文元年<1356>)によると尾藤五郎兵衛尉光が 田一反を寄進した記録が残る。山麓の谷間や田圃に「しろん谷や的場・風呂ヶ谷」の小字があるが、城の位置からは 要衝監視には遠く奥まり過ぎているし、比高30m程の低丘陵でありながら重点的に守備を固めるべき北・東面?には、段曲輪の切岸・土塁も無く、堀切 ・竪堀や見張の櫓台状の防備遺構さえ無く、地形も要害とは思えない。
尾藤城:帯曲輪から見る西郭主要曲輪の切岸

しかし唯一?城域の堀切から南への尾根続きには 二箇所の堀切が有るといい尾根を伝えば・其の名も陣取山(兜山等の名と共に・・!!)。何鹿郡(綾部市・福知山市の一部)との国境に近く、 此処に本命の尾藤城があり、尾藤城とした此の城域は尾藤氏の居館跡だったとも推察されます!!??。 城跡へは東方から墓地へ参道があり、また山道が東西曲輪が分岐する要点の堀切へと通じているようですが道知らず八幡神社か・その先の民家から取付こうと思った。
尾藤城:西曲輪群への堀切と竪堀

車道は民家の広い庭先で行き止まり?の様子??なので、 引き返し最初の民家横から踏み跡(獣道?)を辿るつもりで進むと旧耕畑地の作業小屋で行き止まり。凄い藪だが踏み跡か獣道?を伝い潅木を避け藪を潜って進むと竪堀?を見て竪堀沿いに尾根上の墓地に出た。 平坦な尾根筋は小さな墓地の先で、また藪で行き止まり状態。藪は数m先で潅木と竹藪の疎林となり段曲輪・切岸は確認出来る。
(舞鶴の山城・舞鶴山城研究会 No133の縄張り図 大江町誌等を参照)

   本誌 丹波霧の里HOME 別冊 別冊丹波霧の里HOME

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