由良川舟運と「有路三ヶ」の山城探訪 大江阿良須城・北有路城・引地城 ・二箇村城他
京都:福知山市大江町   (五万図=大江山)
大江町の山城「有路三ヶ」の山城巡り  2009年07月07日
近畿の山城 : 大江阿良須城 北有路城 北有路別城 引地城 南有路城(未訪)  二箇村城

丹波市を境して福知山市を挟む西に天田郡夜久野町・東に天田郡三和町は、まだ馴染み深いが、福知山市と境する与謝郡・加佐郡は、もう宮津市・舞鶴市側で丹後の イメージが強くて遠くに感じる。
北有路城主郭南東虎口?からの展望櫓と愛宕社

加佐郡大江町は山陰線福知山駅から出ていた北丹鉄道《軽便鉄道河守(こうもり)線》の名が懐かしい。これ等・夜久野・三和・大江の各町が平成18年 (2006)合併して福知山市に編入されました。 現在では北近畿タンゴ鉄道が福知山市から宮津市に通じ、河守駅は駅名も大江駅と代わるが舞鶴市・宮津市・福知山市を繋ぐ要衝の地。元伊勢の名より大江山を背に、此処を舞台の酒呑童子伝説を生かした「鬼の里 」イメージが強いのですが、豊かな水と自然が此の地を育んで、由良川流域に沿って発達した、 宮津街道 ・由良の湊から福知山へ舟運による産業・文化・経済の発展や領地をせせる土豪・覇権を競う勢力の軍道ともなった歴史の道へと、元伊勢神宮・大江山への府道9号を左に見送って、 北近畿タンゴ鉄道の高架を潜りR175号を東へと大江町金屋に入り「有道郷」を進みます。 R175号を採って直ぐ金屋トンネル手前で右折する車道が大江高等学校前に出て小峠を阿良須集落に降りて来ると国道沿い北側に 阿良須神社が鎮座する。
引地城から望む由良川と北有路別城(正面)

先程の金屋から大江高校側へ右折せず、直進すると金屋城南山麓の金屋トンネルを抜けて北有路城の北方尾根鞍部を通って堂本へとR175号バイパス道が通じ、阿良須神社の東150m程先で交差します。 北有路とは由良川を挟んで対岸に南有路・二箇の集落があって有路 三ヶと呼ばれ由良川水運とは深く関わる名前の様です。嘗て大江町の中心は河守の名とはウラハラで、由良川中流域の街道・河川舟運の管理・管轄は更に3〜5km下流の有道郷(北有路・南有路)に在った様です。 丹後国加佐郡10郷の一:有道郷で南北朝期には山名氏の領地だったか?。
北有路城・主郭 (中央に櫓台状展望所)北の切岸と大堀切

応仁の乱後の戦乱に一色氏が領有したり、武田氏の所領となったり・・・何鹿(いかるが)郡北部に在って丹波守護代として覇勢・権力に驕っていた永禄年中(1558-70)頃は、 物部城を本拠とした上原氏の勢力下にもあった様です!!。一色氏は明智光秀の丹波・丹後攻めの際、田辺城主細川藤孝により滅亡させられ・・・翻弄される在地領主の小規模城館は、城主や築城時期等の城史も不明が多く、 伝承は有っても・いつの時代に誰(山名・一色・細川氏等・・・)の傘下に入っていたものか?、事象と時代の前後を繋ぐパイプはプッツリ途切れてしまいます・・・!!??。

阿良須神社  京都府加佐郡大江町北有路高畑461

阿良須神社は大江町では 唯一の「延喜式」式内社で、御祭神に神吾田津姫命(木花開耶姫)を祀る。日本神話に木花開耶姫は大山祇神の娘で、山幸彦 (火照命)・海幸彦(火遠理命)の母として、子宝・安産の神として 崇敬されています。北有路別城の尾根東山裾 ・五日市集落にある神社ともに十倉五社明神(有路に五つある十倉神社<十倉神社は4社しか記されていないが、 阿良須神社も十倉神社>)の一社で御祭神も同じ木花開耶姫。
阿良須神社(十倉五社神社の一)

第10代:崇神天皇(在位・紀元前97-30年)の御代に四道将軍の一人:丹波道主命
<篠山市の雲部車塚古墳の被葬者は丹波道主命と伝わり、宮内庁の陵墓参考地に指定されています・・?>が青葉山の凶賊蜘蛛征伐に当たり 豊受大神を神奈備の浅香の森にお祀りして戦勝祈願したのを創祀とされます!!?。慶長5年田辺藩主:細川忠興の留守を狙って福知山城主・小野木縫殿助が、田辺城を攻めた(関連:二箇村城を参照ください)際の兵火によって 社殿尽く燃失したが、翌年には藩主:細川忠興により現在地に社殿を造営して遷宮されたといわれます。
(現地:阿良須神社案内板 大江町誌等・・参照)


 阿良須城  北有路城 北有路別城 引地城 二箇村城

阿良須城(大江阿良須城)    城山 118m   福知山市大江町北有路小字城山

福知山市大江町の中心地・河守で元伊勢神宮・大江山への府道9号を左に見送り、北近畿タンゴ鉄道の高架を潜るR175号は大江町金屋で直ぐ金屋トンネルを抜けるバイパスと、トンネル手前で右折し大江高等学校前を通り、小峠を上野集落に降りて来る旧道 ?とに分かれます。此の二つの車道が合流する地点の西約100m程には大江町唯一の式内社阿良須神社が鎮座します。
安良須城:南端の堀切と左方に大堀切

西方約500mから延び出す緩やかな低丘陵尾根が其の尖端を阿良須神社近くに落とす低丘陵は地元でも城山と呼ばれ、 標高118mの山頂に位置する阿良須城は上野集落東北 ・阿良須集落北に在ってR175号線沿い南面からも、いくつか進入出来る取付き点は見つかります。
安良須城主曲輪の半周を囲む一番広い帯曲輪

約10u程の主郭が在り、5m程下の台地が尾根沿い二方向に延びる。南へのびる尾根筋は直ぐ堀切で遮断され、その先には曲輪らしい平坦地は見られない?。しかし足下は蛇行しながら流れる大河の由良川の屈曲点で、福知山に通じる主要宮津街道が由良川と接する山 ・川が迫る狭間にあり、
安良須城:北側の大堀切と西方の外曲輪

街道監視には有効な地点。 植林の中に見る余り広くも無い平坦地形が、主郭部からの監視・物見を補うもので、後世の造成によるものだけとも思えません!!。 曲輪の西北部端は主郭の切岸から落ちる竪堀で遮断。北西へ延びる尾根は主郭北端の土塁から切れ落ちる大堀切で完全に遮断されるが、堀切を隔てて延びる緩斜な平坦地の先には出曲輪が在った。
安良須城:大堀切から主曲輪側の切岸

築城時期や城主等の城史は不明ですが北有路城とも似て、 城域を遮断する大堀切の外側にも曲輪を持つ縄張りからも、由良川左岸の北有路に在る三城(上野と阿良須の阿良須城、 堂本の北有路城、三ヶ村と五日市の北有路別城)は北有路城を主城として、街道筋の東西に位置した支城として、宮津街道筋の監視と守備に機能していた様にも思えます。
安良須城主郭

築城時期・城主等は不明だが有路地区に残される伝承・民話に阿良須城と由良川を挟んだ南有路の引地城 (北有路城と南有路城ともされます・・?)が合戦し、一日で勝敗は決着したという。引地城(または南有路城か、南有路側の村人達が負けたとされ)が落ち、 その際・討死した双方無数の戦死した将兵達が、毎年落城した夏の日の夜になると、 カゲロウ(トンボ?)の大群となって、 北有路・南有路を結び由良川に架かる大雲橋付近に現われて合戦すると伝えられ、翌朝・橋の上は・夥しいカゲロウの死骸が落ちている。
安良須城 :帯曲輪から落ちる竪堀(主郭部西南端?!)

不思議に戦いに負けた南有路側の、引地城や南有路城の在る・大雲橋の南側に集中しているといいます。 北有路と南有路の人々の生活の場・水利と領地横領を狙う領主達が大雲橋を挟んで 合戦に及んだ・・・(武器を持たず ・素手で勝敗を決めようとした「蛾の合戦」の民話としても伝えられます。史実に現われてこない伝承ですが、阿良須城も北有路城主:倉橋弥三や、
安良須城の大堀切

南有路城主:矢野五郎左衛門等と共に、天正の乱?の際・山名与九郎長頼との戦に敗れた事を、話を変えて伝えているように思えます。 此の地を領した山名氏も、一時的に?一部を領していたと思える丹波(何鹿郡)上原氏、丹後に覇勢を誇った?一色氏にしても、織田軍の丹波丹後攻めに明智光秀に付いていた田辺城主:細川藤孝により滅亡させられ ・・・記録も無く益々混沌として、加佐郡の城史を語れる伝承さえも少ないようです。

北有路城(堂本愛宕山城)  愛宕山・城山 85m    福知山市大江町北有路小字堂本

北有路城・北有路別城・引地城・南有路城・二箇村城が由良川に架かる大雲橋 【「二箇村の渡し舟」が現在は1.5km上流の大雲橋に代わってはいる】を挟んで両岸に並ぶ。 由良川(由良川中流域の有路付近では古名を大芋川 ⇒大雲川とも呼ばれている)を自然の堀として、更に北に宮津・東に舞鶴・由良川沿いに福知山・右岸を南へは綾部へと丹波・丹後を繋いで、 文化・産業経済の主要街道が交差し、 時に軍道ともなった要衝で、通行輸送路に渡し舟を利用する要害の地。
北有路城:光明寺からの参道直ぐ、尾根筋の土塁と堀切

北有路城(堂本愛宕山城主)の古城主は矢野五郎左衛門房永とも、また倉橋弥三が居城したが、天正の乱に山名与九郎長頼に滅ぼされて 帰農したとも伝えられます。 其の後:山名氏が居城したのか?、当地を領した一色氏傘下・一時期何鹿郡の上原氏の支配下にあったが、上原氏を滅ぼした赤井氏(黒井城主)が支配していたと思われます。 更には天正期明智光秀の丹波・但馬攻めに 一色氏を滅ぼした細川氏か臣下の部将が在城したものか、廃城になったとは思えない!!?城遺構や規模からみて在地土豪 ・国人クラスの城ではあっても、城史の詳細不明の埋もれた古城。山麓の「あしぎぬ大雲の里」に郷土の誇りとして!!?要衝監視 ・由良川舟運関連を含めての、歴史と城跡保存に努めて欲しいものです。
堀切側から小曲輪(手前)と二ノ丸!!?の切岸を見る

大雲橋の200m程西手前?に幟幡が揺れ 「あしぎぬ大雲の里」の大看板が立つ。 大雲記念館・大雲塾舎・大江町の代名詞:鬼の名を冠したレストラン等では地域の、鬼伝説をテーマとした野・山 ・川の幸を食材が提供されています。文化を通じての学習と交流の拠点として宿泊 研修施設宿泊研修施設【大雲塾舎】があり、地域文化を紹介する資料館として【大雲記念館】が併設されています。大雲記念館は旧平野家住宅(平成7年:平野家の邸宅(母家は明治42年(1909)12代吉左衛門氏によって 建てられたもの)は大江町に寄贈され、平成10年:京都府指定有形文化財に指定さています。
北有路城主郭東・二ノ丸!!?北角の土塁

平野家は江戸時代初め<有路に移り住んだこと・平野姓を名乗った経緯等は不明 >より14代続き酒造業では田辺藩御用達として幅広い商いを営み、江戸末期には 由良川舟運の運航権を持ち、その管理を任され舟改めとして活躍し財をなしています。 吉左衛門は、 京都府会議院に当選し、明治23年(1890)には平野機業場を設立して輸出向けの羽二重・縮緬製織を行ない、明治33年(1900)には酒造業を廃し、平野銀行(後に京都銀行の前身)を設立して金融業へも事業を拡大して 隆盛を極めます。
主郭側の大堀切北にも更に切岸高い曲輪と大堀切がある

事業のかたわら、明治19年には加佐郡養蚕糸業組合の結成に尽力し明治23年には自宅を開放して中等養蚕伝修所を開く等、有路地域の産業や人材の育成に努め、経済・文化の振興に貢献しており、 地域文化交流の拠点がとしての「あしぎぬ大雲の里」が旧平野家を中心として、有路の地に有る事に一理も二理も理由が有るんですね。大雲橋北詰西側のR175号線GS向かい・路地の細い坂道の奥突当たりに有路保育園が建つ。 車はR2175号線大雲橋北詰め東側で恵日山光明寺(曹洞宗)・有路保育園上の寺・墓 参用駐車場への狭い車道が有る。坂道の有路保育園や其の手前の台地・駐車場・中屋敷墓地を抜けて、山頂に祀られる愛宕神社へ向う参道筋の平坦地形は屋敷(曲輪)跡。短時間で山頂主郭部に達する 大手道だったのでしょうか?。
北有路城・主郭北の切岸と大堀切

山頂には現在木造りの櫓台風展望デッキが設置されています。折角の施設ですが、休憩用のテーブル・イス類は無く立見席。 遺構はよく遺される山城なので縄張り図付き城跡案内板でも設置されていれば、 ふる里の誇りや歴史について再認識アップ・整備されている城山へのハイキング・コースも観光に一役・・・!!?。東側は光明寺からの愛宕参道を、南側からは「あしぎぬ大雲の里」からも 、旧平野家住宅の屋根を足下に見る寺屋敷跡?(小祠とXX堂 <メモ執らず 名は不明>が建つ)から、光明寺道と合流して城山へ通じています。大堀切から竪堀(後世に木材搬出用にも利用されたらしい)を経ても「あしぎぬ大雲の里」近くに周回出来そうです。
主郭北の大堀切・土塁!挟み二重竪堀

主郭西北は7m程の高い切岸に大堀切で尾根を完全に遮断し、南側へは土塁?を挟み二本に分かれ竪堀となって落ちるが、 深く(約1.5m程)相当長い竪堀は、木材搬出に使用され改変しているのかも・・?。大堀切の西に幅広土塁曲輪を置いて、更に先に一曲輪を置くが、その切岸は高い(8〜10m程)。尾根筋は浅く幅広い堀切状は左右を竪堀で落とす。 城域北末端までの尾根続きを高い切岸と、三重の堀切と竪堀を設けて遮断して防備補強された城。
(大江町誌 同・資料編を参照)

北有路別城   城山 75m 福知山市大江町北有路小字五日市

堂本集落を東へ R175号線は大雲橋北詰めから北東へと、北有路城の別城が在る五日市集落内の十倉五社明神の一社から城山に向う。北有路城の在る城山(愛宕山)から北有路別城の城山を隔てて続く山なみの 東面の拡がる集落が三ヶ村。北有路とは由良川を挟んで対岸に南有路 ・二箇の集落が「有路三ヶ」と呼ばれ、由良川舟運とは深く関わる名前の様です。河口の由良・神崎そして此処有路へと三箇所に分けて船継され、有路からの船荷は福知山へと高瀬舟に船継して運ばれました。
北有路別城の主曲輪と最高所の櫓台!?

此の三ヶ村だけが独占的に行っていた船運の隆盛期は 江戸時代以降(年号については不詳ですが、享和・文化<1789-1818頃)から車・鉄道輸送に変わる明治初年頃までか・・・?。江戸時代以前・中世期 :船運の発達は無かったとしても丹後から但馬・丹波天田郡 (福知山市)や何鹿郡(綾部市・福知山市の一部)へと由良川沿いの街道筋。二箇村に「渡し」が有って南有路・北有路の二箇の村を繋ぐもう一つの有路の意味から!!?「有路三ヶ」と呼ばれたものか!!?いずれにしても此処が川沿いの街道筋の要衝の地であり、渡船による通行は要害でもあったのでしょう。 城山の所在は五社明神(有路に五ヶ所ある十倉明神の一)の西側向かい・溝谷と畑地に続く低丘陵の尾根上なので分かるが、
北有路別城・西斜面の横堀

登路となりそうな丘陵鞍部付近へ向う車道が畑地の奥に見えるが、個人宅前・個人畑地の中を進む事になる。目的地までの距離も標高も低いので遠慮して、 国道筋に出て他の取り付き点を探してみる。東山裾からの細い進入道を見つけて進んだが、直ぐ道は猛烈な藪となり、潅木・下草が密生、あまつさえ棘類の蔓草が多くて閉口する。 嘗ては北側の畑地か山仕事に利用されたらしい道は 既に藪の中に埋没。棘や蔓草の中を両手で掻き分け進むことも出来ず、身体で下草を押し倒し・足で踏んづけて一歩先へ・・・足元の湿気た所も有って、夏場山城三大敵のヤマヒル・ササダニ・マムシに対して挑戦状を叩きつけての ローラー前進を繰り返しすが、緩斜面を廻りこむより、藪が深くても立ち木利用の急斜面を直上する方が楽。程なく幅狭い段差を超えて城域北東角付近から直接・北有路別城の頂部主郭に着いた。知らなかったとはいえ・一番登り辛い藪ルートを辿った様で、 「舞鶴の山城」研究会顧問のT氏作成の 縄張り図を参照するが、主郭切岸下部付近の北にある横掘!!・東方に二本描かれている竪堀も一本は未確認。
北有路別城:南緩斜面?沿いに横掘

主郭の南側には帯曲輪か?平坦地形に沿って横掘りがあり、途中で竪堀か!!?L字状に折れて鞍部へ、此処から下方の集落へと藪も薄い様だ。 主郭南から西へ延びる緩斜面の曲輪下方の浅い横掘?で、 小さな城域を終えるが、50m程下方(比高15m)には車幅の林道が北方上部へと伸びている。 集落では見かけなかった墓地が有るのかも・・・。堂本集落の北有路城からはR175号線沿いに、三ヶ村集落があり、 次の五日市集落を挟んだ国道沿いの標高75m程の低丘陵頂部に北有路城の出城だったと思える北有路別城は、由良川対岸 (右岸)に二箇村城が在り、共に二箇村に有った渡し場を望み、物見跡との伝承もあって ・渡し場と足元の宮津街道の通行監視の砦だったのでしょう。


引地城    城山 35m   福知山市大江町南有路小字引地

福知山市からは由良川左岸(北側)沿いにR175号線(宮津街道)を走り 大江阿良須城麓を抜けて、堂本の有路城南麓に「あしぎぬ大雲の里」の看板を見ると直ぐR 175号線は交差点を左へカーブしながら北進する。右折して大雲橋を渡り南詰めを左折するか、 福知山市・綾部市方面なら池部・筈巻から由良川右岸(南側)に沿って走る府道55号(舞鶴福知山線)が合流する大雲橋南詰を約500m、
府道55号:矢津集落入口(手前表示版)から見上げる引地城

古地谷川?に架かる鳴門橋の東・由良川に流れ出る矢津谷川!?沿いに、府道から矢津集落に向う分岐の 右手 ・府道南側は道路拡張工事で崩された崖状・東側も矢津谷川に落ち込む、 比高20m程の崖状激急斜面・東方の矢津集落から西へ延び出す 低丘陵が由良川に其の尖端を落とす所、東西約100m・南北約200m範囲の四方が比高10〜20m程一気に盛上がり藩独立丘陵部となる頂上に引地城が在りました。
引地城:低土塁囲みの南端曲輪

引地城とは矢津集落入口の車道を隔てた北東側丘陵(左手)上に南有路城が在り、 引地の城は此の南有路城の出丸として、 由良川中流域の上下流や、何鹿郡(綾部市から府道 9号線)の物部【上原氏の本拠地】や志賀郷から、 古地峠を越えて大雲橋に至るルートや、福知山市から池部・筈巻・夏間へと直接由良川の右岸沿いに、また左岸のR175号(宮津街道)を北有路に入り、大雲橋(当時はどうだったか?)を渡って南有路側に入ってくる要衝の 街道監視の任に当ったものか。
引地城東面:横掘の南側

城主を矢野五郎左衛門とされる!南有路城や引地城(城主名不明)も、北有路城の倉橋氏と同様に、山名与九郎長頼等の侵攻に防戦したが敗れ、落城後は山名氏方の居館となったとも考えます。 もっとも南有路城の古城主:矢野氏の居館で有った可能性もあるのですが・・・。大江町誌には東の尾根続き500mに本丸の地名があり、南有路城とは別の山城であった可能性も推察されています。北有路城の倉橋氏が山名与九郎に滅ぼされたのは、 天正の乱とされますが、与謝郡・加佐郡に覇権をもった一色氏や、 織田信長の丹波・丹後攻略には、明智光秀に付いた田辺城:細川藤孝に滅ぼされた一色氏ですが、忠興・藤孝父子の領地となり、藩政となった慶長6年(1601〜)宮津藩領・元和8年(1622〜)田辺藩領へと領主の推移はあっても、城史の関わる記録・伝承は 大江阿良須城のレポートに記した阿良須城VS引地城とされる大雲橋の「蛾の合戦?」だけの様です!!?。
引地城:低土塁囲みの南端曲輪と帯曲輪の西南端

其れも南有路城VS北有路城ともされ時期・事由も不明です。対戦相手も由良川の 水利権を巡る争いは有ったのでしょうが、南・北有路の村人となり、武器を使わず素手で戦ったとの民話風にも変わり、実態像が掴めません。蛾(カゲロウか!?)の大量発生の要因からは 二箇村城レポートに記した享保の飢饉と翌:享保18年(1733)に起きた赤松義民【田辺 藩領加佐郡内の農民2,000人余が、 藩に年貢の減免や旱魃被害により拝借米・銀を要求して田辺藩主へ強訴した百姓一揆で、百姓総代庄左衛門と二箇村の大庄屋 :赤松源右衛門と弟の佐兵衛が処刑され、後に其の徳を慕い、赤松兄弟は光国・鈴岡稲荷として妃られ、「赤松義民さん」とよばれ、昭和34年(1959)には「享保義民顕彰碑」が建立されています】の事件!!が モデルになっているようにも思えてきます。
引地城:曲輪ごとに敷設される堀切と土塁曲輪

また何鹿郡の物部城(綾部市)上原氏が加佐郡の一部 (有路郷)を領有していたのは内藤氏に代わった守護代の頃か?。横山城(福知山城)の塩見氏を押さえる為、永禄11年(1568)頃のものと思われる上原氏に出した下知状に、信長の陣に下り本領地や有路郷を安堵されており、 引地城は府道9号を通じ物部城から最も近い加佐郡有路郷ですが、引地城は比高僅か25m程・南有路城の出曲輪か居館跡と考えられますが、舞鶴山城研究会の顧問を務められ「舞鶴の山城」全城の縄張を 作図されている高橋氏も、旧加佐郡では唯一の特異な縄張りとされている様に、 西面の由良川・府道側斜面には城域南北の端から端まで低土塁が残る 200m近い帯曲輪(北端部は道路工事の拡張工事で断崖状に削られ不明ですが・・?)、
引地城:主郭部最北端曲輪に祀られる 水無月神社の祠

丘陵尾根続き(とは云え急斜面下の鞍部!?はもう平担地形で田畑が延びる極小の独立丘陵)の東面には折れをつけた横掘りが約100m、 矢津集落への入口分岐の谷川を挟んだ 引地城の東斜面下に在る1軒の民家?の上部まで延びています。外周を土塁付き帯曲輪や横掘で処理する手法は、 鉄砲普及で組織化され永禄年間 (1558-70)頃に流行したものと云われますので、 古城主:矢野五郎左衛門の時、有路は独占的な由良川舟運による財力で、鉄砲等軍備を整えていたものか?。 特異な縄張りだけに矢野氏が在地土豪とも思えないのですが、その設計・築造を担当した部将等?が気になりますね。
引地城東面:折れをつけた堀切

取付き点を探して南側へ廻ると広い田圃の畦状を 北に入って墓地に向かい、 手前の藪に隠れた溝谷を越えて戻り気味に斜上すると、民家と墓地の中央間付近に竪堀を見つけて堀底を詰めると東面の、折れを伴った横掘に入る。その尾根上には曲輪毎に堀切と切岸で 4区画された曲輪が並び、北端の曲輪には、水無月神社の祠が祀られており、此処からは当ページ最上部・プロローグに挿入した由良川の風景が望めます。
(大江町誌 「舞鶴の山城 」(平成21年3月発行)を参照)


南有路城  城山 104m 未訪  福知山市大江町南有路城山      ・・・・・・未訪

府道55号(舞鶴福知山線)の大雲橋南詰を約500m・由良川に流れ出る矢津谷川!?沿いに矢津集落に向う分岐がある。右手に府道に落ち込む丘陵末端は道路拡張工事で崩された崖状 ・北面も矢津谷川に落ち込む急斜面の独立低丘陵上に引地城があって、比高僅か25m程だが・そそり立つ山影は矢津集落の入口を固めるジャンダルム()前衛)、左手からも府道沿いに迫り出す同様の丘陵があり、 標高104mの最高所に主曲輪を置く南有路城る。府道分岐から道の無い藪の急斜面の続く尾根筋は暑い夏場では、つい先程:北有路別城に登ってきたばかりなので、比高・距離に関係なく、訪城の意欲は萎える。登路 ・取付き点を探して集落内公民館前迄歩いて見る。幾つかの取付き点は有るようです。
由良川を挟んでは、引地城と共に北有路城に相対して(対峙していたか、呼応していたかは不明!!?ですが、由良川中流域の上下流や、 何鹿郡(綾部市)側の府道9号線・物部(上原氏の本拠地)や志賀郷からは古地峠を越えて、加佐郡(現:福知山市)大江町側の大雲橋へ降りて来る街道を監視出来る要衝にあり、

南有路城の城主は矢野五郎左衛門とされますが、 地元伝承には河田伊賀守・山名与九郎(与五郎)ともあり、北有路城の倉橋弥三等と共に、天正の乱?の際・山名与九郎(與五郎!?)長頼に滅ぼされてたものか!!。
南有路城へは取り付き点は矢津集落側から 2〜3有るようですが?公民館から城跡への東尾根が良さそうだと・確認だけして(比高100m程だが、幾つかの訪城後の疲れと暑さに・かまけて)引き返した為、「有路三ヶ」の城シリーズは完結出来ず ・・・!!次回に持ち越すことになってしまいました?。
(大江町誌 を参照)


二箇村城   城山 80m 福知山市大江町二箇上

府道 55号の大雲橋南詰から約1.75km程、由良川右岸縁に接する 【この車道は明治中期の開削によるものと云い、福知山に通じる旧街道は此処:二箇(にか)村から北有路へ渡し舟で通じていた】二箇上集落も背後の丘陵が、車道に其の急斜面の西端を落とす所、標高約80mの山頂部に築かれた単郭(主曲輪は約 20x35m程)の山城は、足下を南北に由良川が流れ、 対岸の北有路へは此処に渡し場が在り、木の葉一枚の流れも見通せる程?の位置に有る。
R175号線北有路別城側から望む二箇村城

北有路・南有路・二箇を「有路三ヶ」と呼ばれますが、 二箇村とは北・南二つの有路村を渡し船で繋ぐ村の意味なのか!!?。対岸の堂本に北有路城・五日市に北有路別城があり、其の間に三ヶ村が有る・・・!!?が。藩政時代にも船運・交通監視の要衝に有った二箇村城は、 由良川を望む西・北・東面に二段の帯曲輪・腰曲輪が廻り、南の尾根筋を大堀切で遮断し、北方の急斜面上にも竪堀をも備えての要害の地で防備しています。二箇村城へは府道沿いに建つ浄水施設?側に駐車スペースが有り、 丘陵上に向う車道を採り、すぐ左手の林道を進む。
二箇村城:南尾根を遮断する大堀切

城域への 方行が外れそうになるコーナー部から、踏み跡を追って入り4〜50mも進むと城域南の大堀切に着く。慶長5年(1600)6月・関ヶ原戦に従軍した田辺藩主:細川忠興の留守を狙って福知山城主・小野木縫殿助が天田郡・何鹿郡の 僧や百姓を掻き集めての八百余人、田辺城の留守を護る子の細川藤孝を攻めた際 、小野木勢侵攻の動向は既に通報されており、 細川方は鉄砲を持たせて夜行軍で 二箇村に出向いて待ち伏せた。下有路の大庄屋亦左ヱ門等も手下や百姓50人ばかりを引き連れて加勢し、山上から一斉に狙い撃ち、小野木勢は逃げ去ったという。
二箇村城主郭:南面から…

忠興は関ヶ原から帰陣した際・亦左ヱ門に物頭の格式を 許したという(丹波国福知山領伝記)。 細川勢は船で渡ってくる小野木勢を、対岸の二箇村城から攻撃したものか?。また由良川船運が河口に位置する由良はともかく、神崎・有路の三箇所だけの独占事業、有路から 福知山までに船座は無さそうで、その特例の一つが分かった様な・・・?!城主については室町時代後期:古文書の多くに 石子修理(之)亮の居城とし、地元の伝承には一色修理之亮義正とも!!。主郭には金比羅社が祀られ、 「丸に五三の桐紋・天正十八年:一色修理之亮義正之碑・杉下家祖」の石碑が建てられています。 阿良須城レポート内に紹介している大雲橋を舞台の「蛾の合戦」の伝承は、
二箇村城:単郭の高い主曲輪切岸下に帯曲輪・腰曲輪が廻る

享保の飢餓による蛾虫の大量発生と、さらに加佐郡の百姓一揆により、首謀者として二箇村の大庄屋等が処刑された事例を語るものなのか・・・とも思える。享保16年 (1731)冬より続く 天候不順は翌17年夏:近畿から九州の西日本各地にかけての長雨(約60日)が続く冷夏・此れによるイナゴやウンカ等蝗虫の大発生による凶作に見舞われ、被害は西日本諸藩のうち46藩に及び、餓死者は1万2000人余に 達したという(享保の飢饉)。享保18年(1733)3月5日:田辺藩領加佐郡内の農民2,000人余が、藩に年貢の減免や旱魃被害により拝借米 ・銀を要求して田辺藩主へ強訴する(赤松義民)百姓一侯が起こり、百姓総代庄左衛門と大庄屋の赤松源右衛門と弟の佐兵衛を処刑し妻子は追放されられます。
主郭:金比羅社と一色修理亮義正の石碑が立つ

後年:村民は其の徳を慕い、赤松源右衛門・佐兵術兄弟は光国稲荷・鈴岡稲荷として妃られ「赤松義民さん」とよばれ、 昭和34年(1959)には「享保義民顕彰碑」が建立されています。赤松氏といえば播磨・美作・備前の守護で、嘉吉の乱に1次滅亡させられたが、浪人して逃れてきた赤松一族がいたものか?。赤松氏は応仁の乱(1467-77)頃まで 兵庫丹波に春日部荘を領有していたといい黒井城は建武4年(1335)赤松貞範が築いた黒井砦が其の全身といい 白毫寺には墓碑とされる宝筐印塔が建つ
(大江町誌 同・資料編 Web-Wikipedieを参照)

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