天田郡:謎!!の塩見氏一族の城!  牧城・石井城・向段城 ・羽合城 ・横岡城・堂屋敷城他
福知山市 (五万図=福知山)
謎多き中世天田郡の覇者:塩見氏の城巡り 2007年08月04日
近畿の山城 : 牧氏居館と牧城 石井城  笹尾向段城 羽合城 山田城と狸谷城

  横岡城 和久城  堂屋敷城と堂屋敷南尾根城砦T・U/南東尾根城砦V
    
牧正一古墳
牧城:主曲輪の空堀が左右下段ノ輪郭に延びる

福知山駅を西に抜けR9号線の篠尾交差点を直進して坂道を篠尾・小野脇方面へ500m程進めば笹尾向段城・石井城等がある。 宅地開発・JR電車基地の大規模造成が続くR9号近い市街地区ですが学校 ・会社の敷地や周辺に残る田畑・果樹園等の環境の中で、幾つかの城砦が僅かに遺構を留めているようです。
堂屋敷南尾根城砦T:主郭北の土塁

堀切・土橋・土塁等の遺構を残す城砦が市街地内に残されていることに驚き・周辺の城砦群の 遺構に期待が持てそうです…(^^♪。福知山市街地を北に抜け由良川支流牧川を渡る。牧城は北近畿丹後鉄道宮福線の狭間トンネルとR9号線を挟んで、牧川へ降るカーブの左手丘陵上に在り、 安土桃山時代以降の築城の様で山頂部に曲輪・空堀遺構を残す
電車基地を抜ける架橋の南に山田城・北に狸谷城を確認

牧氏の城とされています。牧川を隔て北側の丘陵は、南端を断崖状に牧川に落として要害を成し、 丸みを帯びた半独立丘陵部が山裾の山陰道を見据え、川を挟んだ山間の峡谷を東上してくる但馬山名氏方の動向を見据えて陵駕出来る恰好の位置に有ります。【注】平成23年8月京都府埋蔵文化財研究会に報告された 堂屋敷南尾根上の城砦群名は「京都府市町村共同総合型地理情報システム(web)」により確定化されているようなので、改て修正いたしましたがリンク付けしている他ページの関連項目まで修正が行き渡っていないので、 当面は此のページのみ修正しておきます。



 牧氏居館と牧城 堂屋敷城と堂屋敷南尾根城砦群T・U・V
  石井城笹尾向段城 羽合城 山田城と狸谷城 横岡城 和久城

牧氏居館と牧城
牧氏居館     福知山市牧

牧氏居館と牧城へは牧川沿いに走るJR山陰線とR9号の牧交差点で北近畿丹後鉄道宮福線沿いに北上する R175号へ右折して直ぐ、鋭角にカーブする地区道を牧集落へ入いり、R175号からも見えていた祠の建つ小丘が 牧正一古墳横を通る。此処までは車道の広いので駐車スペースを利用出来そうですが、集落を少し進むと一宮神社の鳥居が有り、参道奥の神社前付近に駐車させてもらいます。
伝:牧氏居館跡とされる一ノ宮神社(本殿背後か?)

牧交差点でR9号線を直進した場合は コンビニの広い駐車スペースの端を利用させて貰えれば、正面に牧城の在る丘陵先端がR9号線に落ち込むので、城の所在位置は 確認出来ますので、国道下を潜り抜けて向かいに渡って牧集落に入ると石燈籠をみて、向かいの民家横の下草の生える畦道を抜けて行くと、愛宕神社を祀る牧城域に向うが殆んど一直線で急な石段参道を、
伝:牧氏居館西北角付近の土塁

粗登りきった所に下川口簡易浄水場が有る。 此処へは右手下方の下川口水道施設と墓地との間から、斜上してくる砂利の参道とが合流する。牧氏居館へ向かうか、 居館に寄った後は此のルートで周回出来ます。牧城の主郭・副郭の城域を周回する帯曲輪の北斜面下方には墓地も見えており、簡易浄水場からの砂利参道を下って
伝:牧氏居館跡の一ノ宮神社裏手

集落東北最奥部に在る一宮神社(地元では ”いっきゅうさん” と呼ばれている)に向かいます。「牧氏居館」と推定されており、
神社本殿裏手に高石垣で囲まれた高地が其れらしい。神社西側から南北には丘陵部を堀切というより切り開かれた車道。北側は東西に一段低くなった畑地だがL字状に土塁で囲まれている。
伝:牧氏居館の土塁:北東角から

東側は神社正面から廻り込む地区道兼農道の様な幅狭い車道で、 神社側との間に横堀としては充分過ぎる!?深い溝谷が流れる。此の状況からは居館跡とも思われますが、土塁囲いの内側は荒れており、部分的には平坦地形もあるが全体的に東に斜傾しており不安定。果樹の栽培等に 回収の手が入ったたものか?。北一段下の畑地に方が平坦地だけだが居館跡に見えてきた。


牧城    愛宕山 89m   福知山市牧

牧城への位置・登城ルートは上記の 牧氏居館を参考してください。比高約60m程の愛宕山山頂に在り、参道 石階段道が終わる所(墓地から登ってくる山道との合流点に簡易排水施設があり堀越城(福知山市)で見たように此処も嘗ての曲輪跡と思われます。 塩見氏は延徳元年(1489)位田城(綾部市)に位田氏や 奥丹波の荻野氏ら土豪が管領:細川政元・丹波守護代:
副郭から主郭切岸と空堀

上原元秀に抗して拠ったクーデター位田の乱 には細川方として参戦し4年続いた篭城戦で、位田・荻野氏らを鎮圧後は丹波守護代を上原氏から代わった内藤氏に 付き助力を得たものか!。突然の様に天田郡に入部し郡内に勢力を拡大してきた横山・塩見氏の名は文安〜永正4年 (1444-1507)頃までの記録には現われてこないようです。内藤氏と上原氏による丹波守護代も細川澄之(永正3年〜)以降は 営々続く内藤氏の援助も有ってか、天田郡一帯に勢力を拡大してきたようです。
帯曲輪(南東面)

大物くずれで知られる享禄 4年(1531)細川高国が晴元と戦って敗死した尼崎の合戦にも出陣しています。 内藤氏に付いて高国方にいて敗走したものか?。 内藤氏は将軍足利義晴に許され天文2年 (1533)には細川晴元の被官となり 守護代に復職しています。 細川氏の内紛による勢力弱体化の中での京都丹波の領主達と同様・塩見氏も八上城主波多野氏や丹波へ侵攻してきた三好氏・松永氏 (八木城主内藤氏)配下の被官となっていたものか。
腰曲輪から副郭(東曲輪)に入る:手前は帯曲輪となる

塩見氏出自の真偽はともかくとして、 天文年間(1532-55)天田郡一円を支配していた横山城主塩見大膳太夫頼勝が長子横山頼氏を横山城に次男奈賀山長員(ながかず)を奈賀山城(中山城)に入れます。三男塩見監物(筑前守)利勝を猪崎城に四男和久左衛門大夫長利を和久城 (茶臼山城)に、そして四男長利に子が無く五男牧(塩見)伊織介利明を養子として此の牧城に配置?して天田郡一帯を支配したとされます。
南斜面の井戸跡?

塩見氏一族も、織田信長の天下布武による「丹波攻略」に侵攻してきた 明智光秀軍によって天正7年(1579)の 横山城攻めに頼勝の横山城は落城(明智光秀が福知山城として改修し入城している)し其の頃には他の兄弟達:一族の諸城は尽く落とされ、 その地位を失って帰農したと思われます。 天田郡に侵攻してきた奥丹波の荻野・赤井氏を永禄3年(1560)鬼ケ城で永禄8年 (1565)横山城に撃退した頃が
牧城主曲輪南側:石列は土塁跡?と井戸跡らしい石囲いの 窪地有り

塩見一族勢力が 最も大きかった時期で、守護代 八木城内藤宗勝と黒井城赤井(荻野)直正の決戦となり丹波の覇権を争った戦いは「和久郷の合戦 」に大敗した内藤氏に代わり、赤井 (荻野)氏が天田郡を含む奥丹波三郡を領し横山・塩見氏等も其の傘下に入ったと思われます。 愛宕山に天正年間 (1573-92)に城砦が築かれたとあるのは上記の新?牧城の様で、あらためて訪城してみたいところです。
牧氏居館:西北角から東北端の溝谷まで延びる土塁線

牧は「丹波志」によると河口荘大野村と云い河口平内左衛門が居たと云う。鎌倉時代:駿河国牧の牧左衛門 ・福井四郎太夫が地頭として此の地に入り河口某を討ったものか?領主となって 郷里の牧を地名としたとされます。 塩見系図 」には清和天皇を祖とする「源氏小笠原流として家紋「三階菱」を使用する家も多いと云い、丹波守護:細川頼元(明徳3年〜応永4年)の守護代:小笠原(修理亮)成明等と所縁も考えられる。
牧氏居館とされる一宮神社背跡の平坦段(南西角)

上記「塩見系図」にしても「丹波志」も伝承によるもので、不明点も多く考証が必要です。簡易水道施設から山上に愛宕神社を祀る祠が建つ 主曲輪へは小曲輪(腰曲輪)から城域をグルリと周回する幅1.5-2.5m程の帯曲輪に入り、帯曲輪を分けて石階段を登ると東曲輪(副曲輪:東西約15m・南北約20m程)に入る。前方に一段高い(約1.5m)段差の切岸上には
牧地区から望む堂屋敷の稜線(中央奥)

愛宕社の建つ主曲輪 (約20u)があり、土橋付空掘(幅約2m)が左右に廻る帯曲輪にまで掘切られ、通路を兼ねながらも一部は土塁らしい痕跡を残して 横掘りとも見える帯曲輪を廻しています。 主曲輪の南西端部の斜面に石列らしいものが見られ、福知山市史の縄張り図には土塁が示されているので、様子からは幅広い(2m程)土塁の土留め石が石列となって残っているのかも?。
堂屋敷:三角点峰より由良川を望む

主曲輪内は:土塁を感じさせる盛り上がりも境内 (奉納相撲の土俵が側に有り)整備で均されている様です。空堀と同様に土砂で崩され・流されたり、埋もれてしまったのかも知れません!!。 空堀を挟んで東曲輪と主曲輪の二郭を帯曲輪で廻す単郭構造の城で、足下を走るR9号線の車影も見えそうな程に近い。下草の状態が曲輪の境界を示して ?いると思える低い段差で主曲輪より少し尾根筋の 東西に長く突き出した 西北の主曲輪下にも、小さな腰曲輪が付き西面から少し傾斜しながら北〜東面へと回り込む帯曲輪に下りる。
旧観音堂の在った堂屋敷跡?に在った廃寺:大谷寺の仁王像と伝える <明禅寺山門前>

此の帯曲輪の西北部端も切岸加工され、低土塁を積んで空堀にも見えます。 城域の三方は崖状の激急斜面ですが 北方からの尾根筋は比較的緩やかです。堀切等の防護施設は無さそうなので?、戦国期の戦いにどれ程耐えられるかは疑問ですが篭城戦の記録は無いようです。帯曲輪の南側中程外側に 井戸記号が有ったのに井戸跡を見逃した。其れらしいサークル形状の石列はあるが、土砂・落葉に埋もれて形無し…?。牧氏居館跡の一宮神社に戻り此処から堂屋敷城に向かいます。

(福知山市史を参照)


堂屋敷城と堂屋敷南尾根と南東尾根先の城砦群
堂屋敷南尾根城砦T(下段 秋葉神社城) = 湯里城 Ca116m 福知山市牧湯里
堂屋敷南尾根城砦U(中段) = 湯里北城 Ca220m 福知山市牧湯里
堂屋敷南東尾根城砦V = 湯里東城  Ca150m 福知山市牧湯里 ・入


堂屋敷城
   xxx山 Ca360m   福知山市牧

平成23年8月京都府埋蔵文化財研究会報告会において 今回の調査で堂屋敷城の尾根続き・福知山市牧地区へ落ち込む南方尾根筋に検出された城郭があり、 此の城址を含む報告会に参加された知人より メールで概略を知らせてもらった。勿論・報告に先立ち4月には既に訪城済という。更に此の尾根筋に、もう一ヶ所城塞遺構を発見されていますが、 具体的に其の位置や遺構状態の詳細を聞き漏らした。
堂屋敷城最東端の虎口部?石塁(虎口受け曲輪?から)

福知山市のWeb遺跡地図で見慣れた地形図を頼りにR9号と府道175号線の分岐地点にある福知山市牧地区から 点名堂屋敷(3等三角点 375m)へ突き上げる谷の奥に延びる 林道を詰める。 谷筋に沿う林道の終点まで行き、 其処から水量の少なくなる左手の ガレ状の谷筋を詰めたが・此処で既に目的地を誤っていた。 林道右手(東)の尾根上に堀切が見えると聞き所在確認は容易と思えたが谷沿いの道ではそれさえ見逃したようだ。
分布図の城址位置:堂屋敷(3等三角点)は緩斜面のピーク

京都府埋蔵文化財 研究会報告会で報告された其の城(城砦名は不詳)は、虎口を有する土塁囲みの主郭や東斜面には横堀・ 城域上下(南北尾根の前後!!?)の堀切…等、小城ながら遺構は明確に確認でき、藪も少ないという。此の城遺構の他にも此処から堂屋敷城迄にもう一ヶ所遺構が 報告されているという。 更に此の尾根筋最南端部にも遺構が有るらしいが残念ながら是等を見逃したまま、
堂屋敷城:最西端の土橋付き堀切(上り土塁)虎口部!?

激急斜面に加えて尾根筋近くなってからは猛烈な篠竹密生地で、藪漕ぎで切り抜けるのに苦闘。やっと細い尾根筋に出て 由良川へ流れ出る牧川流域から登り着く比高 300mは山道が有ってもキツいかも!!?。点名:堂屋敷 ?の三角点峰 西側鞍部付近に飛び出した。福知山市のWeb遺跡地図の堂屋敷城は三角点峰山頂部付近が城址とされているが城遺構はなく、堂屋敷城は更に西へ延びる幅広く緩斜な主尾根筋先の峰上に在る。
堂屋敷城:主曲輪南面の切岸(主郭南面腰曲輪から)

福知山市史の縄張図によると城域の東側鞍部が観音堂跡と伝わる。北山麓の大呂地区より観音堂鞍部に至り、堂屋敷城の北側帯曲輪を東から西へ、更に南へ回り込んだ南尾根筋を牧地区へ降る山道が残る様で す。 しかし市史の堂屋敷城(砦)の解説文には遺構の西方約 20m低い鞍部に底辺約30m・高さ約40mの三角形の平坦地があり堂屋敷 (観音堂跡)と伝えられ北方の大呂と南の牧を結んでいた時代があったのであろう…とされている。
堂屋敷城:東の二段曲輪と主曲輪(最奥)

大呂地区には天寧寺城・金山城 ・桐村城等が在り、堂屋敷城を経由する繋ぎの軍道か大呂・牧を結ぶ間道が通じており、関所城的任務を持った城だったのでしょうか?。 城史不明・伝承も遺らないが、市史には単独の城ではなく南北朝期の繋ぎの砦として、大呂地区の金山氏最盛期の頃の関連の城と 推測されています。 天平時代:聖武天皇の在位の代(724-756)行基菩薩開基の楊柳山大谷寺があったが、時代の興亡や度重なる兵火の難に会って往時を留めるものは無いが、堂宇の跡と観音屋敷の地名が残るという。
堂屋敷城・城域西外 <観音堂跡?>から堀切と主郭を望む

此の堂屋敷(3等三角点 375m)の事か?。 もと大谷寺山門の仁王像が南山麓・牧の光泰山明禅寺に安置され、大谷寺の由来を語る唯一の遺物となっています。 福知山市の Web遺跡地図の位置が三角点峰山頂になっていたり、市史の城址略図には東に位置する 堂跡が城址説明・概説文では城遺構の西方とあったり、主郭北側の腰曲輪東部(伝観音堂跡の鞍部側・・)とあり、 方位にまごつく。
堂屋敷南東尾根鉄塔からR175・R176・R9合流地点と牧城・姫髪山を望む

訪城に際してはウロウロさせられ結局尾根を一本外れて・細く急な尾根筋を採って登城ルートを下ってしまい 再訪を期す事になった。尤も遺跡データ作成・構成時のミスによるものか!!?他行政区の遺跡分布地図等にも 位置や記載誤りをみかける事はある。三角点峰:堂屋敷から西主尾根の幅広い東側緩斜面を登る 前方上部に見る曲輪の切岸は、近づくにつれ下部は空堀状に見えてくるが、空堀土塁というより虎口受けの小曲輪?。
秋葉神社背後の土塁とクランクする空堀道?(山道)

此の小曲輪から東先端の切岸を主郭部の段曲輪には石塁沿いに入る虎口の様!!?。右手(北側)には段曲輪から 主曲輪を西側に捲く長い帯曲輪が主郭西面の堀切まで延びている。 堀切は土橋で繋ぎ・其のまま上り土塁となって主郭に入る。 堀切外側は幅広く緩斜面の尾根が続くだけで伝承の観音堂跡(観音屋敷?)が堂屋敷城域の主郭東の二段曲輪外の露岩・岩材?点在の虎口側の鞍部に在ったとしても
<堂屋敷への林道入口にある”いぼ地蔵”と五輪塔残欠群

主郭西面の虎口 ?・土橋付き堀切外側の鞍部に有ったとされても、境内としての空間スペースは確保出来る様だ?。東先端曲輪の上に二段目の曲輪が主郭の南面を抱き込む様に延び、低段差で繋がる曲輪が主郭南から 西面の堀切側まで続く。此の曲輪と二段目曲輪の約6m程南下にも 腰曲輪が付き同様に西面切岸下に堀切を見る。 主曲輪(東西約30mX南北6-7m程)の中央西北寄りには低い (高さ7-80cm)段差の方形土檀状が有り櫓台だったか?。(福知山市史を参照)
堂屋敷南尾根城砦T:主郭部南の堀切
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湯里城<堂屋敷南尾根砦T>
  Ca116m 福知山市牧湯里
湯里北城<堂屋敷南尾根砦U> Ca220m 福知山市牧湯里
湯里東城<堂屋敷南東尾根砦V Ca150m 福知山市牧湯里・入谷

上記:堂屋敷城の尾根続き東の峰堂屋敷(3等三角点 375m)から牧地区へ先端を落とす 南尾根上には、平成23年8月京都府埋蔵文化財研究会報告会において、新たに城郭の遺構が検出された旨を報告会に 参加された知人より概略をメールで知らせてもらい、先に堂屋敷城へ訪城の際・行き着けなかったが、牧の集落の民家背後に延びる簡易舗装の林道を辿って直ぐ、
堂屋敷南尾根城砦T:土橋付き堀切から主郭へ

谷筋向かいの小さな”いぼ地蔵尊”の祠から 丘陵尾根への斜面に取り付いた。前回通った簡易舗装林道の途中からも尾根上に堀切が見えると聞いていたが、 荒れて深く短い谷筋と思え気付かなかった。実際に湯里城(秋葉神社城・砦T)からの二重堀切からは、林道側の谷を越えれば直ぐの地点。訪城後の帰路に分かったが、
堂屋敷南尾根城砦T :三方に土塁を築く主曲輪

無理しなくとも尾根上には秋葉神社が祀られ参道も通じている。林道終点から激急斜面を谷筋沿いに北上した為 ・堂屋敷375mピークに直接登り着いたが、林道終点から右手(東)の尾根上を目指せば湯里北城(砦U)も比較的楽に行き付けたのかも!!。 京都府埋蔵文化財研究会で報告された城遺構だけに、
堂屋敷南尾根城砦T:三方に土塁を築く主曲輪

いずれ公的な名称なり呼称が付けられると思われるので 仮称は辞めて堂屋敷南尾根の下段Ca116mの遺構を城砦T・其の上方の遺構 Ca220m付近を城砦Uとしておきます。また此の南尾根端:秋葉神社の参道を”いぼ地蔵尊”祠付近まで下った所から堂屋敷南東尾根の湯里東城(砦V)関電の送電線
堂屋敷南尾根城砦T:主郭尾根側(北)二重堀切の一

【綾部石井線No6】が谷を挟んで東側の丘陵上を渡る尾根筋が、 其の先端をR175・R176号に落としR9号沿いの通行も監視出来る位置に在り 気になっていたので、 集落に下りず林道とは堂屋敷南尾根筋を挟んだ東側の民家背後の谷へ降り、堂屋敷山頂部から分かれる南東尾根筋の送電線鉄塔付近を目指して登り直した。此の然地形のままの緩斜面・平坦地形の尾根筋で、
堂屋敷南尾根城砦T:二重堀切主郭側の切岸

削平の手が加わっていると思えるのは 鉄塔下部に2段程の平坦段だけですが、京丹後・宮津・舞鶴へ向かう R175・R176を足下に俯瞰する位置は、通行監視には適地。尾根を跨ぐ送電線下の尾根筋を堀切った幅狭い土橋状を進む。平坦な自然地形の中にも土橋状や其の端側に観る天水池跡?とも思える窪地や竪堀状・是等を城域内とみて 尾根北端には、高低差も深さも失われているが空堀が尾根を遮断している様?。
堂屋敷南尾根城砦T:主郭東帯曲輪の横堀

堂屋敷南尾根に二ヶ所の城砦が存在する事をみれば、より要衝・由良川沿いを監視出来る南東尾根上の限りなく自然地形ながらも城砦の可能性は高いと思われます。
堂屋敷南尾根の城砦T・Uは要衝監視には展望が効かず、 領内監視にしても奥に入り過ぎ遠い位置にあるので 城史不明・伝承も残らないが
堂屋敷南尾根城砦T:二重堀切の二

・堂屋敷(観音堂跡)を経由して北方の大呂地区【天寧寺城・金山城・桐村城等が在った】から、南方の牧地区を結ぶ間道は繋ぎの軍道ともなり、その関所的な任務を帯び存在していたのかも知れません…!!?。
堂屋敷南尾根城砦Uの副郭から主郭上り土塁虎口を望む

城砦T・Uへは秋葉神社参道から・ または其の背後の大空堀道(クランクする深い堀底道・大土塁に沿うが、南尾根城砦Tの東下を捲き、更に城砦Uへの尾根筋に達する山道…?)を進み、 高低差6ー7mの堀切を見る。土橋状を渡ると主郭東下部の帯曲輪を進み、主郭北東角の横堀跡から土塁虎口状を上がると北面の土塁・
堂屋敷南尾根城砦U:主郭虎口の円形窪地

東面と西面にも崩れてか、低くなった土塁跡がみられ・三方を土塁が囲む主郭内部に入る。北面の土塁をを越えると土塁曲輪を挟んで高低差 7m程と4m程の二重堀切が有る。西斜面下直ぐの処に谷沿いの舗装林道が見える。林道からも二重堀切の内・高低差は低いが外側(尾根北側)の堀切は 林道から見えると思うが、
堂屋敷南尾根城砦U:尾根側(北)の堀切

大堀切は少し竪堀が斜になって 落ちているので見辛い?かも…。堂屋敷南尾根中腹部の湯里北城(砦U)へ :二重堀切を越えた尾根筋左右に浅く短い竪堀状を見るが、 細い痩せ尾根によくみる自然崩壊地形なのかも…?。尾根は傾斜を増してくるが 幅広くなると南曲輪に乗り、そのまま上り土塁虎口を主郭に入る。
堂屋敷南東尾根城砦V:尾根側(北)の堀切?状

虎口西側脇には石材が残存する直径4−5m程の円形窪地が有る。半地下式倉庫を兼ねた木戸門でもあったか?。主郭北奥の正面にも上り土塁状を一段上がる主曲輪?があり其の上に櫓台か ?5mX7m程の土檀曲輪がある。 其処からは藪の上り緩斜面が暫く続いて堀切を見る。
堂屋敷南東尾根城砦V:送電線鉄塔尾根上の堀切状?

此れより先は前回向かった堂屋敷ピークへの細く急斜面の上りが続くだけ。途中には1−2ヶ所に平坦地形はあるが、堂屋敷の三角点峰上同様に、城遺構と思えるものは無さそう。ただ堂屋敷山頂東端からは由良川・下天津から大呂へ入ってくる谷筋間道の展望が効く。堂屋敷南尾根筋の二ヶ所に堀切・土塁や虎口とも思える形状や ”上り土塁”遺構を残す城砦が発見されたことで、
堂屋敷南東尾根城砦V :送電線鉄塔尾根下方の平坦地形

東南尾根にも丹後・宮津方面監視の砦、堂屋敷城からの南尾根(明禅寺背後の尾根筋)にも舗装林道が入り込む谷を挟んで、堂屋敷南尾根筋城砦T・Uと呼応する形の砦が 隠されているのかも…。むしろ此の堂屋敷城からの南尾根筋に大呂から牧へ越える峠道(観音堂への参道兼!!?)が通じ、 関所砦的な任に当たった城砦遺構が在っても…と思えます。
石井城(笹尾城・笹尾砦・矢見所の古城!?)  石井山 66m  福知山市笹尾

JR福知山駅から山陰線沿いに西へ歩き、低くて暗いガード下 (いまはそんな道が有った痕跡も残っていないでしょう!!?)を 南側に出た篠尾でR9号線を渡って坂道を登っていく。淑徳女子学園(現在は共栄高等学校で、淑徳女子学園は正明寺地区の北方に移設)を左手に、更に緩やかな坂道を直進すると広かった道は急に狭くなる三叉路に出る。 此の三叉路の右手に笹尾山浄願寺(浄土真宗)がある。
屋敷跡?から取付く参道が大手道か ?<段曲輪横を主郭中央に入る

三叉路から狭いことでは往時と余り変わらない車道が続く。宅地を抜けるとまた田畑が拡がる懐かしい風景に戻ります。正明寺の親戚も塩見姓で「三階菱」の瓦紋が共に気になるところで在地の有力土豪:横山氏 ・塩見氏の系図によると、清和天皇を祖とする「源氏小笠原流」で家紋は小笠原氏ゆかりの 「三階菱」を使用する家も多いという。
主郭北端の土塁から堀切を隔て低位置の北郭部と屋敷跡?に降りる

猪崎城を本拠城として横山城(福知山城)・和久城 ・牧城等に塩見氏・横山氏・和久氏・牧氏等一族を配して 天田郡に勢力を誇った塩見氏ですが、「丹波志」にみる牧城の項には其の祖を辿るに不明点も多い。

主郭部北端の堀切(主郭土塁から)

正明寺地区の人は福知山駅周辺へ買い物に出掛けるのに「まちへ出掛ける・・とか、行ってきた」と言いますが、僅か1km程でR9号線 ・篠尾に出た途端、周辺の様相がガラリと変わることでも実感できます…(^^ゞ そんな市街地からは南西部の台地 :篠尾 ・矢見所の一帯に笹尾向段城・石井城が在りました。矢見所城(矢見所の古城)が笹尾の東南・羽合城の南約300m地点に在るが未訪。
主郭部中央西面の切岸ライン

石井城は浄願寺の西北にある低丘陵(標高66m)の城址主郭部遺構は、 カギ手状の尾根筋に沿って湾曲した南北約 130mX東西80m程の城域を中央に、南北に堀切を分けて北部山裾側に屋敷群・南部尾根側に主郭に近い広い平坦地形を持つが駐屯地だったか?。 丘陵北東端山麓に「熊野皇大神宮」や円応寺の墓地?が有り、其の北方から東へ延びる低丘陵(約400m程)にも城遺構が示される笹尾向段城で、 石井城の出城なのか?、
北郭部から主郭部北端へは此の堀切と土塁を積む切岸を越える

篠尾城・笹尾砦・石井氏居館?がいずれかの城を指すのか・また別所に在るのかも知らないが…!!「丹波志」に”古城跡 矢見所ト云”とあり 福知山藩主:松平忠房の頃も使用されていた様で、此処を「笹尾城」と推定されています。また笹尾城に関する伝承が二つあり:笹尾城主は石井氏とも和久氏とも云われます。 8?9の曲輪跡遺構を持つ浄願寺西方の城跡を石井城(笹尾城)としたい…。
主郭部と南郭部を分ける土橋付堀切

塩見氏は常に細川高国に付いていた守護代内藤氏の下にいたのでしょう!!。高国が尼崎に討死した後は、守護細川晴元の被官となり、其の晴元に背いて波多野氏に付いたり、再び晴元に復職したり、晴元から氏綱に ・更に三好長慶に付く等の変遷に、振り回されてか塩見氏の動向は良く分かりませんが、天田領内の領主も度々入替わります。 笹尾城については福知山市史に:上豊富(榎原城と烏帽子山城の中程!!、樽水地区)の樽水城主:樽水縫殿亮が掻上の城を構えて住んでおり、
石井城主郭の南端から南へ空掘・土橋付堀切が二重に遮断する

和久庄の笹尾城主石井内記を攻め落としたと云い、また「福知山領伝記」には 樽水縫殿亮が笹尾城主に滅ぼされたと云われますが、どちらが正説か伝承の域をでないが、城史不詳・伝承もない古城が多いなかでは、伝承が残るだけでも有難い。城主:内記と市内地名の内記とに相関が有るかは知らないが・・・。浄願寺から背後の杜に向って北に進むと宅地の先で降りとなり、左右に田園が拡がり、正面に立ちはだかる様に 篠尾城跡のある小丘陵が横たわる。
主郭(広い平坦地形の南東端には三方を岸切った一画に祠を祀る

濠を思わせる溝の奥には居館跡を思わせる広い台地があり、此処からは谷筋沿いに3〜4段の小さいが 土塁跡を残す腰曲輪を経て主曲輪(東西約40m・南北約50m程)と境する 二の丸(東西約35m・南北約30m程)とも呼べそうな中核部の広い曲輪に入る…大手道だったのかも知れません?。 尾根の東北端部に熊野皇大神宮の鳥居が見え、此処から南面が崖状となっている東尾根沿いに取り付いてみると直ぐ3m程の切岸をもつ曲輪。次の細長い曲輪の先には8u程の曲輪を挟んで二本の堀切 (深さ2〜3m程・幅3〜4m程)がある。
主郭部南東端:一段下の腰曲輪から主郭部の祠

堀切を越える主郭側の曲輪東端には高さ1m程の幅広土塁が築かれた二の丸とも呼べる広い曲輪があり、南へカギ型に曲がり低い段差で本丸に上がる。此の本丸との境・中程には笹葉で埋もれた窪地が有って井戸跡かとも思われます。主曲輪の南端には祠が祀れていて、南西から東北方に2m程の段差で帯曲輪がある。主曲輪の西北端しには短い土橋付堀切が有って 城外に出るのか緩衝地?が続くだけ。
石井城主郭南:大手道?の腰曲輪群の中にも祠を祀る

二ノ丸!!から南へ下る谷沿いには土塁跡を残す腰曲輪が3〜4段程続く。上部の一つにも祠が祀られている。主郭内と此の祠への参道が、嘗ての大手道だったか?、居館跡を思わせる台地と濠跡を感じさせる幅広い溝に囲まれた 田圃に出てきた。石井城訪城は此処から向かうのが正当。熊野神社の南・レポート最初の画像の田圃の奥の曲輪跡?の角から主郭部祠への参道を辿れば主郭中央には直ぐ。
(福知山市史を参照)


笹尾向段城  xxx xxm   福知山市笹尾太田地

福知山駅の西約600m程でR9号線・篠尾交差点に出る。此処から更に西北約 800m程に笹尾向段城・石井城が在る低丘陵地帯。丘陵部の西端部の福知山電車基地が有り、造成工事の事前調査で古墳等史蹟とともに城館遺構も4ヶ所(石井城 ・篠尾向段城・狸谷城・山田城)発見調査されています。
笹尾向段城:主郭の祠側に畦状ではないが竪堀は多い

此の電車基地を挟んで北に狸谷城・南の山田城所在地への案内は説明し易いが、 谷を一つ隔てた円応寺の裏山に在る石井城・篠尾向段城への案内は 市街地を抜けるR9号線の近くに有りながら、 地区道へは狭いうえに・曲がりくねった宅地内では、そのまま抜け出すだけでも大儀です。笹尾〜正明寺地区から北に向い、淑徳女子学園の直ぐ先で左手の山側沿いに進むと、
笹尾向段城・上り土塁:向かいは短いが深い竪堀

田圃を挟んだ北西の丘陵裾に熊野神社の鳥居・その東北隣の円応寺目印です。淑徳女子学園の直ぐ先約150m程で直角に右折して直進して峠を越える道路が、福知山電車基地をトンネルで潜る。 トンネルの南手前に山田城・抜け出た北に狸谷城が在る。
笹尾向段城北端部の段曲輪

熊野神社と円応寺間から北へ背後の谷筋を隔てた西(熊野神社側の丘陵)には石井城が、東側・北東方の円応寺背後には北へ延び出す舌状の極低丘陵尾根上に梯郭式に曲輪を並べ空掘・土塁で防備する篠尾向段城の遺構が在りました。石井城共に城史不明だが、 和久川両側に位置する多くの山城群の多くは、共に南北朝期以後・・幾度かの兵乱の舞台ともなって利用された城砦で、
笹尾向段城南郭の土橋付堀切から 一曲輪毎に堀切で仕切られる

石井城の別郭とも出曲輪とも思える東隣に近接の向段城も、 城主は「丹波志」等に云う和久氏もしくは石井氏の城ではないかと推定されています。向段城への取付きを探しては、 石井城を最初に訪城した際:熊野神社裏手の田圃畦際から丘陵裾の急斜面をとって、北東端の屋敷跡?平坦地に続く浅い堀切から高い切岸上には土塁を積む主郭北東端の曲輪に登り着いた。
主曲輪南面の大堀切

同様に熊野神社北東側(円応寺との間)から西方に入っていく狭い車道(農道兼林道?か集合墓地への参詣道?)を進み、 向段城の城域鞍部に向かい侵入出来そうな谷筋の踏み跡(堀切道かと思えたが、北面からの 山道を繋ぐ杣道の様?)を追って雑木藪の尾根に乗る。 鞍部から東側が遺跡地図に 笹尾向段城の城域ですが、殆ど平坦地形で西から北へと延びるの丘陵尾根を進んでみる。
笹尾向段城・南郭の土橋付堀切末端は取付き近くの車道側溝まで落ちる

広くもないが平坦尾根が北に向う辺りまでは尾根筋や 東側の向段城域側の斜面に1〜2段の曲輪も在りそうな気配はするが、頭が抜ければ・摺り抜けられる ・・・・ そんな藪の中では遺構確認も出来ない。北に向って緩斜面を下る尾根先付近で東斜面下に数段の曲輪がある。 空掘状・竪堀状も一条見る。 尾根近くのは低い段差で二曲輪に区分され北端は上り土塁で尾根に続く。此処も市Web遺跡地図に未記載地帯。
曲輪西端の土塁線は空掘と曲輪を土橋でも繋ぐ

比高20m足らずの低丘陵西斜面からの攻撃に対する援護・防備の曲輪群か?。此処から谷底へ下り、南の熊野神社側へ抜ける杣道らしい谷間の踏み跡途中から上り直して、向段城南端の広く削平も丁寧な曲輪に入る。向段城も小さな谷を挟んで西側に3?4の曲輪を置く出曲輪か?、 丘陵傍まで民家が迫る東尾根側が従来からの主要郭群。
曲輪ごとに前後を刻む堀切

高低差の少ない粗直線的に伸び出す緩斜面の尾根筋ながら、一曲輪ごとに土橋付の堀切や堀切で独立させている。空掘で分ける曲輪の片面を土塁道や土橋で繋ぎ土塁・竪堀で防御性を高めている。 ・・・が北端の曲輪は民家の裏庭!!?物干し竿まで置かれている様で、旧態は不明だが城域ほぼ中央付近に祠を祀る帯曲輪・空掘を挟む曲輪付近が、 梯郭式に曲輪を連ねながらも最も防御性の高い遺構が 顕著に残る主郭部なのでしょう。
笹尾向段城 ・主郭南面の帯曲輪

下篠尾から上篠尾へ続く集落内の細い地区道添いに円応寺へとほぼ直線的に並行して、尾根と民家の屋根が同じ高さで並ぶ程の低丘陵だが、北末端付近の曲輪から西斜面は短いが急斜面。最下部の畑地(湿田)は上方(電車地区)に貯水池も見えており、往時からの溜池なら水を引けば沼田堀として防備には有効。
曲輪ごとに前後を刻む堀切と空堀西端には土橋が付く

農道?を挟む北東の墓地が並ぶ低丘陵が有り、 市民病院が見えるが直近の手前北方の和久城(茶臼山城)が見えない。目前の丘陵上東200m程にはR9号(山陰街道)が走る。此処からなら和久・奥野部・岩井・荒河置山・横岡の各城や横山城(福知山城)も至近距離に在って 遺構空白地帯で未確認ながら見張砦が在った可能性は大!!??。

羽合城  xxxx 56m   福知山市笹尾・羽合

JR福知山駅からR9号「篠尾交差点」を渡って坂道を登っていくと浄願寺に至る。 上記石井城(笹尾城)へ向う入口ですが、交差点から繁華な店が建ち並ぶR9号線を南下するか・西南への道を辿って共栄高等学校(旧:淑徳高等女学校)の正門前に向う。高く急傾斜の高台にある高校のグラウンドの北側端から西に向って比高僅かに20〜25m程の低丘陵が延びている。 丘陵東端から北に向かう坂道の車道に沿っても、西側(城域)は急な崖状にとなっています。
共栄高校グラウンドの奥に羽合城跡の丘陵が見える

車道沿い坂の上部は住宅地で「たんぽぽ乳児保育園」案内板を見て左折すると、正面に加茂神社を見て境内に行き着きます。 「お宮さんの山」と呼ばれる此の加茂神社の裏山が羽合城の城域です。 なを加茂神社は各社の分霊が祀られており、京都八坂神社の旧称:祇園牛頭(ごす)には祭神・牛頭天王(素…鳴尊)を祀り疫病平癒を祈り、 伏見稲荷大社は祭神に倉稲魂神猿田彦命・大宮女命を祀り五穀豊穣を祈る。また京都にあって福知山・綾部には 火伏盗難の消除に愛宕社ではなく秋葉社が祀られる所が多いようですね。祭神は火之迦具土神で 特に山城の守護神として曲輪に祠が祀られているのをよく見かけます。
登城口となる加茂神社

神社の左手に広い道が山に向う様なので、登城には此の道を利用して藪を掻き分けながら高校グラウンドに沿って 進んだのが間違いだったのか? 空堀状を進んだが、左手の幅狭な此の尾根沿いに、特徴は無いが幾くつもの段差をもった平坦地(曲輪)が梯郭式の見本の様に次々と現れてくる。つい気を良くして、 どこまでも続く尾根を先へ先へと進み過ぎた為、右手に在る筈の主郭部をとっくに通過してしまい、谷を挟んで向かいの尾根が遠い?空堀状を右手に越えれば羽合城の主郭だったが、しかし先に進む此の付近の尾根筋にも堀切らしいもの ?や森林作業用とも思えない平坦地がある。羽合城関連の砦なのかも知れない?遺跡分布図等を 再チエックする要が有りそうです。【後日知った矢見所城の遺構だったか?改めて訪城予定】
羽合城中央郭:主郭の矢倉台!!

ただ昭和初期の大戦中・畑作等で手が入っていたとも云い、其の通路や耕作地だったのかも?…慌てて ・元来た道を今度は尾根の西端に沿って戻ってくると、堀切と土塁を越えて主郭を捲く腰曲輪、西南側から南東面にかけて低土塁が囲む主郭の(約30m四方)ほぼ中央部には1m程高い台形(東西4m・南北に6m程)の矢倉台と思える 小曲輪がある。曲輪の切岸端や、堀切に面した土塁上に置かれる矢倉台ではなく、この後に訪れた私市(きさいち)城にも有ったが …主曲輪の中央部に 盛られた台地の矢倉台は、攻防には不利!!・展望にも欠けます。これ等遺構の築城時期が問題かも知れませんが、むしろ天守台の祖形の様な気もします?。
主郭下の腰曲輪:西側中程にある枡形虎口付近から

羽合・天田・向野地区に囲まれた丘陵一帯には古墳群が点在しており、 羽合城域も羽合ノ段古墳群と位置と思え、天守台の規模が丁度この古墳群2号墳と同じくらい?なので、古墳の頂部を削平したマウンドを利用した曲輪なのか?。羽合城域を外れて行き過ぎて見かけた曲輪状も 川上古墳群や川上南古墳群と記されているので、付近の古墳のマウンドや中に周濠跡でも有れば堀と見誤ったかも!!?福知山市史の埋蔵文化財遺跡には、此の羽合城は東側の尾根筋を梯郭式に曲輪を連ね、堀切・土塁で区分された中央郭と西側の曲輪にも櫓台と低土塁を敷設した遺構が 小規模ながら良く残っており、最終章に記した南北朝期の荒木山城や中世末期 ・天正期頃までも横山城(福知山城)の城砦の一つとして使用された可能性は 推定されています。

主郭の南面を捲く低土塁

縄張り図では卵型の中央郭の主曲輪を:ほぼ半周して段差4〜5m程・一段下の北面(加茂神社裏手)を捲く幅5m程の腰曲輪がある。 堀切を隔てて西側にも曲輪群を分けており、主郭西面の低土塁が切れるほぼ中央部分には枡形状の虎口がある。此処から腰曲輪に降りて、余り急でもない斜面下に見えている加茂神社へは、ほんの30m程を下るだけ。 此の西側曲輪の中央郭側・東南隅には堀切に接して2m程高い位置に3〜4m幅程の矢倉台があり、主郭と同じ規模の曲輪が2〜3段ある。城主等の城史を語る資料は、口碑・伝承の類も無いが、天文年間の築城から天正7年(1579)明智光秀軍に攻められ落城した塩見氏の 横井城(福知山城の前身)を守備して土師川沿いの南口にあって土師城・水内城・高畑城等の諸城と共に守備した支城か枝城だったか?
中央郭東側の空堀と土塁?

また南西約2.5kmの兵庫丹波・市島町竹田の県境尾根に 荒木山城が有り、南北朝期の正平17年(貞治元年・1362)頃・丹波守護の仁木義尹(仁木頼章の子)が山城を築き、 城域の南側・堀か荒木に居館を構えています。土豪:荒木一学等が但馬山名氏や細川氏内紛による管領:細川頼之の被官:内藤氏 八木城等の侵攻に備え、守備した諸城の一つとして既に存在していたとも考えられますが!!?。
(福知山市史 現地:加茂神社案内標 を参照)


山田城と狸谷城
山田城
    xxxx山  Ca70m   福知山市半田町山田

和久川沿いR429号を今安・半田へと東に走っていると、南側に標高5〜60m(比高2〜30m)程の台状に長い丘陵が東西に延び、丘陵上に白く架線や倉庫の様な建物群も見える。JR西日本旅客福知山電車基地で、昭和55年(1981〜)頃から始まった建設工事に先立つ基地敷地内の 予備調査では、多くの古墳と中世の城郭遺構4つが発見されたという。
山田城取付き点の電車基地ゲートフエンスから ・左端は狸谷城

【其の一つが此の電車基地を・半田〜正明寺へトンネルで抜ける南北出入口付近に有り、北側に狸谷城 ・南側に約300mと離れていない近距離に山田城が在り、電車基地の架線・鉄路を挟んで 低丘陵続きに呼応する位置にある。基地の東方57m三角点峰麓付近には笹尾向段城(篠尾砦の事か?)と石井城 (篠尾城)がある。
山田城西郭:曲輪の段差も不明確だが、此の先に櫓台状の主曲輪が?

矢見所の砦がどこなのか?郷土史誌からだけでは城砦名と所在位置も分からない・・最近?になって Web市遺跡情報地図を頼りに再訪してみたが築城時期や城主についての城史は、伝承は残っていても不明。其の一つが小字狸谷の名から狸谷城と呼称される城跡ですが電車基地建設で消滅した?とされています。
山田城西郭:主曲輪?

城跡の雰囲気だけでも僅かに遺っている様で!!?表現的には全壊か・・?。 狸谷城とは電車基地を挟んで南側には山田城が在る。此方は荒れて入るが短い谷沿いに西郭・東郭が有り、広い範囲に曲輪 ・空掘・竪堀・土塁の遺構を散見する。発掘調査による豊富谷丘陵遺跡群からは南北朝 ・室町時代にかけての城砦遺構として土塁・堀切・郭部の曲輪・近世墓や、古墳時代中期〜弥生時代後期.にかけて造りだされた大墳墓群や、 堅穴式住居・掘立柱・建物・柵列・柱穴・溝・土壙等が発掘発見されているが、発報告書類の閲覧をしていないので詳細は知らない。
T:山田城西郭:帯曲輪を割って竪堀が落ちる

…が当地域の弥生時代の墓制の特徴には、ムラを見下ろす丘陵上に築かれた墳墓が丘を削り出し、掘り込んだりして自然の地形を最大限に 利用した台状墓と呼ばれるもので日本海側特有の墓形といわれます。段丘上の方墳や円墳を曲輪に、また墳丘のマウンドを櫓台にと転用可能だが!、城域に古墳は無さそうです?。R429号の半田交差点を南へ直進する車道が 正面丘陵群の中央部に突き当る辺り・堰堤に見える電車基地西端部に残る小さな林が北に押し出される様に膨らんで見える所に 狸谷城が在りました。
山田城西郭:主曲輪(左)と帯曲輪

車道は狸谷城の 西丘陵裾を通り・直ぐトンネル(電車基地の丘陵間を跨ぐ高架下)を潜り抜けるが、高架を南へ抜け出た所で左手の基地内へ向う専用車道際の、南向かいの丘陵上に山田城が在りました。高架を潜る車道は峠を越え下って、 正明寺〜鴫谷〜今安への車道と合流して、直ぐ淑徳高校前〜正明寺・市街地と小野脇・丹波市青垣町へ通じる県道109号線の榎原へ通じる 車道に出る。この交差点を南へ室・荒木・堀へと直進すれば西山城等の山城が在って・いずれ・・・紹介したい。
U:山田城西郭:帯曲輪を割って竪堀が落ちる

山田城 へはR429号線半田交差点から南へ直進して、福知山電車基地の谷間を抜ける高架下の車道を南へ抜け出た所に、電車基地内への専用道路が東西に走る。東側へ斜上すると引込み線の架線 ・鉄路が丘陵上に拡がり、北側端の緑地部に狸谷城の遺構が僅かに残る。 背にする南側の丘陵に入っていく山道は直ぐに山田城東郭部の城域に入る。踏み跡は城域を掠めて外れていくので注意ですが、幅狭くなる平坦な尾根筋には長い土橋が延びて、途中の枝尾根側へは土橋から 直角に折れる土塁があり ”横矢掛け”を意識した遺構の様にも思える。土橋は尾根幅も広くなってくると、 南北の斜面からの攻防に対する曲輪の低土塁にも見えてくる。
山田城東郭の曲輪群

150〜200m程の 藪っぽい尾根が突然切れて上篠尾の墓地に出た。手前で土塁道が切れた平坦地から僅か 100m程の尾根続きに石井城(篠尾城)が在る。山田城から石井城・狸谷城へ約300m程・篠尾向段城へも約500m程。 何れへも高低差小さな尾根続きの近距離にある。城史不明ながら四城は深く係わり合い土塁・土橋等でも繋がる 一城別郭の様に関連していたものか?。取付きを東側の専用道路に入って直ぐ、 コンクリート壁で固められた南側丘陵裾が、一端小谷で切れる所から侵入した。
山田城東郭郭の帯曲輪と空掘に架かる上リ土塁(仕切り土塁?)

藪の谷筋から東斜面に移ったが、急でもない斜面を尾根筋に 取り短い斜面を尾根に近づくと、小曲輪が現われ、車道が抜ける西側に低土塁が延びて、数段の曲輪が並ぶ。切岸も無い小曲輪に古い時代の城かと余り期待もせずに進んでいくと、5m四方の曲輪に着いた。 南側に2m程の切岸と帯曲輪が東に廻り込み、 更に下段にも曲輪が数段有る。小さな櫓台状だが・城域は思った以上に広く、 此処が東北へと拡がっていくので、櫓台状で最高地点にあるが展望の無い小曲輪を北郭部の主曲輪としておきます。
山田城の城域を外れて延びる土塁道!!?

東へ下り気味に延びる尾根筋や左右に平坦地形が続き、長い帯曲輪からは下段曲輪を割って 南方に竪堀が一条落ちる。東尾根筋に広い東郭部の主曲輪があり、尾根を囲む様な帯曲輪が3〜5段と続く。 2段目帯曲輪の切岸に沿っては埋もれかけた幅狭く(1.5〜2m程)浅い空掘があり”上り土塁(仕切り土塁)”を見る。土塁道から広い堀底道状の山道に合流して50mも進めば、電車基地の専用車道と・基地内への 出入口ゲート前の小広場に着く。
山田城の城域を外れて延びる土橋!!?

取り付いた谷筋が 専用道の30m程下方なので、 此の谷を囲むU字状に城域が展開している様子。 丹波攻略の明智光秀が和知谷(船井郡京丹波町)の土豪・出野左衛門助・片山岳内に宛てた書状【光秀を祀る御霊神社の古文書で市指定 :天正8年6月21日付となっているが・・!!】が遺されているが、和久庄に天田郡一円を支配した土豪塩見大膳頼勝 の四男和久左衛門大夫長利が拠る山田城(茶臼山)を攻め落とした後の、処分について指示したもので、動向について確証の乏しい横山氏・塩見氏一族の中でも、信憑性の高い資料(史料)に名の見える唯一の人物という。
山田城の城域を外れて延びる東尾根:土塁曲輪と思える場所も有る!!

塩見 ・和久氏等が永禄年中(1558‐70)何鹿 (いかるが)郡に侵攻して山家・和知 ・口上林を領したと云い、積年の報復・・!というところか?。 横山城(光 秀が改修した後の福知山城)や和久城は前年:天正7年(1579)に落城しており、和久城(茶臼山城)のもう一つの呼び名が山田城だったと…!!此処まできて気付く。
山田城の城域外に延びる東尾根途中 ・枝尾根側にも短い土塁は横矢掛も可!!

一地方の一領主・土豪などの数多くの城砦群は、其の落城により一族滅亡すると帰農しても、 伝承や城史に残される事も少なく、市史に其の存在さえ記されること無く(昭和??年版の市史には電車基地周辺4城のうち山田城は無記載)消え去り、城遺構も藪に埋もれ人知れず・其の存在さえ忘れ去られる運命に有るのだろうか!!?。

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狸谷城  xxxx Ca60m  福知山市半田字狸谷

R429号の半田交差点を南へ直進する車道が正面丘陵群の中央部に突き当る辺り・堰堤に見える電車基地西端部に残る小さな林が北に 押し出される様に膨らんで見える所に狸谷城が在りました。車道は狸谷城の西丘陵裾を通り・直ぐトンネル(電車基地高架)を抜けて淑徳高校前を正明寺・市街地へ通じる。此のルートは今安・鴫谷から正明寺を経由しても、室・荒木へ通じている。 南北朝初期・丹波守護:仁木義尹が居し、細川氏との戦いに義尹は此処で謀殺された伝承も残る。
JR電車基地となった !?狸谷城と前方に山田城

またR429号がR9号に合流する地点には安尾城(和久城)・和久川を挟んだ北東には荒河城 (安良賀城)が在る。南朝方の拠る両城を丹波守護:仁木頼章が攻め落とした様で、和久城は仁木氏の居館ともなったようです。建武(1334〜)の頃か、南朝方に寝返り再び北朝方となり守護となる観応2年(1351〜)高師詮の後・三度守護職を受けた文和4年(1355)頃かは不詳だが。
JR電車基地となった丘陵右端に狸谷城の遺構(段曲輪だけ)が残る?

延文4年(1359)仁木頼章没後も丹波の覇権をめぐる 仁木義尹と山名時氏の争いには、仁木氏の陣城・前線基地として利用されたものか?。貞治2年(1363)仁木氏から足利直冬が4ヶ月程守護に就いた後、 翌貞治3年〜山名時氏・続いて氏清が丹波守護職に就いています。郷土市史等には延文4年〜貞治2年(1359-63)頃に利用されたものと推察されています。
狸谷城北斜面の段曲輪遺構?

城域の北方を東西に和久川とR429号(佐治・丹後街道)を見据えて尾根筋から北斜面にだけ段曲輪・帯曲輪を積んだ陣城とも思える縄張りからは、当地の荘園領主や在地豪族が、 所領管理・守備する為に拠った城郭ではなく、山名氏と覇権を競う仁木氏方の前線基地としての築かれたものと見られます。電車基地建設により消滅したとされる狸谷城は市史等資料によると、城域は丘陵西北端の小丘に有って東西約80m・南北約50m、東方尾根筋を上辺約7m・底辺約3m・深さ5mという比較的大きな堀切で切断(上辺・高さ共に約2mの土塁も有った)した西側の最高所に主郭
狸谷城北斜面:帯曲輪?から尾根上主郭の切岸?

(東西約25mX南北約20m)を置き、 北側に高い段差(約1.5m〜5m程)の曲輪が4〜5段続いていた様です。城跡略図の宅地が現状と変わりなければ城域の中央を割って車道が通じている様で 遺構は壊滅的ですが現状:猛烈な篠竹藪を掻い潜った先 ・雑木の急斜面には3〜5m程と幅こそ余り無いが、3段程の段曲輪状がある。主郭部?に向う急斜面に古い木階段が残っているが、主郭に祠でも祀られていたものか?。
狸谷城北斜面の段曲輪遺構?

只丘陵尾根筋と思える付近から南一帯が崖状に削られ、 広大なレールと架線が延びる電車基地が拡がる。城域東面は藪と崖状で近寄りがたいが、此の段差からは南東端部の主曲輪土塁と堀切は遺構の残欠が残っているのかも?…予感はするが、市の遺跡情報のコメントには消滅とあり、 看板は無くとも当然立入禁止地域なので撤退する。

(Web福知山市遺跡情報地図 天田郡志/福知山市史 丹波史年表を参照)


横岡城 xxx山 40m  福知山市荒河・岩井東町

福知山市民病院の東側を流れる弘法川沿いに北へ向い約1.2km程、和久川に接する辺り、 由良川へは東に500m程・車道は新音無瀬橋の西詰めで、東側へ渡ったところで府道55号(舞鶴福知山線)に合流する。
横岡城:和久川堤防からの西面

新音無瀬橋西詰め交差点を北へ、荒河橋を渡り由良川左岸沿いに大江町に向うR175号線への道へ直進する車道。荒河橋を渡った北詰め・正面の左手上の丘稜に荒置山城(荒河城)が在り、橋手前の左手には住宅地に迫り、其の宅地の裏庭や畑地に落とす崖状の比高20m程の低丘陵は、 東西約3〜40m・南北にも約120m足らず。
横岡城主郭北東の切岸:右の家屋も曲輪だったか?

規模の大きな古墳クラス?。四方を宅地と畑地で囲まれた丘稜上部に、小規模ながら城砦遺構を遺す横岡城が在りました。宅地化・畑地開墾・土砂採取!!いずれかの計画でも進行すれば、小さな城域は数ヶ月を待たずに消滅すると思えます。横岡城は北約300m(荒河城主郭 〜横岡城主郭は約600m程)に、
横岡城:北に和久川を挟んで荒河城(墓地上に南郭)

和久川を挟んだ丘陵上の 荒河城とは距離的にも対峙する位置に無く、荒河城の居館・出曲輪か砦規模。横岡城の南西方約700mの KTR「あつなかとんや」駅のホームからは正面に見上げる丘稜上には現状:崖上に保育所が見え、山頂部はホテルが建つが和久城(茶臼山城)が在りました。
横岡城:中央〜南曲輪の西面切岸

和久城は建武4年(延元2 1337)荒河城(安良賀城・荒河置山城)は其の2年後の暦応2年 (延元4 1339)其々の城に天田郡(現:夜久野町・福知山市・三和町等)の南朝方が拠って、幕府方と合戦に及んでいます。 和久川を挟んでの安良賀(荒河)城合戦では、横岡城も南朝勢の前線拠点となったものか?。此の時の南朝方守将の名は不明の様ですが、
横岡城中央曲輪から主郭南曲輪への上り土塁?

鎮圧した幕府方の丹波勢では氷上郡 (丹波市) 玉巻城の久下弥五郎重基や、片山高親(船井郡京丹波町(旧和知町)の地頭 (出野城主か?)、 三和町細見谷の諸城を推定してみるが細見氏の他・歴代の城主・守将に片山氏の名は無さそう・・?。
横岡城中央曲輪と空掘(箱堀)と主郭側の切岸

丹波守護・仁木頼章のもと、守護代:荻野朝忠や 那珂氏等が参軍しているが、和久城や荒河城の合戦には其の中心となって戦功を挙げた片山氏・久下氏に対して、 仁木頼章より感状が出されている。天正年間( 1573〜92)播磨三木城別所氏家臣 :井口氏が三木合戦の際・此の地に逃れて築城したという?。
空掘道から中央曲輪に入る虎口から和久川と姫髪山(丹波大文字)を望む

現在、かなり宅地化が進行している。R9号線の東約500mにはJR山陰線と北近畿タンゴ鉄道が平走する、福知山駅の次駅が”厚中問屋”。 厚中町・問屋町の商業中央地帯の北端に在っては、知られざる城砦遺構などは開発の波に・何時か消え去る運命を 背負わされている様に思えます。…横岡城は和久川を隔てて左岸に位置する荒河城(荒河置山城 )の南・和久川右岸の独立する低丘陵部に
中央曲輪から南曲輪

有るが、形的には同じく独立する小山塊の最高所:置山102mから南へ延び出す尾根先が和久川で遮断されるが、同じ丘稜延長線上に有り、 荒河橋南詰から望む北斜面は城域最高所(周辺住宅の共聴用テレビ受信用アンテナか?が立つ)から、 削り取られ崖となって民家側に落ち込む。
中央郭は南曲輪の東へも曲輪を廻して足下の丹後・舞鶴街道を窺う!!

此処から和久川堤防沿いの南南西へ、高度を落として延びる僅か 120m程の低丘陵尾根上に4〜5段の曲輪を並べています。西側の民家裏手の広い曲輪状畑地からは 城域中央曲輪へ斜上する細い道が有る。南北の曲輪間に在る中央曲輪は削平状態が良過ぎる様?で、果樹園として利用されていたのかも知れない…が、 中央曲輪・南曲輪繋ぐ切岸は高く(7〜8m)直立している。 北北側曲輪へは低い(3m程)が切岸加工されている様。また切岸下部は浅い空掘、開墾・改修で浅くなったものか?。 南側へも切岸は無いが3m程上部に曲輪・東下部にも切岸高く民家の屋根を接する程に腰曲輪が突き出す。
城域南端から延び出す土塁と屋敷跡を窺わせる畑地は城関連遺構か?

和久城側(JR・KTR宮福線)から荒河橋を渡って、 宮津街道(大江町方面)へのR175号と、野田川町・峰山町へ抜けるR176号線、及び直進して由良川に架かる新音無瀬橋を渡れば、猪崎城から綾部方面。筈巻・夏間へと鬼ヶ城の西山裾を縫って由良川沿いに大江町 ・舞鶴方面に向う府道55号線に出る、曲輪の真下を通るこれ等:要衝の通行監視所としては”お誂え向き”の砦・出曲輪の様です。


和久城(安尾城・茶臼山城・山田城)   茶臼山 Ca80m  福知山市厚安尾

福知山市民病院の東を流れる?弘法川(弘法大師の水無川伝説が残る)に沿っつて車道を 真っ直ぐ北へ進んだ先 :和久川を渡る荒河橋の手前に横岡城が在るが、病院西側の大通りに出ると、JRとKTR宮福線とR9号(山陰道)に挟まれた400m四方の独立小丘稜が有る。 病院から山頂まで約800m程なので歩いて行って見る事にします。
横岡城南:腰曲輪から望む和久城(と荒木城(左手の三角峰)

福知山市街地東端”KTR「厚中問屋駅”ホーム北側踏切を西に渡って、R9号線に出る狭い住宅内を抜け「一成保育所」(厚中問屋駅からは崖状の茶臼山東斜面に、 貼り付くように建つ施設を見上げる)への案内板を見ながら左手山側への 斜面を登っていくと保育所前に顕彰碑を見るが「私立正昇山楽天公園」とあり、胸像や燈篭等の石造品が立つ。私設の公園だった様で ・更に傾斜を増した舗装道路を進むと、切岸高い急斜面上にある曲輪にみえてくる平坦地は遊戯施設が残る広場。東面・北面に展望が拡がって由良川・音無瀬橋べりの花火大会には良き展望所?になりそうですが、桜の名所らしい:只桜開花時期以外は 殆ど人気の無い所の様です?。 山頂部にはスカイランドホテルが建ち・旅行社の看板も掲げてある。
KTR厚中問屋駅から 和久城東面:崖上は保育所

南北朝時代には既に但馬山名氏が山陰道但馬への東入口の押さえとしていたという。其の 建武4年(延元2年 1337)北朝方は 但馬へ進行し進美寺城を攻め、9〜10月には、天田郡(現:夜久野町・福知山市・三和町等)の南朝方が拠っていた和久城へも北朝方の丹波守護仁木頼章が攻撃し合戦に及んでいます。 北朝方には武蔵国新座郡(市)片山郷より仁和寺領の和知庄(船井郡京丹波町<旧和知町>)に地頭として入部した片山彦三郎高親 (出野城主か?)が、また暦応2年(延元4年 1339)6月には丹波守護:仁木ョ章の臣久下弥五郎重基が和久城や、 約850m北方に位置する阿良賀城(荒河城)を攻めた丹波土豪の中心勢力になっていたようです。
山頂の和久城主郭はホテルの敷地!!

大永〜天文(1521〜1555)の頃、天田郡に勢力を誇った横山城(後の福知山城)小笠原ョ勝は塩見大膳頼勝と姓を改め、四男左衛門太夫長利を和久城(茶臼山城)に配し、 和久庄を支配し和久姓を名乗り彦三郎左衛門佐を称しています。永禄8年(1565)8月丹波守護代で松永久秀の弟:松永長頼(内藤宗勝)と、新興勢力として天田郡に侵攻した黒井城主:赤井直正が和久城付近で合戦となった 「和久郷の決戦」は赤井氏の大勝利におわり内藤宗勝は戦没し、壊滅した内藤勢は辛うじて貞勝らを擁して鬼ケ城に脱出した。 …が雪崩のように赤井勢に走った横山・奈賀山・和久・桐村 ・牧氏ら天田郡の国人・土豪は鬼ケ城を攻め、終には貞勝を討ち取り天田郡のほぼ全域は赤井氏傘下に入り以後:但馬・丹後へと勢力拡大させていく。

和久城から横岡城 (右小丘稜)と荒河城(中央奥)・グリーンベルトはJRとKTR 宮福線


明智光秀の侵攻(天正7年<1579>に横山城(福知山城)は落城、和久城の長利は降伏し、山家の出城【山家城(甲ヶ峯城)】に移った。光秀はその城の取り壊しを命じたが 長利は応じず光秀に攻め落とされた。その時、長利は逃亡したため、光秀は逮捕状を出して長利を追ったという<御霊神社文書>。和久城は山頂部に至る諸施設や車道等により遺構は壊滅している様だが土塁も残存している様?。 城史不明ながら遺構を残す近在の城に有って、これ程の城史を遺す城だけに:再訪して遺構が見つかれば改めて紹介したいものです。
(福知山市史・丹波史年表 Wikipediaを参照)


牧正一古墳    福知山市牧

由良川沿いに走るR9号(山陰線)からR176号線が分かれて、北丹後鉄道と併走して大江町方面に向う分岐点の福知山市牧に在ります。R176号線に入って直ぐ左手に、小さな神社(祠)があり露出した岩石が幾つか見えています。牧集落に入る車道の先 :神社手前の広いスペースに駐車して寄ってみます。遺跡名の正一は此々「しょういっつあん」と呼ばれ親しまれる「正一位吉備神社」境内地に位置する事に由来しています。
現地:案内説明板の実測図から

発掘調査は昭和10年(1935)府道の拡張工事の際、 偶然掘り当てられた石室から須恵器・土師器 ・金銅製馬具等、貴重な品々が多数発見されていますが、更に第2石室が見つかった事から複数の石室を持つ古墳として注目されていたという。其の後:平成6〜8年 (1994-96)福知山市教育委員会の発掘調査により第3の石室が発見されています。古墳時代後期(西暦600年時代の後半 )に属する全長38mの前方後円墳であることが確認され1墳丘に3石室(後円部・前方部・くびれ部其々に横穴石室)を持った府内唯一、全国的にも極めて珍しい古墳であることが分かりました。
牧正一古墳:第一石室

地区道側からは三石室の所在が分かる状態の墳丘だが、 完全に石垣が高く積まれて案内板が無ければ古墳に気付かないかも・・?。1墳丘2石室なら但馬の 石積双室古墳(山東町迫間)等の例がある。元は墳丘部に祠が建っていたようで中央部には石段の参道が残る。 このうち西端・神社寄りにある・第一石室(全長が12m・玄室長4.6m・玄室幅2.6m・羨道長5.4mで左片袖式:羨道部に積まれた両側石の高さ2m)は京都府下でも最大級に属し全国的に見ても有数の規模を誇ります。
牧正一古墳:第三石室

此処に埋葬された人物の生前の此の地:牧川と 由良川を支配した強大な力をもった首長級がいたことを想像することができます。第三石室は全長7m・幅1.5mで無袖式と推定されています。 私市丸山古墳等丘陵部の古墳に比べ 遺構の保存状態は平野部にあって立地の状況は悪く、石室は全て埋没?(石室内部は未調査か?)辛うじて破壊を免れただけでも良しと考えるべきなんでしょうか。
(現地:牧正一古墳説明板 平成12年8月 福知山市教育委員会を参照)

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