天田郡:謎!!の塩見氏一族の城! 牧城・石井城・向段城 ・羽合城 ・横岡城・堂屋敷城他 |
福知山市民病院の東を流れる?弘法川(弘法大師の水無川伝説が残る)に沿っつて車道を 真っ直ぐ北へ進んだ先
:和久川を渡る荒河橋の手前に横岡城が在るが、病院西側の大通りに出ると、JRとKTR宮福線とR9号(山陰道)に挟まれた400m四方の独立小丘稜が有る。
病院から山頂まで約800m程なので歩いて行って見る事にします。
横岡城南:腰曲輪から望む和久城(と荒木城(左手の三角峰)
福知山市街地東端”KTR「厚中問屋駅”ホーム北側踏切を西に渡って、R9号線に出る狭い住宅内を抜け「一成保育所」(厚中問屋駅からは崖状の茶臼山東斜面に、
貼り付くように建つ施設を見上げる)への案内板を見ながら左手山側への 斜面を登っていくと保育所前に顕彰碑を見るが「私立正昇山楽天公園」とあり、胸像や燈篭等の石造品が立つ。私設の公園だった様で
・更に傾斜を増した舗装道路を進むと、切岸高い急斜面上にある曲輪にみえてくる平坦地は遊戯施設が残る広場。東面・北面に展望が拡がって由良川・音無瀬橋べりの花火大会には良き展望所?になりそうですが、桜の名所らしい:只桜開花時期以外は 殆ど人気の無い所の様です?。
山頂部にはスカイランドホテルが建ち・旅行社の看板も掲げてある。
KTR厚中問屋駅から
和久城東面:崖上は保育所
南北朝時代には既に但馬山名氏が山陰道但馬への東入口の押さえとしていたという。其の 建武4年(延元2年 1337)北朝方は
但馬へ進行し進美寺城を攻め、9〜10月には、天田郡(現:夜久野町・福知山市・三和町等)の南朝方が拠っていた和久城へも北朝方の丹波守護仁木頼章が攻撃し合戦に及んでいます。
北朝方には武蔵国新座郡(市)片山郷より仁和寺領の和知庄(船井郡京丹波町<旧和知町>)に地頭として入部した片山彦三郎高親
(出野城主か?)が、また暦応2年(延元4年 1339)6月には丹波守護:仁木ョ章の臣久下弥五郎重基が和久城や、
約850m北方に位置する阿良賀城(荒河城)を攻めた丹波土豪の中心勢力になっていたようです。
山頂の和久城主郭はホテルの敷地!!
大永〜天文(1521〜1555)の頃、天田郡に勢力を誇った横山城(後の福知山城)小笠原ョ勝は塩見大膳頼勝と姓を改め、四男左衛門太夫長利を和久城(茶臼山城)に配し、
和久庄を支配し和久姓を名乗り彦三郎左衛門佐を称しています。永禄8年(1565)8月丹波守護代で松永久秀の弟:松永長頼(内藤宗勝)と、新興勢力として天田郡に侵攻した黒井城主:赤井直正が和久城付近で合戦となった
「和久郷の決戦」は赤井氏の大勝利におわり内藤宗勝は戦没し、壊滅した内藤勢は辛うじて貞勝らを擁して鬼ケ城に脱出した。
…が雪崩のように赤井勢に走った横山・奈賀山・和久・桐村 ・牧氏ら天田郡の国人・土豪は鬼ケ城を攻め、終には貞勝を討ち取り天田郡のほぼ全域は赤井氏傘下に入り以後:但馬・丹後へと勢力拡大させていく。
和久城から横岡城 (右小丘稜)と荒河城(中央奥)・グリーンベルトはJRとKTR 宮福線
明智光秀の侵攻(天正7年<1579>に横山城(福知山城)は落城、和久城の長利は降伏し、山家の出城【山家城(甲ヶ峯城)】に移った。光秀はその城の取り壊しを命じたが
長利は応じず光秀に攻め落とされた。その時、長利は逃亡したため、光秀は逮捕状を出して長利を追ったという<御霊神社文書>。和久城は山頂部に至る諸施設や車道等により遺構は壊滅している様だが土塁も残存している様?。
城史不明ながら遺構を残す近在の城に有って、これ程の城史を遺す城だけに:再訪して遺構が見つかれば改めて紹介したいものです。
(福知山市史・丹波史年表 Wikipediaを参照)
牧正一古墳
福知山市牧
由良川沿いに走るR9号(山陰線)からR176号線が分かれて、北丹後鉄道と併走して大江町方面に向う分岐点の福知山市牧に在ります。R176号線に入って直ぐ左手に、小さな神社(祠)があり露出した岩石が幾つか見えています。牧集落に入る車道の先
:神社手前の広いスペースに駐車して寄ってみます。遺跡名の正一は此々「しょういっつあん」と呼ばれ親しまれる「正一位吉備神社」境内地に位置する事に由来しています。
現地:案内説明板の実測図から
発掘調査は昭和10年(1935)府道の拡張工事の際、
偶然掘り当てられた石室から須恵器・土師器 ・金銅製馬具等、貴重な品々が多数発見されていますが、更に第2石室が見つかった事から複数の石室を持つ古墳として注目されていたという。其の後:平成6〜8年
(1994-96)福知山市教育委員会の発掘調査により第3の石室が発見されています。古墳時代後期(西暦600年時代の後半
)に属する全長38mの前方後円墳であることが確認され1墳丘に3石室(後円部・前方部・くびれ部其々に横穴石室)を持った府内唯一、全国的にも極めて珍しい古墳であることが分かりました。
牧正一古墳:第一石室
地区道側からは三石室の所在が分かる状態の墳丘だが、
完全に石垣が高く積まれて案内板が無ければ古墳に気付かないかも・・?。1墳丘2石室なら但馬の
石積双室古墳(山東町迫間)等の例がある。元は墳丘部に祠が建っていたようで中央部には石段の参道が残る。
このうち西端・神社寄りにある・第一石室(全長が12m・玄室長4.6m・玄室幅2.6m・羨道長5.4mで左片袖式:羨道部に積まれた両側石の高さ2m)は京都府下でも最大級に属し全国的に見ても有数の規模を誇ります。
牧正一古墳:第三石室
此処に埋葬された人物の生前の此の地:牧川と
由良川を支配した強大な力をもった首長級がいたことを想像することができます。第三石室は全長7m・幅1.5mで無袖式と推定されています。
私市丸山古墳等丘陵部の古墳に比べ 遺構の保存状態は平野部にあって立地の状況は悪く、石室は全て埋没?(石室内部は未調査か?)辛うじて破壊を免れただけでも良しと考えるべきなんでしょうか。
(現地:牧正一古墳説明板 平成12年8月 福知山市教育委員会を参照)
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