舞鶴の地名となった城  探訪 田辺城(舞鶴城)・・城・・・他
舞鶴市 (五万図=舞鶴)
舞鶴市・西舞鶴市街地・・の山城
近畿の山城 :田辺城

田辺城の擬似復元隅櫓:彰古館


 田辺城(舞鶴城)


田辺城(舞鶴城)  xxx xxxm 舞鶴市(西無鶴)字南田辺

R27号線「西舞鶴駅前」交差点を過ぎて、 注意して走っていると明倫小学校の白壁・瓦屋根の重厚な外壁が見える。田辺藩主:牧野家6代宣成(ふさしげ)が天明年間 (1781-89)三ノ丸に藩校「明倫斎」を創設し9代誠成(たかしげ)のとき改築した明倫館の正門が移設復元されており、入学時等の特別日には開門されるという。
明倫館正門

門の東へ30m程・JR西舞鶴駅からは北へ500m程で舞鶴警察署斜向かいに市指定史跡 田辺城の擬似大手門!?が在る。加佐郡誌に往古:当地を田辺郷と称されたこと、地頭・田辺小太夫に因むと云い、舞鶴の地名は此の田辺城の城郭の形から雅称:舞鶴 (ぶかく)城の名が由来ですが、明治5年の廃城令に翌年以後順次取り潰されていき、廃城後は紀伊田辺の田辺藩と区別する為に城名の舞鶴藩・町名も舞鶴町に改められています。
石垣土塁から擬似復元されている城門と隅櫓

本丸西には平成4年(1992)再建されたという土塀と石垣の城門 (櫓門の二階は田辺城資料館)と、並びの西北には 昭和15年(1840)に復元されたという二層の隅櫓(糸井文庫の市指定文化財資料<錦絵>等を展示する彰古館で、篤志家による設計建設で寄付された)が建ち、田辺城跡の本丸と二ノ丸の一部が整備され、 西舞鶴公園として市民の憩いの場となっています。
心種園「幽斎・古今伝授の遺跡」

復元と書いたが櫓門・隅櫓は縄張り図等により 正確に再現されたものではなく、位置も異なり復興模擬建造物らしい。天守台も在るが古絵図に天守閣は見えず築かれてはいないようですが、櫓門(城門)を入って直ぐに 天守台の石垣が一部残っており、平成2〜3年の発掘調査により、本丸の西北隅に位置した天守台の東側の石垣と確認された (城門2階資料館にパネル写真展示あり)。文武に秀でた細川藤孝(1534-1610幽斎 )ゆかりの心種園も公園内にあります。
本丸の石垣と櫓台

天文3年・室町幕府の重臣:三渕晴員の二男として生まれ、有力幕臣・細川氏の養子となり、 足利将軍側近として室町幕府を支えた幽斎は「古今和歌集」の秘事口伝者で、後陽成天皇の弟:八条宮智仁親王に古今伝授の奥義を伝えられる所で、築山に心種園碑が立つ。其の歌 「いにしへも 今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」【幽斎が古今伝授証明書と一緒に智仁親王に贈った歌】古今伝授の逸話に感銘を受けた後の藩主:牧野親成(ちかしげ)が、造園し「心種園」と名付けた庭園です。
天正6年(1578)織田信長の命により細川藤孝を丹後に・明智光秀は丹波に侵攻させます。藤孝は建部山城の一色義通を攻め滅ぼして 丹後を平定し、その功により丹後一国12万石の領主となり勝竜寺城(長岡京市)から丹後に入ります。 翌天正7年:藤孝は宮津城を本拠城として築き、 同時に要衝であった加佐郡の押さえとして・また隠居城として田辺城を築城します。天正10年(1582)に本能寺の変に織田信長が明智光秀の謀反に倒されます。
田辺城の城門と隅櫓(どちらも資料館)

光秀とは織田信長の取持ちで、丹後攻めでは丹波にいた光秀に協力させ、藤孝の嫡男:忠興の正室に、光秀の三女:珠子
(珠・玉・玉子 後のガラシャ夫人で丹後七姫伝 説の一)を迎え婚姻関係にあり、光秀にとって最も期待し信頼のおける細川藤孝 ・忠興父子ですが、加担要請を拒否された負の誤算は大き過ぎた様です。 秀吉に対して細川家の安泰を図る為・藤孝は忠興と珠子を離縁・明智領の丹波味土野に送り帰し【光秀滅亡後・改めて京丹後市弥栄町の味土野に隠棲させ】、 自らは剃髪して幽斎玄旨と号し田辺城に隠居します。
城門二階の田辺城資料館内展示の甲冑は牧野氏のものか?

天正12年(1584)秀吉に許され再婚の容で大阪玉造の細川屋敷に戻った明智珠子がキリスト教徒となりガラシャの洗礼名を受けたのは、夫君:忠興が九州出陣中の天正15年ガラシャ(神の恵み)を意味する洗礼名という。 慶長5年(1600)徳川家康方(東軍)についた細川忠興が、石田三成方(西軍)会津の上杉景勝を討つため出陣中の留守をついて西軍が挙兵し、東軍に加勢する細川藤孝の田辺城に迫ります。関ヶ原合戦の前哨戦となった戦いには大阪の細川屋敷に居り、三成は牽制の為、大名の奥方らを人質に取り込もうとしたが、忠興の妻:明智珠子(ガラシャ)は此れを拒否し、 キリスト教では自害を許されない為、家臣:小笠原秀清に槍で胸か、首を打たせた後・秀清も遺体が残らないよう屋敷に火をかけ自刃したという。
城門続きの西北に再現!?隅櫓の彰古館

留守を預っていた藤孝は、宮津城はじめ田辺以外の城を全て西軍の拠点とさせないよう自焼させ、 田辺城に終結させ籠城して迎え撃っが、主力の軍勢は会津や豊後へ出兵しており手勢僅か500。対して攻め手は福知山城主:小野木縫殿介 (重勝)【石田三成の家老:島左近一族】を大将に前田茂勝(前田玄以の子)等15000が田辺城を包囲します。7月〜9月にかけて行われた攻防の田辺籠城戦で城は落ちず、9月の初め:古今伝授が絶えることを憂慮した後陽成天皇は 「幽斉は古今集の奥義を秘事口伝して継承するもので、帝の師範であり、歌道の国師である。
本丸石垣と内堀跡の池園

幽斎の戦死により歌道が廃絶することは許されない」と勅使として三条実条 ・中院通勝・鳥丸光広を遣わした。和議の条件は・城は西軍にではなく前田茂勝に渡し、 藤孝自身は茂勝の居城:丹波国亀山城(亀岡市)に入るというもので、西軍方は囲みを解き田辺城が明け渡されたのは、 関ヶ原合戦の二日前だったという。 珠子(ガラシャ)の自害を知らされた忠興率いる細川勢は石田三成の本陣笹尾山を攻めて活躍したと云う!!。
北面東から西の模擬隅櫓に延びる石垣

関ヶ原の戦功により細川藤孝・忠興父子は豊前中津に移封され、翌年京極高知が信州飯田から 12万3200・・?7000石で入され、 元和6年・高知の死去で遺言により嫡男高広は宮津城に移り宮津藩主、次男高三が加佐郡35000石を分与されて元和8年(1622)田辺城に入り田辺藩が成立します。寛文8年(1668)京極高盛が但馬豊岡に転封されると、京都所司代の要職に就いていた牧野親成が河内国(?摂津国)から入封すると、譜代大名領の田辺城として大改修され、 明治維新を迎え・廃藩置県により廃城となるまで10代続いて牧野氏が居城します。
JRと近接する二ノ丸東の石垣と堀跡

細川藤孝によって築かれた田辺城は、東に伊佐津川・西に高野川を外濠として、北は舞鶴湾に臨み・南は沼地にある要害の地に、二重・三重の堀・塁壁を四方に廻らせ、 平城ながら輪郭式の堅固な城だったとされます。擬似城門や隅櫓の復元?で城跡公園の雰囲気は盛上がりますが、市街地の中に埋没し・造成による改変や、消滅により平城では往時の残存する城遺構を探すのは難しいと思ったが、 石垣・庭池・特に東端部で低い石垣(1.5m程)を残すJR舞鶴線と接する付近に内堀の一部が残る。

(田辺城資料館パンフ・城下町倶楽部設置案内板 年表田辺藩のあゆみ  加佐郡誌等を参照)
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