加佐郡大江町境から舞鶴市側の山城探訪 志高城・久田見城・・・他

京都府舞鶴市 (五万図=舞鶴・大江山)
舞鶴市由良川沿いの山城U
近畿の山城 :志高城 久田美城

校歌の山  岡田下小学校  ♪仰げば高き城山<久田美城>のxx・・♪
志高城:主郭北の堀切


中世-近代へと舞鶴市街から由良川沿いの船運も隆盛をみたが、現在のR175号と府道55号を結ぶ交通手段は全て渡し舟に依存しており、 街道筋に渡し舟のある場所は要衝監視の重点箇所。此処は舞鶴から府道66号で、真壁峠を越えれば岡田下の久田美城下に達し、大江山山麓・普甲峠を越えて宮津市に至る主要街道に丹波道や河守街道が 一部分で付随していたものか?。大江町河守〜福知山市や但馬方面へ向う要衝でもあり、渡し舟による通行は由良川右岸に久田美城・左岸には志高城が、その要衝を押さえ監視にあたったものでしょう。


岡田下橋
岡田下の由良川を挟んで右岸に久田美城が在り、其の山裾に舞鶴市立岡田下小学校が建つ。小学校前の府道久田美口からR175号線の志高へは、 由良川を渡る普通車1台幅の狭いグリーンの鉄橋が繋ぐ。 小学校が久田美・中学校は志高側に在り、重量制限され歩道を区分の余裕もない幅員狭い橋だが、 通学の登下校に此処を外せば何kmも迂回させられる。昭和19年木造橋として架設されて以後も・由良川の増水による河川氾濫との戦いに、幾多のエピソードや歴史が刻み込まれていることでしょう。
久田美口から岡田下橋と志高側を望む

大江山の山城・波美城の項でも記した由良川の洪水・氾濫の脅威に対し 、常に由良川の水位の計測・国道筋等には増水による浸水 (冠水)時の高さを示す標柱も設置され、日頃から警戒し非常時に備えておられるようです。志高側の加佐公民館加佐分室にも、 由良川の水位デジタル計測表示板が設置されています。平成16年(2004)10月の台風では、 由良川の増水により国道を夜間に走っていた観光バスが立ち往生し、取り残された乗客等がバスの屋根に避難して恐怖 ・寒さと戦いながら翌朝まで、約10時間近く救出を待って頑張った事故があり、 全国的に知られるところとなったのが此処・志高でした。

諏訪大明神
志高神社東の国道沿いの丘陵裾の斜面に小社が祀られている。 鳥居に諏訪大明神の扁額が掛けられているが、「由緒に・・・・特殊神xxとある!!?。出雲系の神は新羅渡来神で、 大国主の子:建御名方(タケミナカタ)の母は、高志国の沼河比売(奴奈川姫命)と伝えられます。もっとも大国主には女神も、 其の間に出来た子も多い神話の中の夢の世界のお話です…!!。此処:諏訪大明神は 大国主(オオクニヌシ)命の子・タケミナカタを主祭神(上社)とし、其の妃神とタケミナカタの兄弟神・コトシマヌシ (?・諏訪大社の下社に祀られる事代主<大国主と神屋楯比売の間に出来た子 コトシロヌシが訛伝されたものか?>が下社に祀られますが、
諏訪大明神の小祠

「コトシマヌシ」なら古事記にも日本書記にも登場しない神の様で、祀られるのも他に例は無い特殊神と思われます!!。
【(参考)諏訪大社の祭神は 上社に建御名方とその妃神:八坂刀売(ヤサカトメ)を下社に建御名方の兄:事代主が祀られる】文政6年(1823)当地に分霊を祀ったと云われる諏訪大社 (長野県諏訪市)の分社は全国で5073社(一万を超える!?)に及ぶといわれます。
(現地 諏訪大明神:由緒を参照<特殊神とあるコトシマヌシ?がコトシロヌシなら !!祭祀される神は諏訪大社と同じ・!!?)

 志高城久田美城

志高城(xx城)   愛宕山 Ca140m 舞鶴市岡田下志高小字館

久田美城から岡田下橋を渡りR175号線に出て左折して加佐公民館加佐分室に隣り合う志高神社に着く。 先日廻った福知山市大江町(合併編入されるまでは志高 ・大江町共に加佐郡)の有路地区とは舞鶴市を分ける市境界に近い。 志高神社の北に迫る半独立丘陵上の愛宕山の最高所(標高約140m)に主郭を置く志高城が在ります。
加佐公民館分室からの進入口?と志高城遠望

西舞鶴市街地iから府道66号で真壁峠を越えれば岡田下の久田美に達し、 由良川右岸の久田美城・由良川の渡し舟で対岸 (R175号線が走る)に渡れば岡田下志高で、 大江町河守〜福知山市や但馬方面へ、 河守から大江山を越える普甲峠への街道は宮津市へ、伊根・丹後・弥栄・峰山・網野への丹後半島へ向う中世には主要街道の一つであり、 左岸の志高城にあっては城下を宮津街道が通じるだけに、 特にこの要衝を押さえ監視にあたる重要地点だったのでしょう。 登城するための取付点が判らないが、神社・公民館に迫る背後の丘陵裾に向うしかない!!。国道筋からは加佐公民館加佐分室を西側通路・作業所?の奥に小さな小屋が見える。
志高城主郭南に段曲輪下段 ・末端小曲輪だが低土塁が残る

壁土も落ち・壊れかけて農機具置き場にでもなっているらしい ?荒れた小屋が建つ。其処から崖状の藪の中に踏み跡?を辿り、 雑木・篠竹を掴んで一気に身体を引き上げて取付く。藪の尾根沿いに一本・竪堀状の溝が続くが木材運搬用の木馬(木材や薪柴を乗せる木橇)道か「木ずらし」の溝か?。溝を離れて右手寄りに尾根筋に向かうと切岸を揃えて尾根上に数段の曲輪が続く。 先ほど見た溝は矢張り竪堀だったのかも?。此の段曲輪へは曲輪南側を斜上する登城道?から入る。
主郭土塁西面には三重の大堀切

段曲輪群南東先端部の下方には尾根東斜面に向っては竪土塁を挟んで二重の肩堀切(尾根を遮断する程に掘り切られていないので竪堀とする方が判り易いかも!!?)が落ちる。 此の堀切を横目に大手道とも思える踏み跡が志高神社から?登ってくる。 無理に取付いた訪城ルートですが、安易に神社裏手から踏み跡が通じていたのかも知れません。志高城の主郭から北東へ延びる尾根続きには、 小字館が示志高館城が在るが、踏み跡を追って進むうち、手前の谷筋を降りてしまい行き着けなかったが 谷筋が民家近くで開ける谷入口付近で、丘陵部両斜面に崩れて黒光りする泥炭状の土?石を見る。採鉱によるカラミかと思ったが違う。
志高城主郭の愛宕社!?と低土塁


「加佐郡誌」にも記されている良質で半無煙炭の志高鉱山(志高炭鉱)が此処 :南端は国道に向って抗口を開き…大正初期頃まで採鉱されていたが、其の後は廃坑となったが近くに其の鉱口でも有ったのか?。長門や肥後のものに酷似して骸炭性(?)を帯び、コークスの原料として 良いものである…とされています。谷間を出ると直ぐ広場?地区の公民館と加佐駐在所の間。其の西に迫る丘陵先端付近が台状の地形。舞鶴の山城に見る志高砦跡が此の辺りの位置になる。掠ってばかりの志高城砦群は改めて出直せ・・ということなのかも!!?。 志高砦と思える場所は宏玄寺(曹洞宗)側の丘陵上で 「血の段」とも呼ばれる、天正期の志高城落城の激戦地。地誌に一色左京が拠ったとの記述が見え、一色氏が滅亡した田辺城主・細川氏との合戦と思えます。
金屋城北郭

愛宕山山頂部の主郭に祀られる祠への参道が志高神社からでなければ、此の寺院から続いているのかも知れません。 寺からは「血の段」伝承の残る志高砦(物見の出曲輪か?、志高城大手道の木戸だったのかも!!?)を経て本城、更に北東の館城への再訪を期してトレースしてみたいものです。主郭への南尾根段曲輪三段目には 朽ちて崩壊寸前の祠(祭神不明)が下草と雑木・倒木の間に有った。小広い曲輪が二段続き、其の先には小さいながら切岸高い (7〜10m程)曲輪が二段、上の段から竪土塁を主郭に入ると、 背後に低土塁の残欠を見る瓦葺き小社(愛宕社か?)が建つ。主郭西面は土塁外に深く大きな三重堀切を見る。 主郭から北へ延びる尾根筋にも二本の堀切を越えて北郭が在り、 此処も左右への尾根を堀切で遮断しており、何れも3〜8mの高低差をもつ大堀切を多用して防備を堅めています。
金屋城北郭から北東へ延びる尾根にも虎口となる土橋付堀切が・・

郷土史は永正年間(1504-21)一色氏の家臣: 三上飛鳥之輔宗室《後・三上宗應とも宗心とも宗宅!!?ともあり 》が築き居城としたと伝えられる志高城は、其の英姿が恰も鶴の舞ふが如くであったので之れを舞鶴形と云ふと傳えています。 古城主:三上飛鳥之輔(助)は西舞鶴市街地に近い佐武ヶ嶽 (別名:大内山城訪)の城を掛け持ちしたとも云われ、こちらの方は単郭だが土塁を積み畝状竪堀や堀切で防備を固めた城館遺構が残っている様です(未訪)。 また伝承によると、永禄ー天正(1558ー92)の頃・志高城最後の城主は(某!!??)山崎守で、天正年間1573-92田辺城主:細川方の幕下長岡氏???の軍勢により落城したと伝えられますが、籠もった将兵も 果敢で強かったが鶴が羽を広げた容からは、志高勢が不利となっても鶴が護ってくれるという。 田辺の軍勢は鶴の翼さえ切り落とせば容易に落とせると、不意を衝いて其の翼の一端を攻め立て切り崩すと、一時に四方から攻め立て奮戦数刻・城主以下・城に枕の討死した…と。
久田美城:尾根北端忠魂碑は:見張台跡から望む岡田下小学校と由良川

志高砦と思える「血の段」の伝承と共に残る。山崎姓は山碕守の末裔 ・迫尾姓の先祖は山崎守の家臣であったとの口碑を伝えますが、城の御殿医であった者が、落城後・山崎吉良左衛門と称し帰農した末裔とも云う。また志高薬師谷の行者山参道一帯(場所未調査の為位置不明)を陣屋と呼ばれ 志高城攻撃の際の向城・陣城となった旧跡と伝えています。志高には碇山城見取城も在った様で、見取城が此の陣城なのか?・薬師谷(行者山!?)の陣城とは別場所の陣城なのか?、久田美の土穴城同様・ 地籍地図や市住宅地図等で小字や地形を机上調査し、山城の可能性が見い出されるようなら出掛けてみたいものです…?。
(舞鶴の山城・舞鶴山城研究会No113の縄張り図 大江町誌・加佐郡誌・岡田下村誌(昭和29年)を参照)


久田美城  城山 70m  舞鶴市岡田下久田美小字土穴・下地

R175号線の志高から府道55号へ、 由良川に架かるクラシック?なグリーン色の鉄橋 岡田下橋を渡る。車幅狭く、重量制限からも大型車は不通。橋を挟んで南の久田美側に小学校・北の志高に中学校・高等学校があるので唯一の通学路としても 重要だが歩道用の路肩スペースもとれない。 昭和19年木造橋として架設されたが、其れまでは当然・交通は渡舟による。此の地点(正確には少し下手で 府道66号線との合流付近か?)はプロローグにも記した主要街道で、
岡田下小学校正門から望む久田美城

渡し舟による要衝の通行監視・警備に就いた城砦として、 由良川右岸(北側)には志高城・左岸(南側)の久田美には二箇所の山城が在ったと云う【「舞鶴の山城」に久田美城と、 池田谷城(今回未訪)が載せてあるので、此の二城の事か!!】。 久田美の二城は府道55号沿い由良川縁の在って由良川渡舟場を見下ろせる久田美城と、舞鶴市街地を真壁峠で繋ぐ府道66号 (丹波道・河守街道)を宮津街道に繋ぐ主要街道筋の監視を兼ねた池田谷が由良川に流れ出る池田川を挟んで 呼応していた様です。久田美城は由良川に合流する此の池田川と久田美川が城域を南へ延びる丘陵の尾根続きを除き、三方を水濠?とした天然の要害に囲まれているようです。
久田美城:急斜面に迫り出す主郭下段の帯曲輪(東面)

只:久田美川は各所の弘法伝説に類似する伏流の枯れ川で 「くたみ」の地名は腐れ水・芥水(くさみ)で、この地にあっては珍しく清水に乏しい事に由来するという。集落は久田美川流域に沿って展開するが、 これも由良川増水時に備えて久田美城のある丘陵を堤防にしたものか?。加佐郡誌によると平安時代中期:応徳元年(1084)久田美村の城主に村上陸奥守が岡田庄を配領していたとあり、同じ岡田荘内の志高城にしても、 荘園管理に場所・位置等は不明の様ですが代官所・城館の存在は考えられます。 さて久田美城は「岡田下村誌(昭和29年)」によると、久田美小字土穴(まみあな)の一小丘に年代や事蹟は不詳ながら白屋民部が築城していたと伝え、茂津山にも城跡あり此処もまた 年代・事蹟共に不明ながら【久田美には二ヶ所の山城が在って、城主に真下源五兵衛の山城・浅賀弥五郎の山城を伝えます。
久田美城:主郭の高い切岸を見上げる

「舞鶴の山城」に記載の久田美城と、池田谷城の事だろうか?】、 眞下津(志月)民部大輔が拠ったとされ、志高城とともに天正期の落城したと云う。土穴城が久田美城を指すものか池田谷城なのか、別の一城なのか更に眞壁小迫田にも城砦が在ったと伝え、 地籍地図や市住宅地図等で小字や地形を机上調査し、山城の可能性が見い出されるようなら出掛けてみたいものです…?。久田美には真下姓が多い様ですが、その祖先が眞下津民部大輔とされます。 久田美城は志高の対岸(由良川右岸)・南から延び出した丘陵が由良川縁へ延び出し、府道55号に先端を落とす岡田下小学校背後の低丘陵(標高70m 4等三角点 )に主曲輪(約20x40m程)を置く単郭の城が在る。 小学校正門の正面奥から忠魂碑の建つ尾根先端部の小公園に登り着くが、西裾の小道から尾根に続く石段参道がある。 城域へは小鞍部から藪っぽいが踏み跡があり、西北の由良川の岡田下橋を見下ろすほどに突き出す丘陵を削平して忠魂碑台があるが久田美城の物見の出曲輪であったと推定します。
目前の宇谷城は遠望しただけ

主曲輪を帯曲輪・北と西方に 1〜2段の曲輪が廻り ・南の尾根を堀切で遮断し、東西にも竪堀が各二条程はしている様ですが、何せ!!城域全体が御覧の通りの藪で目視確認出来ても画像には収め切れません。帰路に寄る予定の宇谷(うだに)城は、 民家の裏・山裾を溝谷が流れ取付き点不明。尾根筋南の峠鞍部の墓地から辿れそうだが、志高城同様に此処でも藪尾根を見誤り北東へ降りてしまった。途中で気付いたが気力なく諦める。次回の楽しみが増えたという事なのかな!!
(舞鶴の山城・舞鶴山城研究会 No131の縄張り図・大江町誌・岡田下村誌(昭和29年)等を参照)

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