一色氏本拠の搦め手口を守る建部山城砦群(舞鶴市) 中山城 佐織城

舞鶴市 (五万図=舞鶴)
近畿の山城: 中山城 佐織城


中山城 xxx山 65m   舞鶴市中山小字一ノ丸

建部山から北に延びる尾根の鞍部を越えて、安寿姫塚のある下東地区と喜多地区の西舞鶴港 の貯木場へ通じる山道がある。建部山の砲台施設から7合目付近で南の登山道と分岐して此の鞍部に通じる山道も 軍道として使用された様ですが、西へ延びる尾根のCa150m付近を越えて、上福井から下東地区の宮ノ谷へ降り安寿姫塚 前を通り由良川沿いの宮津街道(府道571号)へ出る。
中山城南郭の神社下部曲輪から望む由良川八雲橋

座尾峠(蔵王峠)がR175号線(宮津街道)から念仏峠を越えてくる要衝の表街道に対し裏街道として、 一色氏の本拠:八田城(建部山城)と支城の中山城を繋ぐ、搦め手や軍用道として利用されていた様です。中山城は 由良川の下流右岸にあって西対岸の和江を結ぶ舟運の渡し場や、眼下の宮津街道の要衝監視にあたった城。
神社境内曲輪跡の上部:帯曲輪と尾根上の南郭(西面)

丹波 ・若狭からの街道が合流する西舞鶴側の要衝と舞鶴港を監視し、座尾峠(蔵王峠)の南入口の左右に守衛する木戸門の様に福井北城と福井城が在り、 峠越え間道を奥まで見通す様に下福井城(未訪)が堅め、北入口の下東地区には佐織城と千坂城(未訪)が間道を挟む木戸として呼応し、由良川沿いの宮津街道に出ると、北に約800m程に吊橋の八雲大橋が架かる東詰めに幅狭い車道が走る。 北近畿タンゴ鉄道宮津線と由良川の間に挟まれた南北500m程の細長い比高60m・尾根幅20m程の独立低丘陵上全域に、起伏毎・10本ばかりの深く大きな堀切(高低差5〜15m程)で遮断・区分した南・中・北の三郭の曲輪を並べる大規模な、しかも遺構の残存状態の良い城跡で夫々・由良川と宮津街道に面した西側に帯曲輪を付属させています。 八雲橋を渡って左折すると・中山城跡標柱石と案内板が立ち直ぐ登城口の八幡神社参道が判かり、駐車スペース!!?も60m程先に有ります。
中山城:南郭南端の切岸下に堀切!!?

山椒太夫で知られる(安寿と厨子王か!!?)伝説では、中山の地は安寿姫が泣きながら通った「なきやま」が転じたとの謂われがあります。中山城下から下東地区のかけて坂とも呼べない緩斜な車道ですが「かつえ坂(飢坂)」と言い安寿姫が飢えと疲労困憊して此処で斃れたとされ、 下東地区に安寿姫塚として祀られます。東北から信越・北陸〜そして丹後山椒太夫屋敷。潮汲み浜・厨子王が匿われた和江地区といい、民話の域を抜けた物語としても街道筋に展開するストーリーには辻褄が合うようです・・!!。
南郭・中郭間の二重堀切

城址碑から背の高い下草が覆い荒れた参道を登る。 急斜面に高い切岸!!。その上に八幡神社が建つが、続く石段道の下にも二段ばかりの削平段があり、断崖状の曲輪端からは真下に八雲橋を見下ろす。折り返した参道からは見上げるばかりの急な石段参道上・八幡神社境内南端に在る倉庫?横を廻りこむと直ぐ上に帯曲輪・尾根上の曲輪へと続く。二段曲輪が並ぶ比較的広い空間で、 南端は下東地区方面を望む急斜面下には二重堀切【未確認:KTRのトンネル南出入口近く、
中山城:南郭南端の切岸下に堀切!!?

中山城東面を抜けるバイパス道路工事が計画中!!?】を敷設して防備強化して宮津街道を望む城跡唯一の展望所!!。起伏を利用した尾根続きにも深く大きな堀切が二重に、更に小曲輪・土塁を置いての堀切が並ぶ。城域中央付近の北郭へは中山集落から大手道が上がってくる。北へ延びる尾根筋には更に一曲輪 ・一堀切と続いて緩衝帯の様な平坦斜面が尾根北末端(墓地?未確認)へ延びる。
北郭からの尾根先へも堀切で区切られた小曲輪がある

天正3年(1575)織田信長の越前一向一揆攻めに水軍で参戦し丹後国を安堵された 建部山城最後の城主一色左京大夫義道(よしみち)ですが、信長が比叡山を焼き討ちした僧侶や・追放した将軍・足利義昭を匿った為に、信長の怒りを買い天正6〜7年(1578-79) にかけて細川 (長岡)藤孝・忠興父子は明智光秀の加勢を受け、建部山城(八田城)を攻め、義道は再起を図り中山城へ敗走する。 細川・明智勢の中山城攻めは難攻するが細川氏に内通していた中山城主:
中山城北郭の堀切上の土塁

沼田幸兵衛清延【藤孝の義兄?<清延は文禄の役で討死か?? 細川忠興家臣として沼田小兵衛延元<長岡勘解由と改名!!>が中山城に居り、藤孝が関ヶ原合戦に参戦 ・留守を狙った田辺籠城戦 (慶長5年)に中山城を焼いて田辺城に籠もり、細川氏の関ヶ原での功により九州小倉に転封の際に同行して 中山城は廃されます?】の謀反に遭い義道らは城下畔の大雲川(由良川)で自刃を余儀なくされます。義道の子:義俊(義定 )は父義道の討死を聞き、大船山の細川陣に奇襲をかけた後 ・居城の弓木城(与謝郡)に引揚げたと云う。勇猛・智略に長けた義俊に、藤孝は明智光秀を仲介に娘を輿入れさせて和睦。
八雲橋東詰:登城口の中山城跡案内板

丹後国は細川藤孝(田辺城)・一色義俊(弓木)両氏で統治する事となるが、謀議に田辺城に誘い出された義俊は・此れも藤孝の指示で沼田勘解由 (幸兵衛)により暗殺されます。丹波吉原城(?)の吉原義清(義道の弟で義俊の叔父)が弓木城に入り一色義清を名乗り細川氏と対戦するが天正10年(1582)落城・自害して一色氏は滅亡します。一色氏の城として軍記等に語られる中山城は、 天正期「丹後攻め」細川氏との攻防に・八田城(建部城)の義道や沼田幸兵衛が築城・居城したとされますが、それ以前…室町幕府四職の一であった名門一色氏は但馬山名氏や若狭武田氏に守護職を奪われたり復興したり、侵攻され一部を横領されたり…翻弄され弱体化していった様です。 永正3年(1506)には若狭守護:竹田氏5代当主武田元信が丹後に初めて侵攻し、従軍した若狭加茂庄(小浜市)の豪族白井清胤の功が目立つ様です。
佐織城:北曲輪から主曲輪

永正13年(1516)守護義清方と、義清の一族:一色九郎を推す守護代延永春信との内紛から延永が若狭へ侵攻し、武田氏は越前朝倉氏の救援を得て押し返し、 丹後では白井清胤らが攻勢をかけ武田氏は加佐郡の一部を領有支配したらしく、永正17年(1520)清胤が武田元信より加佐郡水間村(中山地区・KTR東雲駅東付近)を安堵されています(県史・通史編・白井家文書等)。 「舞鶴の山城」には天文7年(1538)に水間村で合戦が有った事・中山村と称されるのは天正年間以降の事であり、中山城が既に存在していたと推定されています。これから向う中山城とは直近に控える佐織城が、 どのように関わってくるのか・・・!!?。
(現地:中山城案内板・加佐郡誌・福井県史・舞鶴の山城・舞鶴山城研究会 No97 フリー百科Wikiprdia等を参照)


佐織城  xxx山 Ca70m   舞鶴市下東小字向路・水間

一色氏の本拠城建部山城(八田城)の在った建部山の丹後富士とも舞鶴富士とも称される端正な山容を望みながらR27号線からR175号線に入ると、 その山塊の丘陵西面・下福井から蔵王峠(座尾とも!!)を越えて下東 地区へと宮ノ谷を降り 安寿姫塚の祠を祀る佐澱池端に出る山道が2.5万図の地図上に記されている。此の道が由良川(大雲川 )右岸沿いに中山城下「かつえ坂」を通り、「渡し舟」で和江辺りへ移って、由良港や旧加佐郡河守(大江町)から普甲峠を宮津へ、 また丹波福知山へ通じる要衝の宮津街道。
佐織城:北尾根端の切岸

若狭方面からも此処 :福井から念仏峠を越える宮津街道が下東地区で、先述の蔵王峠越えの道と合流して中山城下へ抜ける裏街道ですが、裏街道というより、 建部山城の大手・搦め手道に通じ、支城の中山城を繋ぐ軍事用道だったのかも…!!?。 この裏街道(軍用!!?)の南入口には舞鶴港を控えての要衝:宮津街道監視を兼ねて福井北城・福井城、 福井川を隔てては福井城と同規模の福井下城(未訪)が呼応して監視に当たっていたのでしょう。
佐織城:南尾根続きの堀切

蔵王峠を越えた下東地区の北入口にも佐織城千坂城(未訪)が在り、中山城の南口と建部城の北面を警護し通行監視に当たったものでしょう。 建部山城(天正期:最後の城主となった?一色氏当主:左京太夫義道)の出曲輪なのか?、中山城(天正年中:沼田幸兵衛が居城したとされる!!?)の出城なのかは、どの城砦も城主等の城史や伝承は残らず不明です。 中山城から八雲橋東詰めを下東地区へと府道571号(宮津街道)「かつえ坂」を下ってくると、 かつえ坂所縁の安寿姫塚の案内板と大看板が目に付き、街道沿いに走るKTRの鉄道架下を潜って塚の有る下東地区内を佐織池へ細い車道を進む。天正7年(1579)細川(長岡)藤孝・忠興父子に、明智光秀の加勢を受け、建部山城 (八田城)を支えきれず
佐織城:北尾根曲輪から主曲輪

中山城に逃れて再起を図った一色左京大夫義道ですが、中山城守将・沼田幸兵衛に叛かれ、此処に自刃していますが、この中山城での攻防では搦め手口の下東でも野戦による細川・一色両氏に戦死者が多く出た様で、 府道571号から西方R175号線に向う念仏峠には、其の慰霊碑等を集めて供養塔が立つ。沿道沿いの佐織城や辻ノ谷城 (未訪)も中山城戦に関わった城砦だったのでしょう!!。佐織城へは右手のサオリ川沿い直ぐ・丘陵斜面に墓地が並ぶ。旧公民館跡?の様な建物近くから、真南の丘陵上へと・別の一党墓地?へ登って行く道を利用して、 墓地の奥に向うが墓地の先は行き止まり?よく見ると急な藪の先へ踏み跡があり、
佐織城:西尾根曲輪群

墓地内取付きから比高約50m(サオリ川からなら65m)程で城域北の曲輪に到達する。南尾根筋を堀切で遮断し、北と西へ短い尾根先を(KTR宮津線側)サオリ谷の入口へ落とす。要に小さな主曲輪(南北15mX東西12m程 )と尾根上に 2〜5の段曲輪を並べ、主に北面の斜面は切岸を高く落として防御しているようで、尾根筋の堀切以外の堀切・竪堀等は見ない!!。
(舞鶴の山城・舞鶴山城研究会 No102参照)

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