綾部市境の舞鶴市側の山城探訪 池下城・布敷城・別所城
舞鶴市 (五万図=舞鶴)
 綾部市境・丹波丹後国境の山城
近畿の山城 : 池下城 布敷城  別所城

校歌の山 池内小学校 ♪弥仙の峯の 明け雲にxxx・・♪
池ノ内下集落から池下城を望む

R9号線の福知山市六人部(むとべ)で福知山市街へ流れ出る由良川支流の土師川を渡り、 舞鶴自動車道沿いに府道8号線を綾部市街地へ向かい京丹波町・京都市境の南丹市から流れ来る由良川上流の綾部大橋を渡り、 舞鶴市へ向うR27号線に入る。物部城・六反城 ・丸山城等の綾部市内の山城巡りで、東へと綾部工業団地を抜けるとR27号・足利尊氏ゆかりの安国寺が近い。
城域外の南尾根に続く堀底道状通路?

高槻城からは上杉町に出て綾部総合運動公園を目指せば、和紙の里:黒谷町(舞鶴市境)。 此処を下って舞鶴市に入り、舞鶴自動車道への連絡道を採って堀トンネルを抜けると池内(池ノ内下)集落に着く。 上杉町から池ノ内下を逆コースで、フラフラ状態で歩いた以前の記憶が蘇えってきた。 よく登られている人気の弥仙山だが 施福寺から蓮ヶ峰を弥仙山への縦走に、 コースガイドは勿論・山行記録もないが、さらに尾根続きには君尾山(光明寺)が在り、修験回峰の道だった。
城域外の南尾根に続く土橋

弥仙山664mと高いが、その北方の599mが三角点峰なので周回して於与岐町側へ降りるつもりが下降尾根を誤って、 此処:舞鶴市側の池ノ内下集落に降りて来た。当時は此処に道を挟んで二つの山城が在った事など知るよしも無かった。池内川沿い池内T字交差点で綾部市上杉町へ抜ける府道74号(舞鶴綾部福知山線)が橋を渡る。布敷城と池下城の出曲輪と思われる赤尾砦(仮称)が、其の間の奥遠くに見えているのは弥仙山か?此処:池内小学校にも 弥仙山を望み謳われる校歌(校歌の山<京都編>)があった。
城域外の南尾根にも段曲輪状の平坦地有り

池下城から北へ落ちる尾根の末端付近は山間を切り崩して 通じる舞鶴自動車道が堀 〜池ノ内下の山間を縫って走る。舞鶴自動車道高架下付近に右手に進入禁止の林道?と急な階段道を見る。どちらの進入路からも?「あかお」と呼ばれる丘陵頂部に続いている様です。階段道がある事から墓地か。山上部は地元の子供の遊び場ともなっていた様で、鎮守の祠でも祀られていたのかも知れません!?。 山城探索参考の「舞鶴の山城」に《堀切(北近畿舞鶴道で完全消滅した鞍部?》で区画された50m程の城域を持つ池下城支城(赤尾砦!!?)が在ったといい、
舞鶴自動車道側:消滅した!?池内城支城

平成6年の発掘調査で磁器の破片や刀の刃先部分等が出土した。
地形図に残る山頂部に出曲輪・見張台が有ったと思われるが祠でも有れば壊滅。足下を裏街道の府道74号線・東舞鶴へ通じる池内川沿いの街道(府道27号線)を北に監視出来る見張の砦が在ったのでしょうが、 獣の入る隙間も無い荒れ放題・立入り禁止の道路公団の標柱やフエンスが目に浮かび此処はパス。


 池下城 布敷城  別所城

池下城(高壷城)  xxx山 209m(4等三角点)   舞鶴市池内下小字大迫

堀集落から池内川を渡って府道74号線に入って右折、池内小学校・保育所前を過ぎるとJA・交番のある池内交差点。直進する府道27号(池部京田線)は東舞鶴へ通じる街道。 この先:布敷集落(池内川を挟んだ対岸の丘陵上に布敷城が在って、これから向かう池下(いけしも)城とは、 東舞鶴や西舞鶴市外地から池内を経由して府道74号 (舞鶴綾部福知山線)が綾部市上杉町へと弥仙山から延びる市境の西尾根を越える裏街道!!は「みせん道」とも呼ばれた参詣道で、宮津の成相寺や舞鶴の青葉山:松尾寺への 西国巡礼道ではなかったか?<未調査 ・未検証ですが・・>。
主郭堀切近くの城域外:東を土塁道?で廻す広い曲輪状の平坦地

往時の街道筋は舞鶴側・綾部側共に川筋に沿って、丹後峠(大股峠・見内峠)を見内集落へ越えたものか?。 R27号は安国寺から綾部市街地へ・さらに京都に向う主要街道、府道485号は物部・さらに大江町へ向う。街道の要衝監視に就いた山城の様で、共に城主等の城史は伝承もなく不明。 在地領主による領内監視警護の城砦ではなく、 田辺城を本拠の城砦群だったのでしょうか!!?。
池下城: 城域遮断とは見えず城域確保?の埋もれかけた堀切

池内川を渡り府道74号線を池下城への取付点を探しながら池ノ内下集落へ向う。東方の布敷城へも池ノ内下集落の 西側からの取り付きを探してみるが適所も乏しい様子。 案の定:民家の裏から通じる進入口の山道が判る筈も無く、城跡のある208.9m三角点峰から 283mピークへと高度を上げる南尾根側の間に入り込む谷筋に、進入出来そうな踏み跡が有るだろうと上方の集落に向う。溝谷沿いに杣道は直ぐ見つかったが、藪道に倒木が立ち塞がり閉口、 杣道は集落を捲くように等高線沿いに南へ延びるようなので、北上の稜線を目指すが谷から尾根へ、
池下城:主郭東面の切岸

獣道か人の踏み跡らしいものを追っての比高150m程は結構キツイ。 尾根筋に出ると山道は現れ先ず・城域とは反対に南へ進んでみる。 尾根は折れさえ伴なった長い土橋となる所が二ヶ所ほど現われ2〜3段続く小広い平坦地や、尾根と閉口に長い堀底道状が続く。 福知山市の観音寺城から綾部市の鴻ヶ嶽城に延びる尾根筋にも見た様な ?状況には283mピークにも何か城遺構が残りそうな予感がする。伐採用材の搬出用だったら・・?とも思うが、ならば尾根下方の幅狭い土橋状は?。
池ノ内下集落の舞鶴道高架下より望む布敷城(左)

先程の土橋状に戻り・今度は池下城跡へ向う。 広い平坦地を過ぎるとまた土橋!!?。土橋というより殆ど崩れや残欠部も無い高さ70cm〜1mの土塁道で尾根内側は広い平坦地。武者溜りか!?・・城域以外に気になる遺構?。直接は関係無さそうですが池下城は高壷城の別名があって、 城ケ谷たかつぼ(池ノ内下村と堀との間)には、平家の落人伝説が残ると云う。此処を出ると直ぐ・殆ど気付かない程浅い(埋もれかかった様な?)堀切を渡り、切岸も無い主郭と思われる円形の曲輪に着いた。しかし北側尾根筋は2〜4m程の切岸を持つ3段程の曲輪。曲輪群先端には、
布敷城広い帯曲輪を廻す主曲輪

縄張り図に唯一最大の見所となる畝状竪堀(図で見ると畝状というよりは 櫛状)が見られる筈でしたが、羊歯類に覆われた急斜面に、 気付かず下方の集落山裾の竹藪に下りて来た。主曲輪からは段曲輪を積む北尾根ではなく東へ尾根筋を間違えた様で、切岸高い2段程の曲輪側に気をとられ ・其のまま下ってしまった様子。此処でも谷に倒れかけ・うず高く堆積し、 朽ちかけて体重を掛けると割れたり折れたりと。性質の悪い竹の障害物を越すのに難儀する。
(舞鶴の山城・舞鶴山城研究会No86 等を参照)

布敷城(湯谷城)   xx山 250m  舞鶴市池内下小字湯谷

池下(いけしも)城から布敷城への取付き点を、 北近畿舞鶴若狭自動車道の高架沿い東、尾根先の墓地からと定めて進むが此処からの登路が見つからない。 其のまま自動車道沿いに高架下を道なりに進んでいくと、 布敷集落側からの道を合わさせて弥仙山へ入っていく林道がある。ゲートがあり「許可無く入山禁止」とあるが、 ゲート横から摺り抜けると谷川沿い林道は直ぐ、 小滝の側に建つ地図に鳥居マークのある小祠の上方で谷を渡りカーブしながら急坂を上って行く。
布敷城 :主曲輪を区分する横掘

西の尾根への取付き点は激急斜面の上に 境界ポールが見えて直ぐ判った。急斜面が連続して比高約180mを一気に登ると、途中・堀切等防備施設のないまま突然曲輪が現われる。主郭東南付近に登り着いた様で、削平が甘いわけでもなく、曲輪の段差も明確ではないが、広い曲輪は最高地点(標高250m)に位置する主曲輪(約30x15m程)の四方を囲む帯曲輪で、 南から西面には低土塁を廻しています。
布敷城:主曲輪の周囲を捲く帯曲輪の低土塁

主曲輪の北には40m程・高さ1.5m程の横掘りが、北の尾根に沿って並ぶ段曲輪群を隔てるように掘り切られています
【参考の縄張図・記事の遺構に堀切・横掘はないので、広い帯曲輪内で主曲輪部の切岸加工の為に削り込まれた帯曲輪間の一部分が 溝状に見えたのかも・・?】。池下城では曲輪群末端の畝状竪堀を、布敷城では、虎口部・曲輪群末端部にあるU字形竪堀等を 勉強不足・知識不足で見ることも無く、 西へ下る踏み跡を辿りながら池ノ内下集落の民家裏手に降り立った。
布敷城:主曲輪を区分する横掘

布敷城と呼ぶには布敷集落を流れる池内川の外側にあり、当領地支配・監視の城にしては遠く・比高も約210mと高い。所在地も池内下となっており在地領主の城とするなら、 布敷集落をコの字に取り囲むように流れる池内川と、 296.5m峰から南へ延び出した丘陵尾根末端部が、布敷集落北背後に迫り集落を包み込んでいる、比高約120m程の丘陵尾根部分が依り適所と思われます。 其れだけに池内城と同様・街道監視に就いた、田辺城の城砦群の一つではなかったか ?と思われます。
(舞鶴の山城・舞鶴山城研究会 No87等を参照)

別所城    城山 Ca150m  舞鶴市別所小字西谷

池内小学校・保育所前を過ぎたJA・交番のある池内交差点で、 < b>池下城と布敷城へは府道74号線を採って池内川を渡り池ノ内下集落に向うが、 池内川沿いに直進する府道27号(池部京田線)が、 布敷・別所の集落を通り東舞鶴市街地へと抜ける街道筋。296.5m峰から東へ延び出す尾根から、別所集落の氏神大空神社の西方で東南へ流れ落ちる枝尾根が、 別所集落北公民館背後に迫る。
別所バス停前から別所城を遠望

此の丘陵上に 別所城が在りました。 その昔:別所は五郎山の崩壊によって池内川が堰止められ池になったと云われ、 池下城の在る池内・池ノ内下等の謂われになっています。 別所は其の後:溜め池の堰を切り新田が開発されたと伝えられます。
別所城主郭から堀切側の土塁

別所から上流の白滝や、池内川と池内川に合流する寺田川流域の上根 ・寺田にかけては鉱脈が走っており、大正時代に入って既に廃坑となっているが、嘗て銀・銅・硫化鉄が採鉱されており、近世初期:田辺藩では此の銅を製錬して大砲が鋳造されたという。池内周辺の山城に別所城・白滝城・寺田城等が在るが、東舞鶴市街ちからの街道(府道27号等 !?)監視と共に、これ等の藩財源の鉱山管理の為の 監視所でもあったのでしょうか?。
別所城 ・主曲輪と北面帯曲輪の先(西端)に大堀切がある

特に別所は鉱石の産地として重宝がられ、江戸時代前期の上野国前橋藩主:酒井忠清 【寛文6年(1666)大老職に就任し将軍家綱を補佐した】により、直轄地【天領地で、藩主が飛地とした領有した土地を別所の地名で呼ばれるのは 珍しくはないと思われますが・・・?、 領有する根拠に諸説が有るのかも知れません!!?】となったとされます。 別所城への取付き点に選んだ空神社には 延宝8年(1680)将軍家綱が死去・綱吉に代わると、世子のなかった家綱の後継者を皇族からの皇子を奉じて、結果大老職を解任され、 翌天和元年隠居しますが間なしに死去している為、 自殺ではなかったかと推察されています。
別所城:大堀切の主郭側切岸


病気療養を事由に大老職を罷免され、 憤死した酒井忠清が祀られるとも伝えられます。藩政時代には天領の別所には幕府から領内藩主の監視を兼ねて、酒井氏直属の家臣が配されていたのでしょうか?。 其の為:全実権を握っていた大老の短い天下と、憤死とも思える死を弔う御霊神社でもあるのでしょうか!!。別所集落端から東北方へ急傾斜の細い簡易舗装道が大空神社に延びている。 社殿の左から尾根に出そうな山道が有ったが城域の尾根からは谷を隔てて遠退き高度を上げて行く。 正解は引き返して神社手前から谷筋に祀られる祠に進み、 此処から急斜面に取付けば単郭の別所城東端の主曲輪の下・段差の小さい二つの腰曲輪の間に着く。
別所城・主曲輪と北面帯曲輪の先

西へ7〜8mと幅の広い帯曲輪が延びて、主曲輪(幅約15mX長さ約35m)からの 土塁線が合うところで、帯曲輪共に大堀切が主郭側を遮断する。緩斜面の鞍部に敷設された堀切は尾根側に向かい更に二重・三重に掘り切られ、埋もれ崩れてか!!申し訳程度の小さな片堀切【尾根端まで 充分掘切られていない】で城域を終えている様です。別所城も城主や城史不明です。 京都府の遺跡地図には西300m地点を別所城として記されている様なので、一つ西の尾根先にも城跡遺構があるのかも知れません。主郭ぶ東端から南への尾根筋は直ぐに長い二本の竪堀状を見る。
別所城から長い竪堀状沿いに下り、降り立った崖側の石仏

一本は集落末端崖上の平坦地形まで続き、谷ではなく城への堀底道か?、縄張図に記載無く、地元の方に確認願いたいところです。降り口を探して踏み跡を追うと、 民家の裏手・崖端に石積・石壇 ・石囲いの中に小さな石仏が祀られる角に降り立つ。前の急斜な溝谷沿いに民家の間を降りると、スタートの公民館西・僅か50m程の府道27号の出た。 既に消滅が確認されている遺構まで記されているのに、位置の間違い ?や遺跡名や説明内容がおかしい・・と思えるのは、此の府の遺跡地図に限った事ではなく!!、地方史誌等の伝承地に新たな発見が有るかも知れません。
(舞鶴の山城・舞鶴山城研究会 No88 Wikipediaフリー百科等を参照)
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