東舞鶴中心地の観光と消えた?山城(海城)探訪 赤レンガ倉庫群・東山城・浜村城
舞鶴市 (五万図=舞鶴)
自衛隊北吸桟橋・トーチカ・赤レンガ倉庫群・北吸トンネル・五条桟橋他
近畿の山城 :東山城/浜村城
枯木浦伝説
市政記念館(右)・智恵蔵(中央)・旧海軍水雷庫 (最奥)・予備艦兵器庫(左)等
  :明治35年建造のレンガ倉庫群

R27号線「西舞鶴駅前」交差点を過ぎると、チラッと 田辺城模擬櫓が見える。中世建部城(舞鶴富士)を本拠の 丹後守護一色氏を滅ぼした細川氏が築き京極氏・牧野氏と続いた城下町から五老トンネルを抜けて下ってくると東舞鶴。 舞鶴・・・此の美しい名前とは「うらはら」に明治34年(1901)旧日本海軍の舞鶴鎮守府が置かれた軍港都市。国民に多大な犠牲を強いた悲惨な戦争が終結してもなを、海外からの引揚者 ・いつ帰国できるか安否さえ分からないシベリア抑留者、
>赤レンガ博物館:旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫・明治36年

例えようも無い怒りと悲しみを押し殺ろす感情も失せて、ただ家族を乗せた引揚げ船を、ひたすら待ち続ける「岩壁の母」で知られる浮き桟橋。今も暗く冴えない曇り空の様な艦 ・艇が停泊する海上自衛隊の舞鶴基地。暗いイメージが先行する東舞鶴ですが、駅前からR27号(水門通)を越えて湾岸 (潮路通)まで南北に三条・七条や、東西に軍艦名を冠した碁盤目の港街。20年程前に寄った店を探してみたら、店内に飾られていた大漁旗は無く、小さくなっていたが?生簀があり、 新鮮な魚介類は勿論食材は全て地場産の店があった。
近畿財務局倉庫・明治35年

西舞鶴には R175沿いに道の駅と「舞鶴港とれとれセンタ−」があり、魚介類は買ってその場で食べられる。海も其の名も美しい舞鶴は漁港でもあり、旧海軍の遺産ではあるが明治〜大正時代に 建てられた赤レンガ建築物が残り、今も現役で倉庫等に使用され舞鶴観光の代表資源となっています。 潮路通へ出ると舞鶴港で正面にフエリー発着場の前島埠頭。湾沿いに小公園があるが、昭和25年まで引揚船が着く度、東舞鶴駅から此処に有った浮桟橋へ、
浜のしおじプラザ五条桟橋跡 :前島埠頭と東山城(消滅)遠望

引揚者を待つ家族が通い、家族との再会に感激し、また再会どころか消息も得られぬまま落胆と失望を、幾度も重ねながら其れでも「もしやもしやに・・ひかされて・・・港の名前は舞鶴なのに なぜ飛んで来てくれんのじゃ・・・ 」岩壁の母や妻と呼ばれる家族が待ち侘びた五条桟橋の有った場所。佐世保・呉・横浜等全国に数ヶ所在った引揚港も引揚期間が終了した昭和25年以降は、舞鶴港だけが唯一の引揚港として残されていたが、 昭和28〜33年の間は港の東北方・大浦半島の南部・平の現在引揚記念館が有る平南桟橋に移されます。
赤レンガ倉庫の窓・壁面を装飾姓は職人の技!!

大戦後の平に厚生省舞鶴引揚援護局が置かれていたこと、復元桟橋や「岩壁の母(昭和29年にリリースされた)」記念碑等で、引揚者が第一歩を記した当初の五条桟橋は 平南桟橋の蔭にさえ現れる事もなく忘却の彼方?。旧海軍舞鶴鎮守府の開庁に伴い海軍が建設した武器庫や需品倉庫 ・工場等海軍関連の諸施設を中心に、今もなお数多くの赤レンガ建造物が現存し、風雪を経た赤れんがはエキゾチックな 雰囲気をかもし出しています。
赤レンガ博物館 :レンガ製造のホフマン窯再現内部

赤れんが博物館は明治36年(1903)に旧舞鶴海軍兵器廠(しょう)魚形水雷庫として建設されたもので、 現存する鉄骨構造のレンガ建築物としては日本最古級のものとされ、市文化財に指定され、平成5年(1993)レンガの歴史等、様々な視点からの収集・展示を行なう博物館として開設されました。赤レンガ博物館・市政記念館 (予備艦兵器庫)・まいづる智恵蔵(弾丸庫・小銃庫)・市所有や財務省所有の倉庫等北吸〜浜地区の倉庫群は国の重要文化財(2008年6月9日)に指定され、赤レンガの町・舞鶴の情報発信基地となっています。
(浜のしおじプラザ公園の五条桟橋案内板 赤レンガ博物館パンフを参照)
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【トーチカ】赤レンガ博物館から舞鶴市役所 (市政記念館やJAZZミュージアム・喫茶のある智恵蔵)へ、さらにR27号線沿いの赤レンガ倉庫群を見ながら海上自衛隊桟橋へと北吸地区を歩いていると、 其の中間付近で歩道側壁上に小さな方形コンクリート塊を見る。上水道の調整施設かと思えたが、 側壁には長方形に小さく切出された窓が開く。国道を挟んで赤レンガ倉庫群を望む位置に在る物体は、上部も分厚いコンクリートで覆われた四角い箱!!?。裏に狭い出入口が開口しているが雑草と蜘蛛糸が入場を拒否している様。 3〜4人も入れば身動きも出来ない程狭く感じられるが、此れが戦時の遺物:ロシア語で地点を指すトーチカは軍事的な要所を、鉄筋コンクリート製の防衛陣地を指す用語というが、 陣地にしては小さく付近に同様の施設を見ない?。本来の点・地点を指す明治時代に旧日本海軍の鎮守府が置かれた軍港都市の現:海上自衛隊桟橋近くに有って、一基のトーチカが壁面の孔から1〜2の軽機関銃の銃口を海側のR27号線に向けて?いたのでしょうか?。構築された年代や目的は知らないがトーチカの下を鉄道が走っていた。 近くには観光ポイント・歴史散歩スポットとしてR27号線沿いの赤レンガ倉庫群から、レンガ造の北吸トンネルを抜け共済病院側からJR東舞鶴駅に向う廃線跡散策コース<自転車・歩行者専用(北吸桃山線)>が整備され、 市民の生活道路としても利用されています。
【北吸トンネル】日露戦争の開戦により舞鶴鎮守府施設への兵員や軍需物資の輸送を主として、明治37年(1904)舞鶴線東舞鶴駅 (新舞鶴駅)から中舞鶴駅間3.4kmに軍港引込線が開設されました。舞鶴線から中舞鶴線へはスイッチバックで入線して中舞鶴駅までを結ぶ単線でした。赤レンガ倉庫群・中でも市政記念館側から文庫山学園への急坂道を隔てゝ鉄条網で囲われたR27号側の財務局・海上自衛隊の倉庫群は、倉庫前のレンガ敷の空間が鉄路跡を想わせ ・列車の操車場の建物にも見えてくる。軍需物資や兵器・弾薬を貯蔵倉庫内への積み替えは容易では無さそうで、直接・引込み線が敷設されていたことは想像は出来るのですが・・・?。その後、 大正8年(1919)国鉄線として開業し舞鶴線の支線として、新舞鶴駅〜中舞鶴駅間を結ぶ中舞鶴線は新舞鶴駅ー中舞鶴駅の間に東門(とうもん)駅(昭和21年に北吸駅と改称)が設けられ、北吸トンネル(全長110m)は新舞鶴駅 (昭和14年に東舞鶴駅と改称)と東門駅の間に位置します。戦後も特殊貨物輸送で賑わいを見せたが、R27号線が整備され・バスや自動車の普及による輸送量の減少で、鉄道の使命を終え昭和47年 (1972)前線廃止されました。 平成14年(2002)国登録有形文化財となっているのが、明治の戦争遺物としてか、古い煉瓦建造物としてかは知らないが、 開設当時のノスタルジーは戦争、昭和の廃線までは超短距離のローカル支線。蒸気機関車の通り過ぎた後は燻ぶるトンネル内の煤煙が噴出す煉瓦窯。歴史異なる雰囲気作りに、往時の鉄路や其の幅を示すものも無く、 綺麗な遊歩道やトンネルで入口には瓦斯灯モデルの照明塔。明るい照明が赤煉瓦造りのトンネル内を照らす。
丹波鐘ヶ坂の明治のトンネル

天守台も天守閣も無い城に観光用天守閣を建てるような行為に思えて、歴史遺産としての文化財指定と、其の後の管理に問題はないのでろうか?。 トンネル内の中程は、 老朽化と水漏れ等により上部はトタンの当て板が貼られて雨漏り防止や、モルタル注入による補強工作等がなされている様です。兵庫丹波:篠山市と丹波市境の R176号線鐘ヶ坂には日本でも早い時期:明治16年(1883)の煉瓦造りでは最古と云われる ?トンネルが遺され、丹波吉野と呼ばれる桜の名所で、サクラ・モミジの頃のイベント日には開放され通り抜け出来ます。 地元努力で寄付を募って築造された歴史遺産は、国指定文化財には認め難いものなのか?。丹波竜発見現場に建つ 旧久下村営発電所(化石発見で撤去を免れ・平成20年には国指定文化財にも登録された)と共に、赤レンガ博物館に写真パネル展示されていますね。
自衛隊北吸桟橋にて :護衛艦すすなみ(左)・少しちいさな”あまぎり(右)”

【自衛隊桟橋】赤レンガ博物館から市政記念館 ・まいづる智恵蔵に寄り、地下歩道を利用して南側に渡り、自転車・歩行者専用道の散策道をR27号線沿いに西に進むと散策道側にトーチカを見る。 更に進むと自衛隊桟橋に自衛艦の姿が確認できる。 西舞鶴側から五老岳トンネルを抜けて下ってくるR27号線は府道565号を左に見送り、 大きく右に曲がり東走して直ぐ舞鶴港を見るが、 海の蒼より、桟橋に停泊中のグレイ一色に彩られた自衛艦を車窓間近に望み、エキゾチックな港町・長閑な漁港と違い緊張感さえ漂う軍港都市舞鶴を実感出来るスポットでもあります。海上自衛隊舞鶴地方隊の北吸桟橋は、 土・日・祝祭日に限り訓練等の諸事情が無ければ、一般公開されており事前予約なしでも見学出来ます。
自衛隊北吸桟橋:護衛艦まつゆき側から”すすなみ”(左)と”あまぎり”(右)
 
海上自衛隊舞鶴地方隊施設への門を入ると守衛に案内を請うまでもなく 正面に対応の隊員が立つ見学受付の机があり、住所 ・氏名等の受付を済ませ見学者用の受付プレートを首に掛け、目前に見学者を迎えてくれる護衛艦に向う。 艦上甲板へ案内のタラップが降ろしてある。北吸桟橋には此の日:6〜7隻(隻でよいのか?数え方を知らない!!・・?)が停泊しており、 護衛艦(114)”すずなみ”と(154)”あまぎり”が、西方には(124)”みねゆき”と(?)??同型の護衛艦が並ぶ。護衛艦まつゆき・補給艦ましゅう (否公開)も東隣に停泊している。明治34年(1901)海軍舞鶴鎮守府が置かれた軍港は日本海側唯一の海上自衛隊基地として、日本海中部海域の沿岸警備を主任務として防備に就いています。なにかと物議を醸す国の境界侵犯や工作船の暗躍に ・・緊迫した場面は幾度か体感されている事でしょう・・?。
護衛艦まつゆきの背に笠松山(愛宕山・泉源寺大谷城跡)

公開されていたのは同種・同規模の護衛艦なので”すずなみ”だけの見学で終えたが、戴いたパンフレット等のデータによると、同じと思えた護衛艦にも搭載兵器や機能に種々の違いが有る様です。此の日:イージス艦の停泊はなかった?が、 対潜水艦用ミサイルのロケットランチャー(通称:アスロック)、後部甲板には哨戒へリのヘリポートとヘリ格納庫を持ち、20ミリ機関砲・76ミリや127ミリ速射砲・3連装短魚雷発射管等の装備を持つ等・・もっと勉強しなければ!!。


枯木浦伝説  東舞鶴

前島埠頭を目前にする商工観光センタ近く、 潮路通りの「浜のしおじプラザ」公園に、浮き桟橋の上で引揚船を待つ「岩壁の母と子」の写真付き五条桟橋の説明板の他、枯木浦伝説を紹介する地図入り説明板が立ててある。
昔・小彦名(すくなひこ)と大巳貴 (おおなむち:大国主尊)という、全国の島や山・国造り<国土開発を行い、農業技術の指導普及に務め、農耕文化を司る二人の神様がいました。 二人は山上から望む舞鶴湾の中に島が一つも無いのを見て【枯木浦は舞鶴湾の東舞鶴側・東港を指す】美しい海に似合う、清らかな島が欲しい思い、笠松山(今の愛宕山)に登り、「彼彼(かれか)、来来(かれこ)」・・
商工観光センタ屋上から愛宕山(泉源寺大谷城)と右端に高屋城

【おいで、おいでの意味で、枯木浦の名の由来ですが本来の!?彼来の方がネームバリューも格段に良いのに?!!】
と呼ぶと淵島(浮島)、烏島、蛇島、戸島の4つの島が集まってきたと伝えられています。【MEMO】舞鶴湾に入江を西港<西舞鶴側>と東港<東舞鶴側>に分ける戸島は 「一番大きな私が枯木浦を外敵から守る為、入口に止まり・戸の役目をいたしましょう」といった、戸島の由来を伝えます。蛇島は舞鶴湾支配の軍事的要衝として、若狭高浜:逸見駿河守 (竹田氏方の逸見水軍 )が築城したとされる海城の在る島。烏島も中世水軍の一人・水島碇之丞が城を築いていた。
赤レンガ倉庫群と文庫山・・!北400mに東山城(消滅)が在った!!

淵島(浮島)は与保呂川・志楽川の河口付近?か。鎌倉時代:元寇の役(弘安4年 1281)蒙古再来の際・敵国降伏の祈願をした嶋満神社が祀られている。 笠松山は泉源寺と自衛隊病院の北背後の聳える愛宕山282mとされ、此処には泉源寺大谷城が、また病院の南の丘陵に栗屋氏の高屋城が在ったが、天文24年(1555)若狭武田氏に敗れた際の「特ヶ崎」の陣城と推定されています。
(現地:枯木浦案内板 舞鶴の山城:舞鶴山城研究会を参照)



 浜村城  東山城


浜村城と東山城
R27号線「西舞鶴駅前」交差点を過ぎて、注意して走っていると明倫小学校の白壁・瓦屋根の重厚な外壁が見える。其の直前・小学校南側の狭い車道を抜けた東側通り沿いに、 ほんの一瞬・田辺城の模擬櫓が見える。中世 建部城(舞鶴富士)を本拠の丹後守護:一色氏を滅ぼした細川氏が築き京極氏・牧野氏と続いた城下町の西舞鶴から、五老トンネルを抜けて下ってくると、スッカリあか抜けた東舞鶴に入る。
浜村城跡主郭?から停泊中の自衛艦とドック遠望

海岸沿いの広い道路 ・沿岸には灰色の船体を見せて停泊する海上自衛隊の艦艇が並ぶ。空の青さが引き立てる赤煉瓦の倉庫群・見慣れないエキゾチックな光景は東舞鶴の中心地というより舞鶴市の行政と経済の中心地で舞鶴市役所が在り、 自衛隊施設が集中する北吸地区から商業ゾーンの浜地区へ。此処では観光スポットとして赤レンガ博物館に向う人も多い ・・・が此処で通りかかりに見たレンガ建造物について知る。明治34年(1901)旧日本海軍の舞鶴鎮守府が置かれた軍港都市。赤レンガ倉庫等は明治〜大正へと旧海軍による建造遺跡。
北東・寺川河口側「浜村城」公園入口<城跡石標が立つ>

現在も海上自衛隊の重要基地。 建部山城同様に、舞鶴湾を囲む周囲の丘陵や島・岬には入江を守備する堡塁陣地が建造され、世期に湾内警備・守備についた海城や福井県境にも近く、若狭武田氏侵攻を警戒する一色氏方の山城も、 周辺に多く築かれていたと思えますが、要衝に築かれる位置は城にとっても旧陸軍・海軍にとっても同じで!!?、湾に面した城砦の遺構は、明治以降・軍施設として削平等で大きく改変しているのかもしれません。
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浜村城(長吉山城?)
   官舎山 45.5m  舞鶴市字浜小字愛宕山

舞鶴市役所前をR27号線(丹後街道)が走り、市役所から赤レンガ博物館へは前島埠頭や潮路通りへの車道が、 崖状急斜面を雑木藪に覆い隠した比高40m程の独立低丘陵を囲い込むように通っています。山上一帯は遊歩道整備され、 四方から上り口があり、西は市役所と赤レンガ博物館中ほどから長い真直ぐな階段が続く。赤レンガ博物館から潮路通りへ直角に折れる北の交差点は、総合庁舎前から緩斜面の遊歩道が続く。
浜村城山上南主曲輪!!
 
上り口に城跡を示す唯一の石標「浜村城」が立ち、自転車 ・バイク等進入禁止の為かスチール車止めフエンスがあるが、その一つには群雀(4韓5羽)の置物が取り付けて有る。軍需・重量物運搬の為の道だった様ですが、丘陵部は北から東面にかけても急峻で、且つ東方50m程には寺川が舞鶴湾に流れ出る河口にあり、自然の要害を形成しています。高い切岸を思わせる崖沿いの遊歩道沿いにも平坦地、 幼児の遊戯具が丹後街道を真下に望む南尾根側にも有る。山頂部には低い鞍部を分ける二つの小ピーク部に有る広い平坦地が主郭だったところか。
浜村城東の曲輪!!丹後街道のR27号(大門通)を見張れる位置にある!!?

樹々の間から湾内の自衛艦が見える。山城遺構の曲輪跡と思えるが、 一帯が夕潮台公園として整備され、通称:官舎山と呼ばれていたことでも、旧日本軍(海軍か陸軍)の軍事施設があった所で、 平坦地形も改変著しく、城館遺構とは考え難いが要衝監視・要害にあって、若狭国境から侵攻してくる若狭武田氏阻止に備えた一色氏配下の城砦群の一つだったのでしょう。浜地区か北吸地区側?に在った長吉山 (長吉城)の位置は未確認ながら、三藤外記重廉・桜井左京の城と伝えられ、浜村城とも推定されている様です。浜村城も天正年間(1573-92)丹後守護:一色氏の臣三島(三藤か?)外記 ・桜井(豊前守?)左京(桜井左吉?)らが拠ったと云われます。
唯一城跡を示す「浜村城」の石標
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東山城(浜村支城)
   東山60m(現状 40m)    舞鶴市字浜小字六島

東山城げは赤レンガ博物館からフエリー発着場のある前島埠頭に向う。総合文化会館の北の丘陵・現 :財務省管轄区にあって立入り禁止という。岬先端の丘陵上に在った海城の東山城は、第二次大戦中は山頂に防空指揮所と銃機砲台があり、地下壕には特別防空指揮所があった。昭和60年(1985)頃に発掘調査され柱穴群・竪堀・土橋・井戸が検出され、土師皿等が出土しています。旧日本軍施設は昭和62年に取壊され、調査後:山上部土砂を前島埠頭の埋め立て用に使用され、 上記赤レンガ倉庫群レポート内の「浜のしおじプラザ」画像の現状・平坦丘陵は東山城跡の10〜20m近くを削り取られ遺構は消滅している様です。遺構が残っていても立入り禁止では同じ事か?。
浜村城山上北主曲輪!!
 
天正年中:城主は浜村城の三藤外記や桜井豊前守が居城し、浜村城の支城として連携していたものか!!?。 天正3年(1575)城主:桜井豊前守は一色義道に従い、織田信長の越前攻めに舟師を率いて参戦した軍功を評価してか!!、天正6年(1578)細川藤孝が丹後一色氏攻めの際:藤孝は桜井氏に和平交渉を行っているなど、桜井氏の勢力ぶりが伺える。 一色氏の滅亡により桜井氏は秀吉に付き、賎ヶ獄の合戦に軍功があったという。

 (日本城郭体系・新人物往来社 舞鶴の山城・舞鶴山城研究会 舞鶴散策マップを参照)

丹波の由緒(別冊)丹波の由緒   本誌 丹波霧の里HOME 別冊 別冊丹波霧の里HOME
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