天田郡:謎!!の金山氏・桐村氏一族の城!? 天寧寺城・奥谷城
福知山市(五万図=福知山)
謎多き中世天田郡の覇者:塩見氏の城巡り 2007年08月04日
近畿の山城 : 天寧寺城 奥谷城

天寧寺と背後の天寧寺城を望む

何鹿郡(綾部市と福知山市の一部)には 高津城を拠として大槻氏 ・天田郡(福知山市中央部)には横山城(明智光秀により福知山城として改修された)の塩見氏 ・天田郡(福知山市北部 )の金山郷を本拠としていた金山氏等が、中世丹波国の天田郡に勢力を張っていた。塩見氏が嫡男を横山氏・次男を奈賀山氏・四男に和久氏、
天寧寺南郭部最高所から東尾根上に続く段曲輪群

五男(養子)は牧氏を名乗り各諸城に配置して 領地支配の強化を図っています。金山郷を領した
金山氏は常陸国に発祥した大中臣那珂氏の後裔で鎌倉時代末期:大中臣那珂 (五郎三郎)経久(つねひさ )が天田郡佐々木荘下山保 (金山・三岳地方等!?)地頭職を任じられ、其の子宗経・盛経ら一族と共に丹波に来住してきたことに始まるとされます。その後:嫡流の宗経が金山氏・庶流盛経は桐村氏を名乗り子孫は 丹波に土着して戦国時代に至った。
天寧寺城の南郭・北郭(主郭?)を分ける空堀と北郭側の高い切岸

南北朝期:貞治4年(1365)地頭:大中臣(金山)宗経の嫡男宗泰が足利尊氏に従って上洛し丹波金山郷に移ったとも云う。三代目大中臣(金山宗泰が開基となり金山氏の菩提寺として、当寺に滞在していた霊仲禅英の招きにより傑僧愚中周及を開山として迎え天寧寺が成立する。 愚中周及は応永16年(1409)入寂したが、
奥谷城(天満宮)

晩年には室町幕府第4代将軍足利義持の帰依を得て寺院は大いに隆盛を誇った。其の金山氏を裏で支えていたのが一族の庶流桐村氏で丹波の山間部・金山郷の在地経営に尽力し徐々に力を付けてくる。 明徳の乱(明徳2年<1391>)宗泰の子:実宗が山名氏に付いた為乱後、一族存亡の危機に立ったが愚中周及の執成しで事無きを得、金山氏は幕府奉公衆(将軍直轄軍)に名を連ねる様になるが、 金山郷に於いては桐村氏が嫡流金山氏を凌ぐ力を持って台頭してくる。一方:金山実宗から三代目の持実は冷泉烏丸に屋敷を拝領し、室町幕府に近侍し「丹波金山衆」と持て囃され、 中央政界に於いても知られる存在となっていた。鹿島神宮の大宮司家は大中臣鹿島氏で天児屋根命を祖とする藤原氏。常陸国那珂郡の地頭職大中臣氏は鹿島神社を祖神としており、 丹波の任地へも勧請したのは当然の事・・・・以上の経緯から奥谷鹿嶋神社は、鎌倉時代末期の頃から金山・桐村氏を名乗った大中臣一族が、常陸国の鹿島神宮から分祀して一族の産土神としたものと思われます。 天下統一を果した豊臣秀吉の「太閤検地」によって桐村一族は浪人となり、土着の運命を辿り、天寧寺も衰微するが、天正8年(1580)織田政権下で丹波国平定後・丹波国領主となった明智光秀(福知山城主 ・亀山<亀岡城主>)により寺領安堵を受け、寛永12年(1635)妙心寺派として再興されますが、火災や落雷に堂宇を焼亡し、 その都度・再建されています。


紫金山天寧寺(臨済宗妙心寺派・西国薬師霊場第27番札所・丹波古刹霊場:第14番札所・天田郡観音霊場第17番札所)は天寧寺中興の祖・日本禅宗二十四流の一人 愚中周及開山の寺。愚中は美濃出身で夢窓疎 【夢窓国師・正覚国師・・・大円国師と生涯に七度にわたり 歴代天皇から国師号を賜与され、七朝帝師とも称された】に師事したのち中国に渡り、高僧・即休契了に弟子入りしてその頂相を与えられた名僧。
天寧寺(福知山市大呂)

寺院に伝わる 絹本著色十六羅漢像・即休契了像は国重要文化財として、また薬師堂 (寛政6年<1794>)建立され、 方三間裳付の禅宗仏殿正規の形式を持ち、内部は四半瓦敷き・鏡天井には原在中の筆による雲竜が描かれる。 また瓦葺の屋根は昭和?-平成3年の解体修理により、 創建時の 垣(こけら)葺きとして復元されています)・開山堂(寛政5年<1793>建立で、六角円堂の土蔵造りという珍しい形式)・古文書絹本著色大臣持実像・大中臣元実像 ・愚中周及関係遺品は府文化財として指定され、その他多くの文化財が市指定文化財になっています。
(福知山市史・現地:天寧寺 ・鹿島神社案内板等市教育委員会 Wikipedia等を参照)


 天寧寺城 奥谷城


天寧寺城   xxx山 189m   福知山市大呂


由良川に流れ出る牧川を渡るとR9号線を左に分け、右折して由良川沿いのR175号線に入り、京丹後市加悦に向かうR176号線手前で、北近畿タンゴ鉄道(宮福線 )下天津駅を左に見て府道528号の天寧寺を目指して、先に訪城した 堂屋敷城の北山麓の長閑な山間を走り「→天寧寺」案内板を見て右折し坂道を進むと蓮池の奥に方丈(庫裡か?)・本堂の薬師堂・講堂(修行道場 ?)・・と伽藍が建ち並ぶ大寺院が目前に現れる。長い石段上の山門から本堂への参道左手奥には大中臣一族(金山氏・桐村氏)を祀るものか !?五輪塔群が並ぶ。
天寧寺南郭主曲輪切岸前に祀られる秋葉社


其の背山の丘陵上(比高約80m程)に天寧寺城が在りました。 天寧寺城へは本堂裏手に祀られる鎮守社の左手(西側)谷沿いの山道を辿り、城位置とは反対方向に緩やかに廻り込む山道が 尾根筋を越えるので、尾根通しの比較的急斜面を北方へと直上して秋葉社を祀る南郭の曲輪から、祠背後の切岸を上部の曲輪に乗る。曲輪北面鞍部に埋れかけた浅い堀切?を過ぎると、
天寧寺城南郭主曲輪北面の切岸?と空堀状?

南郭部最高位置の長いが段差曖昧な曲輪群が数段北尾根筋に続く。 天寧寺へ下る?南尾根筋にも小広い曲輪を持つ幾段かの曲輪群を連ねていますが、此れも曲輪の切岸(段差)は低く曖昧な出曲輪。 主尾根筋の南郭から北郭(天寧寺城最高所に在り、櫓台を備える?大土塁を北に背負う様な曲輪が主郭)を二分して大堀切が遮断している。
天寧寺北郭(主郭<櫓台>の西面(右)・東面(左)を帯曲輪が囲む

土塁(小曲輪)を中に挟んだ高い切岸(7-8m)の上に北郭(主郭)部があるが、 東西に尾根を延ばす最高所からは藪も深くなり、矢竹が密集して歩き辛く遺構確認も御座なりになる。段曲輪内に特異な遺構が有るとも思えないのですが・・!!?。主郭部の最高地点の櫓台付き大土塁(西北端部分が広いが全体的には幅約3m程)とは、此の土塁を囲む帯曲輪より2m程高い。狭すぎる最高所が主曲輪とは思えないが、 下部帯曲輪から櫓台土塁上へ 繋がる
天寧寺北郭(主郭)の大土塁<櫓台>

”上り土塁”があり、 東下方へ段曲輪が3-4段並ぶ。崩れた土塁痕の下には埋もれかけた浅い堀切が有り、南面下へ落ちる竪溝は明確に遺り、東 下方へは荒れた細長い平坦地形(尾根幅約7mX長さ25m程)。大土塁(櫓台)を囲む帯曲輪西北へは 矢竹の密生部を避けて進むが、曲輪は案外広く感じ、東曲輪群同様に幅約8mX長さ約25m程の曲輪と尾根先に空堀が着く。
天寧寺北郭(主郭)東尾根側曲輪から主曲輪に入る上り土塁

尾根北方の鞍部を西の大呂から東の下天津側の瘤木へ越える山道が有り、本拠:金山城からの搦手道が天寧寺城主郭へ通じていたか!!?。北郭の櫓台土塁と此れを囲む帯曲輪が天寧寺城主郭部の様です。丹後・加悦方面からR176号で坂浦峠を越えると三岳山東山麓を南下して、金山氏の本拠金山城の在る中村から 天寧寺城の在る大呂に出る。
天寧寺北郭(主郭 )の東尾根側の埋れかけた堀切

此の位置は但馬:但東町から登尾峠を越え、三岳山の西山麓を佐々木川沿い(R426号)の一ノ宮から 486m三角点峰の主尾根南の鞍部を越えれば鹿嶋神社を奥谷に出る。嫡流の金山氏・庶流の桐村氏は常陸国那珂郡の地頭職大中臣一族で、鹿島神社を祖神としており、任地の丹波に分霊を勧請したのは当然の事で、北の丘陵上 291m峰には桐村氏の桐村城が在る。
天寧寺城北郭(主郭)西北尾根曲輪群

此の但馬に抜ける間道の奥谷を大呂に出る。此の京丹後・但馬を繋ぐ二つの街道筋が合流する地点大呂を監視する位置に天寧寺城が在り、戦国動乱期に金山氏が築いて金山城の支城としたものか。天寧寺城の城史は不明で、築城時期等を裏付ける資料は乏しいが、金山城・桐村城と共に、ほぼ同時期に築かれ最も新しい時期に改修築の手が加わったのが 此の天寧寺城ではないかと推察されています。
奥谷城:南面は切れ落ち桐村谷川は見えず外側の車道を見下ろす

金山氏は足利将軍の奉公衆として勢力を奮っていた天文年間?頃を頂期として、戦国期には庶流の桐村氏が台頭し主家の金山氏を押さえて統治し、丹波守護代:内藤宗勝(八木城主)の幕下として活躍したが永禄8年 (1865)氷上郡<丹波市>の黒井城主赤井氏の天田郡侵攻に塩見氏・横山氏等と結んだが抗争に敗れて領地を脱出して衰退した様ようですが、丹波平定後の明智光秀により旧領地を回復するが、天正10年(1582)本能寺の変 ・山崎の合戦に光秀も敗れ、天下統一を果した豊臣秀吉による「太閤検地」により、天寧寺領や桐村采女支配の領地は召し上げられ桐村氏も帰農し此の地に土着したと思われます。

(福知山市史 福知山市遺跡分布地図を参照)


奥谷城  xxx山   Ca110m   福知山市大呂字奥谷

丹後・加悦方面からR176号で坂浦峠を越え
て三岳山の東山麓を南下すると 大呂谷。金山氏の本拠金山城の在る中村から天寧寺城の在る大呂に出る。 また但馬:但東町から登尾峠を越え、三岳山の西山麓を佐々木川沿い (R426号)の一ノ宮から486m三角点峰の主尾根南の鞍部を越えれば鹿嶋神社に出て 桐村谷を大呂地区の奥谷集落に出る。
奥谷城:主郭東の段曲輪

目前の府道528号を挟んで東側の丘陵上には天寧寺城が在る。今でこそ静かなの農村風景がひろがる山間の、何気なく通り過ぎてしまう狭い車道や山道が、嘗ては但馬 ・丹後と丹波を結ぶ交通の要衝ともなっていたようです。 鎌倉時代に此の地:天田郡佐々木荘下山保(大呂・長尾・一尾・瘤木・喜多・上野条・下野条・行積・天座)に地頭職を任じられ、常陸国(茨木県)から大中臣那珂経久(つねひさ)が佐々木荘に来住したとも、
奥谷城主郭から西面(尾根筋片側は車道参道改修で削られたか?)

其の子宗経・盛経ら一族は足利尊氏の上洛に付いて丹波に来住してきたことに始まるともされます。その後:嫡流の宗経が金山氏 ・庶流盛経は桐村氏を名乗り一族は分かれ、子孫は丹波に土着して戦国時代に至りますが、大呂谷に嫡流の金山氏が金山城を ・奥谷の桐村谷には庶流の桐村氏は桐村城を築いて本拠城とします。桐村谷の奥・桐村城の南山麓に鹿島神社が在るが常陸国那珂郡の地頭職大中臣一族は 鹿島神社を祖神としており、任地の丹波に分霊を勧請したのは当然の事。
奥谷城:主郭東

天寧寺城は戦国動乱期に金山氏が築いて金山城の支城としたものと 推測されている様ですが、天寧寺城とは府道528号線を挟んで西方約500m付近には、大呂谷と桐村谷の二つの谷が合流する奥谷集落の北西方に見える 丘陵先端部が崖状に落ち込むが ・其の中腹に”天満宮”の鳥居が建つ。 直進する桐村谷を右折して東山麓を府道528へ出る 迂回路から鳥居を潜る天満宮への急な階段参道を登りきった境内の左手に土塁曲輪状が有るが、正面の西方から広い車道が通じ、境内一帯は植林帯。
奥村城(左手丘陵は桐村城か?)

右手に天満宮の祠が祀られるが 尾根続きは伐採され、 幅のある尾根上は城址痕跡も残らないほどに造成されている様で諦め、車道沿い左手前方のの尾根筋に3段ほどの曲輪が並ぶ。 一番奥の広い平坦段(約30X45m程の楕円状)が主曲輪か?。市の遺跡分布地図には堀切の存在が確認されている様なので、参道車道や造成中か?
奥谷城:天満宮境内前(左端は階段参道上部)

天満宮並びの尾根筋も城域で、 此の尾根筋に敷設されていたものか?。東に金山城下を丹後へ通じる大呂谷側の街道筋を、南には桐村谷を桐村城下を過ぎ・峠越え山道を但馬へ抜ける間道。二つの街道を監視できる位置に奥谷城が在りました。 天寧寺城と共に金山郷の入口を監視守備する金山氏一族の城ですが、桐山氏の城か金山氏の砦かは不明です。
(福知山市遺跡分布地図 参照)



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