縮緬街道:与謝野町加悦 (旧)加悦町-T SLと古墳と安良城下を抜ける縮緬街道 |
神功皇后が神託により三韓征伐に向かう際:此の侵攻に同意しなかった夫君:仲哀天皇は急死。懐妊中に征韓したことにはなるが?
凱旋後に筑紫の宇美で出産したという。
神託の言告者として常に側にいた武内宿禰と関係があったと云い、出征した期間が問題かな? ただ宿禰は280歳とか330歳とか言われ、稀代の長寿を全うした人物ではありますが・・・
神社サイト”のりちゃん”最大の関心事は此処に有り・・・かな。
与謝野町(旧加悦町)古墳公園 与謝郡与謝野町(旧加悦町)字明石 2007.5.4
蛭子山古墳 ・ 作山古墳
福知山市から天橋立に向かってR176号線を走ると、大江山連峰の西:赤石ヶ岳と、但馬(但東町)・福知山市・丹後の
与謝郡与謝野町加悦との三国境に立つ江笠山との稜線中程にある与謝トンネルを抜ける。北下方に拡がる加悦谷の中央を野田川が流れ、公園内のパンフレット「加悦町遺跡地図」によると旧加悦町だけでも古墳は644基、
17箇所もの中世山城が記されています。
加悦町古墳公園:駐車場から蛭子山1号墳
ただ種々観光パンフや現地案内ガイドでも古墳は国指定史跡「蛭子山古墳」と「作山(つくりやま)古墳」が整備された古墳公園と、城遺構については嘗ての「かや」の地金屋!?にあった金屋城(賀屋城?)のことも、
「ちりめん街道」の項に天正期・僅か3年だけの城下とし現在の加悦の地に、安良城の有吉氏の名が出てくるだけ。古代から息づく町に「ちりめん」と村民により興業した「私鉄:加悦鉄道 」のノスタルジアに浸るだけでは惜しい歴史の町ではありました。加悦道の駅・SL広場を北へR176号線沿いに走ると自然と葺き石で埋まる古墳と墳丘に並ぶ円筒埴輪のオブジェが目に入る。
家紋の下に武者絵だろうか?端午の節句を祝う幟が何本もはためく、 与謝野町(旧加悦町のふるさと古代の丘)古墳公園の駐車場に入ると正面に蛭子山古墳が見えます。
蛭子山古墳の舟形石棺
蛭子山古墳
蛭子山古墳は丹後に5000基近くある古墳の中でも、京丹後市の神明山古墳
・網野の銚子山古墳と共に丹後三大古墳で知られ、其の中でも最も古い時期のものとされます。此処にも墳頂部には神社が建っていた様で、昭和2年(1927)丹後大震災による神社の被害状況調査によって、後円部中央に地割れが出来、
その中に埴輪が並んでいるのが発見され、更に昭和4年の地震災害復旧工事中に巨大な花崗岩製の舟形石棺が発見されています。
石棺内部は既に荒らされていたが、中国製の内行花文鏡・鉄製大刀等が検出され、 棺外からも鉄製太刀・剣・槍・斧等の武器類が多数発見されています。発掘調査によりほぼ一列に並んだ8基の古墳で構成されており、
内3基が国史跡に(昭和5年7月)指定されています。
蛭子山古墳の舟形石棺
蛭子山古墳1号墳
(全長145m・高さ16m)前方後円墳は古墳時代前期(4世紀後半)の築造とされ、斜面は川原石の葺石で覆われ墳丘は3段に造られた
段の上には埴輪が3重に古墳を取り巻く。 並べられた円筒埴輪は朝顔形ではなく、上部がすぼまった「丹後型埴輪」と呼ばれるものらしく、詳細は公園内のはにわ資料館に両型が比較出来る形で並べて展示されているので見ておいて下さいネ。
作山古墳:1号墳から4号墳へ
地方にが埋葬施設は後円部中央に3基あり、内部主体は中央に埋葬された大型舟形石棺で、地上には其れを囲んで方形に埴輪が並べられていたという。舟形石棺(長さ約3m・幅約1m)の蓋石の縄を懸ける突起が左右で異なり一方は一つ、
一方は上記の様に二つ並んだ石の突起がありました。2号墳は墳頂に蛭子神社jが祀られているが、一辺42mの方墳
・3号墳も一辺15mの方墳です。蛭子山古墳群とは南側の浅い谷間を挟んで作山古墳群があります。共に発掘調査後に埋め戻して遺構を保護し、築造当時の姿に復元された。
「丹後型」の上部がすぼまった円筒埴輪が並ぶ:作山1号墳
その他の施設
公園内は此の谷間にも高床式倉庫や竪穴式住居の古代復元住居があり、
作山古墳側の丘陵端には、加悦奥地区【ちりめん街道と交差して安良山城の南裾を護る濠ともなったと思う加悦奥川沿いに但馬出石町に通じる但馬街道があった】に有った民家です。玄関前にトイレ・玄関入った家の中には
土間を挟んでマヤ(大概は農耕用の牛小屋)が在り、土間奥に釜戸(台所)、母屋側には広い間取りをとった板場の部屋があって、隅に蓄音機等が有って生活臭を感じるが、居間の中央に大きな囲炉裏が切ってあるが、
ガランとして何も無い部屋の小さな「床の間」熨斗俵飾りが置かれている。午飾りのタテガミ状に何箇所も突き出た箇所があり、
水引が付けてあったり、祝紙の様なものが捲かれていたりするので迎春飾りか結納の一種とか米寿等の祝いか?。五穀豊穣を祈るか感謝して供えられたものか?余り目にする事もなかったが此の地の風習として残されていたものか。
作山1号墳の墳頂に置かれた石棺
ホッとした気持ちで民家を出ると、
数体の小さな野仏が芝生の庭先に佇んでいる。 江戸時代中期:延宝8年(1680)北風氏が播磨国より来住したのに伴い建築したと伝えられる
茅葺農家が移築・復元「いろりの館」として保存されていて京都北部に残る民家としては最も古いものの一つに数えられ、 極めて価値の高いものとして町指定文化財となっています。
古墳公園内のある民家
国指定史跡となっている蛭子山1号墳を正面に、また作山1号墳への登り口を背にして建っているのが
「はにわ資料館」ですが、加悦谷一帯の縄文〜古墳時代にかけての発掘調査で出土した埴輪や石器・土器類・武具・装飾品類の実物資料やパネルが展示され、映像館では加悦谷に移り住んだ古代人の生活や、
古墳築造の造り方や其の苦労等を説明紹介するビデオ?(DVD?)映像が放映されています。
作山古墳
遠くからでも葺き石で覆われた墳丘に並ぶ埴輪群のレプリカェが目立つ作山(つくりやま)古墳は古墳時代前期(4世紀後半〜5世紀初め)の築造とされ、一つの丘陵上には5基の中型古墳が並び構成されていますが、
前方後円墳・円墳・方墳・帆立貝式古墳と、代表的な異なった古墳が並ぶ古墳の見本市の呈です。
作山古墳2号墳(円墳)と前方後円墳の4号墳(奥の方)
作山古墳群の1号墳・2号墳の墳頂部や墳丘の斜面周辺には 円筒埴輪や
土器等のレプリカが並べられて当時の様子を復元されています。作山古墳1号墳(全長36X高さ4m)は帆立貝式古墳。其の墳頂部には、発掘当時の埋葬主体である組合せ式長さ3m程の箱型石棺が置かれており、
内部をガラス越しに覗けるようになっています。
作山古墳1号墳と5号墳(手前の小型方墳)
内部の石室を発掘した当時のままの姿で見ることができ、 等身大?の人形が置かれ副葬品の一部が再現セットされています。種々な石棺を多く見る事が無いのでよくは知らないが、副葬品を収める小さな副室が埋葬者の貴重
品入れの金庫の様に(箱状に石室には鉄剣や鉄太刀が数本納められていた様です。炭化した鉄製品らしい模造品?が内部に置かれ、
二つの室が石棺の中で一体となっています。
作山古墳2号墳から1号墳を望む
帆立貝式の造り出し部分に5号墳が有り一辺約13m・高さ2mの小型の方墳が築かれており、作山古墳群5基の中で最初に造られた古墳だとされています。1号墳の周囲には木棺墓6基・埴輪棺墓が6基・壷形土器を棺としたものが1基
・棺を持たない土坑墓が2基の15基が周囲埋葬されています。円墳の2号墳(全長約28m・高さ3.5m)、3号墳は一辺が17m・高さ2mの方墳、東端の「いろりの館」側にある4号墳が全長30m・高さ3mで小型ながら前方後円墳で此処からなら
1〜4号墳の古墳見本市!!を一望できます。
(旧加悦町古墳公園パンフ 現地:加悦町教育委員会の陶板・案内板等資料を参照)
安良城(安良山城)
安良山城(安良城・有吉城) 安良山 128m 与謝郡与謝野町加悦字算所
旧加悦町役場から加悦奥谷川に沿って但馬街道が通じ但東町・出石町に抜けますが、但馬境界も加悦奥谷峠から与謝野町(旧野田川町
)との町界尾根が東に伸びて其の先端を「ちりめん街道」の旧加悦町役場付近に落としています。東には加悦谷中央部を流れる野田川を望み、南には東西に加悦奥谷が野田川に流れ出ます。其の河口近く・旧加悦町の野田川西岸では
最も北に位置した丘陵部先端付近の安良(やすら)山山頂部に主郭を置く有吉城がありました。
安良山城(有吉城)主郭の城址碑
有吉氏以前の城史は判然としない様ですが、有吉氏の城としてはよく知られているようで登城ルートも東や南から数本あって、
よく踏まれた山道になっています。算所の権現社(家臣団屋敷跡かと思える様な広い削平段があった)から加悦水道配水所への
道が判り易いかも?、第x展望所の標識が藪の中に有って展望はいまいち!?、加悦中学校裏手の墓地から山道を辿り東南尾根先の庭園の様な長く広い(幅約20m・長さ約50m程)曲輪に着く。権現社からの道も此処に出てくる。
曲輪西切岸沿いに下草で覆われ判り難いが低土塁が延びている様な?感じがします。
安良山城(有吉城)主郭西北面の切岸
公園化されて改修されたのかも? 曲輪の北端で短いが幅のある土橋付き堀切を越えて主郭へは南側から西へ、更に北へと螺旋階段状に段差をもったいくつかの曲輪を廻り込んで入っていくように思えます。堀切を渡ると、
南へ曲輪が延びる尾根への中間部に下降点(とはいって急坂で倒木も多く荒れていて、山道では無さそうです)があり、 南尾根から主郭部に入る虎口の様です。安良山城(有吉城)は加悦町遺跡地図(観光案内所に用意されているH7年加悦教育委員会)に記された城域分布の様に主郭を中心に5方向の尾根上にヒトデの様に延びだして曲輪を並べています。
有吉氏は安良城の築城の頃に細川藤孝の宮津城:普請奉行を務めています。加悦を城下町として整備し「惣構え」として取り込んだにしても、
彼の山城に堀切は此処だけ?竪堀らしいものは有るようですが、各曲輪部に防備に優れた特徴が余り見られません。
南尾根付根付近で主郭の真南下に位置する虎口
最高所の主郭と副郭だけは北側曲輪からのみ入る虎口を通り、下段の曲輪とは10m程切岸を高くした天守台風の別郭を形成しているようですが、副郭との間に石階段が有る。
主郭部には「有吉城」に城碑が立つが、嘗ては有吉権現が祀られていたといい、算所からの道は権現社への参道だったのでしょう。
「加悦ちりめん街道」関連の上記レポートの様に、 阪神間・京都方面から奥丹波を経て与謝峠を越えると、丹後の加悦・野田川・峰山・岩滝へ向かう、丹後半島の付根に位置して、
但馬へ・宮津〜舞鶴へと通じる交通の要衝は、桃山時代には既に地場産業として特産の「ちりめん」産地として繁栄の兆をみせていたと思います。
馬出し的機能を持つという南東尾根先の郭の曲輪
其の付根:主郭側に唯一:土橋付きの堀切?(手前)と土塁
有吉氏が加悦に入る以前の安良山城については不詳ですが、
地名考による賀悦や加屋からは:南朝の忠臣で隠岐に流罪となっていた後醍醐天皇を船上山(鳥取県琴浦町)に迎え討幕に加わり、 足利尊氏と対抗した名和長年の臣に嘉悦氏がおり、一色氏支配となる以前に加悦の領主となっていたという。
其の後:丹後一円は一色氏の本拠地となり、其の有力家臣:石井氏の金屋城(賀屋城)が安良山城の南方約2km地点に在って、此処も石井氏と同族の城砦だったと思われます。一色氏の旧臣だった松井康之・有吉立言は永禄11年
(1568)細川藤孝の家臣として近江:箕作城攻めに戦功があったようですが・・・明智光秀の「丹後攻略」には光秀と姻戚関係に有った細川藤孝が、加悦町算所の案良山城主:有吉将監立言・四郎右衛門立行の父子、宮津市の日置城主:松井佐渡守 (四郎右衛門)康之を見方として、 天正7年(1579)細川・光秀軍は一色義道、義俊父子の拠る建部山城を攻め、
一色氏は城を捨てて敗走しますが敗走先で滅亡。
主郭西;土塁間を廻り込んで主郭に向かう為、木戸か櫓台か?
人望薄くなった一色氏から離れていく配下の武将や合戦の様子は、室町時代後期:長享の乱(1487)の
「鈎の陣の戦い(栗東市)」以降の近江守護:佐々木六角氏と幕府軍(織田信長・秀吉 )との戦いにも似ているような・・・!?翌天正8年(1580)織田信長の天下布武の号令による「丹後攻略」後、
細川藤孝(幽斎)・忠興親子は織田信長から丹後一国を与えられ宮津城(後に宮津城を支城として残し田辺城)を築いています。藤孝は丹後国を宮津・峰山・久美浜・加悦の4っに分け、
加悦谷には細川氏の重臣有吉将監立言(たつとき)を入れて統治させます。
有吉将監はまた
宮津城(舞鶴城・鶴賀城)築城の普請奉行を務めたようです!。有吉氏は加悦の安良(やすら)山に有吉城(安良山城・加悦城)を築き、その際「ちりめん街道」を地割りして城下町を整備したが、立言の死によってわずか3年で
城下町の役割は終わったとされます。しかし子の四郎右衛門(武蔵守)立行(たつゆき)が安良城を継いで居城していたはず。其の後が不詳ですが、関ヶ原の戦い(1600)後、
安良城主郭西帯曲輪に入る平入虎口?
主君:細川忠興が豊後杵築に6万石で所領を得ると立行は城代に任ぜられ、松井氏と移り、忠興の豊前国替えで立行は
柴崎高田城を与えられ入城します。安良山城は関ヶ原合戦時、細川藤孝が田辺城に籠城した際に廃城となった可能性が高いと指摘されています。
城下町としては立言の没後も 当面は機能していたと思われます。「城下町」というより「惣構え」としての城郭遺構の感が強いのですが・・・!!丹後国はその後:信濃飯田国から京極高知が入り、元和8年(1622)高知が没すると嫡男
:高広が宮津に、高三を田辺・養子の高通を峰山に入れた。加悦は宮津藩領ですが、京極氏の改易後は一時幕府の天領となっています。
加悦水道配水池側の土橋?
其の後:宮津藩主は永井尚征から尚長・阿部正邦・奥平昌成・青山幸秀へと移り、宝暦8年(1758)遠江浜松(静岡県)より松平
(本庄)資昌が入ってより以後は本庄家支配で明治に至ります。加悦の城々が何時頃まで存続していたか、藩政時代の陣屋等・・・・は資料不足で未調査のまま・・・(^^ゞ。城史不詳のままですが少しずつでも、
加悦の山城を ・・・与謝野町の城郭を探訪していきたいと思っています。
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