京都丹波・亀岡市の山城  明智光秀ゆかりの岩・寺・城
山域 :京都丹波 亀岡 (五万図=園部)
近畿の山城 : 法貴山城 猪倉城(井内城)
猪倉城主郭:西面切岸と空堀土塁(手前左に竪堀?)

♪ふくちやま出て 長田野越えて 駒を速めて 亀山へ・・・・♪福知山音頭の一節ですが、天正3年(1575)に始まった「丹波平定」では北丹波の 横山城(福知山城)を攻め落とし福知山城を改修して入った光秀ですが天正5年(1577)亀山城(亀岡市)を築き居城とし、奥丹波の八上城や黒井城への丹波攻略は二つの城が拠点となっていきます。 関西圏以外の人には坂本城(滋賀県 )と亀山城が明智光秀の城として良く知られるところでしょうか!? 天正10年(1582)5月:織田信長の命により、中国攻めで備中高松城を攻めの援軍として羽柴秀吉に合流すべく出陣した光秀が、 軍を戻したという法貴坂の「明智戻り岩」を先に訪ねます。明智戻り岩の上方の峰にある法貴山城の堅固な二重横堀をこの目で確認して帰路途中の猪倉城を目指します。 法貴坂から引き返した翌月:天正10年(1582)6月織田信長を本能寺に襲った反逆者の汚名を引き摺ったまま 今に語り継がれる人物の弁護に介入する余地は無いのでしょうか ? 美濃国に生まれたとされる光秀の出自は不詳ですが、謀反に走った真相も多くの要因が有るようですが ?其れ等多くの疑問と謎を含んだまま ・無念の思いを残して眠っているのも此処・亀岡市猪倉の谷性寺です。
谷性寺の「明智山門」

谷性寺の山門からはR372号線を隔てた正面に猪倉城(井内城)の在る低丘陵が望めます。山崎の合戦において秀吉軍に大敗し、近江坂本城を目指すが途中・山科の小栗栖で土民の襲撃を受けて斃れたと伝えられるが、光秀には辞世の句 ?とされる石碑が、谷性寺一帯の「ききょうの里」入口に建ち(漢詩)「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す」とある。逆算して大永6年(1526)生まれとされます。


明智戻り岩   曽我部町法貴峠

京都丹波と摂津国を結ぶ R423号線の法貴峠・明智橋の側に空地があり、 ”法貴谷ハイキングコースとその周辺”のイラスト案内板が建てられています。現在地側に明智戻り岩があり穴太寺〜金剛寺〜へと、コースは長いが車道歩きのコースです。 イラストに城は亀山城跡が示されるだけで、此の岩の頂部に山城が在る事は余り知られていないようですネ。此処・戻り岩の急斜面に取付いた 尾根上に竪堀と土塁囲みの曲輪、二重の横堀で防備した山城が有ること等、明智戻り岩の説明板にも記されていないので想像もされないでしょうね。まして神蔵寺の朝日山や湯の花温泉付近へ続く山の尾に城砦が有ること等・・。
法貴坂の”明智戻り岩”

おかげで法貴山城以外の城砦は荒れるがままではあっても、 遺構(切岸や堀切も余り明確では無い)が人手で壊される事もなさそうです。犬飼川上流の法貴谷に沿って歩き始めて20m程で川側に立ちはだかる屏風岩が見えます。石面の一つには享徳3年(1454)に刻られた題目の 「南無妙法蓮華経南無法主日蓮大聖人」の巨岩が明智戻り岩(屏風岩)です。
天正10年5月(1582)信長の命で中国攻め備中の陣にいた羽柴秀吉の援軍として出陣した光秀が、亀山城を出て能勢路を攝津・播州へと 山陽道に向う道筋として法貫峠にさしかかります。しかし明智軍は峠を越す事なく引き返し翌6月2日には亀岡から老ノ坂を越えて本能寺へと向かいます。光秀とは天正5〜7年(1577−79)頃に此処で対峙した笑路城長沢家綱と光秀との間を 仲介した酒井孫左衛門等も、光秀に従って此の岩の前で引き返し信長の滞在していた本能寺へ向かいます。一説に:光秀の”丹波攻略”に際して、此処まで進軍してきた駒を止めて斥候を出したところ、
法貴山城:深い二重横堀が曲輪を囲む

此の先には討つべき敵はいないとの報告を受けて引き返したとも云われます。どちらの由来によるものかは知りませんが、 後世に「明智の戻り岩」と呼ばれるようになった謂われです。また・法貴谷にあって明智光秀軍の動向を見下ろしていた山桜が有ったが、伝教大師開創以来1200年目の平成2年此の 駒返しの大桜の大木が伐採される事になり、其の桜材は神蔵寺の本堂前の賽銭箱に姿を変えて奉納されています。


谷性寺    亀岡市宮前町猪倉土山39

亀岡市街地から湯の花温泉を 西に抜ける国道372号線は、直ぐに低い峠を越えて篠山街道の長い直線道路を緩やかに下っていきます。其のとっかかり・中野地区に分岐する高芝から細い集落内の道を北西に入って行くと平安時代後期・鎌倉時代初期の創建。清瀧山谷性寺【真言宗大覚寺派・本尊は明智光秀が崇敬したという不動明王・宝の道 七福神霊場第1番札所(恵比寿大神 )・近畿楽寿観音霊場第25番札所)】があります。
明智光秀の首塚

境内には 天正10年(1582)6月織田信長を本能寺に討った明智日向守光秀が僅か11日後の6月14日・中国攻めの最中に急を聞いて引き返してきた秀吉軍に ”山崎の合戦”に敗れ坂本城に向う途中、山科の小栗栖で土民に襲われて斃れたという。近臣で光秀を介錯したとされる溝尾庄(勝 )兵衛がその首を生前に信仰していた谷性寺に持ち帰り葬ったと云われる「光秀の首塚 」が山門を入ったところにあり、安政2年(1855)光秀の鎮魂の為建てられ祀られています。いつの頃か谷性寺周辺には光秀供養の為か、
旧西願寺の移築「明智門」(内側には桔梗紋が彫られている)

明智家の”桔梗紋”である桔梗の花を植えられるようになり、今でも夏(7月に花の最盛期をむかえる)になると咲き乱れる、桔梗の花が寺の代名詞となり 光秀寺とも桔梗寺とも呼ばれ親しまれます。信長の高野山攻めを諌め、丹波攻略後・丹波一円を領した光秀の行った善政や、 その徳を偲び福知山〜亀岡への丹波路各所に祀られる祠や顕彰碑には、強引に「天下布武」を推し進めた権者信長と、戦さには冷酷だったが敗者には優しかった?人間:光秀を比較しながら、逆臣:光秀のイメージを 少しでも見直して欲しいものですね・・・。南正面が山門ですが東側にも「明智山門」と呼ばれる山門で、この門からは正面に「光秀公首塚」が見えます。
光秀の首塚・猪倉の谷性寺(桔梗寺)にて

亀山城築城の際・城下町の整理による寺院配置で柳町の西願寺の山門が明智門と呼ばれ護られてきたが昭和50年には土塀を残すのみ、それさえ消滅の運命にあったようですが、光秀ゆかりの谷性寺に寄贈され昭和51年10月に移築されました。 山門として特記するべきは蛙股外側には輪法紋・内側には桔梗紋が刻印されている事でしょう!。石山本願寺一向衆との10年戦争・比叡山延暦寺を焼き討ちし、高野山をも攻める仏敵:信長に対し、高野山攻めを諌めたという光秀が ”本能寺の変”での謀反では、おりしも高野攻めで飯盛山はじめ各所で高野山宗徒と戦っていた織田軍が 引き揚げ高野山は救われます!!。山門の”輪法紋”は此れ等の事に由来するものでしょうか?其の高野山に織田信長の墓が祀られているのですが人道と仏道は違うのでしょう。
(現地 谷性寺の案内板を参照)


 法貴山城(法貴山古塁)  猪倉城(井内城)


法貴山城(法貴山古塁)  城山 400m    亀岡市曽我部町法貴明智岩

霊仙ヶ岳536mから東へ延びる尾根が、丹波亀山(亀岡)と摂津池田を南北に結ぶ要衝のR423号線(摂丹街道)に先端を落す処。ヘアピンカーブが連続する法貴坂に「明智戻り岩」の標識と 「法貴谷ハイキングコース」案内板が立てられています。明智戻り岩の側から 急斜面を登り詰めた尾根の頂上に有った法貴山城の築城時期等:城史は不詳ですが、室町時代末期の天文・弘治の頃 (1532−58)細川晴元の臣酒井三河守孫左衛門が法貴城主だった様です。
法貴山城の二重横堀(空掘)

天正5〜7年(1577−79)頃・京都丹波平定の明智光秀が 笑路城長沢(中澤)家綱と法貴坂で対峙した際には、法貴城主酒井孫左衛門が長沢(中澤 )氏との縁故をもって光秀に取りなし和睦したとか・・・。法貴山城の酒井氏は天正年間には光秀の家臣として、長沢氏も明智氏の傘下に入 った頃には此処を明智方の攝津を睨む拠点として、主郭部を土塁で囲み・食違い虎口の設置や防衛ラインは織豊系城郭技術を導入し摂津・池田方面から亀岡に入る要衝を押え、亀山城(亀岡城)へ侵攻してくる敵に対する南玄関口・攝丹国境の警備に当たっていたのでしょう。 多分に鉄砲による戦闘を意識した明智光秀(丹波国領主)時代の陣城とも推定されます。
法貴山城の二重横堀(空掘)

明智戻り岩の由来は上記のとおり天正10年(1582)明智光秀が、織田信長より豊臣秀吉の中国攻めの援軍を命ぜられ13,000の明智の軍勢が亀岡 (亀山城)を出て池田街道(摂丹街道)を進んで此処に至り、急遽: 織田信長が滞在している本能寺へと軍勢の鉾先を変えて後戻りし光秀に従って「本能寺の変」に軍功を挙げ、山崎合戦へと出陣して討死する。 帰らぬ城主を待ったまま城は荒れ果てた姿を今に曝し続けているのでしょうか?。
横堀西末端部の土塁 :下方に曲輪と大竪堀

酒井氏とともに笑路城の長沢(中澤)氏も犬甘野城等近在の一族とともに、光秀に従って信長が滞在する本能寺へ向かったのでしょう。長沢家綱は山崎合戦に討死したと云います。 丹波大山庄の中澤小次郎基政(大山城主)が入部し天正6年光秀の丹波攻めの落城へ・・・詳細に研究されています。笑路城の長沢氏も中澤氏が誤って伝えられたものか、越中国(富山)の長沢氏なのか?。篠山〜亀岡〜京都への経路に残る丹波平定後の中澤氏の動向についてレポートが整理されましたら拝読させていだきます。戻り岩の側からの激急斜面に取り付いて此れをり詰め、 緩やかな平坦地(東端の曲輪 )に出て堀切(南斜面に長い竪堀となる)を越えて主郭部に入ったようだ。
主郭郭を囲むU字状土塁

土塁状の高まりの残る潅木に覆われた削平地を西端まで進んでみる。城域の北面は自然地形が要害となった急斜面に護られ、主郭部は低土塁を廻し他の三方に配置された二重の横堀と竪堀によって防備された 堅固なものとなっています。二重の横堀(空掘)が尾根上の曲輪を分けていますが、更に城域の東西両端部には大堀切が有って曲輪群を区画し独立させています。 しかも長く南方の斜面に延びる此の二本の竪堀は、法貴坂に向って出撃するのに有効です。二重の横堀は深く城域東西に長く、曲輪間を分断するだけでなく、塹壕としての利用価値が有りそうです。 深い堀底道を通路・塹壕・武者隠しとしても利用して敵に気付かれず兵の移動が可能です。
主郭の低土塁

主郭の中央部を二分割する様に仕切られた土塁と其の西側に空堀がある。 同じく此の中央南側には土塁に間(はざま)があり、下部の横堀から曲輪に入る虎口となっていますが、 生憎と倒木や雑木藪に埋まる曲輪では肉眼で確認出来ても状況写真は儘なりません。西側曲輪には織豊系城郭に改修された決定的縄張りの特徴と思える食違い虎口が有るのですが・・・御蔭で・この竪堀を利用して比較的楽に R423号に降り立ちます。明智橋・明智戻り岩への入口まで7〜80m地点。麓にありながら見忘れた法貴館、法貴山城の西300m程の尾根続きにも城跡のチエックは記していたが城名さえ知らず、今度は昔登った湯谷ヶ岳ついでに 東掛城にも訪れてみたいものです。
(亀岡市史を参照)


猪倉城(井内城)   城山 229m   亀岡市宮前町猪倉城山・本梅町中野

亀岡市の奥座敷:湯の花温泉を西に抜け出て、R372号線を篠山方面へ向かい緩やかの峠に出る。 此れより猪倉・宮前・埴生へと本梅川沿いに拡がる田園地帯の中の快適な直線道路が続きます。延喜式山陰道の篠山街道は篠山市から播磨 ・山陽へと通じる京街道の要衝で、特に本梅・宮前付近は亀岡市街地への西の玄関口、本梅の東加舎を南下すれば直ぐ能勢の国境 ひいらぎ峠も近く攝津・池田に通じる要衝でもあります。
北曲輪西斜面下部の土塁と竪堀

本梅川を濠としてR372号(京街道・篠山j街道)を挟んで東に僅か1kmの猪倉の集落には明智光秀を祀る谷性寺(光秀寺・桔梗寺)があります。R372から中野集落に向う丁度中程に 本梅川と田圃に囲まれた 比高僅か30m程で高低差も少ない南北1.5km程の丘陵が有る。こんな低丘陵ですが其の最北端部の藪の中に想像も出来ない竪堀 ・横堀は北面を除き曲輪の外郭を取巻いて、土塁囲みで防備を補強された曲輪を廻した猪倉城の遺構が眠っていた。
主曲輪・ニノ曲輪を区分する土塁虎口

本梅には本梅城 (本目城・神尾山城)・数掛山城・滝ヶ嶺城があり大永6年(1526)頃・丹波守護:細川尹賢の中傷により細川高国が、家臣の香西元盛を殺害した為、波多野備前守稙通(八上城主)が細川高国に叛し、弟の柳本(弾正)賢治が神尾寺城に挙兵した事や、明智光秀が 八上城攻略のため、母親を人質に八上城に送って和議を図り、波多野氏方の 荒木山城主荒木山城守と本目城(神尾山城)野々口西蔵坊を仲介として八上城主 :波多野秀治・秀尚の兄弟を本目城に招き入れて捕え、安土城に連行して殺害した舞台となったところです。
南東先端の大土塁と堀切:手前の横堀が主郭南・西を廻る

丹波守護代内藤氏の勢力下に組みした土豪の城や、波多野氏勢力下にあった頃の城砦、更には丹波平定後の明智方城砦群等が数多く存在すると思われるのですが、 城名をはじめ其の位置や城史に不明が多く、未だ僅か数城しか私は知らない。取付き地点を探して田圃の周囲を歩いてみるのもいいが、中野大橋の50m程手前・丘陵南先端部に八幡宮の鳥居があり此処からトレースしてみます。 蜘蛛の巣を払いながら雑木藪を進むのは目的地が近いので何とか我慢出来ます。城域は少し南東にあるピークの方が街道筋に近いが 自然地形の平坦地が有るだけ!!?。北側へ谷をトラバースして末端部へ尾根を辿って猿倉城(井内城)の城域に到達した様です。
主郭東曲輪から主曲輪の南?西面を廻る横堀

本梅川沿いの西側から城域の北丘陵部へ数ヶ所取り付ける地点はあった。(最近?再訪のH24年・山裾を防獣フエンスが廻り ・しかも途中に開閉ゲートも無いが、西面北端民家の先から城域植林帯への入口ゲートが有る)。二重堀切を越えた斜面の上は高さ 2m程の土塁が廻る曲輪が現れた。下草と雑木藪の中では全体が良く判らないが、段差の小さな数段の曲輪に沿って南面を東に長い土塁が屈曲して「横矢掛り」を意識した枡形の折れを伴って延びています。
猪倉城南面の横堀と土塁


中程で土塁の切れ目があり、斜め下へ下ると此処も切れ目の無い土塁が続く帯曲輪状の広い横堀が東北部で湾曲して 竪堀に繋がり、尾根筋の二重堀切部から城の南側全域を包み込む長さ80m以上!!の横堀と横堀沿いの土塁は、 城域の南北を横移動出来る塹壕ともなり主郭側の切岸も5-6mと高い。此の横堀底の東端湾曲部分から上部の曲輪へ斜上して入る虎口様になっています。其の東端曲輪に設けられた突起部分は「横矢掛り」の工夫か?。
独立丘陵北末端斜面には落ちる数條の竪堀群

猪倉城の防衛は南から西面にかけて強固で、谷筋を大手とし此れを挟んで V字城に曲輪を載せる縄張りですが、東面のR372号(篠山街道)が手薄で堀切や土塁が見られない!!?。 神尾山城の出城だったとも思えず寧ろ神尾山城に対峙した陣城?とも思え、西斜面には麓の本梅川まで延びる竪堀や、 土塁を積んだ塹壕ともなる横堀がある。低丘陵尾根北末端部の傾斜は差ほど急ではないがそれだけに?畝状とも呼べる竪掘群がある。
猪倉城南面の横堀と土塁

室町期?に井内筑前守が拠ったとされる井内城ですが井内氏については未調査。天文年間(1532-55)には井内氏を支配下に置いた中沢豊後守知綱が拠ったと 云う(多紀郡八上城か亀岡市の本梅城主 :波多野氏配下の家臣か?、八木城主内藤氏に属していたか、時代的に微妙ですが資料未調査で不詳)。中沢知綱は明智光秀の臣として天正10年(1582)本能寺から山崎の戦いに丹波衆として参戦している。
猪倉城東曲輪の竪堀は尾根上で横堀に連動して主郭南面を捲く

篠山からは天王 〜土ヶ畑から波多野氏勢力が拠った千ヶ畑砦を経て岩石峠を越える裏街道や、豊能郡能勢町から ひいらぎ峠を経て亀岡へ入る要衝でもあり、福知山城と亀岡城を拠点とした明智軍が八上城攻略や、 攝津の動向を探る為・陣城としたものでしょうか。この攝津街道は明智光秀決断の軍道となるが、秀吉の中国大返しの軍事行動は僅か5日で200kmを移動した。それに比しても大山崎の合戦で光秀は天王山にも遅れをとって撃破され、 頼みとした勝竜寺城(長岡京市)の細川(幽斎)藤孝・忠興【妻は光秀の娘】父子や、大和郡山城主:筒井順慶の協力をも得られず滅亡への道を突き進むことになります。
(亀岡市史を参照)

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