南丹市・日吉町の山城  東胡麻城・塩貝城(大戸城)・田原城
京都丹波:南丹市 (地図 五万図=綾部)
近畿の山城: 東胡麻城と塩貝城(大戸城) 田原城

東胡麻城:「城下」前の胡麻川と居館跡らしい民家のコーナー部

人口比率の多い都市部はともかく一地方郡部の住民にとって市町村合併・編入のメリットってなんだろう?。集中・集約化で管理面の一元化・効率化は図れても市政制度?が住民側には負担増や利便性の悪化・サービス低下等景気の低迷にも鞭打たれてデメリットばかりが目立つ様に思えてくる!!。
大戸地区側からの塩貝城 :登山口は左上方民家の手前から

歴史的背景からも重要な郡名・町名・字名が地図上からはドンドンと消えていきます。名称に反対意見が多かったと聞く氷上郡が丹波市へと改称され「氷上」の古い歴史・文化面からみても一地方に留まらず当1市民にとっては困惑するばかりです。京都府側の丹波町に入り須知の上野城から美女山への尾根上に、余り知られていないと思われる?
和田前橋から望む田原城

上野砦へ寄った後、小峠を越えて日吉町へ下りながら道路案内標識を見ていて「丹波」は京都丹波・兵庫丹波の集大成ですが古墳時代?には但馬・丹波・丹後も丹波と呼ばれていたこと、一市町村で独占して呼称・使用出来る様な名称ではないことを感じ恥じ入るばかりです。R9号線から府道80号(丹波日吉線)で、此れも名の由来を聞いてみたい「太閤坦(だいら)カントリークラブ」側を抜け、地形図からは南北の丘陵上に監視の砦が在りそうな小峠を、日吉町へ抜けて府道50号でJR山陰線沿いの胡麻駅に向かいます。
塩貝城登山口にある塩貝氏の供養石碑

丹波町も日吉町も 元々は船井郡ですが瑞穂町や丹波町は船井郡京丹波町に、園部町・八木町や日吉町は南丹市、直ぐ東南には人も住まなくなり大学の演習林の拡がる!!廃村八丁付近の広範囲地帯を含む?「口丹波」の一郡だった 北桑田郡のうち美山町が南丹市へ、京北町は京都市に編入されています。京の都に近接した 「丹波」という地域名称も、古文書・歴史資料の「郡」の意識稀薄に伴い、単に素人の「山城めぐり」レポートではあっても、旧郡名・町名で通じる人いがいに「丹波」を切分けて説明出来る思考分析力を持ち合わせていない。
塩貝城出曲輪:土塁囲みの鍛冶屋敷と喰違い虎口(正面右手)

思わず愚痴ってしまいました。近畿の山城を地域別にリスト整理していると庄園・郡単位判る勢力図の体制が統廃合のよる郡の分離・消滅により、分類が無意味・単に地図上だけの位置関係整理になってしまうのが残念。 時の流れに逆流して…胡麻の地名は「駒」から起こったと云われます。平安末期:崇徳天皇(在位:天治〜保延 1124-1141)の御願寺であった成願寺領となって荘園化されたらしい胡麻牧荘で 「延喜式」に定められ、遠国から貢進してきた馬を放っておく官の牧場があったところです。

塩貝城本丸跡の碑と説明板

延喜式による都と地方を繋ぐ基幹の街道(何街道か駅家 <うまや>は何駅で 何処に在ったか等までは未調査ですが・・)が近場を通っていたのでしょう。篠山市の宿場町:福住の西出口は攝津能勢と福知山・綾部を結ぶR173号線と、亀岡市から篠山市外地を抜けて阪神・播磨へ通じるR372号線(デカンショ街道・京街道)が交錯しますが、
塩貝城堀切から副郭への切岸。右手に二段の帯曲輪が付く

此処には小野駅が在り駅使が乗継に使う馬の飼育や馬糧地(1ノ坪や2ノ坪 )の名残の地名といわれます。また往路を日吉へ退き帰し田原城の向ったが、田原川沿いの佐々江・四ツ谷・田原等の地は五箇荘で平家物語には平安時代末期:応保 (1161‐63)の頃 源三位頼政が鵺(ぬえ)退治の功により賜った所領とある。 頼政が治承の乱(1180)に以仁王(もちひとおう)の令旨に挙兵するが宇治で敗死した為、平宗盛の領有となるが、平氏滅亡で官領となっている。
(「丹波の荘園」細見末雄著 を参照)



東胡麻城と塩貝城 田原城

東胡麻城(下胡麻城)と塩貝城(上胡麻城・大戸城)
東胡麻城(下胡麻城)   xxxx山 265m   南丹市(船井郡)日吉町東胡麻

JR山陰線沿いの府道 50号(京都日吉美山線)を北上し鍼灸大学側を過ぎると程なく日吉神社の案内看板を 右手に見る。其の西方・車道直ぐ左手の丘陵裾に向う細い車道が、 山陰線「城下」踏切りを渡り胡麻川沿いに左右に車道を分ける。此の分岐正面 ・胡麻川沿いに大戸集落に向う車道沿いの北面と、向いの宅地に落ち込む丘陵上部に向う尾根筋に、段曲輪を連ねる東胡麻城 (下胡麻城)が在りました。
東胡麻城:登城口の墓地下に拡がる屋敷跡!!

塩貝城(大戸城・上胡麻城)とは同じ山稜の谷を挟んで(1軒?の宅地と其の敷地が谷入口全体を塞ぐ程に拡がる!!?)至近距離で呼応しています。東胡麻城は宇野氏・大戸城は塩貝氏の城とされますが「丹波攻略」の明智光秀に対し、本拠:京都市に編入した京北町の宇野城主や八上城主波多野秀治等と共に 低j抗し、落城・滅亡の道を進んだものか!!。
堀切からの高い切岸が主郭部の二ノ郭へ・・
 
東胡麻城は 胡麻川沿いに駐車スペースも有りますが、初めてで土地勘無くJR胡麻駅を行き過ぎたら、そのまま地区内を進み、駅の先で丹波町へ向う府道445号に入り、直ぐ左折して集落内を進む・または少し先で広い車道を左折すると、両車道の交差する地点が西胡麻の丸山(259m)山麓で、グラウンド・児童公園・地区消防団詰め所と公民館が有ります。
二ノ郭から主郭(切岸は1.5m程)

胡麻駅の南西約 400m程に目立つ独立丘陵の丸山は、峠越えで美山町から・山陰線沿いの和知町方面・丹波町からの街道が胡麻で合流・交差する要衝監視には最も有効な立地条件にあり、見張台等の砦跡 と思われますが、現状:思った以上の急斜面を・ひたすら登っても広い一平坦地に忠魂碑が建つだけ。しかし北斜面に 1〜2段の平坦地形に思い込みながら城砦遺構ではなかったか・・?と思えてきます。
主郭に入る縦(上り)土塁

大戸集落内で分岐する狭い車道を進みながら、地区公民館等の駐車場所を探してみるのも?。目視と感のGPSでは頼り甲斐もなく、此処から上胡麻城(塩貝城・大戸城)の丘陵尾根を望みながら逆に東胡麻城へ 辿ってみると、塩貝城の城域北末端部に達する明快な取付きが見つかりました。さて先述の山陰線「城下」踏切りから、 目前の東胡麻城へ取付く為には、 胡麻川に架かる橋が唯一の進入路。川裾からは何所も高い崖状で・しかも深く手強い猛烈な藪。正面民家からの登路は無さそう?
主郭から北末端へ延びる尾根上に幾重にも段曲輪が続く

(城全域をトレースして最後は此の民家へ降りてきたが!!)。 川沿い少し南に鹿除け金網フエンス付きゲートを開閉して橋を渡る。墓詣り専用の橋の様ですが墓所へは幅広い土橋状で、左右に幾つもの区分された平坦地形を見る。墓所を含め其の全面には土塁で区分けされた区画 ・直立する高い切岸・水捌けの為か深い堀状の溝も植林用や畑地の跡とも思えず、城戸口(虎口)が開き墓地からさらに延びる山道は 堀切で尾根筋に出る。此処は家臣団の屋敷跡らしく!!、堀底道を登城ルートとして城域の尾根に通じます。
塩貝城鍛冶屋敷(出郭)と主郭間の堀切土橋

「火の用心No58 No59」の標識が有り、送電線監視の巡視路なので歩き易い。此の城は宇野氏の築城とされますが築城時期・城主等の城史は郷土史等を未調査の為不詳ですが、落城時の城主は宇野但馬守。胡麻川を下れば桂川、川沿い20km程?には宇野氏の本拠地・宇野城(未訪)が在る。
塩貝城主郭部:西面の二段帯曲輪

墓地から延びる堀切道の鞍部からは、 丘陵を北に向うと・胡麻川に崖状の急峻な先端を落とす尾根上に、平坦地形と・城域が長い割りには不要なのか?少ない堀切・縦掘・主郭には帯曲輪と主郭に入る縦土塁(土塁道)もある。とりわけても主郭から北尾根末端へと、 左右を急峻な斜面に護られて・大小10数段の曲輪を連ねています。谷を隔てて立地する塩貝城(大戸城)の塩貝氏と宇野氏の関係は不明ですが・・・。

塩貝城(大戸城・上胡麻城) 城山 310m  南丹市(船井郡)日吉町上胡麻大戸・奥

東胡麻城とは同じ丘陵枝尾根の 谷を挟んだ西方に位置して大戸城(塩貝城)が在りました。上胡麻地区の中央部・大戸集落東側の低丘陵尾根が 北に延び出す先端を胡麻川流域の平野部に落としています。西に先ほど登った・どこから見ても(上方から見ても!!)丸山(259)との間からは、長閑な田園風景が拡がり・胡麻川の堤防沿いに山陰線胡麻駅(約500m程)が見える。
塩貝城出曲輪の鍛冶屋敷:土塁食い違い虎口

此の地に短い谷を挟んで ・二つの其れも結構大規模な中世城郭が存在する事が奇異に感じる情景です。地方誌等による調査未の為、地理的条件や歴史的背景が見えず、塩貝城の築城・城史をはじめ・塩貝氏については、本丸曲輪の塩貝城跡碑と並び立てられた日吉町教育委員会の 案内板以外の情報不詳で、内容稀薄のまゝ訪城レポートを続けます!!。なお塩貝城は 昭和55年8月日吉町文化財に指定されています。
塩貝城:土塁が囲む鍛冶屋敷(出曲輪)

大戸城の出曲輪・鍛冶屋敷をグルリと囲い込む土塁が、縄張り図に見る宇津城主曲輪と同様で、塩貝氏も口丹波(京都市に編入された北桑田郡京北町を本拠の土豪 :宇津氏との繋がりが感じられる土豪と思われます。最後の城主塩貝(方源)将監晴道が居城して、八上城主波多野秀治等に付いて「丹波攻略」の信長に抵抗し 明智光秀軍と交戦したが天正7年 (1579)落城したとされます。
塩貝城 :二重堀切と二連の竪堀

勝手な解釈が許されるなら:戦わずして開城したという宇津城と同様の土塁囲みと喰違い虎口を持つ鍛冶屋敷・主郭側の二重堀切と・その堀切から延びる竪堀も、 縦土塁を挟んで二重に落ちる技巧に富む縄張りからは一土豪の築けるものとも、何処かの体制下にあって築造が許される範囲とも思えない 堅固なものは、近在の城の縄張り特徴を見ていないので判らないが、現状からは・此の時期築かれた周山城(未訪)の周囲堅めの為、 明智光秀の陣城として改修・改築されたものとも考えます。
塩貝城:堀切左右に縦土塁を分けて二本の竪堀が落ちる

塩貝城への登城ルートは日吉町指定・南丹市指定文化財として道標・整備されたコースがある。 城山の山麓・塩貝集落に父塩貝将監晴政を祀る祠と墓碑があって、其の子:晴道も将監を名乗っています。 城主:塩貝将監の墓碑を祀る祠前から 登山道が城跡へと続くが私は此処に下りてきた。先に東胡麻城に寄り、 徒歩で上胡麻地区へ戻る途中・塩貝の集落東外れで、城跡への丘陵尾根北先端部に送電線の巡視路を見つけて此れを辿る。
塩貝城:北郭と主郭の切岸

最初の鉄塔から尾根筋を進めば幅広く長い緩斜面が続き、 尾根を捲く様に延びる山道の上方が平坦地形なので、其方へ直登すると綺麗な広い削平地・鍛冶屋敷と呼ばれる出曲輪に着く。外側からは高さ1m程の切岸となって曲輪の周囲を土塁が囲み、北側先端部の土塁が食違い虎口形状を示します。主郭へ進む直ぐ下で登山コースに合流し、土橋付堀切を渡ると此の城のもう一つの見所が待ち構えています。
塩貝城:主郭北側:尾根続きの堀切

二重の堀切が有り正面に北曲輪(二曲輪で構成され・此の堀切側から北郭 ・主郭の西面を帯曲輪が二段で捲いている)が迫り出す。遮断目的の堀切が長く・竪堀となって落ち込むのは当たり前ですが、主郭側堀切には尾根左右には夫々に土塁を挟んで一本の竪堀が付随しています。



田原城(亀田の古城)  xxx山 322m  南丹市日吉町田原和田

上記東胡麻城と塩貝城(大戸城)を訪ねた後、 丹波町へ抜けて帰るには少し時間の余裕もあり、山陰線沿いに府道50号線を日吉町役場へ退き帰し、日吉駅前から 美山町へ向う府道19号(園部平屋線)に入る。茅葺民家集落で知られる美山へは、ホームページ開設当初の登山趣味で 平屋富士〜ホサビ山や白尾山〜鉢ヶ峰に寄った事があるが、山城へなら迷う事無く、安掛から周山街道にとって、
田原城山麓の家臣屋敷跡か?

明智光秀の周山城から宇津城を経て八木町へと、 何度か通うことになったと思えるし、福井県側への遠征も何度か実施したかもしれません?。南北には京都府の中央部に位置していますが、 丹波高地に在って大半を山間部が占める南丹市は南は亀岡市・京都市に接し、北に綾部市・東には福井県名田庄村と滋賀県朽木村を境し、西に船井郡京丹波町に隣接しています。
田原城山麓の家臣屋敷跡北端:一段高い箇曲輪の石積土塁?

南丹市北部美山町の山城へは 島・中村・今宮各城を大野ダムサイト沿いに訪れたが、日本海に注ぎ込む由良川で 、此の大野ダムの水量調整が由良川氾濫による被害拡大を抑える重要な役割を担っています。また東胡麻城と塩貝城の側を流れる胡麻川や、 これから向う府道19号線沿いの田原川の水を集める日吉ダムからは桂川(大堰川)となり亀岡から保津峡を下り京都市内を南下して
家臣屋敷跡?の山麓から続いていると見られ、竪堀は堀底道!!?

淀川となり大阪湾に注ぎ込む。丹波市の日本一低い 「水分れ」や篠山市栗柄峠と同様に、 山稜尾根を分ける分水嶺ではなく、南丹市にも平野部で水系を分ける谷中分水界がありました。田原川沿いの佐々江・四ツ谷 ・田原等の地は五箇荘の地で平安時代末期源三位頼政が賜った所とある。 歌人としても知られる源頼政
田原城:尾根西側斜面の堀切

摂津源氏・源仲征の嫡男で、 鳥羽上皇崩御をきっかけに崇徳上皇との間に起こった戦闘:保元の乱(1156)には後白河天皇方に付き勝利する。平治の乱(1159)には義朝ら源氏に背を向け平清盛らと行動を共にし、平氏の政権下にあって中央政界に留まり清盛の信頼を得て従三位に昇進したが、治承4年(1180)平氏の専横に不満が高まるなか、以仁王(高倉宮)の令旨により打倒平氏の挙兵をするが計画は露見し ・宇治に敗死した為に平宗盛の領有となるが、平氏滅亡で官領となっています。
田原城:主郭に立つ中継施設のアンテナ

なを福知山市六人部(むとべ)に大内城 が在る。保元の乱(1156)・平治の乱(1159)に隆盛した平家は、 平清盛が治承の乱(1179)の後白河法皇を幽閉し、 神戸福原に遷都した平家一門が権力を握っていた全盛期:山陰方面からは 京の都に境する丹波地域は、その守備するにも重要な位置に在って、六人部荘は平清盛の異母兄弟平頼盛の荘園でした。
田原城:主郭東南下の井戸跡?

平治の乱の際に敗れ捕らわれの身となった少年期の源頼朝を、 平頼盛の母親【平忠盛の正妻・池禅尼:平清盛の継母にあたる】が清盛に命乞いして救ったことから、元暦2年(1185)屋島・壇ノ浦の戦いに平氏が滅亡し、 追討で平家の関係者が抹殺されていくなか、建久3年(1192)源頼朝が征夷代将軍となって鎌倉幕府が成立した後も、この平頼盛だけは許され、地位や領有地は安堵され残されたとされる。
田原城:主郭東南角の石積

日吉町田原地区の和田バス停からは、田原城跡のある山頂に続く尾根筋が目前に見える。 側には田原川に架かる和田前橋があるが、集落の北端に有って田原城の在る丘陵頂から延び出す尾根末端部が、橋を渡った東詰め・車道幅を残して正面を立ち塞ぐ。右手下方は集落へ、左へは民家も無く車道も途切れ、 河原筋へ下るか?正面左斜上して山に入る道。左右に手入れされ植林帯が拡がるが、丘陵尾根部を3〜4段・切岸を落として整然と続く、 整地された曲輪で、林道沿いに辿る先で繋がる。広い植林の台地の北端部の高くなった一角は土塁曲輪か?、土留め・補強に使用されたものと思える小さな石材が散存しており、一帯が屋敷跡だったように見える。
田原城:東尾根側の大堀切

田原城主は小林氏 ?とされるようですが、在地の土豪であったか・周辺勢力との関連や、 築城時期・城主等の城史は不明です。山麓付近の広大な家臣屋敷・居館跡から大手道の堀底道として、西よりの谷筋に長い竪堀状が有り、 谷寄りに主尾根に向う山道とは、其の城跡への尾根に 肩で竪堀と合流する。此処から尾根を辿り堀切を越えて急斜面を登ると西端の曲輪に乗り、中継アンテナ施設の建つ田原城主郭へ入る居館・詰め城がセットで残存する城。
田原城:東尾根側の大堀切と主郭側切岸

主郭の一段下(高さ 1.5〜2m程の切岸)を西から南〜東へと帯曲輪が廻り、主郭の東南角に土留め石積みが残る。其の東下が帯曲輪端となり、大きな窪地が有る。 天水受けの井戸か池跡の様で、窪地を囲むように荒れて斜傾した 下草藪に覆われた東曲輪が在り、北側には主郭に入る竪土塁・東の堀切側に櫓台が設けられる3m程幅の土塁があり、東尾根続きの下方に土橋付きの大堀切を見る。天正期明智の「丹波攻め」には逸早く明智方に降りたため、 戦乱期に塩貝城等の様な落城伝承もなく、小林氏一族の其の後の記録も残らない様で?明智方として参戦・使役の合戦に一族の討死等による廃絶・廃城となったものか・・・?

本誌丹波霧の里HOME  別冊別冊丹波霧の里HOME