京都・生野の里の山城 萩原城・上安場城・三俣城・堀越城
京都丹波:福知山市 (五万図=綾部)
近畿の山城: 萩原城 上安場城 三俣城  堀越城と坂室城・正後寺城
京都丹波のお話:  金の椎の実
生野神社の豪壮な拝殿

生野神社  福知山市三俣541

三俣橋の北詰・高台に上六人部小学校が在り其の東北裏手に延喜式内社生野神社 (式内社は市内に五座在り、旧天田郡五座の一で)があり、生野庄(三俣・池田・堀越・上野・生野・坂室・正後寺・萩原)八ヶ村の氏神です。祭神に天鈿女命(あめのうまずめのみこと)を祀る。社が山上に在ったころ街道往来の武士に祟りがあって、 旅する者は社に詣で旅の安全を祈願したようで、参勤交代には当綾部藩主:九鬼氏をはじめ、福知山・舞鶴・宮津・豊岡・和田山等の大名が 此の道を通る時は必ず参拝して長旅の安全を祈願した。社殿は慶長年間:関ヶ原の戦い(慶長5年1600)の頃に改築され、
延喜式内社の生野神社

元禄年間(1688-1704)神祇管領より正一位を授けられているが社殿は背後の山上に在ったという。市遺跡情報の分布図に三俣城と記されている処です!!?。鎌倉時代の1200年頃から江戸末期(1800年代)までは”みてぐらはん”と称えていたといい、綾部藩は生野に倉庫を建て上納米を取り立てていたが、毎年当神社へ御供米を奉献していたので御幣 (みてぐら)と呼ぶようになったという。
尻尾がユニークな狛犬(生野神社)

明治6年 (1873)生野神社と改称され昭和4年(1929)拝殿が新築されました。式内社だけに立派な大鳥居だが石造りで真新しい…と思っていたら、先代までの屋根付き扁額が架かる由緒ある木造り大鳥居は今年(2009年2月)の突風 (春一番)で倒壊したが 大鳥居は再建され秋祭りには間に合った様です。太い尻尾を擡げる狛犬が張子の虎の様ですが来年(2010年)の干支・虎「寅」は、生野神社拝殿を豪壮に飾る三方欄間の透彫りにも様々な姿態で現れています。
(現地:生野神社由緒案内板を参照)



三俣城 萩原城 上安場城  堀越城と坂室城・正後寺城


三俣城    福知山市三俣上ノ段?  上六人部三俣!!?

土師川沿いにR9号線を福知山市街地に向かって北上し、萩原地区に入ると小倉百人一首の絵看板を見る。絵札は小式部内侍…「大江山いく野の道の遠ければ…」の生野の里です。堀越で府道522号線に入り三俣橋を渡って右折すると一直線に延びる車道の先、緩やかに登って行く坂道の取っ掛かりに藤谷池(貯水池だが 周辺は手入れされ公園化されている)がある。
突然現れた大空掘はコロシアムへの導入口?・尾根上は細い土塁道状!!?

山越えで綾部市に向う車道は、この先の集落からは林道然とした道の様で、道路修復工事中なのか「通行禁止」表示が立っていた。浅木ヶ嶽 (浅木山城)への取付き点を探すつもりだったが別ルートを検討してみる。三俣地区から土師川沿いに終点の 上安場集落に向うと上安場城が在る。
衝立磐に囲まれるコロシアムを見下ろす!!。城遺構とすれば疑問だらけ・・・!!?

その中程・三俣から東奥地へと林道が延びており浅木ヶ嶽への尾根に登り着く。内藤氏が山家城の 谷氏を攻めた際の浅木山城が此処に在り旧天田郡三和町川合が距離的には近いが勢力的には旧福知山市の三俣部荘・六人部荘に含めます。 下記の荻原城・上安場城共に浅木山城の城砦群と考えます。戻って:三俣橋を渡った処・高台に上六人部小学校があり裏手(北側)裾に生野神社がある。
三俣城?巨大岩の殿堂内への導入口は行き場の無い虎口!!?

背後の丘陵部を福知山市遺跡情報の分布図には三俣城とされ郭・土塁 ・空掘遺構が残る様です。郷土市史・福知山xxx等に出自は無いが、教育委員会に報告しても問合せも無く調査等取り合って貰えない事例が多いので信頼度は薄くなるが!!?。川を隔てて山陰街道(R9号)の主要衝近く、 東には綾部市安場へ抜ける間道?(府道522号)が通じ堀越城出城としても?築城の立地・条件自体は揃っている。 さらに浅木山城主:八木氏の四天王?といわれる東村氏(御幣明神社<生野神社>預かりの武士)や姓不明だが宮ノ前に西太夫の名あり、
衝立磐に囲まれたコロシアムも露天掘鉱山と考えれば問題解決ですが!!??

三俣城が乱世に頃の城なら両氏一族が拠っていた可能性も推察できるが…!?城域とされる場所の驚くべき地形といい、 其れに比して・広い平坦地形が西面から北方に広がる。北面の無防備な状況、加えて元々は此処に生野神社が鎮座されており、 山上部の遺構の様子からは・歌や踊りが好きな祭神:天鈿女命(あめのうまずめのみこと)を祀る事からも神話・天岩戸伝説と重なる。此処に「岩戸隠れ」の伝承は無くとも障壁で周囲を囲った巨大な天然の演芸ホールが有ったか?。
三俣城?北端部の長い横掘?は此処で屈曲してなを延びる。配水溝・・!!

天岩戸に隠れた天照大神を招き出すため、岩戸の前でセクシーな踊りを披露して神々の笑いを誘い其の声に興味津々・そっと岩戸を開いた…踊りの神様のお話。神代はともかく平安時代:延喜式内社として選ばれた生野神社ですが、 既に驚愕の岩磐が有ったものか?。自然の節理なら天然記念物指定さえていても不思議でない光景が現れます。 磐に囲まれた枡の其処の様な空間を神体として神殿として祠があったとすれば生野神社が丘陵裾に移された理由は…?。南側高台に建つ上六人部小学校の敷地内も生野神社関連の祭祀所・祠が祀られていたようです。
城遺構か祠跡地か?広過ぎる削平地。曲輪を分ける段差・土塁等は見当たらない!?

衝立する岩壁から剥がれ落ちそうな岩片・入り組む岩壁奥は殆ど堀刳られた浅い洞窟 ・此のコロシアムへの入口は岩を刳り抜くトンネル…人の手が入っている事は明らか?!!で岩面は白っぽく・また薄く緑青さえ浮かぶ。 珪石の露天掘り現場…広い平坦地の石列や石片が散存?しているのは神社跡地と作業現場。衝立岩上部には石垣が積まれ側には ・社と思えた小屋が建つが水音がする。配水・給水施設で、神社側から登ってきた土塁状細い尾根に塩ビの管が見える。何処から吸水し何処に配水するのかわからないが、広すぎる平坦地の北方に一段低く竹藪林がある。 其の1m程の段差に沿って東西に幅狭く浅い横掘が長く延びる。
三俣城東面:岩盤外側に腰曲輪状と其処から3〜4条の竪堀状(竪堀状下方から・・)

追っていくと屈曲してさらに北へ…排水溝なのでしょう?。土塁・空掘・東面に落ち込む何本かの急な竪堀状は 水を抜く為か、切り出した岩石の搬出用か?。城砦遺構の推察が段々遠退いていくが、 砦として使用できなくも無いので三俣城として紹介しておきます。衝立岩で囲まれたホールを土塁に置き換えれば 館山城(篠山市)東裾にある”魚を誘い込む定置網の様に見える?。三俣城や巨大岩壁で囲われた穴倉・竪堀状大ホールの詳細を知り得る情報が今のところなにも無い・・・。


萩原城   Ca60m   福知山市萩原

友渕川・細見川・川合川と旧天田郡 (現:福知山市 )三和町の支流を合わせて流れ出る、由良川支流の土師川が、旧市郡境を越えて福知山市の萩原地区に入るR9号線沿いに、小倉百人一首の絵札の絵看板を見る・・・ 「大江山いく野の道の遠ければ まだ文もみず 天の橋立」(小式部内侍)と歌われた生野の里が此処。

萩原橋南詰:土師川は南へ屈曲してR9号沿い・右は中央P (上安場城)麓と左端の八幡神社間を廻り込んで流れる

此れを詠んだ生野道が細野峠 (菟原)と云われます。此の生野の東側R9号線沿いの 土師川が急に大きく流れを変えてコの字状に屈曲して遠退く。三叉路を萩原集落に入ると直ぐ2段程の段差で区分けされたような集落内の 奥の細い車道にでる。最奥に八幡神社の杜がある。 藪地で下方が確認出来ないが10数mの崖状の下を土師川が流れコの字状に萩原集落を囲う地形有る。 南東に川を抑え、且つ南面は10m以上の切立つ岩壁となっており、荻原橋一本だけが南方に通じるが、地図でみる限りは橋の南詰めで行き止まり。
土師川の急崖状河川段丘上に建つ八幡神社前が 萩原城比定地!?

農道・山道となるようです。特に対岸の北方・三俣集落から上安場集落までは一本の車道があるが、集落内で行き止まり、此処からは幅 1.5m程の山道がコの字に屈曲する川沿い山裾の3〜40m上部を捲いて荻原橋の南詰めに繋がる、徒歩でのみ通じる道です。此の上安場の山城へは、後ほど三俣城【式内社:生野神社背後の丘陵端、僅か比高20m程に在る遺構だが、露天掘りの採鉱跡の様だが、丹波志(天田郡)の項にもなんの記載もない。福知山市の遺跡分布図には三俣城と掲載あり】に寄った後、浅木ヶ嶽 (浅木山城)への登山口探しついでに訪城するつもりです。
左電柱奥に八幡神社・地区道と民家間に 居館跡土塁を思わせる畑地

萩原城について知り得る築城等の城史情報は稀薄で「丹波志」に大槻佐渡守が居城したと云い、本丸近辺には子孫の他居住を許さず…とある。一帯が段差をもった平地に農地と民家が並ぶだけ。 一ヶ所だけ少し高い(2m程)幅の狭い雑木下草に追われた台地?が在ったが、地元の方3〜4名で下草刈か?作業中。確認出来ないが居館跡に土塁と曲輪が今も遺構として残されているのなら、此処しか無い?と後になって思えてきた。 市の遺跡分布図からは微妙に外れる位置だが…!!?、大槻氏は浅木山城主:浅木縫殿頭の家臣で、城主に子孫無く二代目城主:八木尾張守に付いたものか。尾張守の子:助之丞が土師川を隔てた八幡神社の対岸の丘陵に在る上安場城の城主でもあり、 後見人としての立場にあったのかも?
(丹波志<天田郡>を参照)


上安場城  城山 140m  福知山市三俣上安場

上六人部小学校側から綾部市に向うR522号線と外れて土師川沿いに南へ進む。 三俣に3〜4軒の民家を過ぎるとまた民家が途切れる。前方には土師川に其の先端を落とす丘陵が見える。尾根先端ピークが目指す城跡ですが、 安直に山稜に取り付けない。上安場集落に入って直ぐ道脇に福知山市指定文化財・宝筐印塔の案内看板が立つ。
上安場城と土師川を挟んだ右に萩原城

東山裾に若宮八幡社に祀られている様だが”社の内陣に納めてある”との説明に見ることは出来ないだろうと確認はしていない。隅飾りの角度からは、鎌倉時代後期と推定されています。 奈良興福寺領であった三俣部荘の荘官主のものか?立派過ぎるが、此の石塔が神体とされています。丹波志に大槻弥之助?の塚で民家に ”祟りある”故に若宮神社として祀るとあり、浅木山城古城主・浅木縫殿頭(子孫なし)の家臣筋で、上安場城は八木氏以前に砦が在ったのかも?。 さらに遡る宝筐印塔のついては不明です?。
上安場城 :堀切から空掘を越えて主郭に・・・

地区道は民家に行き当たり其処が終点。手前で西に外れても30m程で川縁筋の田圃の幅広い畦道に出て行き止まり。 上安場集落の最奥(南東)の民家の果樹園・畑地の上に二箇所ばかり墓地が在る。山下に”墓地あり”とされる上安場城主の 墓石が残るのかも知れませんが未確認。 民家側から続く1.5m程の幅広くよく踏み込まれた山道が、遥か足下の谷底深くに流れる土師川沿いの約3〜40m上方の山腹を捲きながら萩原集落南の萩原橋南詰めに延びていきます。
上安場城主郭

…が個人宅の庭前を突っ切るには抵抗があるので竹藪で行き当たる畦道から 廻り込んで墓地を抜ける。尾根に取り付ける場所を探しながら萩原へ通じる山道を辿ってみるが、尾根先を南に廻り込んだ東側の谷寄りに踏み跡を見つけて尾根を目指す。北方から土師川へ落ち込む尾根先ピークと、尾根側へ高度を上がる間の低鞍部に浅い堀切があるが西下方の上安場集落の山裾近くまで、
上安場城 :主郭から萩原集落をコの字に囲み流れる土師川を見下ろす

竪堀!?(堀底道状に続く登城道だったのでしょう!!?。堀切から西南の末端ピークへは比高15m程。 すぐ一段上に空掘が、其の上にも空掘か土塁を廻した腰曲輪が在り、不整地の緩斜面を最高所に着くと露岩を残す狭い主郭に着く。 萩原集落を囲うようにコの字状に屈曲して流れる土師川を眼下に見る。城主を八木尾張守の子:助之丞とされ永禄年間(1558〜70)に築城の城かと思われます。
上安場城:堀切は上安場集落近くまで延びる竪堀は登城用堀底道か?

上安場城は浅木山城(427m)山頂から西に延びる尾根末端に在り、 浅木城の出城として山陰道(R9号線)の監視にあたったものか!。谷氏の山家城(綾部市)を八木城の内藤氏が攻めた頃の 浅木山城の城主として八木尾張守が移っている。谷氏が山家に入部以前の為疑問視されていますが、 浅木山城を前線基地として内藤氏が山家氏を攻めたのが永禄6年(1563)といい丹波志に”何鹿郡の戦いに討死”したとあるのは、此の戦いなのかも!!?。子の助之丞が浅木山城主を継いでいます。八木氏の子孫は大槻氏を名乗り石原城とは縁者という。
(丹波志<天田郡>を参照)

堀越城と 坂室城と正後寺城
堀越城  小倉山(大蔵山・城山/点名:生野 ) Ca165m    福知山市堀越・生野

丹波市市島町から竹田川に沿って走る。下竹田の前木戸(さしど)城跡の山影を右に見て石原集落の緩やかな峠を越すと福知山市に入り東へ進むと田園風景の中に「芦田均先生生誕地」の大看板を見て、北へ50m程真っ直ぐ進んだところに 芦田均(第47代内閣総理大臣)生誕地の夏雲荘が在る。土師(はぜ)川を渡りR9号線を三和町・亀岡市方面に向かう。
生野地区南からの堀越城

土師川を隔て天尖(あまんづく)・丘陵の先には前方後円墳状の後円部を西にして円形の墳頂を見せて、 なだらかに延び上がる低山が目指す堀越城。舞鶴湾へ流れ出る由良川支流の土師川沿い山陰道(R9号線)三俣・堀越で西方の生野地区上野に入り、 短い坂道上に「マンガ日本むかし話」(TBS系昭和63年(1988)10月に放映された金の椎の実の民話を残す生野天神社(生野天神宮)が鎮まり旧宿場町を抜ける。
旧京街道側の生野天神社

此処は 細野峠を越え京と丹後を結ぶ古道:京街道筋にあって、和泉式部の娘小式部内侍によって「大江山 生野の道の遠ければ まだ文も見ず天の橋立」と、小倉百人一首に詠まれた山陰道の宿場町 ・延喜式にも其の名がある生野の里で藩政では綾部藩九鬼氏の領地:丹後宮津藩主も参勤交代の際には此処が本陣となった様です。 地区道沿いの西方に延びる低丘陵に二つの峰が並ぶ。手前右手の山裾に2‐3箇所の墓地が見える背後の半独立丘陵上に堀越城 (標高約165m)の主郭が在り、
墓地に奥の稲荷社から直接堀越城主郭に向かう

東尾根途中にある点標名生野 (4等三角点123.5m)・其の下方の簡易水道配水池施設が城域東端の曲輪群か!!?。 福知山市史の堀越城図とある「古城址見取図絵巻<文化年間>」は環濠の居館で、城主小倉氏とあるが何処に有った城だろう?。 版の古い市遺跡情報地図(天田郡誌<福知山市も旧天田郡>添付の地図だったか?)には現:正後寺城の位置に堀越城と記されていた様だ?が位置や城名がWebの遺構分布地図には更新されている様なので、改めて再訪した幾つかの城館の一つです。
配水池施設は堀越城見張りの出郭か?東尾根端の三段曲輪

正後寺城の主郭部南端付近を東西を作業林道が遺構を寸断し、 壊滅しているかも知れないが主曲輪を囲む溝状空掘・土塁が作業林道側を除く三方を囲む。林道を挟んで更に南側の丘陵上に一本の土塁が延びるが、堀越城の概念図が正後寺城の主郭部現状に近い気がする!!?。坂室城こそ城域や遺構縄張りに曖昧さが付き纏う が、隣接する東南の低丘陵上には遺構は残らない?と云われる正後寺城が在り堀越城主小倉氏家臣の居館だったとされます。 堀越・生野集落側に居館とセットの城郭遺構があったかは調査等の情報を未だ得ていないが、
正後寺集落入口交差点より正後寺城遠望

南東旧京街道筋側山麓の墓所から簡易水道施設に向かう専用林道を進むのが大手筋だろうか?。墓地背後や広い竹林内の平坦段差を観ると家臣団?屋敷跡ではなかったかと思えてくる。 落城後の小倉氏は土師川とR9号線を挟んだ東の三俣の山(当初から城址とも思えなかったが、市や府遺跡地図には三俣城とある特異な縄張りの城だが?。 生野・正後寺集落側から望む上六人部小学校校舎と三俣城の位置状況からも城跡と思えない?。
坂室城への取付点(右端上の墓地から)

其の丘陵部上方の峰なら要衝の山陰道や綾部市安場へ抜ける街道監視には有効だが?珪石の露天掘り跡の様子。堀越城への取付き点を探して山麓を南側へと半周してみます。郵便局の東方に生野天神宮が有り、北方の山裾を捲くように進むと墓地から丘陵尾根中央部へと車幅の道が上がっている。尾根幅一杯に削平された幅20m・長さ3〜40m三段の広い曲輪跡の上二段は 上六人部簡易水道の配水施設になっている。
堀越城主郭西南斜面の竪掘状?

居住空間であった 可能性の強い平坦地と、尾根先の東に山陰街道を見下ろす位置は、綾部藩の監視所として藩の命を受けた生野庄の住民等?が見張りに付き、 異常があれば早馬で藩に通報することになっていたという。生野の宿場内に綾部藩の出張陣所が置かれ役人が知らせに走る手筈が本筋でしょう!!。農耕馬以外・村人に監視や知らせの馬まで準備・世話まで使役させていたとは思えないが…。
堀越城主郭西尾根下の低土塁囲い曲輪

堀越城への南側からの登路は南西端の墓地から丘陵部を正後寺集落に抜ける鞍部か、 墓地の先に在る稲荷神社の右手から尾根伝いに直接主郭の帯曲輪南端に上り着く。天正年中(1573−92)六人部(むとべ)六大将の一人に数えられている小倉左近太夫(小倉左近(左京)進とも小倉将監とも伝えられる!!?)が城主であったとされ、 家老に清畠(溝端?)・井本・市田氏等が居たようですが、城史の詳細は一切知らない。天正期「丹波攻め」の頃の旧何鹿郡周辺は黒井城の赤井直正に付くか、 明智光秀に降りるか微妙な地域に有り、小倉氏も大槻氏等とともに赤井勢について落城の憂き目に有ったものでしょうか…?。
主郭帯曲輪西面の切岸

江戸時代初期に帰農し惣右衛門と称し、累代南郷の大庄屋を務めて苗字帯刀も許されたという。小倉山最高所(Ca165m)に主郭【およそ東西10mX南北20m程】を置き、東に2m程の段差で二曲輪と切岸5‐6m下方に土塁曲輪、谷を挟んで北側に廻り込む二段の曲輪からの尾根続きを下り緩斜面となる尾根筋途中に4等三角点 (点名:生野124m)があり、其の下方50m程に「上六人部簡易水道配水池」施設が有る。
主郭:主曲輪から荒れた東段曲輪の現状

施設の造成建設で大きく改修されていると思えるが、生野の京街道筋を監視できる位置にあり、広い三段程の曲輪群が幅広く居住性の高い堀越城の出曲輪跡と推測します。主郭切岸(約5‐7m程)下は・東の尾根筋を除く三方に帯曲輪を廻しているが、帯曲輪北方は少し膨らんでおり虎口受け曲輪状!!。此処へ北下方を回り込みながら主郭切岸下に沿って上がってくる通路が虎口を形成しています。 以前:此の帯曲輪端の虎口受け曲輪部から、登城の木戸口だったとも思える愛宕神社の立つ台地に下った事がある。
主郭北方に廻り込む広い帯曲輪

九十九折の急斜面を降ると城山堂官稲荷神社と大蔵山高源寺(観音堂に本尊十一面千手観世音菩薩を祀る郡霊場第67番霊場)に下りてくる。遺構が明確では無いとされた正後寺城の居館部から 更に丘陵上部を 探索後に引き返さず、谷を隔てた南側の丘陵尾根(此処は既に字も正後寺から堀越になっていた )先に移った墓地の下麓が高源寺。正後寺城は家臣:市田氏や溝畠(溝端?)氏の居館だったと云い、堀越城主郭へダイレクトに通じる枝尾根筋は 家臣屋敷等から通じた搦手道だったか?。
主郭東枝尾根端の土塁曲輪

帯曲輪は北へ大きく膨らんで北尾根続きの切岸(約7m程)下にも2段の腰曲輪を配しているが、上段の曲輪も西切岸上部を囲う低土塁の残欠を観る。 高源寺・城山堂官稲荷からの搦手道?から通じ、西尾根の曲輪からも主郭へは帯曲輪切岸下部の堀切状から廻り込む虎口ともなっています。 北尾根筋の西斜面は深い谷となって落ち込むが、竪堀状(自然地形か?)をみる。露岩や石材を多く見かける所もあり曲輪の端の土中に石を見ると土止め石かと思ってしまう。
主郭帯曲輪の張出し(虎口受け曲輪!?)へ西・東下より廻り込む登城道

堀越城の北麓には小倉氏家臣の城館と思われる正後寺城・坂室城が在り空堀や土塁を観るが、 小倉氏本拠の山城に顕著な堀切・空掘・竪堀を観ない?。低土塁状が西北尾根側曲輪に、東には主尾根でなく枝尾根?端に土塁曲輪を観るだけ。主郭西斜面に観た竪掘状の蔭も願望!?からくる思い込みだったか?。 明確に竪堀や堀切等の防塞施設は見当たらない。


坂室城と正後寺城
坂室城   xxx Ca100m 福知山市正後寺西谷 
正後寺城 xxx Ca80m 福知山市正後寺
 
堀越城の在る小倉山(大蔵山・城山Ca165m)の北山麓の正後寺集落内の小さな谷間を挟んで丘陵裾に居館跡を伝える坂室城と正後寺城の城館遺構が在る。共に土塁と思える盛土や曲輪の段差・空掘状の溝を諸処に観るが 堀越城との関連は一切不明ですが、・
正後寺城への取付点(倉庫?側から斜上)

正後寺城城主は小倉氏一族であったか ?家老市田彦五郎と云い、天正7年(1579)明智光秀の丹波攻略に落城した塩見氏の横山城を改修した 知山城築城に際しては協力したという。其の後の消息が不明?なのは 岩間城
の吉良氏等と同様に築城の秘密保持の為殺害されたものか?と勘ぐってしまう!!。
坂室城:幅広い緩斜面に観る空堀と土塁?

「丹波志」に堀越城主小倉左京太夫の家老:清畠 (溝端?)甚九郎が堀越城落城の際・三俣の山に隠れ棲んだとある。また上野村には井本氏が居り、光秀の死後:秀吉の養子:秀勝が領主として 福知山城に入ったときには、多くの丹波の武士団も秀吉に降り各地を転戦・大坂の陣にも出陣していったものか?。
坂室城主郭?西南斜面に土塁・空掘状?

堀越城へは三俣城?の在るR9号(山陰道)堀越交差点から旧京街道を南へ入り分岐左の坂道を上がった所が 金の椎の実の天神宮だが、右折して西北方へ進む地区道を 約1km程でR9号と並走する土師川が地区道と最も接近する付近に坂室公民館がある。北近畿自動車道(舞鶴若狭道)六人部(むとべ)PA付近・土師(はぜ)川を渡りR9号「岩崎交差点」を左折すれば直ぐ福知山市多保市(とおのいち)。
坂室城西南斜面の切岸・上り土塁状?が上の土塁・空掘状?に繋がる

府道708号から一宮神社 【神社背後と舞鶴若狭道沿いに仁田城と城ノ尾城館や近在には 大内城後正寺城(後青寺城)も在る】側の自動車道高架を潜り 地区道を南下すると坂室集落の公民館前に着く。導標の立つ幅狭い林道から以前医王寺?天突 (あまんづく Ca320m)へ坂室川沿いに向かった登山口。

坂室城へは坂室公民館の左(南)側山端に見える草生す畦道からの参道を進み 墓地背後から続く緩斜面に踏み跡も定かでないが、段差も低い(1m前後)曲輪段と浅い空堀状の溝が幾段か残る。 一帯は緩斜面で幅広く:一曲輪を区画する範囲が不明で山林・畑地跡かとも思えた。
坂室城主郭?東北斜面の土塁・空掘状?

藪地の最高地点に低い段差で主曲輪の平坦地形・東尾根側手前と西南へ下る尾根筋?には、主曲輪位置に正対する形で空堀と土塁(竪土塁?)が10数m程だが延びる。西南側の浅い空掘竪土塁の下部でヤッと切岸と空掘道?に通じ る上り虎口らしい遺構に会えた。低土塁沿いの空掘道か?。更に下ると最奥?の田圃に通じる正後寺集落からの車道からは 潅木・下草藪に覆われているが、 最下段の曲輪に入る土塁虎口で上段の曲輪とは切岸2.5m程と高い。
坂室城西南斜面末端部の曲輪(?切岸3m)

車道に降りず坂室城南斜面裾の谷筋を下ると坂室公民館南・正後寺集落への入口交差点に出る。此の谷は車道直ぐ下手から坂室城側との間の丘陵裏手にある隠れ谷で:巧妙で出来過ぎの感だが天然の壕となっている。主郭付近が城遺構としては曖昧だが、福知山市と京都府遺跡分布図に記載あり三俣城同様に城としてアップしておきます。

正後寺城主郭を廻る低土塁と空掘

正後寺城へは坂室城への取付点:墓地への参道南に正後寺集落内への坂道に向かう交差点の左方に見える丘陵部の端に在って、集落内最初の交差点を堀越・生野へ向かう地区道側へ戻り気味に少し下った先の民家側:窓の有る白いコンテナ状倉庫から崖状の丘陵上に延びる侵入口から取付く。殆ど?市田姓の墓所への参道だったが、直ぐ背後の斜面上の小曲輪が 屈曲した空掘を挟んで二段程あり、
正後寺主郭:低土塁囲みの居館跡と空掘

其の先は広い畑地跡が拡がるが低段差で2‐3区画された曲輪跡。南側を生野側から正後寺集落へ抜ける一車幅程の作業林道が通じている様だが、此の南を除く 三方には低土塁を廻し・土塁沿いには幅は狭いが空堀が取巻く。版の古い市遺跡情報地図(天田郡誌<福知山市も旧天田郡>?だったかに添付の地図では此の正後寺城の位置に堀越城と記されていた様?ですが、
主郭内?作業道を挟んだ丘陵西に延びる土塁(高さ約1m・長さ約20m)

福知山市史に堀越城とある「古城址見取図絵巻 <文化年間>」が環濠の居館として表されており、正後寺城の縄張りによく似ている。堀越城に環濠状の空堀どころか堀切も観ない?。市のWeb遺跡地図には 位置や城名が更新されているので、改めて堀越城再訪の際に正後寺城を訪門した。城主市田彦五郎の居館として伝えられることからも市田氏一族に縁の子孫の墓所なのか?。
丘陵尾根西に続く尾根筋の祠横:谷筋手前に竪土塁?沿いの大空掘!!?

先の坂室城側墓所の姓家については注目していなかったので忘れたが、 正後寺城の城館遺構から西の丘陵上へ続く作業林道(正後寺集落からの林道が大手道だったかも?)を挟んで、高さ1m程の土塁と空掘が緩斜面に延びている。 余り尾根幅も広くはない尾根上だが低土塁が囲む細長い平坦地形。曲輪と思えるが此処から城域を西へ抜けて少し下り更に登り始める緩斜面の片側が削られた尾根筋の先に祠が祀られていた。此れより先は平凡な山道が続くだけの様で引き返したが、
正後寺城主郭と作業道を挟んで丘陵西側の土塁(高さ約1m・長さ約20m)

祠の尾根筋南側には約35‐40m程の竪土塁 ・深く大きな竪堀状の溝が落ちるが自然地形か?。先の祠への谷筋参道山道を下るが西南側の平坦尾根上が気になり登り返したところは大蔵山高源寺の墓所で此処に市田姓は見なかったが、寺背後の階段上は城山堂官稲荷神社で尾根筋は 堀越城の主郭北面に通じている。






金の椎の実      【福知山市の民話】    福知山市生野

生野天神社(生野天神宮)の境内には 旅人が食用として持っていた椎の実を蒔いたのがもとで、立派に天神の森となったと云う椎の古木がたくさん有りました。「マンガ日本むかし話」でも放映された「椎の大樹」にまつわる金の椎の実」の民話が残り、椎の巨木も昭和10年頃までは残っていたという。生野の里に父を亡くし母と二人暮らしの気の優しい女の子がおりました。或る日・お母さんが病気で寝込んでしまい、 女の子は何とか早く元気になってもらいたいと毎朝早く起きて天神様にお参りします。
「金の椎の実」の伝承地 :生野天神社

今日もお参りして帰ろうとすると、大きな椎の木の根元に鉄砲で撃たれたか、木の上の巣から落ちたものか白い羽を血に染めたコウノトリの雛を親鳥が両足で抱えうずくまっています。女の子は 「可哀そうに …」と自分の家に連れ帰り水を与え、餌となる田螺や蛙を捕まえてきます。親鳥は2〜3日で死んでしまったが雛は元気になり、やがて飛び去っていきました。 或る静かな夜・女の子の枕元で声が聞こえるので目を覚ますと、頭巾を被り紫色の衣を着た少女が「私はお世話になったコウノトリです。其のご恩にお母様の病気を治します。あの月が満月になったら森の中の池堤に金色の椎の実を置いておきますから 其れを煎じてお母様に飲ませなさい…」女の子が後を追うがもう姿は見えず、飛び去った後には一本の黒い羽が落ちていました。満月の夜・池の畔を探しますと金色の椎の実が落ちているのを見つけ、喜んで拾って帰り、煎じてお母様に飲ませるとスッカリ元気になり、 母子二人暮らしながら、近所の人々も羨ましがる様な明るい楽しい毎日を送っています。女の子の家の床には一本の黒い羽が飾ってあったということです。
(現地:生野天神社の案内板より)

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